置き去りにされている。

 何度も自覚させられ、事態はごろごろ転がっていった。

 そして、子供だからこそ夢を夢見て、夢で終わらせたくないと願った。


 震えてた

 すごいスピードで景色が歪みそうで 何も見えなくなった

 そんな僕を見つめる君のことを

 ずっと眺めていたかったけど


 出来事全てが霞んでゆくこの世界で 言葉が突き刺さる

 感情をむき出しにして 誰かや君を抱きしめても

 揺さぶられるだけで 揺さぶることはできなかった

 
 震えてる。

 すごいスピードで景色が歪む中、君を見ていられた。

 だから景色が消し飛んでしまったとしても、

 僕はまだ、ここにいるさ。



Couple Days
                               Written By NONO



 こんな色をした空と太陽に照らされる街とは仲良くなれそうにない。沈みかけた太陽は黄金色に輝き、空はそれと同じ色をしていた。きれいな円を描く湖に埋もれかかったそのビルは、死の寸前に太陽をつかんでしまった人間のようにも見えた。
 それは、僕か。
 シンジは自嘲を浮かべる余裕も失い、ため息だけついて、座れそうな瓦礫に腰を下ろした。ずいぶん歩き回ったせいで足がだるくなっていた。うずくまるような体勢になろうとしていた自分に気がついて、ゆっくり空を見上げてた。足を伸ばし、ごつごつしたビルのかけらにそって身体を倒す。太陽の色をした空に嫌悪感を抱くのは、あのときの光と熱を否応なく思い出させるからだった。圧倒的な衝撃波と、あっけない結末。
 三日前に第三新東京市を襲ってきた使徒に零号機を侵食され、自爆を選んだ綾波レイ。決着はあっけないと言えばあまりにあっけなかった。シンジは出撃したが敵の攻撃を避けるだけで、一番苦しんだはずの彼女が、一番かわいそうな決断をし、一番確実な方法で使徒を殲滅せしめた。

「綾波!」

 あのときは、何をすべきなのかもわからず、ただ彼女の名を叫んだ。光を放つひも状の使徒の身体はほとんど零号機の中にめりこんでいた。そしてすべてが零号機に入った瞬間、減光フィルターがかかっているはずのモニターが真っ白くなるほどの光と熱を放ち、零号機は木端微塵になった。いや、消滅、と言ったほうが正しいくらい見事に消えた。使徒もろとも。
 初号機を包む光、熱、衝撃波にATフィールドを展開して耐えるなか、視界のすべてが真っ赤に燃えていた。
 この空はそのときの色に似ている。あまりに似すぎている。爆心地を中心に半径数百メートル以内の建築物すべてが吹っ飛び、今や芦ノ湖のようになってしまっている。学校も、商店街も、なにもない。友だちと一緒に行ったハンバーガー屋もゲームセンターもなくなって、みんなこの街を出ていった。

「僕は…僕は、どうすればいい?」

 喪失感。
 自分には何もないと思っていたのに。
 ずっと心を閉ざしているつもりが、この街に来てから、少しずつ窓を開けるようになっていた。
 そして、窓を開けさせた多くのものが、こうも急速に、簡単になくなっていくなんて。
 トウジもケンスケも、家を失って街を出ていった。
 昨日アスカがネルフの病院を抜け出した。危険な状態らしいとミサトが言っていた。
 そのミサトも、ずっと考え事をしている。以前のような親しみやすそうな雰囲気も、今はもう昔のことになってしまった。
 そして、綾波レイは…



 昨晩のことだ。
 放心状態に釘を刺すように電話が鳴った。数時間前にミサトが自室に持ち込んでいたのを元に戻したのが仇となって、シンジの部屋までよく響いた。
 無視しようと思って頭の下の枕を頭に乗せ押しつける。留守番電話にしていなかったけれど、無視しつづければいつかは消えるだろう。
 しかし、電話は鳴りつづけた。三分たっても鳴りつづけ、先に折れたのはシンジの方だった。もしかしたら綾波レイのことかもしれない。
 数時間前に会った綾波レイは、全身を包帯に巻かれていたが、ベッドに寝ていることもなく、焦点の合っていなさそうな目で通路の椅子に座っていた。包帯姿は痛々しかったが、とても半日前に自身が起こした大爆発の中心地にいたとは思えないほど軽傷で済んでいた。
 だが、戸惑いながら礼を言うシンジに、彼女は理解不可能な言葉を口にした。

「そう、あなたを助けたの」
「多分、私は三人目だと思うから」

 ただ淡々と、台本を読み上げるように出てくる彼女の言葉のほとんどが理解できなかった。わかったのは、「知らないの」という言葉だけ。零号機で自爆したことすら「知らない」と言った彼女。
 単なる記憶喪失なら、まだいいのだが。
 ずっと考えていたことを引きずりながらシンジはリビングに出て、受話器を取った。
「もしもし」
 電話の相手は意外な人物だった。
「そのまま聞いて。あなたのガードを解いたわ。今なら外に出られるわよ」
「リツコさん…?」
 どういうことですか、と訊こうとした。そして実際、それを口に出そうとした瞬間、覆いかぶさるように受話器の相手は話をつづけた。まるでシンジが言いかけるのをわかっていたかのように。
「レイのこと、知りたいでしょ?」
 リツコの声は、病院にいたレイと同じように無機質だった。会話を早く終えたそうな様子を感じた。これ以上の通話はまずいのかもしれない。
 迷う暇もなかった。
「行きます」



 水族館のようなつくりの、三百六十度が水槽になっている部屋。水槽に満たされたLCLと思われる赤い水と、数えきれないほどそこにたゆたう「綾波レイ」。違和感を感じる前に、頭が白くなった。
「え?」
 人間は本当に理解できないことに直面すると、思考を停止しまうのか。そう思わせるほど真っ白になった頭は、数秒の時間を得て、ようやく活動を再開した。自分の目の前に広がる光景を、必死に理解しようとする。
 見たこともないような嬉しそうな笑みを浮かべる何十人もの綾波レイ。他人ではない。同じ人間が何人もいるその異様さはたとえようがなかった。しかも、シンジはその数時間前に包帯に巻かれた綾波レイと会って、話をしている。だが、目の前に広がった光景は――真実だった。

「ここにいるのはレイのための、ただのパーツにすぎないわ」

 赤木リツコの重苦しい言葉。臓腑の底から引きずり出されたような、暗黒にまみれた言葉が背後から聞こえて鳥肌が立った。

「魂は今のレイに宿されているものしか生まれなかった。ただの人形よ」

「だから壊すの、憎いから」

 十分どす黒い雰囲気をまとった言葉だったが、それよりさらに重い声だった。人の憎悪が限界点まで達したとき、はじめて放つことのできる重さだった。同時に、憎悪に身を委ねている科学者は手にしていたリモコンのボタンを押した。

 ごぽんっ……

 水槽に何かの液体が入れられると、瞬く間に変化があった。オレンジ色のLCLが急激に赤い色を強め、最終的に黒を混ぜたような赤になる。血液に近い色だ。血の色に染まっていくに従って、綾波レイの身体が、デッサンが狂ったようにズレていく。最初は見間違いか何かだとシンジは思ったのだが、すぐに見間違いなどではないことを思い知らされた。
 ぼろり、ぼろり、と肉体が風化するかのように崩れていく。最初は身体の細い部分――手首や足首、膝、肘などの関節部分が崩れ、独立すると、細い首や腰もぐらりと揺らぎ、すぐにぐずぐずになって身体から離れていった。
「ひっ…」
 思わず喉が引きつるような悲鳴をあげたシンジは、思いきり目をつぶった。
「シンジ君、レイがあなたを庇って自爆したとき、こんな風に死んでいったのかもしれないわね」
 リツコのセリフにはぐらぐらになった理性に一撃を、決定的な一撃を加えるだけの破壊力がこめられていた。

 やめろ、やめてくれ。
 それじゃあまるで、僕が彼女をこんな風にしてしまったみたいじゃないか。



 昨晩の出来事を思いだしていたシンジのポケットの中で、電話が鳴った。
 目に入る太陽と空を見て、ようやく我に帰ったシンジは動揺を悟られないように、懸命に深呼吸をして電話に出た。電話番号はミサトのものだ。
「はい、もしもし…」
「シンジ君、明日シンクロテストを行うけど、時間変更になったわ。一時から四時に変更。いい?」
「あ、はい……」
「……シンジ君」
 ミサトが何か言いかける。
「それだけですか?」
「え?ええ、でも……」
 何を話したいのかはわかっていた。でも、もうそのことは考えたくもないことなのだ。ましてやなにがしかの慰めの言葉なんて、かけられても事実をよりはっきりさせるだけで、嬉しくもなんともない。
「それじゃ、仕事がんばってください」
「ちょっと、シンジ君――」
 無視して電話を切って立ち上がり、帰路をとぼとぼと歩いた。いままで自分が何をしてこようと、これから自分が何をしようとも、もう、事態はとても自分の手に負えるようなものではないことを自覚しはじめていた。
(僕がなにをしたって、なんにもならないなら――)
(僕は、もういらないのか?)
 一番避けたい恐怖が忍び寄るのを薄々自覚しながら、それを意識すまいと、無理矢理考えるのをやめようとした。
 しかし、やめようと思えば思うほど意識はそれだけ強くなるものだ。
「僕は……」
 町外れだったため爆発を免れた家に帰り、すぐにシャワーを浴びた。熱いシャワーが身体を刺すように吹きつける。まるで責められているような感覚を覚えた。何を責めてられているのかわかっている。だが、彼女は誰にも命令されず、あっという間に全てを終えてしまったのだ。こっちがどう戦うか考えているときに。
「自分勝手だよ、そんなの」
 シャワーを出て、冷蔵庫を開けた。目に入ってくる冷蔵庫の色は彼女の髪の色を思い出させる。
「自分勝手なんだよ!」
 ドアを叩きつけるように閉じても、冷蔵庫は相変わらず鈍い音を吐き、青い色のままだ。そんなことは当たり前のことなのに、無性に腹立たしかった。
「綾波が死んじゃ、何にもならないじゃないか……!」

 がっくりとうなだれたシンジは、あるときすっと表情を消し、また冷蔵庫を開けるといくつかの食材をとりだした。その動作はまるで操り人形を足の指で操っているが如く緩慢極まりない。
「ミサトさん、いつ帰ってくるかな…」
 夕飯の支度を始める。もう六時近くになっていた。いつもならもう三四十分すれば帰ってくる。
 米を炊き、いくつかの副食を作る。あとはミサトが帰ってきてからやればいいところまで支度をすると、イスに座り、耐えるようにうなだれた。両手を組んでみたり、ぶらぶらさせたりしていると、もう七時近くになっていた。
 七時数分前になって背後の電話が鳴った。またリツコだろうか。あんな電話だったら出たくない。しかし、それでも無視することはできず、電話を取った。
「もしもし」
「シンジ君?私だけど」
「ミサトさん、どうかしたんですか?」
「悪いけど、これから何日か遅くなりそうなの。晩ご飯いらないから、食べちゃってていいわよ」
「え……」
「ごめん、色々手が放せないのよ」
「そうですか……」
「ええ、それじゃ」
 ミサトがせわしなく電話を切った。なにをそんなに急いでいるのかシンジにはわかるはずがないが、振り返り、きちんとアスカを除いて二人分の準備ができている食卓に、ため息もつかずにコンロの前に立って調理をはじめた。一人分の準備。自分の茶碗にだけご飯をよそい、自分の御椀にだけみそ汁を盛り、自分の分の魚だけ焼いた。

「いただきます」
 空しく響く声。
 空しく響く食事の音。
「ごちそうさま」
 空しく響く声。
 空しく響く後片づけの音。
「また、あまっちゃったな…」
 沢山の残り物を眺める。
 きれいなままのアスカの箸。重なったままの二人の茶碗。


 消えた家族。


「イヤだ、イヤだよ!!」

「誰か、誰か助けてよ!」

「なんで僕だけなんだよ、どうして僕しかいないんだよ!?」

 ミサトの部屋の戸を開けた。

「ミサトさん!」

 誰もいない。

 アスカの部屋の戸を開けた。

「アスカぁ!!」

 誰もいない。

 台所を通りすぎ、自分の部屋に入った。

 目に入ったのは、すこし厚めの日記帳。

 金色の字で「Diary」と印刷された、プレゼントしあったもの。

 綾波レイ。

 金色の字。

 爆発の色。






 消失。







「綾波…」
 綾波レイは確かに存在する。
 いくつもある身体のひとつを使って蘇った。
 そのはずだ。それでも、病院で会ったときの「異質な感じ」は拭えない。自分がよく知っているはずの綾波レイなのに、むこうもこっちのことを知っているはずなのに、まるではじめて出会ったときのような眼をしていた。
 リツコの話では、自爆する二日前が最後の記憶のバックアップだった。だから、レイ自身が自爆のことを「知らない」というのは当然といえば当然だったのだ。
 しかし、それとシンジの感じた「異質な感じ」は符合しない。
 何も写していないかのような瞳。ただ紅いだけの。
 しかし、確かに彼女は「いる」のだ。どういう形であれ。
 それだけが、今のシンジにとって唯一とも言える「確かなこと」だった。
「一人は嫌なんだよ、もう…」

 うめく彼の手を握り、慰める者はどこにもいなかった。



THE FIRST DAY



 第三新東京市からジオフロントに入るにはいくつかの方法がある。終点の駅で電車に乗ったり、あるいは専用バスだったり。
 しかし、そのほとんどの方法は零号機の自爆によって使用不可能になってしまっている。そのため、今は地下鉄の駅にある地下通路を渡り、そこから天井都市とネルフ本部まで繋がっているモノレールに乗るという方法がとられていた。
 車での通勤者は今まで通り郊外にある高速エスカレーターに車を乗せるだけだ。もっとも、街のほとんどが吹き飛んだため、車もなくなってしまった職員がほとんどで、葛城ミサトのように悠々と車に乗っている人間はごく少数だった。
 ミサトは一度上に戻ったが、家には帰らずに日向を拾うと、すぐに引き返した。仕事が山積みのままなのだ。
「……で、アスカの行方は?」
「まだ、掴んでいないようです」
「諜報二課ともあろう者が、ね」
 日向には別の仕事を頼んでいたらしいミサトは、結局それが徒労に終わったことに落胆した。一刻も早く見つけなければならないパイロットを、もう二日も見失ったままなのだ。十五使徒に精神を侵された今のアスカなら、いつ死んでしまってもおかしくない。
「いやがらせ、でしょ?」
「ったく、こんな時だってのに、意地張るのよね……そういうヤツが一番嫌われるのよ」
「パイロットとしての復帰が絶望的だと承知の上で、ですからね。タチ悪いですよ」
「ホントよ……あ、そうだ、一つ連絡があったわ」
「なんです?」
「フィフスチルドレンの件」
「というと?」
「予定が繰り上がって、明後日到着になったわ」
「ええ?」
「委員会が現在の戦力ではあまりに危険だと判断して、だそうよ」
「しかし、弐号機のコアはまだ変換できていませんよ」
「とにかく早くこっちと弐号機に慣れてもらうため、というのが向こうの言い分。でも、怪しさは隠しきれないわね。いえ、もう隠すのをやめたのかもしれない」
「とすると、その子供には警戒が必要ですね」
「なんせ、委員会がマルドゥックを通さず、直接送り込んでくる子だもの。当然、なにかあるわ」
「まだ使徒すべてが片づいたってわけじゃないのに…いや、でも」
 日向がなにか気づいたらしく、言葉を切ってミサトに振り向いた。
「ここまでしてくるってことは、終わりが近いってことですか?」
「どうかしらね……」
 それはミサトにも計りかねた。だが、それは十分考えられることでもある。
(加持君……あなたなら、教えてくれるの?)
 ミサトは懐にしまってあるプラスチックケースの感触を確かめた。
 加持リョウジが残した最後のメッセージが、そこには詰まっていた。
「日向君、マヤちゃんに連絡しておいてくれる?」
「なにをですか?」
「多分、今日からしばらくリツコは来られないってこと」
 そう言うミサトの表情が、欠席の理由は風邪といった普通の理由ではないことを感じ取ったのだろう、日向は訝しげな目でミサトを見た。
「なぜです?」
 単刀直入に日向が訊いてきた。もう自分が危険なところに足を突っ込んでいると自覚しているのだろう。覚悟した顔をしている。
「……捕まったわ」
「ええ!?」
「施設の一部を破壊したらしいの。それも、リツコ以外には司令と副司令くらいしか知らないような、機密保持されていたものを」
 さすがに壊したものが綾波レイの肉体だとは言えなかった。
「そ、そうですか……」
 日向もそれ以上は訊ねようとしなかった。
「もちろん、マヤちゃんには言わないでね」
「はい」
「なんにしても、現状は最悪かあ…」
「初号機がいるだけ幸いですけど」
「まあ、ねえ…」
 その初号機にしても、パイロットのシンジが気がかりだった。今までの彼の行動やその行動原理を考えると、今回は危険かもしれない。せめて、自分がきちんとシンジと向き合えれば多少なりとも彼の不安を――彼が抱いている不安がなんなのか、おおよその見当はつくのだから――やわらげることはできるかもしれない。
 しかし彼はそれを嫌うだろう。まちがいなく、身体的接触は避けようとする。そのやさしさがかりそめのものだと、わかっているからだ。
「結局、いつだって自分に確実にできることをやるしかないのよね…」
 肝心の部分では子供たちに頼るしかない。
 それを理解したうえで、ミサトはそう呟く。それが身勝手だとわかっていながら。



「ファーストチルドレン、初号機とのファーストコンタクトはシンクロ率43.3%です」
 伊吹マヤの澄んだ声が管制室とパイロットのいるエントリープラグに響き渡る。その声は普段より締まっていた。普段はいるはずの上司がいないことの緊張感だろう。一応代理の責任者として冬月が来ていたが、事実上、E計画のシステム管理は彼女がしなくてはならなくなったのだから。
「悪くない数値だな」
 冬月がかすかに驚きを含んだ声を漏らした。
「ええ、十四使徒の時は原因不明の拒絶がありましたから、それに比べれば」
「よし、ではいつも通りの手順でプラグ深度を下げてみろ」
「はい」
 エヴァとパイロットを隔てる精神的な防御壁を展開。パイロットは限界までエヴァとシンクロさせようとすることでエヴァとのシンクロを高めていく。
 モニターの中の綾波レイがわずかに表情を歪めた。エヴァとの距離が遠くなる感覚。そうさせまいと、レイが集中力を高める。
「精神汚染、ギリギリです」
「今のシンクロ率は?」
 訊ねる冬月を、ミサトは横目で見た。リツコに対する処分についてなんの動揺も反発も見せない。まるで碇ゲンドウそのもののようね、とミサトは口の中だけで呟くと、視線をモニターに戻した。
 綾波レイが微動だにせず、エヴァとのシンクロに集中している。
 まったくの同じ人物。一度は消滅したはずの肉体。新たな肉体を手にして蘇る存在。それは最早、人間とは呼び難い。ダミーシステムのコアとなるものなら、その存在はむしろエヴァに近い。
「27.6%です」
「よし、最初…いや、久々の初号機。それにしては上出来だ」
「そうですね。データを収集次第、終了します」
「ああ」
 ようやく動揺が見えた。思わず「最初」と言ってしまった冬月の動揺を、ミサトだけはその理由をわかっていた。冬月がとっさにミサトを見やる。知らないフリをしたところでわざとらしいだけなので、ミサトはあえて愛想笑いを浮かべてやった。冬月がバツの悪そうな顔を一瞬見せた。
(まあいいわ…それより、シンジ君ね)
 レイの前に行われたシンジのシンクロテスト結果を思い起こし、ミサトはため息をついた。一番いい状態でのシンクロ率が82.8%。最近は90をこえるほどの高いシンクロ値を出していたが、一気に下がった。とはいえ、危惧していたほどの低下ではない。シンジが、というよりも初号機が離すまいとしている。ミサトはこの数値からそんな印象を受けた。
 そして、いくらレイがシンクロテストをしようが、よほどのことがなければ次の出撃はシンジがやることになる。いくら彼の精神が不安定でも、その彼の半分程度のシンクロ率しか出ないレイとは比較するまでもない。
 だが、パイロット自身の能力と現在の状況を見れば、場合によってはレイを乗せることも考えられた。
 つまり、どうとも言えない、不安定な状況にあると言える。
(こうなると、何かあるとはわかっててもフィフスに期待しちゃうわね)
 味方でいるうちは敵ではない。敵でないうちは使えばいい。残酷な思考を巡らせるミサト。

 そのミサトのように冷たく、意志を読み取りづらい眼をしたシンジは、ただぼんやりとイスに座っていた。外見とは裏腹に、思考は凄まじく回転していた。とはいえ考えていることは、
(どうしよう)
 これのみであった。帰るべきか。こうして待っているべきか。彼女を誘うべきか。すべきでないのか。
「どうしよう……」
 口に出してみたが、当たり前のように通路に響いて、情けなく散っていった。
(でも、綾波が生きているのは確かなんだから)
 きっと、まだ記憶と身体が馴染んでいなかったりするんだろう。そのせいで昨日会ったときは不可解なことを口走ったりしたんだろう。
 そう判断したシンジは、正面の、二つある扉の右側だけをじっと見つめた。シンクロテストに際に使われるエントリープラグと直接つながっている女子更衣室だった。左はシンジしか使わない男子更衣室。
 レイが出てくるのはいつも一番最後で、いつも同じタイミングだった。シンジがシャワーを浴びてこうして待っていると、大体五分待つと出てくる。アスカより遅い、というのが印象的だった。
 そして約五分たつと、ドアが開いた。まだ少し濡れた髪で出てくる姿は、相変わらず魅力的に映る。こうして見ているぶんには、なにも変わっていないように思えた。
 話しかけようとしたが、レイがさっさと管制室に向かってしまうので、慌てて後を追った。やはり、前とは様子が違う。
 管制室にはリツコがいなかった。それは訓練中もいる様子がなかったので想像できたが、暗い気持ちになった。あまりにかわいそうだったし、彼女を拘禁するよう命じたのは父のゲンドウ以外考えられないからだった。
「さて、いつもの反省会といきますか」
 ミサトが努めて明るく言うのは、この場を明るくするのに一役買ったかもしれないが、シンジには空しい作業に思えた。
「まず、レイ」
「はい」
「シンクロには十分成功したわ。シンクロ率の最大値は43.3%。まあよかないけど、十四使徒の時に不成功だったんだから、上出来よ。この調子で頑張ってちょうだい」
「はい」
 レイが小さく頷く。細かい動作も当然「同一人物」なのだから同じで当たり前だ。なんら不自然な点はない。
 それでも、一度疑ってしまったシンジにはそれが以前よりひどく「冷たい」感じがしたし、レイとは個人的には接触していないミサトも、なにかひっかかるものを感じたのか、シンジの名前を呼ぶまでのホンのわずかな間、レイを凝視した。
(なにかしらね?)
 周囲に、とりわけ冬月に悟られないよう、視線をシンジに移す。いまさらのことだが、わざわざ波風を立てる必要はない。
「シンジ君」
「はい」
「ちょっち、調子悪かったかな?シンクロ率、下がってたわ」
「……すいません」
「いや、まあ、謝んなくてもいいけど。ゆっくり調子を戻していってちょうだい」
「……」
「……それじゃ、今日はこれでおしまい。明日、レイは14:00から、シンジ君は15:00からね」
「はい」
 声の主はレイ。シンジは小さく頷くだけに終わった。他のことを考えていたから、という理由があってのことだが、そんなものは言い訳にもならない。普段ならなにか言われるところだが、現在の状況を思えば、元々内向的なシンジをせっつくようなことはできず、ミサトの「それじゃあ解散ね」という言葉だけが機械の作動音混じりに部屋に響き渡った。
「ねえ、綾波」
 ネルフ本部を出て、モノレールに乗ってようやく、シンジは話しかけた。
「…なに」
「あの、今日、これからさ、その…うちに、来ない?」
「どうして」
「僕、毎晩料理作ってるんだけど、その、最近…アスカもミサトさんもいなくて、作る量とか買う量、間違えちゃうんだ。それに、買いだめしてたのに急に誰も帰ってこなくなって…だから、綾波に来てもらえると、嬉しいんだけど………駄目、かな」
 いちいち言葉を切ってしまっている自分に怒りを感じた。なにを怯えているんだろう。彼女は彼女のまま、自分の目の前にいる。緊張することはあっても怯える理由なんて、どこにもないはずだ。
「どうして」
「え?」
 レイが無表情のまま、首だけをシンジに向けて言う。
「どうして、私が行かなくてはならないの」
「え、それは、その……えと……綾波に、来てほしいんだ」
「どうして」
「どうして、って」
「私に理由がないわ。碇君にはあっても、私にはない」
「それは、そうかもしれないけど」
 そうじゃなかったはずだ、とシンジは呻いた。今まで――といっても片手で数えられる程度のことだが、シンジがレイを誘ったとき、レイの返事は必ず「イエス」だった。だから今回も、と思っていたのだが、返事はあまりに素っ気無い。
「ごめん……不愉快だよね。いきなり晩ご飯食べに来て、なんて」
「碇君が、私を家に呼ぶのは、一緒に夕食をとるためなの?」
「え?うん、さっきそう言ったよね?」
「よく、わからなかったわ」
「そ、そうかな…」
 遠回しではあったが、通じないということはないはずだった。意地悪をされている、という感覚はなかった。本当にわからなかったのだろう。しかし、やはり自爆前の綾波レイならそうは言わない気がした。
「いいわ」
 レイがいきなり、思わぬ言葉を口にした。いきなりの返事に思わず「えっ?」と聞き返してしまうほどだった。
「食べ物、なかったから」
 彼女の家には食べ物がない、ということか。
 望んでいた答えではないが、理由はなんでもいい。とにかく彼女は「イエス」と言ったのだ。色々聞きたいことはあるが、それは食事をしながらの方がいいな、と思った。そのほうが食事の時に嫌な空気になることがないだろう。言いたいこと、聞きたいことは沢山あるのだ。
 そしてなにより、一人ではなくて、レイが一緒にいてくれる。重かった足取りは自然と軽くなった。
 モノレールを下り、うす暗い連絡通路を通って地上に出た。もう六時をまわっている。昨日と同じ、黄金色の空と太陽が目に入った。
 地上に出てちょうど二十分でマンションに着いた。それまで会話はいっさいなかったが、そのあたりはもうさすがに慣れっこになっていた。レイとの会話はおよそ弾んだ記憶がない。
「ただいま」
 と言うと、居間からひょい、と現在ただ一人「確実に家にいる」家族が顔を覗かせ、訴えるように「クゥワ」と鳴いた。いつものベッドをもう抜け出しているということは、よっぽど腹がへっているのだろう。
「適当に座っててよ」
 と後ろのレイにひと声かけ、食べ物をせがむペンペン用の魚を解凍する。そのあいだにシンジは私服に着替ると、居間に戻って電子レンジに放り込んだ魚を取りだし、ペンペン用の皿に置いてやる。猫のように皿の前で落ち着かない様子だったペンペンが、早速それにかぶりついた。
 食事の支度をはじめながら、シンジは開け放してある引き戸の向こうにいるレイを見つめた。ストライプのクッションの上に座り、こちらをじっと見つめている。すこしぎょっとなって、すぐに目をそむけた。なぜか、ひどく見透かされたような気がして。
 身動きひとつしないレイによく冷えた麦茶を出したとき以外、二人は無言のままだった。ある程度の準備をしておいたため、七時をすこしまわった時には食卓にはすべてが揃っていた。
「できたよ」
 呼ばれると、彼女は小さく頷いて立ち上がり、シンジに薦められた席に着いた。
「……いただきます」
「どうぞ、あの、口に合うかどうか、自信ないけど」
 彼女は肉を食べられない。それを思いだして豆腐ステーキを作ってみた。彼女がそれを口に運ぶのを見届ける。
「どう?」
「食べられるわ」
 期待していた答えは出なかったが、とりあえずホッとした。
 黙々と食事は進んでいく。聞きたいことがあったのに、言い出せるタイミングが見つからない。
 やがて、食事が終わる。シンジは急速に焦りだした。一人で食べる淋しさはなかったが、別種の淋しさを感じる。
(やっぱり、ちがう。絶対に前より「冷たく」なってる)
 同じように見えて、態度がまったくちがった。彼の知る綾波レイは、知れば知るほど「素っ気無い」のではなく、単に口数が少ない。そういう人間という印象だった――もっとも、シンジの目には彼女がそう見えるほど、レイとっていた態度はシンジとそれ以外の人間では違っていたのだが――が、今のレイは、何度か感じたように、はじめて彼女を知ったときのように素っ気無い。誰も相手にしていない、どこか別の世界の住人のような印象を受ける。
(もし、綾波がリツコさんの言うように記憶のバックアップをとっていたなら、そういう変化はますますおかしいじゃないか)
 ほんの数日前にデータを取ったばかりだと言ったのだ。
 そうして考えている間に、レイが立ち上がった。シンジも慌てて立ち上がり、
「ど、どうかしたの?」
「帰るわ」
「え、ええ?」
「食事、終わったもの」
「そ、そりゃ、そうだけど……」
 前に家庭科の授業でカレーを作ったことがあった。そのときは「ごちそうさま」と言ってくれた。今度はそれがない。そのあたりの「冷たさ」が、違和感につながるのだ。
「さよなら」
 振り返って、廊下に出ていってしまったレイを追った。
「ねえ!」
 思わず彼女の腕を掴んでいた。手に力がこもる。
「なに」
「一体どうしちゃったんだよ!」
 期待していたものはなにもなかった。そこに確かに目の前にいるのに、どこにもいない。ほとんど別人のような態度。
「べつに、どうもしてないわ」
「嘘だ。ヘンだよ、こんなの。まるで別人みたいに!綾波まで僕を置いていくの!?」
「なにを言ってるの」
「だって、だって……僕の知ってる綾波だったら、こんなはずじゃ」
「なにも、変わってないわ。私は私のまま」
「違う、違う!だって前にカレー食べたときは、「ごちそうさま」って、言ってくれたのに。すごく嬉しかったんだ。でも……」
 叫びながら、自分の勝手さにあきれ、それ以上に彼女が遠のく感覚に怯えた。
 こわい。
「そんなこと、なかったわ」
「………………え?」
 彼女の口から出たものは、まったくの予想外だった。不意打ちで後頭部に打撃を喰らったような感覚。
「碇君が言うようなことは、なかったわ」
「そんな、そんなハズないだろ!?だって、特別授業の時に」
「知らないわ」
 取りつくしまもない。ありえない。これはいくらなんでも異常だ。記憶のバックアップは行われていたはずだ。それなら、綾波レイは綾波レイのはずだった。
「どうして、どうして……!?」
 大切な思い出のひとつだった。この街に来てから嬉しかったことを挙げろと言われれば、間違いなくその中に入る。素晴らしい一日だった。どこかで、レイもまたそう思ってくれていると思っていた。彼女の言葉はそう信じるに足るものだったからだ。それなのに、それを否定された――
 疑うより早く絶望してしまった。がっくりとうな垂れると、レイが腕をほどこうとする。そうさせまいとまた強く握って、顔を上げた。
「それじゃあ、風邪ひいたとき、僕が看病してたのは憶えてる?」
「知らないわ。風邪をひいたことなんて、ないもの」
 まただ。
 ここまでくれば作為的な匂いを感じて当然だが、今のシンジにそれを感じろというのはむしろ酷であった。人との繋がりを求めた結果がこれでは、冷静になれというのは無理な話である。
「それじゃ、さよなら」
 シンジの腕を素早く払い、玄関に向かうレイ。茫然自失のシンジだが、レイが片方だけ革靴を履いたのを見ると、慌てて駆け寄ると、体当たりするように抱きしめた。
 一人になりたくない。
 人間しかありえない思考でありながら、本能的な行動でもあった。
「どいて」
 シンジの胸に収まるレイが、なんとか離れようとする。本来二人にはそれほどおおげさな身長差はないが、板の間に上がっているぶん、身長差ができていた。
「いやだ、いやだよ。どうしてだよ、どうして綾波までいなくなっちゃうんだよ!?」
「いなくなってなんかないわ」
「でも、ぼくたちの思い出を憶えてない」
「……そんなことがあったなんて、知らないもの」
 少し、レイの返答に間が空いた。
「そんなのってないよ!」
 叫ぶと同時に、糸が切れたようにシンジの力は抜け、膝をついた。さながら電源切れになったエヴァのごとく。うな垂れ、嗚咽を漏らすシンジを見下ろすレイの表情が歪む。
「っ……さようなら」
 こめかみに手をあて、そのあたりでうずくらしい痛みをこらえながら、出ていった。
「ううっ…ちくしょう、ちくしょう!」
 ドアが閉まる。目の前にいながら、まるで別人だったレイ。それでもまだ、目の前にいるだけよかったかもしれない。これで、決定的に一人になってしまった。いくら望んでも、もう、どこまでも独りぼっちのような気がした。



「一人にしないで!!僕を、僕を助けてよ、誰か、誰かあ!!」



 マンションを出たレイは、一度だけ部屋の明かりを見上げて、携帯電話を取りだした。保安部を呼びだし、車で迎えに来させる。
 真っ黒の車が夜の闇に紛れるようにしてやってきた。ドアが開く。シートベルトを締めと、車が動き出した。
 何も喋らない。何も聞いてこない。そういう風に振る舞うようにされている保安部は、彼と違って気が楽だ。レイはふとそう思うと、自分の思考に疑問を持った。
 気が楽、とはなんのことだろうか。
 どうして、彼に対してなんらかの重さを感じたのだろう。その重さとは、一体なんなのだろう。
 きっと、彼が私に身に憶えのないことをさも真実のように語ったからだ。特別授業に出た記憶はないし、風邪をひいた憶えもない。記憶にないことで非難されるのは不快だった。だがそう告げたときに彼が見せた苦悶の表情。それに対して胸が痛むのは、どうしてだろう。
 それに、とレイは思う。
 嗚咽を漏らす彼を見たときに、どうして頭痛が起きたのだろうか。どうしてあの瞬間だけ。頭の中をおさえつけられるような感覚。吐き気すら催すほどの強烈なものだった。
 それがおさまると、急に彼に対して感じた胸の痛みもなくなった。
(碇君は、嘘を言う人ではない)
 これまで彼と接してきたことを踏まえての判断だった。そういう人間だとは考えにくい。もしかしたら彼の言っていることこそ真実で、記憶をこの身体に収めるときになにか障害があって、憶えていないのかもしれない。
(碇司令に聞いてみよう)
 自分のケアを一切引き受けていた赤木リツコが拘禁されているのをレイは知っている。それがどうしてなのかも。自分への嫉妬で、というのはわかっていたが、今一つピンとこなかった。
 レイ自身は、所詮自分は道具だという認識がある。だから大事にされている。あるいは、碇司令のお母さんに似ているから。それだけにすぎない。
 だから、彼女にしてみれば嫉妬される理由はないはずだ。赤木リツコは人間で、愛人。自分は道具。そのはずが、どういう思考の結果によってかはわからないが、自分は嫉妬の対象となり、スペアの肉体を破壊された。
 それに関して、特別な感慨が湧くということはなかった。沢山の自分。彼女自身、自分自身を見ていて気分がいいわけではなかったのである。
 車が止まる。運転手が一言、「着きました」とだけ言った。レイは車を降り、階段を使って自分の部屋に戻ると、そのまま浴室に入り、シャワーを浴びた。人から比べればずいぶん長い間シャワーに打たれ、ようやく浴室を出ると、目に入るものがあった。チェストの上に置かれているもの。
 とりあえず、服を着た。外に出る時に着ていたシャツだったが、寝るときには袖がないシャツが心地よかったので「格下げ」になったのだ。
 渋茶色のノースリーブ。胸に白くかわいらしい字で「INSPIRE」と書かれている。黒いハーフパンツはいつものようにチェストの三段目にしまってあった。
 昨日、彼女は検査のためネルフから戻ってこられず、自爆後はじめて帰ってきたのである。彼女は周囲を見回し、自分の記憶とちがった点はないか、確かめた。
 何も変わっていない。この、日記帳以外は。
 レイは視線を落とし、眼鏡ケースの隣にある日記帳を手に取った。乳白色の、手あかのついていない日記帳。金色の「Diary」という印刷文字が、やたら鮮烈に映った。
(これは?)
 レイの記憶にないものだった。シンジもこのことについては何も言っていない。ということは、記憶のバックアップ以後の、自爆直前に自分が購入したものなのだろうか。
 レイは、日記を開いてみた。
 ぱらぱらとめくってみると、三分の一もしないで途切れている。しかし、その字は間違いなく自分のもので、これほど書き込まれているということは、数日前のものというのはありえなかった。
 最初のページに戻ると、日付はもう何ヶ月も前だった。なら、どうして憶えていないのか、レイは訝しげな目で日記を読んでみることにした。

『碇君と日記帳をプレゼントしあった。今日はネルフ結成五周年記念パーティーというのがあって、そこでは職員とチルドレンがそれぞれひとつずつ、何か景品を持ちよって、そのすべてに番号をつける。順番にくじを引いていって、その番号のものをもらえる、という催しがあって、そこで私は碇君が買った日記帳を当てた。まったくの偶然で。今日の午前中、碇くんと二人で景品を買いに行って、私は碇君が買ったものを当て、碇君は私が買った日記帳を当てた。帰り際、碇君が「できれば使ってほしい」と言っていたので、つけていくことにする。今日は碇君と一緒に出かけた。ネルフと学校、生活のための買い物以外で出かけたのははじめて。碇君と二人で歩く。不思議な気持ち。』
 初日はこれで終わっていた。それからしばらく学校と訓練だけの日々が続く。それはすべて短い文で終わっていたが、いきなり沢山書いてある日があった。

『今日、はじめて命令に逆らった』
 最初の行には、そう書かれてあった。

『碇司令の食事の誘いを断って、学校の特別授業に出席した。碇君と、碇司令。私は碇君を選んだ。自分一人だけの決断ではなかったけれど。後悔はしていない。これでいいと思っているけれど、でも、どうすればいいのか、わからない。私は来るべき時が来たら碇司令の命令に従って行動しなくてはならないから。無へと帰ることもできない、永遠の依り代にならなくてはならないから。たとえ世界が滅んでも。私が生まれてきたのはそのためだから、それも後悔はない。でも、碇君だけは、死なせたくない。私は私が碇司令と、あの人のお母さんのための依り代になるとき世界がどうなるのか、聞かされていない。ただ私たちがいなくなるだけなのか、それとも世界が滅びるほどの影響を与えてしまうのか。碇君がどうなるのか、わからない。
 今日は学校の特別授業というのがあった。夕方に集合して、家庭科の授業として夕食を作り、それを食べ終えたら理科の授業として星の観察をするという内容。碇司令から食事の誘いが急に入ってしまって、迷ったけれど、弐号機パイロットに「自分がどうしたいのか」きかれ、私は碇君のいる学校へ行くことにした。肉が食べられない私のために、わざわざ魚介類のカレーを作ってくれると言っていたから。うれしかった。その後、屋上で碇君と一緒にいた。そのとき握った碇君の手は温かかった。うれしい』

 また碇シンジについてだった。しかもこれは、彼が嘘を言っていたのではなく、自分の記憶に誤りがあることを証明するものでもあった。
 それにしてもなぜ、自分はこうも碇シンジに対して強い感情を抱いているのだろう。同じ人物なのに、日記帳の中の自分はまるで他人のように思えた。
 そしてまたしばらく余白の多いページがつづき、たくさん書かれているところでページをめくる手を止めた。

『昨日、学校にいるときに風邪をひいてしまった。体調の悪さの原因が風邪だとはわからなかったし、誰も私が体調不良だと気づかないので放っておいたけれど、プリントを届けに碇君の家に行ったら、碇君は調子が悪そうだと言ってくれた。他の人は誰も気づかなかった。碇司令も。でも、碇君は気づいてくれて、自転車に乗せて家まで送ってくれた。帰ろうとした碇君を、私は引き止めた。そのことは今でも申し訳ないと思うし、今それをしようと思ってもできない気がする。思いだすだけで、とても恥ずかしい。
 碇君は嫌な顔をしないで、一晩中つきそってくれた。そして私は今朝、はじめて嘘をついた。そのことも申し訳ない。計った体温をわざと高く言って、碇君にいてもらおうとした。でも、そのおかげで碇君の体温を感じながら眠ることができたのは、嬉しかった。多分私はそのことを言わないままだと思う。だからせめて、ここで。
 碇君、ありがとう。』

 まただ、また昔の自分は碇シンジへの思いを綴っている。風邪をひいたのは本当だったのだ。そして本当に一晩中看病してもらって、しかもそれを嬉しく思っている。

(私は、本当に私なの?日記の中の私は、本当に私なの?)

 最後の行の「ありがとう」を指でなぞってみた。シンジが叫んだ「まるで別人みたいに!」という言葉を思いだす。本当にその通りだった。まるで別人。とても自分自身だとは思えなかった。
 とにかく、ページをめくっていく。毎日書かれているが、ほとんど一行で終わっていた。たまに「使徒襲来」の文字があったが、特別なにか書かれているようなことはなかった。

 十二番目の使徒、襲来。その時について、詳しく書かれてあった。
『第十二使徒襲来。ATフィールドで形成されたディラックの海に初号機が閉じ込められた。引き上げられたアンビリカルケーブルは切れていた。碇君がどんな状況なのか、生きているのか死んでいるのかもわからない。結局、初号機の暴走によって使徒は殲滅され、碇君も無事だった。でも、あの16時間はきっとずっと忘れられない。あんなにつらいことは、今までなかったから』

 これは記憶にあった。だが、ここに書かれているような感情も、つらかった記憶もない。首をかしげながら、ページをめくる。
 十四番目の使徒との戦いのあとは、短いのは変わらないが、書いてある内容が違ってきていた。

『碇君が初号機に取り込まれてしまった。十一年前に起こったときと同じケース。サルベージ計画が実行されるのは間違いないけれど、前回は失敗。碇君が戻ってこられる確率は低い。』

 とあった。
 それから何日かすぎ、
『碇君の顔を見ない日が沢山つづく。今までは学校で会えなくても訓練で会っていたから感じなかった。心のどこかに穴が開いたような感覚。碇君はまだ戻ってこない』

 それから一週間は、一行どころか二言三言で終わっていた。ページをめくる。
『碇君が取り込まれてから二十五日がたった。来週、サルベージ計画がスタートする。碇君を思いだしてしまうのでしばらくまともに書けなかったけれど、書くことで碇君とつながっていたい。今の私には、そうすることでしか碇君を感じられないから。』

 そこからは一行程度の短い文が八日間つづき、サルベージの日もまた、多くは書かれていなかった。
『碇君が戻ってきた。嬉しい。』

(嬉しい)

 その字は、心なしかそれまでより軽く感じられた。安心が滲み出ている。
「私、うれしかった?」
 日記を閉じて、呟いた。碇君が戻ってきて、嬉しかった?

「ウッ!?」

 突然、頭に痛みが走った。まるで頭の中だけ重力が変わってしまったかの様に頭が重く、鋭い痛みが頭を引っかき回す。

「くっ、ああ!」

 さっきまで何を考え、自分の胸の内側からあふれそうになっていた何かが、強引に閉じこめられていく。レイはそれを実感した。
(碇、司令?)
 そうとしか考えられない。
 この頭痛はおそらくあるキーワードを自分が思い浮かべたときに発生し、思考を遮断させる働きを持つのだろう。

(でも、私は…)

 もう、何かを掴みかけてしまった。

 徐々に薄れていく意識のなか、レイはなんとかベッドに倒れ込み、手にしていた日記を胸に抱いた。

 そういえば、嘘をついたあの日、こんな姿勢で碇君を見つめながら寝られたな。
 そう思ったところで、意識が途切れた。



 ただ広いだけで、机とイス以外はなにもないネルフ本部司令官執務室の奥に座っている碇ゲンドウは、深いため息をついた。いつもなら隣にいるはずの冬月だが、上の街が吹っ飛んだことで市長らと話し合いがあるため今は彼一人である。もし冬月がいたらこんな様子はとても見せられない。ゲンドウはイスに深く腰かけて暗い天井を見上げた。己の心だ。ゲンドウは自嘲した。

 悪魔の計画だ。

 彼はさっきまで現在までの目的の進行状況を考えていた。まさに何者かがそうさせているかのように、すべては彼の思うままに進んでいる。十一年前、最愛の妻の碇ユイを失ったときに考えた通りに。ある一つのことを抜かせば何一つ構想そのままに進んでいる。いや、表面上はすべてが彼の計画通りだった。
「計画は悪魔の如し。されど、計画を立てるのは所詮人間か」
 計画の全てを知る冬月が以前言ったことだった。自信満々に「必ずうまくいく」と言ったゲンドウに対し、「確かに計画自体は悪魔のように周到だ。しかし、それを実際に動かす我々は人間なんだ。何処から綻びができるかわからんぞ」と諌められたことがある。
 まったくその通りだった。さすがはユイの師か、と彼は一人ごちて、もう一度「さすがだ」と呟いた。
「さすが俺だ」
 あなたくらい人間らしい人なんていないわよ、と昔妻が言っていた。まさにその通りだった。悪魔に魂を売ったつもりだったが、実にわかりやすく、計画の恐ろしさから見ればまったくくだらない、幼稚な誤算だった。
「しかし、今さらやめられるものではない」
 自分が正義の立場にいるとは思ったことがない。彼は、自分はもともとそういう場所にいられる人間ではないと思っている。妻や、自分の息子のように光の当たる場所に立って笑っていられる人間ではない。

 その光を羨んで吠えるだけの、ただの野良犬だ。

 そしてその野良犬根性が、今さら計画を止めたいなどという心をあっさり砕いてしまうのだ。光の当たる場所に行きたくても、もう性根がすっかり野良犬になってしまっている。

 だから、止めてもらいたいのだ。
 息子と、計画の鍵を握る綾波レイに。

 シンジを強く思うようになったレイが最後にシンジを選べば彼の計画は潰える。ゼーレの老人の画策する人類補完計画とはちがって、他人任せの計画なのだ。結局レイがゲンドウに絶対服従でなければどんなに外堀を埋めようと意味のないことだった。

 昨日、レイの「思い」を消すチャンスが訪れた。
 零号機との融合を果たそうとする第十六使徒に対して、自爆による殲滅を選択したレイの魂を新たな肉体に収める際、消すことができた。
 だが、ゲンドウはそれをするようリツコには言わなかった。あえて、だ。もう自分の意志では走ることを止められないゲンドウがしてやれる、唯一の手助けだった。レイがレイのままなら、問題はない。これなら「悪魔の計画」は破綻したも同然と言えた。そのはずだったのだ。
 だが、赤木リツコが独断でそれを行った。シンジとレイが深く関係する事柄の一切を消去。そうすれば必然的に、レイにとってシンジはただの「サードチルドレン」という認識に戻る。そう、シンジがこの街を訪れたときと同じ綾波レイができあがる。

「助けることもかなわないのか」

 世界がこの悪魔の計画を進めている。まるで自分以外の大きな意志が働いているかのように思える。
 赤木リツコに「なぜ命令もなしにレイの記憶を操作した?」と訊いたときのことを思いだした。その時はもうリツコがいたのは鉄格子の中で、彼女はぐったりと簡易ベッドに腰かけ、決してこちらを向こうとしなかった。感情を必死で抑えているのが見て取れる。
「だって、あなたにとってレイは必要不可欠な存在。息子に寝取られるわけにはいかないでしょう?」
 震える声が返ってきた。その声の主張はもっともだ。
「それとももう飼い飽きたんですか?レイとは」
「何を言っている?」
「何を?わかっているでしょう。あなたはもうレイに飽きたんですか、と訊ねているんですよ。ネルフ本部総司令官、碇ゲンドウ」
 リツコがようやく視線をゲンドウに向けた。憎しみと悲しみに満ちた眼。その原因は当然自分にある。それが悔しくて――なぜもっと前に計画をやめようと思えなかったのかと、それが悔しくて、ゲンドウは舌打ちした。それがリツコにどう映ったかは、わからないが。

 リツコの施した記憶の封印は簡素なものだった。いくらリツコでもそう短時間で記憶を消去することはできない。レイの肉体に記憶を移植させる前に、シンジとレイの関係に重要な事柄に触れると、それを考えることを停止させる信号が送られる。その際に激しい頭痛を伴う。
 どの程度の衝撃があればその「防犯装置」を壊し、レイが元の記憶を取り戻せるか、過去の例などないので見当もつかないが、今はとにかく賭けるしかない。

「息子の甲斐性が人類の未来を決めるとは、ぞっとしない話だが、それを望んでいる俺は、まったくどこまでいっても人間なのだな」
 ため息と自嘲を同時に漏らし、ゲンドウはさらに深く背もたれを軋ませた。



  THE SECOND DAY



 外は暑く、部屋から出るのは億劫だった。昼食を作るのが面倒なので外食で済ませたいところだったが、あいにく木端微塵になった街には気軽に食事をする場所がない。ネルフ本部の食堂が思い浮かんだが、それはネルフにいる時間が長くなるという意味であって、できる限り避けたかった。だから結局味インスタントラーメンで済ませ、あとはエアコンのきいた部屋に寝っ転がっていた。
 何分に一回かは寝返りをうった。筋肉は弛緩し、なにもやる気にならない。鎮静剤でも打たれているかのようだった。
 混乱を通りすぎた頭は、すっかり活動がおとなしくなっていた。
 蘇った綾波レイは、もう昔の綾波レイではない。そういう結論だった。大切な思い出を「知らない」と言われる苦痛。今まではそういう思い出を共有できる人がいなかったからわからなかった。
「こんなに、つらいんだ」
 一度得たものを失う痛みが、これほどまでに堪え難いものだとは思わなかった。そもそも、失うと思っていなかったのだから。
(僕には、もう、人とつながっていられるものが)
 エヴァしかないのか。
 エヴァに乗ることでしか、僕に近寄ってきてくれる人はいないのか。
 僕は、エヴァなしでは人に近寄ることもできないのか。
 そうこうしているうちに、一時をまわっていた。シンジはのろくさと立ち上がり、歯を磨くと、寝間着を着替え、外に出た。街がなくなる前ならもっと遅くても良かったが、今はそうはいかない。

 空は青く、深く、彼女の髪の色の様だった。

 昨日と同じ方法でネルフに向かう。電話一本で保安部が地下鉄の入口まで車で送ってくれるのは聞いていたが、そういう気分にはならなかった。たとえ運転手が一言もしゃべらなくても、他人と一緒にいるのが、今はつらい。
 だが、徒歩とモノレールの時間を含めて小一時間。誰とも会わずにネルフまで来たその沈黙もまた、優しい時間にはならなかった。
 思い出すのは黄金色の光に染まった空と、真実しか含まれていない残酷な言葉ばかり。プラグスーツに着替えるときすら、かつて行われた「ヤシマ作戦」で聞いた、カーテン越しに着替える音を思い出してしまう。

「もうイヤだ……誰か、助けて」

 虚ろに天井を見つめる彼の頬に涙が伝って、首筋に流れた。綾波レイが自爆してから、混乱し、叫ぶことはあっても、不思議と涙は出なかったのに。

「どうしてこんな、こんなことに、こんな……」

 泣いても泣いても、悲しみと悔しさはまったく途切れることなく溢れて、涙になって落ちていった。しかしそれがなにを浄化することもなく、ただ、溢れているだけ。

――サードチルドレン、エントリープラグ搭乗の準備をしてください。

 更衣室のスピーカーから、指示が入る。どこかで自分の姿がモニターされているのはわかっていたが、それでも必死でごまかそうと、震えそうな声を必死に抑えて「わかりました」と言った。この自分の声もどこかで拾われていることだろう。もちろん向こうから返事がくることはない。
 更衣室を出た。本当なら部屋の奥からエントリープラグの並ぶ実験室に入るのだが、どうにかして自分に頑張ってもらいたいはずのネルフの人たちを少し困らせたくなった。
 ドアが開くと、予想もしてなかった人が目の前にあるイスに座っているので、思わず声が出た。「あっ」
 正しい姿勢で座ってた綾波レイが顔を上げ、少しだけ驚いた表情を見せた。プラグスーツ姿でこっちに出てきたからだろう。
 しかし、その表情を見せなければシンジはすぐに引っ込んでしまっていただろう。彼は、昨日までなら考えられないレイの素直すぎる表情に違和感を覚えた。君はもうそんな顔をするひとじゃなくなったはずだろう、と叫びたくなる衝動を抑えて、彼女と向き合った。
 改めて見ると、何も変わったところはなさそうだった。やはりただ単に予想していなかったのだろう。お互い様ということだ。
 シンジは一瞬抱いてしまった希望をすぐに捨て、振り返った。ドアが閉まる。その直前、「あっ」というレイの声を聞いた気がしたが、それはきっとそうあってほしいと思う自分の心がそうさせたんだろうと思い、更衣室の奥へと進んでいった。

「どう、シンちゃん。調子の方は」
「……大丈夫です」
 大丈夫ではないのは誰の目にも明らかだったが、全員シンジの映るモニターから目を逸らし、彼の表情を見まいとした。自分たちのさせてきたツケがそれだと思いたくないからだ。誰しも覚悟していたから、現実にそうなってみて耐えられるかどうかというと、そうではないのだ。
「あんたたち、眼ぇ逸らすじゃないわよ」
 シンジとの通信を切ったミサトが凄んだ。冬月を除く管制室のスタッフ全員がびくりと身体を震わせる。
「私たちの責任なのよ。それを自覚していて見ようとしないなんて、まだ自分の手が真っ赤だって思いたくないの?」
 ミサトは誰に眼を合わせているわけでもない。ミサトの方を向く人間は冬月だけだからだ。彼とミサトだけが、シンジを見ていた人間だった。
「私たちはもう、とっくに地獄行きなのよ。今さらビビッたって意味ないわ」
「わ、私たちは誇りを持って、この仕事をしています。確かに子供たちを戦場に送りだしていますが、それはエヴァに乗れるのは彼らだけだからですし……地獄行きとは、言いすぎでは――」
 ミサトのすぐ側にいた片桐二尉が食い下がる。しかしすべての言い分を終える前に、ミサトがそれを遮るように早口で言った。
「国連によってネルフの援助は世界各国に義務づけられているわ。エヴァが戦闘で腕一本失って、それを治すのにいくらかかってると思うの?発展途上国の国家予算二つ三つはいるのよ。それほどの金を払ってる国の中には、そのせいでセカンドインパクトの復興が遅れて紛争や食料不足に悩んでいるところもあるのよ。私達はそれに関与しているわ。たとえ人類のためでも、エヴァのために人を殺してる。誇りを語る前に、現実を見つめなさい!」
「――」
「私たちはもうとっくに底無し沼の中なのよ。そんな私たちにできることは、それを自覚することと、あの子たちが沼を抜け出せるようにサポートすることだけ。わかった?」
 おそるおそる頷く片桐に頷き返し、「すみませんでした、始めてください」と冬月に言うと、自分は一歩下がった。
「うむ、では伊吹君、はじめてくれ。レイと同時にやれないのが面倒だが」
「は、はい」
 我に帰ったマヤがシステムの最終チェックを始める。


 このテストで初号機とシンジのシンクロ率はピークで80を下回り、ネルフの幹部をますます悩ませるのだった。


 濡れた髪を乾かす気にもなれなかった。「集中して」と焦りを隠さないミサトの声と表情を思い出す。きっと自分のシンクロ率は酷いことになってしまっている。簡単に想像できた。集中なんてできるはずもない。シンジは少しよれた赤いシャツを着て、ロッカーを閉めた。かろうじて、という感じで床に置いたカバンを肩にかけ、更衣室を出る。
 目の前のイスには、まだ綾波レイがいた。
「なにやってるの?」
 思わず訊いていた。
「……」
 レイが眼を逸らした。
 避けられているとは感じなかった。そういう態度ではない。だがその動作から彼女の意図を掴むことは困難だった。
「あの、じゃあ、僕帰るから……」
「待って」
 振り向いた途端呼び止められ、驚き立ち止まった。急に呼び止められるとは考えていなかった。

「今日も、行っていい?」
「え?」
「碇くんの家」
「えっ?」
 呼び止められること以上に考えていなかった。昨日とまるで違う態度の彼女。何かあったのだろうか。だとしたら、何があったのだろうか。
「いい、けど」
「なに?」
「なんでもない……行こう」
 軽く頷き立ち上がるレイ。一見なにひとつ変わらないように見える。
 そう思ったシンジはかすかに自嘲し、眼をこすった。おかしな話だ、と思った。皮肉なもんだ、とも。昨日は自爆する前の彼女と比べて「変わってないように」思えたのに、今日はもう「三人目の彼女」と比べて変わってないように思えた自分が。こんな風に相手の見方が変わるなんて、そうあるもんじゃない。

 行きと同じ経路で地上に出る。昨日と同じく黄金色の空と太陽が静かに一面を照らし、一部に影を作っていた。綾波レイが死んだことを嫌でも思い出させる色に震える。その隣にいるのは綾波レイなのに。
(新しい肉体だなんて……)
 それは、人間とは呼べない存在だ。
(現に綾波は僕との思い出を覚えてないって言ってる。三人目の綾波レイは――)

 僕の知ってる綾波じゃない。

 玄関で「どうぞ」と言ってから振り返って彼女を見たとき、そう思った。そうとしか考えられなかった。靴を脱いでいるレイの見た目が同じであろうと、思い出を共有していない彼女に対して「綾波は綾波だ」と思うことはできなかった。
「食事、作るから……待ってて。大したものはできないけど」
 シンジは麦茶をグラスに注ぎ、居間と台所の間に立っているレイにそれを渡した。頷き、昨日と同じ場所にクッションを置くレイの後ろ姿に、自分の気持ちを自覚したが、気づかないフリをして、支度をはじめた。一人しか作る必要がないと思っていたので、用意するのは素麺と焼き茄子くらいのものだから、時間はかからない。昨日の半分の時間で準備が終わった。声をかけると頷くレイの仕草一つ一つが目に入り、胸の内を刺激する。

(綾波はもういないんだから、いくら僕が想ったって……)
 そんなものは何にもなりゃしないんだ。

「ごほっ!」
 そうめんをすするレイが咳き込んだ。
「大丈夫!?」
 むせて、咳き込む彼女に慌てて麦茶を渡してあげた。
 だが、これも自分の知っている彼女へのやさしさにはならないのだ。
 簡単な食事なので、十分程度で終わった。これも、昨日の半分くらいの時間だった。皿を重ねて流しに運ぶと、レイもそれに倣った。
「ありがとう」
 目を合わせて礼を言う勇気もなかった。昨日とちがって、シンジはすぐに皿洗いをはじめることにした。レイと向き合っている時間は短いほうがいい。
 彼女を見つめていたこの心は、今や衝動へと変わりつつあった。欲望だらけ、と言ってもいいのかもしれない。いっそ、壊してしまおうか――という。だが、


(この先も、綾波を好きなままでいたいんだ)


 背後で立ち上がる気配を見せたレイへの、確かな想いだった。ここにきて――失ったと思っていたものが戻ってきて、ところがそれはまったく別のものだとわかって、ようやく掴んだ自分の心だった。
「帰るわ」
 泡だらけの手を洗い、振り返ったシンジに言うレイ。わずかな間見つめあったが、すぐに廊下へ出ていった。シンジはエプロンを脱ぎ捨て、レイを追う。
 板の間から、靴を履くレイを見下ろした。彼女が片方まで靴を履いたところで、動きを止める。昨日シンジが彼女を抱きしめたタイミングで。それがシンジに昨日体中で感じた体温を思い出させた。



(帰りたくない、って言ってよ――)



 風邪をひいた、いつかみたいに。



 心が張り裂けそうだった。



(前の綾波に戻ってよ)



 もうあと五分もすれば、彼女がここにいた、という面影すら消えてしまう。



(一緒にいたことは、全部覚えていたいんだ。綾波が前の綾波じゃなくても。この二日間を、夢みたいな形で終わらせたくないんだ)



「わたし――日記を書いてたわ」
 レイの唐突な言葉に我に帰ったシンジは、振り返ったレイと目を合わせた。さっきまでなら逸らしてしまうところだ。

「碇くんからもらった日記、毎日つけてた」

「それは、覚えててくれたんだ」
 急にホッとしたシンジに、レイがつけ加える。「いいえ」

「日記にそう書いてあったわ。わたしは――知らなかった」

「そう……」

「ほとんど、短い文で終わってた。訓練と学校生活を繰り返す毎日で。でも、何日かは、沢山書いてあった。それは、全部…………碇くんのことだった」
 シンジは一度は伏せた目を、またレイに合わせた。

「わたしは知らない、覚えてないけど、前のわたしは碇くんのこと、想ってたわ」

「え……?」

「わたしにはわからない。そう思っていた。それは理解できたけど……わたしには、その気持ちがどういうものなのか、わからない」
 もう片方の靴も履いたレイが目を伏せた。ひどく申し訳なさそうな表情をする彼女は、二人目の彼女と同じに思えた。


(綾波、なのか?)


「……昨日、碇くんに抱きしめられたことを思いだすと鼓動が早くなるの。その気持ちも、今帰ろうとしている気持ちもなんなのか、わたしには、まだわからない。でも――」
 顔を上げ、胸に手を当てるレイ。






「それがなにか、知りたい」






「でも、どうしたらいいのかも、わからないの……」







 彼女は勇気を出して言ってくれたのだろう。自分の気持ちも、なにもわからないのにきちんと自分の気持ちを伝えてくれた。
 だから、それに答えなくてはいけない。
 ダンボールのように、あるいは飴細工のようにヤワな心を奮い立たせ、笑ってみせた。

(心が張り裂けそうだけど――)



「また会おうよ」



 だって、この二日間を、夢みたいには終わらせられないよ。



 手をさしだした。今の自分にとれる態度はこれが精一杯だと思った。抱きしめる資格は、今はない。



「……うん」



 レイもまた、手を出す。



 交わされた握手が、温もりを伝えた。





















 次の日。
 前日、明け方まで起きていたレイは、昼過ぎに目を覚ました。昨日は何度も何度も日記を読み返した。そうすれば、何故か覚えていない記憶が、蘇るような気がしたからだ。食事をとり、シャワーを浴びると再び日記を読み返す。
 日が沈むころになって、思い立った彼女はベッドから上半身だけ体を起こし、脇のイスに置いてあったカバンからペンケースを取り出す。日記帳を膝の上に置いて、ボールペンを手に取った。






 はじめて途切れさせてしまった日々が、字で埋まっていった。






























 



 一方その頃。



 碇シンジは、風に乗って聞こえてきた場違いな鼻歌に首を巡らした。
 何メートルか先にある、首と片翼のもげた天使像にの背に乗る少年の姿を認めた。それは湖に半分沈んでいるので、どうやってそこに登ったのか不思議に思ったところで、歌が止まった。
 少年はすでにシンジに気づいていたのだろう、シンジの方を振り向きもせずに言った。



「歌はいいね」

「え?」

「歌は心を潤してくれる。リリンの生んだ文化の極みだよ。そう感じないかい?」



 少年はそこでようやくシンジに振り返り、赤い眼を細め、微笑んだ。



「…………碇シンジ君」
























To be continued by 「The Begining and End or "Knockin'on Heaven's door"」






























あとがき

どうも、ののです。
大変お待たせしました。ってもうみんな忘れちゃってるか。当たり前ですよね。
当たり前だな。淋しいな。果実はパインだな。音楽はロックだな。変なテンションだな。

はい、というわけでね、「Couple Days」です。
さんざんほったらかしにしてたけど、最近「そろそろヤバいな」と、自覚しまして。
ケツに火ぃついてんぞ!みたいなね。
そんなわけで先週のはじめから急いで取りかかりまして、ようやくの御披露目です。

えー、一応解説しておきますと、この話は「世界は燃えている」直後です。
大ヘコみなシンちゃんと、オノレをわかってない綾波さんの話。
それだけ書くので精一杯。相変わらずの技量と器です、はい。
なのに、ゲンドウとかミサトとかがしゃしゃり出てくるもんだから。
もう、途端にやる気なくすね(何様)。
「お前らそんな出番あったのかよ!」みたいなね。
でも、書く速度はあの人たちのほうが主役二人より早いのよ、これが。
主役二人のやりとりはまさに牛歩。中々進まない。
先が見えない。
イライラする。
飽きてくる(おい)。
他のSSに逃げたくなる(おいおい)。
とまあ、そういうお決まりの思考ルーチンがあるんですが、今回は短期決戦。
書きだしてからは早かったです。
そこに行き着くまでが遅いので、困ったもんですが。

で、次の「Diary」でこの「日記シリーズ」は終わりです。
時系列としては「YOU ARE MY STAR」以前、日記をプレゼントしあう話です。それでおしまい。
つまり、「Couple Days」の先はないです。
カヲル君、出てきたけど。出しちゃったけど。予定外に出してしまいましたけれども。
「ここで終わりかよ!」って思った人もいると思うけど。
「ようやく終わりだよ!」って思った人もいるのか。いるんだろうな。
「時間の無駄だよ!」って。厳しいけどこれも現実だね。

ネタはあるんですけどね。書ききっていいのかな、と悩みまして。
その結果「幸せもよし、劇場版の結末でもよし」という結論に。

要望が多ければ、「Diary」の後に「Let it snow! Let it snow! Let it snow!」を書こうかな。
元々書くつもりだった話です。今までほどには長い話ではないと思うけど。
どういう話かは秘密。

では、長々つきあっていただいてありがとうございました。
前回大変ご好評だったコーナー
「感想くれたら次回作の投稿場所教えちゃうわ」
は今回も実施します(するのかよ)。
次回作の投稿先を知りたい方はお気軽に感想書いてくださいね。
セコいなあ、うん、セコい。こういう奴は長い目で見ると失敗するタイプだ。ザ・自己分析。


では、また。


ちなみに。
今までのタイトルはすべてTRIXERATOPSという邦楽ロックバンドのタイトルそのままです。
YOU ARE MY STAR→野宮真貴への提供曲
FEVER→2nd Album
世界は燃えている→未収録曲
Couple Days→5th Album
てな具合に。


では。

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