授業の終りが遅くなって、そのせいで校舎を出る頃には辺りは薄暗くなりかけていた。
教科書で重くなった鞄を抱えて、わたしは古びた煉瓦づくりの階段を下って行った。
大学のキャンパスの片隅には自転車置場があり、昼間はずらりと自転車とバイクが列をなしてならんでいるが、今はもう夕方。歯のかけたくしのようにぽつぽつとしか残っていない。それらは何時もより少し長い影をひいて、不思議な幾何学模様を織りなしていた。
夏の近い夕暮れ。
昼間の熱気がかすかに残っているけれど、いやそうだからこそ、かすかに吹く風が心地よい。
並んだなかの一台のミニバイクにわたしは近寄った。
丸いパーツを多用した、小さくてかわいらしいバイク。
去年からの、わたしの相棒。どこへ行くにも一緒の仲間。
メタリックな質感を生かした装飾に、夕日が映っていて、なかなかきれいに見える。念を入れて洗車をした甲斐があるというものだ。
鞄を前かごに放り込んだ。
シートのしたからヘルメットを出して、かぶる。
彼はもう待ち合わせ場所で待っているかな。
ヘルメットの顎紐を結びながらそう思った。
待たせると、悪いな。
いつも待ち合わせの時、彼は約束の時間より早めに来る。
わたしを待っていてくれる。
大学の友人達が言うには、男は待たせなければならない物らしい。
10分遅れて行くのは、女の子のセオリーらしい。
待ち合わせ場所に時間より早め、あるいは時間ぴったりに着きそうになったら、無理に時間を潰してでも、這いつくばってでも、遅れて行く物らしい。
わたしの知らなかった知識。
新鮮な驚き。
けれども、セオリー通りにするのも、難しいもの。
待たせちゃ悪いな。
そんな思いがどうしてもわたしを時間通りに待ち合わせ場所に運んで行ってしまう。
だから、わたしなりの、妥協点。
5分遅れで行く。
これがわたしのセオリー。
もっとも、セオリーより早めに着いてしまうことの方が多いのだけれど。
ミニバイクの座席にまたがって、スイッチを入れる。
アクセルレバーを軽く回すと、ぷるるると、今日も快調なモーターの音。
相棒、今日も元気だね。
スタンドを引っ込め、ライトをつけて、走りはじめた。
もう、まばらになった学生の影。
遠くから合唱練習か、それとも演劇部かな。「あえいうえおあお」の声が聞こえてくる。奇妙な響きだけれど、しょっちゅう聞いているうちにそれほど気にならなくなって来た。
広いキャンパス内の通路の両側に植えられたプラタナスが赤い夕日とコントラストを生み出しながら両手を広げている。
その間を抜けて、わたしは大学を出た。
Written by Symei
郊外にあるキャンパスの、周辺の道路は人通りも少なく、快適にバイクを走らせることができる。
だからと言ってスピードを出しすぎるのは危ない。そう言っていつも彼に怒られてしまう。
わたしは少々スピードを出した所で平気なんだけれど、彼に「そんなことをして、事故を起こして怪我でもしたらどうするんだ」と、恐い顔で、こんこんと諭されては「もうしません」と約束するしかない。
本当は、例えば今みたいな彼の目の届かない所で、少々スピードを出したところで彼にばれはしない。
そう思うけれど、ここでスピードを出しては、もうしないと約束した彼に嘘をついてしまうことになるから、ぐっと我慢する。
約束って、相手が見ていないところでも有効なんだよね。
法定速度をはるかに下回って、ゆっくりした運転でわたしは丘を下ってゆく道をたどってゆく。
キャンパスを抜けてしばらく、長い橋を渡る。
スピードを落してそっと横を見る。ずっと下の水面にきらきらと波が踊って見えた。
川面を渡って谷を抜けてゆく風の、匂いがした。
この橋はわたしが通学に使う道で一番気に入っている場所だ。
時には、橋の真ん中でバイクを止めて、下をゆく水をぼうっと眺めていることもある。
流れて行く水を見ていると、悩んでいること、考えていること、わだかまり、そんな物全ても一緒に流れて行くような気になるから。
今、わたしは遺伝子工学の勉強をしている。
自分のことを、もっと知りたいから。
わたしは自然の力によってこの世に生まれて来なかった。
そのことは事実であって、どうやっても変えることはできない。
そうは思っても、時々、悲しくなることがある。
どうしてわたしは生まれて来たんだろうかと。
生まれて来ることを選べないという点では、もちろん、普通の人達だって同じだ。
誰だって、自分がこんな風に生まれたいという願いの通り生まれて来る訳ではない。
自分の出生に、何らかの不幸を抱えた人だって、たくさんいる。
けれど、講義を聞いていて、ふと考えてしまうことがある。
ああ、わたしってこんなもので生まれて来たんだなと。自然の摂理に反して。
一人の人間として望まれて、生まれて来たのではないということ。
大切に思ってくれる二人がいて、生まれて来たのではないということ。
それは、何よりも悲しい事実。
遺伝子工学の技術のめざましい進歩。
それは、これから先、わたしと同じような悩みをもつ、女の子や男の子が増えて行くことを意味するのだろうか。
できれば、そうであって欲しくない。
そんなことで泣くのは、わたしが最後で、いい。
そんな風に悩んだ時、わたしはここでぼうっと川面を見つめている。
ただ、橋の欄干につかまったままで。
心の中の嵐が、おさまるまで。
わたしが遺伝子工学の勉強を始めると言った時、彼はあまり賛成してくれなかった。
無理をしてるんじゃないかと言って。
わざわざそんなことしなくったって、いいじゃないかと言って。
つらくなるだけなんだからと言って。
でも、わたしは知りたかった。
どうしてわたしは生まれて来たのか。
どうやって、わたしは生まれて来たのか。
自分を知ると言うこと。
それはきっと、今の自分の座標を掴む上で、欠かせない事だと思うから。
だから、わたしは逃げたくなかった。
自分は自分だと、ありのままのわたしを肯定するためにも。
今のわたしを、肯定するためにも。
彼と一緒に歩んで来た、今日までの道のりを肯定するためにも。
今では、わたしは遺伝子工学を学ぶ道を選んで良かったと思っている。
自分の選択に満足している。
少々辛い事があっても、平気。
それに、なにより、彼がいる。
自分には背負いきれないものがあるとき、一番頼りになる人がいる。
これ以上望んでもいいことが、わたしには一体、あるだろうか。
橋を過ぎると、道は緩やかなカーブを描きながら左へと曲がってゆく。
モーター音は快調そのもの。
周りの風景が後ろに流れてゆく。
この坂を下れば、もうすぐ街に入る。
落ちてゆく夕日をまぶしく思いながら、わたしは長い坂道を下っていった。
ゆっくり来たつもりだったのに、待ち合わせ場所についた時は、約束の時間よりも少し早かった。
駅前広場の手前でバイクを降りると、モーターを切って、両手で押して行く。
通勤帰りの人達が駅に向かって流れてゆく、その流れにのって、駅前の広場へと向かった。
広場の真ん中にある、3本のポプラ。
その根本にいる彼を見付けた。
ポケットに手をいれて、上半身をポプラの幹に預けている。
まだかな、と言うように、時折目線がもう一つの広場の入口へと向いている。
いつもより、そわそわしているのかな。
わたしは彼にすぐ気がついたのに、彼はまだわたしに気が付かない。
なんだか、不公平。
その瞬間、ひらめいた。
そうだ、いたずらして見よう。
わたしはミニバイクを、広場の端の公衆電話の脇に停めた。いま、電話をかけている間、バイクを置いています、とでも言うように。
そして、そのミニバイクの蔭に身を潜めた。
しばらく、彼を観察してみよう。
わたしを待っている間、彼はどんな行動を取っているのだろうか。
興味があった。
普段見ることの無い、彼の姿。
知りたいと思った。
彼は、相変わらずそわそわと、視線を辺りに漂わせていた。
神経質、というのとはまた違うのだけれど、落ち着かない、そんな感じ。
広場に向かう通りは3つある。
その3つの全てに等しく、彼は目を向ける。
本当の所、わたしがここに来る時に使うのは大体、そのうちの彼から見て右端にあたる1本がそうで、あとの道はほとんど使う事は無い。実際、今日もそうだ。
だというのに、どの道にも等しく気を配るのが、なんとも彼らしいと言えた。
彼は靴の爪先で、とんとんと地面を叩く。
あ、そういえば、手持ちぶさたな時、やっているのを見掛けるな。
そうか、彼、待ち合わせの時もあんな風にしているんだ。
知らなかった。
広場の街灯に灯が点いた。ぽうっと暖かな光が広場を包む。
彼が時計を見た。
わたしも慌てて時計を見る。
今は、待ち合わせ時間ちょうどくらい。
いつもだと、もうそろそろ現れるかな、と言った所だろう。
以前、彼に一度、もう少し遅く待ち合わせ場所に来てもいいんじゃないかと言って見た事がある。
彼の答えは、「待っている時間も好きだから」、だった。
そして、「待っている人の事を好きな自分が、実感できから」、だった。
そんなことを、ふと思い出した。
彼は、いま、どんな気持で、そわそわした感覚を楽しんでいるのだろうか。
どんな風に、わたしのことを思っていてくれているのだろうか。
デニムのシャツを着た彼の姿は、広場にいる人達の中に完全に融け込んでいた。
夕暮れ時の家路を急ぐ人達、これから遊びに行く人達、そんな人達の間に紛れ込んで、目立つことも無い。
どこにでもいる、ごく普通の、待ち合わせをしている男の人。
でも、わたしにとっては、たった一人の、人。
かけがえの無い、人。
どうして、彼はそんな存在になったのだろうか。
今、こうして見ただけでは、多分誰にも分からないだろう。
ポプラの木の下、待ちぼうけを食らわされている青年が、バイクの蔭から見つめているわたしにとって、何よりも大切な存在だという事なんて。
もっとも、それは誰にとっても言える事だ。
例えば、今、彼の側を通り抜けて行った、上から下まで黒一色でそろえて、指輪や銀の鎖、ブレスレットでかためた青年が、この街のどこか、あるいはこの地球上のどこかにいる、一人の女性にとって、なにより大切な人かもしれない。
それは、わたしの目には分からない。
誰の目にも、分からないだろう。でも、それは、はっきりと確かな事実。たとえ本人たち以外には理解できなくとも。
そう思えば、今わたしの目の前にいる人達にも、それぞれ一人一人誰かしら、大切に思う人、大切に思ってくれる人がいるのかもしれない。
この広い地球の上、偶然の力を借りて、お互いを見つけ出して。
わたしにとって、そんな存在が、彼だった。
ただ、それだけのこと。
ただそれだけで、でも、わたしにとっては何より重大なこと。
以前のわたしを知っている人がいたら、驚くだろうなと思う。
わたしは、変わった。
わたしを人間にしたのは、彼だった。
もちろん、本当の意味では人間とは違うかも知れない。少なくとも、外見はちょっと普通の人とは違っている。
でも、彼はわたしを人間として扱ってくれた、そして愛してくれた。
だから、わたしは人間になる事ができた。
彼がいなかったら、今ごろどうなっていただろうか。
そんな風にわたしが感傷にひたっているうちに、女子高生とおぼしき若い、制服の女の子が二人、彼の方に近寄って行くのが見えた。
嫌な予感がした。あれ、ひょっとしてナンパかしら。
まあ、仮にそうだとしても、大丈夫よね。まさか、彼が引っかかることはないよね。
そう、自分に言い聞かせた。そして、左手で震える右手をぎゅっと握った。
そうでもしないと、自分が飛び出して行ってしまって、話がややこしくなりそうな気がしたから。
彼が二人に気付いたようだ。
二人は臆することなく、そのまま彼に近付いてゆく。彼の顔がちょっと緊張するのが見えた。
二人の女の子は彼に話しかけている。
さすがにわたしのいる所にまで声は届かない。どんなことを話しているのか、分からない。
だから、表情や身ぶりでどんな話をしているのか判断するしかない。
もっとも、聞こえなくとも、だいたい分かるような気がするけれど。
そう思った次の瞬間、彼の顔がだらしなく伸びた。これ以上ふやけようの無い、そんな顔。
許せない。
その彼の表情を見た瞬間、わたしの中で火が付いた。燃え上がって、炎になった。
今日の食事代の払いは全て彼と、わたしは固く心に刻んだ。
だが、やがて彼は二人にすまなそうな表情をして、二言、三言話しかけた。二人もそれを聞いて諦めたようで、彼に手を振りながら去って行った。
わたしはほっとした。
律義に手を振り返している彼のまぬけ面は許せなかったけれど。
それから後は、彼は広場に至る道と腕の時計との間を視線を往復させ、あいかわらずこつこつと爪先で地面を叩き、そうしているうちに10分くらいがすぐに過ぎた。
そろそろ、飽きて来た。
どうやって、彼の前に姿を現そうか。
そのタイミングを、計っているちょうどその時だった。
目が、あった。
しまった、そう思って首を引っ込める。でも、もう遅い。
びっくりしたような彼の表情が収まると、にや、と笑って彼がわたしの方に近付いて来る。
わたしは、もう、どうしようもなくて、愛想笑いを浮かべながら彼が近付いて来るのを待った。
彼が、わたしの目の前で止まる。
「やあ」
あくまでも笑顔を浮かべて、かれはそうわたしに言った。
「あ、あの」
「面白いことしてるんだね」
彼に言われて、改めて自分の恰好に気付いた。ヘルメットを被ったまま、停めたバイクの側でしゃがみ込んで、その小さな車体の蔭に隠れようとしている女の子。確かに奇妙でしか無い。
い、今来たところだから」
舌をもつれさせながら、わたしは彼に答えた。
そして、しまったと思った。余計なこと、言ったような気がする。
「……ひょっとして、結構前からそこにいたの?」
まさかね、という表情になりながら、彼はそうわたしに尋ねた。
「そんなこと無いわ。来たばっかりよ」
わざわざそんなことを言うわたしに、彼は大体のことを察してしまったようだ。妙に自信ありげな様子で、彼はわたしに向かった。
「そうだろうね、もう約束の時間は過ぎちゃっているし、まさかそんなところでゆっくりしていた訳は無いよね」
「ええもちろん、その通りよ。なにかおかしいこと、ある」
「いや、別におかしくは無いんだけどね、でも」
「でも、なにかしら?」
「顔に書いてあるよ」
「えっ」
それから、彼はわざとらしくため息をついた。
「まさか、ずっとそこで見てたの」
「え、そんなこと無いわよ」
「ごまかしたって駄目だってば」
「いや、ごまかすも何も」
「あのね、気が付いてないかも知れないけどね、嘘付くと必ずほら、手を鼻に持って行く癖があるから、僕にはすぐ分かるんだよ」
しまった、そんな癖があったのか。彼に言われるまで、全く自分では意識していなかった。
彼は嘘がつけない。
嘘をつくと、嘘をついていると言うことを隠そうと妙に努力するから、その努力が表情に現れてしまって、逆に嘘をついていることが分かってしまう。
本当に素直な人だなぁと呆れ半分に思っていたのだけれども、何のことは無い。わたしも彼に筒抜けだったとは。
人には良く、わたしの表情は読みにくいと言われる。人によっては、表情が無いとすら言う。
けれども、彼はわたしの表情をいとも簡単に読んでしまう。
それは、今日までの長い時間をかけて、彼と二人、歩いて行く中でお互いが身につけて来た能力。
分かってくれる人がいる、知ってくれる人がいる。
そのことは幸せな気分にわたしを浸す。
けれど、それはそれ、これはこれ。
わたしは反撃に出ることにした。
「そんな、わたし、あなたが若い女の子に声をかけられて喜んでいたことなんて、全然知らないし」
わたしがそう言うと、彼は喉の奥でうっという変な音をたてた。
「え、見てたの」
慌てた表情の彼。わたしはわざと澄ましてみせた。
「ええ、かなり締まりの無い、でろっと崩れそうな顔をしていたことなんて、わたし、知らないわ」
「あ、あれはさ、何でもないんだよ」
かなりあせって彼が言う。
「そう、何でもないことなのね。しょっちゅうある事だから」
「いや、あのさ、その……ごめん」
しどろもどろになりながら、彼はそう言って謝った。
「認めるのね」
「いや、しかし、まあさ、不可抗力だし」
「鼻の下を伸ばしていたのも、そうなの」
「そんなこと無かったってば。それに、第一、誘いには乗らなかったじゃないか」
「乗ってたら、あなた、今ごろどうなっていたと思う?」
「……はい」
「分かればよろしい。今日はあなたのおごりね」
せいぜい重々しく、わたしはそう彼に告げた。
彼は、ため息をついた。
「月末だし、けっこう厳しいんだけどな」
「可哀想だから、フレンチのフルコースにしてあげるわ」
「オニ」
それから私達はどちらからともなく笑いだした。
彼は、ごく自然にわたしのミニバイクのハンドルを持ち、スタンドを降ろすと
「じゃあ、行こうか」
と言って、バイクを押しながら歩き始めた。
わたしはヘルメットを左手に持ち、右手を彼の左肘にかけるようにしながら、一緒に歩く。
残照と街灯の明かりが組み合わさって、暖かい色の光が歩道を染め上げる。
その中を彼と歩いていくわたしは、調査対象に見つかった間抜けな、でも幸せなスパイだった。
~fin~
あとがき:
綾波展開催、おめでとう御座います。スタッフの皆様、お疲れ様です。
また、このたびは拙作「ささやかで、大それた望み」を掲載して頂き、有り難う御座います。
初めまして、あるいはお久しぶりです。Symeiです。
ああ、またやってしまった、と言いたくなる大甘のSSですが、まあ、大目に見てやってください。
私は世間で言うところのアヤナミストというわけではありませんが、綾波展のご成功を心よりお祈り申し上げます。
お読みくださいまして有り難うございました。それでは失礼いたします。
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