それが幻でも

written by tamb


 深夜一時過ぎ。
 僕は明かりの消えた、誰も待つことのない部屋に帰る。
 スーツを脱ぎ捨て、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。そのまま寝室のベッドに腰をおろし、プルトップを開けて一口。
 毎日毎日、ぼろきれのようになって働く。上司に怒鳴られ、怒鳴り返す。部下を怒鳴りつけ、怒鳴り返される。客先で嫌味を言われ、やんわりと脅し返す。部下にたしなめられる。
 毎日、同じことの繰り返し。同じような日々が果てしなく続く。それでも僕は働く。いったい何のために?

 僕は一人の少女の事を想う。綾波レイ。彼女の事を、いったい何人の人間が憶えているだろうか。
 綾波レイ。
 彼女が肉体を失った瞬間、何を考えていたのだろうか。何を願ったのか。生きたいと、願ったのだろうか。
 君が肉体の死を選んだ時。

 ビールをもう一口。
 明日も朝は早い。眠らなければ、起きるのが辛い。寝坊すれば、遅刻だ。
 だからなんだっていうんだ? 遅刻して、上司に嫌味を言われ、やがてくびになるかもしれない。解雇。
 それがどうした?

 それでも僕は眠った。明日のために。生きて行くために。


 中学時代の友人が、不意に死んだ。

 奴から電話をもらったのは、半年ほど前の事だった。

「入院してるんだ」

 底抜けに明るい声で、奴は絶望的な病名を告げた。僕は絶句するしかなかった。

「今はまだ、死ぬわけにはいかないんだよ」

 僕はその時、どんな話をしたのか覚えていない。奴は希望はあると言って、電話を切った。
 迷った末、見舞いには行かなかった。奴が死ぬわけはないと本当に信じていた事、無菌室に入っていた事、そして、人一倍元気だった奴の弱った姿を見たくないというのが理由だった。
 言い訳に過ぎない。

 五ヶ月ほど経った頃だろうか、また奴から電話があった。
 退院した。酒も飲めるしタバコも吸える。遊びに来いよ。飯でも食おうぜ。
 丁度、極端に忙しい時期に入っていた僕は、一ヵ月後の約束をして電話を切った。

 来週、会うはずだった。

 告別式の日、奴を含めて三人でつるんでいた、もう一人の友人に会った。連絡したのは僕だ。

「あいつと最後に会ったの、いつだ?」
「おまえとあいつと、三人で飲んだときだよ」

 彼が問い、僕が答える。

「見舞い、行かなかったんだな」
「ああ」

 無言で出棺を見送る。他に何か出来る事があるのか。涙でも流せばいいというのか。

 僕たちは街に出て、酒を飲んだ。

「あいつといっしょに」

 彼が不意に言う。

「これからも生きていけるのかな」
「…」

 僕は答えることが出来ない。涙がこぼれそうになり、必死にこらえた。奴に笑われそうな気がした。

「きっと」
「…」
「大丈夫だ。生きていけるさ」

 何の根拠もない。

 僕の声がうるんでいた事に、彼は気づいただろうか。

 綾波レイ。
 君は、たくさんの人が死んでゆくのを見ていたはずだ。その時、君は何を思ったのかな。
 奴が死んだとき、君はそばにいたのかな。

 いくら飲んでも酔えないという事が本当にあるのだと、思い知らされた。
 朝八時、行きつけのバーで閉店させてくれと告げられ、僕たちは行き場を失った。

 再開を約束する事もなく、別々のタクシーに乗り込んだ。

 また日常が始まる。

 僕は霊魂の存在を信じていない。塵から生まれたものは、塵に還る。
 それでも、奴は会いにくるように思えた。素面では会えない。僕は毎晩、それこそ浴びるほど飲んだ。二日酔いのような状態で仕事をし、帰ってきてまた飲んだ。正確には酔ってはいなかった。ただ飲んでいただけだ。

 十日目、僕はホームで血を吐いて救急車の世話になった。奴は会いに来なかった。

 病室に彼が来た。

「なぁ」
「…」
「あいつといっしょに生きていくって、言ったろ?」
「すまん」

 殴って欲しかった。しかし、彼は気弱な笑顔を浮かべるだけだった。

「頼むよ」
「分かった」

 何を話すでもなく、面会時間が終わると彼は帰っていった。

 僕の病状は大した事はなく、翌日には退院になった。

 会社に電話をし、十日間の有給を申請した。いつもなら何かと文句を言う上司が、あっさりと許可をくれた。

 十日後には僕の居場所はないかもしれないが、かまうものか。


 僕はしばらく乗っていなかったバイクに、寝袋とガソリンストーブとコーヒーとバーボンと、わずかばかりの着替えを積んで走り出した。十日後に帰ってくれば、それでいい。

 数日で、どこを走っているのか分からなくなっていた。それは問題じゃない。

 もう何日たったかも分からないある日の夕刻近く。雲行きが怪しくなっていた。濡れて走るのも悪くはないが、今は気分じゃない。それに、もう疲れた。
 田舎道の脇に、おあつらえむきのバス停を見つけた。屋根つきの待合所がある。バイクを停めてみると、肝心の停留所がない。廃線になったのだろうが、それなら余計に好都合だ。今日はここで眠ってしまおう。

 荷物を降ろして待合所に入ると、とたんに雨が降り出した。僕はベンチに座って大きく息をつき、荷物からガソリンストーブを取り出して、コーヒーをいれるためにペットボトルの水を沸かしはじめる。

 彼女が待合所に入ってきたのは、コーヒーを一口飲んだときだった。

 綾波レイ。

 彼女は傘をたたむと、無言で僕の隣に腰掛けた。
 僕は彼女を見つめたまま、言葉を発する事ができない。

「ひとくち、もらえますか?」

 不意に彼女が、紅い瞳を僕に向けて言う。

「あ、ああ。カップが一つしかないけど…」

 差し出したカップを受け取り、彼女は口をつけた。

「おいしいです」

 彼女が、ほんのかすかに、笑ったように思えた。
 僕が黙ってうなずくと、彼女はもう一口飲んで、カップを戻した。

「雨って、素敵ですよね」

 長い沈黙の後、彼女が口を開く。

「どうして?」
「優しい気持ちに…なれるから…」
「そう…だね」

 僕たちは黙って雨を見つめる。もうすっかり暗くなり、街灯が雨粒を照らしている。

「本当に泣きたいときは」

 どれくらい経ったのだろうか、不意に彼女が言う。
 僕は彼女を見た。彼女は限りなく優しい瞳で僕を見つめている。

「泣いても、いいの」
「いいの…かな」
「うん」
「…本当に?」
「本当よ」

 僕は子供のように泣いた。彼女は僕を優しく抱きとめ、それから膝枕をしてくれた。彼女に髪をやさしく撫でられながら、僕はいつまでも泣きつづけた。

 あたしは、いつでもあなたといっしょにいる。あなたには気づかれないように。きっと、あなたの大事なあの人もそう。

 そんな声を聞いたような気がした。

 いつのまにか眠ってしまったようだ。気がつくと雨はすっかり上がり、空には満天の星だった。彼女の姿はない。

 彼女が本当は幻だったとして、それが僕にとって何の意味があるというのだろうか。その時の僕にとっては、確かに彼女がいたのだから。

 翌朝、僕は自分の街に戻った。

 仕事の帰り、街を歩く彼女を見た。とても幸せそうな笑顔。隣には中性的とも思える少年の姿があった。

 彼女は彼女で幸せに生きている。

 僕も生きていけるかもしれないと、そう思った。


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