風船

Written by うらかみ

Version 1.0 Appeared on October 12,2000

 熱い。

 本の活字を追う意識が、右頬と右腕の熱さにとられた。

 公園のベンチの木陰は、西に傾きかけた陽射しで場所を変えてしまっていた。

 左側にはまだ二人分の余裕があったので、私は立ち上がり一番端に座り直すと再び活字の先を追う。

 そして二行もいかないうちに、また意識が別のものにとられた。

 子供のはしゃいだ笑い声。

 本から顔を上げると、オレンジ色の風船を持った男の子が母親の手をひいて歩いている。

 風が吹くたび風船は揺れて、そのたびに男の子は風船を引っ張り、嬉しそうに笑う。

 それを見た母親も、笑う。

 笑う。嬉しいから、笑う。

 空気が流れて、風になる瞬間は好き。そんな事を思う時もあるけれど、私はそれで笑ったりはしない。

 私は誰かに笑いかけたこともないし、一人で笑ったこともない。

 私達から私になって、私にとっての他の人は、あの人と赤木博士と冬月副司令と数人の研究員達。

 笑うどころか、話しすらあまりしたことがないまま、私は何年もあの部屋で過ごしてきた。

 私に向って微笑んだ人は二人だけ。赤木博士とあの人。

 でも、赤木博士は私にあまり話しかけなくなった。私に向かって、笑わなくなった。

 いつからだろう?

 最初は、初めて会った頃は、私が今の私になったばかりの頃は、いろいろ話しかけてきた。

 レイちゃん、こんにちは。

 はじめまして。

 違うわ。一度、会ったことがあるのよ?やっぱり憶えていない?

 そう言って、確かに赤木博士は微笑んだ。

 それがいつからか、笑わなくなった。

 どうしてかはわからない。

 赤木博士には、私も必要な事だけを話す。

 シンクロテストの時、名前を呼ばれた時、返事をしたり、イエス・ノーを答えたり。それは言葉というよりも、合図のようなもの。

 体調の不良や心のざわめきは、表情にしなくても、言葉にしなくても、LCLが満たされた円柱型の水槽の中ですべてが読み取られ、MAGIに伝えられ、モニターを通して赤木博士に通わる。

 あの人は変わらない。もともとあまり話さない。ただ穏やかな瞳で私を見て、あまり必要とは思えない事を一言二言、話すだけ。

 あの人は、あまり意味のない話をする。だから私も、合図というよりは、意味のない言葉を返す。

 体の調子はどうだ?

 問題ありません。

 でも、どうしてだろう。それは、意味のないそれは、少しだけ胸のあたりに柔らかな感触を残していく。

 また活字に目を戻した。

 主人公が好きな人に素直になれなくて、「心にもないこと」を相手に言ってしまって後悔するところの続き。

 最初、この、こころ、というものがよく解らなかった。

 言葉にしない心とか感情とかいうものと、言葉に出すものの区別がよくつかなかった。

 LCLの中では、感情を言葉にする必要も、表情に出して伝える必要もなかった。

 私の話し相手は私だけで、私は思ったことを人に伝える必要はなかった。

 だから、他の人間には声に出して表情に出して伝えないと、伝わらないのだと知った時は、不思議な気持になった。

 自分の、今こうして思っている自分の考えは自分だけのもので、誰にも読み取ることはできないのだということが、みんな、私以外の人もみんな、同じように声に出さない誰にも解らない、見ることも触わることも出来ない、このようなもう一人の自分を、自分の中に持っているのだということが、とても不思議な気がした。

 それまでの私は、心の中の自分と、外に向かう自分は、同じだった。LCLの中で一緒にいた他の私達は、私だった。

 いまだに慣れない。

 言葉はなんとか、できる。でも表情は上手くできない。

 言葉は心の声に似ている。それをそのまま言うだけですむ。

 でも表情は、表情に変換しなくてはいけない。それがよくわからない。

 そんなことを適当な言葉にしたら、赤木博士が本を薦めてくれた。

 本は解りやすかった。

 本は心の声と、表に出る話し言葉がちゃんと区別されているから。

 本を読んで私は、人は思ったことをそのまま声に出すものじゃないと知った。

 言葉で心の中を表現するのは、時にとても難しいものであるらしいことも知った。

 表情は、言葉より嘘がつきにくいものであるらしいことも知った。

 だから無表情は無口より嫌がられることも知った。

 赤木博士が私の前で笑わなくなったのは、私に向かって心を閉じてしまったからだというのもわかった。

 あの人が、体の調子はどうだとか、学校生活はどうだとか、報告書を読めば済むことをわざわざ聞いてくるわけも、わかった。

 でも、私は相変わらず、この心の声を、感情を、表情や口調に変換することが上手く出来ない。上手にやってのけるすべを知らない。

 破裂音が響き、私の思考は中断されて、すぐに子供のけたたましい泣き声。

 本から顔を上げると、公園の木を指差して、男の子が泣いている。

 指の先には、木にひっかっかって割れてしまった風船。風船だったオレンジ色のゴムの切れ端が、枝の間で頼りなく揺れている。

 母親のなだめる声も聞かず、子供は泣き続ける。

 割れちゃったんだから、仕方ないでしょう?また新しい風船を買ってあげるから。

 いやだ、いやだ、あれじゃなくちゃいやだ。

 風船なんてどれも同じよ。同じ色のを買ってあげるわ。

 そうじゃないよ。

 割れてしまうものなの。しかたないのよ。

 だって。

 母親の言うことに首を横にふりつづける子供。

 なぜ人は、こんなに面倒なことをするのだろう?

 心の声を外に出すのに、言葉や表情に変換するから嘘が生まれる。誤解や行き違いが生まれる。

 なぜ、心はこの体の中に閉じ込められているのだろう。LCLの中のように、心がそのまま溶けてしまえば、わざわざ体の筋肉を使う必要もないのに。

 心の中のすべてを他人に明かすのは怖いことなのだ、人には隠しておきたい気持ちもたくさんあるのだということを、これも本から学んだけれど、みんな同じように持っているのならかまわないのに。

 わからない。

 どうして知られるのを怖れるのに、知って欲しいと思うのだろう。

 本を読んでも、よくわからない。

 それはいつも、恋、とか、好き、とか、愛しているから、とかそういう言葉で片づけられていて、具体的な説明はどこにもない。

 最初は生殖行動のための、かりそめでも二つの体を融合させるための感情なのかと思ったけれど、生殖活動の対象でない人間、友人とか家族にも人は理解して欲しいのだから、それは違うのだろう。たぶん。

 まだ男の子は泣いている。

 何も変わっていないのに、ヘリウムガスは空気に溶けて、オレンジ色のゴムが小さくなって、それでも同じように存在してるのに。

 風船が割れたのか悲しいのだろうか。

 その手の中には、浮かんでいた風船の感触が残っていて、だから悲しいのだろうか。

 気持、記憶、思い出、心。

 目にみえないそれは、目にみえるものよりも時に強く存在し続ける。

 死んだあとも、愛しい人の記憶がずっと心に残り続けるように。

 あの人が、何かにずっと縛られているように。

 人が人である限り、体はいつかは滅びてしまって心をとどめておけなくなる。

 でも、誰かの心の中に残り続ける記憶は、その人をとどめつづける。

 だから人は人の心の中に、自分の記憶を自分の居場所を、少しでも多く残しておきたいと思うのだろうか?

 それが理解とか好きとかそういうものなのだろうか?

 それは幻だとわかっていても。

 誰かの心の中にいる自分は、あくまでその人にとってのイメージで、決して自分本人ではありえないのに。

 正確に心を交じり合わせることは出来ないのに。体が心を隔てている限り、完全な理解はありえないのに。

 男の子は泣きやまない。

 いつかは失うと解っているものを、なぜ手に入れようとするのだろう。

 いつかはしぼんで飛ばなくなる風船を(それもそう長い時間ではなく)なぜわざわざ手に入れるのだろう。

 それとも、しぼむ頃には飽きるからいいのだろうか。

 人が人に執着して、すべてをかけていたことがあっても、それでもいずれ忘れたり諦めたりするように。

 いつかは失うものなのに。なぜ執着するのだろう。

 人が人である限り、永遠にその手に持っていられるものなど、何一つないのに。

 ふわふわと浮かぶ風船。

 意識を包む膜。体。

 体の中に閉じ込められているもの。心。

 融合したい分かり合いたい理解したいと思いながら、薄い薄い膜で遮られた心。

 人は、風船を割ってしまいたいのだろうか。

 それとも、割らなければ決して混ざり合う事がないとわかっていながら、それでもなお求めるのだろうか。

 肉体は心の入れ物。壊れると心はそこにいられない。

 肉体は、風船が突然割れるようにいつかしぼむように必ず死が訪れて、そうしたらもう二度と、もとにはもどらない。

 脆弱な体、脆弱な精神。

 私は知ってる。全部の風船をいっぺんに割る方法。

 そうしたら、みんな一つに溶け合って、区別がつかなくなって、どこまでも広がっていく。

 そこには誤解も悲しみもなく終末の時もない。

 永遠にたゆたう存在は、別れの悲しみも喪う事の恐れも無くしたときの涙も、ない。

 でも。私はその世界を作れるけれど。

 そこでは、もう風船は浮かばない。

 やっと子供は泣き止んで、私の前から歩き出す。

 気が済んだのか、諦めたのか、泣くのに疲れたのか。

 そして、思う。

 私も、いつかあの子みたいに、涙を流す時がくるんだろうか?

 笑ったことも、泣いたこともない。

 そんな私がいつか。

 笑ったり、涙を流したりする日が。

 いつか。

 気がつくと目の前は真っ赤な世界。

 雲の間に沈んでいく太陽がこちらを見ていた。

<Fin>

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