希 望 に 至 る 病
ヤケンザン

 
はじまりは。
はじまりと言うべき物は。
 
些細な。
ありふれたような代物だったのかも知れない。
 
彼は、親に連れられ、私の前に現れた。
 
「シンジ。
レイちゃんよ、ご挨拶出来るわね?」
 
母親である人に、そう言われた幼子は、うなずき返し。
たどたどしい口調で、はじめまして、と言い。
続いて、改めて名を告げてきた。
 
私は、了解したという意味で、うなずき。
何か待つ様子の彼へ。
恐る恐ると、同じような言葉を返した。
 
初めてだった。
 
自己紹介。
私の事を、私が教える行為。
ここでは、誰もが――博士も、助手も、所長も――私の事を、私以上に知っている。
 
初めてだった。
 
人は、雄体より、雌体の方が成熟が早いと言うが。
その比例対象を得た、最初の瞬間。
 
初めてだった。
 
この狭く薄暗い世界に。窓一つ無い閉ざされた世界に。
私以外、大人しか居ない世界に。
初めて目線の会う者が闖入(ちんにゅう)してきた、一つの珍事。
 
そう私にとっては、ひどい異変で。
滅多と無い変化で。
そんな事は、その後も一度たりとも起こらなかったから…
 
それは、刻印のように、焼き付けられ。
 
――出会い。
 
しかし、彼にとっては。
ありふれた、大したことのない、
すぐに忘れてしまう…
 
そんな些末(さまつ)な出来事だったのだろうか…
 
 

『貴男は、私の事を覚えておいででしょうか?』



 
ゴウン… ゴウン… ゴウン… ゴウン…
 
遠くで、わずかに、単調な作動音。
 
エントリープラグ。
人造の子宮。
 
包容感と安堵。
まどろむような、安寧さ。
 
そこに割って入る、異物。
 
女声。
 
「レイ、久しぶりの初号機はどう?」
 
第一回機体相互互換試験。
 
深く息を吸うように、目を閉じ、探る。
この不思議な感覚の源。
 
やがて。
吐くように、つぶやく。
 
「碇君のにおい――
 
 
はじまりは。
そのはじまりは何だったんだろうか?
 
彼。
碇シンジ。
 
何故?
安らぎを?
 
探し、思い返す。
一番鮮烈な記憶。
鮮烈に焼きついた記憶。
 
 「綾波っ」 「さよならなんて――」 「笑えば――」
 
  それは、立ちこめる蒸気を吹き飛ばした、ほおをくすぐる風…
 
 
 「レイっ」 「大丈夫か…」 「そうか…」
 
  それは、力を抜き身を預けてしまう、余す所なく包み込んでくれる水…
 
 
……そう。
だから、こんなに心が落ち着くのね…?
 
 

 
 ――…綾波の匂いがする」
 
感じたまま答えて。
それ以外無いような、的確な感じがした。
 
におい。
綾波と居る時と、同じ匂い。
 
アスカや、ミサトさんの匂いとは違う。
 
もっと、飾って無くて。
素朴で、粗雑で…でも、何だか懐かしい。
しかし、どこか落ち着かなくなる。
 
そういう、におい。
 
自分は、女の子なんて苦手なのに…
 
なんでこんなに気になるんだろう…
何がこんなに気になるんだろう…
 
 
 
初めて出会った時。
あの時、ブリッジの上で会った時、
ケガ、してたから?

 
  血。苦痛の声。腕の中の、脆い存在。
  今にも壊れそうな…

 
だからかな?
だからこんなに気になるのかな?

 
 
 
ふっと、吐息を吐くように、イスに深く身を沈める。
 
 
 
いや。
もっと前に見た気がする。

 
無人の道路の上。炎天下の陽炎の中。 
 
まるで、ゴーストタウンの亡霊のような。
真夏の白昼夢のような。
白昼夢… 夢… …幻、だったのかな…?
だって、あの時にはもう、ケガして動けなかったはずだし。
一瞬目をそらした間に居なくなっていたし…

 
でも…
何か、あの時も感じた…

 
怪物が、使徒が現れて、それどころじゃなくなったけど…
 
何か、ふっと思い出しかけたような…
何か、忘れてしまっていたような物を…
 
 
そう、何かが思考の指先に触れた丁度その瞬間――
 

≪ 第三次接続、開始します ≫

 
圧倒的な五感。
 
視覚が、
聴覚が、
嗅覚が、
味覚が、
触覚が、
 
広がる。
拡張される。
 
シンクロの独特の感覚。
まどろんでいる所を引き起こされる様な感覚。
 
と、同時に。
 
(なんだ、これ…?)
 
違和感。
 
(頭の中に、何か…)
 
『何か』が。
 
(直接、入って、くる…?)
 
あるいは、引き込まれているのか。
今までに無い、明確な『感触』。
 
(零号機だから?
綾波の機体だから、何か『違う』のか?)
 
赤。青。白。
綾波、レイ?
 
「これ、綾波…? 綾波なのか?」
 
赤いモノ。赤い血。赤い瞳。
青いモノ。青い制服。青い髪。
白いモノ。白いプラグスーツ。白い肌。
 
「綾波、レイだよな?
この感じ」
 
月。青い月。2人で見上げた月。別れを告げられた時の、月。
月。欠けていくモノ。失われて形を変えるモノ。光。
かすかな光。揺れるカーテン。照らされた眼鏡。父さんの眼鏡。壊れた。
壊れかけた団地。再開発地区。部屋。廃墟。綾波の家。寂しい部屋。
どこか忘れ去られたような…。忘れた? 誰が? 何を?
わからない…ぼんやりとした感じ…血匂いのする水。
LCL。血の臭い。むせかえる程。熱い。風。光。エントリープラグ。
綾波の。初めての。一度きりの。綺麗な、綾波の…
 
「綾波? ……いや、違う?」
 
…綺麗な、綾波の…肌。
肌。白い裸?
胸。柔らかい感触。
女の子。女。柔らかい…えが…お…?
 
…………
………
 
――湾曲。
 
 
≪ 精神汚染始まってますっ ≫
 
≪ EVAからの浸食です ≫
 
 
 
 
「いやだな」
 
「また…
この天井だ」
 
 


 
わずかな気配。
一瞥(いちべつ)して、目覚めを確認。
 
「今日は寝てて。
後は、私達で処理するから」
 
そう告げて、本を閉じる。
 
「でも、もう大丈夫だよ」
 
わずかに、笑みをみせる、彼。
 
「そう……」
 
それは、自分でも冷え切ったと感じる程の、声。
 
「良かったわね?」
 
吐き捨てるようにつぶやく。
底で渦巻く、胸焼けのような感覚を。
 
ひどく、不愉快だ。
 
鞄を手に、足早に外に出る。
 
振り返える気はない。
彼が、どんな顔をしているかなんて…
知りたいとは思えない。
 
空圧式のドアの向こう。
気まずそうな、彼女。
 
その目が、こちらを追うのが、気配で分かる。
そこに映る、自分の横顔。
 
それは、一体どんな感情を宿す事ができているのか?
あるいは、いつもと変わらぬ無表情が張り付いているのか?
 
それは、少し、気になった。
 
 

 
…その、半日前…
 
説明を受け、控え室に戻る。
葛城三佐の指示。
 
――休める内に、休んでおきなさい…
 
指示に従い、身体を休める事にする。
 
密着性の高いプラグスーツを脱ぎ、楽な姿勢で身を休める。
軽食・排泄もすませる。
 
――シャワー浴びたら?
 
葛城三佐のすすめを断る。
入浴は、体力を消耗する。
確かに、気分転換にはなるのだろうが。
 
 
――初号機の強制サルベージ…
 
実行される作戦の概要を、口の中で復唱。
 
――現存する全てのN2爆雷を投下…
――零・弐号機をもって、ATフィールドに1万分の1秒干渉…
――使徒をディラックの海ごと破壊…
――初号機の機体の回収を最優先…
――その際、パイロットの生死は問いません…
 
 
少し、目を閉じる。
眠気。
Evaへの長時間の搭乗のせいだろうか。
疲労感。
身を動かすのが億劫。
 
 
――その際、パイロットの生死は問いません…
 
  『待ってっ まだ、碇君がっ』
 
   『命令よ… 下がりなさい…っ』
 
 
――その際、パイロットの生死は問いません…
 
  『あなたは死なないわ。 私が守るもの…』
 
   『別れ際に“さよなら”なんて…、悲しい事言うなよ…っ』
 
 
――その際、パイロットの生死は問いません…
 
  『本体は、影の部分…厚さ3ナノメートルの極薄空間…』
 
   『そんなの、どうしようもないじゃん』
 
 
――その際、パイロットの生死は問いません…
 
  『おかあさん、って感じがした。
   綾波って意外に主婦とか似合ったりして…』
 
   『何を… 言うのよ…』
 
 
――その際、パイロットの生死は問いま………
 
 
 
「…!?…」
 
「…震えて、いるの? 私」
 
「寒い…?」
 
「……いえ…」
 
「なら… …何故…?」
 
「……怖いの?」
 
「何が?」
 
「使徒?」
 
「影?」
 
「飲み込まれる…」
 
「……死…?」
 
「死ぬのが、怖い?」
 
「『私』が死んでも、代わりが有るのに?」
 
「死ぬのが、…怖い?」
 
――初号機の機体の回収を最優先…
――その際、パイロットの生死は問いません…
 
「…死ぬ…?」
 
――初号機の機体の回収を最優先…
――その際、パイロットの生死は問いません…
 
「……代わりは…?」
 
――初号機の機体の回収を最優先…
――その際、パイロットの生死は問いません…
 
「…死んで……代わりは…?」
 
――レイ、予備が使えなくなった…
 
「……私…?」
 
「………………そう…」
 
「死んでも、代わりが有る…」
 
――初号機の機体の回収を最優先…
――その際、パイロットの生死は問いません…
 
「…ただ、戻るだけ…」
 
――初号機の機体の回収を最優先…
――その際、パイロットの生死は問いません…
 
――問題ない…
 
「私…ファーストチルドレン…」
 
「あの人…弐号機パイロット…」
 
「…サードは…『無い』…」
 
――問題ない…
――修正可能な範囲だ…
 
「問題ない…」
 
「…問題は、なにもない…」
 
 
悪寒。
そういう物だろうか。
 
病。
それに似ているのだろうか。
 
この身を包む、この言い様のない物は。
 
いつかかったのかも解らない。
なぜそうなったのかもろくに知れない。
 
ただ、身を奥までむしばむ不愉快さだけが…
震えるような、これだけが…
凍えるように…
 
だから。
触れる。
女に。
形だけある物に。
必要のない器官に。
 
熱を上げる方法だと思ったから。
温もりを得る方法だと思ったから。
 
――水。
――気持ちのいいモノ…
 
――碇司令…?
 
『レイ、大丈夫かっ』
 
――安らぐモノ…
――碇司令…?
 
『…大丈夫か、そうか』
 
――包み込むモノ…
――碇司令…?
 
『大丈夫か、…』
 
――優しいモノ…
――碇司令…?
 
『大丈夫か、…な…み…』
 
――暖かいモノ…
――碇…………
 

…その時、パイロットが中に閉じこめられてね…
 …    が、彼女を助け出したの…
…加熱したハッチをむりやりこじ開けて…

 
いつも。
いつもいつも、胸の内に有って。
凍える震えを収めてくれるモノは。
温もりをくれる灯火は…
 
しかし、この時だけは。
この病のようなモノだけは、癒してくれなかった…
 
 


 
『恐かったんです』
 
『私』
 
『だって、いきなり――』
 
『本当に、いきなりだったから…』
 
『あんな、いきなりに…』
 
『――ごめんなさい…』
 
『怒って、いるんでしょ?』
 
『失望、したんでしょ?』
 
『あんな風に、みっともなく』
 
『それに、貴男にあんな、ひどい事を…』
 
『――ごめんなさい…』
 
『思わず、取り乱してしまっただけなんです…』
 
『そんな…貴男の事が、嫌だなんて、嫌いだなんて…』
 
『そんな事は、決して…』
 
『違うんです…』
 
『それだけは信じて…』
 
『本当に、ただ驚いただけなんです』
 
『だって、いきなりだったから…』
 
『いきなり、あんなに、いきなり…』
 
『貴男が……“触れて”くるなんて…』
 
『本当に、驚きました…』
 
『ええ… 本当は、少し恐かったんです…』
 
『――ごめんなさい…』
 
『怒らないでください』
 
『失望しないでください』
 
『だって、つらいんです…』
 
『あれから、訪れてきてくれないから…』
 
『あれから、会いに来てくれないから…』
 
『――私、もう、大丈夫です』
 
『もう、恐くありませんから』
 
『だから、お願いだから、もう一度…』
 
『だってっ』
 
『もう、これっきりだなんてっ』
 
『そんなの、嫌、だから…』
 
『またっ 一人っきりだなんてっ』
 
『そんなの、絶対っ――』
 
『だから、私、思ったんです』
 
『――はしたないなんて、思わないでくださいね?』
 
『私、貴男に触れられたいと、そう思ったなんて…』
 
 


 
「――これは…?」
 
不意に、冷たい感触。
 
「涙?」
 
赤い瞳から、零れたモノ。
 
「泣いてるのは…」
 
情動の発露。
 
「…私?」
 
人間じゃないのに…
 
…………
 
「………碇君?」
 
初号機。
専属パイロット、サードチルドレン。
碇シンジ。
 
「これは、私の心?」
 
何故、こんな物が?
 
「碇君と一つになりたいと願う…」
 
ヒトと、一つになりたいと。
他人を求め、求められたいと願う…
そんな、『まるで人間のような心』が…
 
「『私』の…、ココロ…?」
 
はじまりは。
その、はじまりと言うべき物は。
一体何だったんだろうか?
 
彼が、サードチルドレンだから…?
彼が、『碇』シンジだから…?
彼が、あの人の、子供だから…?
 
 
「だめ…」
 
 
彼が、あの人のように、私を助けてくれたから…?
彼が、あの人のように、私に微笑んでくれたから…?
 
 
「『私』がいなくなったら、ATフィールドが消えてしまう…」
 
 
彼が、あの人と違い、『私』を見てくれるから…?
彼が、あの人と違い、『私』に触れてこようとしたから…?
彼が、『私』に近づいてきた、ただ一人のヒトだから…?
 
 
「――だから、だめ…」
 
 
『私』
ファーストチルドレン。
二人目の、綾波レイ。
まがい物のヒト。
血を流さない女。
約束の日に、消える存在。
代りすらきく存在…
 
欲しいのは、絶望。
望みは、死。
 
――早く還りたい…
 
それこそが、唯一の願い…
 
得た物全ては、約束の日には、全て失うのだから。
何一つとして、『そこ』へ持っていける物は無いのだから…
 
だから。
ヒトにかかわらず。
ヒトを求めず。
ヒトに求められず。
 
必要な物以外、何も、知ろうとせず。
必要な物以外、何も、解ろうとせず。
 
ただ、命じられるままに。
 
命じられる事以外は何一つさえも…
 
…だから。
 
 
「…ああ…っ!」
 
 
この、末期の時に。
零れる涙の意味も。
堰を切ってあふれかえる物も。
光の中にあったモノの意味さえ、理解する事もかなわず…
 
ただ、濁流のように、あふれかえる物に、流され、翻弄されるままに…
 
ただ、光に。
 
まばゆい光に、全てが白く染められ…
 
 

≪ …目標、消失… ≫

 
 

 
闇の中。
落ち行く感覚。
一度、覚えのある。
 
しかし、それには少しも動じずに、
進められるまま、落ちるまま。
ただ、つぶやく。
 
誰へともなく。
 
誰と、今更、言うまでもなく。
 
 
 
「独り」
 
「一人っきりの時」
 
「由縁も知らず、あそこに。
暗い、赤い、あの場所に、たった一人閉じこめられ」
 
「誰も居なくて。
何もなくて。
私以外、何一つさえなくて」
 
「時に、気が狂いそうになって、半狂乱にさえなって、泣きわめき、
その声すら闇にのまれて、残響すら残さずに消えていって…
本当に、何一つとして残らなくて…」
 
「――気がついたら…ソレが…」
 
「“私に似たモノ”が触れてきて。
自分のようで、自分でない“異物”が触れてきて。
私と混じってきて、私の境界線が解らなくなる」
 
「私を融かしていく…」
 
「私を形作るものを壊していく…」
 
「そんな、怖くて怖くて、どうしようもなく震えていた時に。
そんな、たまらない時に」
 
「そんな時に、貴男が来てくれたんです」
 
「貴男が、私の呼び声に応えてくれて…
私を、救いに来てくれるなんてっ
約束通りに、会いに来てくれただなんてっ」
 
「あんな、口約束を、本当に…
本当に、果たしに来てくれるなんてっ」
 
 
「嘘、だったんだと思っていたんです。
恨んでさえいたんです」
 
「だまされたんだとさえ…思いこんで
憎んでさえ、いたんです。私」
 
「馬鹿な女でしょ?
貴男は、こうやってちゃんと私との約束を果たしてくれたのに。
それを信じれず、そんな風に非道く勝手に思いこんでいたなんて」
 
「でも、そんな時に…
あんな時に、私の元へ訪れてくれたなんて」
 
 
「貴男」
 
 
「解ってくれますか?
この気持ち」
 
「知っていますか、この想い?
どれほど揺さぶられ、苦しい程に、胸が締めつけられて…
声にも、表情にもならない程に、たまらないこの想い…」
 
 
「――知っていますか?」
 
「もし、貴男に再びまみえる事があったら。
叩き付けようと思い続けていた、悲鳴が、恨み言が、罵声が、責め句が。
まさに、淡雪が春の陽にさらされたように、跡形もなく。
融けて、消えて、涙と流れた事を…」
 
「貴男が、私を見て、
貴男が、わずかに顔をほころばせたのを見て、
何か、再開を祝う言葉を言おうと、
――あるいは、私を慰める言葉を言おうと、
あの時と同じように、優しく微笑んで、口を開きかけた、
その仕草を見て、
今までに感じた事さえない、激しく荒々しいモノが、
胸の内をかき回した事を…」
 
 
「それなのに…」
 
 
「だって、せっかく、また、会えたのに…」
 
「これっきりだなんて、そんなの…
だって、私、まだ何も――」
 
「だから、私」
 
「もう一度、貴男に会いた――……
 
 
 
――白転。


 
ただ、心穏やかに。
生まれ育った場所で、禊(みそ)ぎをしながら。
終焉への身の清めを行いながら、一つ、頭に浮いてくる言葉がある。
 
 
 「 さあ、僕を消してくれ 」
 
 
彼の、言葉。
そして、彼は、あのヒトは、こちらを見て微笑んだ。
 
迷いのない、表情。
慈愛と、諦観。
 
長い年月を経たように思わせる、死の前の静かさ。
 
私も、ああいう風にして、逝くのだろうか?
 
 
 「 君たちには、未来が必要なんだ 」
 
 
『未来』
 
その言葉は、私にさえ向けられているように感じられた。
 
錯覚、だろうか?
 
いや。
確かに、彼の顔はこちらを向いていた…
 
 
――では、何故?
 
私は、彼と同じような運命をたどる事になるというのに…
 
同じ感じのする彼と。
 
そんな事は、彼も解っているはずのに。
 
何故、そんな事を…?
 
 
『未来』
 
必要だと?
 
もうすぐ、終わるのに?
 
無に帰るべくして生まれた、私。
約束の日のためにのみ、生き延びている私。
 
 
――ふと、気がつけば、そこに立っていた。
旅立つための、その入り口へ。
いや、むしろ自然な事だ。
全ての準備を終えたのだから。
後は、ここで待つだけ。
 
だから、手持ちぶさたに。
見上げる、扉の上を。
その上に掲げられた、印章を。
 
イチジクの葉の、シンボル。
その下に、中世の詩より引用された一文。
 
God is in his heaven, all right with the world.
 
 
そして、思った。
同じ事なのかも知れない、と。
 
彼の先日の言葉も。
遠い昔に誰かが謳った言葉も。
 
それは、まるで祈りにさえ似た物…
 
――希望。
 
 
『もうすぐ全て終わってしまう。
生きゆく事も、死に逝く事も、
等しい価値の僕らにも、
必ず未来へ繋がる道はあるのだ』
 
 
それは、彼の遺言。
あの日、終わってしまった、彼の最後の言葉。
 
私に、彼が託した言葉。
 
そして、今日…
 
 
 
――天に神は坐し…
 
 
 
 
 
「レイ、お前は今日この時のためにいた」
 
 
『今日』
 
終わりが始まる日。
 
人に報いが訪れる日。
 
そして、私が還る日。
 
 
 
 
――世は、全て事無し。
 
 
 


■ end ■

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