「…お腹すいた…」
 綾波レイは、誰に向けるわけでもなくそう言葉を発した。何の気なしに視線を向けたビルの電光掲示板は“1:27”なる数字を見せている。この数字が意味するものは、多少なりとも不健康な生活を送った経験がある者であればすぐに分かるだろう。…そう、既に日付は変わってしまっているのだ。
 そして、レイは前日の午後7時前後に起床してよりこのかた、一度とてまともに食事を摂っていなかった。あまつさえ、彼女は起床するまで26時間ほどぶっ通しで嗜眠の安息の中にたゆたっていたので、都合30時間以上もろくな食事を摂っていないことになる。
 それでは、空腹を覚えるのも無理はない。それを証拠付けるように、彼女の華奢な腹部からぎゅるるるっ、と音が鳴った。他の少女なら赤面してもおかしくはないかもしれない。とりわけ、彼女の同僚である赤味がかった金髪を持つ少女ならそれを失態と考え、常に従僕の如く従えている少年に理不尽かつ無慈悲な暴力を振るうかもしれない。だが、彼女は全く羞恥の感情を表に出すことはなかった。それは、周囲に人がいなかったこととは全く関係がない。
 「…お腹すいた」
 もう一度レイは呟くと、きょろきょろと周囲を見回し、そして歩き出した。その表情に浮かんでいた落胆の表情は、恐らくこれも彼女の同僚たる少年でも見抜くことは出来なかったに違いない。
 …彼女がいる付近には、コンビニエンスストアはなかったのだった。

 そのアルバイト店員は不機嫌だった。本来であれば、こんな場所で来るかもどうかも分からん客を待ちながら牛肉と玉ねぎを秘伝のツユで煮込んでいる必要などなかったのだ。そう、彼にこのアルバイトを紹介した先輩が食中毒でぶっ倒れたりしなければ。
 先輩が賞味期限の切れたコンビニのおにぎりで夕食を済ませたりしていなければ、今頃自分は発泡酒をお伴にして白河夜船の甘美な旅を楽しんでいたのだ。大学のレポートを済ませ、上々の機嫌で風呂に入り、さっぱりとした気分で冷蔵庫から常設の発泡酒を取り出して栓を開けようとした途端、彼の携帯が着メロのアニメソングを奏でたのだ。
 『悪い…吐き下しが止まらなくて、今日バイトに行けそうにないんだ…すまんが、替わってくれ』
 苦痛に満ちた先輩の声に、彼は抗うことが出来なかった。
 …そんなわけで、彼は満々たる不平と烈々たる憤りを隠すことも出来ずに牛丼のタネを煮込み続けていたのであった。客も来ていないことなので、愚痴も隠そうとしない。
 「…ったく、今頃いい気分で寝てられるはずなのにこんなところで牛丼煮なくちゃいけねぇんだよ…大体、2週間も前のおにぎりなんか食うなってんだ…」
 愚痴と恨み言に塗れながら牛丼のタネを煮込む彼の目に、店内に入ってくる人影が見えた。横目で確認しただけで、やけくそのような声を張り上げる。
 「いらっしゃいませぇ!」

 その客は、いい意味でも悪い意味でも尋常ではなかった。鬘にも見紛うほどの豊かな総髪を持ち、高価そうなダブルのスーツに身を包んだ初老の紳士である。だが、その行動は誰の目が見ても紳士とは称し難い代物であった。
 おぼつかない足取りであっちへふらふら、こっちへよろよろと歩き回り、時折しゃがみ込んでは「ぐぅえぇぇっぷ…!」と、えずきにも似た下品なゲップの音を響かせる。その姿に、アルバイト店員はもう一度自分の不幸を強く強く確認した。
 この客が、泥酔の域にも達するほど酒を摂取したことは今更確認するまでもない。それを否応なく理解させられ、不快感は彼の制御の意思を容易く突破して彼の表情を支配した。もしこの酔客が店内で粗相でもしでかした日には、彼がその後始末をさせられる仕儀と相成るのだ。彼は、この夜何度目かどうか分からんが、とにかくおのれの不幸を再確認した。
 (…くそ…冗談じゃねぇぞ…何だって、俺一人がこんな目に遭わなくちゃならねぇんだ…)
 彼の不快感に満ちた表情も内面のぼやきも理解することは出来ず、酔客は床を這うようにしてカウンター席の一つに着き、そして据わった目に何を映すでもなく素面であれば魅力的なバリトンと評してもいい、だがこの状況では酒にしわがれたとしか評しようのない声を上げた。
 「…牛皿。それと、缶ビール」
 その注文に、アルバイト店員は唖然とし、そして良く冷えた麦茶を出すよりも早く声を出していた。
 「…お客さん、随分飲んでおられるようですけど、やめておいた方がよくないですか?」
 いつしかぐったりとカウンターの上に組んだ両腕の更に上に、頭を預けていた客はゆっくりと頭を上げ、据わったまま変わらぬ視線を返した。
 「…構わんから、出したまえ。…全く、碇の奴、面倒ごとはみんな俺に押し付けおって…飲まずにやってられるか…」
 「…でも、これ以上飲まれるとやばくないですか?」
 どれほど正体をなくした酔客でも、はっきりと「ゲロ吐かれると迷惑だ」と言うことは出来ない。接客業とは、つくづく不自由なものである。
 「…いいから、出したまえ。会計のときにはそう言うから、そのときはネルフに連絡を入れてくれ…」
 そう言って、泥の如くなった初老の紳士はもう一度「ぐぅ…ええぇぇっぷぅぅっ…!」とミが出そうなゲップを吐き出し、IDカードを示した。そこに記されていた、酔客の身分。それを確認して、彼の心臓は危うく止まりかけた。
 “特務機関ネルフ副司令・冬月コウゾウ”
 別段、はっきりとそう記載されていたわけではない。だが、彼が差し出したIDカードに示されていた無花果の葉を模したマークと彼の氏名、そして牛丼屋の外からも確認できるほどあからさまな護衛の黒服の姿が、この飲んだくれが第三新東京市を表・裏から支配する組織の最高幹部の一人であることを雄弁に物語っていた。何か粗相でもしでかした日には、彼の生命など彼が存在した証ごと消し去られてしまうだろう。
 そして、それを知覚し。
 (…今日は厄日だ…)
 不幸なアルバイト店員は、神を呪いながら肩を落とした。

 「…お腹…すいた…」
 何度その台詞を呟いただろうか。最早、レイは抜き差しならぬほどに深刻な空腹感―否、飢餓感を抱いていた。彼女が行く先、どこにもコンビニエンスストアも、深夜営業の飲食店も見つからなかったのだ。その間にも、彼女の腹部はぐるぐると音を立て続け、栄養分の摂取を執拗に求めている。
 他の人間なら、こういった状態に陥ったら精神的に何らかの影響を受けるのが普通である。ある者はやたらと悲観的になり、またある者はやたら気短になり普段なら何でもないようなことで激昂する。
 だが、レイは内心はともかく外面的には冷静に呟くだけであった。
 「お腹すいた…」

 …だが、その苦難もやがて報われるときが来る。それから五分とも経たずに、ようやくレイは全国的にチェーン展開を繰り広げている牛丼屋の看板を見つけたのだった。そう、「早い、美味い、安い」の三拍子揃ったアレである。
 それを見つけたレイの能面の如き無表情が、ごくわずかに喜色を示したのを理解した者も確認した者もいない。時間が時間であり、周囲には誰もいなかった。
 レイは早足にその看板に歩み寄り、一瞬の躊躇いもなく店内に入った。最早、この空腹を癒せるのであればクロイツフェルト・ヤコブ病もクールーもスクレイピーも物の数ではない。どうせ、それらの発病期にはレイが至高存在とも崇める男によって、彼女は無に還るのだ。
 「いらっしゃいませぇ!」
 どことなく捨て鉢に聞こえる店員の声をバックにレイは店に入り、そして『コ』の字形のカウンターの一席に座るか座らないかのうちに注文を発した。
 「並ネギだく。牛肉抜きで」
 一瞬、店員の目はドットになった。牛肉抜きの牛丼ねぎだく…やってやれないことはないが…何ですかそれ?
 「…お客さん…それでいいんですか?」
 「いいの。肉、嫌いだから」
 (…そんな奴が牛丼なんか食いに来るなぁ!)
 危うく喉から迸りそうになった言葉を辛うじて飲み込む。
 「…承知しました。暫くお待ち下さい」
 言いたいことを二日酔いの朝に必ず胃から込み上げてくるもののように全て飲み込み、彼は店の奥に引っ込んで注文の品を用意し始めた。…だが、一つの仕事に取り掛かろうとすると邪魔が入るのは、世の習いでもある。
 「…牛皿もう一つ…それと…冷…もう一杯…ぐ…ぐぅぇぇぇぇっぷ!」
 ぐったりとカウンターに突っ伏していた人影が空になったコップを揺らし、逆流物が迸り出そうなゲップとともに更なる冷酒の一杯を催促した。それを確認したアルバイト店員が、露骨にいやな顔をしてみせる。
 「…お客さん、ちょっと飲み過ぎですよ。ほどほどにしておいたほうが良くないですか?」
 酔眼から発せられる光が歪んだ。総髪から覗き見える紳士然とした顔は酒に赤く焼け、発される言葉はアルコールに掠れている。
 「…いいから、早く出したまえ…俺はまだ飲めるぞ…」
 そう言いおき、困惑に満ちたアルバイトを尻目によろり、と立ち上がった。飲み続けた挙句、尿意が臨界点に至ったのか、あるいは破局の予兆を感じ取ったのか…いずれにせよ、行き着く先は一つだった。
 その唯一の場所に酔客は這うようにして辿り着き、そしてドアに鍵を下ろした。…暫くして、「うげぇぇっ…おえぇぇぇっっ…!」と、“貰いそうな”声が聞こえてくる。どうやら、先の問いに対する答えは後者だったようだ。
 トイレの外にまで聞こえてくるその声を、アルバイト店員はこの世の全ての不幸がわが身を襲ったかのような表情で聞き、そしてレイは…
 「…お腹すいた…」
 全く聞いちゃいなかった。

 破局の被害を最小限に抑えたものの、それで酔いが醒めたわけではない。むしろ、不純物が取り除かれてより回ったような気分すらしていた。だが、悪い気分ではない。二日酔いよりもべろべろに酔っ払った状態のほうが快適なものではある。
 「ぅげぇ…ちとすっきりしたかな…もう少し飲むか…」
 アルコール依存症者のような言葉を呟き、冬月コウゾウは洋式便器にへたり込んでいた痩躯をようようの思いで立ち上がらせた。第三新東京市の幹部の接待を受け、その口直しに飲み直していたところが―この日の接待は、設ける側だけでなく受ける側も酔えないような論題についての席だったのだ―度を越してしまったらしい。
 そうでなくとも、彼はここ数日フラストレーションが溜まっていた。彼の唯一の上位者たるネルフ総司令・碇ゲンドウはおのれの願望を満たすためだけに血道を上げ、巨大組織の長たる責務の大部分を放擲している。少なくとも、冬月はそう思っていた。結果、そのしわ寄せが冬月に来るわけで、彼としては愉快になる道理などありえないのだ。
 飲み直しているうちに憤りは鬱積し、溜まった憤情は更なるアルコールを求め、気がつけば泥酔してなぜか牛丼屋で更に飲み直していたのだった。
 普段の謹直を絵に描いたような彼の姿からは、到底想像もつかない愚にもつかぬ事情ではある。とにかく、彼は酔っていた。それも半端でなく。少なくとも、夢想と現実を判別することが不可能なほどに。

 かなりの長時間トイレに篭っていた冬月がドアを開けたとき、彼はありえないものを見た。牛丼屋のコーナーの一席に、一人の女性が座っていたのである。
 …それだけなら、あり得ないことではない。彼女は、冬月の知己だった。
 …それでも、あり得ないことではない。彼女の存在があり得ない所以は、彼女は既にこの世に存在しないはずの人間だったからである。
 彼が見たのは、彼の教え子であった、そして彼の同胞である男の妻であった、そして彼自身も只ならぬ感情を抱いていた女性、碇ユイであった。
 …彼が見たユイは、なぜか第三東京市立第一中学校の制服を着、なぜか髪を水色がかった銀色に染め、牛丼の並盛を食っていた。
 「…ユイ君!」
 思わず叫んだ冬月に振り返った碇ユイ―でないことは読者諸賢はお分かりであろうが―は、白絹の如く滑らかな頬に米粒を付けたまま、ルビーの如く鮮やかな瞳を冬月に向けた。

 「…ユイ君…生きて…いたのかね…」
 よろめく体をわずかに震わせ、声さえ感動に震える冬月の目には、最早現実は映っていない。彼が見ているものは、常日頃より抱き続けていた願望と妄想が、過剰に摂取したアルコールの力を借りて彼の目の前にのみ現れた、彼にとってただただ都合のいい虚構であった。
 そして、彼が碇ユイと見間違えた女性―綾波レイは、頬に付けたままの米粒を払おうともせず、ただ冬月に紅い視線を送り続けながら一言呟いた。
 「…副指令」
 「ユイ君…君が生きていて…よかった…うっ…ううっ…」
 いつしか冬月の長身はレイを抱き抱え、嗚咽さえ漏らしている。レイは、それを拒絶しない。ただ、老人臭と熟柿、そして至極わずかに残る吐寫物の臭い、それらの入り混じった異臭には内心、やや辟易としていた。
 「…副指令…」
 「ユイ君…生きていたのなら、なぜ私や碇の前に姿を見せてくれなかったのだ…君がいなくなってから、碇の奴は人が変わってしまった…」
 酔いに濁った目は、目の前にいる人間の正体さえ判別することは出来なかった。完全に、冬月はレイを碇ユイとして見ている。…否、彼も碇ゲンドウと同様に、レイに碇ユイの影を写していたのだろう。その認識が、アルコールの力を得て顕現したからこそ、彼は執拗に眼前の少女を碇ユイとして見ているのかもしれない。
 「…あいつは、君にもう一度会いたい、ただそれだけのためにレイに人間らしい心を持たせようとせず、レイやシンジ君、それにアスカ君…キョウコ君の娘だよ…まで生身の人間でなく道具として扱っているんだ…それに、赤木ナオコ君やその娘のリツコ君まで…」
 「…」
 レイは何も答えを返そうとしなかった。それも当然で、彼女の与り知らぬ話について彼女が答えうるわけがなかった。レイとシンジ、そしてアスカの名前が出たところでわずかに表情を変化させたが、ただそれだけだった。
 「…ユイ君…頼む…碇に会って、あいつを諭してやってくれ…君がどんなつもりでエヴァ初号機の中に溶け込んだかは知らん…だが、君もあいつにこんなことをして欲しかったわけではないのだろう…頼む…碇に…碇が、これ以上人を傷つけるのをやめるように…君から…説得してやってくれ…」
 いつしか、冬月の姿勢はずるずると崩れ、レイの座っているカウンター席の更に下に頭を垂れるような格好になっていた。だが、彼女のスカートは掴んだままである。見ようによっては、冬月がレイの前に土下座しているようにも見えるであろうし、また別な者が見れば、スカートの中に頭を突っ込んでいるようにも見えるであろう。…最も、そうされてもレイは別段何も反応を示さなかったであろうが。
 「…お客さん、まずいですよ。警察呼びましょうか?」
 いつの間にか、蚊帳の外に置かれていたアルバイト店員がレイに耳打ちした。
 「問題ないわ」
 「…でも、ほんとやばくないですか?」
 「…問題ないわ」
 問題がないわけがないのだが、同じ台詞を何度も繰り返すレイに不気味さを感じたのか、そのアルバイト店員は見て見ぬ振りをすることにした。その間にも、冬月は酔っ払って繰言を続けている。
 「…あいつがやろうとしていることは私は分かっているが…それは…所詮間違った道だ…人類全体を巻き込んだ集団自殺行為に過ぎん…頼む…ユイ君、あいつを止めてくれ…!」
 まるで遺言のように言うと、冬月はそのまま決定的に姿勢を崩してしまった。数秒を経て、「ぐっ…ぐぐぅっ…」とうめき声のような鼾が聞こえてくる。
 それを確認したレイは、やおら携帯電話を取り出して短縮ダイアルを押し、何やら電話の相手と数言会話を交わした。暫くすると、数人の黒服がプロフェッショナルの動きで店内に入ってくる。
 そのうちの二人が両側から支え込むように冬月の長身痩躯を抱え上げると、別な一人がレイに言葉を向けた。
 「…連絡、感謝する」
 更に別な一人は、冬月が持っていたものとは別なIDカードを店員に示し、それによって冬月とレイの会計までも済ませた。もちろん、そのIDカードはレイのものでもない。
 冬月が黒服連中によって抱え上げられ、店から本人の意思とは関係なく出て行くと、レイも「…ご馳走様」と呟くように言葉を残して、店を出て行った。
 後には、わけも分からず呆然とたたずむアルバイト店員だけが残された。

 牛丼屋を出たすぐ前のビルに、デジタルで現時刻を表す電光掲示板がある。ついさっき、レイが見たものの子分のような大きさのものだ。
 その電光掲示板には、“2:25”と記されていた。草木も眠る丑三つ時、道行く人の姿どころか、レイが「ネギ煮込み丼」を食った牛丼屋の他には、店の灯りさえ見えない。
 その中を、レイは歩いていた。歩きながら、ポツリと言葉を漏らす。
 「…冬月副指令…碇司令…」
 呟くように言葉を紡ぎながら、冬月が発した言葉を精神の中で反芻する。…あのとき、彼がレイに向けていた言葉は、明らかにレイに対する言葉ではなかった。
 碇ゲンドウはレイを見ながら、そこに違う人物を見ていた。だが、今日の冬月は、レイさえも見ていなかった。ひたすら、レイをレイではない、全く違う人間として見ていた。
 「…私は、あなた達の人形じゃない。…少なくとも、あなた達の都合のいい人間の代わりの人形じゃない…」
 レイは、不愉快なものをそうするように言葉を吐き捨てた。

To be continued…

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