――第三新東京リニア駅正面改札前 午後八時四十五分――

 駅の薬局で買ったドリンク剤を一気にあおり、普段は滅多に絞めぬネクタイを緩めた時点で、日向マコトは、ようやく緊張がほぐれるのを感じた。
 腕時計の針を確認し、後3時間もすれば日付が変わる事に気付くと同時に、せっかくの休暇である筈の一日の大半を、普段と変わらぬ――あるいは普段以上とも言える――緊張と共に過ごしてしまった己に、軽い嘲笑が込み上げてきた。

 備えよ常に。ああ、まあそれは真理には違いないんだろうけどなあ。それにしても、限度ってものがあるよな。滅多に取れない休暇に、わざわざ第二まで出かけて情報交換。何時の間にそんな仕事の虫になっちまったんだよ。

 休日の朝早くから第二新東京に出かけた日向は、そこで、軍事アナリストやジャーナリスト、果ては司法関係者とまで会い、情報の交換と人脈の維持に努めて来たのだった。それは、到底ネルフ作戦部の戦術情報オペレータ兼作戦部長付き首席幕僚と言う立場にある日向の職掌には、含まれるものではなかった。しかし。たとえ公的な職掌に含まれずとも、日向にはそうするべき意味はあると思われた。

 今日においても、ネルフの政治的位置づけは、はなはだ微妙なものだと言わざるを得ない。無論、それを実際に改善すべきは、統括者たる碇ゲンドウとその腹心たる冬月コウゾウであろう事は間違いないと、日向にも解っている。
 しかし、その改善が上手く行かなかった場合は。第三使徒迎撃戦以来ネルフが続けている、このはなはだ不安定な綱渡りが、もし失敗したら。
 その為に、自分のような者が禄を食んでいるのだろうと、日向は思っていたのだ。

 作戦部の役割は、本来ならば対使徒迎撃戦にのみ限定される。根本的に研究機関として分類されるネルフにおける作戦部とは、いわば鬼子なのだ。その鬼子の存在が容認されているのは、ひとえに、ネルフの研究対象であるエヴァンゲリオンが兵器であり、今正に人類は、その兵器を用いた戦争の只中にあるからに他ならない。

 とは言ったものの――なあ。

 日向は、己の口から溜め息が漏れ出るのを、禁じ得なかった。
 戦争。そう、確かにそれは、戦争と呼んで良いだろう。だがそれは、日向の知る常識が通じる戦争ではなかったのだ。
 ある日突然、何処とも知れぬ場所から出現する敵性体。野戦砲や対地ミサイル、主力戦車の主砲ですら傷もつけられぬ絶対領域。一体毎にその形態から攻撃方法までがころころと無節操に変化し、得られた戦訓のほとんどが役に立たない。
 その場しのぎ、一発勝負の連続。せめて、使える戦力にもう少し幅――量と言う意味でも、あるいは兵種と言う意味でも――があるならば、話は違っただろうけれど。

 一応、ネルフは国連組織内で特異な位置に立ち、対使徒迎撃戦においての指揮権を委任される立場にあるのだから、場合によっては国連軍に対して協力要請を行う事も可能ではある。
 しかし実際の所、安全保障理事会の下部組織である統合参謀委員会に帰属する国連軍と、総会直下の委員会を上部組織とするネルフとでは、指揮系統が厳密には異なる為、ネルフに与えられた権限の解釈次第によって、最終的な命令権がどこに帰属するのかがはなはだ曖昧になってしまう。
 無論、いざ国連軍の協力を得るとなれば、葛城ミサトはその指揮権を要求するだろうが、国連軍――正確には、その上部組織――にしてみれば、それは到底受け入れがたい話だ。最悪、将軍クラスを少佐が指揮すると言う事にもなりかねないのだから。
 そこから引き起こされる政治的な諸問題はあまりにも複雑にすぎ、それ故か――あるいは、何か思惑があっての事か、碇ゲンドウは国連軍に対して積極的に協力要請を行った事がないのだ。

 結局、ネルフが気兼ねなく運用できる兵種と言えば、稼働率の低い兵装ビルに、僅かな無人兵器、そして――人造人間エヴァンゲリオンのみという有様だった。
 敵性体である使徒が、常に単独での侵攻にとどまっているから、まだ何とかなっているという状態だった。その単独侵攻という要素も、自分達を役立たずにしている。
 世界中何処を探しても、たった一機の兵器だけを戦場に投入するような莫迦は存在しない。成層圏ぎりぎりの超高々度を飛ぶ偵察機とでも言うならともかくも。
 つまり、日向が仕込まれた軍事上の知識のほとんどが、対使徒迎撃戦では役に立たないのだ。

 だからと言って何もせずに済ませられる性格ではなかった事が、日向の抱く最大の不幸であったかも知れない。
 今正面に見えている戦いに、自分と言う存在が役に立たないのだとしたら、自分が役に立つ別の場所を探そう。自分にも戦える別の戦いを戦おう。
 日々の勤務に疲れた体を引きずって、滅多に取れぬ休暇に朝から第二新東京まで出掛けていた理由は、つまり、そういう事だった。

 日向の上司である葛城ミサトは、そもそもこうした陰に隠れた活動には全く向かない人物だし、保安部と作戦部はほぼ犬猿の仲と言っても良い――人類の命運を賭けた戦いに臨みながら、何とも悠長な話だが――状態だから、彼等が得ているだろう情報や人脈には、まったくと言って良いほど期待が出来ない。
 ならばと始めた活動なのだが、しかし。

 意味、あるのかな。俺のやってる事は。

 そんな自嘲が、かすかにのぼる。

 大体、性分じゃないんだよな、こういうのは。そもそも、俺がこんな事して、誰が喜ぶんだ。司令? いやいや。副司令? まさかそんな。葛城さん? あの人の場合、怒りさえするかもな。

 ネルフに配属となって以来、急激に増えた溜め息の数を、また一つ増やした。

−−−−−

 とぼとぼという表現の似合う足取りで家路を辿る日向が、その光景を目にしたのは、まったくの偶然と言う他はない。息抜きに煙草をくゆらせる習慣を持たない日向だが、せめて寝酒の一杯ぐらいはと、少し遠回りになるが、コンビニに寄ってから帰ろうと考えたのだ。
 はたして、コンビニの脇にある駐車場で、何やら揉め事が起こっているようだった。

 自身の楽しみを追求する以外に、この世に重要な事などありはしないと考えていると窺わせるような幾人かの少年が、一人の少女を取り囲んでいた。口々に、欲望を除いた全てがその脳髄に不足している事を顕わにするような声と言葉で、少女を誘っているのだ。
 どうやら少女は無反応を通しているらしく、その事に対して、少年達がいらついているのが窺えた。
 少年達の大柄な背の向こうに、見覚えのある――と言うよりも、一目見たら忘れ得ようもない青みがかった銀髪を見た瞬間に、激発しそうになった。

 一体、保安部の連中は何をしているんだ。何故出てこない。何故彼女を保護しない。監視以外の何事も自分達の職掌にあらずとでも言うつもりか。一体、お前達は――

 苛立ちとも、怒りともつかぬその感情を、深呼吸一つで飲み干し、彼等の方へと歩み寄った。
「君たち、こんな時間に何をしているんだね」背筋を伸ばし、行進訓練を受けた者以外にはありえない歩調と声で、その輪に近づいた。「その女の子は、君らの友達かね?」
 振り向き、何事か文句を言おうとした少年達は、一般社会では決して目に出来ない背筋の伸ばし方をした青年の姿勢と、その右手にある黒い手帳に慌てて、鴉の鳴き声にも似た捨て台詞と共に駆け去って行った。

 少年達が通りの角を曲がって見えなくなったのを確認してから、日向は、取り残された少女に話し掛けた。

「今晩は、レイちゃん」
「今晩は、日向二尉」

 少女は、普段とまるで変わらぬ声と態度で応えた。

−−−−−

 通りで話し込むのもどうかと思い、ファミレスにでも行くかと聞いたものの、返ってきたのは「先ほど加持一尉に紅茶をご馳走になりました」という応えだった。
 経緯を聞き、思わず眉をしかめずにはいられなかった。

 全く、何を考えているんだ、あの人は。警官を追い払った。まあ、それはよかろう。しかし、その後は何だ。結局彼女を一人夜の街へ。本当に、何を考えているんだ。

 思わず、心中そう毒づくが、こちらを見詰めるレイの視線に、気を取り直した。

「それじゃあ……ああ、ちょっと待っててくれるかな」そう言い、すぐそばの自販機で缶コーヒーを買った。「君は?」
「いえ、これがありますから」
 示されたミネラルウォーターのペットボトルに、微苦笑を漏らした。そのまま、コンビニのすぐ脇にある駐車場のフェンスに二人で寄りかかるようにして並んだ。

 誘ってはみたものの、果たしてこの少女と何を話すべきか、日向は、早くも途方に暮れかけた。正直に言ってしまえば、日向にとりチルドレンは決して近しい存在ではない。日向は彼等を戦友と呼んで良いと思っていたし、葛城ミサトが不在の時などは、訓練のオリエンテーションを担当したりもするが、そうした時の日向はあくまでも彼等を監督し指導する立場に己を限定していた。
 それこそ、ミサトのように軽口を叩いてみせたりなどは、した事がない。果たして、彼女を始めとしたチルドレン達の世界において、自分はどういう存在なのだろうかと、日向は少なからず苦い何かが静かにこみ上げてくるのを感じた。

 まあ、そうだな。脇役には違いないのだろう。決して、メインを張れるような器でもなし。

 昔から、そうだった。常に、自分はメインとは外れた所に立っていた。脇役。縁の下の力持ち。補佐役。常に、そうした位置が自分の居場所だった。そう――あの人にとってさえも。

「日向二尉、よろしいでしょうか」
 自分の名を呼ぶ声が、隣に立つ少女のものだとは、すぐには気付けなかった。
「あ、何だい? レイちゃん」
「はい。日向二尉は、加持一尉を嫌っておいでなのでしょうか」
「え?」思わず、溜息にも似た声が出てしまった。「ええと、どうして、そう思うのかな」
「先ほど、加持一尉にお会いした事をお話した時、顔をしかめられました。それで、何かご不快だったのかと」
 己の迂闊さが、ほとほと嫌になった。
「ええと――ねえ」
 何事か、よほどに適当な事を言って場を濁そうとしたのだが「…………」無言で見詰める目に、言葉に詰まっていた。仕方ないとばかりに、溜息を漏らして、ぽつりぽつりと、語りだした。

−−−−−

 正直な所、加持リョウジと言う男は、日向にとってはまるで信用に値しない存在だった。飄々とした態度を貫き、いかにも気楽そうに振舞う彼の態度が、そのままの彼だとは到底思えぬし、思ってもいなかった。
 時折、シンジなどに対して箴言めいた事も言っているようだが、日向からすれば韜晦にしか聞こえぬ言葉ばかりだ。
 しかし、これらの見方は、偏見ではないかと言われても仕方はないと、日向も自覚していた。

 ここ最近、加持は葛城ミサトとの距離を、また縮めつつあるように、日向には見えた。何よりも、ミサトが加持の事を避けなくなっている。そう見える。
 やはり、こうなったかと言う思いだった。やはり、自分は脇役なのだなと。

 昔から、そうだった。常に、自分は誰かを引き立てる役割だった。誰かが活躍し、誰かが脚光を浴びる、その助けとしての位置だけが、自分の居場所だった。
 誰でも、自分の人生では主役だと言う人もいる。しかし、それが虚言に過ぎない事を、誰より日向は知っていた。もし、主役だとしても、それはひどく退屈な、興行成績がどん底を這うような代物であるに違いない。
 そう言う人々は、確実に存在するのだ。脚光を浴る事などなく墓に入るだけの人生は、確かに存在するのだ。むしろ、そうした人生こそが大多数なのだろう。

 それでも良いと思っていた。誰の注視を得ずとも構うまいと、思っていた。自分が脇に徹する事は意味があると。誰が最後に脚光を浴びようとも、己のする事に意味があるのなら、それが無駄でないのなら、誰かの為になるのなら、それで良いのだと。たとえその誰かが、自分の事など気付きもせずとも、何処かの見知らぬ誰かの為であろうとも、それで良いのだと。だが。

 もし、自分の行動に意味などなかったら。もし、自分が奔走した所で、誰の為にもならないのだとしたら。もし――もしも。

−−−−−

「そう、だね。正直、僕はあの人をあまり好きではないな。いや、嫌っていると言っても良い。あんなに好き勝手に生きて、それが人の迷惑だろうなんて、解っているのかどうか。いや、もし迷惑なのを自覚さえしていたら、到底、僕はあの人を許せないけれど」
「……そこまでとは、思えませんが」
 流石に呆れたのか、そう漏らすレイに、日向は頭を掻いた。
「うん。まあ、これはね。僕がひがんでいるだけなんだろう。何故、僕ではなくて、あの人なんだろうと」

 言葉の意味を掴みきれていないだろうレイの顔つきに、日向は苦笑を漏らした。

「ごめん。変な事を言っちゃったね。今のは、忘れて欲しい」
「はい……あの」
「何だい?」

 飲み干してしまったコーヒーの缶を、持て余すように手の中で転がす日向に、レイは言った。

「もしも、自分の好きな誰かが、自分ではない誰かと幸せそうにしていたなら、日向二尉は、どうなさいますか」

 思わず、絶句した。果して、この少女は今この時、あろう事かこの自分にその質問がどういう意味を持つか、解っているのだろうかと。しかし、その顔を見ても、彼女に他意らしきものはうかがえなかった。

「そう、だな。僕なら――やせ我慢をする」
「やせ我慢、ですか」
「そう。やせ我慢。そりゃあ、腹は立つし、悔しいさ。けどね、そういう時、僕はやせ我慢をする事にしている」
「何故でしょう」
「それは――」

 言いかけて、何かが閃いた。

 そう、何故だ。何故俺はやせ我慢なんかするんだ。こんなに辛いのに。こんなに疲れ果てているのに。こんなに、こんなにも。だのに、何故。

 決まっている。そんなのは、とうに決まっている事だ。俺自身がそう決めたからだ。他の誰に言われたからでもない。自分で決めたのだ。何処かの、見知らぬ誰かの為でも良い。誰が知らずとも構わない。
 日向マコト。この大莫迦野郎。お前は一体何をのぼせ上っていたんだ。何でそんな、何よりも大事な事を忘れていたんだ。
 お前のやせ我慢は、その為のものだったじゃないか。たとえ脚光や喝采を浴びようと、それだけでは決して手に入らぬだろうものを、最後の瞬間に手にする為に。いずれは、誰であろうと必ず取り上げられてしまうたった一枚のチップを賭け続けるこのゲームに勝利する為に。その為の。
 つまりそれは。

「それは――僕が、男だから、かな」
「男だから、ですか」

 その回答に、少女は納得できていないようだった。まあ、無理もないだろうと、日向は思った。詰る所やせ我慢とは、男にとって勝利の鍵たる最後の武器であり、措くをあたわざる義務であり、そしてまた、それは、男にのみ許された、特権でもあるのだから。

−−−−−

 送って行こうかと問うのに、少女は首を振った。お疲れでしょうから、早くお休みくださいと。

「生意気を言うもんじゃないよ。まあ、あまり人気の無い所は行かないようにね。どこにだって、さっきの連中みたいなのはいるんだから」
「はい」

 会釈と共に去ろうとする背中に、声をかけた。
「ああ、さっきの話だけどね。あれは、あくまでも僕が男だからって話だ――ああ、だからそんな顔しないでくれよ、そうとしか説明できないんだから。つまりね。男の僕はやせ我慢をする。けど、君は女の子だろう。だったら、勝負してみるのも、手じゃないかな」
「勝負、ですか」
「そう、勝負。あるいは、闘争と言っても良いな。うん。状況を分析し、彼我の戦力を比較し、大目標を設定し、小目標を策定し、兵站を整備し――つまり、勝利への方策を判断する。やる事は、大して変わらない」
「まるで、戦争ですね」
 そう言う顔は、かすかに微笑んでいた。

 何だ。解っているじゃないか。誰だよ、この子が冗談も理解できないなんて言った莫迦は。まあ、ロクでもない冗談には違いないけれど。

「そうだね。けど、君たちぐらいの子にすれば、それは間違いなく戦争と言って間違いはないんじゃないのかな」
「宣戦布告は、必要でしょうか」
「さて――どうかな。その戦争に交戦法規があるとは、聞いた事がないのは確かだね」

 頑張りたまえ、戦友。そうだ。少なくとも、君が君の戦争をまっとうし得る環境を守る事。その為に、僕も僕の戦争を戦おう。だから、君も。

「頑張りたまえ、戦友」
「はい。日向二尉も、頑張って下さい」

 今度こそ、頭を下げて立ち去る背中を見送った。

 ああ、頑張るさ、もちろん。自分自身で、そう決めたのだから。だが、それでも。

「ありがとう」

 ぽつりと漏らした後日向は、まず、最初の手を打つことにした。私的な情報交換の相手でもある市警察の関係者や、ネルフ保安部でも信頼に値する幾人かに連絡を取り、今日仕入れた情報と引き換えに、今夜街を徘徊しているだろう銀髪の少女について、影ながらの身柄の安全確保を依頼するのだ。せめて彼女に、今夜と言う偶然のひと時を、安らかに過ごさせる為に。
 そして、自分は家に帰るのだ。明日からまた始まる、戦いに備えるために。明日からもまた、頑張るために。

 あの微笑ましい戦友たちの為に。あの愛しくも遠い人の為に。何処かの、見知らぬ誰かの為に。そして――誰よりも、自分自身の為に。





 つづく
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