微かに流れるブルースを圧倒して、若者の笑い声が弾けている。
常にも増して濃いアルコールと煙草の匂いに、カウンターの観葉植物も辟易するかのように項垂れていた。
三杯目の黒ビールのジョッキを干し、加持リョウジはスツールから降り立つ。
一人きりで飲み続けるには耐えられない喧噪。挨拶をしてもどうせ聞こえやしない。
良く磨かれたカウンターの木目に沿うように紙幣を置く。
マスターの申し訳なさそうな顔に微笑み返し、加持はそのバーを出た。
やれやれ、見つけた頃は客は俺くらいしかいなかったんだけどな…。
結構早い時間から開店していて、静かで雰囲気の良い店だったが仕方がない。
それに繁盛するのは結構なことだ。

薄暗い階段を登り表へと出る。
繁華街の裏手に位置する通りは喧噪とはほど遠い。月光に炙られた空気が鼻をつく。
躊躇うことなく胸ポケットから煙草を取り出し、安物のジッポで火をつけた。
地下の籠もった空気に比べれば、清々しいことこの上ない。その中で味わう煙草は格別だ。

くわえたまま、思う。
結局、人間ってのは、健康的な状況の中でしか不健康を満喫できないのかも知れない。
小さな筒の先端から零れ続ける煙を眺める。水飴のように糸を引くのは、月の光が青すぎるからだろう。

続けざまに二本堪能した後、火もつけない一本をくわえ、加持は表通りへと歩を進めた。
華やかなネオン。人の群れ。夜風はどこか泥臭い匂いを運んできた。
軽く視線を上げれば、街の灯りをなお圧倒する光を放つ月がある。
道の端をゆっくりと歩きながら、加持はその月に見とれた。
どこか郷愁をそそる。
円形のスクリーンのようなそれは、ずっと昔の情景を映す。
二十代そこそこのあの頃。
あの時期も、毎晩のように飲みに繰り出し、夜の街をそぞろ歩いていた。
そして傍らにはいつも彼女が…。

苦笑一つで加持は追憶を打ち切った。
いくら想いを馳せても、決して時計の針を逆しまに戻りはしない。
あの頃の時間の自分とは、永遠に断絶されているのだ。
恨むように月を軽く睨み上げる。
過去に思考が及んだのは、まさしくルナティック。狂的だ。
無慈悲な夜の女王に責任を押しつけ、加持はあてのない足取りに明確な方向性を付加する。
まだ気に入った店は何軒かある。
今日は久しぶりにとことん飲みたい気分だ。

ブラブラと駅前まで来た時だった。
意味も由来も定かではない彫像の下。
一人の女の子がいた。しかも話しかけているのは――――警官か?
半ば義務感のようなものに急かされ、加持はその二人の間に割って入っていた。
「ああ、すみません。オレ、この娘の保護者みたいなもんですが」
向かい合う警官の視線に、露骨な不信感が宿っている。
こりゃあ身分証でも出さなきゃダメかな? などと考える加持の目前で、警官はあっさりときびすを返した。
「じゃあ、くれぐれも気をつけて」という曖昧な言葉を残して。
警官を見送った視線で、街灯と一緒に並ぶ銀色の大きな時計もチラリと見る。
時刻はまだ20時を少し廻った頃。
宵の口だ。警官があっさり引き下がったことにあながち無関係ではあるまい。
それからようやく背後を振り返り、加持はその女の子と向かい合う。
なぜか声をかけるのをちょっとだけ躊躇ってしまった。
「…こんな時間にどうしたんだ、レイ?」
赤い瞳がまっすぐ見上げて来た。
「買い物です、加持一尉」
抑揚の無い声で答えた彼女の右手にはコンビニの袋。
「じゃなくてな。それだけじゃ警官に声をかけられはしないだろう?」
一般論を吐きつつも、加持は勝手に答えを見つけ納得していた。
綾波レイという少女をよく知らない人物にとって、こんな素っ気ない反応しかしない彼女は、十分怪しく思えるのだろう。
これが彼女のスタンダードなのに。
案の定、レイは答えに窮し、困惑したようである。自分でもどうして警官に捕まったか理解していないに違いない。
もっとも彼女の表情の変化は極めて乏しく、加持にもようやく看取できる程度であったが。
「ありがとうございます。…助けてくれて」
むしろ、そのような返答にこそ、加持は面喰らってしまった。
彼女が素直に礼を述べてくるなど、まったく持って想像していなかったのだから。
これも、シンジくんやアスカの影響か…?
考え込んでしまう加持の目前で、青い髪がすっと翻える。
「それじゃ…」
その背中に思わず声をかけてしまったのも、きっと月のせいだろう。
ましてや、かけた言葉はそれこそルナティックだ。
「感謝の気持ちがあるのなら、ちょっとお茶にでも付き合ってくれないかな?」



自分で声をかけたくせに、その結果もたらされた事態に加持は困惑していた。
ファミレスのボックス席。
向かい合うのは青い髪の少女。
夕食時のピークも何もない場末のチェーン店に相応しい閑散ぶりではあったが、だけに他の客の姿がよく目につく。
その殆どがカップルである以上、今の自分たちもそうカテゴライズされているのだろうか?
苦笑と共に妄想を軽く笑い飛ばし、加持は差し向かいの少女を見やる。
まさか、本当に付き合ってくれるとは思わなかった…。
加持の正直な感想である。
本気で誘うつもりなどはなかった。からかったつもりである。
いわば、女性はとりあえず誘っておけという彼なりの社交辞令なのであったが、まさかこの娘が真に受けるとは。
冗談が通じない娘だとは思っていたが、本気に取るとまでは思っていなかった。
そもそも綾波レイという少女と二人きりで話すこと自体初めてである。
まったく、うっかりジョークもいえやしない。
彼女をナンパしたなんて知れたら、葛城に殺されるな。いや、もう手遅れか…。
一瞬だけ自虐的な笑みを浮かべ、加持は実のところ、レイの対応の変化にこそ興味があった。
綾波レイのパーソナルデータは、立場上加持も熟知していた。
彼なりに、レイの返答するパターンも予測はしていたのである。
意味を把握しかね不可思議な表情をとり、半ば無視するように立ち去るか。
意味の説明を求め、把握後、慇懃に断ってから立ち去るか。
前者にしろ後者にしろ、立ち去るであろうことしか念頭になかったのだが。
ところが、今回の青い髪の少女の対応の仕方は、過去のデータと照らし合わせても例のないものだった。
軽く考え込むような表情をし、それから恐る恐るといった風に返答する。
「分かりました」
まるで、この返答が正しいのか模索するような応え。
誘ってしまった以上、加持も引っ込みがつかなくなり、手近なこのレストランに連れ込んだ次第である。
「さて、何を飲む?」
メニュー表片手に加持は言う。お茶に誘った手前、そう問わざるを得ない。
「…じゃあ、紅茶を」
「ホットでいいのかい?」
「はい」
この常夏の街においても、温かい飲み物が忌避されきっているわけではない。
涼しい室内で熱い飲み物を嗜む人々も決して少ないわけではないのだ。
綾波レイのデータの嗜好の項目に軽い疑問を投げつつも、加持は卓上のコールボタンを押した。
それほど忙しくないらしく即座にやってきた店員に、加持は自分のぶんとしてアイスコーヒーを注文する。
さすがに、ここでまでアルコールを飲む気にはなれない。
レイのぶんの紅茶も注文してから、ふと加持は思いつく。
店員を待たせたまま、軽く目を伏せ微動だにしない少女に訊いた。
「紅茶だけでいいのか? なんならケーキやアイスクリームでも…」
軽く青い髪が上を向き、軽く左右に振られ拒否を示す。
もちろん無理強いをする気のない加持は店員に引き取ってもらったが、その直後、レイのポツリと漏らした言葉に目を剥いた。

「…もう、アイスクリームはご馳走になってきたから…」

彼の知りうる限り、彼女が自分から具体的な経験談を話すことは皆無だったはず。
これは、追求、いや会話を重ねねばなるまい。むしろ、レイもそう望んで口にだしたのではないか?

「へえ。誰にご馳走になったんだい? もしかして葛城のところでかな?」
おそらく正解であろう台詞を告げる。彼女の移動先は極めて限定的だ。
対抗馬はネルフ本部で、大穴は碇司令の奢りである。
しかし、レイはまたもや軽く頭を振る。
「さっき…碇くんたちと会って…。そこで碇くんにご馳走してもらって…」
「へえ…」
呟きつつ、レイの台詞の微妙なニュアンスに加持は気づく。
碇くん<たち>ね…。きっと同行者がいたに違いない。
懲りないもので、加持は脳裏にまた予想表を展開させる。
本命はアスカで対抗馬は葛城あたりか。もしかしたら、リッちゃんとかも…? いや、今日はまだ本部に詰めているはずだし。
残念ながらレースの詳細及び結果は、店員が飲み物を運んできたことによって中断を余儀なくされた。
とりあえず無糖のコーヒーに口をつけ、殺がれてしまった空気を取り繕う。
一方レイも紅茶に砂糖を一杯半ほど入れてゆっくりとスプーンでかき回している。
彼女が一口を飲み終えるのを待ってから、加持は訊ねようとした。
したのだが。

「…男の子が女の子を…こういう風に誘う理由って、なに…いえ、なんですか…?」

不意に放たれたレイの質問に、加持はのけぞる。
機先を制されたどころではない。むしろ超特大級のカウンターパンチだ。
それでもどうにか体勢を整え直すことを試みる。
「そ、それはだな…」
彼自身が端から見ればナンパしているようにしか見えないのを察しているものだから、これはある種の強烈な皮肉だ。
まさかレイがそのような意味を口にするわけはないだろう。純粋に訊いている…はずだ。
そう考えながらも、どうしても抗弁の意識が先に来てしまう。
だが、赤い瞳は真摯な色を湛えてこちらを見つめてくる。
ゆえに加持は曖昧な答えを口に出せなくなってしまった。
覚悟を決めて向き合うことにする。

「それは、一般的なケースの場合かな?」

緊張し、言葉を選んでしまう自分が少し滑稽だ。
女性遍歴がそれほど淡泊なわけではないのだが。
今回はとびっきりの特殊なケースだと自らを納得させる。

「…………一般論としてで結構です」

動揺しているらしいレイの間の空いた返事に、少し余裕を取り戻す。
これで煙草の一本でも吸えれば完璧だが、彼女のことを慮って禁煙席だ。
軽く後悔しながら、加持は言葉を紡ぐ。

「とりあえず、誘った男の子は、その女の子とお近づきになりたいと思っていのは確実だな」
「…お近づき…? 第一次接触…?」
「いや、まあ、かみ砕いていえば、その子に興味があり、色々知りたいと思うわけだ。
 ただ眺めているより、実際に話をしたほうがより分かり合えるだろう?」
「……」

直後のレイの表情の微妙な変化は、加持にとって大変な見物だった。
無表情な頬がゆっくりと持ち上がり、微かな笑みを形作る直前で急降下。
続いて徐々に眉根がより、少しだけ顰めたその姿は、見ようにとっては不機嫌に見えなくもない。
おそらく、アスカ連れのシンジくんにでも声をかけられたのを思い出したのだろう。きっとそうだ。
なんとなく微笑ましく思えるその様相を、加持はグラス越しに眺めた。
なかなかに貴重なものを見た気がする。或いは、これだけで誘った価値があるのかもしれない。

「…お近づきになった後は、どうするんですか?」

今度は、加持は飲み差しのコーヒーを吹きそうになる。
咳き込みながら、上目遣いのレイへ視線を戻す。

「そ、それはだな…」
「…今の質問は冗談です」

涼しい顔で紅茶を口に運びながら、レイはひっそりという。
加持は唖然とする。
おいおい、今日は奇跡のオンパレードか?
よもや、綾波レイがジョークを口にするとは。
今度こそ喉を震わせる笑いがこみ上げてきたが、無理矢理噛みつぶし残ったコーヒーで飲み込んだ。
おかげで、後は氷しか噛み砕くものがない。
お代わりを注文するかどうか悩む加持の前に、厳かにレイは飲み干したカップを置いた。

「お茶、飲み終えましたけど…」

この発言も、どう解釈すべきだろうか。
嫌みかと邪推してしまう自分を加持は恥じる。
これが、綾波レイという少女の普通の反応なのだろう。
ちょっとお茶を飲む=お茶を飲んだらおしまい。
至ってシンプルで当たり前の図式。
だったら、彼女が終わりだと思ったのは止む得ないこと。

と、ついさっきまでは思えたんだろうけどな…。
頭を掻き掻き、加持は伝票をひっつかむ。
どちらにしろ、この短くも貴重な会合は終わりの時間だ。



連れだってファミレスを出る。

「ご馳走様でした…」
慇懃に目礼してくるレイを見下ろし、
「ああ…」
こちらも面白かったよ色々と。
台詞の後半を飲み込んで、加持は微笑む。
どうにもこうにも、この僅か十数分の会話で、綾波レイという少女の評価を大幅に修正する必要がありそうである。

ところが歩み去る彼女の背中に、加持はまた評価を一転させるような感慨を抱いた。
人混みの中、遠ざかる後ろ姿。
大きな月へと向かうその姿の、なんと朧で儚げなことか。
まるでそのまま月まで登っていきそうな錯覚にすら襲われる。
それは、幼いころ読んだおとぎ話。悲しい結末の物語。
でも。

大丈夫だろう。さっきの彼女なら。


Fly me to the moon

無責任な断言と口笛の一小節を奏で、加持も月を背負う。
一軒目の酔いはとうに醒めているのに妙に気分がいい。
さっそく二軒目の店へとしけ込もう。
瞬間的に行き先を決めた。
高いビルのラウンジ。
出来るだけ空へと近い場所で。
そこで酒杯を傾けよう。

歩きながら待ちきれず、加持は煙草に火をつける。
軽く掲げた筒先から、名残惜しげに白煙がたなびく。
これは、彼なりの乾杯。
もちろん背後の月へと捧げたものだった。










つづく



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