「静かなやつにしてよ」


そう呟いてはみたものの、案の定、期待はあっさりと裏切られた。
前奏からの激しいドラム音は音量を絞ったスピーカー越しでも、
疲労に憔悴した彼女の頭を容赦なく揺さぶってくる。
そのやかましさにちっと舌打ちすれば、今度は奇声を上げるボーカルが訳の分からない歌詞を
馬鹿みたいなノリで歌い始める始末だ。そういえば、20世紀の頃にはこんな歌が流行ったっけなぁ、
一体どんな奴がリクエストしたんだろう?と懐かしい気がしないでもなかったが、
今、これが自分の望むところかと言えば、やはり違う。
無論、帰宅中に物憂げに黄昏たいなんて希望は露にも無い。
しかし、二人の子供を預かって以来、面の仮面を剥げる機会がこうして愛車を転がす際に限られたことを考えると、
どうもこのやかましさに、自分の部屋が踏み荒らされたような気分の悪さが拭えないのも確かだった。

「だるいわねえ…」

加えて、残業明けの身体は思いのほか重い。
今日でもう一週間連続だが、忙しさのあまりそんなことは今まで忘れていた。
――あの子たち、喧嘩しないで仲良くやってるかしら?
珍しく、ふとそんな殊勝なことを思ったりもしたが、残してきた仕事の量を考えると、
やはり気が重くなる。しかし、この道を自分で選んだ手前、愚痴をこぼすわけにも行かない。
高い賃貸料を払って借りたマンションは、今や帰って寝るだけのものに成り下がってしまった。
嫌な習慣が身につき始めた自分に、ミサトは老人がするような深い溜息をついて、眉間に苛立ちの皺を寄せる。


愛車のルノーはそんな主人をお構い無しに、すき始めた国道に快速を飛ばす。
エンジンの脈打つ感覚が運転席の身体を小刻みに揺すり、
等間隔で置かれた街灯はサイドウインドウに光の尾を残しながら過ぎていく。
暗幕が下りた空には月が控えめに輝いて、その薄光で道路を青白く染めていた。
そんな中、軽快にハンドルをさばくミサトの顔には、反面、憮然としたものがあった。
本音を言えば、こんな憂鬱な時にはアクセルを限界まで踏み込んで、派手に飛ばしたいところ。
激務で鈍った頭に何かしらの刺激が与えたかった。
しかしながら、違反切符だらけの免許証を顧みるに、そういうわけにもいかない。
無理をして免停にでもなれば、おまんまの食い上げになってしまうことは間違いないだろう。
もう若い頃のようにはいかないのは、道理というものだ。それは彼女も分かってはいるが――。
――ああ!何だか無性にむしゃくしゃする!
ミサトは温くなった缶コーヒーに口をつけ、一人ごちる。

「誰でもいいからぶっ飛ばしたい気分だわ…」

物騒なことを呟いてしまうのは、作戦部長たる所以。
つい前を行く車を煽ってやりたくなったりもするが、それも一つの愛嬌と思ってくれれば良い。
やれガサツだ、やれ家事が出来ないなどと、細かいことで管を巻く男は端から好みではないのだ。
男は寛大であるべき。それが彼女の自論でもある。
まあ、だからいつまでも独り者なのかもしれないけど――。
ふと無精髭の男の顔が浮かんだが、それはすぐに頭の外へと追い払う。
ミサトはやれやれと苦笑した。



そんなことを考えていたら、いつの間にか音楽が終わっていた。
ハンドルを握る力を緩め、小さく息を吐くと、合わせたように番組のDJが軽快な口を開く。

『…はい!というわけで、「私のハートはパステルカラー♪」さんからのリクエスト「MY FIRST KISS」でした。
いやー、曲名のわりに何だか凄い曲でしたねえ。ドラムとギターがぐわぁんぐわぁん唸ってました。
…もしかして、ご本人もこんなノリで初めてを済ませたとか!?
一体、どんなファーストキスだった言うんですか!やだなあもう、あははは!』


「ずいぶんとお元気なことで」

ぽつりと出したその言葉は、ラジオが作り出す雰囲気から完全に浮いている。
自分でもそれを察してか、運転の合間にくすりと笑う。ミサトはぶうんとアクセルを吹かした。


ルノーは丘陵部のトンネルに差し掛かり、薄暗い山吹の電灯の中をDJの派手な声と共に走っていく。
車両は数が随分と減った。時折、対向車線に長距離トラックが過ぎる程度で、
人間の時間の終わりを暗に示している。やがてトンネルを抜けると、周囲の景色も一変する。
賑やかだった街の明かりは林の陰に隠れ、その寂しさを紛らわすように月が車道を微かに照らしている。
壮麗に目の覚めるような光景だった。しかし、それも長くは続かない。


『ファーストキスかあ。ファーストキスねえ。…どうなんだろうねえ、そのへん。
これってリスナーのみんなも何か特別な感情を持ってると思うんだけど…。
…よし!今日は予定を変更して、今からみなさんのファーストキス話をFAXで募集するっていうのはどう?
やっちゃってオッケー?オッケー?…ディレクターからの許可も出ました!
では、早速エミがみなさんの話をお聞きします。せんどみーFAX!くいっくりー!』

情景をぶち壊すように始まったピンク色のトークに、ミサトは呆れたように呟いた。

「ふぁーすときすだぁ?」

――私のはどんなシチュエーションだったっけ?
番組の内容にさして興味は無かったが、ふと、はて?と思い、彼女は記憶の海を模索した。
柄でないのは分かっている。強いて言うなら、耳年増な性格が脳にその思考を駆り立てていた。

しかし、考えど考えど、不自然なほど目当てのモノが見つからない。思いがけない大捜索だ。ミサトは焦った。
DJの言うように、どんな人間であっても覚えていてしかるべき体験。
それを覚えていないのは、女として、いや、もっと還元して人として如何なものか。
ミサトはそんな自分に失望しつつ、まあ私らしいといえば私らしいけど、と一人頷いたが、
しばらくの思案の後、ようやくその状況を思い出し、更に自分に呆れることになってしまった。

「あー、そういえば飲み屋の帰りにノリでしちゃったんだっけ…」

若き日の淡い思い出。いや、この場合、若さの過ちというべきだろうか。
少女時代は極めて美しい状況に夢見ていたにもかかわらず、現実は往々にして厳しい。
ファーストキスはレモン味でなく、ほろ苦い焼酎の味だった気がする。
どうしてこんなことになったんだろうと、その因果を推測してみると、今度ばかりはすぐに思い出した。

(そうだ。あの馬鹿のせいだ…)

がくんと首を落とし、一転して死んだ魚のような目をするミサトを尻目に、ラジオの暴露話は続く。
ティーンの初々しい話から、本当か嘘か分からない奇想天外なものまで、種別は様々。
なかには涙なくしては語れないような話もあったが、まあ私に比べると遙かにマシよね、
とミサトはそのうちに明後日の方向へ完全に開き直る。そして、自嘲しつつクラクションを鳴らした。
即席のブーイングのつもりだった。


――焼酎、焼酎か。そういえば、部屋に土産に貰った芋焼酎があったっけ。
家に帰ったら、あれで久しぶりに一杯やろうか。シンジ君に酌でもさせて。


我ながらこれは良い提案だ、とミサトは満足する。
よく考えれば、ここのところまるで遊んでいないし、たまの休みにも自室で昼間まで寝ている始末だ。
学生の頃には平日に寝坊することはあっても、休日ともなれば、勝手に脳が覚醒した。
近頃そう行かないのは年なのか、それとも疲れが溜まっているのか、自分では判断をしかねるが、
以前とは生活の有様も心持ちも180度変わっている。大人になったと様々な人間に言われるようにもなった。
結局、年を取るというのはそういうことだと思うように心がけてはいる。しかし、実感は沸かない。
学生時代の出来事は今でも昨日のように思い出すことが出来る。その印象は今なお鮮烈だ。

「私もやきが回ったわねえ…」

羞恥に顔を背けたくなるようなラジオを背に、ルノーは控えめな月明かりの下を行く。
日々を無為に過ごしているつもりはない。仕事は大変だが、充実はしている。
友人も職場にたくさんいるし、今では信頼を寄せてくれる部下まで出来た。
恋愛は…いわずもがなだが、まだ女を諦めたわけでもない。チャンスはいつかくる。
案外、近場に転がっていることだってあるかもしれない。
何にせよ、人生はまだまだこれから。愚痴をこぼすのは当分先でいいはずだ。
けれど――。

――この寂しさは何だろう?

人が羨むような職と給与。物足りないといえば、笑われるかもしれない。
それでも、このまま年を取るのもそれは寂しいかもね、ミサトはそう思い、笑う。


まあ別にいいわよね。職務内容はともかく、仕事をして年をとる。平凡なもんじゃない。
そう自分に言い聞かせた。明日も、そのまた明日もこの道を通り、家に戻る。変なことじゃない。
諦観に身を任せつつ、ミサトはハンドルをさばいていく。
やがて、マンションまであと数分、そんな距離に達した時。いつもの景色に見慣れないものが写った。
人影だった。山中の歩道に元々人は少ない。そんなこともあって、物珍しさにふとそちらを見る。
ミサトは「あ」と声を漏らすことになった。


「レイじゃない」

それは見間違いようなく綾波レイだった。ミサトはしかめっ面を作る。
――どうしてこんな時間にこんな場所に?
立場上、よからぬ事を考えてしまうが、当の彼女はいつもの学生服姿で、
いつものように背筋を伸ばし、いつものようにガードレールの内側をゆったりと歩いている。
変わっていることといえば、学生鞄を持っていないことくらいか。
ミサトの疑念を他所にレイはどこまでも普段通りだった。


「中学生の分際で夜遊びたあ、感心しないわね」

とはいえ、この状況ではそれがどうこう言える材料には当然ならなかった。
彼女のSPが何を考えているか知らないが、大切な人材におかしな真似はさせられない。
もちろん、社会通念の上でもそうだ。
レイはミサトの管轄下ではない。しかし、これを見逃したとなれば、作戦部長の名が廃る。
一声注意するついでに、アパートまで送り届けるのが取るべき正しい行動というものだろう。


ミサトはふむと頷き、注意の言葉を慎重に選択する。
あまり尊大になるのは気が引けた。レイのことはあまり知らないからだ。
ここは初犯だし、軽くしておくのが寛大な処置、大人の対応というものだろうか?
いや、怒る時はびしっと決めなければ、それこそ本末転倒ではないのか?
いくらこちらが心配に思っても、相手の心に響かなければ何の意味もない。
昔から甘いとよく言われるし、やっぱりここは一つ心を鬼にして――、
って、それが出来りゃあ苦労ないのよね、とミサトはやはり頭を抱えた。

取るべき態度も決まらぬまま、暗がりの歩道に寄っていく一台の車両。
そして、ええい、もういったれ!と腹をくくり、いざクラクションを鳴らそうとしたその時。
彼女は全くの不測の出来事に息を呑むことになった。

あれこれと用意した言葉が使われることはなかった。
使えなかったといってもよい。


――あれは本当に綾波レイだろうか?
横顔を見た際、そんな馬鹿馬鹿しい疑問が胸中を支配した。
外見だけ見れば、綾波レイだ。容姿の特異さを含め、それは間違いない。しかし、何かが違った。

瞬きをするのも忘れ、闇夜の少女を見る。不覚にも眼が奪われていた。
街灯と月光が混ざった半端な暗闇を行くその小さな背。しかし、普段の覚束無さはない。
凛とした足取りは力強く、一転を見据える瞳が不思議と頼もしくさえある。
また、その端正とした目鼻立ちはレイが少女ということを忘れさせるほどに美しかった。
普段、あれだけ目立たない少女がこれほど印象が変わるものなのか?
見慣れた少女をまるで違う人物に見せているもの。それはおそらく、ごく小さな何かだ。
一体どんなものだろうと考えてはみる。しかし、それも結局、苦虫を噛み潰す結果に終わってしまった。
喉まで出かかってはいた。けれど、言葉には出来ない。
そうすることは躊躇われる。何故か、気恥ずかしかったのだ。


混迷する主人を象徴するように、ルノーもまた不審者のように低速でレイを追っていく。
何を馬鹿なことをやってるんだろうと思わなかったわけでもない。
けれど、何よりミサトはもう少しこのままでいたいと思った。レイを見ていたいと心底思ったのだ。
二人のこの奇妙な距離感はしばらく続いた。それもやがて様変わりすることになったが。


気を取られるあまり、一瞬、ハンドル操作がぶれる。そしてヘッドライトが計ったようにレイを照らした。
薄汚れたアスファルトに、等身の姿が映える。出来た影はくっきりとして、今の彼女に相応しい趣を匂わせる。
そんな中、レイは髪をかき上げ、こちらを向いた。ミサトも思わず見返す。唾をごくりと飲む。

人口の安っぽい光の上で二人の視線が交錯する。
やがて、レイの口元が一度歪む。――笑っていた。ミサトに向かって。

――いや、笑いかけたように見えた。

一瞬の出来事だった。レイはすぐにまた踵を返し、あっけにとられるミサトを置いて闇の中へ消えていく。
相変わらずのゆったりした歩調で、こちらを振り返ることもせずに。
ミサトはぼんやりとその後姿を見ていた。時間を忘れたように見入っていた。
誰もいなくなった国道のど真ん中、ルノーは主人を急かすようにエンジンを吹かす。
しばらしくて、思い出したように呟いた言葉は本音だ。不思議な幸福感が胸を満たしていた。

「可愛いなぁ、ちくしょう」

ごめんね、愛車にそう声を掛けて、ミサトは一気にアクセルを踏み込んだ。
すさまじい轟音を上げながら、ルノーは一瞬で加速する。
開けた窓からは空気がヒュウと刃物のような音を上げて、車内の爽快さを増していく。
やっぱり車はこれでなくちゃ!
と、久しぶりにそう感じる一方、爆音に混じり忘れかけていた微かな声が一つ。

『やっぱりロマンだよね!』

そんなこと知ってるわよ!ミサトはDJに向かって意気揚々と怒鳴りつける。
気分はこの上なく高揚した。疲れなどどこ吹く風。誰がなんと言おうと絶好調だ。
今日は飲もう。誰が止めたって知らない。絶対に死ぬほど飲んでやる!

『えー、では10時台最初のリクエスト。「さらば青春の光」でどうぞ!』

月明かりに青くなった国道にルノーが快速を飛ばす。
街はもう深夜の入り口に差し掛かっていた。





つづく
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