金曜日の夜ともなれば、1週間のイヤな思い出を忘れて束の間とも言える週末の予定を立てるのに忙しい。
なかには翌日をまち切れずに自由を楽しむ人間もいる。
普段から抑圧の多い人間であればなおさらだ。

幸いこの第三新東京市は物資の面ではおおいに恵まれている。
首都である第二新東京市と比べるには辛いものがあるが、人口規模を考慮しても十分恵まれているだろう。
物資に恵まれていると言うことは、即ち経済活動が活発であると言うこと。
そして経済活動が活発なのであればサーヴィス業を生業とする店舗も軒を連ねると言うこと。
事実ネルフと言う強力なバックボーンを持ったこの街は、まさしく昼も夜も眠らずに鼓動を放っていた。

 

そんな街を彩るのは、当然1人で急ぐ乾いた空気よりも仕事仲間と交わすアルコール混じりの会話、旧友と華を咲かせる昔話、恋人たちの甘い会話がふさわしい。
飲食街ともなれば、その傾向は顕著である。
行き交う人は連れとの会話に忙しく、見知らぬ人と肩が触れ合いそうになることもしばしば。
「袖触れ合うも他生の縁」と言うように決して殺気立つわけではなく、軽く会釈をして終わる事が多い。
ここ第三新東京市にいるということ、それだけでも連帯感を持たせているのかもしれない。

しかし、そんな人込みの中でも一際目立つ2人がいた。
まず高校生とは思うには若すぎる学生がこの時間歩いていること。
それに彼らが歩くには似つかわしくない繁華街を歩いていること。
そして・・・多分、これが最も大きな理由だろうが・・・夫婦漫才と言うべきやりとりを先ほどから続けていること。
これらの理由があいまって、彼らの周りには何とも言えない空白が生まれている。
平和とも言いがたくなってきた日々ではあるが、すれ違う人は皆そんな彼らを微笑ましく思ったに違いない。
むしろ平和とは言いがたくなってきたから、そんな平和なやりとりが持つ『幸せ』の意味を深く感じ取るようになったのかもしれない。

 

「アイスクリーム食べたいからって、この時間に出歩くのもどうかと思うけど?」
夫婦漫才の片割れ・・・シンジ君が隣を見ながら言った。
「しょうがないじゃないの
大体アンタがハーゲンダッツを常備してないのが悪いんだから
当然今日はアンタのおごりよ、おごり」
胸を張るアスカ嬢は軽く髪をかきあげた。
紅茶色の髪はビルのイルミネーションを受けて明るく輝いていた。
「んじゃコンビニで買ってきても良いんじゃないの?
わざわざハーゲンダッツショップまで食べに行かなくたって・・・」
シンジ君は不満げにぶつぶつと言っているが、そんな彼の頬をアスカ嬢が「うりゃっ」という掛け声と共にひっぱる。
「そりゃ家にあったらそれで手をうっても良かったけど
同じ買いに行くのなら、美味しい方が良いじゃないの」
「いたたた
痛い、痛いって、アスカぁ」

涙目になりながら頬を押さえるシンジ君の手をアスカ嬢は取った。
指まで絡めてしっかりとにぎりしめる。
「ほら、さっさといくわよ」
スカートの裾を翻してアスカ嬢は走り出した。
決して無茶な速さではない。
シンジ君が頬を押さえながらでも十分ついていける速さ。
・・・きっと、これがこの2人の距離なのだろう。
アスカ嬢が行くべき方向を示し、でも彼が追いつける速さで向かっていく。
彼は彼で自分の意志で彼女を追いかけて、時には彼女をサポートして、時には意見する。
誰もが、そんな若い2人を感じ取って微笑ましく見つめていた。

 

走る2人は、当然周囲の人にぶつからないように視線を巡らせながら走ることになる。
スーツを着た会社員やラフな格好をした学生は珍しくない。
彼らが疾走する2人に目を丸くするのもいつもの事。
しかし・・・ジャンパスカートを着た中学生が振り返るのは、珍しいと言えるだろう。
目に留めたアスカ嬢はいぶかしげに思った。
自分が普段着ている服と同じだからだ。
そして極め付けは彼女の髪の色。
夜にあって尚明るい空の色。
不安が確信に変わる。
「綾波?」
後ろから聴こえるシンジ君の声に、アスカ嬢は自分の見たものが錯覚でないことを理解した。
同時に後ろからブレーキをかけられた様に駆けていた脚が緩む。
乱れた吐息を宥めながらシンジ君が彼女に声をかける。
「珍しいね、買い物?」
彼女の手にはコンビニの袋が握られていた。
中にはペットボトルと幾つかの箱が見える。
「ええ
・・・碇君は?」
小さく問い返したレイ嬢の言葉に、アスカ嬢は訝しげな表情を見せた。
彼女が知るレイ嬢は他人の事にそこまで興味を持つ少女ではない。
「まさかね・・・」
自分の想像を否定して、アスカ嬢は心の平安を取り戻した。
「アスカとアイスクリーム食べに行くんだけど・・・綾波も一緒に来ない?」
乱れた息を整えながら、シンジ君はそう提案した。
喋る相手を正面にみているため、当然不機嫌な表情を見せるアスカ嬢を視界にいれることはない。
レイ嬢の視界には、小首を傾げて彼女を伺うシンジ君と、その背後であからさまにイヤそうな顔をするアスカ嬢が見えた。
「判ったわ」
アスカ嬢がどんな表情を見せるのか確認する前に、レイ嬢はくるりと来た道を振り返る。
イルミネーション煌めく歩道はとても明るい。

 

 

期間限定のトッピングを手に、店の一角を三人が占めている。
丸いテーブルを等分に位置しているのではなく、アスカ嬢とシンジ君が隣り合い、その向かいにレイ嬢が座っている。
つい先ほどまで不機嫌だったアスカ嬢も、期待以上に美味しかったアイスクリームにご機嫌である。
シンジ君も軽くなった財布を多少気にしながらレイ嬢の分まで支払っていた。
経済観念のしっかりしている彼の事だから、出しても良いと思ったことには徹底して財布の紐が緩い。
自分の分は払おうとしたレイ嬢も
「僕が誘ったんだから、僕に支払わせてよ・・・それとも、僕の奢りじゃイヤ?」
なんて言われてしまったら、断る言葉も失ってしまう。

「で、アンタこんな夜更けにナニしてたわけ?」
自分のカップとシンジ君のカップ、両方に対して均等に手を付けたアスカ嬢が口休めとでも言いたそうにレイ嬢に声をかけた。
「買い物」
シンジ君は彼女の隣にある白い袋に目を止めた。
「あと・・・」
迷い素振りがアスカ嬢の視線をつなぎ止めた。
暖かい紅茶のカップに口を付けたままシンジ君も彼女を見つめる。
「月が、綺麗だったから」
静かに紡がれた言葉に気づいたように、2人は空を見上げる。
広く取られた窓から覗く月は確かに蒼く輝いていた。
天高くとは行かなくても、高層ビル群の間から覗くそれは幻想的と言う言葉ではなお足りない迫力。
「ホントだ」
見上げるシンジ君の手をアスカ嬢がにぎった。
「これならアンタが出歩きたくなる気持ちも解るわ」
アスカ嬢のみせる表情はとても柔らかく、温かい。
その言葉を受けて彼女はゆっくりと微笑んだ。

 

ウェハースを小さく齧るレイ嬢をシンジ君は幸せそうに見つめている。
「なに?」
視線に気づいてレイ嬢が尋ねる。
「美味しい?」
頬杖をついて、両手に顎を載せたシンジ君が聞いた。
「ええ」
「そう 良かった」
その言葉と表情が眩しくて、レイ嬢はうつむいてしまった。
「ちょっと アタシには聞かないの?」
横目に睨みつけながら、アスカ嬢は肘でシンジ君をつつく。
「聞かなくても判ってるから」
「むぅ  つまんないオトコねぇ」
「でも一応聞いておこうかな
美味しかった?」
間近に「どう?」と問い掛けるシンジ君の顔を見て、アスカ嬢は思わず赤面する。
「ま、まぁまぁよ」
彼女の場合、「まぁまぁ」というのは最上級の賛辞である。
「そっか・・・
前から食べたそうにしてたから、今日来れて良かったよ」
安心したような言葉と笑顔に、アスカ嬢はもう一度顔を熱くした。

 

「じゃぁこのへんで」
「ええ」
「今度、また来ましょ?
そうね・・・次は夕陽の綺麗な時間でも良いわね」
お互いに短く言葉を交わし、レイ嬢と別れる。
当然アスカ嬢とシンジ君は同じ方向へ、レイ嬢は彼らとは反対方向へ向かい、2人の背中で雑踏に紛れた。

「ねぇ
このまま帰らなきゃ、ダメ?」
時計はそんなに遅い時間を指しているわけではない。
「ミサトさん、早く帰るとは言ってなかったっけ」
ぱっとアスカ嬢の顔が明るくなる。
そんな彼女を見て、照れ臭そうに彼女の手を引いた。
「もう少しだけ、ね」

何処か見晴らしの良いところへいくわけでもなく、ただただのんびりと歩くだけ。
それでも、同じときを共有しているだけでも、隣にいる人の事を思えば特別な時間。
「なによ、不思議な動物見たような顔したりして」
「別に・・・」
「ふん
どうせアタシが素直なのが珍しいんでしょ」
「ま、まぁそういう言い方もあるかな」
しぶしぶ頷くシンジ君に、アスカ嬢は微笑んでみせた。
「しょうがないじゃない
月は人を狂わせるって言うんだし
今夜限りかもしれないんだから、アンタも、ね?」
弾けるような笑みを浮かべて、彼女は彼の腕を抱きしめた。

「は、恥ずかしいよ」
「アタシは恥ずかしくないわよ」
顔を紅くする彼を見て満足げにアスカ嬢は返す。
気づけば人通りは殆どなく、終業時間を迎えたオフィス街は家路を急ぐサラリーマンが去った後。
「あ、ここなら月綺麗」
摩天楼が星の光りも遮るようなところではあるが、聳えるビル群の間に月が見え隠れている。
ぺたり、と歩道脇、人影も見えないビルのエントランスにアスカ嬢は腰かけた。
当然腕を抱きかかえられているシンジ君もそれに続く。
ひんやりとした大理石の質感が頼もしい。

「月って言ったら綾波のイメージがあるんだよね、僕の中には」
「悪かったわね、月の持つ繊細なイメージとか縁のない女で」
「誰も悪いなんて言ってない
・・・アスカが来る前だったけど、あの時も今日みたいに綺麗な月の日だった
あの日綾波が護ってくれたから今僕はここにいられるんだ」
真っすぐ見つめるアスカ嬢の視線を受けながら、シンジ君は月を見つめる。
見つめ続ける。
むぅっと膨れたアスカ嬢はシンジ君の頬をぎゅっと引っ張る。
「レディの前で他の女の話をする?」
「いたたた
ただ、月から綾波を連想するって話をしただけじゃ・・・」
言い返そうとしてアスカ嬢の迫力に押し返される。
ずいっとにじり寄るアスカ嬢によって、2人の距離が更に近くなる。
狭くなる。
上半身を動かすだけで唇に触れられる距離で、シンジ君はくすりと笑った。
「なによ」
「アスカのそういうところ、可愛くて好きだなぁって」
「な・・・何を・・・」
「ホントだよ?」

アスカ嬢は言おうとしたことが全部頭から飛んでしまったようで、口をぱくぱくとさせている。
そのままぐっと、恥ずかしさを噛みしめるようにシンジ君の顔を見つめる。
「な、なに?」
「えいっ」
掛け声とともにシンジ君の脚の間に腰を下ろし、背中を彼に預けてしまう。
「ちょ、アスカ?」
彼女の髪が鼻先をくすぐった。
振り返って上目遣いの彼女は、びしりと指を突きつける。
「これは、アタシがしたいって思ったんじゃないの
月を見てたらこんな気分になっただけなんだから
だから、ここから月が見えなくなるまではこうしてなさい
良いわね?」
「判ったよ
アスカのせいじゃなくて、月のせいなんだから仕方ないよね」

 

月がビルに隠れたとき、どちらからともなく立ち上がっていた。
「帰ろう?」
「うん」
「・・・アスカがよければ、なんだけど・・・」
「なによ」
「また、月を見に来ようか?」
「そうね」

 

つづく

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