随分と遅い時間になってしまっていた。
 常ならばとうに眠ってしまう時間。綾波レイは未だ起きていて、帰宅すらしていない。
 栄養を補給するべく、コンビニに行く。水と食料を買う。帰る。食べる。寝る。それだけのばずだった。それで充分なはずだった。
 それがどこでボタンを掛け違えたのか、気付けば日付が変わるまで街の中を徘徊し、様々に出会った。誰も彼も少し変だったのは、きっとこんな月夜だから。レイはそう信じている。少なくとも自分に原因があるとは思っていない。
 市街地の外れ。再開発地区。そろそろ住処も近づいて、周囲はレイにも覚えのある景色になってきた。
もう帰ろう。そういう気分に、レイはなっている。この月は惜しいけれど、さすがに今夜はコトが多過ぎた。幾多の出会いがもたらした感情の振幅が、彼女の精神に慣れない負担になっていることに、レイ自身気付かないまま歩く。
 が、彼女がもうひとつ、気付いてない――否、知らないことがあった。
 今が、俗に言う『丑三つ時』であるということ。

「――おぅい」
 レイの肩が小さく揺れた。彼女の驚きの表現としては、およそ最大級。反射的に足を少し開き、こころもち体重を爪先に移す。全く気配のないところから、声をかけられた体験は、かつてなかったものだ。
 ゆっくりと振り返る。通る者とてない寂しい街路。誰もいないことはひと目で知れた。
「――おぅい」
 もう一度同じ声。少し上からのものと判り、レイは顎を上げる。

 かなり異様な女が、かなり異様な場所に座っていた。レイが見上げた先は、貧相な光を放つ街灯――この地区にどれだけ人が住んでいるかを考えれば、あるだけマシな方なのだろう――どうやって昇ったのか、その上にそいつは座っている。
 熱帯夜と呼ぶほどに暑くはないが、Gジャンを着るほどの寒さではないと、レイは思う。その袖に有刺鉄線をぐるぐる巻き付けているのは、何かの武装かしら?と、推測してみる。そのGジャンはボタンを留めずに、前を大きく開いている。やはり暑いのだろうか?その下は何も着ていない。ほどほどに膨らんだ胸を晒しているが、辛うじてその先端は隠されている。が、下着とも呼べず、遠目に見てもシールであろう。左は、どこかの国旗のようなデザインで、右は何かの公式キャラクター風の微妙にファンシーで微妙に間抜けな動物。緩く括れた胴から下は、ごく普通のデニムのミニスカートだが、ベルトの代わりだろうか、どう見ても自転車のチェーンにしか見えない鎖を三本、腰に巻いている。そこから伸びた肉の少なげな脚。左の太腿には些か凝った造りの金属製の環が嵌められていて、そこから20cmほどの鎖が伸びている。足下は素足に下駄。その横っ腹には明らかに手描きと判るナイキのマークが無意味に剣呑な主張をしている。

 と、これほどまでに正気を疑うスタイルをしていながら、首から上は、ごく普通だった。レイには普通に見えた。薄蒼い髪。紅い瞳。その顔を形作る全てが、自分――綾波レイ――と寸分違わず同じだったからだ。
違うのは、その表情。『面白そうなものを見た』と、そう言いたそうな顔だと、レイにも読めた。そんなあけっぴろげな顔のまま、
「こんばんわ」
 言って、そいつは笑った。レイには決してできない、肉を喰らうような笑顔だった。

「――あなた誰?」
 彼女たちが日夜、命を的に戦っている相手。天使の名を持つ敵。真っ先にそれを思った、が、刹那ほどもかけずに却下する。目の前のこれには、あまりにも抑揚がありすぎる。言い換えると、遊びが多い。理論的ではないが、そう感じて、そしてそれは間違っていないのだと、レイは思った。
「誰――誰――あなた誰?――ぎゃはははははははっ!」
 自分と同じ顔をしたそいつは、唄うようにレイの台詞をなぞると、唐突に笑い出した。身をのけぞり、大口を開け、心底面白いと言わんばかりにげたげた笑っている。
「あんたが言うかそれ?顔が同じだけで不審者扱いか?あんたと同じ顔なんて――『いっぱいいる』だろ。あん?」
 ぶっきらぼうなのに、やけに粘り気のある口調で言う。確かにレイもそれに思い当たった。地下のなお地下に浮かぶ自分と同じ身体。しかし、これはありえない。身体はあんなにたくさんあるのに、魂はたったひとつだけ。それは今ここにある。はず。だから、目の前のこいつは、わたしのものじゃない。
「あなた誰?」
 だからもう一度訪いた。判らないのだから、それしか言い様がない。
「――は、ぁ?」
 そいつの声音が一変した。自分と同じ顔というだけで誰だか知らないし、何の用があるのか見当も付かないが、怒っている、とだけは知れた。
「おっまえなぁ。あんましナメたクチ利いてっと――死なすぞ?」
 言い終わると同時に、レイの左腕が根元から千切れ飛んだ――ような気がした。重い衝撃に続く、脱臼とも骨折とも違う痛みを、確かにレイは感じた。
「か、はっ!」
 肺の空気を吐き出しながら、レイは己の左肩に手をやった。まだ繋がってるのかを確かめたかった。
 ――繋がって、るっ。
 左腕があることを確認し終わる前に、今度は腹に衝撃が来た。何故か、外からの打撃ではなく、内側から内臓が破裂したかのような。
「――っ!!」
 声さえ出せずに身を震わせるレイ。二度とも、見ていたから判る。そいつは街灯の上から一歩も動かず、彼我の距離推定16mをなかったことにして、彼女に攻撃を加えている。
 判らない。全く判らない。何をされているのか、何故こんな目に遭うのか。膝が震えているのは、激痛のせいだろうか?それとも――確かなのは、レイが二歩後ろに下がったことだ。まるで逃げるように。

「あれ?もしかして死にたくない?生きたいとか思ってる?いーじゃん。あんた死んでも代わりいるし。すぐ次の出てくるし。誰も困んないし」
 左右の眉の高さを変えて、あからさまに蔑むそいつの顔を見据えて、レイの理性が、そいつの主張を肯定していた。確かに代わりはいるのだ。何も間違ってない。レイ自身そう思っている。いた。しかし、今夜この場で、この月の下で、こいつに殺されて、次の自分に引き継ぐのは、何故か無性に嫌だった。
 その理由を探らなければならない。見つけ出して、目の前のこいつに叩き付けなければならない。そうしなければ、こいつは必ずわたしを殺す。そういう直観を、レイは信じた。
 しかし、寄る辺は何もない。『良く判らないけど、嫌』という感じ方を、レイはしたことがなかった。思うことには必ず原因があり、結論に至る道筋があった。全てを因果の式に当てはめて、今まで問題なくやってきた。だから、終点だけがあり、始点も経路も判らないこの感覚は、レイを不安にさせた。
 その不安が、さらに一歩、彼女を後退させる。いっそ後ろを向いて駆け出してしまいたかった。が、そうすれば間違いなく、背中から真っ二つにされる。その光景がありありと脳裏に写る。
「そろそろ、頸、イッとく?」
 そいつは、半分興味を失いかけた顔で言った。飽きた玩具を捨てるように、もう自分は殺されるのだろう。と、レイは思った。そして、そいつの肩越しに浮かぶ、銀色の月を見たとき、呼び起こされた彼女の記憶は、走馬灯のような司令との思い出の数々――ではなかった。彼女の精神が触れたのは、全て今夜の出来事たちだった。

 路地から見上げた月を想った。予定外の深夜の散歩に自分を誘った、あの月輪の輝きを想った。

 シンジやアスカと食べた、アイスクリームの甘さを想った。味加減を訊いたシンジの眼差しの柔らかさと、赤らんだアスカの頬を想った。

 加持と飲んだ紅茶の熱さを想った。自分の質問に面食らう加持の、良く動く表情を想った。

 日向と並んでもたれた駐車場のフェンス。その冷えた感触を想った。缶コーヒーと一緒に苦そうな何かを飲み込んだ日向の横顔を想った。

 頓狂な挙動ですれ違った青のルノーを想った。ドライバーシートで「信じられないものを見た」と言いたげだったミサトの見開いた眼を想った。

 派手なくせに、妙に印象に残らない青葉の困ったような顔と、何故か左手に握ったままの携帯電話を想った。

 生まれて初めて見た夢。胸乳を滑る冷えた指先。己の語彙では表現できそうにない赤木ナオコの感情を想った。

 落ちてた万札に必死に飛びつく温泉ペンギン。死闘の末に勝ち取った葉っぱでできた本を大事そうに抱える、滑稽だけど真剣なその姿を想った。

 勝手に自分の写真を撮ったりするくせに、通り一遍の事しか言わないケンスケ。もっと他の事を言いたそうだったその素振りを想った。

 夜道に突然躍り出た,極めて挑戦的な黒猫を想った。電話から聞えていた、赤木リツコの、興味やら嫌悪やらもしかしたら憐憫やらがごた交ぜになった声音を想った。

 異臭を放ち、鳴咽流涕しながら自分に抱き付いた冬月を想った。自分に縋りながら、そのくせ全く自分を見ていない老人の指の震えの悲しさを想った。

 深夜の街ですれ違った三人の少年少女を想った。誰だか知らないけれど、わたしを知ってる誰かさんたち。一瞬で悟れるほどの、あの羨ましい絆を想った。

 道っ端に座って、月を見ながら酒と思しき液体を呑んでいた女性を想った。顔は知っているのだけれど――。その容の良いくちびるから流れ出た、詩のような詞のような。その旋律を想った。

「――ぁ」
 不意に、今夜の全てが繋がった。ような気がした。
 レイは、その感覚を必死に纏めようとしたが、断片的な言葉が頭の中から胸の内をぐるぐると巡るだけで、意味のあるものとして組み立てることができない。

 ――金属のよう――柔らかくて――どこへ――冷たい――変わってるの――知らない――すき――見たことが――誰――ニオイ――ゆらゆら――おなかに満ちて――変ですか――音――そうやって見るの――きれいな――少し甘い――

 言葉らしきものの奔流は、やがて少しずつ一本の流れになり、ゆっくりと頭の中に溜まっていった。溜まりきったそれらが、残らず腹の底まで落ちて、そうして、レイは、一歩、前に出た。
 今にも彼女の息の根を止めようとしていたらしい、街灯の上のそいつは、『へぇ』とだけ洩らして、軽く笑ってみせた。

「今まで、今夜、わたしに触れた、わたしの出会ったひと全てがわたしを作っている」
 ひと言ひと言確かめるように、レイは言った。
「どんなにわたしがたくさんいたって、今夜と同じことはもう起こらない」
 落ちかけた膝をゆっくり立て直す。本物の負傷でないせいか、それ以外の理由でか、左腕と腹の痛みはかなり和らいでいた。
「今夜の出来事はわたしのもの。わたしだけのもの。だから――」
 一際強い視線で、レイはそいつを見て言った。
「だから、この魂はわたしのものなの」
 右手で己の胸を押さえ、彼女にできる一番高らかな声で。
「次なんて関係ないの。今のわたしのものなの」
 その瞬間、何の脈絡もなく、何かの真ん中にいたような気が、した。

「――っかははははははっ!」
 身を反らせて、そいつは高らかに笑った。嘲笑うような感じではなく、思いもよらない応えをしてみせた小児に向けるような、可笑しみと驚きと少しの賞賛が混じった、それは笑いだった。
「聞いたかっ!聞いたかおい!分不相応な卵を抱かされた婢女!予め抉られる定めの姥桜!」
 自分に向けられた声ではないと、レイにも判った。彼女はこちらを見ていない。かと言って黝い天空を見てもいない。真っ正面を見据えて、強いて言うなら全てを見ていて、それでも実体のある何かを見ているようでもなかった。
「この女童は!遂に誰でもない己を手に入れたぞ!見据えてやれ!見守ってやれ!お前が胎を喰い破られるその日まで!あはははははは!」
 ひとしきり意味不明な哄笑をしてのけて、ようやくそいつはレイに視線を向けた。
「ん。あー、その、なぁ」
 何と応えて良いものか、レイには判らない。
「結構ユカイな応えを聞かせてもらったから、あんた殺すの止めるわ。うん、そんくらいユカイだった。こーゆーのがいるから、止められねーんだよなぁ」
 声の底には、もうどろどろしたものは残っていない。
「もう逢うこたねーと思うけど、まぁしっかりやんな。最後まで、その――」
 後ろ髪をぽりぽり掻きながら、そいつは言う。その仕種が、何故か好ましく見えた。
「その、やり通してみなよ。自分ってのを」
 そいつがもう自分の前から消えるつもりであることを、レイは悟った。既にそいつの素性を確かめたい気持ちは、レイの中にはない。だから、代わりに言いたいことを言うことにした。
「チョコレート、食べる?」
 我ながら意味不明の誘いかけだったが、自分と同じ顔の、この得体の知れない女と、何かを分かち合いたくなったのだ。――このひとも、今夜出逢えたひとなのだから。
「は?」
 そいつは、さすがに想像もしてなかったのか、ぽかんとした顔をして、それから、
「そいつぁ嬉しい申し出だけど、あたし、もの食わねーから、さ」
 言う通り嬉しそうで、でもとても寂しそうに、懐かしそうに、言った。
「んじゃ、ね」
 そいつが片手を挙げた瞬間。最初からそこにいなかったように、そいつは消え失せてしまった。どうやって消えたのか、そんな方法を詮索することを拒絶するような消え方だった。
 しばらく、何もなくなった街灯を見て、レイは、コンビニ袋を地面に落としたことに気付いて、拾った。その場を立ち去る気には、まだなれなかった。

「――いなくなったのね。もう」
 そう口にして初めて、レイは、そいつの事が好きだった自分に気付いた。出会って10分かそこらの仲だったにしろ、喧嘩腰の口調で危うく殺されかけたにしろ、自分と同じ顔でころころ表情を変えてみせる様が好きだった。思い返してみると、最初に見たとき意外、レイはそいつの顔しか見てなかった。大口を開けて笑う顔、あからさまに不愉快さを示す顔、呆気に取られる顔、殺意に満ちた顔、楽しい何かを見る顔。きっとわたしがああいう顔をしたなら、こんな風に見えるのだろう。

 ――でも、わたしはあんな顔はできないし、これからもしないような気がする。だってあの顔はあの人のもので、わたしのものじゃないから。わたしのものがわたしを造るように、あのひとのものがあのひとを造るのだろうから。もう逢うこともないなんて言ってたけれど、それは取ってはいけないものなの。

「でも、もう一度くらいは、逢えるのでしょう?」
 見上げた視線の先。未だ空に浮かぶ月に、レイはそう言った。
 そいつはもういるはずもないのだが、何故だかそれは正しいことのように、彼女には思えた。




 つづく。
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