水しぶきが白い肌に跳ね返り壁と床に飛び散る。
 陽に焼く機会が殆どないせいか彼女の肌は白い。ただ日本人としてはと言うだけの話で、クォータ
ーであるアスカほどの白さではない。それでも殆ど手入れもしていないのに三十路を迎えてこの肌の
艶はネルフの女性職員の中でも羨望の的だった。もう一人の女性部長の方は特別視されているので
特に羨望の的にはなっていない。何故ならあれだけ酒好きで生活にだらしがないという噂なのに、あ
の美貌とスタイルなのだ。あれは先天的なものだと思われていた上に、そんな不摂生をしてもかまわな
いという彼女の肉体に対する嫉妬が働いているのである。その上、女性職員のほとんどは内勤だ。ア
クティブな立場の葛城ミサトよりも研究畑の赤木リツコに好感がもたれるのは当然だった。何よりも、ミ
サトは男性職員にウケがいい。それが最大の理由だと言える。
 さてそのリツコも美人だ。それなのに男性職員からのウケは極めて悪い。おそらくは男に媚びないそ
の態度が問題なのだろう。びしりと核心を突いて情け容赦もなくフォローもなく、そんな調子でものを言
われればほとんどの男はカチンと来る。男性職員の好意がミサトに集まるが故に女性職員はリツコの側
に立つ。伊吹マヤなどはその最先鋒だろう。同僚の日向マコトがミサトを誉めそやすのをあきれたような
目で見ているのが常だ。
 ミサトと比べられているからかもしれないが、リツコのスタイルの良さはそれほど目立たない。あくまで男
性からは、である。シャワールームなどではリツコの裸身は同性から陶酔した目で見られているのだ。中
でもマヤは…と書き出すときりがないので彼女のスタイルの良さはマヤたちの折り紙つきだということで結
論としたい。
 ただしリツコは誤解を受けている。男嫌い。もしかするとまだバージンかもしれないとまで噂されていた。
その噂の延長線上がレズだという話。何人かの女性職員がその絶妙なる愛撫で身も心も蕩けさせられた
と。その噂を聞くたびにマヤは何故一番身近にいる私には何もしてくれない…というアブノーマルな話は
完全に脇においておこう。
 現実にはリツコはきわめてノーマルだった。身体を許した男はただ一人。愛人関係にある碇ゲンドウそ
の人だけだ。加持に背中から抱きしめられることはあっても、挨拶代わりのキスすら誰ともすることはない。
いや、とんでもないことに実はゲンドウともキスをしたことがなかったのだ。ゲンドウとは愛人関係といっても
身体で繋がっているだけ。ボディーソープで泡まみれにしている形の良い乳房さえもゲンドウは触れもし
ない。欲望を満たすだけの道具。
 そう、リツコはゲンドウにとって性欲処理の道具に過ぎなかった。彼女はあの男にとっての自分の存在
価値をそのように解釈していたのだ。

 そのとき、扉の向こうから警報が鳴った。
 無表情にシャワーを浴びていた彼女の目に生気が戻る。リツコはシャワーを止めると、流れ落ちる雫も
そのままに扉を開けた。リツコの研究室は厳重にロックされている。中からロックを外さない限り尋常の手
段では進入することは不可能だ。そのためにリツコは平気で裸身を部屋の空気に晒した。バスタオルを
引っつかみまず腕を拭きながら端末に向う。濡れた身体や髪よりもキーボードを操作する手の水分を取
り去ることを優先させるあたりはいかにもリツコというところだろう。もちろん手の次には髪にタオルをかぶ
せ左手でごしごしと乱暴に擦る。たんねんに拭いている暇はない。まず何が起こったのか確認しないと。

「赤木です。どうしたの?」

『保安部、石塚です。ファーストチルドレンをロストしました』

「また?」

『申し訳ありません。今度は反応も消えてます』

 上司でもない女に嫌味な口調で問われ咄嗟に謝ってしまう。これがリツコに対したときの男たちの基本
パターンだ。だからこそリツコは嫌われる。彼女自身にそういう意図はない。端的に事象を掴みたいだ
け。別に謝罪は要求していない。逆にそんな言葉は必要ないのだ。
 一回目のロストの時は反応は消えずにレイの姿だけが消失した。しかしそれはほんの3分程度。地面
に横たわっていたレイを見逃しただけではないのかと言う声が保安部にも上がっていた。だが今回は様
子が違う。反応がないということは持たせている携帯電話を落としたのか壊したのか。それならばよい。
問題は第三者に連絡が取れないようにさせられた。反ネルフの勢力が存在するからこそ、チルドレンに
は護衛がついているのだ。ただのポーズでしていることではない。
 リツコは端末で状況を辿った。霧が出ていた。神社の階段を抜けたあたりで森の中に見失った。その
数分後反応も消えた。なるほど…とリツコは目を細めた。

『ロスト地点を中心に周囲3km人員を配置します。それから幹線道路に…』

「待って。あと30…いえ、15分でいいわ。大事にしなくても大丈夫」

『何故ですか』

 噛み付いてきそうな勢いだった。彼の立場ではやむをえないだろう。責任を取らねばならないのは彼
なのだから。だが論理的なはずのリツコにしては珍しくその説明はできなかった。あの停電事故以来、
第3新東京市にテロやスパイの侵入は確認されていない。それにレイを誘拐する計画があったとしても、
無計画的に街を彷徨っているレイを待ち伏せることはかなり困難だろう。後を追うには保安部が邪魔だ。
保安部が殺傷されたのなら話はわかるが、彼はレイを見失っただけで他の人間は一切確認していない。
そこでリツコが連想したのがシンジの話だった。第3新東京にはじめて来た時、陽炎のように立つレイを
見た。もちろんその時、彼女はジオフロントの中。出撃のために待機中だったはず。だが、その時シン
ジはレイのことを何一つ知らなかったはず。となれば幻にしろ生霊にしろ、彼女は我が子を出迎えたの
だ。無意識に。そしてどんな力を使ったのかもわからず。そこまでを一瞬でリツコは考えた。おそらく、今
も何らかの力で消えたに違いない。あの人間離れした白い少女は。

「責任は私が取ります」

『了解しました』

 舌打ちでもしかねないような苦い声で通信は切れる。
 リツコはまだ一糸纏わぬ裸のままだった。金色に染まった髪の毛はしっとりと濡れたままで、眉と同じ
色をした股間の繁みからはぽたぽたと床に雫を垂らしている。そのことに気づいたリツコは急いで身体
にタオルを使った。そしてそのタオルを床にぽとんと落とし、足の指先でごしごしと雑巾代わりに床を拭く。
こんなところをマヤたち信奉者に見られたらどう思われるかなどリツコの知ったことではない。汚れたタオ
ルは洗えばよい。洗っても汚れが取れなくなれば、新しいものに取り替える。それだけのことだ。
 下着を穿き服装を整えながら彼女は思った。レイもタオルと同じなのか、と。そのレイのことはどこか安
心していた。ロストすることは不思議だがそれは後で確かめてみればいい。それよりも…。
 まったく、もう…。
 次から次へと綾波レイと接触してくるネルフ関係者。その連中は夜の街をぶらぶらと彷徨っているわ
けだ。休みか非番、退勤後にすることはないのか?保安部からの連絡に彼女はあきれていた。さっさ
と自分の居場所に戻り不測の事態に備えておくべきではないかと。彼女なら真っ直ぐ戻っている。しか
し、それは己の生活に何の振幅…余裕とか彩りというものかもしれないが…そういう類のものがないか
らかもしれない。
 彼女は鼻でかすかに笑うと、コーヒーカップを手にした。だが既にカップの底には僅かに茶色のし
みがこびりついていただけ。シャワーを浴びる前に飲み干していたのだ。さてどうしたものかと彼女は
考える。もう一杯飲むかどうか…。
 彼女の思考はそこからすぐに別の方向に動いた。

 このあたりがロジックじゃないのよね。MAGIなら即座に結論を出している。もう一杯飲むか否か。水
分の摂取状況、時間、場所、今後の予定。そういったものを判断して瞬時に決断を出すだろう。人間
のように左右に振られたりはしない。
 人間は理屈では割り切れない生き物。ふとした気まぐれが人間の歴史を左右するかもしれない。
 例えばこの私がMAGIに故意に間違ったDATAを与える。
 そう…。そうね、アスカのシンクロ率が実数値よりも3割減るようにプログラミングしておけば、
 あの娘は壊れてしまう。エヴァのパイロットであることにただならぬプライドを持っているから。
 今、あの娘の精神が崩壊すれば…、今のシンジ君にアスカを立ち直らせることなど不可能。むしろ
もっと泥沼に追いやってしまう。それにあとの二人だけで使徒に勝てるかしら?
 
 そこに考えが至った時、赤木リツコはふっと笑った。

 問題は使徒じゃないわね。あの男の馬鹿げた計画。
 その計画もご破算になるでしょうね。そして、私は自分のしでかしたことだと告白する。
 問答無用で粛清されるわね、当然。
 むごたらしく殺されるのかしら?じわりじわりと。
 いいえ、あの男はそんなタイプじゃない。おそらく、激情に駆られて簡単に殺してくれるでしょうね。
 首を絞めるか、射ち殺すか、殴り殺すか…。
 できれば2番目のをお願いしたいところね。心臓を一発で。
 それなら即死するだろうし、胸に開いた穴から流れるおびただしい血を除けばそれほど見苦しい死
体にならなくて済む。母さんのような死に方はごめん。足を滑らせたのか…それとも突き落とされたの
か。どちらにしても、恐怖に歪んだあの表情と、おそらくあの当時では世界一とも言えた脳髄を周囲
に撒き散らすなんて、あんな吐き気をもよおす様な死体など誰にも見られたくない。
 とくに加害者であるあの男には。
 できれば、薄笑いのひとつでも浮かべて死にたいものだ。せめてもの抵抗として。

 リツコは今度は明らかに笑った。自嘲。
 自分の死が周囲に与える影響を妄想するなどまるでティーンエージャーである。
 そう、あの頃のリツコのように。



「母さん、この人が私の父親なの?」

 散々悩んだ末だった。
 リツコの片手には戸籍謄本。高校入学の時に入手したものだった。
 といっても、別にナオコは娘にそのことを隠していたわけではない。問われれば話すつもりだった。
 戸籍謄本にある時記載され、そして半年後に抹消された男性の名前。
 彼は養子として赤木家の籍に入り、離婚によりその籍から離れている。
 名前はごく平凡なものだった。
 ナオコはモニタから目を離さずに、そっけなく言い放つ。

「安心しなさい。そんな男の遺伝子は貴方に0.1%も組み込まれていないから」

「それじゃ…」

「貴方の父親は立派な科学者であり、そして親兄弟に悪い遺伝子などひとつもないわ。
 ちゃんとそういうのを選んであげたから」

「選んだって、それはどういうこと?」

 少ししわがれたような娘の口調にもナオコは手を休めない。
 モニタを睨んだまま、マウスとキーボードを両手で動かしている。
 かたかたかたかた。

「あら、貴方くらいの頭脳なら答くらい簡単にはじき出せるでしょう。
 貴方の遺伝子は私の卵子とその男の精子を掛け合わせてできたもの。
 おそらくは私以上の頭脳を持っているはず。素晴らしいとは思わない?」

 ナオコは、その女は明らかに酔っていた。自分の計画を話すことに。
 それでも彼女は手を動かし続けていた。
 かたかたかたかたかた。
 その音が15歳のリツコの耳に突き刺さる。
 そして、彼女の頭に浮かんだ恐ろしい疑惑を母親にぶつけることはどうしてもできなかった。
 何故なら、答えは「YES」に決まっているから。
 かたかたかたかたかたかた。
 
 リツコはキーボードの音から逃げるように自宅に戻った。

 自分の誕生日。その数ヶ月前。
 その時期の母親の画像をリツコはインターネットで検索した。日本が誇る大科学者である赤木ナ
オコのDATAを入手するのは容易いことだった。もちろん表面的なものではあるが。
 そしてリツコはモニタから目を離し、天井を仰いだ。

「私って、何?いったい、何のために?」

 リツコの誕生日の5日前、栄えある研究発表の席。
 その画像でフラッシュを浴びている赤木ナオコの腹は少しも大きくなかった。
 リツコはナオコの腹を痛めた子供ではなかったのだ。
 しかし、彼女は疑わなかった。自分の身体には間違いなくナオコのDNAがある。そのDNAが
叫んでいるのだ。リツコは最高の頭脳を持つ女と彼女が選んだ間違いのない男の間で作られた
成果なのだと。試験管ベビー。それに、代理出産。おそらく、そのリツコを腹に宿した女性もナオ
コが検討を重ねて選出した、間違いのない女だったのだろう。そこまでも推察でした。
 そして、リツコは自分の存在の意味を考え、一度は死を考えた。ただそれは一瞬。そんな考えを
抱いたことを彼女は蔑んだ。母親がそれで悲しむかどうか、自分の目で確かめることができない以上、
自殺する意味はまったくない。あれでも少しは娘に対する愛情はあるはずだ。何より他の人間に
はコーヒーを淹れない女なのだから。機嫌のいいときにはリツコにコーヒーを振舞った。インスタン
トだが。普通の母親よりも子供への愛情は薄いかもしれない。だがリツコにはその程度で充分だっ
たのだ。
 そのうち高校1年生のリツコの推察はもっと汚らわしいところにまで行き当たった。
 赤木ナオコは未だに処女なのかもしれない。いや、あの女ならそうに違いない。
 その疑惑の答が判明したのはその8年後だった。
 リツコを抱いた男が、その無口な唇から漏らしたのだ。

「ふん、娘まで初めてということか」

 その呟きを背中で聞いた時、リツコは密かに笑った。
 この男は大学生の娘がいる中年の処女を抱いたのだ。
 おそらくは自分の野望を成就するために。彼女の母親を道具として使うために。
 そして、その中年のマリアは肉欲に狂った。明らかに精神のバランスを崩していた。それはリツ
コの目にも明らかだった。物凄い閃きをする一方で、イライラが募り、他人を罵倒し、あの男を欲
した。助手であり娘のリツコがいる前で平気で電話の相手に叫ぶのだ。

「お願い。抱いてちょうだい。アレを完成させて欲しいならすぐに抱いてよ、ねぇっ」

 そこには世界一の科学者の姿はなかった。甘えと恫喝を混ぜ合わせたオンナの声。母親が禁
断症状のようにあの男の身体を要求する時、リツコは必ず部屋から姿を消した。大学にでも行っ
て饒舌な友人と会っていないと、頭がおかしくなってしまう。なにしろナオコはこの研究室からそ
の身体を動かさないのだから。リツコは翌日研究室に入るとき、必ずきつい味のコーヒーを飲み、
口にはミント味のガムを数枚放り込んでいた。それでも、匂う…ような気がした。鼻ではなく、目で
そう感じたのだ。この無機質でありながら雑然とした部屋で男と女が交わっていた…。性的経験が
皆無のリツコだったが、部屋の中を漂う空気にその気配を感じていた。そして、そのことを嫌悪しな
がらも彼女のオンナの部分は否定できないほどの自覚症状を示していたのだ。それだからこそ余
計にリツコは母親の性を軽蔑していた。死んでも尚。

 

 リツコはちらりと背後を振り返った。
 この部屋では抱かれたことはない。いつも執務室だった。しかもそれはいつも背後から。あの男
は前からは抱かない。おそらく母親に対してもそうだったのであろう。自分たち母娘のことを彼は
道具として、そして欲望の解消としてしか考えていない。、さらにあの女のことを思慕の対象として
己の心の中に留めておくために。いずれにしても、ただの道具であることには違いない。
 だからこそリツコは自嘲する。そして、道具が反抗した時のあの男の顔が楽しみでならない。い
ずれそんな時が来るかもしれない。自分は母親のように道具として使われた挙句惨めに捨てられ
るなどということはされない。そのつもりだった。
 それにもうひとつ。あの男のことを自分はどのように思っているのだろうか。あの男が自分のことを
愛していないことは確かだ。いや、違う。何度も抱かれた所為だろうか。その母親と違って自分から
あの男を誘惑した所為だろうか。リツコには余裕があった。決して不感症ではなかったが、あの男
に溺れきってはいなかった。だからだろう。あの男が何故自分を辱めるような形で抱くのか。それが
何を意味するのかが理解できたような気がする。あの男は弱い男なのだ。自分を愛してくれた女
性…碇ユイを唯一無二のものと考えた。だからこそ様々な策略を用い、彼女をその手に取り戻そう
と考えた。そこまではいい。純愛の為せる業とも言える。だが、あの男は本質的には弱い男なのだ
ろう。母親を誘惑したのは計画遂行のためだと了解できる。だが、自分があの男を誘惑した時、何
のためらいもなく彼はリツコを辱めた。おそらく彼自身は自分の意志で彼女を屈服させたのだと
思い込んでいることだろう。リツコがそう誘導したということには気づきもせず。そして、その後は戸
惑っているのだ。リツコが何故自分の言うことに唯々諾々と従うのか。母親のように肉欲に憑かれて
いるわけではない。となれば、彼女は自分のことを…。あの男は疑問をもっているのだ。もしかする
とユイ以外の女が自分を愛しているのかもしれないと。
 リツコは自嘲した。なんだ、そうだったのか。自分はあの男を愛していたのだ、と。その気持ちを
確かめるのに相手の心理状態を解析しないといけないなんて、やっぱり人間はロジックじゃない。
機械でも道具でもないのだ。 
 道具といえば、母親は自分のことをどう思っていたのだろうかとリツコは時に思った。自分という
人間をこの世に産み出したのは自分と同等の能力を持った助手が欲しかったからだそうだ。それ
が冗談ではないことはよくわかっていた。ナオコはいつも真剣なのだ。自分の腹を痛めなかった
のは妊娠出産育児で時間をとられたくなかったから。普通ならそれで母親面はどうなのかというと
ころだが、ナオコ自身は母親というよりも創造主という意識だったのかもしれない。自分という最高
の遺伝子を与え、もう片割れの遺伝子も可能な限り最高級品を見つけた。となれば、この自分よ
りも基礎能力は高いはずだ。そのことに対する嫉妬は起きない。創造主なのだから…というよりも
結局は自分から分裂したリツコだからなのだろう。それを母親の心だとは終ぞナオコには理解で
きなかったのかもしれない。
 母親。
 リツコは白衣の上から下腹部を撫でた。ここに命が宿ることはない。しっかりと避妊薬を飲んで
いるから。あの男は何の頓着もしない。己の欲望を果たせればそれで満足なだけだ。
 母は…。
 娘の命を宿すのに他の女の肉体を使った、あの母は知っていたのだろうか。
 墜落死した時、彼女の子宮には新たな生命が育ちつつあったことを。
 そういえばあの頃、ナオコはやたら気分の上下が激しかった。妊娠など考えもしなかった彼女
は悪阻でさえ研究のために不健全な生活の影響だと思い込んでいたかもしれない。
 リツコはふと思う。もし自分があの男の子供を妊娠したならば、どういう扱いを受けるだろうかと。
おそらくは中絶させられることだろう。無理矢理にでも。ただしまだリツコ自身の利用価値がある
はずだ。どういうことをされるのか、自虐的な趣味など微塵もないがこれには興味がある。MAGI
にでも考えさせてやろうかしら…。
 やっぱりもう一杯コーヒーを飲もう。どうも今日は思考パターンが変だ。思考が一定せずにばら
ばらと飛んでしまう。疲れているのだろうか。彼女はこめかみをぐりぐりと押した。
 そしてリツコは立ち上がった。カップを手に。

 当然、リツコは知らなかった。母親の死のいきさつを。監視カメラの映像は抹消されていた。そ
して宿直スタッフの姿はあの数日後にゲヒルンから完全に姿を消している。殺されたのか、それ
とも口止めされて失踪したのか、それはゲンドウか冬月しか知らぬことだろう。
 事実はこうだった。赤木ナオコは幼子を絞殺した後、あの場から身を投げている。あの恐怖の
表情は自分のしでかしたことのおぞましさと、愛する男に捨てられたことの絶望感からだった。
妊娠した自覚のなかった彼女にあれほどデスペレートな行為をした心理など理解できるはずも
なく、一人目のレイのことを知りようもないリツコがすべては妊娠とMAGIシステムの完成による
精神の破綻と了解したのは無理のないところだ。
 ましてや一人目のレイが己の意思でゲンドウのひとりごとをナオコに喋ったことなどもはや誰も
知るところではない。それはユイのDNAがなせる業だったのか。綾波レイにはそういうところが
あった。本人の記憶のないことを何故か知っていたり、無意識に行動したりすることがある。レイ
の出生の秘密を知るリツコにとっては非常に興味のある問題だった。DNAは記憶するのか。
これが平時であればみっちりと研究したいところだった。
 リツコはインスタントコーヒーを煎れながら苦笑する。本来観察者であるリツコは知っていた。
セカンドチルドレンとサードチルドレンのことを。本人たちは気づいてないが互いに意識してい
る。二人の気持ちがやがて愛情へと昇華していくのか、それについてはわからないが面白いこ
とがあった。二人が夫婦漫才のような掛け合いをしている時のレイの様子なのだ。いつもの無表
情とは少し違う。不愉快さが眉やこめかみの辺りにちらりと見える。レイ本人もそれが何故なのか
もちろんわからない。わからないが故に余計に不快なのだろう。その様子にリツコの興味と好奇
心がそそられていた。心理学的見地ではなく科学的に解明したい事象。もちろん、現状ではそ
れは叶うべきことは決してない。むしろ、あの二人が今以上接近することがないようにしなけれ
ばならないのがリツコの職務でもある。性行為やそれにまつわることでシンクロ率が左右されたり、
それどころかシンクロしなくなる可能性も否定できない。そうはならないように監視の目は緩める
わけにはいかないのである。

「シンジ君とアスカは…帰宅済み。現在は夕食中」

 保安部からの報告がモニタに写っている。晩御飯はインスタントカレーと出来合いのサラダ。
音声もモニタできるのだがリツコは素行調査の探偵をしているわけではない。よほどのことがな
い限りコンフォートの隠しカメラによる映像に音が被ることはない。

「ミサトがこれを知ったら激怒するでしょうね。アスカだって」

 保安部にも女性がいる。彼女たちが秘密裏にコンフォートとレイの住まいの監視をしているの
である。さすがに全裸で部屋の中をうろつきまわるレイやシンジを挑発しようときわどい格好で
うろうろするアスカを屈強な男性の保安部員に見せるわけにはいかない。その方が余計に間
違いが起こってしまうだろう。その上、無防備なミサトの醜態は組織の運営上この上なく拙い。
彼女はあれでも高級幹部たる作戦部長なのだ。
 モニタにはせわしなく口を動かすアスカともくもくと食べているシンジが写っている。アスカが
せわしないのは喋ろうとするからだった。さすがに咀嚼しながら喋ってはいないが、少しでも早
く言葉を出そうとして顎の動きが目まぐるしい。
 リツコはそんな二人に純然とした好感を持っている。プラトニックな関係。しかもお互いにお
互いの好意を気づいていない。その好意を憎悪に変えさせることは大人たちには簡単に行う
ことができるだろう。事と次第によればそれを実行しないといけないかもしれない。リツコは眉
を曇らせた。そんな未来はこない事を願う。何故ならばそんなプロジェクトを遂行するのは彼
女自身に他ならないから。
 リツコはコーヒーを啜った。

「レイは…まだロスト中、ね」

 薄く微笑む。モニタを見て、思うことをわざわざ言葉にして発するのは何故なのだろう。考え
るだけでも事は足りるはずだ。それでも言の葉を口にする。やはり一人で機械に向うのは寂
しいからなのだろうか?読書をしているときにはそういうことはほとんどないはずなのだが。レ
イなどは帰宅してから翌朝シンジを見て「おはよう」と言うまで何一つ喋らない。人は喋らなく
ても生きてはいける。そう、生きていくだけは。
 リツコはふっと小さく息を吐くと、背もたれに身体を預ける。目を閉じて考えはじめたのはレ
イのロストのこと。彼女はモニタを眺めた。レイの行動記録。シンジにアスカ。加持に日向、
それに青葉。その上ミサトまで。そのうち司令や副司令まで現れるかもしれない。そんな気が
してきた。どうやら今日は星空の下をうろつきまわりたくなるような夜なのかもしれない。自分
には理解不能だがとリツコはまたもや苦笑いした。唇を歪めながらもリツコは一回目のロストの
記録を眺める。

 22:46 綾波レイ、ロスト。
 22:49 同、ロスト場所にて発見。ロスト理由は不明。保安対象は異常なき模様。

 3分…。たった3分だけレイを見失った。報告を受けたリツコは担当者を呼び出したが、彼
の話は要領を得なかった。地面に落ちていた虫(と思うと報告)に手を触れたところまでは確
認していたそうだ。そして一瞬目を逸らした時、レイの姿は彼の視界から消え去っていた。そ
して、路上に仰向けに倒れていた綾波レイを発見した…というより、いつの間にかそこに横た
わり、そして瞬きもせずに星空を見上げていたのだという。最初からそこに横になっていて見
逃しただけではないのかという当然の叱責は口にはしなかった。
 理解不能。
 自分がわからないことを現場の人間に説明しろと命令することの愚は了解できた。だから彼
女は何も言わず、そのままレイの後を追わせたのだ。
 消えたのがアスカなら話は簡単だ。間違いなくそれは悪戯。シンジに無理矢理手伝わせて
保安部をからかったのだと察しがつく。ところがレイだ。彼女にそんなお茶目な行動が取れる
はずがない。そんな風に教育されてきたのだ。
 リツコは煙草に火をつけた。
 個室の利点。喫煙室に赴かなくても済む。誰が入ってきたのだと先客に値踏みされるあの
感覚がリツコには耐えられなかった。本来ならばこの部屋も禁煙であるべきなのだが、これ
が部長職の役得というべきものだろうか。彼女は頸の角度を変えて天井に向って煙を吹き
上げた。モニタを変色させるような真似などするはずがない。彼女の部屋の換気力はかなり
強い。特別設計である。研究のためと称しているが、その実煙草のためだとミサトあたりは睨
んでいる。もちろん、煙草もその理由のひとつなのだが他にも秘密の理由があった。彼女は
猫を飼おうとしていたのだ。だがそれもあきらめた。猫にこの部屋でおとなしくしていなさいと
言い聞かせるのは不可能と思ったのだ。鎖で繋ぐのは可哀相だ。あの気まぐれに動き回ると
ころがリツコが猫を気に入っている最大の理由だったから。従順な犬はイヤだ。自分も猫のよ
うにありたい。もっとも今はあの男の計画に従順に従う忠犬そのものだったが。
 さて、その換気口に一筋の雲のように吸い込まれていく紫煙をリツコはぼやっと眺めていた。
煙が吸い込まれるとまた吹き上げる。それを何度も繰り返す。していることに意味はない。い
や意味があるとすれば頭の中をリセットしようということかもしれない。研究者が煮詰まるのは
こういう時間をとらないから。目の前のことに囚われて視野がどんどん狭くなっていく。リツコは
自分もそうなることを知っているからこうやって無意識に時を流していたのである。

 そこに警告音。
 ほとんどぎりぎりまでくゆらせていた煙草を灰皿に押し付けると、リツコはモニタを見やった。

 00:53 綾波レイ、発見。

 保安部に連絡を取ると再開発地区に隣接する石灰洞の埋立地区で見つかったそうだ。何
事もなかったかのような顔をして、1リットルのペットボトルを後生大事に抱きしめながら歩いて
いたとのことである。そして彼女を発見してしばらく後、突然レイは奇妙な行動を起こしたので
ある。その件について、リツコは保安部から相談を受けた。
 急に競歩のように早歩きをはじめたのは何かロストと結びつく理由があるのかと。
 リツコには察しがついた。ただその答を口にするのはさすがに憚られる。相手は壮齢の男
性なのだ。その時、保安部に連絡が入った。そして、モニタにその内容が表示された。
 
 01:01 綾波レイ。猫と睨みあったまま動かず。

 眉を顰めたリツコは再度文面を読み返す。意味がわからない。保安部の連中は日本語が
苦手なのかと今度通信文の正しい作り方講座でも催すことを一瞬考えてしまった。彼女は溜
息を吐くと、ヘッドセットを端末に接続する。担当者と直接話をすることにしたのだ。

「こちら赤木。どうしたの?」

『はい、ファーストチルドレンが猫と睨みあってます。もう3分以上』

「わかるように説明して」

 おそらく向こうにはリツコの眉間の皺と音には出さない溜息、舌打ちといったもののニュア
ンスがきちんと伝わっていたと見える。彼はたっぷり15秒沈黙し、おもむろに報告を始めた。

『00時56分、目標は中央図書館東横の遊歩道を南から北へ移動中、突如移動速度を上
げました。その2分後、黒い猫が街路樹の方から飛び出してきました。目標は目の前に出
てきた猫を見て緊急停止。猫の方も目標を見上げたまま動きません。そのまま3分経過』

 その報告中に彼の所持する画像転送装置からリツコのモニタに少し粗い画像が届く。静
止画の連続だが、なるほどレイが立ちすくんだまま前方の猫と睨みあっている。報告には間
違いはない。リツコは微笑んだ。レイが猫科だったとは知らなかった。

『どうすればいいでしょう』

「石を投げて」

『は?』

「レイにも猫にも当てなくてもいいわ。近くの藪か何かに石を投げ込んで音を立てて」

『了解』

 彼の声には少し釈然としないものがあった。しかし命令は絶対である。画像が揺れた。彼
が投石したのだろう。次の瞬間均衡は崩れた。黒い猫は藪の中に跳びすさり、レイが肩を
わずかに揺らしたのが画像でもわかった。
 リツコは微笑むと電話を手に取りボタンを押す。数秒後、画像のレイがポケットに手を入
れた。

「レイ?」

『赤木博士』

 いつものように抑揚のない声が聴こえてくる。リツコはモニタ画面に新たなウィンドウを開き
地図を出した。

「時間がないのはわかっているわ。一番近いのは、そう…300mほど先のコンビニ。真っ直
ぐに進みなさい」

『了解』

 画像のレイが歩き出す。その歩調がだんだん早くなる。

「歩きながら話して。何があったの?」

『猫…。飛び出してきた』

「じゃなくて。もっと前。どこにいたの?」

『海』

 リツコは呼吸を止めた。数字を数える。ゆっくりと。なるほど、海か。一番近い海までたかが
17km。この短時間に移動したとでも言いたいのか。大きく息を吐く。レイが海に行ったと言う
のならその言葉に嘘はないだろう。ただそれを合理的に説明するのは難しそうだ。彼女は1
回目のロストの方に話を切り替えた。

「その前。虫を触ってからのこと」

『虫…。白い、蛾』

「蛾?そう…。で、その蛾を触って、それからどうなったの?」

 その問いには沈黙の答。スピーカーからは軽い息遣いだけが聞こえる。レイにしてはかなり
急いでいるのだろう。

「記憶がないわけ?」

 レイは覚えている。あの悪夢のような記憶。幼女かと思えばそれは赤木博士の死んだ母親
に姿を変え首を絞められた。一人目の記憶と同様に。だがあれが現実の出来事でないこと
くらいレイにもわかっていた。しかもあの記憶のことは封印されている。ゲンドウから何も言うな
と固く口止めされているのだ。普通の者なら何か適当な嘘を吐くところだろう。だがレイにそん
な融通がきく訳がない。ならばここは無言を通す他ない。
 リツコはそんな事情を知らない。知りはしないがレイがひとたび黙ってしまうとその口を開く
ことは不可能だ。彼女とは付き合いが長い。彼女の秘密を知る数少ない人間の一人でもあ
る。

 そしてレイという存在と赤木リツコという女には大きな因縁があることをリツコの方は知らない。
いや、そのうちのひとつなら了解していた。

 レイの元となった女性の夫。碇ゲンドウの愛人であること。レイ自身はそんなことは知らない
はずだが、すべてを知っているような気がする。時にリツコはそんなことを感じていた。無表
情であるが故にすべてを見透かしているように思えるのかもしれない。いつぞや昼日中から
あの男に呼び出され、その要求に応え、事が終わると犬でも追い払うかのように執務室から
追い出された。その時である。エレベーターでレイと出くわしたのだ。さすがのリツコも心中穏
やかならず、声も掛けずにさっと背中を向けた。レイの赤い瞳が自分に向けられているかどう
か知る術もなかったが、背中とそして下腹部が燃える様に熱い。情交の名残が太腿の内側を
じんわりと伝い落ちていく様な感触すら覚えた。扉が開いた途端に、レイの目から逃げるよう
に自室に戻る。そしてスラックスを脱ぎ検めてみたがもちろんそれは錯覚だった。罪悪感が
そんな感覚を生んだのかもしれない。レイが碇ユイのクローンだと知っているからこその罪悪
感なのだろう。

「レイ。その角を左に曲がって」

『了解』

「少し先に看板が見えるでしょう。そのコンビニで借りなさい」

『了解』

「ちゃんとお礼を言いなさい、よ」

『すべて了解』

 リツコは通信を切った。その時彼女の顔に浮かんでいた微笑にはどんな意味が込められ
ていたのだろうか。レイの言動がおかしかったわけではない。レイの面倒を見る自分の姿に
滑稽さを感じたのだ。それと無表情でいながらおそらくは真剣な眼差しでコンビニの店員に
トイレの場所を尋ねる彼女の姿を想像したためだろう。
 記録が入力された。

01時06分 綾波レイ、コンビニに入店。店員に話しかけ手洗いに向う。
01時09分 同、店員に礼を言い退店。すぐに引き返し、ソフトクリームを購入。
 
 リツコはその記録を軽く読み流し…、そして慄然とした。リツコに指示されたとおりに動い
たことは問題ではない。ソフトクリームを購入したことが問題でもない。一度外に出てから
また店に戻ったという動きがリツコの興味を引いたのである。
 レイらしくない。
 いかにも人間的な動きだ。以前のレイならば仮に喉が渇いていたとしても一度外に出て
しまったならばそのまま歩いていっていたことだろう。いや外に出た時点で喉の渇きを思い
出すということがレイとしてはおかしい。そして次に引き返したということも妙である。これは
どういうことなのだろうか。まさか手洗いを借りたお礼とでもいうのか?あの綾波レイが?
 リツコはまた煙草に火をつけた。
 シンジとの出会いが彼女を変えたのだろうか?リツコは煙を少しずつ唇の隙間から漏らす。
目の前に薄く靄がかかる。その自分で作った靄を彼女は一息で拡散させた。
 違う。
 アスカだ。アスカが日本に来てから、いやミサトの家でシンジと同居しはじめてから。その頃
からレイは変わり始めた。明らかにアスカに不快感を示すようになった。他の者にはわからな
いかもしれないが、リツコにはわかる。彼女の微妙な表情の変化が。付き合いが長いのだか
ら。あの生簀の中の魚群のような数多のレイたちの真の意味での無表情に比べると、今の
レイは表情が豊かだ。あのアスカへの眼差しは何といえばいいのだろうか。嫉妬というには
複雑すぎるような気がする。むしろ嫉妬というならばレイを見やるあの男の目を見てしまった
ときの自分の方がそうであろう。レイの元はあの男がこの世どころかその人生でもっとも愛し
た女。リツコがどんなにあの男を愛しても到底叶わない女。

 ああ、やはり私はあの男を愛している。

 大きな溜息を吐く。まったくどこがいいのだろう。自分にとって唯一の男だから?肉体的に
自分を満たしてくれるから?とんでもない。抱かれるたびに一瞬の恍惚を生んではくれるが、
その後は虚脱感だけが残る。自分の身体に証を残してはいてもそれは単なる欲望の発露
にすぎず、子孫を残すためのものでは決してない。
 欲しい。あの男との間の子供が。男の子でも女の子でもいい。産みたい…。
 
 リツコはデスクに頬杖をついた。

「あつっ」

 慌てて煙草を灰皿に移動。
 目を落とすと根元まで燃えた灰がキーボードの上に散乱していた。
 
「ふっ、こんなところをミサトにでも見られたら何て言われるかしら」

 大きく息を吸い込みキーボードに吹きかける。灰と共に僅かな埃が宙に舞う。その時点で
ようやく気づく。何のためのエアスプレーかと。やっぱり今夜はおかしい。思考はまとまらな
い上に無意識の行動も変だ。もしかすると、今夜ふらふらと夜の街を彷徨っている連中も同
じなのかもしれない。ふとそう感じた。確かにこういう夜は散歩などおあつらえ向きかもとリツ
コは少し羨ましかった。徹夜就業する必要もないがジオフロントから出て行くわけにはいか
ない。今日は早めに眠った方がいいかもしれない。リツコは端末を操作し保安部に連絡し
た。用がある時は警報で起こせと。願わくは何も起こらない事を祈る。
 リツコはソファーにひとまず腰を下ろした。奥にある簡易ベッドを使う気はしない。そこまで
眠る気はないから。一二時間もまどろめばこのとりとめもない思考もけだるい身体もすっきり
するかもしれない。
 背中をソファーに預け瞼をふさぐ。
 その瞬間に見えた机のデジタル時計は0112の数字が並んでいた。






 まるで字幕が出ない無声映画だった。
 それでも意味はわかる。この状況も。
 リツコは薄く笑うとスイッチを押した。ボタンひとつの大量殺戮。だが殺される方はどの顔も
寧ろ薄ら笑いを浮かべている。それを見ているシンジとミサトの方が逆に殺されているような
表情でいる。何故こうなっているのか詳しいことはわからない。ただ、加持が死んだこと、アス
カが壊れていること、二人目のレイも死んだこと…。そういったことは何故か承知していた。
 そして周囲ははりぼての舞台が倒れるように暗転し、シンジとミサトも消え果た。その代わり
にスポットライトを浴びて立つのはあの男。冷ややかなその顔で手には拳銃。
 ああ、撃たれる。
 その前にあの男の唇が動いた。






 はっとして目を開ける。全身に汗をかいていた。

「嘘つき…。愛してなんかいないくせに」

 引き金を引く前の言葉。これはリツコの願望なのだろうか。嘘でもいいから『愛している』と
告げて欲しい。その想いが見せた夢なのだろうか。だが夢にしては胸に受けた衝撃はかな
りのものではあったが…。
 ふと見た時計の表示は0113。今の夢はとても1分間のボリュームではない。リツコはおで
この汗を指で拭い呟いた。

「かんたんの夢…。あら、かんたんってどんな漢字だったかしら?」

 宙に指を彷徨わせる。行きつ戻りつ、結局わからない。

「ブザマね、もう。変換に頼りすぎだわ」

 リツコはふわりと立ち上がると、デスクに向う。やけに足取りが軽い。
 一瞬のまどろみ。しかも悪夢というべきものだというのに不思議だ。
 まずは“邯鄲の夢”を確認する。一目見て字を思い出し溜息。そして例えが必ずしも合って
いなかったことに眉間に皺を寄せた。栄枯盛衰の儚さを意味するだとはまったく違うではな
いか。栄や盛など、どこにも…。
 愛している……?
 リツコはくすくす笑い出した。その程度なのか?あの男にそんな言葉を…しかも自分の行
為を少しでもはぐらかそうという意図で漏らした大嘘の言葉が自分にとっての絶頂なのか?
いや、もしかするとそうかもしれない。例え嘘でもあの男にその言葉を言わせたのである。
夢が己の願望を表すものだとすれば…。やっぱり、愛しているのだ。あの自己中心的な男を。
 しばらく笑っていたリツコの目が輝く。自覚した愛情とその相手への悪戯心が芽ばえたのだ。
今度呼び出されたら素直に反応してやろう。いつものように我慢しないで。そうリツコは決意
した。母親のあの狂態への反抗からリツコはいつもただ人形のように振舞ってきた。どんなに
感じていてもそれを押し殺していたのだ。それを解放する。感じるがままに振舞おう。
 あの男…いや、ゲンドウさんはそんな私に何と言うだろうか。臆病な人だから訊きたい事も
訊けずに不機嫌そうに黙り込むだろうか。他の男に抱かれてこうなったのかと猜疑心の塊に
なってくれるかもしれない。それも面白いが愛情を疑われるのはいやだ。素直にすべて話そ
う。愛しているのだと。
 私を持て余すのか、うろたえるのか。いずれにせよ私に応えてくれる可能性は皆無だろう。
MAGIなら当然そう回答を出す。だからどうだというのだ。可能性がないから愛を捨てる?
馬鹿らしい…!
 リツコは己で回答を出した。揺るがない答を。
 彼女の笑いはもう歪んではいない。もし鏡で見たならば自分でも信じられないくらいの爽や
かな笑顔がそこにあった。
 
「さて、あの射殺された私は妊娠していたのかしら?母さんみたいに…」

 その独り言には暗い調子はなかった。揶揄するところもなく、ただ滑稽に思えただけ。

「孕んじゃおうかしら、いっそ」

 ニヤリと笑った彼女がその思いつきを実際に行動へ移すかどうかはわからない。

 だがリツコは思った。子供をつくるのなら母のようなことはしない。自分のお腹で産む。産む
苦しみを味わい、そしてその子を愛したい。
 もしかすると、これがコアになっている彼女たちの想いなのかもしれない。それならばシンジ
のシンクロ率の高さが理解できる。何の訓練もしていないのに。ならばアスカは…。
 そんなことを思いながらリツコはチルドレンの動静をチェックした。

 あ、そうだ。
 リツコは微笑んだ。

 今度の非番の夜。レイと散歩しよう。偶然を装って待ち伏せしてやろう。レイが何も喋らなく
てもいい。迷惑そうにされてもかまうものか。知らぬ顔で隣を歩く。どこまでも。
 青い月の下、ペットボトルを抱きしめながら。
 もしかすると、海にだって行くことができるかもしれない。
 何となく思う。
 あの無愛想で無口な少女のことが、けっこう好きなのかもしれない、と。
 明日、ウォーキングシューズを買いに行こう。いや、もう今日じゃない。

 そんなリツコの思いも知らず、レイは歩き続けていた。


 01時16分

 碇シンジ、惣流・アスカ・ラングレー 就寝中。ただし寝室は別。
 綾波レイ 未だ、第3新東京市内を散策中。



つづく。
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