昔――セカンドインパクト前のコンビニでは、ほとんど酒を売ってなかったという。


 ことの是非を一点のみで評価するのは正しい行為ではないと重々承知しているが、少なくともそのことだけでも今の日本はかつてより住みやすくなっていると大井サツキは思う。もしもその頃に自分が真夜中になんとなく酒が飲みたいと思ったとして、すぐに入手することは難しかっただろう。
 仕事柄といべきか、途中交代の仕事は終わる時間も半端だった。終業した時間はすでに零時を回っていた。
 前世紀では酒屋は大抵この時間帯にはしまっている上に、自動販売機は使えなくなっていた。
 そのことを微かにも覚えている彼女は、だからこそ思う。
「コンビンエンスストア万歳」
「――――え?」
 レジでサツキの選んだウオトカを精算していたバイト店員は、何か不思議なことを耳にしたように顔を上げた。
 ――聞こえたんだ。
 反省。
 何十倍もの倍率を超えてNERVに就職し、さらにその中からふるいをかけて居残ったMAGIのオペレーター勤務をしている彼女である。その類まれなる知性は、自分の犯した失敗を瞬く内にフォローする術を心得ている。
「ゴクロウサマ」
 わざと、片言の日本語で言ってみた。
 母をロシア人に持つスラブ系美人の大井サツキが笑顔を足した上でそんなことをいうのだ。並大抵の男は次の瞬間には思考も記憶もぶっとぶ。
「あ――どうも」
 驚いたような、照れたような、表現の難しい顔をして、バイト店員はなんとかそれだけを口にした。
「ソレデハ、ガンバテクダサーイ」
 カウンターの上に税込みの値段で丁度の金を置いて、サツキはさっさと店内からでていった。
 後に残されたパイと店員は「またおいでください」と反射的に口にしていた。



(あーあ、もうこれないかなあ、あの店)
 サツキは店から出て数分ほどたってからようやく歩調を緩め、ようやくそんなことを思った。
 別に気にすることはないのだろうが、彼女はわりとそういうことを気にする。だから多分、さっきのコンビニにはしばらくいかない。しばらく、という限定的な言い方になるのは、彼女の家に一番近い酒を置いてあるコンビニだからである。あそこ以外の店では少し本部からの帰り道に立ち寄れる場所ではなくなるのだ。車があればまた別なのだが、緊急時以外は彼女は自分で車を運転しない。今日だって同じく帰る道が近かった同僚の阿賀野カエデに送ってもらったところなのだ。いつもならば一緒にコンビニで買った酒をサツキの部屋で飲んだりするところなのだが、「今日は家で寝たいから」というカエデの意向に沿って、ここで降ろしてもらうだけにしたのだ。
 ここから家まで、歩いて七分というところか――
 ふらふらとコンビニ袋をぶらさげて歩く。
「つきがとってもあおいから♪」
 なんとなく、そんな歌を口にする。
 コンビニでの醜態(サツキ主観)のことは考えないようにしていた。
「まわりみちしてかえろうか♪」
 立ち止まった。
 
 月が、用水路の黒い水面に写っていた。

「みなものつきはすいげつといふ――」
 たまに、月見の酒もよいか……そんなことを思ったのは、袋の中の氷入りのカップのことが気になっていたからというのもあった。
 だから彼女はよい水路の縁に腰掛て、買ったばかりのウオッカの封を開け、そしてミネラルウォーターを取り出した。ジオフロントの美味しい水、と銘がついている。第3新東京市のジオフロント開発の際に出た天然の湧き水であるが、これがなかなかいける、と評判だ。ちなみに幾つかの種類があり、場所によっては岩塩の中を通ったのか海水のように塩化マグネシウムや塩化カルシウムを持っているのもあり、そこの水を使って豆乳を煮固めて島豆腐を作る沖縄生まれの職員がいて好評を博していたりする。
 閑話休題。
 カップの底に、ほんの五ミリほどのウオッカを注ぎ、後はジオフロントの美味しい水を注ぐ。
 NERV職員はストレスが溜まるがゆえに、ソフトドラッグなどの使用は比較的寛容だ。使わずに無理を重ねて神経科に通われるよりはよほどにマシ、ということだろう。だから事務作業中ではみんな平気でタバコをふかし、浄化フィルターをあっという間に汚して清掃作業員と経理課の人間を困らせることなる。そんなでもなお神経科行きの人間の数は減らないのだから、どうしようもない。
 大井サツキは、NERVの職員の中でも特に重要とされるMAGIのカスパーの専任オペレーターだ。
 神経科に通われたら大事である。
 ――という事情とは関係無しに、サツキは酒が好きだった。
 ただ、NERVの職務上、いつ緊急事態がおこるかは解らないので、酒を飲むにしてもかなり薄く割って……ということになる。どれほど薄めても肝臓に分解できる量を超えれば酔うだろうし、水で薄めれば、まあ猶予にはなるという程度のことだ。とりあえずなかなか酔えはしないが、雰囲気は味わえる。サツキは酒が好きだが、酔うのはあまり好きではなかった。より正確には泥酔は嫌いだった。だからこれで充分であった。
 くくっと、一口。
 ウオッカの味わいは……何処かほろ苦い。
「マーマは、割らずに飲むのよね」
 言葉にしたら、すでに死んだ母の顔が浮かび、消えた。淡い輪郭と長い髪だけだったが、それは確かに母の顔だった。ロシア生まれの母は白系ロシア人とコリア系のモンゴロイドとの間に生まれていた。その母と香川生まれの父の間に生まれたサツキの顔立ちには、しかしスラブの色が濃い。
 くいっと、一気に半分ほど空ける。
 どういう経緯で二人が結ばれたのか……ということを妄想するのは楽しい。世の両親というものは子供にはそういう馴れ初めなどを教えたがらないとか聞くが、そもそもそんなことを聞く前に、二人は死んでしまった。セカンドインパクトの大津波に洗い流された平野部に済んでいた家族は、それでなんとか生き残れたのに、父は東京にいって折り悪く爆撃を受けて死に、母はその後で風邪をじらせて肺炎になって死んだ。サツキがその後に生き残れたのは、母の従兄弟だというロシア人の音楽家に育てられたからである。その従兄弟がどのようなつもりだったのかは今となってはよく解らないが、とりあえず酒の飲み方を教えてくれたのは感謝している。ロシアは年中寒いからみんな酒ばかり飲んでいて、五十も前には半分はアル中になってしまう。お前にもロシアの血が流れているから用心しろ、などと冗談のようなことを陰気な顔でむすっと言っていた。本当に冗談だったのかはよくわからない。もしかしたら本気だったのかも知れない。真偽のほどは大学入試の直前に事故で死んでしまったので謎のままだ。
 本当に、全てを謎にしてしまった。
 従兄弟を名乗っていた男が従兄弟ではなかったということを、NERVに入ってから知った。遺品の中に入っていた手帳には古びた写真が入っていて、そこには母の面影を残す少女と、その男が肩を並べて写っている。よくよく思い出せば、自分の髪の色は母よりも父よりもその男に似ていたような気がした。調べようと思えばもっと調べられるが、あえてそれ以上をしようとは思わない。そのまま、放置しておくことに決めた。ただ、どんな想いを抱いていたのか、それを考えるのはやはり楽しい。

「ひとのおもいをさかなにするも……」

 ぽつりと、口にした。
 特に意味はない。
 あえていうのならば「詩」と呼べなくもない。
 高校からして理系で、大学でも理工学系だったが、彼女は音楽鑑賞が好きだし、絵も好きである。ただし一人でいるのを好むのは、繊細な気質だからなのかも知れない。いまだにオペレーターのほか三人と赤木博士以外とはロクに話もしない。
 だから独り言が増えるのはいたしかたないにせよ、
「水面の月は銀盤のようでいて……」
「ぎんばん?」
「ああ、もしかしたら、李白が手を伸ばしたのは、それで酒を飲もうと思ったからかな」
 一人で、サツキはプラスチックのカップを掲げた。

「詩仙、舟より水月に手を伸ばし、没す
           彼、酒仙ならば――水面の月を銀の杯として、
                             あるいは黄河をも飲み干せたかも――」

 あはははははは。
 柄にもない。
 笑ってしまった。
 今日の月はおかしい……回り道をしての一人の酒盛り、はともかくとして、まさか月を見ながら李白に思いを馳せるなどというのは……。
「疲れているかな――」
「今の、」
 え、と振り向いた。
 そこに誰かがいるというだけでも驚きなのに、いたのが彼女も知るNERVの最重要人物の、少女なのだ。
 心臓が止まるかと思った。
 思わずカップを手から落とし、ちゃぷんと用水路に流してしまう。
「あ」
「……ごめんなさい」
 自分のせいか、と少女――綾波レイは頭を下げた。普段ではめったに見えない人間らしい……というと大袈裟だが、まあ、レアな行為に目を丸くする。
「イエイエ」
 どうしてか片言で言ってしまった。
「いや、そんなことよりも――」
 どうしてあなたがここにいるの?
 そのことを問い質そうとして、しかし言葉をとめたのは、レイの目がさきほどまでサツキが見ていた水月に向けられているというのを知ったからだった。
「つき」
 レイは、言った。
「つきよね……」
「しせん、ふねよりすいげつにてをのばし、ぼっす――」
「え? ちょっと」
「かれ、しゅせんならば、みなものつきをぎんのさかずきとして、あるいはこうがをのみほせていたかも」
 ……心臓が一瞬だが、止まった。比ゆではなくて真剣に止まった。そう信じるくらいに、彼女は硬直してしまった。綾波レイの抑揚のない淡々とした声は、ついさきほどに彼女が詠んだ詩?だったからだ。
 ――聞いてたんだ。
 恥ずかしい。
 凄く、恥ずかしい。
 誰かといればこんなことを言ってなかったのに……独り言を聞かれるだなんて、考えたこともない。そしてされてみたら、これほどに恥ずかしいことはなかった。このまま用水に飛び込んで死んでしまいたくなる。冥土がみな同じならば父と母に会えるだろう……河繋がりで李白に会えるかもしれない。
「――どういう意味?」
 と、綾波レイは、本当に不思議そうに、言った。
(あ………)
 彼女がナニを言ったのかは聞いていたが、それがどういう意味なのかは解らなかった――ということか。
(だったら)
 何十倍もの倍率を超えてNERVに就職し、さらにその中からふるいをかけて居残ったMAGIのオペレーター勤務をしている彼女である。その類まれなる知性は、自分の犯した失敗を瞬く内にフォローする術を心得ている。 
「駄目よ」
 とにっこりと笑う。
「こういうのは、子供にはまだ早いのよ」
 なにがどう早いというのか。
 自分でしておいて、突っ込みどころ満載だ。
 それなのに。
「そう」
 レイは何処か残念そうに言って、再び水面の月へと目をやった。

 風が吹いた。

 大井サツキの髪を揺らし、綾波レイの髪を揺らし、水面に波を立たせ、月も震えた。
 何故か、言葉がでなくなった。
 出すべきではないような気がした。
 そしてどれほどの時間が過ぎたのか、気が付いたときには傍らに立っていたはずの綾波レイの姿がなくなっていた。
 黙って立去ってしまったのだろうか……しかし、それでもよかろうと思った。

「天籟、終着するところ、夜の闇、水面の月を震わせる」

 口にしてから、サツキはなんとなく周囲を見渡した。
 もしかしてまだどこかでみているのかもしれない――そんなことを考えてしまったのである。
 勿論、彼女に見通せる限りでの闇の中では、誰の姿も見えなかった。

 
 月が笑っていた。



 
 つづく。
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