歩く。
 歩く。
 ずんずん、すたすた、颯爽と。

 「おい、もう帰ろうぜ」
 「……もう、眠いよ……」

 背後から聞こえてくる声は気にしない。
 断固として気にしない。

 「つか、おまえのやってることって意味あるのか?」
 「ないと思う……。おなか減ったよ。どこか茶店にでも寄ろうよ」

 こ、この考えナシと付和ドーライ……じゃなかった付和雷同ったら!

 あたしはぐるりと振り返る。
 厳しい口調で反撃する。ただしひそひそ声で。
 「あたしは頼んでない。付いてきてなんてひとことも言ってない」
 うっ、と二人は言葉に詰まる。ほらごらんなさい。
 「言ってないけどさ」唇を尖らせながらムサシ・リー・ストラスバーグは言った。「いくら外出許可が出たからって、夜中に外出してどうするんだよ」
 「そうそう。それになにをするかと思えば、通行人の後をつけ回し始めるんだから。そりゃ心配もするよ、僕たち」
 「訓練なの、分からない?ケイタ、ムサシ」あたしは溜め息をついた。「ほら、対諜報訓練ってヤツ。何たってあたしには極秘任務が待ってるのよ」
 「……マナぁ」肺の中を空っぽにするくらいの溜め息を浅利ケイタはついた。「それ、ぜんぜん意味ないってば。相手は一般人じゃないか?」
 「ある」あたしは断言した。「あるんだから」
 確かにあたしがやっていたのは通行人のなかでこれと定めた人(ええっと、もちろん怖そうなヒトや危なそうなのは選ばない。だってそれはその、何かあった場合のことを考えるとアレだし、それでは目的を逸脱してしまうから、だから。)を気づかれないようにただ尾行するというものだけど、これだってその、結構たいへんなのだ。
 こっちはできるだけ気配を殺しているつもりなのに、なぜかその「対象」はしばらくするときょろきょろしはじめ、数分後には足早になってしまうのだ。
 ……普通の人に気づかれるような尾行で、「あの」Nerv保安部相手にできるはずなんかないのだから。うん。
 「だいたい、アナタたちがくっついてくるから練習がうまくいかないのよ。三人でうろうろしてたら目立つに決まってるじゃない。もう、分かってないんだからぁ」
 はぁ、とケイタがまた溜め息をついた。


◆ ◆ ◆


 ……分かってないのはこのバカ女のほうだ。
 溜め息をつくケイタを横目で眺めつつオレは思う。
 任務だか訓練だかなんだか知らないが、「対象」のすぐ背後にピッタリくっついてつけ回してりゃ、どんなに鈍感な人間だって普通気づく。
 振り返られたときに明後日の方向を向いて口笛なんか吹くなんざ、「わたしは不審者です」って宣言しているようなものなのに。
 スパイごっこなんてやめておけばいいのに。いったいもう、なに考えてるんだよ。
 だいたいコイツ、自分自身が「いかにも」なナンパ野郎につけられてたことすら気づいてないんだから。
 いくらガキっぽくても、あー、あんまり出なきゃいけないところが出ていなくても、そんなオンナノコなカッコウでうろうろしてたらエジキにされちまうんだぞ。
 オレとケイタが声かけてなきゃ、危ない目にあってたのはお前なんだからな。
 「マナ」自然に口調が厳しくなる。
 「……なに?」上目遣いに険悪な顔つきでじぃっと見上げられた。栗色の瞳の中にオレがいた。どきりとする。
 「……分かってるのか、お前、ぜんぜんなってないぞ」
 すぅぅっとマナは息を吸い込んだ。まるで喧嘩をする前の野良猫みたいだった。オレは身構える。もちろん強烈な悪罵に備えてだ。
 だが彼女は唇をぎゅっと噛んだままくるりとこちらに背中を向け、新たな「目標」を探し始める。
 ……そうかよ、そうくるのかよ。
 オレは決心した。
 連れて帰ろう。このままじゃ危ないだけだ。
 オレはマナの華奢な肩へと手を伸ばす。
 その気配に気づいたのだろうか。彼女の全身が緊張し、膝が予備動作のためにかすかに曲がる。
 ……あ、まずいな。
 予感する。華奢でお気楽なくせに、独立心だけは人一倍のコイツは他人に無理強いされるのがいちばん嫌いなのだ。
 でも、だけど、しかたないじゃないか。
 オレがトラブルへの発展を覚悟したそのときだった。

 「ね、マナ、今日はこの街についての予備調査をすべきだと思う。尾行の訓練ではなく」
 少しはしゃいだ、どこかうわずった明るい声にマナは振り向き、オレは手を伸ばしたままの格好で動きを止めた。
 「ほら、尾行がうまくいかないのはマナがここの街に慣れてないからだよ」ケイタは早口で続けた。「だから今日は、まずこの街についていろいろ知るべきだと……」
 ……やっぱりケイタってうまいよな。
 オレは感心してしまう。
 力押しではなく、ふっと相手の心に働きかける言葉をケイタは探してこれるのだ。
 確かに効果はあったらしい。
 意地っ張りのちっちゃな追跡者、霧島マナはどこか気勢がそがれた表情で浅利ケイタの言葉を聞いていた。


◆ ◆ ◆


 「だからさ、街の様子や空気も分からないまま闇雲に行動するから、浮いちゃうんだよ、マナは」
 僕は早口にまくし立てた。彼女の表情の変化を見逃さない。
 それは僕が身につけた処世術の応用だった。集団のなかではいつも「弱者」に属してしまう僕の、ムサシが庇ってくれなければ、マナが微笑んでくれなければ勇気を持ち続けることのできない僕の「技能」のひとつだった。
 今のところ、ショートカットの女の子、霧島マナには効果を現しつつあるようだった。
 ことごとく尾行に失敗していた……そりゃまぁ、あんな興味津々で、小走りに追いかけられたら誰でも気づくと思う……の原因を探し求めていた彼女はその提案……というか「エサ」……に興味を示してしまう。
 そこで僕は提案する。
 「まずはさ、この街をあちこち歩き回って、どんな店があって、どんなひとたちがいて、どんなことを話しているかを知るべきだと思う。そうしないと、周囲をカモフラージュとして使えない」
 わざといかめしい顔でそういうと、彼女はつり込まれるようにうなずいた。
 よし、あと一息。
 「だから、ほら、まずは方針変更」
 「そうはいうけどさ、ケイタ……」うーむとマナは唸る。よく動く瞳で僕を、ムサシを、路地を通りをくるくる眺めつつ。
 「ったく、お前が悩み出すとろくなことがないんだ。いくぞ」
 ぽん、とムサシが彼女の背中を押した。
 「行くってどこよ!」
 「メシ、お前何時間歩いてたんだよ」
 「えー。だって」
 二人の口調からも態度からも、さきほどの険悪な空気はどこかに消え去っていた。僕はほっとする。
 「どこか茶店にでも探すぞ、ほら」
 「もう、乱暴にしないでよ。ムサシったら……あ!」
 マナが唐突に立ち止まり、後ろに立っていた僕たちはぶつかりそうになる。
 なにか言いかけたムサシの口がぽかんと開いた。
 僕も同様だった。
 路地の奥を見つめる霧島マナの視線の先には、僕たちと同世代の少女がいた。
 だがどこかが決定的に違っていた。
 中学校の制服を身にまとっていたからではない。
 その髪が月光に輝くプラチナブロンドだったからではない。
 その瞳が街の明かりのどの色にもない紅だったからではない。
 はっと息を呑むほど愛らしいけれど、どこか虚無的な表情、彼女の気配、あるいはオーラがまったく異なっていたからだった。
 うまく表現できないけれど、その夜の彼女はおそらく、もっとも月に愛された少女なのだと僕は確信した。
 けれども霧島マナは別の理由で驚いていたようだった。
 「……対象周辺人物」アルビノの少女を見つめるマナの唇が小さく動いていた。


◆ ◆ ◆


 ほとんど人通りも絶えた路地に、その三人組はいかにも不自然だった。
 だが、それを気にするつもりも必要もなかった。
 ……同世代の少女に少年二人。こちらに興味を示している。それ以上の脅威はなし。
 そう判断する。
 先へ進むことにする。先に何かあるか分からないけれど。
 だが、気がつく。
 少年を従えているショートカットの少女が示す興味がどこか緊迫感を帯びたものへと変化していることに。
 なぜ?どうして?
 考えても意味がない。そう判断する。
 ……わたしは彼女ではないのだから、彼女がなにを考えているかなど分かるはずがないのだから。
 でも、彼女は明らかに緊張しているようだった。じっとわたしを見つめていた。
 その視線の質はどちらかというとセカンドチルドレンがわたしに向けるそれと似ていた。が、それとはなにかが決定的に違っているようにも感じた。
 ……どうすべきなのだろう。
 わたしは悩んでいた。めったにないことだった。
 「なぜわたしの顔を見ているの?」と尋ねるべきなのかしら?
 「こんばんは」と挨拶すべきなのかしら。赤木博士にいつも言われているように。

 だから結果として、わたしと彼女と彼らは数歩の距離を置いて見つめ合うことになってしまった。
 なぜなら彼女と彼らは路地に立ちふさがる格好になっていて、わたしは前に進もうとしていたからだ。衝突は双方とも望まなかったから当然の帰結といえる。
 「えと、その、あの」少女は明らかに狼狽していた。「あ、あやなみ……さん。よね」彼女の声は裏返り、それどころか震えていた。
 「そうよ」わたしは少し反省した。やはりクラスメイトの顔は覚えておいた方がいいのかもしれない。これも赤木博士にくどいほど言われていることなのだけど。
 しかし褐色な肌を持った勝ち気な少年が、どちらかといえば華奢な印象の少年が声をかけるでもなく、どちらともなく左右から手を伸ばして少女の手を握ると少女の震えはぴたりと収まった。
 いつしか彼女の瞳はわたしを真正面から見つめていた。

 ……何色と表現すべきなのだろう。この少女の瞳の色は。
 ふと思った。
 栗色であることは分かっていた。だけど、そんな表現ではこの色を表すことができないことも分かった。
 そんな色彩上の単語では形容できないなにかがあった。
 少なくとも分かった。
 その色彩を与えているのは彼らであることを。その輝きから曇りを取ったのも彼らであることも。

 さらに思う。
 ……わたしは、どれ?
 ……わたしは、「どれになれるの?」

 ……褐色の肌の少年のように、少し攻撃的な表情を浮かべた守護者?
 ……華奢な少年のように、柔らかくしっかり握りしめた掌から勇気を与える存在?
 ……二人に絶対の信頼をおいて、まっすぐ正面を見つめる意志を示すもの?

 手を握り合う三人の少年少女からわたしはなぜか想像してしまったのだった。
 紅茶色の髪のセカンドと、線の細いひどく笑顔の優しいサードと、自分自身が何者かさえ理解できていないファーストの三人のチルドレンが手をつないでいるさまを。
 絶対の信頼を抱き、お互いの守護者として存在するチルドレンの姿を。

 「こんばんは」衝突を回避するためにわたしは声をかけた。
 でも気づかなかった。
 そのときはまだ、気付かなかった。
 そのときのわたしの唇がとても優しい笑みの形になっていたことに。



◆ ◆ ◆


 「あーっ、超緊張しちゃったぁ。まさか彼女と会っちゃうなんてぇ。知ってる?あのレイってコ、データがなんにもなくって、ただ備考欄に『行動予想がきわめて難しい』とか『要注意』としか書かれてないのよ」
 あたしは二四時間営業の喫茶店のテーブルに突っ伏していた。
 「とつぜん笑うんだもんな……。オレ、あの瞬間覚悟しちゃったよ」信じられないほどシロップを大量に注ぎ込んだアイスコーヒーをずずっと啜りつつ、ムサシがため息をついた。
 「なんの覚悟よぉ。ったく、でも、ああ、もう……あたし、疲れちゃった」ぐぅっと大きく伸びをする。
 道路に面したガラス張りのこの店は普段ならたくさんお客がいるのだろうけれど、壁に掛けてある時計が2:35を指すしているいまはほとんどがらがらだった。
 もちろん窓からのぞける道路も人通りがないどころか車も通っていなかった。
 彼女……あたしのヒミツの任務の対象である少年の同僚である綾波レイ……はあっけにとられているあたしたちの横をすり抜けてこの通りへ出て、そしてどこかへ去ってしまったのだ。
 「なんでこんな夜中に歩いていたんだろうなぁ」グラスの中の氷を口に流し込んでガリガリやりつつムサシは首を振る。そんなこと、あたしにだって分かるもんですか。
 「さぁねぇ、でもなんだか夜の散歩が似合いそうなひとだったよね」ケイタがどこかふんわり笑うのを見たあたしは無意識に手を伸ばし、彼のほっぺたをぎゅっとつまんでいた。
 「いたいいたいいたい」
 「エロいこと考えたでしょ、ケイタ」微笑しつつ彼を厳しく詰問する。
 「もっとやれ、このヘータイをきちんと教育してやるんだ。マナ」ムサシもひどく楽しそうだった。

 この瞬間、あたしは確信していた。
 ……だいじょうぶ。あたしたちは大丈夫。きっと。

 そして、あのときは理解できなかったアルビノの少女の微笑みもいまのあたしには理解できた。
 すくなくとも、理解できた気がしていた。

 あれは共感と、羨望と理解が結晶したものであることを。




 つづく。
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