その朝も、いつもと同じ光景が繰り返されていた。

無論窓の外では、季節の移り変わりと共に太陽の強さも、空気の質も木々の装いも変わっていたが、少なくともガラス一枚で仕切られた教室の中はいつもと同じだった。

「着席。」

ヒカリの一言で、それまで立っていた生徒が一斉に席に座る。

ミサトは眼前の自分の生徒達を軽く見回した。彼らが受験勉強に明け暮れるだけの生徒でないことにミサトは常々自負に近いものを感じていたが、その生徒達も週末と言うことで、今日さえしのげば休みに入るとあって普段以上に表情が明るい。

「さーて、出席をとるわよー」

ミサトは黒いバインダーを開いて一人一人の名前を呼び上げ始めた。

無論、出席を取るだけならこんな事をする必要はない。どこに誰が座っているのかは分かっているのだから、空いた席さえ確かめれば良い。

けれど名前を呼ぶことで、少しでも教師と生徒の距離を縮められるとミサトは思っている。或いは非効率で煩わしいと思われているかも知れないが、反省は失敗してからでいい。

そして実のところ、一々時間をかけるにはもう一つだけ理由があった。

「次、女子行くわよー」

(あちゃー、今日もか)

「綾波レイ・・・は今日も遅刻?」

ミサトとしては、ここが生徒達の前でなかったら頭を抱えたい気分だった。

自分がこうして時間を引き延ばさなかったら、彼女の遅刻回数は3割り増しでは効かなかっただろう。担任が自分だったから良かったものの、リツコのクラスだったらどうするつもりなのだろうか。

「違います。」

「へ?」

生真面目に手を挙げて発言するヒカリの方へとミサトは視線を向けた。

「今日は休むそうです。風邪を引いたとか。」

「風邪?聞いて・・・」

ないわよ、と続けようとしてミサトは小さく苦笑した。教師の身でありながら時折遅刻する自分である。レイがそんな自分に連絡するよりヒカリに繋いだ方が確実だと思うのも無理はない。

「O〜K。レイは欠席、と。電話入れた方がいいかもね。みんなもお見舞い行ってあげてね。次、井上さん」

「はい。」

出席は次々と進んでいく。

だが、少年はそんなことには興味がないとでも言いたげに、肘を突いた手に顎を乗せて、じっと窓の外を見続けるのだった。

窓の外には校庭。少年の視線はさらにその先だった。


明日の一歩前


放課後−

僕はいつものように机から教科書やらノートやらを引き出して鞄に詰め込んだ。

トウジなんかはいつも勉強道具を置いて行ってるみたいなんだけど、宿題もあるし僕にはとてもそこまでの度胸はない。

(ん?)

今気づいたけど、そうなるとトウジの鞄の中には何が入っているんだろう。まさか全部ジャージの替え?!

「シンジ、帰ろうぜ。」

思わず首を傾げて考え込んでしまった僕の肩をケンスケが軽く叩いて来た。

「ちょっと待って。すぐ詰め込むから。」

「ああ。所で今日暇か?」

「うん。何?」

「ならゲーセンでも寄っていこうぜ。ちょっとしたテクニック見つけたんだよ。」

テクニックとは・・・僕はゲームセンターに行っても、対戦物なんかだとほとんどケンスケには勝てないんだけど、ケンスケの相手をしていることが多いせいか、一般の人達にしてみれば上手い方だと思う。

その意味で、ケンスケのテクニックというのはすごくありがたいんだけど、時々脱衣麻雀の裏技とか、クレーンゲームで狡する方法とか、あんまり嬉しくないような事まで教えてくれるからちょっと不安。

「あっ、碇君!」

教科書類を詰め込み終わって、今日の体育で使った運動着の入った鞄も持ち上げ、さあ帰ろうと席を立った僕を委員長が急に呼び止めた。

ちょっと離れたところから声をかけたくらいだから、ちゃんとした用事があるんだろうけど何だろう?今日は僕の当番はなかったよね?

「何?」

「碇君はどうする?」

「は?」

どうも委員長は話が飛躍することが多い。当たり前なんだけど、僕には彼女が何を言ってるのかさっぱり分からなかった。

「あ、ごめんなさい。さっきアスカと話してたんだけどね。みんなでレイのお見舞い行かない?プリントも渡したいし。」

「あ。」

僕もそれは考えないじゃなかった。でも、別に大ケガしたとか、暫く登校できないとかいう訳じゃないから、わざわざお見舞いに行くには口実が少なすぎた。男子から誘うなんて、何か下心があると思われそうで少なくとも僕にはできそうにない。

「アスカも行くの?」

周りを見回すとアスカの姿がない。先に行っちゃったって事はないと思うんだけどどこだろう。

「もちろんよ。当たり前じゃない。」

「でも居ないよ?」

「あ、ちょっと・・・」

言いにくそうな委員長。アスカが何かの当番じゃないのは知ってたし、先生に呼ばれたって事もないはずだ。

「トイレか何かじゃないのか?」

今まで黙ってたケンスケが独り言のように呟いた。

「うん・・・」

恥ずかしそうな声の委員長。トイレくらいで何でそんなになるんだろう?女の子の性格ってどうも僕にはよく分からない。

「なあ、俺も行っていいか?」

「もちろん。お見舞いは多い方が喜ぶんじゃないかしら?」

「と言う訳だ。シンジ、ゲーセンはまた今度な。」

「そうだね。じゃあ僕も行くよ。」

ここまで聞いておいて、ゲームセンターの方を優先できるほど僕は悪人ではない。それにケンスケには悪いけど、どっちかって言うとお見舞いの方に気持ちが傾いてたし。

「いいんちょ、ゴミ捨ててきたでー」

そんな時、ちょうどトウジがからになったゴミ箱を抱えて教室に帰ってきた。トウジはいつもの場所にゴミ箱を置くと、僕たちの方へと寄ってきた。

「何話とったんや?」

「いや、今日綾波が休みだっただろ?それでみんなで見舞いでも行こうかって事をね。」

「そやな。確か綾波一人暮らし言うてたし、病気の時は不安やろ。ワシもいくで。ええやろ?」

「え?う、うん・・・」

急に話を振られた委員長はちょっと驚いた様子で返事をした。何か目の前の話だって言うのに聞いてなかったみたいな反応。どうしたんだろう。

「なんや。行ったら拙いみたいな言い方やな。何や?」

「ううん。何でもないの。あっアスカ来たみたい。アスカーみんなOKだってー」

そう言ってこの場を走り去って言ってしまった。

「何なんや、いいんちょは?」

「さあ?何なんだろうね。ケンスケ分かる?」

けれどケンスケはその言葉には直接答えず「分かってないなぁ」とでも言いたげ首を振ってから「行こうぜ」と廊下へ行ってしまった。

「のう、シンジ。何やワシらが馬鹿にされてるように思うんは気のせいかいな。」

「よく分からないけど、多分僕達が鈍いって言いたいんじゃないかな。」

「しゃあないわな。細々としたんは男やあらへんよってな。」

何となく言い訳じみて聞こえたけど、扉のところでアスカが呼んだから、すぐに鞄をつかんで僕達も教室を出た。

 


 

「暑・・・・・・」

私は余りの寝苦しさに目を覚ましてしまった。とりあえず時計を見たら既に3時を回っている。

まだボーッとしている頭で逆算すると、大体3時間くらい寝ていたのかしら?

「よいしょ・・・」

普段だったらこんな時間に寝ていられるなんて天国みたいなんて思ったんでしょうけど、熱があるせいで汗だくになるし、とてもじゃないけど寝ていられるような状態じゃない。

全然力の入らない体を起こしてみると少し関節も痛い。どうやら薬が切れたみたい。ただ、気持ち朝よりは調子がいいみたい。

今日は午前中にお医者さんに行って来て、帰りにヨーグルトとかお豆腐とか風邪でも多分食べれるだろう物を買ってきて、それを食べてお薬飲んで、後はずっと寝るだけだった。

幸か不幸か今回の風邪は熱と鼻水がメインだったから、物は食べられるんだけど、食欲の方がどうにも涌いてこない。でも、最近食べ過ぎてたから丁度いいかしら?

「また・・・お薬飲まなきゃ・・・」

のそっとベットから這い出て、てくてく台所に歩いていく。立ち上がった瞬間少しくらっときたけど、予想通り朝よりずっと体に力が入る。

冷蔵庫から買ってきたヨーグルトと野菜ジュースを取り出してコップに注ぐ。何も胃に入れないでお薬飲むのはいけないって言うし、無理してでも何かお腹に入れなきゃ。(言い訳じゃないのよ!ホントにあんまり食べたくないんだから!)

「みんな今頃どうしてるかな・・・」

机にヨーグルトとジュースを置いて、時々鼻をかみながらの味気ない食事をしながら、私はふと学校のことを考えた。

今日は平日なのに、アスカともヒカリともアイちゃんともキヨミともエミとも話してないし、もの凄く退屈。下手に一眠りして気分がいいから、どうしてもする事がなくてつまらない。

(仕方ないか。)

そんなことを愚痴ってもどうしようもない。そんなことよりも、お薬が切れると地獄だからちゃんと飲んでおかないと。

本当はこんな事しちゃいけないのは知っているけれど、このお薬まずいんだもん、最後に残った野菜ジュースで無理矢理流し込む。

「後は・・・体でも拭こうかしら。」

体が寝汗でべたついて気持ち悪いから何とかしたい。枕カバーも変えようかしら?

それにやっぱり一眠りしたせいね。まだ効く訳ないんだけど、お薬を飲んだっていう安心感があるし、寝ぼけた頭も回復してきて、ほんのちょっと動くエネルギーが湧いてきたような気がする。

タンスから枕カバーを取り出して交換する。

(・・・何か気持ちよさそう・・・)

真新しい枕を見た私は、何となく枕がおいでおいでをしているような錯覚に襲われてしまった。

よく見たら、さっきまで寝ていた布団はまだ暖かそうだし、半分めくれた掛け布団もまるで私を誘ってるみたい。

(このまま寝ちゃってもいいかなー・・・ダメダメ!)

枕から必死に視線を逸らして誘惑に耐える私。後ろ髪引かれる思いでベッドに背を向けると一息つけた。

「さて、」

ようやくお風呂に行く決心の付いた私はパジャマのボタンに手をかけて、一つ一つはずしていく。そして上着を脱ぎ終わって、ズボンに手をかけた時点でふと考えた。

(こっちはいいか。)

どうせ首周りとか胸元とか腕とか、上半身を綺麗にしたいだけだもん。本格的にお風呂にはいるわけじゃないし、あんまり体冷やしちゃいけないわよね。

そう決めると、私はタンスからタオルを取り出した。そしてそれを首にかけてから、ブラをはずして洗濯機の中へ放り込む。早くさっぱりしたいな。

だけど私はここではたと止まってしまった。

うちのお風呂はユニットバスで、しかも浴槽が異様に小さい。

だから私はいつもシャワーしか使ってなかった訳で、つまり風呂桶とかそういう類の物など持ってないのだ。

「ま、いいか。」

本当は風呂桶にお湯を入れて、それにタオルを浸して体を拭こうと思ってたんだけど、浴槽に腰掛けて洗面台にお湯を溜めれば別に不便はない。目の前にトイレがあるって言うのが今一も二も爽やかさとかけ離れてるけど、この際仕方がないか。

私は気を取り直してお風呂場の電気をつけて中に入る。

そして洗面台の蛇口を捻ってお湯を出してタオルをそこにつける。一瞬習慣で便座に座りそうになってしまったけど、私は苦笑して浴槽に腰掛けて、熱いタオルをぎゅっと絞った。

「ふう・・・きもち・・・」

今は体を洗いたい訳じゃないから石鹸はなし。けれど暖かいタオルで腕を拭くと、そこから汗がはがれていくような爽快感がある。

♪Fly me to the moon〜

あ、何か声が変。けど痛い程ってわけじゃないし、物は食べれるし、最低限の暇つぶしは出来るのよね。これで喉までやられていたら、私は直るまで何をしてればいいのか困るところだったわ。

反対側の腕を拭いて、首周りも綺麗にする。それから一度お湯に浸して絞ってから、胸を拭こうとタオルを胸に持っていく。

「うーん・・・」

視線を落としてまた私は考え込んでしまった。最近はちょっと大きくなったけど、まだまだアスカには敵わない。

だって反則よ!外人の血が入ってるなんてスタートラインが違うじゃない。一度冗談で「碇君に大きくしてもらったとか?」って言ったら本気で怒ってたっけ。

(でもいいもん!)

私にだってアスカに自慢できることはある。たとえば髪の毛。私のは細くてサラサラだから、太めのアスカは私の髪触って羨ましがってたっけ。

それにこの肌。アスカも白い方だけど、私の方がもっと白い。病気みたいに見える一歩手前の透けるような肌。肌理も細かいと思ってるし、ここはアスカには負けないわ。

でも今は風邪のせいかしら、ちょっと艶がないように感じられる。自慢のお肌のためにも早く風邪直さなきゃ!

それから私は良く体を拭いて、ついでに顔と歯も磨く。本当は髪も洗いたかったけれど、それこそ湯冷めしそうだから今回は洗わないでおこう。

「良し。これで碇君もイチコロ♪」

な〜んてね。

一通り体を拭き終えると、そんな冗談を言う余裕もようやく出てきた。鏡に向かってちょっと挑発的なポーズを取ってみたりする。

「・・・何やってるのかしら。」

私は苦笑してバスタオルで体を拭き始めた。お湯で拭いただけだからすぐに水分が消え去ったけど、それでも拭き残すと湯冷めとかが心配だから、私はしっかりと体を拭く。

「さて、」

後はここを出て、使ったタオルを洗濯機に放り込んで、パジャマを着て寝るだけね。

私はバスタオルを首にかけて、お風呂場の扉を開けた。

ガチャ

「え?」

私がお風呂場から出た瞬間、聞こえるはずのない音が、もう一つの扉が開く音が重なった。

「レイいるー?」

(えっと、そこにいるのがアスカで、その横にいるのが碇君よね。二人がそこにいるって事は扉が開いたって事で・・・)

ちなみにこの家の構造として、お風呂場の扉は玄関のすぐ側にある。つまり玄関にいる人間には私が丸見えなわけで・・・

「綾波・・・?」

突然のことで、私達は全員が凍り付いてしまっていたけれど、碇君のこの一言で私は我に返った。

き・・・きゃああああああ〜!!!!!!

 


 

「何でシンジばかり美味しい思いをするんだ!納得行かないな、俺は!」

「全くや。こないな事ならワシが前にいるんやったわ。」

「何だよ・・・ひがんでるだけじゃないか・・・」

「「何か!」」

「何でもない・・・」

僕は二人の間で思わず首をすくめてしまった。

現在、僕を含めた男性陣は、部屋の外に置いてきぼりを食っている。もちろんその理由は僕なんだろう。

けど、僕が何悪い事したんだよ。アスカの横にいたのは偶然だし、扉を開けたのはアスカだ。そもそも鍵をかけなかったのは綾波じゃないか。もちろん見ちゃったことは悪いと思うけど、ズボンは履いてたわけだし、上半身の肝心なところはタオルで隠れてた。あれなら水着の方がよっぽど刺激的だよ。

「ほれ、ティッシュや。」

「あ、ありがとう。」

僕はトウジからティッシュを受け取って、小さく切って鼻に詰める。

(でも・・・ラッキーだったな・・・)

綾波のお見舞いに来て、綾波のセミヌードを見られるなんて思っても見なかった。今日はすごく運がいいのかも知れない。

「何ニヤニヤしてるんだよ。」

「し、してないよ。」

「なあ、ここだけの話だって。どんなんだった?」

ケンスケが肩に手を回してきたと思ったら、反対側からもトウジが肩を組んでくる。

「そや。遠目からやったら惣流の方が上やが実際はどうなんや?」

「だからほとんど見えなかったんだって!」

「「ほんと(ま)か〜?」」

疑わしそうな二人の目。でもほとんど見えなかったって言うのは事実だから、どうだったと聞かれてもどうしようもない。

「ちょっとは見えたんだろ?」

「そりゃあちょっとは・・・」

「ちらっとした感じでええんや。」

「だってあんまり突然で一瞬のことだから、人に言えるほど記憶に残らなかったんだって。僕だって良く覚えてないんだし。」

「だから詳しくなくていいんだよ。」

「えっと・・・」

確かに何となくだったら記憶に残ったような気がする。どこまでが記憶でどこまでが想像だかは分からないけど、イメージだけは浮かんできた。

「細かいところはよく分からないけど・・・」

「ほうほう?」

「肌がすごく白くて・・・肩から腕にかけてすごく細くて・・・でも柔らかそうで・・・首からかかった黄色のタオルとの境がすごく眩しくて・・・」

そこまで言ってしまってから、僕は気が付いてしまった。二人が何か言いたそうな表情で僕の方を見ているのを。

「な、何?」

「何やあらへん!」

「やっぱり見てるんじゃないか!」

二人はじりじりと僕へ詰め寄ってくる。

「ちょ、ちょっと待ってよ、別にそんな・・・うわっ、二人とも、やめてよ!」

やっぱり今日は厄日だ。僕はそう思わずにはいられなかった。

 


 

「ごめんっ!ほんっとーにゴメン!」

ベットサイドで碇君が両手を会わせて必死に謝ってる。

さっきアスカにも同じ風に謝られたから、何となくくどいような気もしないではなかったけど、私の半裸を見られちゃったわけだし素直に「もういいわ」なんて言えそうにもない。

それは鍵をかけ忘れたのは私よ。壊れたインターフォンを直さなかったのも悪かったわ。アスカから鍵がかかってないのに返事がないから、私のこと心配して扉を開けたって言うのも聞いたわ。

「でも、その、変なところは見えてないから。水着の方がよっぽど見える場所は多いよ。はは、何言ってるんだろう。」

・・・・・・何となく自分が何に怒ってるのか分かった気がする。

でも、これが碇君なのよね。こういう態度ってどっちかって言うと一般的には欠点だと思うけど、碇君に限っては逆に変に慣れた言葉を言われたら可笑しく思っちゃうかも。

「ふう・・・」

ずっとみんなに背を向けて布団に潜っていた私だけど、そろそろ良いような気がしてきた。碇君の台詞じゃないけど、あんまりはっきりとは見られていないようだし、いつまでも怒ってたら男の子達とだけじゃなくて、アスカやヒカリとも気まずくなっちゃうし。

それに、外で相田君達になにやら締め上げられたみたいだしね。

(とすると・・・)

今日一日みんなに会えなくて、やっぱりストレスが溜まっていたみたい、ついいつもの調子で言葉が出てくる。

「もう駄目なの・・・」

「え?」

「見られちゃったから、お嫁にいけないの・・・」

碇君に背を向けて、哀れな被害者を装った小声を出す。ああ、早く振り返ってみんなの表情見たい!

「な、何言ってるのよ、レイ!」

「え、いや、その・・・」

「ちょっとレイ!ショックなのは分かるけど何もそこまで。」

後ろで混乱の渦が起きかけてる。もう一押しといきますか。

私はゆっくりと体をみんなの方へと向ける。するとみんなが私に注目してた事に気が付いた。すごくいい気分だけど、笑えないのがつらい所よね。

「責任取って貰うから・・・」

そう言って掛け布団をまるで恥ずかしがってるみたいに鼻の所まで引き上げる。もちろん不安と覚悟を決めた目で、上目遣いにしっかりと碇君を見つめてね。

「あ、その、僕で、じゃなくて何言ってるんだよ。」

「責任取って。」

さっきよりはもう少しはっきりと言葉を繰り返す。

いや〜この時のみんなの表情は面白かった。

碇君は困ったような照れたような顔してるし、アスカは怒りと衝撃で茫然自失になってるし、ヒカリはこの場をどうまとめればいいのか言葉が出てこないみたい。鈴原君と相田君はもの凄く興味深そうに私と碇君を見てる。もう私達付き合い長いのに、毎回新鮮な顔してくれるからみんな好きよ。

ほんの数秒、部屋が完黙した。

「はあ〜」

そんな中、突然アスカが大きく息を吐いた。何か見るからに「仕方ないわね」とでも言いたげな表情。

「ハイハイ。冗談はこの辺にしましょ。今回は私が悪かったわ。今度からちゃんとノックするから。」

「冗談じゃないのに。」

「もう良いのよ。私達友達だもの。いつものレイらしい冗談だってすぐ分かったわ。風邪引いてもレイはレイよね。」

アスカがにっこりと笑ってこの場をそう締めた。

(口が笑ってないんですけど。)

アスカの目はまるでUの字を逆さまにしたくらいににこやかに笑ってる。けど、口の端が歪んでいて「私無理してます」っていうのがあからさま。こんな表情でもアスカは可愛いんだけど、凄惨な笑みっていうのはこういうことか。

「なんだ、冗談か。」

「お?シンジもしかして期待しとったか?」

逆にすごく安心したような碇君に鈴原君が突っ込みを入れる。

「ち、違うよ!いや、でも、反省してないって言うんじゃなくて、責任の取り方が・・・」

「つまりこれを利用して綾波に乗り換える気だったんだろ?」

「シ〜ン〜ジ?まさかそんな不埒なこと考えてないでしょうね?」

「考えるわけないじゃないか!大体何が不埒なのさ、どうしてアスカがそんなこと言うんだよ!」

「シンジ、分かってやれ。」

「そうや、惣流は見られたんが自分やないから嫉妬しとるんや。」

「「な、何言ってるんだ(の)よ!!」」

これよこれ。やっぱりみんなこうじゃなくっちゃ。

今日一日ほとんど寝ていただけだから、退屈で仕方なかったし、私はこのやりとりで嬉しくなってしまった。

最近じゃ週に一回はこの手の話にならないとつまらない。ホントに二人はいったいどうなってるのかしらなんて思ってしまうほど全然進展がないのよね。

だけど実際にくっついちゃったら、流石に私もからかえなくなるかな?だって逆に惚気られたら悔しいもん。

「相田!アンタ言って良いことと悪いことがあるわよ!どうしてアタシが馬鹿シンジに裸見せなきゃならないのよ!」

「そうだよ!大体別に今更、あ。」

「今更?」(×4)

碇君はしまったっていう顔になって黙りこくってしまった。アスカは碇君が何を言いだしたのかと驚いてる。これってもしや・・・

「シンジ。」

鈴原君の手が碇君の肩に掛かる。

「今更とはどういうことか、聞かせて貰おうか。」

椅子に座って足を組んでいた相田くんの眼鏡が不自然に光る。

「アスカ、まさかそんなことまで・・・」

ヒカリは完全に呆然としてる。ヒカリって潔癖性気味だから、事によっては怒るかも知れないわね。

「ヒカリッ、誤解よ!この馬鹿なんて事言うのよ!」

アスカが思い切り碇君の頭をグーで殴る。

「イテッ!違うんだ!僕の言いたかったのはアスカのだったらお風呂で・・・」

「「何?!」」

「「えっ?!」」

これには私も驚いた。碇君おとなしそうな顔してそんなことまでやってたの?!二人とも結構やるわね・・・

「あ!違うって!そうじゃなくて5年生まで一緒に、って言っても時々だけどお風呂に入ってたからって意味で・・・」

「ばっ、シンジの・・・」

あ、なるほど。そっかー。別に今そう言う関係ってわけじゃないのね。何となく安心しちゃったけど、アスカの方は余計に恥ずかしがっているのか怒っているのか平静でいられなくなったみたい。

アスカは顔が真っ赤になってる。それはそうよね。確かに小学生くらいまでならこの二人の関係見てたらあり得なくはないわよね。こんな所でばらされた方には堪ったものじゃないでしょうけど。

「シンジの馬鹿ぁ!!」

パンッ!

哀れ碇君。何か毎回紅葉を作っているように見えるのは気のせいかしら?

 


 

『でもホントに良いの?』

『いいのいいの。あれ位は当然の報いよ。』

居間からはアスカ達の会話する声が聞こえてくる。

僕は今、綾波のセミヌードを見た罰として、それに過去をばらしちゃった罰として台所で洗い物をさせられている。

結構ちゃらんぽらんに見える綾波も女の子だから、別に大量の洗い物があるわけじゃないし、普段の話を総合すると、そもそも料理自体をあんまりしてないみたい。

だから片づけなんてすごく楽なんだけど、僕一人だけ仲間はずれにされているって言う今の状況の方が辛い。

「全く・・・何で僕がこんな事・・・」

別に洗い物自体はめんどくさいだけで嫌な訳じゃない。それに綾波には悪いと思ってるから、これくらいは全く構わない。

「けど何でアスカが怒るんだよ・・・」

洗剤まみれの手を眺めながら僕は愚痴る。

だって、そりゃあ今僕達が付き合ってて、しかもそういうことをする関係だって言うんなら恥ずかしがるのも理解できる。けど、小学生の時の話じゃないか!男とか女とか全く意識してなかったし、僕にしてみれば頼りになるお姉ちゃんとお風呂に入ってたっていう記憶でしかない。

5年生の終わり頃になって、急にアスカがそういうことは止めるって言い出したときは少し戸惑ったけど、僕の方も違和感を感じ始めてたから割とあっさり納得したし。

「これで最後っと。」

最後のコップから綺麗に泡を落として水を切る。台所の手伝いなんて久々にやったような気がするけど、これで問題はないと思う。

だから水を止めてから、近くにあったタオルで手を拭く。ちらりと横を向くと、みんな何事もなかったかのように楽しくおしゃべりに夢中になってた。

ここからは綾波の姿は見えないんだけど、声だけははっきりと聞こえる。風邪を引いてたはずなのにあれだけ喋れるなんて、アスカの言いぐさじゃないけど綾波は綾波って言うことか。

「終わったよ。」

僕も部屋に入った。見るとベットに寝ている綾波以外はみんな床に座って、お土産として買ってきたアイスクリームを食べていた。

「あっ、ご苦労様。先に食べてるね。」

綾波が軽く笑って僕の方へアイスクリームのカップを持ち上げる。口の横にちょっとだけ付いたアイスクリームが可愛い。

「ハイ、シンジの分。」

適当に空いた場所に座ると、アスカが僕の分を渡してくれる。

「ありがと。ん?」

受け取ったアイスクリームを見てみると、それは僕が好きな商品だった。綾波がどんなの好きなのか分からなかったから、これを買うときは適当にバラバラに買い物かごに放り込んだ訳だけど、その中に内心食べたいなと思っていた奴を入れて置いたのだ。

こんな事になるなんて思ってなかったから、もう誰かに取られちゃったと思ってたんだけど良く残ってたな。やっぱり今日はラッキーな日なのかも。

「どうしたの?」

「いや、何でもないよ。それよりまだ言ってなかったけど、綾波体の方は大丈夫?」

「うん。今のところはお薬が効いてるみたい。今回は咳もあんまりないし、うつらないから安心して。」

「人にうつせば直る言うし、うつった方がええんやないか?」

そういうものでもないだろう。大体誰が好きこのんで被害者になるんだよ。

「じゃあ鈴原君にうつしてみようか?」

「やってみいや。ワシはそんじょそこらのヤワな体やないで。」

「馬鹿は風邪引かないって言うしな。」

「じゃかしいわ!」

多分ケンスケは、トウジが夏休みの補習に引っかかりそうになったことを言ってるんだろう。結果的にはギリギリで受けずに済んで、けれど他の人の1.3倍くらいの宿題を出されてたっけ。

なのに碇家とアスカとのキャンプに綾波と一緒に誘ったらついてきて、後で時間が足りなくなって余計苦労して、なぜか僕まで一緒に手伝わされた。

「良し!その勝負乗ったわ。」

綾波は食べ終わったアイスのカップをゴミ箱に放り投げると、ちらりと視線を横にずらした。誰に向けたのかは知らないけど、いったい何のサインなんだろう?

「じゃあ鈴原君、目、つぶって。」

「なんでや?」

「だからうつすのよ。」

・・・・・・場が沈黙した。ちょっと待ってよ、うつすってまさかそういう事するつもりなの?!そんな・・・

「レイッ!」

「じゃあ、行くわね・・・」

委員長が急に大声を上げる。けど綾波はそんな声を全く無視して体をトウジに向ける。

「ダメェッ!」

「待ってよ!」

「ストップ!」

「綾波!」

委員長、僕、アスカ、ケンスケが口々に制止をかける。けれど綾波はやはり完全に無視して・・・

「は・・・くしゅん!」

「おわっ!」

「は?」(×4)

「な、何すんねん。」

綾波はトウジに向かって一回くしゃみをした。唖然とする僕達を尻目に、綾波はただ笑っているだけ。まさか風邪を移すってそういうこと?

「へへ〜驚いた?」

「あのね、レイ。一つ聞くけど、どうやって風邪うつすつもりだったの?」

アスカが半分うわずった声で綾波に質問する。いや、眉がぴくぴくしてるし、質問なんて生やさしいものじゃない。どっちかって言うと抗議の方が近いんじゃないかな。ま、僕も気持ちは同じだけど。

「どうもこうも見たまんまよ。あれ〜まさかキスで移すとか思ってたの?驚いた?」

最後の「驚いた?」は明らかに委員長に言った言葉だ。そうか、さっきの視線は委員長に向けた物だったのか。

見ればその委員長は、まるで仮面を付け替える見たいに表情がころころ変わった。題名をつけるとすれば、それぞれ「呆然」「憤怒」「自嘲」かな?

「あのね、レイ。」

委員長の声は普段と全く代わりがなかった。俯いて、肩は震えていて、どう見ても平静じゃないのに声だけは変わらないって言うのはもの凄く怖い。もしかすると委員長っていうのは絶対怒らせちゃいけない人間なのかも知れない・・・

「冗談でもそういうことはしちゃいけないと思うの。私達まだ中学生なんだし、特に男の子だって年頃なんだから誤解を招くようなことしちゃいけないと思わない?」

「え〜私は誤解されるの慣れてるし〜」

慣れてるってどういう意味だろう?僕はふと思ったけどすぐに気が付いた。

(そっか、綾波って話しやすいから・・・)

綾波って人に溶け込むのが上手いし、いろいろ話しやすいから結構もててるんじゃないかな。アスカほどじゃないけど、下駄箱にラブレター入ってるのも見たこともあるし、きっとそうなんだと思う。

特に今のところ彼はいないようだから余計なのかも知れないけど、僕も綾波が仲良くしてくれてるのを勘違いしないようにしなきゃね・・・

そんなことを考える僕を無視して話の方は進んでいく。

アスカとケンスケがなだめに入って行ったけれど、トウジの余計な一言で元の木阿弥に。綾波もこういうのが好きだからまた突っ込みを入れて話がややこしくなる。終いには委員長も怒りかけたけど、そこら辺が綾波の人望なのかな、ケンスケの話術もあるんだろうけど、いつの間にか話がうやむやになってしまった。

僕はと言えば、こういうのはやっぱりあんまり嬉しくなかった。

 


 

「ふう・・・」

みんなとのお喋りも一息ついたから、私は軽くため息を吐いた。普段ならこの3倍喋ったって何ともないんだけど、やっぱり体力が落ちてるみたい。一時間も喋ってないのにこんなに疲れるなんて。

「疲れた?ゴメンね風邪引いてるのに。」

「良いのよ。一人で寝てるよりもずっと楽しいわ。あ・・・」

言葉を続けようとした途端、鼻の奥から流れ出てくるような感覚が。急いでティッシュペーパーを取ろうと思ったけど、何と丁度今になって中身が空になっていた。

「アスカ・・・押入の中にティッシュあるから取ってきて・・・」

私は上を向いてなるべくその時を先延ばしにしようと抵抗を試みる。

(格好悪いよ〜)

少なくとも、男の子達には見せたい格好じゃないわね。それによく考えたら、部屋もあんまり片づいてないし、男の子に見せられる場所じゃないかも。パジャマじゃなくてスウェットを着てるって言うのがせめてもの救いかしら。

「あ、ハイ。」

そんな私の情けない格好を見て、碇君が携帯用ティッシュを私に差し出した。

「なんや、それ、さっきワシがやった奴やないか。」

「うん。でも僕の方はもう良いから。とりあえずこっち使ってよ。」

私はちらりと横を見た。

アスカは収納を開けて中からティッシュの箱を取り出そうとしてるけど、出すのにはちょっとコツが要るのよね。適当に放り込んだりしてたから、結構微妙な配置になっていて、初めての人には難しいかな?

「ありがと・・・」

どうやら後何十秒かは出てきそうもないから、私はありがたく碇君のティッシュを貰う事に決めた。

ちーん

ますます格好悪い・・・

せっかく広めてきた美少女としてのイメージがガタガタになりそう。ここには相田くんもいるし、今度釘刺しとかなきゃ。

「ゴミ箱な。」

「ありがとね。」

私は使い終わったティッシュを、相田くんが近くに持ってきてくれたゴミ箱に投げ入れる。

今日はかなり鼻をかんだから、ゴミ箱がティッシュでいっぱい。風邪なんだから仕方ないんだけど、他人に見られるなんて、やっぱり恥ずかしいわ。

「はい、レイ。」

そんなとき、ようやくアスカがティッシュを掘り起こしてきてくれた。

「ゴメンね。何か使っちゃって。」

「いいのよ。けどあの収納の中は何?立体パズル並に出すのが難しかったわよ。後から崩れても恨まないでね。」

私は受け取ったティッシュ箱の蓋を開けながら、今は閉じられてしまった収納の方を見た。

自分でも微妙だと思うような配置だったのに、今はアスカの手が入ってどんなふうになっているのやら。アスカの言葉がまんざら冗談に聞こえないのが怖い。

「それはいいんだけど、ん?相田くん何見てるの?」

収納からみんなの方へ視線を戻すと、なにやら相田くんがゴミ箱の方を見ていた。

「別に・・・」

「何?そんなに珍しい柄?」

ペンギン柄なんて珍しくも何ともないと思うけど。実際これを買ったのは、近くのスーパーで安く売ってたからだし。

「ケンスケ、また何や良からぬ事考えとるんやなかろうな?」

「いや、これいくらで売れるかなと思ってな。」

「そんな安物100円にもならないわよ。まさか『レイが使っていた』っていうプレミアつける気じゃないでしょうね?」

(あの〜私のなんですけど・・・)

所有者たる私の意志とは無関係の所で話が進んでいく。でも、相田君が裏で校内の可愛い子(私も含まれてるみたい。ちょっと嬉しいかな?)の写真を売っているって話は噂で聞いたことがある。どうやらそれは本当のようなんだけど、写真以外にも手を出し始めたのかしら?

「あ、それは気が付かなかった。その手があったか。」

「は?」

「いや、ゴミ箱の方は商品として考えてなかった。」

「ケンスケ、まさか・・・やっぱりさ、そういうのは良くないと・・・」

碇君も、いや、その場の全員が同じ結論にたどり着いたみたい。まるで異星人を見るような目で相田君は見られてる。

「商品になるのは中・・・」

メキ

「そこまで。」

相田君が言い終える前に、アスカの正拳がその顔面にめり込んだ。そして相田君はゆっくりと後ろに倒れていく。

「この処置に関して異議のある人は?」

アスカが拳をさすりながら一同に聞く。無論異議などあろうはずもない。写真ならちょっと位は良いかなって思うけど、流石にこれはねぇ・・・

「不潔・・・」

冷たい目でケンスケを見るヒカリ。

「ホンマに欲望に忠実なやっちゃ。」

呆れたような鈴原君の声。

「でも誤解しないでね。ケンスケはあくまで商品として見てただけだから。」

と碇君が友達を弁護する。でもそれだって十分変だとは思うけど?

「とにかくよ。この危険人物をこれ以上ここに置いとくわけには行かないわ。」

「そうやな。長居するんも悪いし、そろそろ退散するとしよか。」

「そうね。月曜には学校来れそうだし、安心したわ。」

そう言ってみんなは立ち上がった。若干一名は鈴原君に引きずりあげられたけど。

「綾波・・・一人で大丈夫だよね。」

「大丈夫だって。今日だって一人でやれたんだから。」

「もしさ、何かあったらウチでもアスカの家でも電話してよ。すぐ行くからさ。」

心配してくれてありがと。でも子供じゃないんだから私は大丈夫。でもそんな風に気を使ってくれるみんながすごく嬉しくて、今の私は何でもないのにニコニコしてるかも。

「うん。もしもの時にはそうするね。」

「無理しないでよ。看病だったらママがいなくても出来るから遠慮しないでね。」

みんなが玄関に向かうのに付いて行こうとベッドから降りようとする私。

「あ、いいから。レイは寝てて。今はゆっくり休むのが先。」

「あ〜っ!ヒカリまで私のこと子供扱いするの?」

「そう思われたくなかったら、黙って寝とくことやな。」

悔しいわ・・・鈴原君まであんな偉そうなこと言って。でも本当の話、このままみんなと別れるのは寂しいかも。

普段はちらっと思う程度なんだけど、やっぱり病気で気弱になってるのかしら、玄関へ消えていくみんなを見てるのが辛い。

だから私は何と言われようと、せめてみんなを見送ろうと玄関まで行くことに決めた。

「じゃあね。また月曜日。」

「待って、私も玄関まで行くから。」

そう言って、最後に居間を出ていこう背を向けた碇君に遅れまいと、私は慌ててベットから降りる。

「あ・・・」

(やば、立ちくらみ・・・)

足下がもつれて体が傾く。このまま地面が迫ってきておでこぶつけてみんなに笑われるのかなーなんて考えるくらいスローモーションで風景が流れていく。

「危なっ!」

(えっ?!)

気が付いたら私は何かに支えられていた。良かった〜さしあたり笑い物にならずに済んだわ。

・・・れ?どうして転ばなかったのかしら?

「ふう・・・大丈夫?」

「え?うん。」

見上げたら碇君の顔があった。照れたような、安心したような優しい顔。なんだかんだ言っても結構整ってる方よね・・・

・・・ってちょっと待ってよ!じゃあ何?!今私もしかして碇君に抱き抱えられてる?!

そう気が付いた私の心は一瞬でパニック状態に陥った。直接ここは見えないはずだけど、まだアスカも玄関にいるはずだし、そうじゃなくて男の子に抱きかかえられるなんて初めてだし、とにかく頭の中がぐちゃぐちゃ。

でも碇君の目から視線を外せない。どうしてかしら体の方も動かない。時が止まったみたいに周りが止まって見えて、目の前に碇君だけが認識できる。

碇君の方はこの状況に気が付いてるの?だったらズルいわよ。病気で女の子が気弱になってる時を狙うなんて・・・

「碇君・・・?」

「あ、ゴメン!」

ようやく私が声を絞り出すと、まるで魔法が説けたみたいに、普段の碇君に戻っていた。慌てて私から離れて玄関に歩いていく。

『シンジー何しとるんやー置いてくでー。』

「ちょっと待ってよ!今行くから!」

玄関外の鈴原君にそう答えて、碇君もすぐに靴を履いて玄関を出た。

私もみんなを見送ろうと玄関に歩いていく。この間に何とか心を落ち着かせなきゃ。

「じゃあおじゃましました。」

「はよ元気になれや。」

「何かあったらすぐ電話するのよ。」

みんな笑って、口々に挨拶を済ませる。私も何とか冷静を装うことに成功。にこやかにみんなにお別れの挨拶。

「うん。今日は嬉しかったよ。」

でも・・・嬉しかったから、今こうして寂しく感じてる。今までに比べたらすごく贅沢な悩みなのは知っているけれど、そんな理屈で寂しさが紛れる訳じゃない。

「じゃあ綾波、またね。」

「あ、そうね。」

そうよね。ここで暗くなっちゃ何の意味もないじゃない。何となく碇君の方はまだ気まずそうだし、私の方が普段と違うんじゃ碇君も落ち着かないと思う。それに「さよなら」じゃなくて「またね」か・・・その方がいいかも。

「じゃ、碇君もまたね!」

努めて明るく碇君に手を振ったら、碇君の方も照れ笑いで手を振ってくれた。こういうのって卑怯かしら?

そして私はみんなが見えなくなるまで手を振ってから扉を閉めた。

今度こそしっかりと鍵をかけて、部屋の方へと戻る。

使った紙コップとか、食べ終わったアイスのカップ何はとっくにゴミ箱の中。

なんだかさっきまでも騒がしさが夢のように思えて、自分自身が何か頼りない。

「寒・・・」

この震えは風邪のせい?それとも寂しいから?

早々に私は布団に潜って、体を丸めて目を閉じる。

(あれは・・・どういう意味だったのかな・・・)

自分の膝を抱きかかえながら、私は何故だかさっきのことを思い返していた。碇君が離れる直前、ほんの軽くだけど私を抱きしめた力を強くしたような気がしたの。単なる自意識過剰?もしかすると誰かにすがりたいって言う願望かも知れない。

(ごめんね、アスカ・・・でも・・・ちょっとだけ貸してね・・・)

ゆっくりと布団が暖かくなっていくに従って、さっきまでは気が付かなかった疲れが私を覆う。

(おやすみ・・・)

ここしばらく使っていなかった言葉を思い浮かべて、私はゆっくりと深い底へと落ちていった。

 


 

パタン

靴を脱ぐ僕の後ろで扉がゆっくりと閉まった。

お見舞いが終わってから、変に時間が余っちゃったから、みんなでカラオケに寄ってきたんだけど、なかなかいい時間に帰って来れたよね。

部屋の奥の方からいい匂いがするし、もう少しでご飯の時間だと思う。

「ただいまー」

(あれ?)

おかしいな。いつもなら母さんが返事してくれるんだけど、どうしたんだろう?聞こえないのかな。

僕は靴を揃えてから廊下を歩いていって、台所の方へと向かった。

「ただいまー。母さんいない・・・の・・・・・・・」

台所に入ろうとした瞬間、台所の方から人影が出てきて、僕は心臓が飛び出さんばかりに驚いてしまった。

出てきたのは父さん。

体格はごついし、髭面で無口な方だから、それだけでプレッシャーがある存在なんだけど、それだけなら一緒に暮らしてるんだし慣れたもの。

そうじゃなくて、僕を固まらせたのはその格好だった。

「た、ただいま・・・」

「ああ・・・」

あの父さんが、街を歩けばその筋の人間と間違われる父さんが、よりにもよって熊のアップリケ付きのエプロンを付けて、鍋つかみをはめた手で土鍋を持って出てきたら誰だって驚くに決まってるじゃないか!

「あの・・・その格好・・・何?」

余りのことにそれだけを絞り出すのが精一杯だった。

「ユイはもういないからな。」

「え?」

僕の頭に常々思っていたことが渦巻いてしまった。

「何!まさか母さん、父さんに愛想尽かして出ていったの?!」

そうだよ。きっとそうなんだ。いつも思ってたんだよ。何で母さんが父さんみたいな人と結婚したのが不思議でしょうがなかったんだ。父さんは教えてくれないし、母さんは「お父さんが可愛かったから」なんてはぐらかすし、絶対過去に息子にも言えないようなことがあったんだ!

「馬鹿者。」

その言葉とともに、僕の足に激痛が走った。父さんが思いっきり僕の足を踏んづけたんだ。

「ユイは今日、高校の同窓会だと言っていただろう。」

「・・・あ、そうか・・・」

そう言えば今朝、そんなことを言ってたような気がする。アスカに無理矢理起こされて頭がボーッとしてたから、はっきりとは覚えてなかったみたいだ。

「もうすぐ食事だ。準備しろ。」

「うん。」

僕は気を取り直して、自分の部屋へと向かった。

扉を開けて部屋に入る。もう中は暗かったから電気もつける。

「何か・・・今日は疲れた・・・」

僕は着替えもせずに布団に寝転がって、何をするでもなく、ただ白い蛍光灯を眺めていた。

この疲労感を決定づけたのが最後の父さんの格好だと思うんだけど、一番精神的に疲れたのがやっぱり綾波の家でのこと。

倒れそうになった綾波を支えた。それはいい。

けど、あの時の僕は一体どうしたんだろう?怪訝そうに僕を見上げる綾波を放したくなかった。そのまま抱きしめたくなる自分を何とか押さえ込んだけど、綾波にはこんな事ばれてないよね?

「僕は何をしようと・・・」

そうは思いたくはないけど、もしかして、今日の綾波が病気だったからあんな事しようとしたんじゃないだろうか?

自分が弱い人間だから、更に弱い病人に気持ちが行ったんじゃないだろうか?

だとしたら僕は最低だ!自分自身が嫌になる。最後には笑って見送ってくれたから、怒ってはいないと思うんだけど・・・

「早く元気にならないかな・・・」

元気になったときの綾波を見れば、少なくともこの答えはでそうな気がした。

「着替えよ・・・」

どちらにせよ、ここで寝転がっていたって何の答えも出そうにない。僕は布団から起きあがって、制服を脱いでTシャツを換えてジーンズを履く。

カラオケでちょっとお菓子も食べたし、食欲はあんまりないんだけど、食べなかったら後で何をされるか分からない。部屋から出ていくと、丁度父さんがご飯を並べ終えたところだった。

「座れ。」

「うん。」

きっと他人が聞いたら、これから説教でもされるんだろうと思うような会話。でも父さんは誤解を招くような表現が好きなのか、こんな程度で一々怯えていたら碇ゲンドウの息子は勤まらない。

「いただきます。」

父さんが無言で鍋蓋を開ける、中から熱そうな蒸気が大量に沸き上がってきて、正面に座る父さんが白く染まる。

「これ何?」

「食えば分かる。」

今日の鍋は何かの魚がメインみたい。幸か不幸か父さんの料理は一応食べれるレベルにあるから、味っていう点では心配はないんだけど、時々妙な調味料やら食材を使って母さんに怒られたりするのも知っている。

とにかく僕は野菜も含めて一通り取り皿に取ると、おそるおそる口を付けた。

「・・・・・・美味しい・・・」

う〜ん・・・はっきり言って予想外に美味しい。でも白身魚でこんな食感の物を食べたことがあったかな?鱈とは全く違うし一体何だろ?

「当然だ、フグだからな。」

僕はその言葉でお代わりをしようとする手を止めた。

「何て言ったの?」

「フグと言ったのだ。」

平然とそう答えて父さんは食事を続ける。見ていて気持ち良いくらいの食べっぷりだったけど、僕としてはそれどころじゃない。

「父さん。」

努めて冷静になろうとする。そう、こんな時慌てても仕方ないんだ。落ち着け、シンジ。

「一つ聞きたいんだけど、良いかな?」

「ああ。」

「父さんって調理免許持ってるの?」

父さんの箸を動かす手が止まった。お皿と箸を机に置いて、机に肘を突いて手を組んで、お決まりのポーズをとる。

「なぜそんなことを聞く?」

「何故も何もないよ!フグを調理するには許可がいるって知ってるんだろ?まさか持ってないの?!」

「ああ。」

「じゃあ何でこんな料理!」

「俺が食いたかったからだ。それに全身毒だらけというわけでもあるまい。」

「そりゃあそうだけど、じゃあその毒のある場所を知ってるの?!」

「知らん。」

僕は気分が悪くなってきた。気のせいか体がだるいし、視界がぼやけてきた。

「これで死んだら化けて出るからね。」

「ああ、期待している。毎年夏の時期に出てくれると電気代が浮いて助かる。が、それはあり得まい。」

僕は机に半分突っ伏しながら、父さんの独り言を聞いていた。もうどうでもいいや・・・きっと僕はこのまま死ぬんだ・・・ごめん、母さん・・・やっぱり父さんとは別れた方がいいよ・・・アスカ・・・迷惑かけっぱなしだったね・・・それに・・・・・・綾波・・・もう一度・・・

「初めから切り身だったからな。」

「は?」

僕は顔を上げた。父さんはまるで付き合っていられないとでも言いたげに、悠然と食事を再開した。

「初めから切り身で売っていたと言っているのだ。毒などあるはずなかろう。」

(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

確かに父さんは自分で捌いたなんて一言も言わなかった。その意味では確かに僕の早とちりだ。けどこの悔しさは何?

僕は何か言い返そうとしたけど、何を言っても今は僕の負けだろう。多分父さんはわざと持って回った言い方をしたんだろうけど、それに乗ってしまった僕の方が悪い。

「もういいよ。」

何か食欲が全くなくなってしまった。多分母さんがいたらフグなんてそうそう食べられないだろうから、多少無理してフグだけは食べたけどさ。

 


 

あれは誰かしら・・・
ぼんやりとした光の中に人の後ろ姿が見える。
真ん中に小さな影・・・子供?その両側に大人の姿。
 

「さ、レイ。ふーってやってごらん。」

「ここにふーするの?」

「そうよ。ロウソクの火を消すの。さ、やってみて。」

何?あの女の子は誰?私?

「ふーっ・・・きえないー。」

「もう一度やってごらん。もっと思いっきり。」

あの男の人は見たことある・・・
・・・ううん・・・見たことあるなんてものじゃない。
お父さん!

「ふーっ・・・ふーっ・・・きえないよー。おかあさんやってー」

「ま、レイったら、諦めが早いのね。もうちょっと頑張りましょ?」

じゃああっちはお母さん!
どうして?! 

「さ、レイ。一緒にやりましょう。思い切り息を吸って・・・」

「苦しくなる位吸って・・・いっせーので吹き消すぞ。」

お父さん!お母さん!私はここにいるの!
お願い!もう一度・・・一回で良いから・・・

「おもいっきり?」

「そう、思いっきり。出来るわよね?」

「うん!すうっ・・・・・・・・・」

あれは私・・・?
でも覚えてない・・・
何歳くらいかしら?
あっ!

ぱくぱく

「おい!」

「レイッ!もう息をして良いから!」

「ぷはぁ・・・・・・てへ、くるしかった。」

「馬鹿な子ねぇ。そこまで吸わなくても良いのよ。」

「それだけレイが素直って事さ。ホントにレイはいい子だよね。」

「うん!レイいいこだもん!」

ずるい・・・ずるいよ・・・
私もそんな風に抱きしめて欲しいのに・・・
お父さん・・・その子の方がいいの?・・・
お母さん・・・私はもうどうでも良いの?

「じゃ、もういちどいくぞー。」

「今度は気を付けて思い切り息を吸うのよ。」

「うん。はぁ・・・すぅ・・・・・・」

あっ!ちょっと待って!
我が儘なんて言わないから!
いい子にしてるから!
いるだけでいいから!
・・・お願い・・・私も一緒にいさせて・・・

「いち、にの、さんっ!」

ふっ

あ・・・

真っ暗・・・
何も見えない・・・

?・・・音が聞こえる・・・
何の音?・・・祭囃子・・・
これは覚えてる・・・どこで聞いたのかしら・・・

 

「レイー!」

「レーイー!」

あれ・・・この声はお父さんとお母さん?
どうしたのかしら?

「返事してー」

「レイー」

迷子かしら・・・私どこ行ってたのかしら・・・
・・・思い出した・・・
お母さん達の気を引きたくて、
わざと暗いところに隠れたっけ・・・
初めは二人が探してくれてるのが面白くて、
それでずっと隠れてたら別の所に探しに行っちゃって、
慌てて追いかけたけど今度は本当に迷子になっちゃって・・・

「あなた、本当にあの子どこ行ったのかしら?」

「だからそれを今探してるんじゃないか。とにかく、もう一度よく探してみよう。それで駄目だったら人を呼ぼう。」

「今すぐに呼んだ方がいいんじゃない?」

「大丈夫だ。おまえに血を引いてるだけあってあの子は運の強い子だよ。この近くで泣きながら歩いてるかも知れない。さあ、もう一回探すぞ。」

違うの。
二人が一生懸命私を捜すのを笑って見てた。
二人が困るのが面白くて、
でも私のことで一生懸命になってくれるのが嬉しくて、
お母さん達がどんな思いだったかなんて全然考えなかった。

「だめ。どこにもいないわ。」

「仕方ない。お前はとりあえず迷子センターに行って、いないかどうか見てきてくれ。もしいなかったら探すように手配を頼む。」

「あなたは?」

「もちろんレイを探すよ。どちらにせよ30分後に迷子センターで落ち合おう。」

「そうね。じゃあ30分後。」

「ああ。」

あ、二人が別々になった。
私はこの時二人がどこかに行っちゃうのに驚いたのよね。
お母さんを追いかけようとしてたけど、人混みで見失っちゃって、
本格的に迷子になっちゃうのよ。

「・・・おとうさん・・・おかあさん・・・どこ・・・」

そう。
赤い目をもっと腫らせて、
ぐずぐずに泣きながら会場を彷徨ったわよね。

「ごめんなさい・・・レイがわるいこだったの・・・ぐすっ・・・おかあさん・・・」

その通りよ。あなたは悪い子ね。
親がどれだけ心配してるか分かるの?
お父さん達あんなに心配してたじゃない。
・・・・・・そうやって心配してくれる人・・・
・・・もう何年かしたらいなくなるんだからね・・・

『捜索中の迷子の女の子を発見。保護します。』

「レイッ!」

「レイ!」

「おかーさーん・・・おとーさーん・・・えっ・・・えぐっ・・・」

結局私は係の人に見つけて貰って、
迷子センターまで送ってもらって、
ようやく親と再会できたのよね。
お母さん達初めは痛いくらいにしっかりと私を抱いて、
それから夢に出るくらい怒られてたっけ。

ドーン!

な、なに?!
あ、花火か。
確かこの時は、思い切り怒られてたのも忘れて、
夜空に咲く花火に見入っちゃったっけ。

「きれい・・・」

「まあ、この子ったらもう泣きやんで。」

「切り替えが早いと言えば良いんだろ?堪えない性格みたいだし、結構大物かも知れないな。」

「ホント、堪えないのはあなた譲りだわ。」

「何言ってるんだ、おい。」

「あのこと知らないとでも思ってるの?あれだけプレッシャー与えても堪えないのはどういう事かしら?」

「ねーねーあのことってなーにー?」

「秘密よ。レイが大きくなったら、大好きな男の人に『あのこと知ってるわ』って言ってみなさい。大体レイの言うこと聞いてくれるから。」

「うんっ。大きくなったらお父さんに言ってみる!」

「おいおい、物騒なこと教えないでくれ。」

ドン!

ひときわ大きな花火が夜空を見上げる私達を照らす。
そして花火の光が消えると同時に辺りが暗くなった。

「ん・・・夢・・・」

私が軽く目を開けると、そこはいつもの部屋だった。

みんなが帰った後すぐ寝ちゃったから、カーテンは開きっぱなしだし、パジャマにすら着替えてない。

「それにしても・・・」

何で今になってあんな夢を見たのかしら?お母さん達のことは忘れた事なんてなかったけど、ここまで寂しがる事なんて最近じゃ全然なかったのに。

身を起こしてベッドの上に座る。目をこすったら、目の片側が濡れていた。泣いてたなんて・・・病気で不安になっちゃったみたいね。

コン

「え?」

何かしら?玄関の方から何か音がしたけど気のせいかしら?

時計を見ればもう8時過ぎ。まさか友達の来るような時間でもないし、訪問販売もここって治安が良いのかしら見たことがない。新聞勧誘は景品だけ貰って契約しないって噂が広まっちゃったからもう来ないだろうし。

コンコン

やっぱり気のせいじゃないみたい。大体何でインターフォンならさないのかしら?

「そっか・・・」

インターフォンは壊れてたんだっけ。ま、とにかく誰かしら?チェーンかけて出れば変質者でも大丈夫よね。

「は〜い、ちょっと待ってくださ〜い!」

 


 

(やっぱり早まったかなぁ・・・)

僕は足下の鞄と目の前の扉を交互に見ながらため息を吐いた。

インターフォンは壊れてるから、ドアを叩こうと拳を握りしめて持ち上げる。

(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・駄目だ。)

いざとなると躊躇してしまう。

いくら8時前だからと言って、こんな夜に女の子の部屋を訪ねたらどう思われるだろう?

何か下心があると思われるんじゃないだろうか?

脳裏に昼間見えてしまった綾波の肌がちらつく。

(違う違う!)

僕はちゃんとした用事出来たんだ!やましい気持ちじゃなくて、忘れ物を取りに来て、ついでに物を渡せばいいだけの話じゃないか!

「でも寝てたら迷惑かな・・・」

相手は病人なんだ。この時間に寝ていたってちっとも不思議じゃない。いや、むしろその可能性の方が高いんじゃないのか?

(僕は何しに来たんだろう・・・)

もう一回深くため息を吐いて、背後の手すりにもたれかかって、僕はさっきまでも家でのことを思い出していた。

 

「あれ?」

食欲の湧かなかった僕はなかった僕は、夕食をあんまり食べなかったんだけど、予想通り暫くしてきたらお腹がすいてきて、自分の部屋でおやつ代わりにバナナを二本食べていた。

で、とりあえずバナナを食べ終わって、鞄から教科書とかを出した僕。別に勉強したかったわけではないんだけど、棚に並べてみると、何か足りないような気がしてならない。

「何だろう・・・忘れ物?そんな馬鹿な。だって国語でしょ、数学でしょ、理科、英語・・・・・・・・・・・・・・・・・・まさか!」

僕は慌てて後ろを振り返った。足元も見た。部屋をぐるりと見回してみた。

けどやっぱりない。

そう。確かに通学鞄の中には忘れ物はなかった。けれど決定的なことに、実技だった体育の運動着が鞄ごとない!

「どこで忘れたんだろう・・・」

教室を出るときは確かにあった。

家に帰ってきたときにはすでになかった気がする。それでももしやと思って、玄関から洗濯機の所まで探してみたけれど、やっぱりない。

(となると綾波の家かカラオケボックス・・・)

洗濯機に手を付いて、僕は必死に記憶を辿っていく。まるで一夜漬けの知識をテストで思い返すように、自分の通り道を遡る。

「思い出した・・・」

綾波の家だ。綾波の家を出るとき、見送ってくれた綾波に手を振ったけれど、あの時僕は通学鞄しか持ってなかった。そうか、何か心が軽いなと思ったのはそれも原因の一つか。

(これから取りに行こうか・・・)

時計を見ればまだ7時半前。

決して早くないけど、取り立てて遅すぎる時間ってわけでもない。

(でも・・・いいのかな?)

今まで女の子の家と言えば、アスカの家と、せいぜい洞木家ー居間までだけどーしか行ったことがない。まして夜に部屋に行くなんて、アスカに対してだって最近はしていない。

「何をうろついている。」

「うわっ!」

また熊のエプロンをした父さんが現れた。全く、自分が人にどんな影響を及ぼすか分かってないんじゃないの?

でも一応父さんだって社会人やってるんだし、僕は父さんに質問してみることにした。

「あのさ、この時間に人の家に行くのは失礼かな?」

「どこへ行くつもりだ。」

「いや、友達の家に忘れ物して来ちゃって、その友達って綾波なんだけど、この時間に女の子の部屋に行くのは失礼かな?」

僕達の間が沈黙が流れる。何だろう?そんなに変なことだったのかな?

「問題ない。」

けど、結局父さんは許してくれた。何となく、その表情が笑っているように見えたけど、気のせいだろうな。父さんがそうそう笑うはずもないし。

「宿泊は許さんがな。」

「するわけないだろ!」

なんて事を言うんだ。父さんだって綾波が一人暮らしだって知っているはずなのに、からかうのも程がある。僕は父さんとは違うんだ。

(でも・・・)

『うん。今日は嬉しかったよ。』

何となく綾波、寂しそうだったな・・・

僕は風邪を引いても母さんがいてくれる。どっちかって言うと騒々しくなるんだけど、長いつきあいだしアスカも気にかけてくれる。

けど綾波はどうなんだろう?たまたまかも知れないけど、今日も僕達以外に誰も来なかったし、僕には想像できないんだけどやっぱり寂しく感じるんじゃないかな。

「何か持っていこうかな・・・」

僕は棚の上に置いてある、ドラムバッグに目をやった。

 

「多すぎたかな・・・」

僕は床に置いたバッグを複雑な思いで見た。

初めは今日の迷惑料も込めて、3つ4つ果物を持って行くだけのはずだった。

それがCDだのインスタント食品だの缶詰だのが増えていって、はっきり言って自分でも持って来すぎたと反省してる。

(確か服を取りにくるだけのはずだったんだけどな・・・)

どこでこうなってしまったんだろう?

(まだ起きてるかな?)

扉から光は漏れてこないし、テレビの音とかも聞こえない。無論それなりの防音はしてあるんだろうけど、もし寝ているんなら、わざわざ起こしたら申し訳ない。

そうだったらこんな荷物を持ってきた自分は単なる馬鹿なんだけど、さっきからどうにもそれを確かめる行動ーつまりノックーが出来ない。

腕を上げては下ろし、暫くしてまた上げる。その繰り返しを何度したことか。

(やっぱり寝てるんだろうな、今日は・・・)

コツコツコツ・・・

帰ろうとした瞬間、階段を誰かが上がってくる音が聞こえて、僕の心臓は跳ね上がった。

(やばい!)

もしアパートの他の住人なら、例え深い付き合いがなくても、ここに女の子が住んでることだけは知っているだろう。そんな人が通った時、男が部屋の前でもじもじしてたら明らかに変質者に思われるに違いない。

(もう引き返せない!)

瞬間的にパニックに陥って、僕は思わずそう考えてしまった。

(こうなったらホントに訪問客になるしかない!)

ドン!

まずい。焦ってノックしたら強く叩きすぎてしまった。

そんな僕の後ろを会社帰りの女の人かな、がいぶかしそうに僕を見ながら通っていく。

コン

(僕は善良な訪問者ですから、どうか気にしないでください・・・)

軽くノックをしてそうアピールする。

「あれ〜いないのかなぁ?」

うう・・・なんてわざとらしい・・・

よく考えたら、むしろこっちの方が怪しかったかも知れない。

(後一回位すれば大丈夫かな?)

幸いにして、女の人の家はそう離れたところでなかったようで、扉3つ離れたところで玄関の鍵を開け始めた。

コンコン

(早く入って行ってよ・・・)

僕も意識は完全に女の人の方へと行っていた。そうだよ、こんな思いしてまで無理矢理今日返して貰う必要ないじゃないか。もっと堂々と来れる時間にくればいいんだよ。

「は〜い。ちょっと待ってくださ〜い。」

「!!」

そう思ってたから、部屋から綾波の声がしたときは本気で飛び上がりそうになった。

 


 

「どなたですか?」

扉越しに私は声をかけてみた。

何と言ってもこんな美少女が一人暮らししてるんだもん。変質者にはいくら気を付けてもしすぎることはないわよね。

私は一応チェーンロックもかけようと、扉に付いてるチェーンに手を伸ばしたけど、その前に向こうから返事が返ってきた。

『あの・・・こんな時間にごめん。碇だけど。』

(え、碇君?!)

ちょっと、なんでこんな時間に碇君がウチに来るの?まさか私を襲うつもりじゃ・・・

(なわけないわよね。)

碇君に限ってはほぼそれはないと見ている。どっちかって言うと異性に臆病なのが原因だと思うんだけど、そんなことはこの際どうでも良い。

問題なのは私は起き抜けで髪もぼさぼさだし目やにが付いてるかも知れないし、とにかく人前に出られる状態じゃないってことよ。

「ちょっと待ってて!」

『・・・や・・・だ・・・・から・・・・』

なにやら外で言っているみたいだけど、聞こえないから無視!

私は急いで洗面所に行って、とりあえず軽く顔を洗って髪をとかす。モン○ミンで口を濯いでから鏡でチェック。服はスウェットのままだからいいわね。

(OK!)

「お待たせっ!」

ガンッ

「ぐあっ!」

!この扉を開けたときに感じた感触はもしや・・・

「痛ててて・・・」

「きゃああ!ごめん!碇君大丈夫!」

私は慌てて床にしりもちを付いた碇君を抱き起こした。

「あ、僕の方は大丈夫だから・・・」

碇君は立ち上がって、パンパンとお知りに付いたほこりを払い落とす。

「もう。なんでそんなに扉の近くにいるのよ。」

「ごめん。ドアノブ掴んだままちょっと考えごとしてたから。」

流石碇君。常人では理解しがたい悩み方するわね。

(?そう言えば何で碇君がここにいたのかしら?)

そうよ。そもそもそれが根本的な疑問よね。

「所で碇君こんな時間にどうしたの?」

「うん。ちょっと綾波の家に忘れ物したみたいで・・・運動着の入ってる鞄なんだけど。それをね。」

あ、そう言うことか。みんなが帰った後そのまま寝ちゃたし、起きた直後にここに来たから分からないけど、多分どこかに転がってるんじゃないかな。

「それとさ、」

「うん。」

「えっと、風邪引いてちゃ買い物行けないだろうと思って、ちょっと食べ物持ってきたんだけど・・・」

「えっ?ホントッ?」

(らっきー。)

本当言うと、最近食料が心細くなってきたのよね。お買い物に行く気力もないし、かと言って常備してあるインスタントラーメンじゃ直る物も直らないし、冷蔵庫はほぼ空だし、なかなか難しい状況だった訳。

(やっぱり碇君優しー、は、)

「は、はくしょん!」

碇君からの思わぬプレゼントの提供に感動していた私だけど、やっぱり夜風は良くなかったみたい。よく考えたら私寝起きだし、体温が上がってたのかも知れないわね。

「あ、早く扉締めた方がいいよ。僕ここで待ってるから。」

「でも外じゃ何でしょ。中入って。」

「え?」

「いいから。」

昨日までならこんな事言わなかったんでしょうけど、昼間家の中見られちゃったし、今更隠す必要もないでしょ。 

「さ。」

「うん・・・じゃあおじゃまします。」

おっかなびっくりな感じで、碇君が扉をくぐる。

正直自分でも大胆かなと思わないではなかったけど、まだそんなに遅い時間でもないし、なんと言ってもここは我が家。まかり間違って襲われそうになっても、手の届く範囲に武器はごまんとあるのよね。

背後で碇君が靴を脱ぐのを感じながら、私は部屋に戻って電気をつけた。

急に視界が明るくなって、目眩を起こしそうになっちゃったけど今回は大丈夫。カーテンを引こうと窓際に寄っていったら、部屋の隅に見覚えのある鞄を発見した。

「碇君、コレでしょ?」

「え?あ、それそれ。ありがとう。」

部屋の入り口に突っ立っている碇君に、私は鞄を拾い上げて渡してあげる。

「良かった。中身けっこう汚れてるからさ。綾波の家に置いておくのは悪いなと思ってたんだ。」

鞄を受け取りながら、碇君は少し照れたような顔。忘れ物くらいで照れてたら、私なんて今頃茹で上がってるのにね。恥ずかしがり屋なんだから。

「何だ。別にそれくらい良いのに。流石に洗濯までは期待されても困るけどね。あ、適当に座って。」

「いや、別に良いよ。あんまりお邪魔しちゃ悪いし。」

「そう堅いこと言わないで。ホント言うとね、ちょっと話し相手が欲しいなって思ってた所なの。でも変な期待しちゃだめよ。」

「す、するわけないだろ!僕が病人になんかする人間だと思ってるの?!」

碇君顔を真っ赤にして反論してくる。分かってるわよ。いくら私だって信用してない人間を夜部屋に上げたりしないわ。

でも、だからこそからかいたくなるのよね。他の人だったら逆に居直られたりするかもしれないけど、碇君だったら絶対そんな事しそうにないもん。

「とすると私が元気になったら何かする予定?これはずっと風引いてないと危ないかな?」

「だからしないって。そんなに言うなら帰るよ?」

「あ〜っ、ちょっと待って。」

いけない。流石の碇君もちょっと怒ったかな?調子に乗って、碇君の冗談の許容範囲越えちゃったみたいね。

私は碇君に駆け寄って、その腕をしっかり掴む。

「ごめんね?冗談だから、ね?」

「・・・・・・まあいつものことだけどさ・・・・」

あ、なんか許してくれそう。碇君ってホントに女の子に甘いわよね。私にとってはその方が都合がいいけど、やっぱりこれってアスカの教育のおかげかな?

「だからおみやげ置いて行って?」

「帰る!」

「冗談!冗談なのよ!待ってったら!お願い!」

あ〜またやっちゃった。この性格どうにかしないとね。我ながらホント、よく友達に見放されないもんだって思うわね。

 


 

 

(全く・・・ホントに僕って甘いよな・・・)

ついさっきまで、ベッドに寝てほぼ一方的に僕に話し続けていた綾波の笑顔を思い出しながら、僕はふとそう考えてしまった。

いくら薬をちゃんと飲んでるからと言っても、すぐに風邪が治るはずもなく、もしかしたらお見舞いで結構はしゃいじゃってたから、却って悪くなってたらまずいなと思っていたんだけど、かなり元気そうだからその点は良かったと思う。

けど、綾波はどうしていつも僕をからかってるんだろう。確かに僕はのんびりしてるし、あんまり女の子を怒るなんて事はできない性格だけど、それにしたってこの2年間近く、良くもまあ耐えてこられたものだ。

(実は構って欲しくてちょっかいかけてるとか?)

なんて都合のいい話もあるはずもなく。綾波はいつも素振りだけ見せておきながら最後はするりと逃げるんだ。

チン

「さて、出来た。」

僕は電子レンジから、雑炊の入った容器を取り出した。

さっきの事だって、僕はずいぶん緊張したんだ。いくら綾波みたいな性格でも、夜、男と女が二人きりになるなんて誘ってるんじゃないかと考えても不思議じゃないよね?

でも、どうやら綾波には全くその気はないし、それどころか僕を男として認識していない節がある。

(仲のいい友達・・・それで良いのかな・・・)

相手に全くその気がないのに、僕だけ浮かれていても馬鹿を見るだけかもしれない。アスカみたいに仲のいい女の子。それで十分なのかも。

「お待たせ。」

こぼさないように雑炊をお盆に乗せて、目に付いたスプーンも乗せてから、ベットに寝ている綾波の所まで持っていく。

「ありがと。」

「いいよ。これくらい。」

僕は綾波に雑炊を渡すと、勉強机から椅子を引いてそこに腰掛ける。

「冷めないうちにどうぞ。あ、水でも持ってこようか?」

「ううん。じゃあいただくね。」

僕が軽く頷くと、綾波はスプーンを取って雑炊をすくう。そして、何回か息を吹きかけて、十分冷ましてから口に運んだ。

「ん、おいし、」

「良かった。そう言ってくれると持ってきた甲斐があったよ。」

「碇君は食べないの?食器は好きに使って良いよ?」

「いや、僕はいいよ。うちで食べてきたし。」

「そう。碇君の家は何だったの?」

再び綾波はスプーンを口に運び始めた。

何か自然な感じの会話。まるで、こんな事を何回も繰り返してきたみたいでちょっと照れる。

でも二人っきりだからって、変に意識しなかったら、かなり普通に出来るもんだな。来る前は、正直僕はどう間を持たせようか心配だったから、こういう展開は願ったりかなったりって感じ。

「鍋だったよ。母さんが同窓会でいなくてさ、父さんが作ることになったんだ。だからあんまり凝った物作れなかったみたいだよ。」

「へぇ〜、おじさんってお料理するの?凄いじゃない!」

「そんな事ないよ。食べられないことはないって言う程度だって。」

綾波が雑炊を冷ましては口に運び、冷ましては食べるのを何となく可笑しく感じながら、僕は父さんの今までの実績という物を思い出していた。

「あの人がどんな料理するのか興味あるな。どんな鍋だったの?鳥鍋とか。」

「いや。似たような物だったけどさ、」

「もしかして洒落?」

「何が?」

「似たものと煮たもの。」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

僕はどう反応していい物やら困ってしまった。

少なくとも僕にはそんなつもりは「全く」ない。この場合は、そんな事に気がついた綾波の方を誉めるべきなのかな?

(でも・・・誉められないよ・・・寒すぎて・・・)

「私が悪かったわ。忘れて。」

綾波も自分の言葉が、余りにもつまらない冗談だったと気がついたみたいだ。僕から視線を逸らすように、一口おつゆを口にする。

「じゃ、じゃあさ、何の鍋?鮭?鱈?」

う〜ん、苦しい。

とても自然な会話の流れとは言えないけど、ここはあえて無視してあげるのが友情ってやつかな?うん。僕も大人になったよね。

「違うよ。何だと思う?」

「う〜ん・・・碇君のうちだから・・・まさか蟹とか?!」

「はずれ。それって綾波の食べたい物じゃないの?」

「たはは・・・そうとも言うわね。で、ホントの所は?」

きっと今頃、綾波の頭の中はいろんな具が渦巻いてるんだろうな。僕でも分かるくらいありありと顔に出てる。僕になんだかんだ言う割には、綾波も顔に出るよね。

「河豚だった。」

「え?」

「フ・グ・ち・り」

いや、このときの綾波の顔ったらなかった。もしこの写真をばらまいたら、評判急降下間違いなしの顔。我ながら性格悪いとは思うけど、邪悪な優越感が涌いてしまう。

「どーしてー?どーして呼んでくれないの〜」

「いや、だって・・・」

「何で私が風邪引いてるときに限って・・・うう・・・私って不幸の星の下に生まれたのね・・・」

(なんか面白いな。)

ぷくっと頬を膨らませて、怒ったふりをしながらも、しっかりと雑炊を乗せたスプーンを口に運ぶ。一生懸命冷やしながら食べる綾波の姿がどことなくおかしさを誘ってしまって、思わず笑みがこぼれてしまった。

「何?」

「え?いや、」

しまった。綾波をボーっと見つめてたみたいだ。こんな事されちゃ気になって仕方ないよね。

「別に大したことじゃないんだ。ホントにおいしそうに食べるなぁって思って。」

「そう?でもホントに美味しいよ。」

「インスタント食品なのに?」

綾波ってどういう食生活してるんだろう?別に女の子なんだからなんて言うつもりはないけど、きちんとしたもの食べてるんだろうか?

「ん〜・・・味って言うより雰囲気かな?誰かに食事作ってもらうなんて事あんまりないから・・・」

そう言って綾波は視線を下に落としてしまった。その横顔は落ち込んでるって言うほどじゃないけど、どこかしら陰を感じさせる。

(やっぱり寂しいのかな・・・)

僕がそんなことを感じた瞬間、綾波がはっとした雰囲気で顔を上げた。

「あ、でも気にしないでね。別に無理してるわけでも辛いわけでもないんだから。」

「・・・うん。」

ホントはいろいろ言いたいこともあるけど、下手な同情なんかは綾波に失礼じゃないかな。

「ところでさ、リンゴでも剥こうか?何か綾波の食べっぷり見てたら僕も食べたくなっちゃった。」

「え?ひっどーい。私そんなにがっついて食べてた?」

「今頃気がついたの?学校じゃちょっとした有名人だよ。」

「うそっ?!これから気をつけなきゃ。薄幸の美少女のイメージが崩れちゃうわね。」

「はっこうってパンの発酵の事でしょ?あ、包丁借りるね。」

僕は笑って席を立った。何とかくらい雰囲気はごまかせたよね。今回は我ながら珍しく巧くいったと思う。

「・・・・・・・・ね。」

「ん?何か言った?」

台所に行こうとする僕の背後で綾波が何か呟いた。あまりに小さい声だったから聞こえなかったけど、僕が呼ばれたような気がした。

「ううん。何でもない。手、切らないように気をつけてね」

笑って綾波は首を左右に振る。うん。やっぱりこういう顔の方がいいや。

「じゃ、ちょっと待ってて。」

「気長に待ってるね。」

「ぐ・・・」

きっと調理実習のこと言ってるんだろう。

どうせ僕は不器用ですよ。でも見てろよ、あの時はすぱすぱ手を切っちゃったけど、僕だって成長してるんだ。・・・多分・・・

とりあえず今回は、リンゴを真っ赤に染めないようにしなきゃね。ちょっと志が低いかな?

 


 

「ふう・・・」

碇君が台所に消えた後、私は軽くため息をついて食事を再開した。

まだまだ雑炊は十分熱くて、とてもじゃないけどそのまま食べられそうにはない。

私って猫舌気味だし、ちゃんと冷まさないと火傷しちゃう。さっきの話じゃないけど、雑炊食べてて火傷するなんて、あまりにも私らしくてとても他人には言えないわよね。

「ふーっ、ふーっ・・・」

もぐもぐもぐ・・・・・・・

(ん〜美味し♪)

よく考えたら、雑炊なんて食べるのはいつ以来かしら?

私ってほとんど風邪も引かないし、ダイエットだってしない訳じゃないけど、雑炊でなんてやったことない。ほら、成長する時期だしこういうあっさりしたものよりも、パスタとかアイスクリームとかお好み焼きとかポテト○ップスとか言う方が好きなのよね。

『痛てっ!』

あ、やっぱり切ったみたい。台所から碇君の声が響いてきた。

「大丈夫ー?」

『うん、大したこと無いよ。痛〜

あれで聞こえて無いつもりなのかな?

ちょっと心配だけど、ここは一つ碇君のプライドを満足させて上げますか。

私は気を取り直して、再びスプーンを口に運んでいく。

(それにしても・・・)

さっきは危なかった。

私はおつゆを一口飲んでから、残り少なくなった雑炊をかき集める。

「思わずくらっときちゃったもんね。」

口の中に昆布だしの味とご飯の甘みを感じながら、私はちょっと前のことを思い出していた。

『優しいね。』

思わず台所に行く碇君に言ってしまった言葉。聞かれてはいないみたいだけど、言った瞬間、自分の方がびっくりした。聞かれちゃったかと焦って、その次に何で聞かれたらまずいのか分からなくなって、思わず黙りこくっちゃった。

別に碇君が優しいのは変でも何でもない。普段はボ〜ッとしてるのに、時々頼りになったりするから不思議なんだけど、基本的には優しい人間よね。

そういう所がアスカにはいいんでしょうし、別に今更って気はする。

(けど・・・まさか私までね・・・)

あの時の私、自分で言うのも何だけど、すごく優しい声だった。

多分恋とか愛とかじゃないと思う。もしかするとそこにいるのが碇君じゃなくても、アスカでもヒカリでも、ううん、例えば鈴原君でも良かったのかもしれない。ただ寂しさが紛れて嬉しかったのかも。

けど、仮定の話はともかく、あの時の私の声は・・・アスカが碇君といい雰囲気になった時の声に似てた・・・

「ふう・・・」

残ったおつゆをしばらく見つめてから、私は火傷しないようにゆっくりと飲む。どうやら食欲だけはほぼ完璧に回復したみたいね。油物とかはまだだめでしょうけど、軽いものなら十分行けそう。

(やりづらいなぁ・・・)

ここに転校してきてからずっと、碇君は私の格好のおもちゃだった。おもちゃのはずだった。可愛くて、純情で、鈍感で、時々格好良くて。

でもいつからかしら?飽きっぽい私が、おもちゃがないと違和感を抱くようになったのは。私の物じゃないって分かってるはずなのに、私もずっと一緒に遊びたいなんて。

おもちゃは一つしかないし、持ち主は手放さないでしょうし、盗んだりしたら、絶交されても不思議じゃない。

「もうちょっと・・・貸して貰お・・・」

なにやら親戚の方で、また私を引き取るのどうのって言う話もあるそうだし、いつかは砂場から帰らなきゃならないのは分かってる。

「・・・・・・って何考えてるのよ。」

ふと我に返ると、自分が何を考えていたかに気がついて、恥ずかしくなってしまった。

これじゃまるで私が碇君に横恋慕してるみたいじゃない!初めて会った日からアスカの気持ちは分かってるから、私はそんなアスカをからかったり、鈍感な碇君をいじめて楽しんでるだけ。

(そうよ!ちょっと人恋しくなっちゃっただけなんだから!)

風邪って怖いわね。ちょっと優しくされただけで、こんな気持ちにさせちゃうなんて。くわばらくわばら。

空になった食器をお盆ごと床に置いて、私はまた布団に寝転がった。

(蛍光灯って・・・こんなに白かったんだ・・・)

言葉通りの意味で、白々しい光を見つめてから、私はそっと目を閉じて耳を澄ませた。

 


 

「どう?なかなかでしょ?」

いったいどれくらいの時間がかかっただろう。

アスカや、ましてや母さんには遠く及ばない時間をかけて、僕はようやくリンゴをむき終えることが出来た。

個人的には皮付きの方が好きだし、その方が切って心を取るだけだから楽なんだけど、せめて綾波の分だけは皮を剥かなくちゃいけない。

だから余計に時間がかかってしまったわけで、表面が酸化しかけてるんじゃないかと心配しながら、切って芯を取って適当なお皿に盛って、最後にフォークを乗せたときは流石に達成感がわき上がってきた。

「へえ・・・巧くなったじゃない。ちゃんと皮まで剥いてくれたんだ。」

「うん。変わってあんまり消化に良くなさそうだからさ。もしどうしてもって言うなら、僕の分も食べてよ。でも責任は持たないからね。」

「遠慮しとくね。ありがと。」

僕は綾波の分のお皿を手渡して、自分はまた椅子に腰掛けた。

綾波は会ったばかりの頃は僕とほとんど背が同じだったけど、最近じゃ僕の方が完全に高い。だから椅子も少し低いんだけど、わざわざ直すほどでもなくて、多少の居心地の悪さは我慢するしかなかった。

「わあ、密入りなんだ。・・・ん〜美味しい。幸せ〜」

「親戚から送ってきたんだ。とりあえず今日は8個持ってきたけどさ、無くなったらまた言ってよ、持ってくるから。」

僕としても綾波がこんなに喜んでくれるんなら、また重い荷物を運んだって構わないと思う。

「ホント?!でもいいの?」

「うん。まだたくさん、と言うより大量って言った方がいいのかな。とにかくうちだけじゃ消費しきれないくらいあるから。明日にでも近所に配ろうと思ってたんだ。」

全く迷惑な話だよ。母さんの遠縁の人らしいんだけど、こっちの家族構成を無視した量をいつも送ってくるから毎回処分に困るんだ。うちに30人くらい家族がいると思ってるんじゃないのだろうか?

「そう。じゃあありがたく貰うね。でもそんなにあったんじゃ、明日からはリンゴのフルコースになるんじゃない?」

「・・・そうなるかも・・・」

いやな指摘だ。今日はたまたま母さんがいなかったから、父さんが食事を作ることになったけど、明日からは普通にいるわけで、レパートリーの豊富な母さんだったら何をやらかすだろう。まさか3食全部リンゴって事はないだろうけど、それに近い運命が待っているような気がしてならない。

「あはは、そうなったら私呼んでね。おば様の料理って美味しいんだもん。」

「そうならないことを祈って欲しいな。でもまずは綾波の風邪が治ったらね。」

僕が肩をすくめてみせると、そこで綾浪は軽く微笑んで、それから何も言わなくなってしまった。どこか考え込むような顔つきになって、僕からお皿に視線を移して、しゃりしゃりとリンゴを食べ始めた。

(どうしたんだろう?)

らしくない綾波の姿に、僕はちょっと首を傾げてしまった。まるで言うかどうか迷っているような態度、こんな姿はあんまり見たことがない。

だから僕もなんて声をかけていいのか分からなくなってしまって、さほど広くない部屋には、二人の咀嚼音だけが微かに響く事になった。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

あ〜っ!!気になる!

何か心拍数が上がってきた。せっかく自然な感じでいられたのに、こんなんじゃ余計に気にしちゃうよ!

細くて柔らかそうな空色のショートヘアー。その髪に半分くらい隠された耳。真っ白な肌、でも熱でもあるのかな?頬が少し赤くなっていて、それより少し上に輝く、ちょっとつり気味の紅い目もより輝いてる。その下には小さめの鼻と口が続いていて、僕の切ってきたリンゴをかじっている。顎のラインはすっとした線を引いて、喉との境を分けていて、リンゴを飲み込むたびに小さく喉が動くのに気がついてしまった。

(・・・!何だよ・・・そんなにじろじろ見るなんて・・・)

ハッとそのことに気がついた僕は、何とか話を切り出そうと部屋の中を軽く見回したら、丁度テレビが視界に飛び込んできた。確かこの時間なら何かはやってるはずだ。

「あのさ、テレ・・・」

「ホントはね。凄く感謝してるんだ。」

テレビでも見ようと発言しかけた僕を、ポツリとした綾波の言葉が遮った。

「?」

「みんなにはホントに感謝してる。これだけみんなのことからかってるのに友達でいてくれて・・・今日のお見舞い、ちょっと気弱になってたから、ホントに嬉しかった。」

あ、そう言うことか。何か緊張して損したような気もするけど、そんなの僕の勝手だよね。

綾波はまるでリンゴを食べ終わったお皿に語りかけるように、じっと下を向きながら落ち着いた声で話し始めた。

「別に気にしなくてもいいのに。僕だって綾波にはいろいろして貰ってるし、これくらい何でもないよ。」

僕は綾波の机に視線を向けた。

そこにはこの2年間でのイベントの写真が何枚か写真立てに収まっている。一番手前のは夏休みのかな?

「ううん。碇君にも迷惑かける方が多いもの。いつもゴメンね。」

「いいって。」

僕は立ち上がって、その机の上から一枚写真立てを手に取った。

(やっぱり。)

この前の夏休み。みんなで行ったキャンプの写真だ。あの時のことははっきり覚えてる。もう少しで雰囲気に流されちゃう所だったけど、僕はそれでも構わないと思ってたんだ。綾波は気がついてなかったよね。

「時々本気で怒りたくなるときもあるけどさ。それより楽しいことの方がずっと多いから。僕の方こそ感謝しなくちゃいけないかも。」

写真立てを元の場所に置いて、再び椅子に座り直して綾波の方を向く。今度は綾波の僕の方へ顔を向けた。

「今のおみやげ。おじさまに持って行けって言われたの?」

「いや、違うけど。」

「あれもね。やっぱり嬉しかったよ。食費とか買い出しの苦労とかそう言う事じゃなくて『あ、私のこと心配してくれる人がいるんだな』って。来てからもいろいろ世話焼いてくれたし・・・やっぱり碇君が風邪引いたらアスカがそうやってくれてるからかな?」

「な、何言ってるんだよ!アスカとは関係ないよ!」

思わず僕は大声を出してしまった。何でこんな時にアスカの名前が出て来るんだよ。どうも昔から綾波は僕とアスカをくっつけようとしたがる。やめて欲しいよね。

「ゴメン。大声出して。でもさ、綾波がどう僕たちのこと思ってるか知らないけど、僕はアスカとは幼なじみでしかないって。変なこと言わないでよ、ホントに。」

僕の大声に始めは目と口で3つの「O」を作った綾波だったけど、すぐに表情を思い詰めたような、それでいて覚悟を決めたような、そんな複雑な物に変えて僕をまっすぐ見つめてきた。

(どうしたんだろう・・・綾波が・・・いつもと違う・・・)

普段の綾波なら、絶対あそこで更にからかってきたに違いなかった。それに僕が必死で反論して、そんな僕を綾波が大笑いしてそれで終わり、のはずだった。

「じゃあさ、碇君にとって幼なじみ以上って・・・アスカ以上の人ってどんな人なのかな・・・」

言われた瞬間、僕は心臓が飛び出しそうなほど驚いた。この展開ってもしかして・・・

都合のいい方へと僕の思考は流れ始める。けれど頭の片隅で、この2年間散々綾波にからかわれた経験が、危険信号を発するのもまた理解していた。

(ちょっと待てよ、シンジ。何度こうやって綾波に騙された?綾波は僕をからかうのにいろんな手段を使ってきたじゃないか。もしそうじゃなくても今は綾波は風邪引いて動揺してるだけだよ。たまたま僕がそばにいたからこんなに優しいんだ。それにつけ込もうって言うの?ホントにそれでいいの?納得できるの?)

「・・・それは・・・僕にとっては・・・・・・・・・・・・」

そこで言葉が切れてしまう。理性が勝った訳じゃない。ただ、この期に及んでどうしても最後の一言が出ない。最初の言葉を口にしようと口は上下に開くのに、声帯がおかしくなっちゃったのかな、声が全然出てこない。

僕たちはただ見つめ合っている。

綾波が何を考えてるのかは分からない。僕だって心の整理がついてるわけじゃない。けどこの雰囲気は捨てたくなかった。

こんなに静かだったら、絶対聞こえるはずの時計の音も聞こえない。明るいはずの部屋も、目の前以外全く見えない。頭の中の警告音がすうっと遠くなっていって真っ白になっていく。

微かに綾波の唇が動いた。

ギシ・・・

ベッドがきしみ、そして綾波が体を寄せてくる。

・・・ゆっくりと目の前の紅が閉じられていき、軽く開いた唇が近づいてくる。まるで磁石に引き寄せられるように、僕の体も自然に前に傾いていた。

(綾波・・・僕は・・・)

僕は首を軽く傾けて、ゆっくり綾波の頭に接近させていく。それが、本当にゆっくりした動きなのか、時間がゆっくり感じられたからなのかは分からない。

ただ、今感じられるのはボーっとした自分の意識と、近づいてくる綾波の呼気だけ。

あと10センチ・・・3センチ・・・5ミリ・・・1・・・

コンコン

(!!)

 


 

(え?)

私はその乾いた音で我に返った。

そして、瞬間的に私達が何をしようとしていたかを理解して、右手で唇を押さえながら慌てて体の距離を取る。

(・・・私・・・何をしようと・・・)

きっと私今、困った顔してる。だって目の前の碇君がそうだもん。

二人の視線があった瞬間、私は碇君の方を見ていられなくなって、まるで逃げるようにベッドから身を起こした。

「あ、私が行くからいいって。見てくるね。」

「あ、うん。」

碇君も同じ事考えてたみたい。椅子から腰を浮かそうとしてたけど、私はそれを制して立ち上がった。

今は碇君見てられないし、とにかく何でもいいから動いていないと頭がおかしくなっちゃう。それに、こんな時間に碇君が出たら、それこそ他人に何を勘ぐられるか分かったものじゃないわよね。

「はーい」

どことなく落ち着かなそうな碇君を残して玄関に向かう。こんな時間に誰かしら?お見舞いにしては時間が遅すぎるし、回覧かな?

「どなたですかー」

外にも聞こえるようにちょっと大きめの声で聞いてみる。

返事はすぐに返ってきたけど、それは私にとってかなり意外な声だった。

『レイちゃん?私よ、ユイ。開けてくれる?』

(おばさま?!)

何でおばさまがここに来るの?それにおばさまは今日同窓会って言ってなかったかしら?

「今開けますから!」

とにかく私は急いで玄関の鍵を開けて、扉を開いた。

「こんばん・・・」

「あっ!レイちゃん大丈夫?!」

「へ?」

私が挨拶を終える前に、おばさま凄く真剣な顔つきで私に聞いてきた。碇君、おじさまに大げさに私の病状伝えたのかしら?

「シンジに何かされてない?」

「え?あ、ああ。そう言うことですか。」

なるほど、おばさま碇君が暴走してないか気になってたんだ。確かにこの年頃の男女が同じ部屋にいたら・・・おばさまが心配するのも無理ないわね。

(でも・・・)

私にはさっきまでのことが脳裏に浮かんできた。

碇君と話してたら、急に不思議な気持ちになってきた。なんだかこうしている時間が凄く大切に思えてきて、もっと碇君に近づきたくて。

はっきり碇君の気持ちを聞いた訳じゃない。私の心が決まった訳じゃない。でも・・・自然と体が動いていた。

「まさか!何かされたの?」

「え?いや、違うんです。何かあったかなって考えちゃって・・・」

私は愛想笑いでごまかす。危ない危ない。おばさまってにこにこしながら勘が鋭いから、下手な行動できないのよね。

(あっ!)

もしかしたら、もう私のこと「夜中に男の子家に連れ込む女の子」って思われちゃったかも!見方によってはそうなのかもしれないけど、ちょっとこれはまずいかな?

「上がっていいかしら?」

「ええ。どうぞ。」

私が道を譲ると、おばさまは丁寧に靴を脱いで、玄関の脇にそろえて部屋に上がる。う〜ん、碇君の母親とは思えない几帳面さね。

「か、母さん!」

話し声が聞こえたみたい。碇君が玄関の方へと出てきた。

「何でここまで来たの?」

「いいからちょっと座りなさい。」

「う、うん・・・」

(うわ〜・・・怒ってるよ〜)

碇君はすごすごと居間の方へと戻っていき、おばさまのその後に続く。私はそれを確認してから、そっと扉を閉めた。

「はぁっ・・・・・・・すうっ・・・・・・」

この様子だと、碇君怒られるんじゃないかな?だとすると私も共犯だし、覚悟しておいた方がいいかも。

一回大きく深呼吸して、私も部屋へと戻っていった。

 


 

「あ、レイちゃんは寝ていて。」

「はい。じゃあお言葉に甘えて・・・」

綾波らしからぬ小さな声で、綾波はそっとベッドの上に座ると、上半身を起こしたまま腰まで掛け布団をかけた。

「シンジ。母さんが何を言いたいのか分かってるわね。」

「うん・・・多分・・・」

実のところ多分どころか、母さんが怒るようなことは一つしかない。それくらいは僕にだって充分分かる。母さんはこういうことには結構煩いんだよね。

「こんな時間まで綾波の家にいたからでしょ・・・」

「そう。分かってるならどうしてそういうことしたの?荷物を取って、渡す物を渡せばそれですんだでしょ?」

「うん・・・」

「あの・・・それは私が引き留めたんです。話し相手が欲しかったから・・・」

申し訳なさそうな態度で、綾波が横から母さんに声をかける。

そんな綾波に、母さんはちょっと驚いた様子だったけど、すぐに元の顔に戻って言葉を続ける。

「気持ちは分かるわよ。大学の時私も一人暮らししてたけど、やっぱり風邪引いたら寂しかったわ。中学生だったら尚更よね。それにそれだけシンジと仲良くしてくれて、信用もしてくれるのは母親として凄く嬉しいの。でもね、シンジももう年頃だし、何かあってからじゃ遅いのよ?分かるわよね。」

「はい・・・」

この会話を聞きながら、僕は後悔の念に苛まれていた。

正直綾波が部屋に上げてくれた時、全く下心がなかったと言ったら嘘になる。実際そうなりかけていた。

むろんよかれと思ってやった部分もあったけど、こんな事なら素直に帰って来るんだった・・・

「母さん。そのくらいで止めて上げてよ。綾波はそこまで言われる程悪くないよ。ずるずる帰らなかったのは僕なんだから。」

「そう。悪いのはシンジ。」

ぴしゃりと母さんは断言する。

「一つ聞きたいんだけど、あなた達、つきあってるの?」

「ち、違うよ!」

「違います!」

いきなりなんて事を聞くんだ!僕と綾波は、お互いを見合ってそれでまた赤くなってしまった。

「そう。ならいいわ。正直に言うとね、少し心配してたの。二人が付き合ってて、もう男女の関係、分かるわよね、になっていて、シンジが入り浸ってるんじゃないかって。」

「なっ!」(×2)

「好きになっちゃいけないなんて言わないわ。そういう関係になるのも、勧めはしないしどちらかと言えばまだ早いって言いたいけれど、仕方ないと思うの。けどね、あなた達の年頃っていったん火がつくと周りが見えなくなるから・・・レイちゃんに変な評判は付いて欲しくないのよ。」

「おばさま・・・」

多分綾波はとまどってるんじゃないかな?

綾波って凄く開けっぴろげだし、そう言うことはあんまり気にしてなかったんじゃないだろうか?それに何で他人の親にそこまで言われるのかと思ってるのかもしれないし。

「怒ってるわけじゃないの。ただ、気をつけて欲しいだけ。世の中ってね、悪い評判ほど早く、思っても見ない範囲で広まるの。例えそれが真実でなくてもね。分かる?」

「はい・・・」

「シンジも。」

「うん・・・気をつけるよ・・・」

僕は玄関前で会った人の視線を思い返していた。

まるで値踏みするような目。

あれは僕を見てたんじゃなくて、僕を通して綾波を見てたのかもしれない。もしこれから綾波がそう言う風に見られるとしたら、きっと僕のせいなんだろうな・・・

「綾波・・・悪かったよ。何か甘えちゃって。」

「ううん。私が不注意だったの。まだ9時前だから大丈夫だと思ってたんだけどね。」

そうだよな・・・僕がそもそもここに来るのだって、まだ遅くないからって理由だっけ。確かにただ行くだけならそうなのかもしれないけど、上がり込むとなると違う目で見られるかも。

(それに・・・実際危なかったしね・・・)

僕の気のせいだろうか。

ホントに二人の唇が触れる直前、扉を叩く音が聞こえて僕たちは離れたんだ。けど、一瞬だけ呼気以外の物が当たったような、いや、かすったような気がした。

今改めて考えると、あれは乾いてめくれた唇の皮とかそんな感じかな?今更綾波に聞くなんて事出来ないし、本当のところは分からない。

けれど、あのまま行ったら間違いなく雰囲気に流されてた。

どこまで行ったかは分からないけれど、母さんが心配するようなことだって起こったかもしれない。

「綾波。」

「ん?」

「ホントにゴメンね。」

「だから私はいいって。」

綾波は笑顔でぱたぱたと手を振ってくれた。

でも多分分かってないだろうな。僕が何に謝ったのかって事は。

 


 

「さ、その話はひとまず終わり。」

あ、ひとまずなんですか・・・

私としてはこれで水に流してくれるとありがたかったなぁなんて思ってたんだけど、そう甘くはなかったみたい。

でもおばさまは少しおだやかな表情になって、私に声をかけてきた。

「それでね、レイちゃん風邪の方は大丈夫?」

「ええ。それこそ碇君にはいろいろお世話になりましたし。」

「少なくとも食欲だけは戻ってるみたいだよ。」

「う・・・碇君の馬鹿・・・」

全く!碇君ったらおばさまの前でなんて事言うのよ!

これでまた私のイメージが崩れていく・・・今日は厄日なのかしら?

「良かった。でもね。風邪って治りかけが危ないのよ。でね、相談なんだけど、」

「はい?」

何かしら?まさかおじさまが開発した怪しげなお薬の実験台にとか・・・なんて事は絶対におばさまの前では言えないわね。

「今日と明日くらい、別に治るまででもいいんだけど、うちに来ない?」

「えっ!」(×2)

思わずはもってしまう私と碇君。

「やっぱりね、一人暮らしじゃ治りにくいと思うの。うちじゃイヤだって言うなら仕方ないけど、どうかしら?」

「あ、でも迷惑なんじゃ・・・風邪移したら悪いですし・・・」

はっきり言って、おばさまの申し出にはくらっときた。喉までOKサインが出かかってた。

けれど、さっき怒られたって言う引け目も少しはあるし、治りかけとは言え誰かに移したら申し訳ない。おじさまあたりには効きそうもないけど、碇君やおばさまになら移るかもしれないし。

「いいのよ。実はね、うちはもう全員やってるから。シンジも先週の月曜日休んだでしょ?」

「あ、そう言えばそうですね。」

確かに碇君は月曜日いなかったっけ。その直前に、アスカも風邪気味だって聞いてたから「移すようなことしたんじゃない?」とかからかったっけ。

「着替えとかは持っていくことになるけど、お客様用のお布団もあるし、遠慮しなくてもいいのよ。うちの人が下で車で待ってるからどう?」

「あのさ、そうした方がいいんじゃない?ここに一人でいるよりもさ、うちなら近くにアスカもいるし、だいたい母さんも家にいてくれるし・・・そう言えばさっき母さんのご飯食べたいとか言ってたじゃない。丁度いいよ。」

「そうなの?」

おばさまニコニコして碇君に問いかける。

「うん。母さんの料理美味しいから好きって言ってた。ね?」

「うん・・・」

(こういうのって暖かいな・・・)

私のこと気にかけてくれて、心配してくれて、大事に考えてくれる。改めて嬉しいって思う。

さっき碇君とキスしかけちゃったのも、碇君の優しさを勘違いしちゃったに違いないわよね。碇君の方も、おばさまの台詞じゃないけど、あんな雰囲気だったんだもん、私のこと特別視してなくたって男の子だったらああ動くでしょうし。

「じゃあ、お世話になりますっ。準備しますからちょっと待っててください。」

「ええ。ほら、シンジは先行ってなさい。」

「え、僕も待ってていいけど?」

やっぱり碇君って鈍感。お子さまというか、恋愛対象としてよりも、かわいさの方が先に立っちゃうのよね。

「レイちゃんだって着替えるのよ。いいから早く行ってなさい。」

「・・・あ!ごめん!」

掛け布団から出ている私の上半身を1・2秒見つめて、ようやく気が付いたように碇君は立ち上がった。

「先行ってるよ。父さんはすぐ下?」

「そうよ。それからほら、運動着と鞄、忘れてるわよ。」

「あっ、そうだったっけ。じゃ、また後で。」

慌てて碇君は私の家を飛び出していく。何もそんなに急がなくてもいいんじゃないかしら?

「ふぅ・・・」

ばたんと扉が閉まる音がすると、なにやらおばさまが心の底からっていう感じでため息を吐いた。

「あの子ももうちょっと落ち着かないかしらね・・・」

私も同感。もうちょっと大人になったら、碇君結構いい線行くと思うよ。なんて偉そうなこと言えないわね、私。

「でも良いところも沢山ありますよ。」

「そう言ってくれると嬉しいわ・・・」

頬に手を当てて、いかにも悩み多き母親って感じのおばさま。

(ちょっと羨ましいな。)

碇君にそんな思いも抱いたけど、おばさまが私の方をまじまじと見ているのに気が付いて、何事かと思って聞いてみた。

「あの、何です?」

「・・・あの子の面倒、よろしくお願いしますね。」

「ええ、任せてください!」

私は胸を張って答えた。

そう、これからもみんな一緒。

私だけじゃなくて、みんなでいろんな事をやっていけたらなって思う。高校はバラバラになるみたいだけど、それまでの間は楽しまなくっちゃ!

「そう言えばレイちゃん志望校がシンジと同じなんですって?」

「ええ。だから後3年間はお任せあれ。」

「あら?たった3年?」

「え`」

まさか・・・面倒を見るってそう言うこと?!

「いや、その、それ以降はアスカが面倒見てくれるんじゃないかなぁと。」

「あら、そうなの?」

どう贔屓目に見ても意味ありげな言葉を残して、おばさまは立ち上がって私の手を取る。

「さ、二人が待ってるわ。着替えましょ?」

「え、ええ。」

(この人には勝てないなぁ・・・)

おばさまの手は、思ったより荒れているみたいだったけど(それはそうよね。若く見えるけど中三の子持ちなんですもの)温かくて、それに力強くて、何となく懐かしかった。

 


 

「ふふふふふ・・・いつもいつもこのアスカ様の手を煩わせるなんて良い度胸よね。今日こそ天誅をくらわせてやるわ。」

アスカはいつものように襖の前に仁王立ちしていた。

実の所アスカが勝手に手を煩わせているのだが、それを指摘した当人は、朝から紅葉をつけることになってしまったのでそれ以来口にすることはない。

「さーて。今日はどういう風に起こしてやろうかしら?大声出しても最近起きなくなったし、物を投げるのも流石にまずいわよね。下手に布団をひっぺがそうものなら見たくない物まで見えちゃうし。」

その時を思い出して、ちょっと赤くなるアスカ。

「ま、今日もオーソドックスにげんこつかしら?」

つかつかと部屋に入ってきて拳を握りしめる。

「さーて、今日も行ってみましょうか・・・え?何・・・・」

(ちょっと待って・・・冷静に考えなさい。)

目を閉じてこめかみに指を当てて、無言で窓際に歩み寄り、サッとカーテンを引く。

「ん・・・」

(そんな・・・嘘でしょ・・・)

部屋の明るさに反応したのだろうか。聞き覚えのある声。だが絶対に聞こえるはずのない声。それを聞いてしまったアスカは、急に視界が暗くなったような気がした。

「何で・・・何でよ・・・」

ゆっくりと振り向くと、そのすぐ側にはシンジのベッド。だが、寝ていたのはシンジではなかった。

「あ、アスカおはよう。」

「シンジッ!」

声に反応して、アスカが顔を上げると、入り口の所にシンジが立っていた。

「これは何よ!」

飛びかからんばかりの勢いで、アスカはシンジの元へ詰め寄り、その胸ぐらを掴む。

「ちょ・・・苦しいって・・・」

「何であんたのベッドにレイが寝てるのよ!」

「あ、それは・・・」

「何?!言えないの?!」

「訳を話すから・・・離して・・・」

「・・・・・・・・」

無言でアスカはシンジから手を離す。が、その瞳は一瞬たりとも油断を見せない狩人の目。

「ふう・・・何なんだよ・・・」

「で、訳って言うのは?」

「だから・・・」

シンジは先週末のことを話し始めた。

「なるほど、何となく分かったわ。でも何であんたのベッドで寝てるのよ。」

「だって余ってる部屋ないだろ?綾波病人だし、僕が父さん達と寝てたんだ。」

「嘘じゃないでしょうね?」

「嘘ついてどうするんだよ。じゃあそれ以外にどう説明するって言うのさ?」

アスカは思わず赤くなる。まさか自分の想像をシンジに言うことなど出来ようもない。

「どうでも良いわよ。もう。」

「何だよ・・・」

シンジとしてはアスカに会うなり締め上げられたわけで、珍しく一人で起きられた達成感など吹き飛んでしまった。

(でも・・・綾波の寝顔って可愛いな・・・)

ちらりとベッドに目を向けると、幸せそうに寝息を立てるレイの姿。学校で寝ているのとはまた違った表情だった。

「何女の子の寝顔見てるのよ!さっさと出て行きなさい!」

「いや、でも勉強道具そろえなきゃ・・・」

「アタシがやっておいて上げるわよ。ほら出ていった出ていった。」

アスカがシンジの背中を押し出しかけた瞬間、その後ろから声が聞こえてきた。

「碇君・・・」

「え?」

「何?」

二人は思わずレイの方へと顔を向ける。

「寝言か・・・」

シンジは何となく嬉しくなった。レイがどんな夢を見ているのかは知らないが、自分が関わっていると思うと楽しくなる。

「あんた何にやついてるのよ。」

対照的に不機嫌な声のアスカ。が、ここへ更に爆弾が投げ込まれるとは二人とも思っていなかった。

「もっと・・・」

「「!!」」

シンジの肩を掴むアスカの手の力が痛いくらいに強くなる。

「シ〜ン〜ジ〜?」

「いや、何となくアスカの考えてることは分かるけど誤解だよ!僕は何にもしてないって!」

「本当のことを言いなさい・・・そうしたら許して上げるわ・・・」

(嘘だ!)

直感的に、シンジは真実を悟ったが、悟ったからと言ってどうなるものでもない。いつの間にか部屋を出て、廊下の壁際に追いつめられていた。

「もう・・・だめ・・・」

爆弾第二撃

パンッ

「シンジの馬鹿ぁ!!」

「ちょっと待ってよ!だから誤解だってば!僕の話を聞いてよ!」

「うるさいわね!アンタなんてレイと好きなだけいちゃついてればいいのよ!」

「だからどうしてそうなるんだよ!なんにもしてないっていって言ってるじゃないか!」

「信じられないわ!嘘つくなんて最低よ!」

「誰が嘘ついてるって言うんだよ!」

「アンタじゃない!」

大混乱の廊下をよそに、レイは暖かい布団にくるまれて、最高の幸せの中にいた。

「でも・・・おかわり・・・」

夢の中では、レイはこの二日間で食べた料理に囲まれていた。

 

 

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