とある日曜日。

二昔前なら梅雨の直前と言うことで、このような日光は歓迎すべき物であったかもしれないが、今となってはただ暑いだけとしか受け取られなくなっていた。

街行く人々は皆ハンカチ片手にけだるそうに歩道を歩いている。

街路樹の陰、建物の陰、そんな場所はまだ過ごしやすいと言えたが、このようなショッピングモールの中では、いくら直射日光が当たらないと言っても空気の流れが悪い分却って暑苦しいと言うほかない。

そこで買い物をする大多数の者が内心設計者に文句を言う中、レイはそんな様子は全く見せずに各ウィンドウを覗いて回るのだった。

(どれがいいかしら?)

今までそんなことはやったことがないので、そもそも判断基準が曖昧なために、レイは生まれて初めて買い物に迷うという体験を味わっていた。

(ダメ。)

別の店へ行く。

(これも多分ダメ。)

また違う所へ。

(絶対ダメ。)

更に違う階へ。

(これは何?)

全然決まらなかった。

無駄に時間が過ぎ、いよいよ日も暮れようという時間になって、あらゆる店を覗いてきたレイは、流石に疲れて備え付けのベンチに腰を下ろした。

(決まらない・・・)

いくつか候補はあったのだが、それぞれに決め手に欠けるような気がして決定までは至らない。全て買うという手もあるのだが、それでは適当に見繕ったような気がしてレイとしてはやりたくない。

レイは顔を正面に向ける。

そこには一軒の紳士服店。ショーウィンドウには夏物のスーツがディスプレイされていたが、レイには全く必要のないことであった。

(あれもダメ・・・・・・・・・・え?)

何とはなしにその店を見つめていたレイだったが、そのうち天啓の如く名案が浮かぶ。

(そう、それがいいわ・・・)

近くにいると伝染るものなのか、ゲンドウのような笑みを浮かべてレイは立ち上がり、目的の場所へと歩みを進めるのであった。

 

 

「ダメです!プロテクト次々と解除されていきます!」

「疑似防壁展開失敗!アクセス拒否されました!」

「速い!トレースが追いつきません!目標の発信源特定不可!」

「I/Oダウンできません!物理的切断します!・・・・・・どうして!別回路から進入されました!」

中央制御室は混乱の極みにあった。

かつてのネルフ本部以上のガードはしてあったはずであった。それが謎の侵入者にいとも容易く破られていく。

「くっ・・・貸しなさい!」

(悔しいけど、今回の負けは認めるわ。だけど、あなたの正体教えて貰うわよ。)

敗北感にさいなまれながらも、リツコは陣頭指揮に立つ。神業的な早さでキーボードを叩き、相手の発信源を掴むという目的のみに集中した。

ピーッ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

その音と共に、制御室は沈黙に包まれた。

「パスワード解析されました。敵、最終プロテクト解除します。目的地は・・・第13資料室・・・」

マヤの報告だけが、リツコの敗北感と共にそこにいた全員にのしかかる。

「碇・・・」

「構わん。」

「いいのか?13資料室と言ったら・・・」

「ああ。そうでなければ・・・」

「・・・そうだな。それもいいかもしれんな。」

ゲンドウと冬月の会話は、誰にも聞こえないほど小さな物であった。


 はっぴー? Birthday!


「でわ、碇シンジ君の15回目の誕生日を祝って、かんぷわぁ〜い!」

「かんぱ〜い!!」(×4)

(何回目の乾杯だろう?)

シンジは朦朧とする頭で、必死に記憶を辿ろうとしたが、どうやっても無理なことは自覚していたので途中でその作業は放り投げてしまった。

「シンちゃ〜ん、飲んでないわね〜」

シンジは泣きたくなった。

どうして自分の誕生日にミサトに絡まれなくてなならないのか。パーティを開いてくれたことは嬉しいが、こうなることが分かっていたら、絶対にミサトの家ではやらなかっただろう。

(全部ミサトさんが悪いんだ。)

確かにヒカリの制止も聞かず、興味本位に勧められるままアルコールに手を出した自分も悪い。そのヒカリにアルコールを勧めまくるアスカを止めなかったこともあった。

(だけどそもそも15歳の誕生日パーティにお酒なんて持ち込むミサトさんが一番悪い!)

「綾波もそう思うだろ!」

「何が?」

平然とウーロンハイの入ったコップを口にしているレイは、自らの肩を叩いて同意を求めるシンジをきょとんとした顔で眺めていた。

(碇君、酔ってる。)

レイはすぐさま理解したが、別にレイの観察力が優れているわけではない。この場に酔っていない人間など存在しない。ただそれだけのことであった。

「おおっ!碇が綾波に手を出してるぞ!」

「何やて?!センセようやった!」

「え?え?え?ち、違うんだ!ただ・・・」

突然の突っ込みにパニックになるシンジ。別に肩を叩いただけなのだが、純情なシンジのこと、過剰に反応して却って騒ぎを大きくしてしまう。

「ミサト〜シンジが浮気した〜。」

何か鬱積しているものでもあったのか、ミサトに抱きついて泣き出すアスカ。

「おーよしよし。シンちゃんダメよ〜浮気しちゃ。」

「浮気なんてしてません!そもそも何で浮気なんですか?!」

「う・・・アタシのことおもちゃにした癖に要らなくなったら捨てるのね。え〜ん。」

それを言われるとシンジに分が悪い。あの時期は皆精神的に変だったとはいえ、だからといって綺麗さっぱり水に流せる事でもない。

「い〜か〜り〜く〜ん。」

「はいっ!」

目の据わったヒカリは怖かった。シンジは思わず正座して背筋を伸ばしてしまう。

「女の子傷物にしたのよ!責任取りなさいよ!」

「ちょ、傷物なんて、みんな誤解してるよ!僕は指一本触れてないんだから!」

「なんや、つまらん。」

(やった!これで注意がトウジに行く。)

シンジの計算ではこの突っ込みでヒカリがトウジに文句を言うはず。そこにケンスケがトウジ側に参戦して、アスカもまたヒカリに付くという形でこの話はお流れになるはずであった。

だが、予想外の計算違いが発生する。

「そうね。碇君指一本『触れて』いなかったもの。」

場が沈黙した。

「だって碇君、自分でし、むぐっ」

シンジはレイが発言した瞬間、飛びかかってレイの口をふさいでいた。

(何で綾波が知ってるんだよ。)

勢い余って押し倒す形になってしまったが、シンジにとってはそちらの方が大事であった。

病室での出来事どころか、記憶の全てがLCLで溶け合った時にばれているとは気づいていない。もし気が付いていれば、シンジはレイの前に顔を出すことなど出来なかったであろう。

「お〜っ!センセ大胆やな〜」

「シンジに女の子押し倒す勇気があったとは驚きだよ。」

「シンちゃんダメよ。女の子はもっと優しく扱わなきゃ。」

「え〜ん。シンジに捨てられた〜。」

「校則14条男女交際はグループでのみ認め、その範囲は中学生らしい物に限る・・・」

もはやシンジには手が着けられない。

「ゴ、ゴメン!」

とにかく慌てて起きあがって辺りを見回しながら謝るシンジ。

「これで二回目ね。」

レイの呟きが、混乱に油を注いだのは間違いなかった。

 

 

「まあまあ、碇君もそんなに怒らないの。」

ボロボロになったシンジの頭を、楽しそうにヒカリが何度も叩く。

(ああ・・・委員長まで・・・)

「そうだな。シンジ、これももてる男の宿命だと諦めてくれ。」

肩を組んで、偉そうに語りかけるケンスケ。

(僕ってそんなに恨まれる事したんだろうか?)

「そうそう。楽しませてくれたお礼って訳じゃないけど、誕生日なんだし、ミサトお姉さんがプレゼントあげましょう。何だと思う?」

「三十路の癖に何がお姉さんよ。

「わ、た、し、は、ま、だ、二、十、代、よ。」

「痛い、痛いってば、ミサト、ちょっと止めてってば!」

余計な突っ込みを入れて、ぐりぐりとこめかみを両拳で挟まれるアスカ。

「さ、さあ。何でしょう?」

そんなアスカとミサトを、シンジはただ引きつりながら見ていることしかできなかった。

「へへ〜。色々考えたのよ〜。食事当番交代券とか、暫くシンジ君を毎朝車で送っていってあげるとか、それに一週間ほど家を空けてあげるとか〜」

「そんなのはダメ。」

「そうよ。出張の話はともかく、それ以外は悪影響しか及ぼさないじゃない。」

「「「ともかく?」」」

「と、とにかく反対!」

アルコール以外の理由で赤くなるアスカをニヤニヤとと見つめるミサト。が、すぐに表情を元に戻し、一旦肩をすくめた。

「分かってるって。だから代わりにこれ買ってきてあげたわ。」

ミサトは席を外し、収納の中から紙袋を取り出す。

「ハイ、おめでとう。」

「ありがとうございます・・・開けていいですか?」

「どうぞ。」

シンジは紙袋を開け、中から物をとりだして広げてみる。

「ジャケット・・・ですか・・・」

「そう。シンジ君が持ってるのってポロシャツとかTシャツとかそんなのばっかりでしょ。」

「ええ、まあ。あの、大事にします。」

「大事にするんじゃなくて着るの。シンジ君も少しくらいおしゃれした方がもてるわよ。」

「は、はい・・・」

頑張りなさいとでも言いたげにウインクするミサトだったが、シンジの方はと言えば周囲から強烈なプレッシャーを感じないわけには行かなかった。

(ああっ!みんなそんな目で僕を見るのは止めてよ!)

「ブランド品の、かなりいい物なのよ。大切に扱ってね。」

「はい。」

袋にジャケットをしまおうとしたシンジだったが、突如横から伸びてきたしなやかな腕によって手中の物をかっさらわれてしまった。

「ブランド物ねぇ、ブランド信仰は日本人の悪い癖よ。・・・え?これ・・・くっ・・・くくっ・・・」

「物がしっかりしてるんだし、いいじゃない。・・・何よ。」

初めは軽く流そうとしたミサトだったが、アスカが耐えるように笑っていることは無視できなかった。

「だってミサト・・・くくっ・・・これ、偽物じゃない!」

「ええっ!」

驚くミサトに大笑いするアスカ。その他の人間はどう対応していいのか分からずぽかんとしている。

「何々?アスカどういう事よ?」

「どうもこうもないわよ。ほら、ここのロゴの形、変だって気づかなかったの?」

「ああっ!やられた・・・あのオヤジに騙された・・・」

「どうせ安く済ませようとか考えたんでしょ。天罰よ。」

しょげ返るミサトを見て、シンジとしては何か自分も連帯責任であるような錯覚を覚える。

「あの、ミサトさんがいい物を安く買おうとしたのは間違ってないと思いますし・・・いい物を買おうとしてくれたその気持ちで十分です。」

「あ・・・シンちゃんって優しいのね〜」

ミサトはシンジを抱き寄せ思い切り抱きしめる。

「ミサト、さん、苦しい・・・」

丁度息を吐いたところで、ミサトの豊満な胸に顔を埋められ、この美味しいシチュエーションに本気で喜びを感じる所ではないシンジ。

「羨ましい・・・・」

ケンスケはシンジへの憎しみを増幅させながら、指をくわえてその光景を見るに止まっていたが、二人の行動はもっと直接的だった。

「葛城三佐。」

「離れな、さい。」

アスカはシンジの腕を強引に引っ張り、レイはミサトの襟首を思い切り引っ張る。

「ぐえっ!げほっげほっ・・・あんたらもうちょっと、加減っていう物を・・・」

「人に加減を求める前に常識を持ちなさい。」

「碇君は・・・私が護る。」

流石の元作戦部長も二人の視線には勝てずに白旗を揚げた。

「分かったわよ。私の番は終わり。次いって次。」

(ま、いいか。)

何となく釈然としない物の、このまま言い争っても埒があかないので、一同は顔を見合わせアイコンタクトで順序を決める。

「まずはワシからやな。」

トウジはシンジの前にティッシュペーパーの箱を二周りほど大きくした箱を差し出した。

「バッシュや。一回だけ見たことあるんやが、シンジのおとんめちゃめちゃごついやないか。シンジも今の内にバスケやっとけば、でかくなったとき絶対役立つこと間違い無しや。シンジ、おめでとさん。」

「ありがとう。」

とは言った物の、嬉しいには違いないので余計なことは言わなかったが、自分がゲンドウ並に大きくなるのはどうしても想像できなかった。

(僕もそれなりに身長欲しいけど、あそこまでは要らないや。)

シンジも複雑であった。

「俺からはこれ、サバイバル教本。これをマスターすれば、例え世界が滅びてもシンジだけは生き残れるよ。おめでとう。」

(もう生き延び「た」んだけどね。)

シンジとしては苦笑するしかない。

果たして自分が世界を滅ぼしかけたなどケンスケに話しても信じて貰えるだろうか?

「思い出すわね〜」

既に完全に酔っぱらっているアスカが、隣に座るシンジの肩に寄り添ってきた。

「何を?」

(アスカってクウォーターなのに弱かったんだ。)

シンジは普段からは想像も付かないアスカの態度にそう考えたがそれは違う。その細いウエストのどこに入るのかと疑うような量が既にアスカによって摂取されていて、中学生と言うことを差し引けばアスカは十分強かった。

「LCLの湖のこと。シンジったらいきなりあんな事して来るんだもの。死んじゃうかとおもったわ。」

目はアルコールのせいかトロンとしているし、ろれつも回りにくそうだが、とにかくその爆弾の効果はてきめんだった。

「!」

「碇っ!」

「シンちゃんったら・・・」

「・・・・・・・(真っ赤)

男どもが今にもシンジを襲いそうな気配を漂わせてはいたが、瞬間的に部屋の温度が下がったような気がした。少なくともシンジにはそう感じられた。

「したの?」

「ちっ違う!みんなが何考えてるか分かるけど分からないけど僕のしたことは何にもしてないんだ!」

もはや自分でも何を言っているのか分からない。怪しげな日本語もどきでシンジは必死に自己弁護を始める。

「動けないアタシにあんな事した癖に・・・」

「したのね・・・」

わざとらしく涙を流すアスカに絶対零度のレイ。シンジは二人におそれおののきながらも思い切り首を左右に振る。

「違う!ただ首を絞めちゃっただけで、いや、本気で殺そうとしたわけじゃなくて・・・」

「聞いたか。シンジはSの気があるらしい。」

「そやな。前々からそうやないかとは思ってたんや。」

「人は見かけに寄らないのね・・・」

「シンジ君切れると怖いしね・・・」

4人は気持ちシンジから離れた。

「だからちゃ〜んと責任とってね。」

更にシンジにしなだれかかるアスカ。

(あ・・でもこういうアスカも何か可愛くて・・・あっ!綾波が怒ってるっっ!!)

実際には、レイはただじっとシンジを見つめていただけなのだが、後ろ暗い所があるせいでレイに睨まれていると感じて動揺してしまう。

「酔っぱらいは好き?」

ぶんぶん

「そ、ならいいわ。」

シンジの強烈な否定を目にして納得したのか、レイはシンジにしなだれかかるアスカの手を引いて元通り座らせる。

「あ〜ん、シンジィ〜」

「ちゃんと座って・・・これ、こぼさないように・・・」

だだをこねるアスカと甲斐甲斐しく世話をするレイ。シンジも含めて他の人間は信じられない物を見たような目つきでその光景を眺めていた。

「さ、次行きましょう。」

何となく流れに無理があったが、今のヒカリにはそんなことは関係ない。何事もなかったように自分のプレゼントを差し出した。

「料理の本?」

「そう。昔『料理は結構好きだよ』って言ってたでしょ。」

(そんな事言ったかなぁ・・・ああっ!ミサトさんがこっち見てる!)

考え込むシンジだったが、何か視線を感じて顔を横に向けた瞬間、ミサトが猟犬のような目つきで自分を見ている事にを気づいてしまった。

「シンちゃ〜ん。これからたっぷり練習していいのよん。これから夕食当番全部任せちゃおうかしら?」

「何言ってるんです。今でもほとんどそうじゃないですか。」

「さんせ〜い。」

「じゃ、そう言うことでお願いねん。代わりにお小遣い増やしてあげるから。」

「・・・・・・・・・・・」

シンジの拒否は全く通らなかった。

(酔っぱらいに何を言っても無駄なんだ・・・・)

人は好きになれるようになったかもしれないが、酔っぱらいは決して好きにならないと心に誓ったシンジであった。

「で、ファーストは何かしら〜?」

シンジが諦め顔でヒカリから本を受け取ると、アスカは正面に座るレイに順番を回した。

「あなたからでいいわ。」

「主役は最後って相場が決まってるの。遠慮しないでいいわ。」

(ふふ、シンジ驚くわよ。)

自分の計画が的中し、シンジが驚きと感動に包まれる所を想像して、アスカは思わず笑みがこぼれる。

だが、レイの答えは計画の変更を余儀なくさせる物であった。

「まだ用意できてないわ。」

「素直に言っちゃった方が楽よ〜。してないって。」

「ちゃんとしてあるわ。」

「ま、どーせアンタのことだから出来もしない手編みのセーターとかに手を出して、結局間に合わなかったんでしょ?」

補足すれば、今でも日本は夏の国である。その意味でアスカの言葉は2重の嫌み以外の何者でもない。

「違う。監視が厳しかっただけ。」

「監視?」

「そう。もう少しだと思うから、あなたからやっていいわ。」

(仕方ないわね・・・)

ここでレイと張り合っていても仕方がない。

アスカは内ポケットに手を伸ばし、中から一枚の封筒を差し出した。

「ふふふふふ、驚きなさいよシンジ。これは何を隠そう・・・」

「図書券か文房具券?」

ガシャン!

「なんや惣流、そないに吉本みたいなこけ方せんでもええやろ。」

「好きでやってるんじゃないわよ!」

机に捕まって、シンジを睨み付けながらアスカは座布団に座り直した。

「アタシはシンジにそんなつまらない物上げたりしないわよ。第一アタシがそんな一般的なことすると思う?」

「何と言っても惣流は変わってるからなぐおっ!

シンジから視線は逸らさず、机の下でケンスケの足を思い切り蹴り飛ばす。

(ゴメン、ケンスケ。僕にはアスカに逆らう勇気なんてないんだ。)

下で何が起こっているのかほぼ正確に推測していたシンジだったが、それを確かめることは出来なかった。

「これは、いい?何と豪華客船による世界一周旅行のチケットよ!」

「「「ええっ!」」」

(予想通り驚いてるわ、アタシって天才ね!)

アスカは満足感に浸りながら話を進めた。

「学校はもう少しで夏休み、ネルフはもうない、使徒も・・・まぁいないこともないけど、この際関係なし。修学旅行みたいな事ないのよ。」

「でもそれって凄く高いんじゃ・・・」

「アスカ様を甘く見るんじゃないの!それくらい大したことないわ。」

そう言いながらもアスカはミサトをちらりと見た。

(おかしいわね。アスカの家はそんなにお金持ちじゃないし、アルバイトしてたって言う話も聞かないし・・・)

「アスカ、まさか人に言えないような事してないでしょうね?」

「してるわけないでしょ!」

「人に言えない事って何かな?」

相変わらずお子様なシンジが、しなくてもいい質問をよりによってレイにする。

レイは手にしたカシスソーダを飲み干すと、流石に酔いが回り始めたのか一息付いた。

「・・・多分銀行へのクラッキングか株のインサイダー取引・・・」

「ふ〜ん。綾波って物知りなんだね。」

「んな事するかぁ!

そう叫ぶや否やシンジへアッパーカットを食らわせる。そして振り上げた手をそのままレイの脳天に打ち下ろす。

「ぐをっ!」

「痛い・・・」

「ふん、自業自得よ!」

本気で痛そうに顎をさするシンジと涙目で頭をさするレイを、アスカは不機嫌そうに腕を組んで見比べる。

「この代金はねぇ、今まで未払いだったパイロットとしての給料を当てたのよ。」

「給料?そんなのあったの?」

「あったり前じゃない。非公開組織でも一応身分は国連職員だったのよ。」

「そうなんだ。綾波知ってた?」

レイはボジョレーヌーボーをグラスに注いでいた手を止め、一瞬考え込んでから再びボトルを傾ける。

「ええ。私の収入源だったから。」

「収入源?なるほど、そやから綾波の家あないに質素やったんか。」

「ええ・・・」

(う〜ん・・・司令が生活費ケチってるって言う情報と、リツコが人体実験してお米与えてるっていう情報はデマか。)

ミサトは既に流してしまった噂の撤回作業をするべきかどうか悩んだが、能力はともかく、今更人格的評価の下がり様のない二人だったので放っておくことに決めた。

「それでも高いんじゃ・・・」

「遠慮なんかしなくていいのよ。上げるって言ってるんだから素直に受け取りなさい。」

「そうだぞ。惣流がこんなに優しいなんて、今後世界が終わるまであり得ないから、ぐあっ!」

「ケンスケッ!大丈夫か!」

シンジにチケットを差し出したまま、ノールックでビールの空き瓶をケンスケに命中させるアスカ。

(ま、まあそれは置いておくとして、)

「でも一人じゃ寂しいな。」

「あ、それは大丈夫。」

何事もなかったように平然と答えるアスカ。一体それがどういう意味なのか聞こうとシンジが口を開きかけた瞬間、耳障りな携帯電話の呼び出し音が鳴った。

「誰?」

「私みたいね。・・・・・・はい。・・・ええ、そう。お願い。」

レイは鞄の中から携帯電話を取り出す。なにやら肯きながら話しているが、どことなくその表情は嬉しそうだった。

「それにしてもレイに電話がかかってくるなんて初めて見たわ。」

「そうなんですか?私も学校では見たことないですけど・・・」

「誰からだろ?父さんかな?」

「あの口振りからすると違うわね。実は彼氏とか?」

「それは違うやろ。そう思わんか?」

「同感。だとすると誰だろうな。」

(?)

通話ボタンを再び押して、相手との会話を切ったレイが顔を上げると、そこには好き勝手なことを言いながら、じっと自分の行動を注視する一同。

「何?」

「いや、誰からかなと思って。」

「気になる?」

そうシンジに問い返したレイの口には、僅かばかり笑みが浮かんでいた。

「おい見たか」

「綾波が笑うたの見たの初めてや。」

「ちょっと、レイに何があったのよ」

「知らないわよ。こっちが聞きたいわ。」

「でもいい笑顔・・・」

これほど近くではどれほどの意味があるか分からないが、小声で話す5人は初めて見るレイの思いがけない態度に面食らっていた。

「え?いや、ちょっとは・・・」

「そ。」

(くす。)

レイは携帯を鞄に閉まって神妙な顔になる。その内心が軽やかな物だったとは誰一人気が付かない。

「私からのプレゼント、教えて上げる。」

「え?ああ、そっか。」

(そうか、さっき「まだ」用意できていないみたいなこと言ってたもんな。さっきの電話はそれだったのかな?)

「な〜んだ。びっくりしたじゃない。それならそうと言いなさいよ。」

「で、レイは何用意したの?」

言葉には出さなかったが、残りの3人もレイの精神構造で言う贈り物とはどういった物が出てくるのか。怖い物見たさに近い緊張感が走っていた。

レイはじっとシンジを見つめている、その眼差しはとてもシンジには外せるものではなかった。

「私。」

「は?」

「私。」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ええっ!」(×5)

初めは沈黙してしまった場だが、楚々とシンジ側に寄るレイの言葉の意味を理解すると今度は混乱が場を支配する。

「不潔よっ!綾波さん不潔っ!」

「碇!お前という奴は!」

「あのねレイ、そう言うことはもう少し大人になってからでもいいんじゃない?」

「ファーストッ!アンタ何破廉恥な事言ってんの!ちょっと裏まで来なさい!」

「センセ、そないに大事なことワシ等に隠さへんでもええやろに。」

「ご、誤解だよ!綾波!綾波が何言ってるのか分からないよ!」

まるでレイはその混乱を楽しむかのように、ゆっくりとアップルサワーのグラスを空にした。

「・・・・・契約よ。」

「いや〜婚約なんて〜」

「ミサト〜シンジ取られた〜」

「センセおめでとさん!」

「碇がこんなに手が早かったなんて・・・」

「だから違うんだよ!綾波?どういうことなの?!」

ピンポーン・・・ピンポーン・・・

「来たようね・・・」

全ての混乱を無視してレイは玄関へと目を走らせる。

「少し待ってて。」

「あ!ちょっと待ちなさいよ!まだ話は終わってないわよ!」

「あ、綾波!」

「もうすぐだから・・・」

立ち上がったレイは、シンジの制止にピタリと立ち止まり、一度軽くその頭を抱いてぱたぱたと玄関に行ってしまった。

(どういうつもりかな・・・でも、気持ち良かった・・・)

瞬間的に何とも言えぬ幸福感を味わい、シンジは玄関へと消えていくレイの後ろ姿を最後まで見つめていた。

「やっぱりお前ら既にそういう関係だったのか・・・」

「シ〜ン〜ジ〜」

「え?あ、何でもないよ!はは、綾波何であんな事したんだろうね?」

「碇君、正直に言って。二股かけたの?」

「そんな訳ないだろ!」

「嘘だな・・・」

「なんで?!」

「知っとるか?シンジは綾波の家に勝手に入り込める間柄なんや。」

「トウジだって止めなかったじゃないか!」

「せっかくシンちゃんにはあの続きをして上げようとしたのに〜」

「な、何の続きですか?!」

シンジは誕生日らしく皆に囲まれていた。その雰囲気が必ずしも歓迎されているものではないと言う点を除けば、だが。

「お願いだからもう止めてよ!もう充分僕のことからかったで・・しょ・・・・って綾・・・・・波・・・・?」

今にも泣きが入りそうになったシンジだったが、戻ってきたレイを一目見るなり言葉を失った。

「?」

シンジの変化に他の者も気が付いた。そして後ろを見るなり、やはりシンジと同じく言葉を失ってしまった。

「はい。プレゼント。」

「ぷ、ぷれぜんとって、綾波・・・」

「大事にしてね。」

「・・・・・・・・・・」

(碇君、感激しているのね。)

別にシンジは感激しているわけではなく、驚きの余り言葉にならないだけだったのだが、レイはそれを最大限好意的に解釈した。

「あ、綾波が二人おる・・・」

「彼女は私じゃないわ。」

「そ、そやな・・・」

トウジの呟きに、恐ろしく冷たい目で反発するレイ。自らこのような状況を作っておきながら結構勝手である。

「そやな、綾波が二人もおるわけないな、はは、そや幻覚や。ちいとばかし飲み過ぎたようや、今日はこの辺で失礼させて貰うで。」

「え?今日は泊まるとか言ってなかったっけ?」

「おお、そうや。シンジ部屋貸して貰うで。ととっ。」

(これで逃げられる!)

足下がもつれたトウジを部屋まで送って行って、そのまま自分も寝てしまう。シンジの書いたシナリオは情けなくはあったが悪くなかった。

が、世の中には机上の空論とか絵に描いた餅とかいう言葉が存在する。

「鈴原、まったくもう・・・ほら、肩掴まって。」

「お、いいんちょすまんのう。」

「いいから。」

「あ・・・・・・」

ヒカリにその役を奪われてしまった。

「碇君。」

「ハイッ!」

ビクッとしながらも、シンジは覚悟を決めてレイ達と向かい合う。

(もう逃げられないよね・・・)

トウジとヒカリはいなくなってしまった。ミサトとアスカは固まっているし、ケンスケは先ほどからぶつぶつ言いながら梅酒サワーをあおっている。

目の前には二人のレイ。よく見れば片方は首に赤いリボンを付けていたりするが、シンジにはそれどころではない。

「よろしく。」

「あ、よろしく。」

シンジの言葉は反射的な物だったが、レイはそれを受取承知の合図と受け取った。リボン付きの方は無表情なまま、無しの方も表情を柔らかくしてシンジの隣に座った。

「私だって?そりゃシンジはエヴァのパイロットさ。俺よりルックスがいいのも認めよう。だけどそれだけじゃないか、だから何なんだよ。自分だけいい思いしやがって・・・」 

「ケンスケ?」

救いを求めて思わず回りを見たシンジが見たのは自分の世界にどっぷりとはまりこむケンスケの姿。

(もしかしてあの瓶一人で空けたのか・・・)

おそらく今のケンスケは普通のケンスケではないだろう。もはや自分にはどうすることもできないが、せめて引き金は引いてはならないとシンジは決めた。

もっとも、その覚悟はいささか遅かったかもしれない。

「うおおおおおおおおっ!納得行か〜ん!」

「ケ、ケンスケ?」

その豹変ぶりに恐れおののくシンジを尻目に、ケンスケはずかずかとシンジの所に寄ってきて、レイ(リボン付き)の腕を取る。

「シンジ!お前には一人で十分だ!こっちは俺が貰う!」

「何言ってるんだよ、落ち着いてよ!」

「うるさい!」

「くすくす。ATフィールド、全開。

瞬間、ケンスケの体がはじけ跳びソファーに叩き付けられる。うめき声を漏らし、ケンスケはそのまま沈黙してしまった。

「使徒完黙。」

「ななななな、何が使徒よ!アンタの方が使徒じゃない!」

ようやく意識を取り戻したアスカがレイに食ってかかるが、レイ(リボン付き)は余裕の表情で切り返した。

「相田君は私と碇君との間を裂こうとした人類の敵、使徒。でしょ?」

「そ。」

レイ(リボン無し)の回答に満足したかのか、レイ(リボン付き)はシンジの背中から抱きついた。

(あ、こっちの綾波は積極的なのかな?)

「それはダメ。」

「あ、うん。」

レイ(リボン無し)があっさりとATフィールドを中和して、レイ(リボン付き)を引き剥がす。酔いが回っているせいでのほほんとした感想を抱いたシンジだったが、意識が現実に戻ると恥ずかしくなってレイ達から半歩遠ざかった。

「でも・・・レイの予備は全てリツコに壊されたはず・・・」

「別の場所に一つだけ保管してあったから。」

「そういうこと、か。」

「ミサト!何納得してるのよ!こんなの反則よ!アタシは絶っ対認めないからね。大体もう余ってる部屋なんてないじゃない!」

酔っぱらっているせいもあろうが、アスカにはレイが二人いることやATフィールドを張れる事は余り問題にないっていないようだ。

「明日だけ。それに、碇君の物は碇君の部屋・・・」

平然とのたまうレイ(リボン付き)。その発言にシンジは摂取したアルコール以上に赤くなる。

「綾波、」

「「何?」」

「紛らわしいな、えっと・・・」

(どうやって呼べばいいのかな。四人目とか綾波Wじゃ失礼だし、新しい方は明るくないし・・・)

補完途中の夢までごちゃごちゃになりながら、シンジはそれなりに悩んでいたが、助け船を出したのは以外にもレイ(リボン無し)だった。

(ちゃんすよ。)

「わ、私の方は名前で呼べばいいと思うわ。」

「え?うん。綾波と」

シンジが指さしたレイ(リボン付き)はこくりと肯く。

「レ、レイだね。」

「な、何?」

「・・・何か照れるね。」

伏し目がちになって肯くレイ(リボン無し)。当人達にとっては悪くない照れではあったが、そんな数十年前の少女漫画のようなシーンは万人に受け入れられる物ではない。

「名前で呼ばれたくらいでいい気になってるんじゃないわよ。そんなの親しければ当然じゃない。つまりアンタは今までシンジに親しく思われていなかったってわけ。お分かり?」

「そうなの?」

訴えかけるような紅い瞳がシンジを見つめている。余程の馬鹿か精神力の持ち主以外に抵抗できない僅かに涙ぐんだ視線。流石のシンジもそこまで馬鹿ではなかったし、抵抗しようとも思わなかった。

「そんなことないよ。ミサトさんはそう呼べって言われたんだし、アスカはその、初めは『惣流』って言ってたんだけど、ラングレーっていうのも名字だって知って片方だけ言うのは拙いかなって思ったから名前になったわけで・・・それにその、綾波って名字はいいと思うし綾波とは初めて逢った時から他人と思えなかったし、あ、僕何言ってるんだろ。ゴメン、説明になってないよね。」

まさしくその通り。全く説明になっていない。いつも通りと言えばそれまでだが、シンジの反応でミサトもようやく普段の調子を取り戻した。

「なるほど。だからこれから他人じゃなくなるのね。」

ぽっ(×2)

(僕の物・・・・と言うことは僕の好きにしていいって事?・・・綾波にあんな事やこんな事・・・・はっ!何考えてるんだ!)

(碇君と一緒碇君と一緒碇君と一緒碇君と一緒・・・)

「ずうぇったい反対!」

「いいじゃない1日位。それともその1日でシンちゃん奪われるのがそんなに怖い?」

ミサトの言葉はこれ以上ないくらい露骨な挑発だったが、だからこそ酔っぱらってるアスカには効果的だった。

「はん!誰が怖がってるって?いいじゃない、泊まらせて『あげる』わよ。シンジ、レイに変な事したらただじゃ済まないわよ!」

「し、しないよ!」

「考えてもダメ!」

「大丈夫だよ。」

「どうして目をそらすの?」

レイ(リボン付き)の突っ込みは、混乱を招くのに非常に有効だった。

 


 

(ああ、暖かいなぁ・・・)

夏の国の6月とは言え、寒い日も時にはある。まして前の晩は大騒ぎしたとなれば寝ていられる限り寝ていたくなると思うのは当然だっただろう。

(昨日は色々あったけど面白かった・・・あれ?)

目は閉じたまま、意識だけ半分起きている状態のシンジだったが、何か奇妙な感触に気が付いた。

(ああ、そっか・・・誕生日プレゼントの人形だったっけ・・・やっぱり飲み過ぎたみたい・・・貰ったの覚えてないや・・・でも、気持ちいい・・・)

シンジは腕に力を込める。その弾力と柔らかさが堪らない。

「う・・・ん・・」

(!!?何だ!?)

どこかで聞いたような声、聞こえるはずのない声がシンジの鼓膜を揺さぶった。

(待ってよ。そう、こんな所にいるはずないじゃないか。幻聴に決まってる。はは、期待してるのかな。)

笑って誤魔化そうとしたシンジだったが、逆に自分の顎に一定の間隔で暖かい空気が吹き付けられることにも気が付いてしまった。

(うそだよ・・・ね。)

このまま寝てしまおうかとも思ったシンジだが、ある意味そこまでの度胸は逆にない。

「うっ。」

別に開け方によって結果が変わるはずでもなかろうが、シンジはゆっくりと目を開けた。

「・・・・・・・・・あ、綾波がどうしてここに・・・」

目の前の存在を理解できず、シンジは確認するように4回瞬きをしたが、やはりどう見ても結果は同じであった。

(まさか、覚えてないけど、綾波に手を出しちゃったとか・・・・)

青ざめたシンジだったが、腕の中のレイがシャツを着ていることに気が付くと、その可能性が低いと分かって幾分安堵する。

(思い出した・・・昨日綾波がプレゼントとか言ってったっけ・・・こういうことか。)

やはり寝起きのせいで頭が働いていないのか、妙なところで落ち着いているシンジ。

(あ、でも綾波の寝顔って可愛いなぁ・・・肌も綺麗だし、ほっぺたも柔らかそうだし、柔らかそうだし、柔らかそうだし・・・)

唾を飲み込んだシンジの視線は桜色の唇に注がれていた。朝と言うことも手伝って、お猿モード一直線のシンジはゆっくりと顔を寄せていく。

きゃああああああ!

「ゴメン!委員長!これには深いわけが!」

後数ミリと言うところで聞こえてきたヒカリの叫び声。自分の行動を見られと思ったシンジはレイからとびすさってベッドから降り、土下座して扉に向かっい必死に弁解を始める。

「あれ?」

そこには誰もいなかった。

「どうしたの?」

ヒカリの声で目を覚ましたレイが、目をこすりながら起きあがる。

「あ、おはよう。それが僕にもさっぱり。」

首を傾げた二人だったが、なにやら部屋の外では騒動が続いているようだった。

ドタドタと走る音がしたと思うと、『ちょっと!何やってんのよ!』と叫ぶアスカの声、続いてこの部屋の中まで聞こえてくる平手打ちの音と廊下に何かが投げ出される音。

「行ってみましょう。」

「うん。」

このまま床に座っていてもどうしようもない。シンジはレイの言葉に従うことにした。

  

「トウジ?」

力無く廊下に座っていたのはトウジだった。ブリーフ一枚というのは格好の良いものではないが、それにも増してあのトウジが背中を丸めているのは情けない。

「どうしたのさ?」

「お、シンジに綾波か。おはようさん。」

「おはよう。そんな格好で何してるの?」

「叩き出されたんや。」

率直すぎるシンジの質問だったが、それにもトウジは力無く、自嘲気味に笑うのだった。

「それは追い出されるよ。ここ、ミサトさんの部屋じゃないか。何でこんな所にいるのさ。」

「それが覚えとらんのや。それどころか、昨日の3回目の乾杯辺りからの記憶が無いんや。」

「かなり飲んでたからね。」

シンジとしても人ごとではない。どうもさっきから胃が重いし、頭もはっきりしない。まさかこの年でなるとは思っていなかったが、まさしくシンジも二日酔いであった。

「でも、なんで委員長の悲鳴が?大丈夫なのかな?」

「はは、大丈夫や無いかもしれへん。」

またもや乾いたトウジの笑い。流石にシンジもトウジがただ追い出されたわけではないことに気が付いた。

「どうしたのさ?トウジ何かやったの?」

「やったかもしれへん。覚えとらんのや。ただ、起きたらこのカッコのワシの隣に下着姿のいいんちょが寝とった。」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

微妙な線であった。シンジの記憶では、トウジはもちろん確かに飲んだヒカリも普通ではなかった。シンジの部屋に行くと言ってミサトの部屋に入った二人である。持参のパジャマに着替えるところまでは気が回らず、ただ服を脱いで寝ていただけと言うことも大いにあり得た。

「直接聞いてみる?」

「止めい!」

レイの提案をトウジは一蹴した。

「何かやってもうたんならいいんちょ今は動転しとるやろうし、何もやっとらんのなら聞く必要ない。それに、答えによってワシの態度が変わるわけでもあらへん。」

「そう。」

「ただそやな、いつまでもこのカッコでいるわけにも行かんし、綾波中入ってワシの服取ってきてくれんか?」

「いいわ。」

しかし、レイが襖に手をかけた瞬間、いきなり襖が20センチほど開いたかと思うとトウジの服が投げ出された。

「アンタ等あっち行ってなさい。」

アスカであった。僅かに見えた室内にはミサトもいるようだったが、生憎とヒカリの様子はうかがうことが出来ない。シンジは角度を変えてヒカリを探そうとしたが、その前にアスカによって扉を閉められてしまった。

「しゃあないな。」

トウジは立ち上がって服を身につけ始めた。

「鞄はまだ居間やろ?」

「うん。多分。」

「ならワシ帰らせて貰うわ。ケンスケは何しとる?」

「居間で伸び、寝てるよ。」

トウジの記憶がないならこの際都合がいい。ATフィールドで吹き飛ばされましたなど言う必要もなく、シンジは無難な回答に止めた。

「何や、相変わらず朝遅いのう。ま、ええわ、ついでに叩き起こしとくわ。」

「もう帰るの?朝食くらい摂っていけば?」

「それも悪くないんやが・・・ワシがおると多分いいんちょ出てこんしな。切りのええ所で退散させて貰うわ。それからな、」

トウジは頭を掻いた。言いにくそうな態度のトウジを見て、シンジは意外に思って聞いてみた。

「何だよ。」

「・・・・・・・お前らの関係はよう知らん。けど、そのカッコは拙いんとちゃうか?」

「えっ?!」

シンジはようやく自分がどういう格好をしているかに気が付いた。

先ほどまでのトウジにように下着一枚ではないが、自分もレイもそれにシャツを着ただけの格好。シンジはともかく、レイのTシャツ姿というのは刺激がありすぎる。

「あ、綾波っ何でそんな格好してるんだよ。」

「普段寝るときはこうだから。」

(身の危険は感じなかったのかな?)

信頼されていると言えば嬉しいが、男として全く眼中にないと言う可能性もある。シンジとしては複雑な気持ちでレイの言葉を聞いていた。

「と、とにかく早く何か着てよ。」

「そう言うのならそうする。でも、服は碇君の部屋。」

「何や、お前らもワシと同じやったんか。」

何か言いたそうなトウジの顔。シンジもトウジが何を言いたいのか分かったような気がしたので、先手を打って否定しておく。

「違うよ!それこそ何もなかったって!じゃ、ケンスケ起こすのは頼んだよ。」

(何もなかった・・・碇君が私にキスする夢・・・やっぱり夢だったのね・・・)

シンジが聞けば真っ青になるに違いない感想を抱きながら、レイはシンジの部屋へと押し戻されていくのであった。

 

「全く!男ってどうしてああ馬鹿なのかしら!」

アスカは空になった取り皿にレンゲを放り込んでひとりごちた。

「まあまあ。鈴原君も洞木さんも若いんだし、結局何もなかったみたいだからいいじゃない。」

ミサトはきゅうすからお茶を注ぎながらアスカをなだめにかかる。

「やっぱり何もなかったんですか?よかったですね。」

「確かにね。いくら酔っぱらってたとはいえ自分の部屋ホテル代わりに使われちゃね〜」

「だからそうじゃなくて、アタシが言いたいのは何かあったとか無かったとかじゃなくて、あの馬鹿が女心全く理解してないって事よ!」

アスカは水の入っていたコップを机に叩き付ける。

「委員長、何て言ってたの?」

「アンタに言えるわけ無いじゃない。それが理解してないって言うことなのよ。」

「抑えて抑えて。人間いろんなミスして成長するものよ。それにせっかくシンジ君が作ってくれた雑炊が不味くなるわ。」

「そりゃそうだけど、不味くなるって言っても、今食べてるのファーストだけじゃないの。大体何でファーストが、ここで、こうしてアタシ達と一緒に食事してるわけ?」

トウジとケンスケが帰り、ミサトがヒカリを安全に(当人談)車で送っていった後、シンジ達は遅めの朝食を摂っていた。

シンジ自体からして胃が荒れていることから、予定を変更してインスタント雑炊となったのだが、皆気分は同じらしく反対意見は出てこなかった。

レイの分として一食分増えたのは予想外だったが、運良く数が余っていたので、せいぜいシンジの好きな梅雑炊をレイに回さなくてはならないだけで、それ以外は全く問題とはならなかった。

「・・・ごちそうさま。」

「聞いたけどさ、アンタ今日一日シンジの物になるんですって?酔狂というか何というか、何されても知らないわよ。」

アスカも昨晩の狂態は覚えていない。覚えていればシンジの前で平然としていることなど出来るはずもなかったが、シンジにとってはそれはむしろありがたかった。

「別に・・・碇君が望むなら、それを受け入れるだけ。」

「ホントアンタ人形ね〜。私はそれって信頼じゃなくて隷従だと思うんだけどね。」

シンジは苦笑いを浮かべて聞きながら、茶碗その他を片づけ始めた。

「そう言わないでよ。実際面と向かって好きにしてもいいって言われるとさ、何か僕を試されているようで逆に変なことは出来ないよ。」

「試してなんか無いわ。」

「それでも何か自分に納得できないって言うか・・・潔癖性なのかな?」

「シンジが潔癖性〜?寝込みを襲うような男が何言ってるんだか。」

(寝込み?どの事言ってるんだろう?)

今朝も含めてシンジの脳裏にいくつか未遂事件が思い出される。おそらく正常な男子中学生なら同じ行動をとったと思われるが、それが正しいことではないのはシンジも自覚していた。

だから後かたづけのため、シンジは食器を台所へ運んでいくという口実でその場を逃げ出した。

「でもシンちゃん、もし何かするなら、今朝の話じゃないけど覚悟決めてからするのよん。」

ガチャン!

『しません!』

台所からシンジの慌てた声が聞こえる。

ガタッ、ぱたぱたぱた・・・

『お皿割ったの?怪我は?』

『あ、いや大丈夫。破片踏むと危ないから下がってて。』

『片づけるの手伝うわ。』

『いいって、危ないよ。』

『やらせて。』

「おーおーお−まんざら命令ばかりでもないようね。」

台所から聞こえるほのぼのとした会話に耳を傾けて、ニヤニヤしながらミサトはアスカに話しかけた。

「いい傾向じゃない?対象に問題があるかもしれないけど、ファーストも感情見せるようになったし。」

アスカは何の感慨もうけなかったかのようにコップに口を付ける。

「余裕ね〜。積み上げた愛の歴史が違うからかしら?」

ブッ

「誰と誰がいつ何を積み上げたのよ。はっきりと言って置くけどね、確かに傷を舐め合った時期もあったけど、アイツとはそれ以上でもそれ以下でもないわ。」

「ふ〜ん。舐め合ったねぇ。」

「だからどうして話がそっち行くのよ!これだからオバサンは嫌なのよ。」

(本気になるところがまだまだね。)

何がまだまだなのか。ミサトははっきり言ってやろうかとも思ったが、黙っていた方だ面白いと判断、実行を中止する。

「ま、シンジ君がしっかりしていればいいんだけどね。」

「それについては同感。」

「レイも何するか分からないし。」

「お姉さん達が面倒見てあげますか。」

 

【面倒を見る】振り回されると同義。こちらの予測範囲外の行動をとる相手に対し、有効な手を打てない者が自分のプライドを満足させるために使う言葉。

ーアスカの日本語学習ノートより抜粋ー

 

「ふうっ・・・お風呂ってあんまり好きじゃなかったけど、二日酔いの時にこんなに気持ちいいなんて知らなかったな・・・」

ガラッ

「綾っ綾っ綾波っ!まずいよ!」

「どうして?私は構わないわ。」

「やっぱりそういうのは早いし、じゃなくてとにかく出てよ!」

「一緒にいる命令だから。」

「で、でもっっ!」

(でも、綾波本人がこう言ってるんだし・・・もしかしたらいいのかな?)

「じゃあ・・・」

「こらあっっ!!!!!きゃああああ!」

「ア、アスカ!覗きなんて最低だよ!」

「エッチ馬鹿変態!誰がアンタなんて覗くのよ!いいから早く隠しなさい!アンタも出るの!」

「あ、碇君・・・」

「・・・膨張してしまった。恥ずかしい・・・」

 

「ふう・・・・」

「ああ、出たんだ。湯加減・どう・・・だった・・・・・・・」

「レイッ!何で裸で出てくるの?」

「何か変?」

「世間一般では異常なの。何か着けてらっしゃい。シンジ君もそれ以上見ないの!」

「は、はいっ!・・・ちょっと大きくなってた、かな?

「これでいい?」

(ああ・・・僕は多分幸せなんだろうな・・・)

「だから何で下着姿なのよ!アンタシンジ挑発してるの?!」

「違うわ。何か着けろと言ったのはあなた達よ。」

「服を着ろって言ったのよ!」

「服ね・・・」

「着てきたわ。」

「・・・・・・・・・」

「どうして僕のシャツなんだ・・・しかも上だけ・・・」

「着替え持ってきてないから。借りたわ。」

「あのねレイ。そういうことは後何年かしたらやりなさい。」

「それは命令ですか?」

「命令よっ!」

「分かったわ。」

 

「まさか・・・お風呂に入れるだけでこんなに疲れるとは思ってなかったわ・・・」

「同感・・・一体リツコや司令はどういう教育をしたのよ・・・」

アスカとミサトは疲れ切った表情で机に俯していた。

昨晩から風呂には入っていないし、アルコールで曇った頭をすっきりさせるためにもせめてシャワー位は浴びたいが、少し目を離すとレイがとんでもない行動をとりそうで怖い。

いつの間に汚れたのか着てきた制服は洗濯の必要があったので、今レイはミサトの部屋で着替えている。

換えは持ってきてなかったが、いい顔はしないアスカをミサトがなだめすかしてシャツとスカートを貸させたのだ。

「ご苦労様です。」

シンジは苦笑しながら二人にお茶を入れた。

「何人ごとみたいに言ってるのよ。全部アンタがしっかりしないからいけないんでしょ。」

「それはそうだけど・・・男じゃ恥ずかしいんだから仕方ないよ。」

「何言ってるの。シンジ君本当は嬉しいくせに。」

「なな、そんなこと無いですよ!」

真っ赤になって否定するシンジだったが、ミサトの追求はしつこかった。

「鼻の下それだけ延ばしておいて嘘でしょ〜?」

シンジはとっさに手で鼻の下と口を押さえる。

「嘘よ。やっぱりそう思ってたんじゃない。」

「酷いですよ!また騙したんですね。」

「引っかかる方が悪いのよ。全く男ってのは・・・」

呆れた表情でアスカがお茶を啜った。

「まあまあ。それにしてもレイがあんな性格だったとは知らなかったわ。学校でもあんな感じ?」

「全然!最近はようやく他人と話すようになってきたけど、普段は一人ぽつんと座ってさ、ずーっとお高くとまってるわよ。ま、静かと言えば静かなんだけどね。」

「て言うか多分感情出すのが下手なんだと思います。だから無口になるか極端になるかになるんじゃないかと・・・それにあの綾波とレイは違いますし。」

シンジはそう言って自分も椅子に腰掛ける。

(それにしても、普段とは違いすぎるよね。)

あの行動は困りはするのだが、全く嬉しくないのかと聞かれると答えはNOである。あのレイが普段知っているレイでないと分かっていてもギャップは大きかった。

「確かにあのレイはレイとは別の人間なんだけど、全くの別人格でもないわ。結構隠れた本心じゃないの?シンちゃん良かったわね〜」

「いいわよ、どっちがどっちでも。それより午後はどうすんのよ。貴重な休みをレイのお守りで潰すなんて嫌よ。」

「そこでさっきの話しに戻るんだけど、レイは学校内では静かなのね?別に学校に限らないけど外では。」

「はい?ええ、知ってる限りでは・・・」

(て言うかほとんど綾波の私生活知らないんだよね。)

内心自分でつっこんでしまうシンジだったが、敢えて余計なことを言わない辺り成長したものである。

「だったらシンジ君が外出すればいいのよ。レイはシンジ君について行くんだし、外では問題もないんでしょ?」

「外出と言っても家事が残ってますし、これから行こうと思ってたんですけど買い物くらいしか用事がありませんが・・・」

「じゃ、とりあえず買い物でも行ってきて。食費まだある?」

葛城家の食生活は、例え本人が嫌がろうともシンジが管理していた。以前は料理当番だけだったのだが、買い物をミサトに任せると酒やつまみが多くなって自分たちが困る、という理由から週単位で食費をシンジに渡すようになってから久しい。

「えっと、あるにはありますけど、ちょっと少ない・・・かな?」

(いい機会ね。シンジ君、感謝するのよ。)

ミサトは心の中でニヤリとしながらズボンのポケットから封筒を取り出した。

「はい。今週の分。」

「何で封筒なんです?」

「大したことじゃないわよ。リツコに貸したお金が戻ってきてね、そのまま突っ込んでただけ。額は同じくらいだから気にしなくていいのよ。」

「リツコに貸した〜?借りたの間違いじゃないの?」

(う、アスカ鋭いわね。)

自分の策略はシンジには絶対にばれないだろう自信はあるが、アスカ相手ではその確信はない。本気を出せばアスカの裏もとれるだろうが、今のように思いつきの場合は危険な賭でもあった。

「リツコさんだって人間なんだからお金借りるときくらいあるよ。偶然ミサトさんにお金があるときと重なることだってあると思うよ。」

(シンジ君ナイス!)

「失礼ねぇ〜、人をいつもいつも貧乏してるみたいに。」

「事実じゃない。ミサトに貸した車の修理代、なかなか帰ってこないってマコトが泣いてたわよ。」

「え?そんなことあったかしら?」

上手く話を逸らせられたことに安堵感を覚えながら、ミサトは忍耐の人、日向マコトにはもう暫く返済を待ってもらうことに決めた。

「出かけるの?」

「え?」

その時丁度レイが現れた。

シンジは反射的に後ろを振り向いて、思わず息をのんでしまった。

膝丈の紺と赤のチェックのミニスカートに純白のシャツ。どこかの制服のような素朴さではあるが、壱中の制服とプラグスーツと遠目からの水着姿しか見たことのないシンジにとって新鮮であった。

「着替え終わりました。」

そんなシンジを脇に、正に事務的な口調でミサトに報告するレイ。

「へぇ〜意外と似合ってるじゃない。サイズもいいみたいだし。」

「いえ、ウエストが少し大きめですが。」

ピシッ

入るはずのない空気にひびが入ったような音を、ミサトは聞いた気がした。

「そうなんだ。アスカもっと細いの持ってないの?」

トドメの一言。

「ふ、ふふふふふふふ。アンタ達いい度胸してるじゃない。そうよ、最近ちょっと太ったわよ。ご飯が美味しいからつい食べ過ぎちゃうし、パイロット辞めて訓練なくなったから運動不足かもしれないわよ。でも、胸も大きくなったし全体的にはバランス取れてるから個人的にはグラマーになったかなーなんて思ってたんだけれど、ふふふふふ、そう、そういう事言うわけ、アンタ達は。」

シンジはここに至って、ようやく自分が言ってはならないことに触れてしまったと気づいたが時既に遅し。

アスカを中心とした低気圧が積乱雲を呼び、巨大な雷を落とすのは時間の問題と言えた。

(マ、マズイ。)

冷や汗を流しながら次第に悪くなっていく状況に恐怖するシンジ。

そのまま背を向けて逃げ出そうと体を捻りかけたところで大事なことに気が付いた。

「綾波!ここは一旦逃げよう。」

「逃げる?」

「いいから!」

「待ちなさい!」

状況がなせる技か。普段からは考えられない強引さで、シンジはレイの手を取って玄関に向かって走り出す。

(???・・・碇君、強引。)

呆気にとられるレイだったが、その強引さは悪い気がしない。

もっとも、シンジに連れ去られる途中、しっかりと持参の鞄を回収する冷静さがレイらしいと言えばレイらしかったのだが。

 


 

「はあはあはあはあはあ・・はあ・・・・・・はあ・・・・・・・ふぅ・・・」

ようやく走らずに済むようになってから、初めにシンジ達がやったのはとにかく息を整えることだった。

運動神経抜群のアスカから逃げるのにどれだけ走ったことだろう。ネルフに在籍していた時でさえ走ったことの無いような距離を走った気がする。

(ハンカチを・・・)

ポケットに手を入れようとして手を挙げた瞬間、ようやくシンジは自分が何をしているのか気が付いた。

「ゴ、ゴメン!」

「え?」

レイの手を握りしめていたことに気が付いたシンジは慌てて離そうとするが、レイの方も忘れていたらしく、シンジの手を握っていた手を離すのにワンテンポ遅れてしまった。

「・・・・・・・」

「・・・・・・・」

(あ〜拙いな・・・つい握っちゃったんだけど言い訳するのも男らしくないし、でもわざとだって思われてたらどうしよう・・・)

(意識したら・・・もう繋いでいられなかった・・・離したら楽になるかと思ったのに、今の方がもっと気になる、何故?)

双方赤くなりながら明後日の方を向いていた。

どことなく話しにくい雰囲気があるような気がして、二人が黙っていたのはほんの一分弱。だが、二人の主観ではその十倍にも時が流れたような気がした。

「あのっ!」

先に口を開いたのはシンジであった。必要以上に声が大きいところに動揺が見て取れるが、当の本人はそんなことには気が付いていない。

「わざとじゃないんだけど、ゴメン。」

「謝る必要はないわ。そうしたいならすればいい。」

言葉とは裏腹にレイの方も普段通りとは行かないようで、シンジを直視してはいない。

「そ、そう?そう言ってくれると助かるよ。」

(良かった・・・怒ってないみたいだ・・・)

シンジはようやく少しだけ平静を取り戻して、ハンカチで汗を拭き始める。すでに運動の汗は収まりかけていたのだが、別の意味で汗をかいてしまった、

「さて、これからどうしようか?」

(すぐ帰るわけにも行かないしな。)

おそらくまだアスカの怒りは収まっていないだろう。後に残さないさっぱりとした怒り方をするアスカだが、その分集中豪雨的というのか怒っているときが怖い。

「どこかに出かけるんじゃなかったの?」

「あ、そうか。買い物するように言われてたんだっけ。」

「行く?」

「そうだね。時間もあるし、あ、でもお金が・・・あるか。」

一瞬財布がないことに気が付いて途方に暮れたシンジだったが、直後にミサトからもらった食費がズボンのポケットのねじ込まれているのに気が付いて安心する。

(でもいくら入っているんだろう?)

あの様子ではミサトも中を空けていないらしい。大人の金銭の貸し借りがどれくらいになるかは想像が付かないが、いきなり1000円などと言われては後で困る。

「いち、にい、さん、あれ?」

袋の中には3万円入っていた。これだけあれば食費はもちろん、ミサトのビール代もまかなえるが、それ以外にも紙が入っていたことにシンジは驚いた。

「なんだろ?」

「チケット?」

「そう・・・・みたいだね。」

何故こんな物がここに入っていたかはシンジには分からない。全く理由も証拠もないことだが、シンジは瞬間的に黒いしっぽの生えたミサトの姿を思い浮かべた。

(映画のチケット・・・リツコさんがお金を借りたお礼にって入れた可能性もある。けどミサトさんにこういうの、悪いけど似合わないな・・・とすると・・・)

題名だけはシンジもCMでやっていたのを覚えていたし、女生徒を中心としたクラスメートが話しているのを耳にしたこともある。内容は純愛物だったような気がするが、シンジには興味を引かなかったことで、それ以上の記憶はない。

シンジは嫌な予感がしてちらりと横を見た。

ジ〜〜〜〜〜〜〜〜ッ、チラッ、ジ〜〜〜〜ッ・・・・

(うっ!やっぱり・・・多分こうなることを予測、いや期待していたんだ・・・)

何かを訴えかけるような目でシンジを見つめ、時々チケットに目を落とす。そしてまた穴の開くほどシンジを見つめるレイを見て、シンジはミサトの術中に陥ったことを悟った。

「どうせここまで来たんだし、買い物の前に行く?」

コク

上目遣いでちょこんと肯くレイ。

(ちょっと・・・可愛い・・・)

十五歳の純情少年には抵抗出来ようはずもなかった。

「じゃ、そうしよう。確かこっちでやってると思う。」

(こういう風にすれば、碇君がわがまま聞いてくれるのね・・・)

まるで顔を見られるのが嫌かのように半歩前を行くシンジを見て、レイは確信とも取れる学習をした。

シンジは自分の首を絞めていると言うことを、未だ知るよしもなかった。

 


 

「終わりっ!」

アスカは掃除機片手に部屋を見回した。

窓・床・壁・流し・廊下。どこを見ても昨日の乱痴気騒ぎの痕跡は見つからない。アスカも普段はシンジに任せてしまうことが多いため、シンジなどにミサトの同類と思われることもあるが、実のところ几帳面さでは負けていなかった。

「ご苦労ご苦労。さ、おやつにしましょ。」

「何がご苦労よ、人にばっかり押しつけておいて。ま、おやつは貰うけどね。」

掃除機を片づけてついでに手を洗い、ミサトが持って来た紅茶とケーキを前に、アスカも自分の席に座る。

「食べましょうか。」

「そうね。けど、これって昨日のケーキの残りじゃないの?」

「でも美味しいわよ。嫌いなら貰うけど。」

右手でケーキを切り取ったフォークを持っているので、残ったミサトの左手がアスカのケーキ皿に襲いかかる。

「要らないとは言ってないでしょ。」

が、間一髪アスカはその魔の手から皿を救出した。

シンジかレイがいればまた太るだの何だの余計なことを言ってもめるに違いなかったが、年は違っても女性二人、ケーキを食べるときぐらいそのことは考えないようにする技術は身につけていた。

「それにしてもシンジ、遅いわよね。どこまで買いに行ってるのかしら?」

「そんな遠くまで追い回したの?」

「失敬ね。山姥じゃないんだからそんなに追いかけてないわよ。」

時々妙なことを知っているアスカが、つまらなさそうにケーキを口に放り込む。

「大体逃げ出してから3時間っていうところかしら?早ければそろそろね。」

「早ければ?」

勘のいいアスカのこと、ミサトの一言から何か裏にあることか嗅ぎ出した。

「ミサト、アンタまたロクでもないことをしたんじゃないでしょうね。」

「別に〜。掃除が終わるまでシンジ君に素敵な時間をプレゼントしただけよ。」

確かに表面的に見れば、シンジの誕生日の後かたづけをシンジにやらせるのは酷という物である。だがアスカもそんな美辞麗句で誤魔化されるような人間ではない。

「聞かせて貰おうかしら。どうやってシンジをここから遠ざけたのかを。」

アスカはケーキと紅茶を脇によけ、両肘をテーブルについてミサトの方に身を乗り出していた。

だがミサトも全く動じる様子はない。わざと優雅に紅茶を口にして、ゆっくりと皿に戻して、外堀から埋めていくように話し出した。

「野暮はやめておきなさい。いい経験だと思わない?」

「・・・つまりファーストを利用したのね?」

『野暮』という単語でアスカは瞬時に理解した。今のレイがシンジべったりなことを承知の上で、外で遊ばせているのだということを。

「今頃エンディングかしら?ムードある音楽・スクリーンには運命的な恋。若い二人の手は重なり合い、銀幕の俳優になったかのように、二人の唇は近づく。ああ!ロマンチック!」

「何がロマンチックよ、馬鹿馬鹿しい。年考えたことあるの?」

カチャ、カチャカチャ・・・

アスカは紅茶に角砂糖を入れ、銀製のスプーンでかき回し始めた。

「あのねアスカ。」

「何よ。」

「いくらシュガーカットって言っても、五個は多いんじゃない?」

ミサトは楽しそうに真っ赤になってしまったアスカを眺めていた。これがあるから保護者は辞められない、そんな満足そうな顔であった。

「そ、そうね。アタシとしたことが多すぎたわ。そうだ!シャープの芯が切れてたっけ。これじゃ勉強できないしちょっと買ってくるわね。」

慌ただしくアスカは席を立つ。

「芯なら上げましょうか?」

「ア、アタシは2Hじゃないとダメなの。じゃ、ケーキは上げる。行って来るわ!」

アスカは逃げるように部屋に戻り、怒濤の勢いで外に出て言ってしまった。

「若いっていいわね〜」

アスカのケーキ皿を引き寄せながら、ミサトは一人悦に入っていた。

 


 

(やっぱ惜しかったかなぁ・・・)

シンジはコントロールスティックを操りながら、深く深くため息を付いていた。

ここはゲームセンター。

夕食の時間までは間があること、映画館と同じ建物に入っていると言うこともあり、ついでに立ち寄ってシンジ達は暫くここで遊んでいた。

(据え膳だったのかなぁ・・・)

流石にケンスケに鍛えられたせいか、シンジの初号機はレイの操る零号機の攻撃をことごとくかわしていた。

第三新東京市においては、情報管制は引かれはしたが、あれほど派手に戦ったのでは情報の漏れないはずもない。多くのルートで機密が漏れ、回り回ってゲームのキャラクターにまでなっていたのだ。もちろん操縦方法やプラグ内の様子などは全く実物と違うが、動きはかなり忠実に再現されていて、この手のゲームが得意とは言えないシンジでもそれなりの取っつき安さがある。

(多分・・・しても良かったんだろうな・・・)

ちらりと視線を左手に目をやる。映画を見終わってからかなり経つというのに、重ねていた手の感触がリアルに思い出される。

実際、ミサトの冗談はかなり当たっていた。

初めは偶然肘置きに置いた腕が当たったぐらいだったのだが、映画館という特殊な空間が二人を変えるのにさほど時間は必要なかった。

どちらからともなく重なる手。それだけでもシンジとしては映画どころでなくなってしまったのだが、それに加えていつの間にか聞こえてきたレイの寝息。

そっと横を向いたシンジの目には、僅かに椅子を倒して見上げるようにシンジの方を向いているレイの寝顔。

今朝のこともあり、思わず唾を飲み込んでしまったシンジだったが、周りに大勢の人がいるという状況がかろうじて行動を押しとどめていた。一度切れかけたこともあったが、そこに昨夜のレイの顔が重なってシンジの理性を取り戻させた。

(僕の好きなようにして良いって言ってるけど・・・そういうのは卑怯だし・・・)

今日一日自分に付き合ってくれる。おそらく口べたなレイはそう言いたいのだろうとシンジは判断していた。

(でも、やっぱりもったいなかったかな・・・)

シンジは堂々巡りの後悔と安堵感の中で何度目か分からないため息を付いた。

「隙有り。」

「え?」

筐体の向こうからの声でシンジは意識を取り戻した。が、時既に遅く零号機のプログナイフが初号機のコアに突き刺さるのを見つめることしかシンジには出来ない。

ドオーン!

大音響と共に閃光に包まれるシンジ側の画面。光が収まった後には『You Lose』の二文字が浮かんでいた。

「私の勝ち。」

向こう側からレイが歩いてくる。シンジも席を立ちその場を離れた。。

「負けたよ。こんなに早く綾波が上手くなるなんて思ってなかった。慣れるのに7ヶ月はかかると思ったのに。」

「どうして?」

(さ、寒い・・・)

シンジなりの冗談のつもりだったが、真顔で問い返されてシンジは困ってしまう。

誤魔化すように腕時計を見れば既に4時を回っている。

(そろそろかな。)

ここから家まで30分弱。買い物をすれば6時半には夕飯が出来そうだった。

「夕飯作らなきゃならないし、そろそろ帰ろうか?」

「・・・帰るの?」

「うん・・・買い物もしなくちゃいけないし・・・あ、綾波もウチで食べて行くんだよね?」

(良い頃合いね。)

シンジが帰ると言うなら反対はしない。だがその前に一つやって置かねばならないことがあった。

「その前に、一緒に来て欲しいところがあるの。」

「え?それくらいいいけど・・・遠い?」

シンジとしては夕飯の方も気になる。

(まさかとは思うけど、いきなり「海が見たいの」なんて言われたらどうしよう・・・)

もちろんレイの方もそれくらいは理解できる。安心させるようにはっきりと首を横に振った。

「タクシーで行くからそれほどかからないわ。安心して。」

「タクシー?結構距離あるんだ。どこ?」

「秘密。行きましょ。」

(ま、いっか。)

今日一日、ずっと自分に付き合ってくれた事もある。レイがそれほど行きたいというなら多少夕飯は延ばしても良いかなと思う。

シンジは先行していたレイに駆け寄り、その横に並んで歩き始めた。

ここからタクシー乗り場まではショッピングモールを突き抜けなくてはならない。周囲は土曜の夕方近くと言うこともあり若者がその大多数を占めていたが、一見して主婦と見られる者も少しづつ数を増やしているようだった。

(買い物か・・・スーパーは9時までやってるから大丈夫だし、今日は何にしようかな・・・ミサトさん達は知らないけど、胃の調子が良くないし、綾波も肉類がダメだって言うし素麺にでもしようかな・・・食後はケーキ残ってるはずだし・・・・あ!)

「しまった!」

「どうしたの?」

話の途切れたまま無言で歩いていた二人だが、突然シンジが驚いたので、レイもまた驚いてその足を止めた。

「いや、紅茶切らしてたんだ・・・アスカ気に入ったのじゃないと煩いんだ。」

(えっと・・・確かここら辺に店があったはず・・・あれだ!)

幸いにもその店はシンジも何度か利用したことがある。行きつけの店ではないが、求める商品を置いてあったことだけは覚えていた。

「綾波ゴメン!ちょっと待ってて、すぐ戻るから。ホントにすぐ戻るよ!」

シンジはそう言い残すと、レイを置いて一軒の建物に飛び込み、脇の階段で二階に駆け上がって言ってしまった。

(その方が気になるの?)

レイはいつもと変わらない足取りでその建物に近づいていった。その一階はファンシーショップになっており、余程注意しなければ横の階段には気が付きそうもない。

(やっぱり・・・あの人の方がいいの?)

店先に置かれている名前入りのキーホルダーを手で弄んでいたレイだったが、その文字に気が付いて別のキーホルダーに手を伸ばす。

(私の名前は・・・ない。・・・そうね、ないに決まってるわね。)

無いからこそ零なのだ。改めて気づかされたような気がして気が重くなる。

(でも碇君もないから、それは同じだから、私はそれで・・・構わない・・・)

店の奥にはハンカチを初めとする小物や口紅など化粧品も並べられていたし、キャラクターグッズも所狭しと並べられていたが、どれもレイにとって興味を引くものではない。ネックレスや指輪など装飾品には目がいったが、あくまで『目がいった』だけであった。

それでも他に時間を潰す場所など無い。仕方なく、レイは無造作に商品を手にとって眺めている。

(早く戻らなくっちゃ・・ん?)

それは、急いで買い物を済ませて二階から降りてきたシンジの目にも留まった。

(やっぱり綾波も女の子だし、興味あるのかな・・・)

世の中知らない方が幸せなこともある典型例といった感想を抱いて、シンジはレイの死角になるように階下に移動した。

(さて、気がつかれないようにして、そうだ!)

重要なことを思い出したシンジは、前々から暖めていた計画を実行に移すため店の奥に入る。今まで機会が無くて実行できなかったが、今なら無理なく行動できそうだった。

(これと・・・それからこれ。)

「これお願いします・・・ハイ。」

品物を手に取って、レジで代金を払う。レイが気づきはしないかと心配だったが、幸運にも一度たりともこちらを振り向くことはなかった。

(これで良し。さて、)

シンジは店内の客をかき分けレイの元に行く。そのレイは先ほどから商品を手に取ったり戻したり。所持金がないわけではないのだが、全く買おうという様子は見られなかった。

「お待たせ。」

「あ、やっと終わったのね。」

別に嫌みで言っているわけではない。レイに嫌みという概念があるかどうかも疑わしいが、それはともかくずっと待っていたという感情を表現した結果がこれなのだ。

「その、ゴメン。待たせちゃったみたいで・・・」

「待ったわ。」

重ねて言うが嫌みではない。

「ゴメン、その、お詫びと言っては何なんだけど・・・」

「詫びる必要な無いわ。待てと言われたから待ってたの。さ、行きましょ。」

「うん。」

(怒ってるのかな?でもそう言う風にも見えないし・・・)

レイに引っ張られるまま、シンジはタクシー乗り場へと向かうのだった。

 


 

「あ、アスカじゃない。どう?芯は見つかった?」

ミサトは万年床と称される布団に寝転がって、静かな午後の一時を過ごしていた。

『これだから公務員は辞められないのよね〜』などと定時上がりの完全週休二日に感謝しつつ、溜まっていた車の雑誌を読んでいた所へアスカからの電話。ミサトにとってはいい暇つぶしでしかない。

「まだ?それは大変ね〜早くしないと誰かに取られちゃうかもよ。・・・まあまあ。連絡?無いけど。嘘なんか言わないわよ。調べればすぐ分かる嘘付くと思う?ハイハイ、頑張ってね。じゃ。」

ミサトはにやけながら受話器を置いた。

「くくくっ。アスカも必死ねぇ。ま、この広い町中見つかるとも思えないけど、実際シンジ君達どこ行ったのかしら?」

いくつかシンジ達の行きそうな所を想像して、だんだんと思考が下世話な方へと向かっていく途中、再び電話の呼び出しがなった。

「噂をすれば何とやら、かしら?はい葛城です。」

『ミサトさん?シンジですけど。』

その通りであった。

「シンちゃんどうだった?楽しかったでしょ〜?え?いいじゃない結果論で。で、何?お泊まりはダメよ・・・冗談に決まってるじゃない。もうちょっとかかる、帰るのが。それはいいけど今どこなの?タクシーの中、どこ行くの、何、山ぁ?」

予想外の回答であった。散策に行くにしては時間が遅い。いや遅いからこそ電話してきたのだろうが果たして二人ともそのような格好であっただろうか?

(レイがしっかりしてるから大丈夫でしょうけど・・・)

「シンジ君、レイ襲っちゃダメよん。・・・・・・切れちゃった。」

ミサトは内心の笑いを抑えながら受話器を置いた。

そんなことの出来るシンジなら、今頃もっと気の利いた場所から電話してくるだろう。いや、してこないのが普通と言うものである。

「ま、中学生なんだし。健全でよろしい。」

(うどんまだあったかしら?)

場合によっては、夕飯はカレーうどんにしようと考え始めたミサトの食生活は、限りなく不健全だった。

 


 

(ここはどこなんだろう?)

タクシーを降りてからシンジは大分歩いたような気がした。

実際は大した距離ではないのだが、慣れない山道を行く先すら皆目分からず、ただレイに付いていくという不安がそう思わせる。

既に何回となく分岐を通り過ぎ、そろそろ帰り道を覚えるのも限界に近くなってきた。

「まだ?」

「もう少し。」

何度目かの同じ会話。

(昔似たような会話したな・・・)

あの時はアスカが切れかけていたが、今では不安になると言う点ではアスカの気持ちが理解できたような気がした。

太陽は大分傾いたがそれでも周囲を明るく照らし、木々が密集しているところも多かったが、まだまだ十分な光量がある。

最悪でもレイの携帯電話は衛星回線を利用しているため、バッテリーが切れない限りは救助だけは呼べる。

それに全く迷いを見せないレイの力強い足取りに勇気づけられはした物の、無条件にバラ色の未来を想像することは出来ないシンジだった。

(こんな所に連れてきてどうするんだろう?)

何度聞いても教えてくれなかった。だからそれ以上聞くのは止めたが、それもまた不安を増大させる一因でもあった。

その時、レイの足が止まった。

「ここ?」

周囲にはただ木が生い茂るだけ。

(まさか地面に何か隠してあるとか・・・)

地面に隠されたたくさんのレイを想像して一瞬身震いしたシンジだったが、そうではなかった。たちの悪さではある意味同じだったかもしれないが。

「少し服が汚れるかもしれないけど、付いてきて。」

そう言って今度は藪の中へと入っていく。

当然道など無い。獣道すらない。

木々は一層生い茂り、流石に辺りは薄暗くなっている。

(ま、まさか僕を襲うつもりじゃ・・・って何馬鹿なことを考えてるんだ。)

大分疲れてきたシンジ。

かといって今更嫌ですなどと言ってもどうしようもない。

「大丈夫なの?」

「私を信じて。」

(信じて、か。・・・もうちょっと頑張ってみよ。)

シンジの藪をかき分けて、レイの後を付いて行くのだった。

 

「はあ・・・はあ・・・はあ・・・」

シンジは赤くなっていた。

疲れたせいもある。山道でさえ歩く機会など無いのに、ましてやこのような道無き道などシンジは通ったことはない。

「ここを登ればすぐそこ。」

レイが「登る」と言う表現を使うだけあって、駅の階段以上の角度の坂を上っているせいもある。

息を切らせて赤くなるのは至極当然のことであった。が、今回に関してはそれ以外にも一つ理由があった。

(気が付いてないのかな?)

目的地を知っているのは先行するレイのみ。当然レイがシンジの前を登っていたのだが、今日のレイの服装はミニスカート。角度によっては、その下の白までがシンジの目に飛び込んでくるのであった。

(見ちゃダメだ見ちゃダメだ見ちゃダメだ・・・でもちょっとだけ・・・ダメだって!・・・あ、また見えた・・・)

理性と煩悩の狭間で、シンジはそれなりに苦労していた。

「着いたわ。」

「え?っと・・・」

ようやくこの苦労が終わるのかと顔を上げたシンジの目の前には、坂の頂上で直立するレイの姿。またもや見えてしまう。

「?」

俯いたまま坂を登ってくるシンジを変に思ったが、レイはシンジが何とか坂を上り終えると、その横に並んだ。

「うわぁ・・・」

「・・・どう?」

「凄く見晴らしが良くて気持ちよくて・・・凄いよ。」

眼下にはシンジ達の町が広がっていた。

まだ明るいためライトアップはされておらず、町自体は美しいとは言えないかもしれないが、反対側に見える稜線、青い空とそこに浮かぶ雲と相まって、一枚のパネルのような壮大さがある。

「あそこに僕達住んでるんだ・・・」

「そう。碇君の家は向こうの煙突から少し右くらいかしら。」

「うん・・・とすると綾波の家はもう少し右の方?」

「そうなるわね・・・座って。」

「そうだね。」

二人は草の上に腰を下ろした。足下はすぐに緩い坂となっているため足を延ばすには丁度いい。

「ここが私の好きな場所・・・誰にも教えてなかった秘密の・・・」

「それを僕に?どうして?」

レイは視線を街からはずして笑顔をシンジに向けた。

(!・・・・・どうしてなんだろう・・・やっぱり・・・同じなのかな・・・)

その表情は昔よりは自然になったはずなのに、どう言うわけかシンジにはレイが初めて自分に笑顔を向けた時の顔が重なって見えてしまう。

「・・・・・・・・・私からあげられる物、余り多くはないから・・・」

「そんなこと無いよ!今日だってずっと付き合ってくれたじゃないか。凄く嬉しかったよ。」

「それは碇君に付き合っただけ。私から何かをあげた訳じゃないわ。」

(綾、レイは綾波をくれたけど、綾波は何も上げてないって事かな・・・でも・・・)

だとすれば自分はどちらに感謝すればいいんだろう。シンジには即答できそうにもない。

「方角で言うと、あの山の向こうには第三新東京市があったわ・・・」

「そうなんだ・・・」

「不思議ね・・・人口は同じくらいのはずなのに、第三新東京市よりも大きく見える・・・」

シンジも町に目を向ける。

確かに雑然としている。機能的でも美しくもない町並みだが、不思議とシンジにはレイの言うことがすんなり理解できた。

「多分ここが好きになったからじゃないかな。第三新東京市は、凄いと思ったことはあったけど、好きな街じゃなかった。まるでおもちゃの街みたいで・・・まるで自分もおもちゃの人形みたいで現実感がなかった。」

「・・・辛い事、少ないから?」

「多分・・・それもあると思う。でもどっちかって言えば、楽しい事が多いからかな・・・僕にはこの町の方が合ってるみたいだよ。」

(これもいいな・・・)

シンジははにかんだようにレイに顔を向けた。その横顔はどこか遠くを見ているようにも見える。

「そう・・・でも、そうじゃないと思うわ・・・」

「どういうこと?」

「この町が碇君に合ってるんじゃなくて、この町を碇君が好きになってるの。違う?」

レイもシンジに顔を向けた。理由はないが、その瞳がシンジの全てを知っているような気がする。シンジはどことなく居心地の悪さを感じないわけには行かなかったが、かと言って目を背けることもまた出来ないのであった。

「よく分からないや・・・その通りじゃないと思うけど間違ってないような気がする。どうしてそう思ったの?」

「嫌じゃないのと好きなのは違うもの。」

レイはふっとため息を付いて視線を前に戻して座り直した。

「碇君の言う通り、私はここが好き。いいことばかりでなくても好き。町も、山も、空も、人も。」

(これが綾波の本心なのかな・・・本当の綾波が隠している・・・)

『この』レイがこのように語る事はシンジには驚きであった。だが言っていることは至極まっとうだし、共感するところも多かったのでシンジも肯いて顔を前に戻した。

「そうだね。今日はありがとう。」

「何が?」

「はっきりと好きだって分かった。」

(え?・・・・)

レイは慌ててシンジの方を向く。

「今まで考えたことなかったけど、やっぱり僕もこの町が好きみたい。」

(そう・・・・・)

内心を失望と羞恥のストライブで染めたレイの心など露知らず、シンジは楽しそうに町を見つめていた。

「どこを見ているの?」

「ん?家とか学校とか・・・そんなところだよ。」

(家・・・・・・そう。)

シンジのニュアンスとしては、限りなく『とか』に力が入っていたのだが、レイはシンジの『家』と受け取った。

心に一抹の陰が落ちたが、そんなことはおくびにも出さずレイは鞄の中に手を入れる。

「碇君。」

「何?」

「はい。」

レイがシンジに差し出したのは黄色地に水玉模様の包装紙で包まれた薄い長方形の箱。

「これ、僕に?」

「ええ。気に入って貰えるか分からないけど・・・」

「でも、今日一日付き合って貰ってそれからプレゼント貰うなんて・・・何か悪いよ。」

「私からの贈り物、いらないの?」

別にレイは脅迫しているわけではない。

「そ、そんなこと無いよ!そうだ、じゃあさ、僕からも綾波にこれ上げるよ。」

まるで誤魔化すようにシンジも自分の紙袋を開ける。そして別に包んで貰った小さな箱を手渡した。

「その、さっきの店で綾波が見てたからこう言うのに興味があるのかなって思って・・・今日はありがとう。」

「私に?」

「そう、綾波に。感謝の印にしては大したことないかもしれないけど。」

(私も見ていてくれた・・・)

「開けていい?」

「もちろん。気に入ってくれるといいんだけど・・・」

その言葉が終わるのを待たずに、レイは包装紙を開けていた。その紙は必要以上にしっかりと商品を包んでいるらしく、見ているシンジとしても心臓に悪いことこの上ない。

「キーホルダー・・・」

「うん。綾波に合うかなって思ったんだけど・・・気に入らなかった?」

レイが取り出したのは、銀色のキーホルダーだった。三日月の上にウサギが座っているという可愛らしいデザインだが、店で一目見た瞬間シンジはこれを手に取っていた。

「そんなことはないわ。」

レイは早速鞄に取り付ける。レイの実用一辺倒の鞄がほんの少しだけ明るくなったように見えた。

「あ、今はいいけど、ちゃんと綾波の物につけた方がいいよ。」

シンジは遠慮なく受け取って貰えたことに嬉しくなって、つい饒舌になってしまう。

「何?」

「だってそれ、いつも見てるし綾、レイのでしょ?綾波に上げたんだからさ。」

(そう・・・結局見てたのは別の私・・・)

「で、実はレイにも買ってあるんだ。だって綾波と今日いられたのはレイのおかげでもあるしね。」

(確かに別人でいたいと望んだのは私・・・でも・・・)

「綾波からも言っておいてよ、僕も楽しかったって。あ、もちろん月曜に会ったらちゃんと言うけど。」

(それでも気分が良くない。理不尽だと分かっているのに。)

そう感じたレイは無意識の内にシンジに包みを押しつけていた。

「え?ああ。ありがとう。そうだね。じゃあありがたく貰うことにするよ。」

(ちょと雰囲気違うな・・・怒ってる?なんでだろう?)

穏やかな空気が一変したことに、シンジは訳が分からなくなる。

「開けていいかな?」

「どうぞ。」

シンジは隙間から指を入れて、包装紙を止めてあるテープを剥がそうとしたが、指を入れた瞬間シンジの膝の上に一枚の紙が舞い降りたことに気が付いて、その動きを止めた。

「ん?」

シンジはその紙を拾い上げる。

「『Happy Birthday Shinji Ikari from REI』、ああ。ありがとう。」

シンジはレイにお礼を言ったが、先ほどからレイが何か言いたそうな目をしているのに気が付いてしまった。

「な、何かな?」

「別に。」

(嘘だ。)

友人達との教訓から、このような目をした場合必ず何かあると言うことはシンジも理解していた。何とかヒントを探そうと包みと紙に目を落とす。

(こっちはまだ開けてないし、こっちのは単におめでとうって言ってるだけだし・・・スペルは間違ってないし・・・あ、綾波の名前が全部大文字だってそんな下らないことなわけないし・・・ん?)

「ねえ綾波?ちょっと聞きたいんだけど、これ書いたのいつ?買ったときと一緒だと思うんだけど。」

「別々よ。」

「え?」

「それは今朝書いたの。碇君がお風呂入っている時。」

何となくシンジには理解できて来た。脳の奥底から答えが湧いてくるようなイメージ。それが一番近い表現だった。

(ちょっと待てよ。REI・・・今朝書いた・・・今朝ウチにいたのは元のレイじゃなくてもう一人の方だったはず・・・)

「この文章誰が考えたの?」

「私。変?」

(ようやく分かってきたようね。)

シンジが自分の思うように思考を進めているというのは気持ちがいい。先ほどまでの反動か、必死に考え込むシンジを見るのが楽しかった。

(綾波が自分で考えてREI・・・名前なんだから間違ってないんだけど名字はない。まさか・・・)

「もし違ってたらゴメン。でも聞いておきたいんだけどいい?」

「いいわよ。」

もはやレイの口には笑みさえ浮かんでいた。そんなレイの表情を見て、シンジは自分の思いの正しさを確信しかけていた。

「もしかして、本物?」

「偽物なんていないわ。」

「そうじゃなくて、昨日、パーティーの初めからいた綾波?」

ニヤリ

言葉はなかったが、その笑みで十分だった。

「やられた・・・」

「ふふ・・・」

シンジは草の上に倒れ込んだ。今のような薄着では少々背中が痛いが、ショックはそれどころではない。

(ずっと一緒だったなんて・・・)

シンジの脳裏にはレイとの会話・表情から何から何までが浮かんでくる。

(もしかして・・・据え膳だったのか!)

シンジは跳ね起きて、再び倒れ込んだ。

もったいない・・・

レイから試されているような気がしていたから抑えていたという面はある。実際行動したかは別にして、悔しさだけが積もっていくのは止められなかった。

「でも、いつ代わったの?それに彼女の方はどうしてるの?」

「みんなが酔いつぶれた後、寝るときに代わっていたわ。代わった彼女は・・・多分今頃LCLで浮かんでる。」

「う〜ん・・・」

何か釈然としない物を感じないではなかったが、よく考えれば同一人物が二人もいる方がおかしい。

「それで何でそんな事したんだよ。」

一日中遊ばれていたような気がしてそっぽを向いてすねるシンジ。レイにとっては始めてみる態度であったが、新鮮さよりもどことなくおかしさを誘う態度であった。

「その方が面白い。加持主任が言ってたわ。」

『もし正直に言った場合、シンジ君は意識してしまって普段の姿は見せてくれないだろうな。それにこういうことは秘密にした方が面白い。』

レイの相談を受けたリョウジの、これが回答だった。

「か、加持さんか・・・」

「つまらなかった?私は・・・碇君の生活を見ることができて面白かった。」

(ちぇ・・・加持さんまで一緒になって・・・)

信頼していただけにその反動は大きい。どうしてミサトとリョウジの気が合うのかようやく理解した気がしたが、だからと言って怒りの収まるわけでもない。だからレイに背を向けながら、ぶつぶつと文句を言い続けるのだった。

「怒った?」

どことなくレイの声の楽しそうに聞こえる。それもシンジの気にくわない。

「・・・・・・」

「本当に怒ったの?」

「・・・当たり前だろ。」

「ごめんなさい・・・ただ、普段の碇君が見たかったから・・・」

レイの声のトーンが少し落ちた。

(綾波が僕をからかってるとは本気では思ってないけど・・・このまま許すのは何か悔しい)

シンジは体勢はそのまま、人差し指をレイに見えるように上げた。

「一つ条件がある。」

「言ってみて。」

「今日一日綾波だけ楽しんだ代わりに、明日一日綾波の、『レイ』の時間が欲しい。」

「え?」

意外そうな声が帰ってきた。

(そんなに無理難題言うように思われたのかな?)

シンジは起きあがってレイの方に体を向ける。

「綾波だけ僕の普段の生活見るなんて狡いよ。それなら僕も綾波の生活が知りたい。これでおあいこだろ?」

コク

「本当ならずっと綾波の時間を貰うんだけど、今回は特別に一日にまけてあげる。どう?」

(本気・・・かしら?)

調子に乗ったシンジの言葉。レイはその真意を測りかねて即答できない。

本気?

「そうだよ。」

(どうしたんだろう?・・・あっ!この言い方じゃデートしてくれって言ってるみたいじゃないか!)

この一日、そういう感覚がまるで抜けていたために気が付くのが遅れてしまった。

自分を見つめるレイの顔は少し傾けられている程度で後は普段と余り変わらないが、その目に落ち着きがないところから動揺していないわけでもないらしい。

それは気が付いたのだが、事態は更に複雑であった。

・・・だけ?

「聞こえないよ。もう一回。」

「ずっと?」

『ずっと綾波の時間を貰うんだけど』

シンジも自分の言葉を思い出して真っ赤になった。

(デートどころか・・・告白かプロポーズだよ・・・)

俯いてぶちぶちと草を抜き始める二人。

「その、変な意味じゃないんだ・・・ただバランスを取る為って言うか・・・そうじゃなくて綾波の事はあんまり知らないから気になっただけで・・・」

「そう。なら明日は空けておく。」

(用事なんて元々ないのに・・・)

肩すかしを食らった気分になって言ってしまった言葉。答えは同じなのにまるで勿体つけたような言い方。嘘をついているとまでは行かないが、意図的にこのような言い方をする様になったのは良いことなのかレイには区別がつかない。

「うん、絶対行くから。」

(助かった・・・まだ早いよ・・・)

先延ばしにする訳ではないが、最終的な決断はまだ先でいい。そんな気がするシンジだった。

(となると、これはその時でいいか。)

そう言ってシンジは傍らの紙袋を見る。綾波『レイ』に渡すつもりのプレゼントは翌日になってから渡せばいい。

「それよりこれ、開けていいかな?」

「ええ。どうぞ。」

(何だろう?)

メインのプレゼントが自分というとんでもないものだっただけに、こちらも何か突拍子も無い物が出てきそうで、興味7分に恐怖3分でドキドキしながらシンジは包みを開けた。

「これ・・・」

「どう?」

(う〜ん。)

どうと言われてもなんと答えればいいのだろう?デザインは普通だし、そもそも自分は使ったことすらない。

「気に入らない?」

「そうじゃないんだ。ただ使ったことがないからなんて言ってのか分からなくて・・・デザインはすっきりしてていいと思うよ。」

(余り喜んでくれない・・・)

やはり小耳に挟んだだけのマヤの会話ではヒントにならなかったのか。ちゃんと聞いておくべきではなかったのか。

「でも僕のこと考えて選んでくれたんだよ、ね。御世辞じゃなくてそれは嬉しいよ。・・・どうやるんだっけ?」

傍目にも分かるほど沈んでしまったレイを見て、シンジは自分の失言を悟った。続く言葉も本心からのものだったが、気を使ったからこそ出てきた言葉であった。

「貸して。こうやるの。・・・出来た。」

「慣れてるね。」

「常識よ。」

(あんまり考えたくないけど・・・)

「父さんで慣れ、グエッ!」

「何を言うの。」

まるで繋がれてしまった様に見えたのは、錯覚ではないかもしれなかった。

 


 

(そうよ。そんなはずない。きっと見間違いよ。)

アスカは思いきり頭を振って自分の記憶を振りほどこうとした。

(今まで努力してきたじゃない。急にそんな風になるなんてありえないわ。偶然とかたまたまとか、とにかく何かが違ったのよ。)

記憶だけなら無視すればいい。忘れることが出来れば、後は自然と傷は治ると思っていた。

(でも、見間違いじゃないとしたら・・・)

その光景を見た時、アスカは目の前が真っ暗になった気がした。今まで信じていたものに、絶対の自信があったものに裏切られたと感じて急に足元が頼りなく感じられ、自分の部屋に帰るなり閉じこもって夕食に出てくることすらなかった。

(しっかりしなさい!アタシはどんな障害でも乗り越えられる!アスカ、あなたはそんな子じゃないはずよ!)

まるで高鳴る鼓動を押さえるかのように胸を押さえ、躊躇する右足を一歩前に出す。

「・・・・・・・・・・」

その数秒間はアスカにとって無限とも言えた。神経をすり減らされる焦燥感に包まれるのは、昔から慣れてはいたが決して好きになれそうもない。

「・・・やっぱり・・・」

そして一つの事実が確定し、アスカはその意味をじっくりと噛締める。

(そうよ。そんなことある訳ないじゃない!)

先ほどまでの不安の影を貼り付けていたアスカはいなくなっていた。その表情は自信に満ち溢れ、雲間から出た太陽のように輝いている。

「やっぱり太ってないじゃない!」

大きくガッツポーズを決めて、アスカは元気良く体重計から飛び降りた。

 

「シンジ!ほらほら、見なさいよ!」

「何をだよ。」

居間と風呂場を仕切るカーテンをおもむろに開け、バスタオル一枚体に巻きつけただけのアスカにこのような口を利いていると知られれば、恐らくシンジの学校生活は恐怖とサスペンスに満ちたものになっているはずだが見慣れたものは仕方がない。

(こんな時のアスカの言うことはどうせ大した事ないんだ。)

経験則からそう分かる。

そして、経験則から相手にしないと後が怖い。それもわかっていたことだった。

「何?」

「昨日は散々言ってくれたわね。でも残念でした!私が太ったんじゃなくて体重計が狂ってたのよ。」

「そうなんだ。」

シンジにとってはまさにどうでも良いことだった。程度問題はあろうが、少なくともアスカのような人間が体重を気にするなどシンジにとっては全く理解できない。

「やっぱりね〜。この才色兼備のアスカ様が、自己管理能力だけ欠如してるはずないものね〜」

「そういう物かな・・・」

「そうよ。あんたも気をつけなさいよ〜。ぶくぶく太る人間は自分も管理できない人間って思われるのよ。」

どちらかと言えば細すぎる体にコンプレックスめいたものを感じていたので、自分が風船のように丸くなる姿はシンジには想像できなかった。

だからさして深い意味もなく、思った言葉をそのまま口にしてしまった。

「ふ〜ん。でも、それって始めから体型は変わらなかったっていうことだよね?」

「そうよ。それが?」

「それだったら、やっぱり綾波の方がアスカより細いって事でしょ?」

碇シンジ15歳。つくづく一言多い人間だった。

「・・・つまり何?アンタはアタシのほうが太いのがそんなに嬉しい訳。あんたの料理残さず食べてあげてるアタシより、あんな草食動物の方がいい訳。」

(しまった!)

人は一日で変わるはずもないが、それにしてもシンジは進歩がなさ過ぎる。昨日と全く同じ形で後悔し、全く同じようにその場を後ずさる。

「そ、そんな意味じゃないよ!好きとか嫌いとかじゃなくて単に事実として・・・」

「なるほど、好みは別としてアタシが太ってるって言いたいのね?」

「いやだから違うって!どうしてそんなに突っかかるんだよ!アスカ十分細いじゃないか!」

言葉は開き直ったように聞こえるが、実際シンジは逆に壁際に追いつめられていた。

「言いたいことはそれだけ?なら覚悟はいいわね。」

「ちょっと待って!ア、アスカ。僕が悪かった。だから勘弁してよ。」

「問答無用!」

アスカは一気にシンジに躍りかかって、その首に掛かっただけのネクタイで手加減無しでシンジの首を締めた。

「ぐ、ぐるじい・・・」

「当たり前よ!苦しくしてるんだから!」

シンジはアスカの手をふりほどこうとしたが、アスカには武道の心得もあったのか上手く捌かれてなかなか力が入らない。

(父さん先立つ不幸を許して・・・母さん・・・今そっちに行くからね・・・ゴメン・・・綾波・・・・・)

「たっだいまー。ああっ!アスカ何やってんのよ!」

そのうち呼吸困難で力が入らなくなり、シンジが本気でこの世を去る覚悟を決めた瞬間、レイを家まで送って行っていたミサトが帰ってきた。

「あ、おかえり。早かったわね。」

アスカはシンジのネクタイから手を離し、何事なかったかのようにミサトの帰りを迎えた。

「ゲホッ、ゲホッ。」

「早かったわねじゃないわよ!」

「ちょっとした罰よ。もうちょっと懲らしめたら離すつもりだったわ。シンジ殺して人生棒に振るつもりないもの。」

(全く困ったものね。)

理由は分からないが、おそらくシンジがまた余計なことを言ったのだろう。それが分かるだけにミサトはため息をつく以外にない。

「全く・・・二人とも首締めるの好きなんだから。」

「そうそう。あの意識のなくなる瞬間が何とも・・・なわけないでしょ!」

アスカはそう言い残すと再びバスルームへ戻っていた。

「覗くんじゃないわよ。」

「これだけされて誰がするんだよ・・・」

「シンジ君は時々暴走するから。」

「ミサトさんまで・・・酷いですよ。夕飯食べますよね?」

「ええ。お願いね。」

ミサトは笑いながら席に着く。シンジも憮然としながらもネクタイをはずし、エプロンをつけて台所に入っていく。

ミサトは椅子の背にかけられたシンジのネクタイを見てふと気がついた。

(あれ?シンジ君さっきまでTシャツっだたような気がするけど。)

確か自分がレイを家に送る前、休日出勤から帰ってきた時はそうだったはず。それがどうして制服のワイシャツとネクタイなのか?

「でもさ、シンジ君こんな夜に何でネクタイなんてしてたの?それにシンジ君の学校ってネクタイなんてなかったじゃない。」

少し間があった。

ミサトが言葉を続けようとした瞬間、台所から返事が返ってきた。

『それですか。綾波に貰ったんですよ。誕生日プレゼントだって。』

「レイから?」

(偶然かしら・・・・・・違うわね。どこから聞いてきたんだか。)

一昨日の雰囲気からそれは分かる。だがそこまでの物とは思わなかった。

『ええ。ネクタイなんてしたことなかったんですけど、せっかく貰ったんだから付け方練習してたんです。後で教えてくれませんか?』

(どうやらこっちは気づいてない、か。)

ミサトはちらりと後ろを見た。バスルームから水音がしないところから見ると、アスカはこれから風呂にはいるのだろう。と言うことは、暫く余計な邪魔は入らないはずであった。

「それはいいんだけどさー。シンジ君は覚悟決めちゃったわけ?」

『は?覚悟がいるほど難しいんですか?』

「シンジ君。レイから貰ったネクタイ締めようとしてるんでしょー」

『そうですよ。何か問題でも?』

シンジがお盆を持って台所から出てきた。

「わお。今日は五目ずし?」

「ええ。今日も肉無しで済みません。」

「いいのよ。レイに合わせたの?」

シンジは照れたような表情になりながらミサトの前に料理を並べる。ミサト用にビールがついているが、五目ずしにお吸い物と漬け物。シンジなりに考えたメニューだった。

「はい。綾波に無理させるわけには行きませんから。」

「シンジ君もマメねぇ。いいお婿さんになれるわ、レイも幸せね〜」

「どうしてそこで綾波が出て来るんです!」

「だって〜。そうなんでしょ?」

「何がです!」

シンジはミサトから体ごと視線を背け、それ以上の話を打ち切るかのようにネクタイを結ぶ練習を始めた。

「へへ〜。シンジ君、いいこと教えて上げましょうか〜。」

「・・・・・・・・・・・・・・いりません。」

(絶対に、絶対にロクな事がないんだ。)

この場にいる事自体拙いような気がして、シンジは自分の部屋に戻ろうとする。

「何でもないのよっ!」

と、突然風呂場のカーテンが開いてバスタオル姿のアスカが出てくる。シンジもミサトもこれには驚いて目を丸くしたが、当の本人はどこ吹く風、ずかずかとミサトの元へと歩み寄ってくる。

「アスカ?!お風呂に入ったんじゃないの?」

「そんな事はいいの!それよりミサト、アンタ余計な事言うんじゃないわよ!」

(はは〜ん。)

「余計って何かしら?シンジ君に知られちゃ拙いわけ〜?」

「うるさいわねっ!あのファーストがそんなことすると思う?!単なる偶然よ。」

「あの・・・いったい何のことなんです・・・」

「シンジは黙ってなさい。」

この一言で一番の当事者の発言は封じられた。シンジは二人の言い争いの邪魔にならないようにそそくさと部屋の隅っこに避難する。

「だって〜最近レイも変わってきたしい、ここ数日の様子見れば決まり切ってるじゃない。」

「それとこれとは話が別。そこまで人間変わらないわよ。」

「だってレイ使徒だし〜。」

「あ〜屁理屈っ!大体今時ネクタイ上げて『あなたに首ったけ』なんてやるわけないでしょ。時代遅れも甚だしいわ。」

「と、いうことよ。」

ミサトは部屋の端で小さくなっているシンジの方へと顔を向けた。

「え?」

「レイがシンちゃんに首ったけなんだって。」

「あ・・・」

(アタシの馬鹿っ!)

自分はそれをシンジに知られないようにするために、わざわざ風呂にはいるのを中断してまでここに来たはずなのに、自分からそれをばらしてどうしようと言うのか?

(ホントかな・・・そうだったら嬉しいけどアスカの言うとおりそんな事まで気にしそうもないし、でもそれは綾波に悪いや、あ、だからあんな態度取ってたのかな・・・)

一昨日から昨日、今日にかけてのレイの態度を好意的に解釈すれば、確かにそう見えないこともない。

シンジは幸福な気分に包まれながら、一人物思いに沈もうとしたが世の中そう上手くはいかなかった。

「シンジ。アンタおっきな誤解してるでしょ?無駄な期待はよしなさい。それがアンタの為よ。」

「あらあらアスカ、レイが本格的なライバルになった途端これだもんね。」

「誰がライバルよ誰がっ!ファーストなんて敵になるわけないじゃない!」

「おや?何のライバルかっていうのは否定しないのね?」

「そ、それは考え過ぎよ。」

と言いながら、時々シンジの方へと慌てた視線を走らせるアスカ。そして、こんな時に限って人並みの理解力をシンジは発揮してしまう。

「いや、もしかして、アスカ・・・」

「何考えてるのよっ!自意識過剰よ。どうかしてるわ!」

と言いながらも、余計に赤くなるシンジを見て、伝染したかのようにアスカも赤くなる。

「ちょっと頭冷やしてくる。」

シンジは洗面台へと逃げ去った。

「あっ、こら!待ちなさい!」

「おや〜アスカそんなにシンジ君と一緒にいたいの〜」

「何言ってるのよ!」

シンジを追いかけようとするアスカを、面白がってミサトは捕まえる。

洗面台からは水が勢い良く流れる音がして、それからおそらくシンジが頭を突っ込んでいるのだろう、水が何かに当たる音がした。

「レイとアスカの奪い合い。まさしくシンちゃん水も滴るいい男ね〜。」

「そんな事言ってる場合じゃないでしょ、あっちには・・・」

ちなみに現在の葛城家の間取りでは、浴室への扉の横に洗面台がある。

「あ、そうか。」

ミサトもアスカの現在の格好を理解するとその手を離した。

「シンジ!変なことするんじゃないわよ!」

アスカは慌てて風呂場に向かう。普段なら絶対にやらないようなことでも、他人が聞けば絶対ワザとだと思うようなことも慌てたシンジはやりかねない。それは1年以上に及ぶ同居生活で十分分かっていた。

が、今回も遅かった。

『きゃあああ!アンタ何で顔拭いてるのよ!』

『え?あ?うわあああっ!』

『スケベ痴漢変態!アンタにそんな趣味があったなんて幻滅だわ!』

『誤解だよ!こんなタオルの上に置いておく方が悪いんじゃないか!』

『開き直る気?!ああっ、何ポケットに突っ込もうとしてるのよ!嫌〜信じられない!』

『ち、違う!ゴメン!ちょっとパニックになってるんだ!わざとじゃないんだ!』

『きゃあ!どこ触ってんよ!え?きゃあああああっ!!』

『うわああああああっ!』

パアンッ

「あら痛そ。」

(何となく話がうやむやになっちゃったけど、ま、いっか。)

よく冷えたビールは、ミサトの喉に心地よく流れ込んでいった。

 

 

 

 


(追記)

その空間は狭かった。

空調が普段の200%増しで頑張っているおかげで不快ではなかったが、人口密度といい騒音といい、とてもまともな人間の耐えられる物ではなかった。

もっとも、既にまともでない本人達には関係なかったかもしれない。

「わっははははは、ええでー」

「どんなもんだい!俺もやるときはやるのさ。」

「負けてらんないわね。リツコ!」

「ええ。17番赤城リツコ、人体改造します。ポチッとな。」

がちゃん、ちゅどーん

「おわあっ!ワシの義足からミサイルがっ!」

「あはははは、いいわよっ」

「いいぞいいぞー。」

(ああ・・・今年もまた・・・)

シンジは泣きたくなった。

確か今日は自分の誕生日で、パーティを開くとなればその目的は自分を祝ってくれる日のはずだ。それがどうして毎年毎年無礼講の日になってしまうのか。

「シンちゃーん、どうして何もやらないのー。」

もはやシンジは抗議する気も起こらない。したところで聞くわけないし、そもそも自分の言葉を聞いているかどうかも怪しい。

(もうどうでもいいや・・・何か気持ちよくなってきたし・・・お酒が入ると自分がわかんなくなっていいな・・・)

「もうやってます・・・」

「何を?あっ!」

「18番碇シンジ、綾波レイ、一つになってます・・・」

「おおー体張った芸やなー」

「レイ、程々にしておきなさいよ、後が大変なんだから。」

「あ〜っずるい〜っ!アタシも一つになる〜ぅ」

シンジとレイの肩がくっついていた。今更そのことで驚く面々ではないので、約1名を除いて皆喜んでいる。

「どうだいアスカ、俺と一つになるか?」

「ああん、加持さ〜ん。もっと昔に言ってくれれば良かったのに〜。」

アスカはシンジの逆の腕に自らの腕を絡める。

(ああっ胸が当たって押しつけられてっ!ん?でもまた大きくなったのかな?)

「これはダメ〜。アスカはシンちゃんを好みの男に教育しなさい。」

「は〜い。」

シンジの肩に頬をすりつけてじゃれるアスカだったが、シンジとしては嬉しいなどと思える状況ではなかった。

(あ、綾波が怒ってるっ!)

どのような原理になっているのか、文字通りくっついている二人は互いの思考が読めてしまう。シンジとしてはレイが怒っているのが分かるのに、その表情がほとんど変わっていないところにより恐怖を覚える。

「ア、アスカ。離してよ、お願いだから・・・」

シンジは強引に手を引っこ抜く。

「待ってよ〜。」

追いすがるアスカだったが、一瞬早くレイが行動した。

「19番レイ。ATフィールド張ります。」

べしっ

まるで昆虫採集の標本のようにATフィールドに張り付くアスカ。

「あーっ!アンタずっるーい!」

「続いて空、飛びます。」

「うわああああ!」

「おおっ!すばらしい芸だ!」

「レイいいわよー」

シンジを抱きかかえたレイは、そのまま窓の外へと躍り出る。

「綾波さーん、お土産よろしくー!」

「こらぁ!レイ戻って来なさぁい!」

「ごゆっくりー」

「さあ続き続き。20番は誰?」

様々な歓声を背に受けて、レイは上空へと昇っていった。

 

「もう目、開けていいわよ。」

(と言われても・・・)

ここがどれくらいの高さかは知らないが、少なくともこの町で最も高いマンションより高いところだろう。

いくらレイに支えられているとはいえ、足下に何もないというのは怖すぎる事実だった。

「大丈夫だから。」

(そうなのかな・・・)

レイの言葉に嘘偽りはない。少なくともレイはそう思っている。シンジは恐る恐る目を開けた。

「うわ・・・」

眼下に広がるのは一面の夜景だった。

煌々と煌めくネオン・光の線のように流れる車のヘッドライト、中心部を横切るように続く闇の中には、帰宅途中の会社員を乗せた電車が走っている。

「すごいや・・・」

シンジも夜景は見たことはあるが、ここまで上からの光景は見たことがない。

「気に入ってくれた?」

「うん。この町がこんなに明るかったなんて知らなかったよ。」

「そう。良かった。」

暫く二人は黙ってその町並みを眺めていた。自分達の家や学校や馴染みの店が一つ一つの光の点だと思うとどこか感慨深い。

「は、はくしょん!」

(ちょっと寒いな・・・)

いくら6月とはいえ、この高度まで来れば寒いに決まっている。シンジは鼻をすすりながらレイの顔をちらりと見た。

「寒い?」

「ちょっとね。アルコールが入ってるからまだ大丈夫だけど。」

(え?ちょっと・・・)

レイの困惑したような照れたような感情が流れこんでくる。

シンジが一体それはどういう意味かと考えた瞬間、レイがシンジの首に両手を回して抱きついてきた。

「あの、綾波、一体・・・」

(暖めて上げる。)

「あ・・・」

レイの言いたいことは分かった。シンジとしてはその心遣いだけで暖まる気持ちだったが、体の方も熱くなるのは避けられなかった。

(まずいまずいまずい。)

「迷惑?」

「え?迷惑なんてそんな・・・」

迷惑どころか本心を言えば嬉しすぎる。だが同時に非常に恥ずかしいというのが偽らざる気持ちだった。

「私がいることは碇君にとって負担にしかなからないのなら・・・私は・・・」

レイは不安そうな顔とその心。シンジは自分が情けなる。

「そんな事ないよ。多分、初めて綾波が僕にネクタイをくれた日。その時から僕は綾波に縛られてるんだから。」

「私は・・・碇君を縛ってるの?」

「そう。僕が望んでだけどね。」

照れもあってシンジはレイに微笑んだ。その気持ちはレイにも伝わり、それがまたシンジに戻ってくる。

「碇君・・・」

「綾波・・・」

「今年のプレゼント・・・私で・・・今ここにいる私で・・・」

シンジはレイの腰を抱きしめる。

「じゃあ、お返しは僕で・・・いいかな?」

「問題ない、いえ、嬉しい・・・」

レイは軽く顎を上げ、ゆっくりと目を閉じた。

近づいて行く二人の心と影。

その目撃者は天空の星星と、夜空に輝く満月のみだった。

 

 

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