その日も晴れだった。
ここ数日、雲一つない晴天が続き、抜けるような青空が広がっていたのだが、今日の空がことさら美しいと感じるのは人の主観だろうか。
そして普段の雑踏が嘘のような町中に佇む空気は、まるで空の美しさがそのまま地表まで舞い下りたかのようであり、その空気を堪能した少数の者が、肺に溜め込もうとするが如く大きく深呼吸する姿が町のあちこちで見受けられた。
大多数の者、言い換えれば文明の利器の誘惑に打ち勝てなかった者にも幸福は与えられた。
漠然とした未来への希望・願望、思い出したくもない過去への決別の証し。
その朝日がもたらした清冽な光は、それぞれベクトルこそ違え、初めて真っ白いキャンパスと絵の具を与えられた時のような、期待と戸惑いの入り交じった不思議な高揚感を覚えさせる。
もちろん何事にも例外が存在する世の中、そのような情緒に全く興味を示さない者も当然ながら存在する。
その人間は大別すれば大きく2種類に分けられた。
人為的に設定された単位の一つと、人知の及ばぬ天気という偶然の競合という環境に何らの価値を見出さぬ者と、感性が致命的に鈍いか、あるいはそれどころではない者。
少年の場合は後者であった。
数日前に久しぶりに垢を落としてもらった大きな窓ガラスが、透明感と存在感という矛盾した命題を絶妙のバランスで整合させ、その側に置かれた観葉植物が太陽光線の最大の受益者となっていたが、そんなことは少年にはどうでもいいことだった。
他の家もそうなのであろう。窓からほかの家の窓を眺めると、その光の反射は普段よりも美しい、一種見事な光の共演であることに気がつくのだが、これまた少年には気の回らぬことであった。
少年の視線の先には料理が並んでいる。
最初は色とりどりの、整然と並べられた見事な物だったが、今となっては良く言ってその余り物と形容される代物である。
それを少年は睨んでいた。
無論ずっと睨んでいるわけではなく、できるだけ自然な食事態度を崩さないよう気は使っている。
3人構成の食卓では、ホームドラマに出てくるような暖かい会話が行き交うことはめったになかったが、これは別に崩壊寸前の家族だからではなく、そういうキャラクターが一つ屋根の下で生活している必然でしかない。
それでも少年はぬるめの会話を続けながら、来たるべきチャンスを計算していた。
他人が聞けば馬鹿と言うに決まっていること。自分ですらそう思わないではないこと。それが少年の目的であった。
物心ついた5歳の時から数えて10戦10敗。
例年の教訓から戦術的技術的勝負では適わないと判断、それに固執する愚を悟った少年は、今年は戦略的要件を加味して勝負に挑むつもりであった。
そして、ついにチャンスは訪れた。
(右手にモチ、左手に醤油便、椅子に深く座ってるから行動の自由はない。・・・勝った!)
正面に座っている父の体勢を冷静に確認すると、少年は勝利を確信し、勝者の余裕を持って右手に持った箸を伸ばした。
あと20cm・・・10cm・・・
だが、少年は見てしまった。視野の端に映る父の行動を。
父親の口の端だ歪んだかと思うと、右手が残像を起こし、持っていたモチが天井高く跳ね上がる。無駄のない動作で手のひらを返すとそのまま前に伸ばし、目標を確保、まるでバネのように凄まじいスピードで引き戻し、そのまま口の中に放り込んでしまった。そして視線はそのままで手のひらを上に向けると、一瞬忘れ去られたモチが自己の存在をアピールするかのように、スポリとそこに収まった。
僅か1秒以下の早業。
コリコリコリコリ・・・・
少年は9割9分手にしていた勝利を文字どおりかっさらわれたため。その行動を見てしまった妻は夫の余りの奇態な行動のため、まるで時が止まってしまったかのようにどうにも動けないでいた。
「ふっ、最後のカズノコは美味かったな。今年も。(にやり)」
目の前の敗者に聞かせるように、普段の倍以上の時間をかけて咀嚼し、ようやく飲み込んだ父親はその息子に向けて言い放った。
「くっ・・・それがいい大人のすることなの?毎年毎年人の楽しみ邪魔して何が面白いのさ!」
「悔しかったら私に勝ってみるんだな・・・もっとも来年までその機会はないがな。」
敗北を誤魔化す為もあるだろう、椅子から立ちあがって父親を見下ろしながら非難する少年を、父親は邪悪とすら形容される笑みを持って余裕で跳ね返した。
「あなたっ!どうしてわざわざつっかかるの!カズノコなんて夜にも明日も明後日も出してるじゃない!シンジも毎年毎年同じこと、もう子供じゃないんだからいいかげんにしなさい!」
その低レベルで、心が泥水で洗われるような父子の会話と行動に母親が切れた。
「それは違う。」
「僕達には違うんだ。」
「男のプライドをかけた最初の勝負。」
「今日の朝にしか出来ない、終わることのない勝負なんだよ。」
とても先ほどまでの争いからは想像できない見事なコンビネーションで、二人は得々と母親に語り掛けた。
「・・・・・・・・・・・・はぁ・・・」
母親はこの似た者父子を二・三度交互に見ると、呆れ返ってため息を一つ吐いた。
碇家の元旦は、今年も変わらないようであった。それが幸福に繋がるかどうかは誰にも分からない。
(くっそ〜。何回思い返しても悔しいや・・・)
僕はリビングのソファーに寝転がりながら、朝食の時のことを思い返していた。
きちんと2メートル離されたブラウン管には、芸能人が出て何やらやっているけど、はっきり言って他よりはマシと言う理由で回したチャンネルだったので、全くと言っていいほど見ていない。
(絶対勝てるタイミングだったのに、あんな変態的な行動に出てくるなんて・・・あれに勝つには僕もああならなくちゃいけないのかな・・・)
そう考えると、来年の雪辱戦への意欲が少し薄れてしまう。
その父さんはさっきまでここにいたんだけど、今台所で洗い物をしている母さんのところに行ってしまった。
おかげで僕は、テレビを見るか、みかんを食べるか(ちゃんと筋を取るからテレビと同時と言うことは出来ない)、何か考えにふけるかしかやることがない。別にそういう状況が嫌いではなかったから、苦痛ではなかったけど。
(でも・・・なんか気持ちいいなぁ・・・)
部屋にはさんさんと太陽光線が差し込んでいる。
冬の太陽だから強烈と言う感じは全くなく、純粋に周りを明るくしてくれる存在として捕らえることが出来る。
ベランダにかけてある温度計を見れば、見事に一桁の数字をさしているけど、完璧に空調の整えられた部屋には何の影響もない。むしろ自分の幸福を再認識させてくれる。
そこに先ほどに朝食で得た満腹感。
僕がそのまま眠りに就くのにそう時間はかからなかった。
「・・・ジ・・・きろ・・・おい、起きろ。」
「・・・ん?・・・」
何か呼びかけられた気がして、いつのまにか閉じてしまった目をゆっくりと開ける。
結構本気で寝てしまったらしくて、どうもすぐには焦点が合わない。
「ん・・・うわっ!」
ようやく目の前の像がなんであるか認識できた僕は、余りの驚きにソファーから転げ落ちてしまった。
「何をしている。」
「いたた・・・父さんこそ驚かさないでよ。」
父さんの顔は只でさえ人に威圧感を与えるのに、それがソファーの背中越しにまるで大入道のように立ちはだかっていた。誰だって目を覚ました瞬間、目の前にこれがあればこうなるに決まっている。
「失礼な奴だな。まぁいい。客だ。」
「客?誰?」
少し打ってしまった腰をさすりながら、ゆっくりと立ち上がる僕は疑問に思っていた。
最初はトウジやケンスケくらいしか思い浮かばなかったけど、あの二人は元旦の朝から来るような殊勝な人間ではない。それにトウジはあのブラコン気味の妹にかかりっきりになっているだろうし、ケンスケは年越しサバイバルとかいうのに出るって言っていたような気がする。
アスカだったら「客」と言わずに「アスカ君」と言うだろう。
「来れば分かる。」
父さんはそれだけ言うと背を向けて玄関の方に歩き出してしまった。
「何だよ、それ。」
奥歯に物jの挟まったような言い方に不満を覚えたけど、こんなことで怒っていては碇ゲンドウの息子は勤まらない。黙ってついて行くことにした。
だけどその必要はなかった。
僕がソファーを迂回し終えたところで、廊下への扉が向こうから開いた。
「綾波?!」
正直言って意外だった。
家が遠いから僕の家に来ること自体まれなのに、いつもとは違って一人。普段は必ずアスカなり誰なりが一緒に来ている。
更に驚いたのがその格好。まさか着物で来るなんて・・・
青を基調とし、所々金糸などで刺繍が入っている。若草色の帯はすごく映えていて、首に巻かれた純白の襟巻きは見た目にもふわふわしていて暖かそうだった。
「あけましておめでとうございます、おじ様。碇君。」
「うむ。おめでとう。」
「え?あ、おめでとう。」
父さんは掴みかけたドアのノブをすかされて、その右手のやり場に困っていたみたいだったけど、すぐにそれを引き込めて何事もなかったかのように返答した。
僕はと言えば、そんな器用なことが出来るはずもなく、ちょっと間抜けな返事をしてしまった。
「今何か持ってくるから、そこに座ってて。それともシンジの部屋の方がいいかしら?」
「あ、いえ、お気遣いなく。」
綾波と一緒に部屋に入ってきた母さんの言葉に、綾波は両手を左右に振って遠慮したけど、母さんはにこりと笑って台所に行ってしまった。
「遠慮しなくていいよ。座ったら?それとも僕の部屋に行く?」
「ん〜あんまり長居するつもりじゃないし・・・。じゃ、お言葉に甘えるね。」
あごに人差し指を当てて、瞳を上に向けてちょっと考えたみたいだけど、すぐに決断したようでソファーに向かった。
「失礼します。」
そばに父さんがいるせいか、学校では考えられないくらい礼儀正しく振る舞う綾波は、ゆっくり腰を下ろすと襟巻きをはずしてその横に置いた。
僕と父さんもその後に続いて座った。僕は綾波の隣に少し離れて、父さんは「シンジ触るな」と背もたれに書かれた専用の椅子に。
「レイ君は挨拶回りか?若いのに感心なことだ。」
「ええ、それもあるんですけど、今日はみんなで初詣に行こうかと思って。あの・・・もしかして家族で行かれる予定ですか?」
綾波の表情は僕でも分かるくらいに「今気がつきました」と言う困惑が見えていたけれど、幸いと僕達にそんな予定はなかった。
「そんな予定はないよ。僕も退屈してたんだ。」
「よかった。断られたらどうしようかと思っちゃった。」
綾波の安堵の言葉に「綾波の誘いを断りなんかしないよ」とか加地さんあたりなら言うんだろうけど、この時の僕にはそこまで言う発想も度胸もなかった。だからただ微笑み返すだけだった。
「でね、アスカの家行ってみたんだけど、インターホン鳴らしても誰もでないの。旅行かどこか行ったの?」
「え?聞いてない。父さん知ってる?」
僕は綾波が最初にここに来たのではないことに少し残念な気がしたけど、普通ならアスカはどこか行く時は必ず自慢気に僕に言ってくるから、その言葉にも少し不思議に思って父さんに聞いてみた。
「知らんな。だが、あの家族も久しぶりに全員揃ったのだ。どこかに行っても不思議ではない。」
「そうなんですか。」
(どう思ってるのかな?)
肯く綾波の表情はいつもと変わらなかったから、僕には何を考えているか読み取れなかったけど、両親を亡くして一人暮らしの綾波が何も感じなかったとは思わない。言わないけど綾波は結構その手の話には敏感に反応してきた。
そう思えば先ほどの困惑の表情も、その可能性に気がつかなかった自分の迂闊さに戸惑っていると言うよりも、自分が一家の団欒を破壊する異分子ではないかと言う思いにとらわれたからかもしれない。
「相田君はいないって言ってたし、鈴原君やヒカリはどうかしら?」
僕の思考は綾波によって破られた。その目に曇りはない、と思う。
「委員長は分からないけど、トウジの方は駄目かもしれないね。元旦に呼び出しなんてかけたら『あの』妹に怨まれちゃうよ。」
「言えてる。」
あの兄妹の仲の良さを綾波も思い出したのだろう、目を細めてくすりと笑う。
「後で一応電話してみるよ。」
「そうね。ごめんね。」
「いいよ、それくらい。」
「シンジ、行くなら早く行け。」
父さんはいつのまにかチャンネルを変えられているテレビを見ながらそう言った。
そこにはごった返している境内の様子が写しだされている。
人、人、人、そのまた人。
第三新東京市は出来てから10年ほどしか経っていない人工都市。ただでさえ歴史とかそういう物が少ないところへ、今年、いやもう去年か、遷都されて日本の首都となった。当然にそれは人口の膨張を招き、必然的に毎年神社などでは大混雑となる。こればかりはお金や技術でどうこうなる物ではないので、根本的な解決はなされないでいた。
「うわ・・・」
「すごい人・・・」
僕と綾波は同時に驚愕の声を上げると、期せずして互いの顔を向け合った。もちろん行くのどうしようか、と言う確認に他ならない。
「行くわ。」
綾波は突如立ち上がり、こぶしを握り締め、窓の外遠く―大体神社のある方角―を見つめた。
「人込みくらいで負けるもんですか。あれはこの町に住む人間への試練なのよ。そうでしょ?」
「・・・そういう物かな?」
目に強い光を宿しながら、綾波は視線を僕に戻した。正直アスカならともかく、綾波がこんな風に言うとは思わなかったので驚いたけど、その事は好ましく思った。ただ余りの人の多さに苦労は予想されたので、いまいち気乗りのしない返事になってしまう。
「勝負とか試練とか今年は大変ね。シンジ。」
その声に振りかえると、いつのまにかお盆を持った母さんが立っていた。
「母さんそれ・・・」
「いいから早く準備してきなさい。」
僕はお盆の上の物体が気になって聞いてみたけど、それはあっさりと無視された。別に粘るようなこととは思わなかったので、僕は肯いて自室に向かった。
「さて、レイちゃんは待っている間これでも飲んでてね。」
「これ、ですか?」
にこやかに私に勧めてくれるおば様の顔には、悪意とかそういう物は一切ないように見えた。多分心の底から私の事を歓迎しての態度だと・・・思う・・・
「徳利ですよね、これ・・・お酒ですか?」
テーブルの上に置かれた物体を指差して私は聞いてみた。見れば分かることを確認するのも変なんだけど、聞かずにはいられなかった。
「お屠蘇よ。お酒って言っても大した事ないわ。」
「えーっと・・・一応未成年ですし。」
飲めないわけじゃないんだけど、まさか正月早々他人の家に押しかけて、いきなりお酒飲むわけにも行かないし、お酒好きの変な子って思われるのも嫌だし、私は愛想笑いを貼り付けたまま丁重にお断りした。
「でも飲めないわけじゃないわよね?」
「さぁ・・・飲んだことありませんから。」
これは嘘。勢いでビールを3,4回飲んだことはある。
するとおば様は私の横に座って、少し意地の悪そうな笑顔を浮かべて私に一言。
「修学旅行の事、聞いてるわよ。」
「う。それはその・・・」
修学旅行で、夜の自由時間に宿を抜けだして、みんなで自販機のビールを買って飲んだことがあった。碇君も巻き込んだから、まさかばれてるとは思わなかった。
「レイちゃんが飲んだかは聞いてないけどね。」
「え?」
「シンジったら誰がとは言わなかったし。飲んだの?」
やられた。こんな単純なことに引っかかるなんて、アスカの事笑えないじゃない。
とにかく、おば様のその疑問形とは裏腹に、ばれてと言うより私が勝手にばらしてしまったのは間違いない。
「元旦くらいは構わんよ。どうしても嫌と言うなら仕方ないが。」
椅子に座ったままのおじ様が、肘掛けに肘をつき、両手を組んで発言する。
「いえいえ。どうしてもって訳じゃないです。ハイ。」
おじ様は良く言えば威厳のある人なんだけど、悪く言うと恐い。発言自体は温厚な物だったけど、その態度と視線がまるで脅迫しているように見えてしまった。ここで嫌と言ったら拉致・監禁されそう。
「レイちゃん、でも無理しなくてもいいのよ。」
「無理してません。実を言うと少し飲みたかったなぁ〜なんて思ってまして。」
おば様は、おじ様と私を見比べて気を使ってくれたけど、ここで「無理してます」なんて言えるはずもなく、私は顔も前でパタパタと右手を振ると、苦笑いしながらそれに答えた。それに言ってることはまんざら嘘でもないし。
「じゃあいただきますね、ってお猪口が・・・」
気を取り直して、お屠蘇を貰おうとしたけど、そのお盆の上にお猪口とかコップの類いがないことに私は気がついた。
けどおば様は慌てることなど全くなく、お盆の上のオツマミ(よね?)をテーブルの上に並べると、徳利を持ってニコニコしながら私の方をじっと見ている。
「・・・?」
私はどういう事か理解できなかったけど、どうも嫌な予感がしてたまらなかった。
「さっ、早く持って。」
おば様の一言で、その嫌な予感が現実の物になっていくのを私は理解した。
「持ってって・・・まさか・・・これですか?」
目の前のお盆を指差す私。
それに対しておば様はさも当然と言った様子で肯いた。
(・・・・・・お盆と思っていた物が、杯だったなんて・・・・・・)
直径にして40cmはあろうかと言うお盆、もとい杯を前に、中学3年生にどうしろというの?
助けを求めるようにおじ様の方を向いたけど、ただ黙って、力強く肯くだけだった。別に私は勇気づけてもらいたいわけじゃないのに。しくしく・・・
「はは、碇家って昔からこうなんですか?」
「別にウチだけじゃなくて、実家の地域では皆そうだったけど、変?」
・・・おじ様は碇家に婿入りしたって聞いたことがあるけど、そんな風習のあるおば様の故郷ってどこ?
「いえ。じゃあ・・・。」
ついに覚悟を決めて、杯を両手で持っておば様の前に差し出した。
おば様は躊躇の「ち」の字もなく、なみなみとお屠蘇を注いでくれた。
「さ、どうぞ。」
どうぞと言われても、こんな量飲んだ事ない。ちょっとその水面を見つめて抵抗してみたけど、それでどうなる物でもない。消えてくれたらどんなに良かったことか・・・
「いただきます。」
一回つばを飲み込んで、ゆっくり杯を口に運んで行った。
ごくり・・・ごくり・・・ごくり
「ふう・・・」
やっぱり一気には飲めなかったけど、何とか飲み干して、下を向いて安堵の息をついた。でも、思ったより飲みやすかった。私結構飲めるのかしら?
とくとくとく・・・
その音にハッとなって顔を上げたら、予想通りおば様が二杯目を注いでいた。何で今日はこうなって欲しくない予想ばっかり当たるのよ。
もういいです、と言おうと口を開く直前、おば様に先制されてしまった。
「結構大丈夫じゃない。さ、もう一杯どうぞ。」
心なしかおば様の顔が、純粋な歓迎の笑顔から個人的楽しみの比重が大きくなったような気がした。
(碇君助けて・・・)
笑顔で私が飲むのを待つおば様。まるで横から監視するように私の杯を見つめるおじ様。この場から脱出手段がないことを理解した私は、自室に引きこもったままなかなか出てこない碇君に心の中で助けを求める。
でも私も碇君も超能力とは無縁の存在。偶然の神様も味方してくれなかったみたい。助けは現れなかった。
(ええい、もうどうにでもなれ!)
ゴクリ・・・ゴクリ・・・・・・・ゴクリ
ちょっと自棄になって、私はまた何回かに分けて飲んだ。
アルコール云々より、その量の多さ自体で飲みにくかったけど、何とか飲み干した私は、注がれないように今回は杯を水滴がこぼれない程度に傾けて、おば様が注いでこないのを確認してからゆっくりと机の上にそれを置いた。
「ご馳走様でした。さすがにこれ以上は勘弁してください。」
「もういいの?」
声と顔つきが明らかに残念そうだったけど、それ以上の言葉を発しなかったところを見ると、分かってくれたみたい。徳利をテーブルに置いた。
「しかしレイ君はかなり強いようだな。」
「そうね。この人もシンジも一杯も駄目なのに。」
「それは言うな。」
「こんなきれいな白い肌が赤くなるのを期待したんですけどね。」
う〜ん、そういう物なのかなぁ。他人と比べたこともないしこんな物だと思ってたけど。
「大人になったら一緒に飲みましょうね。この人達じゃ物足りなくって。」
「ええ、5年後を楽しみに待ってます。」
ウインクしながら私を誘ってくれるおば様は、とても30代後半には見えなかった。それに明るいし私はこの人が大好き。お酒抜きでもいいんだけど、私は明るく返事をした。
「軽々しく言わん方がいいぞ。レイ君が外国の大学に行っても呼びつけかねん。」
「人を我が侭な人間みたいに言うんじゃありません。レイちゃんが誤解するでしょ。」
「そうか。」
演技かもしれないけど、おじ様は他にも何か言いたげに、言葉少な目に答えてテレビに視線を移してしまった。
「全くあなたったら。でもそうよね、レイちゃんが遠い大学に行ったらそんな機会がなくなっちゃうかもね。」
それ以前に果たして大学に行くのかどうか。親戚は高校までは保証してくれたけど、その先はねぇ。行く気になれば奨学金ていう手もあるにはあるけど。
「そうだ。レイちゃんうちの娘にならない?そうすれば飲む機会なんていくらでもあるじゃない。」
多分碇君伝いに私に両親がいないことを知ったのね。それに私少し暗い顔になったかも。気を使ってくれたんだと思う。だから私も努めて明るく、冗談で返すことにした。
「碇君がお義兄ちゃんですか?いまいちピンときませんね。」
「ふふ、そうね。レイちゃんの方がしっかりしてそうだし。」
親の前で結構失礼な言い様だったけど、おば様も冗談って分かってくれてたみたいで、私たちは同時に笑い出してしまった。
「ふっ、義妹とは限らんがな。」
「え?」
ぽつりと言ったおじ様の一言で私は固まってしまった。
(えーっと・・・それっていうのは・・・もしかして・・・って何考えてるのかしら、冗談に決まってるじゃない。)
「あ、じゃあ立候補してしてもいいんですか?」
一瞬の混乱から立ち直った私は、笑いながらおじ様に答えた。
「反対する理由はない。やってみたまえ。」
「お義父さま。私頑張ります!」
後から思い返してみると、その時のおじ様の笑みは単に冗談の言い合いを楽しむだけのもではなかったような気がする。でもこの時は気がつかなくて、勢いでそこまで言ってしまった。
「何を頑張るの?」
「!!」
恐る恐る後ろを見てみたけど、別にだからといって結果が変わるわけじゃない。
コートを手にした碇君が、ドアノブに手をかけたままきょとんとして立っていた。なんでこんなにお約束の展開になっちゃうのかしら・・・
「あーいやいや、なんでもないの。それより準備できた?」
「うん。待たせちゃってごめんね。でもどうしたの?ホントに。」
「レイちゃんがね、シンジの・・・」
「あ〜!!本格的に混まないうちに行かなくっちゃ!おば様ご馳走様でした!」
おば様の声を無理矢理遮って、忘れ物がないかの確認もそこそこに、私は一礼すると碇君を押し出すようにして部屋から逃げ出した。
「あらあら。レイちゃん今ごろお屠蘇がまわって来たかしら?」
「かもしれません。では失礼します。」
私の顔は少し赤くなっていたのかもしれない。それが恥ずかしかったからなのか、お酒のせいなのかは分からないけど、今はそれどころじゃない。事情の飲み込めない(それはそうよね)碇君の背中を押して玄関に向かう。
「ちょ、ちょっと、綾波。いったいなんなのさ。」
「いいからいいから。用意に時間がかかったから無駄な時間はないの。」
「・・・わかったよ。」
しぶしぶながら、碇君も何とか誤魔化せて万事オッケーと思ったら、おじ様とおば様が二人揃って玄関まで来てくれた。お見送りに来てくれたんだろうけど、何か追っかけられているように思えるのは被害妄想かしら。
「夕飯までには帰ってくるのよ。レイちゃんも気をつけてね。」
「はい。いろいろありがとうございました。」
「じゃあ行ってくる。」
靴を履き終わった碇君は、そう言って扉を開けようとしたけど、おじ様がそれを止めた。
「待て。」
「何?」
それには直接は答えずに、おじ様は胸のポケットをまさぐり、名刺くらいの大きさの袋を2つ私達の前に差し出した。
「持っていくがいい。」
「え?うん。ありがとう。」
それには「お年玉」と印刷されてあった。碇君はそう言えばって感じで受け取っていたけど、はっきり言って私は予想外。単に気がつかなかったとも言う。
「あ、私はいいです。そこまでしてもらう訳にはいきません。」
「妙な遠慮はせんでいい。」
「ですけど・・・」
とは言われても、私もぢつはおくゆかしい人間だし「ハイそうですか」と受け取れない。手を出すわけでも、かといって遠慮しつつ家を出るでもなくまごついていた。
「貰ってやってよ。」
「そうよ。この人にも『優しいおじ様』をたまには演じさせてあげて。」
碇君とおば様が柔らかい物言いと眼差しで勧めてくれる。そして私を見下ろすおじ様からは無言のプレッシャー。
「わかりました。どうもありがとうございます。」
頭を深々と下げて、私はその袋を受け取った。
おじ様は肯くだけで何も言わなかったけど、少し表情が柔らかくなったみたい。やっぱり遠慮したのは逆に悪かったのかしら?
とりあえず袋ごとお財布にそれを仕舞う私に、いきなり強烈な風と寒さが襲ってきた。
顔をあげれば、碇君が扉を開けて廊下に出ている。扉が閉まらないように押さえているから、絶え間なく冷たい外の空気が室内に流れ込んでいる。
「ホントに今日はありがとうございました。失礼しますっ!」
「ああ。」
「また来てね。」
それに急かされているような気がして、私は今日何度目かのお辞儀をして急いで廊下に出た。
そして私が完全に外に出たのを確認すると、碇君はゆっくり扉を閉めた。
(うう・・・やっぱり寒い)
マンションの玄関を出た僕の第一印象はこれだった。
一筋の雲すらない快晴の空と、年明けと一緒に葺き替えたような塵や粉塵の無いきれいな空気に気がつかなった訳じゃないけど、そんな事がどうでも良くなるくらい強めの風が、実際の気温以上に体感温度を下げてくれて、外に出るや否や僕の両手はポケットの中に定位置を確保した。
隣を見れば綾波の口からは白い息が出ている。その襟巻きの光景ともあいまって、すごく暖かそうに見えた。
「寒くない?」
「ううん。ご馳走してもらったお屠蘇が効いてるみたい、中から暖まってる。寒いなら一度戻って着替える?」
「いや、それほどの事でもないよ。行こう。」
ホントは十分それほどの事だったんだけど、同じくお屠蘇を飲んだのに僕だけ寒いなんて言ってられない。
(「プライドとはやせ我慢と見つけたり」って何かの本で読んだな・・・)
僕はそんなことを考えていた。
本音を言えばダッシュしてでも体を温めたかったけど、晴れ着姿の綾波がいるのにそんな事が出来るはずも無い。おまけにその綾波は着慣れない服を着ているせいか、普段より歩みが遅い。ホントならゆっくり二人きりで歩けるなんて嬉しいことなのかもしれないけど、その魅力も負けそうな程とにかく寒かった。
だからせめて気を紛らわせること、つまり会話することで誤魔化そうとした。
「このまま直接神社に行くけど良い?」
「いいけど他の人は?」
「さっき着替えた時ついでに電話してみたんだけど、二人ともいないって。トウジは妹と初詣、委員長もそうみたい。ケンスケもやっぱりいなかったよ。」
「へ〜。ヒカリは一人で行ったって?」
「違うんじゃない?でも家は一人で出たみたい。ノゾミちゃんがそう言ってた。」
「誰と行ったのかなぁ?最有力候補のアスカはいないし。ヒカリ顔が広いから分からないけど、私としては大穴の鈴原君に賭けたいわね。」
「綾波らしいや。でもそれはないんじゃない?今日は『あの』妹が一緒なんだよ。トウジも妹を先帰らせてっていうのはなさそうだし。」
「そこで始まる恋人未満の少女とけなげな妹との一人の少年をめぐる女の戦い。ああ、なんて萌えるシチュエーション。」
「女のって・・・妹は拙いんじゃないかな・・・」
せっかく調子良く会話を続けて、寒さを忘れかけてたのに、今の言葉で少し心が寒くなった。
「でも秘められた禁断の恋ほど一度火が点くと止められないって言うし、男の子ってそういうのも興味あるんじゃない?」
「実の妹はちょっと・・・ってそういうことじゃなくて。」
「義理の妹とならOKと。」
「だから違うって!」
綾波の顔は突っ込む時、僕の顔を覗き込むようにしてにやけていたし、多分綾波も冗談で言っていることは分かってくれてると思う。
正直僕は一人っ子なので、兄弟の間の感情は想像以上の物にはならない。そもそもその手の事は良く分からないし。綾波はどこからその手の知識を仕入れてきたんだろう?
「碇君がそんな人だったなんて。・・・良かった〜。」
「良かったんかい!。」
綾波の言葉に対して、偽関西弁で一応突っ込んであげた。こうやってわざとボケてくれるところは結構好きなんだよね。
「え?違う違う。」
でもどうもボケでもなかったらしい。もちろん本気でそのままの意味で言ったんじゃなくて、ただの説明不足ってことみたいだけど。
自分の言い方の拙さに苦笑し、顔の前で手をパタパタさせながら綾波は言葉を続けた。
「碇君が着替えてる時にね、おば様と話してて『娘にならない?』って言われたの。でも丁重にお断りしたけどね。もしOKしてたら義理の兄、碇君の事ね、その視線におびえながらの生活になる所だったじゃない?」
「だから違うんだって。でも母さんまたそんな事言ってたのか。」
「また?」
「前もアスカに似たような事言ってたんだ。」
その時は「シンジ貰ってくれない?」だったけど、そんな事綾波の前で言える訳ない。結局その時は後でアスカに八つ当たりされたし。
「気に入った女の子がいると言っちゃう、母さんの持病みたいな物だから気にしないで。」
「分かってるわよ、おば様の冗談に決まってるじゃない。それとも・・・碇レイを見たかった?」
「だからあれは母さんの冗談だって。それに僕だって見たくないよ。」
僕は視線を赤い宝石に向けながら、そう弁解するように答えた。そうだよ。綾波が妹っていうのは僕には耐えられないかもしれない。逃げるか犯罪に走るか、どちらかに転びそうな気がする。
「・・・ふ〜ん」
分かったのか分からなかったのか、あいまいとも取れる反応を残して綾波は視線を前に戻してしまった。
(何か怒らせるような事は言って・・・ないよね。)
当然僕は釈然としない物を感じていたけれど、なぜかそれを問いただす事が僕にはためらわれた。
実際その後の綾波は、普段の綾波に戻っていたので僕の気の回しすぎかと思うんだけど。
『・・・お忘れ物のないようご注意ください。』
車内アナウンスが流れ扉が開き、効きすぎの暖房が暖めた空気と共に十人ちょっとの客がそこから出て行く。
「ととと・・・」
「綾波?」
込んでいる電車では、どうしても場所によって、出入りする人間の波に巻き込まれる場合が発生する。
僕達が立っていた場所はその境目あたりだったんだけど、今回は綾波がそれに巻き込まれ電車の外まで流されて行く。
僕は別に、このまま綾波が戻ってくるのを待つという手もあったんだけど、その場合、今度は離れてしまう可能性も50%以上の確立で存在したので、僕も一度外に出る事にした。
けれど今回はその必要はなかったみたいで、降りる客が全て出ていった後、最初に電車には言ってきたのが綾波で、その後に降りたのとほぼ同数の人間が乗ってきた。
「ただいま。」
「大丈夫?」
降りかけて、又元の場所に戻るという間抜けな事をした僕は、少し照れながら綾波に聞いてみた。
「失敗失敗。帯の後ろに何かひかかったみたいで、そのまま外まで連れて行かれちゃった。」
「場所変わる?」
「ううん。大して変わんないだろうし。だって次・・・あそこでしょ。」
嫌そうな、それでいて禁句を口にした時のような表情で綾波は僕に告げた。後ろの方で扉の閉まる音が聞こえて、ゆっくりと動き出した電車の行き先が、綾波の言葉によって地獄行きに変更されたかのような暗惨たる思いに囚われた。
「そっか・・・あの『丘公園前』か・・・」
丘公園前。まるで方向の違う地下鉄が2本、鉄道が4本、バスターミナルを備え住宅地に隣接する。
計画都市たる第三新東京市が、どうしてこんな大混雑を引き起こす駅を作ったのかは知らないけど、ラッシュ時には乗車率が400%を軽く超し、測定不能という噂を聞いた事がある。また、怪我人は出ても病人は出ない駅として有名。なぜならハイヒールで足を踏まれたとか、腕を変な方向に持って行かれたという事はあっても、倒れるどころか崩れ落ちるスペースすら無いため、病気で倒れる事は絶対にないと言われる。
僕も昔乗った−乗ってしまった−事があるけど、思い出したくも無い事トップ3に入る悪夢だった。それが小学生の時だったという点を差し引いても、床から足が浮いてしまった10分間の恐怖は忘れられない。
「正月で大人は仕事が無いし、子供は学校が無い。それに今はラッシュの時間じゃないし大丈夫じゃないのかな。」
不安そうな顔をしている綾波と、おそらく似たような表情をしているであろう自分を奮い立たせるために、あえて楽観論を述べてみる。
「でも・・・この時点でこれよ。」
「うん・・・綾波は巻き込まれた事あるの?」
「一回だけ。ここに引っ越してきてすぐ、学校帰りに町に出て買い物してたの。そしたら見事に夕方のラッシュに巻き込まれて・・・」
今にも泣きそうな声で語る綾波。その瞳に浮かんでいるのは恐怖の傷痕か。
「ごめん・・・嫌な事思い出させちゃったみたいだね。」
「大丈夫。あの時は心構えがなかったし、それに転校してきたばっかりで一人だったしね。」
そう言って僕に笑顔を見せてくれた。僕は不謹慎なことに、涙と笑顔の組み合わせにドキッとしてしまい、照れと罪悪感とで目を合わせていられなくなって、窓の外に視線を逸らしてしまった。
「祈るしかないよね。人がいませんようにって。」
「そうね。お賽銭なしだけど、後払いって事で我慢してもらいましょ。」
僕達は目をつぶって、心の中で今年最初の願い事を済ませた。
結論―神様は現金先払いらしい。
「うわっ!」
「きゃっ!」
何とか祈りが通じたのか、予想以上に公園前駅では人が降りてくれて、しかも偶然座れたんだけど、その後が凄かった。途中で環状線に乗り換えたんだけど、どうやらその乗客のほとんどは僕達と目的地が同じらしく、途中駅で人が増える事があっても減る事はほとんど無かった。
立ったままの僕達は「死ぬほど」とは行かなくても、もう少しでお賽銭が六紋銭―三途の川の渡し賃―になりそうな経験をしながら、ひたすらに目的の駅まで着くのを待っていた。
そして着いたら着いたで、綾波と離れ離れにならないように気をつけながら人の濁流に押し流されている、というのが現状である。
「あや・・・ん?」
僕は自分の左腕に絡む感触に気がついた。
「きんきゅーひなんって奴よ。離れ離れになったら2度と見つかんないからね。」
「え、う、うん。」
確かに綾波の言う通り、背の高いとは言えない僕達は、目印の空色を捜そうにも、綾波以上の身長の壁があってはそれも無理だし、この人込みで見失ったら探すのはおそらく不可能だろう。それに綾波の声にも顔にも普段と変わる所が全く無くて、変に意識する僕がいけないのかなとも思う。
と頭の冷静な一部が言い聞かせても、心の大部分はそれを受け付ける余裕すらなくしている。心拍数はあがりっぱなしだし、切符を握る右の手のひらはうっすらと汗がにじんでいる。
(落ち着け、落ち着け、綾波だって言ってるじゃないか「緊急避難」だって。調子に乗るんじゃない。冷静になるんだ。)
なんて事を必死に自分に言い聞かせていたため、改札までの短い間さえつい無口になってしまう。
そんな僕の何を勘違いしたんだろうか、綾波が妙な気を利かせてきた。
「そんなに堅くならないでよ。アスカには黙ってるから、リラックスリラックス。」
「な、何でここでアスカが出てくるんだよ。関係ないよ。い、言いたいなら言ってもいいよ。」
状況に流された感じだったけど、僕にとってこの台詞を言うのはかなりのエネルギーを必要とした。もしアスカにばれて、それで何か言われるようならこの際はっきりさせても良いという覚悟で。
「お、いつになく今日は強気じゃない。でも大丈夫よ。私も命惜しいしね。」
でも綾波はただの子供っぽい反発としか見てくれなかったみたいで、あっさり話を流してしまった。
「・・・そんなんじゃないよ・・・」
幾分かの落胆と共に、僕はすぐ側に迫っている改札に目をやった。
「はいはい。え〜っと切符切符・・・」
綾波も組んでいた腕を解き、自分の切符を取り出し、僕の後に続いて改札をくぐった。
「ん〜っ・・・」
これが改札を出た私の第一声。
あのごみごみした駅から出て、とりあえずスペースのある場所まで一目散に歩いてきた私は、両手を空に伸ばし背筋を伸ばして、今までの閉塞間から開放された喜びを体中で味わっていた。
周りにも同じ気持ちの人がたくさんいたみたいで、晴れ着を着て明らかに参拝客と分かる人達も、すぐに神社へと向かわずに、この駅前の広場で一旦休憩という姿が結構見られた。
「生き返った〜。やっぱりアレは人間の生存空間じゃないわ。そう思わない?」
「僕もそう思う。綾波が試練だって言った意味が分かった気がするよ。」
同じく背伸びしていた碇君が呆れたような感心したような声色で言ってくれた。
「何それ?こんな日に誘った私への嫌味?」
「違うよ。ただ今まで初詣ででこんな体験した事無かったから・・・」
ぷぷ、碇君本気で済まなさそうにするんだから。面白いんだけど、2年も付き合ってるんだから冗談かどうかくらい分かってよね。
「ま、よろしい。破魔矢一本で許して遣わす。」
「破魔矢?それくらいなら良いけど。」
「それじゃあ行きますか!」
虚を衝かれた感じの碇君をよそ目に、私は元気よくそう宣言するとすたすたと歩き出した。
「ちょっと待ってよ。」
慌てて碇君も追いかけてきた。そして私の横まで追いつくと、歩調を合わせて並んで歩き始める。
多分この道路を歩いている人は皆参拝客だと思う。
これから行く人帰る人。全部の人数は凄く多いんだけど、道路の幅が10メートル以上あって、歩行者天国になっているから、そんなにごみごみした感じは受けない。とはいえ駅に向かう人数より、神社方向へ行く人の方が多いような気もするし、帰りも混む事は確実よね。
「ところでさ、ここの神社ってなんの効果があるの?」
ふと気がついた私の疑問に対する碇君の答え。
「何でもいいんじゃないかな?買った事はないけど、いろんな御守売ってた気がする。」
なんてアバウトな・・・。そりゃ首都最大の神社なんだから、各種要望はあるんだろうけど、私としてはスペシャリストの神様の方が頼り甲斐がある気がする。
そして碇君は自分の発言の後、少し間を置いて、憂鬱な顔をして話しを続けた。
「やっぱりここまで来たんだから、学業成就の御守でも買ってく?」
「・・・・・・せっかく忘れてたのに・・・受験の事は・・・」
新年早々その話しはキツイ。私も碇君も似たような成績で、一応の合格圏内ではあるものの、ピリピリした空気は一人暮らしの私にも起きた。良く考えたら、家族と一緒の碇君の方がプレッシャー大きいんじゃないのかしら。
「結構両親に言われるの?『勉強しなさ〜い』って。」
「それが言わないんだ。」
「楽で良いじゃない。何が不満なの?」
「ほとんど言わないなら楽なんだけど、全然言わないから逆にプレッシャーにね。ほら、僕一人っ子だし、うちの父さんも母さんも一流大学出てるから内心期待してるんじゃないかなって。」
「そう言うものかしら?親は親、自分は自分だと思うけど。」
「多分ね。無関心とは違うみたいだし、なんだかんだ言っても僕の・・・あ、ゴメン」
言いかけて、はっとした表情を見せると、済まなさそうに碇君は俯いてしまった。
何を言いたかったのかは分からなかったけど、何について謝ったのかは分かる。そして少しその態度にはカチンと来た。
「あのねぇ、前から言っておきたかったんだけど、私は親を亡くした無力でかわいそうな女の子じゃないの。たまには羨ましいって思う事もあるけど、だからと言って変に気を使わないで。」
「うん・・・ゴメン。」
一度顔を上げて私の目を見て、また俯いてしまった碇君。
「・・・少し強く言いすぎたみたい。でもああいう時はそのまま流してくれれば良いのよ。」
「・・・分かった。これから気をつける。」
「そ。謝罪の言葉も良いけど、それは態度で表して欲しいわね。」
「態度・・・?チョコレートパフェおごれとか?」
だーかーらー。いったい碇君はどういう目で私を見てるのよ。こんな寒い冬に、じゃなくて、食べ物さえ与えておけば良いと思ってるのかしら。
「・・・・・・」
「綾波?」
「・・・・・・」
碇君の声は敢えて無視してすたすたと歩き出す。本気で怒ってる訳じゃないけど、少しお灸を据えてやらねば。
「えっと、じゃあこの前欲しがってた腕時計。」
「・・・・・・」
「まさか服とか?」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
ついに碇君も黙ってしまった。横目でちらっと見れば何やら考えているみたい。
「どうすれば・・・」
(そろそろいいかな。)
それは私への声ではなく、ただの呟きだったんだろうけど、だからこそ本気で考えてるのが分かった。もしただ謝るだけだったり、泣き付くような情けない姿を見せるだけだったらもう少し反省させるんだけど、本気で自分にできる事考えてるようだから、この辺で許してあげる事にした。元々大した事でもないし、私は助け船を出す事にする。
「物で釣ろうとしているのが気に食わない。」
「え?でも態度って・・・あ、そうか。深い意味はなかったのか。」
「よろしい。もっとも、くれる物は拒まずだけど。」
私は後半部分は冗談口調でそう言って、碇君に笑顔を向けた。これが私なり冷戦終結宣言。
「ありがとう。」
照れ隠しだろうと思うんだけど、碇君もはにかんだ笑顔を向けてくれた。
「さ、つまんない事はもう終わり。ちゃちゃっとお願い済ましちゃいましょ。」
「ちゃちゃっとって・・・そんな事だと神様怒るんじゃないかな?」
「それはどうかしら。たくさん人がいるから向こうも忙しいだろうし、てきぱきとした行動が目に留まるかもよ。」
「確かにアレじゃ、ゆっくりなんてできるはずないね。」
碇君の視線の先には、神社の鳥居、つまり入り口で参拝客がちょっとした混雑を作っている。入り口では人の流れが分かれてるんでそうなっているらしい。
「ちょっとの我慢我慢。中に入れば少しはマシになるだろうし。」
「そうだね。着物、気をつけてね。」
そう言って私達は人だかりの中に突っ込んでいった。
「ほら、上手くいったじゃない。」
「少し強引だったけどね。」
僕達は本殿の前まで来ていた。
前までとは言っても大量のお賽銭を捌くめだろう、賽銭箱までには白い布で仕切られた3メートルほどの距離があったけれど、とにもかくにも僕達はその前にいる訳だった。
僕なんかはこんな最前列まで来る必要はないと思っていたんだけど、綾波がどうしてもと言うから人の壁を十数メートルかき分けて、ようやくここまで辿り着いた。
「まあまあ。細かい事はいいじゃない。お賽銭お賽銭・・・っと。」
「痛っ!」
お財布から硬貨を取り出そうと下を向いた綾波を見て、ズボンのポケットに手を伸ばした瞬間、今日何度目かの衝撃が僕を襲った。
「また?」
「ててて・・・だからここは・・・」
「今年はついてるじゃない。向こうからお金が飛び込んでくるのよ。」
「そんな訳ないだろ。こっちの身にもなってよ。」
面白そうに僕に話し掛ける綾波だけど、こっちはそんなのんきな事を言うほど余裕はない。
こんな前にいたら、後ろからお賽銭が飛んでくるのは当たり前なんだけど、どういう事だかさっきから僕にばっかり当たっている。隣にいる綾波には一度も無いんだから、綾波の言う通りよほど僕がお金に縁があるか、逆に綾波に縁が無いかどちらかだろう。でもたとえ僕に縁があると言っても、何も頭に当たる事無いだろうに・・・
「そんな顔しないで。とりあえず不運がなくなるようお願いしてみたら?」
賛成。効果のほどは分からないけれど、とりあえずここから立ち去る為にもさっさと済ましてしまおう。・・・あ、これじゃさっきの綾波と同じか。
お賽銭を放り込む綾波の後に続いて、僕はズボンのポケットから財布を取り出すと、50円玉を取り出して目の前に放り投げた。そして柏手を打って目をつぶり両手を合わせる。
(お金は頭にじゃなくて財布にください。高校受験に成功しますように。父さんとアスカに今年こそは苛められませんように。それと・・・)
片目だけ開けてちらりと隣を見る。
(うまく行きますように。)
それだけ済ませると、僕は息を吐いて目を再び開けた。
他の人が何を願っているのかは知らないけど、僕ぐらいが普通だとしたら神様も確かに忙しいかもしれない。叶わない人が多いのも肯ける。
でも僕の横では綾波がまだやっている。僕より早く始めたのにいったいどれだけ頼んでいるんだろう?もっとも、その姿がなんとなくいい物に思えて、もう少し見ていたいと言うのもまた本音ではあったけれど。
けれど僕が見始めて5秒するかしないかの内に、綾波も顔を上げてあっさりとその願いは打ち砕かれた。
「あ、終わった?」
「とりあえず大きな事はね。細かいのはまだたくさんあったんだけど、これ以上は欲が深いかなって。」
(まだあったのか・・・)
僕はそう思ったけど流石に口には出さなかった。
「じゃあここ出ようよ。」
それだけ言って、僕は体を反転させ、再び集団の中に割り込んでいった。普段なら返事を待ってから動くんだろうけど、もしかしたら呆れた事が顔に出るかもしれないと思うと、とにかくその事は誤魔化したかった。
「そんなに急がなくても・・・ちょっと済みません。」
綾波も少しは僕の行動を怪しんだかもしれないけど、別にその事は何も言わずに僕の後についてきた。
「ふう。」
「やった出られた。」
「ホントなんでこんなに人がいるのよ。」
「僕達みたいのがいるからじゃない?」
「それはそうね。」
たかが十数メートルの事とは言え、小柄で華奢な私達にはその壁を突破するのは一苦労だった。
そこから解放された今、他愛も無い軽口が出てくるのはある意味当然の事だった。
「さてと、次行きましょ。」
「次?まさか神社めぐりするつもり?」
いつもながら碇君には勘違いと言うかボケが多い。今年も初日から飛ばしまくってるわね。でも期待してるから。
「まさか。初詣でときたらおみくじがお約束でしょ?」
私はこれに目がない。神社に来ておみくじを引かないと言うのは冒涜とさえ思う時がある。それに宝くじなんかとは違って、私はこれに関しては結構運が良くて、今まで凶は引いた事はない。
「そっか、今年は何かな・・・」
碇君は、おみくじの売っている露店に向かう私の後について来ながら呟いた。
「碇君は運のいい方?」
「どうだろう?いろんなの引いてるから良く分からないや。」
「もしかして大凶とか引いた事あるの?」
私は疑問に思って聞いてみた。一般的に一月のおみくじには全く大凶は入ってないと言う噂を聞いた事がある。私の幸運なんかのそれに助けられた所が大きいんだろうし。
「はは・・・小学1年生の時と中学1年の時にね。凶も確か2回引いてると思う」
苦笑いしながら凄い事を答えてくれた。
う〜ん・・・おそるべし碇シンジ。いいか悪いかは別として、数少ないチャンスを物にしていたとは。とにかくフォローしなくてはいけない。
「まぁ凶は凄く数が少ないって言うんだし、それってある意味運がいいんじゃない?実際どうだったの?」
「どうって言われても・・・当てにならなかったかな。小学生の時は別に他の年と変わらなかったし、一昨年は・・・むしろ良かったのかな・・・」
別にそんなに照れた風に言わなくてもいいのに。別に恥でも何でもないんだから。
「私は当たる方なのよ。細かい事は違うのは当たり前なんだけど、最後に振り返ってみたら結構当たってるのよね。」
「去年は?」
「つまらない事に小吉。で、一年の感想としては、いい事と悪い事が6:4って言う所ね。」
「綾波にも悪い事そんなにあったんだ。いつも楽しそうにしてたのに。」
「それは私にだって悩みの一つや二つはできますよ。そんなに楽しそうだった?」
「うん。気づかなくてゴメン・・・何も出来なかったかもしれないけど、聞く事くらいは出来たのに・・・」
「いやいや気にしないで。乙女の悩みは男の子には秘密なの。」
とは言ったものの、どっちかって言うと気づかれたら拙いのよ。結局ばれなかったみたいだから、私の演技力もまずまずって言う所ね。
「あのさ、これからは僕に言っていい事なら・・その、遠慮しないで話してよ。・・それくらいの・・友情は・・あるつもりだよ。」
「ありがと。でも期待しないでね。」
「・・・やっぱり頼りにならない?」
この顔を写真に撮ったら、タイトルは「落胆」以外につけようがない。それくらい落ち込んだ顔だったけど、私の言いたいのは碇君が思っているような事じゃない。
「とすると、碇君は私が悩むのを見たいのかな?」
私は碇君の肩をぽんぽんとたたきながら、笑ってそう説明してあげた。
始めぽかんと言う顔をしていた碇君も、私の言いたい事を理解すると慌てて勢いよく首を振った。
「そ、そんなことないよ!ただ僕の言いたかったのはもしそうなったらっていう事であって、そうなって欲しいとかそう言う事は全くなくて・・・」
「分かってるって。ちょっとからかってみただけ。気持ちはありがたく受け取るわ。」
「あ、うん。」
「さしあたって良いの引けるように祈ってて。」
私はそう言いながら店の前まで歩み出て、店の人に代金を支払って、八角形の箱の中身をかき混ぜるように何回か振った。
(大吉大吉・・・)
そう祈りながら箱をひっくり返すと、一本細い棒が出てきた。
「83番」
私から棒を受け取った巫女さんは、後ろの巫女さんに先端に書いてあった番号を伝えた。そしてまるでそれが分かっていたかのように、後ろの人は迷う事無く選び出し、目の前の巫女さん経由で私に折りたたんだ紙を渡してくれた。
(さ〜て何かな〜)
「どうだった?」
私は一旦店の前の人込みから離れて、わくわくしながら折りたたんである紙を広げた。碇君も興味津々に、私の後ろから覗き込むようにおみくじを見ている。
「中吉!」
「良かったじゃない。」
ほっとしたようで、それでいて少しだけ残念な気分で私は更に文面に目を通した。正直難しい言い回しで分からない所もあったけど、要約すればこんな感じだった。
『健康運:無病息災、健やかなる一年をおくれるでしょう。』
『金銭運:多少の出費はありますが、それ以上の運に恵まれるでしょう。』
『学業・仕事運:日々の努力が報われる。計画性が肝要。』
『恋愛運:今年は人との縁が強くなる年。早目早目の行動が吉。』
確かにまずまずよね。少し『学業』が不安だけど変な事は書いてないし、今年は結構幸せに過ごせそう。
「この通りだといいね。ん?」
後ろに立っていた碇君が私の首筋近くに少し触れた気配がした。
「どうしたの?」
「綾波やっぱり運が良いよ。ほら。」
振り向いた私の前に差し出されたのは何と100円硬貨。
「多分後ろから飛んできたお賽銭じゃないかな。襟巻きの所に引っかかってた。」
(らっきー。これは新年早々幸先良いわ。神様ありがとう。)
喜んで100円玉を取ろうと手を伸ばしかけたんだけど、ふと気がついて手を引っ込めた。
「これあげる。」
「え?」
「幸運のおすそ分け。碇君あんまりついてないみたいだしね。」
「いいの?」
「もちろん。」
「・・・ありがとう。行ってくるね。」
私の言葉に碇君は迷ったみたいで、首を傾けて2・3秒考えてたけど、結局その硬貨を握り締めておみくじを買いに行った。
(さて、碇君は何を引くのかしら?いいの引けばいいんだけど、碇君の場合あんまり当てにならないって言うし、もしかして逆の方がいいのかも。)
入りやすい所を捜していたのか少しの間碇君は人込みの後ろをうろうろしていたけれど、そのうちその中に入っていった。
そして2分くらい経ってからようやくここに戻ってきた。
「ただいま。ありがたく使わせてもらったよ。」
「いいって。それより早く見せて。」
「あ、うん。」
私の言葉と態度に急かされるように碇君は急いで開こうとする。だけど慌てているせいか寒さで手がかじかんでいるせいか、その動きは見るからにぎこちなくて、私を焦らす事焦らす事。
ようやく開いた中身を見て、私は人事ながらがっくり来た。
「末吉か・・・」
「末吉ね・・・でも一応『吉』の内だしさ、悪いよりよっぽどいいじゃない。」
「・・・・・・この中身でも?」
必死のフォローをする私に、碇君は細かい文面の所を指差して紙を向けた。
『健康運:季節の変わり目に注意。こじらせると長引きます。』
『金銭運:質素倹約が吉。但し度が過ぎればそれ以上の物を失うでしょう。』
『学業・仕事運:思わぬミスが後々まで響きます。それ以外は順調。』
『恋愛運:待ち人来らず。機会を逃せば大変悔やむでしょう。』
これって本当に『吉』?どう見てもそうは思えないけど・・・
「ね?」
私の思いは表に出ていたみたい。碇君が同意を求めてきた。
「あはは、でもさ、これって悪い事先に教えてくれたんだし、気をつけてれば後は幸運って事でしょ?完全に悪いとは言えないんじゃない?」
く、苦しい。我ながらありきたりというか、取って付けたようなというか、説得力のかけらもないフォロー。
「・・・それを言ったら凶はなくなるよ。」
やっぱり碇君は意気消沈してしまった。確かにいっそ凶とかなら話しの種にもできるのに、末吉なんかでこれだけぼろくそにいわれたら、私だってブルーになっちゃうかも。
だけど碇君はすぐに立ち直った。但し私の予想とは違う形で。
「まぁ引いちゃったものは仕方ない。こんなのは大して関係ないよ。結局は僕の行動が大事なんだと思わない?。せめて悪運払いに破魔矢でも買って帰ろうよ。」
あらゆる悩みが吹っ切れたような明るい声で、珍しくポジティブな意見を碇君は述べた。
・・・もしかしてブレーカー飛んじゃった・・・のかしら?
「そうね。碇君買ってくれるんでしょ?」
良く分からないけどここは余計な事は言わない方が良いかもしれない。私は無理矢理笑顔を作って話を合わせる事にした。
「もちろんだよ。綾波のためなら1メートルの奴でも2メートルの奴でも構わないよ。父さんに貰ったこれもあるしね。」
碇君は自分の胸―コートの内ポケットの上だと思う―を自信満々で叩いた。
(やっぱりおかしくなってる〜。)
たかがおみくじ一つで、どうしてここまでなれるのか聞きたかったけど、今はそれどころじゃない。とりあえず元に戻さないとはっきり言ってコワイ。
「あ、あのさ、あの木の所で少し待っててくれる?ちょっと・・・」
私は少しはなれた木を指差しながら、わざともじもじして照れたような物言いで碇君に話し掛けた。
「どうしたの?・・・あ、うん。待ってるよ。」
碇君が何を考えたのかは想像はつく。わざわざそう思うように言ったんだもの。でも、良く考えたら普段の碇君なら気がつかないかも。
とにかく、今はお茶か何かを買ってきて落ち着かせないと。
二人で買いに行かなかったのは、今の碇君はどうも余計な行動をして話が進まない気がしたから。
向こうに歩いていく碇君に尻目に、私は少し戻って屋台の並びに小走りに向かう。
定番のお屠蘇とか甘酒とか売っていたけどそんな物は却下。お茶を扱っている所が意外と少なかったのは驚いたけど、とりあえず二人分買って、こぼさない程度に急いで戻った。
「何それ?お茶?」
戻った私を迎えた碇君の第一声がこれだった。その怪訝そうな顔を見れば、やはり考えている事は分かる。何でトイレ行ってた人間がすぐお茶なんて買ってくるのかって言いたいんでしょ。
「寒い所に待たせて悪かったと思って。」
「ああ、そうなんだ。ありがたくもらうよ。」
私の口からでまかせに言った言い訳を、碇君は何の疑いも無く信じたみたい。信頼されていると言えば罪悪感も湧くんだろうけど、今の碇君は普通じゃないし、イマイチそういう感情は起こらなかった。
私からお茶を受け取った碇君は、その熱い液体を一気に飲み干して、紙コップの縁から口を離す。
まだ一口しか飲んでいない私は、その光景に呆気に取られていたけど、少しは落ち着いたかという期待を込めて碇君の行動を注視していた。
「ふぅ・・・暖まったよ。ありがとう。」
私はコップに口をつけたまま、軽く肯いて更に様子を見る。
碇君は空を向き、一度大きく白い息を吐いた。その目はどこか遠くを見詰めているみたいだった。
その態度に嫌な予感はしていたけど、次の言葉に私は吹き出しそうになった。
「きれいな青空だね・・・まるで綾波の髪みたいだ・・・だとしたら、宝石みたいな瞳の赤も、空の向こうにあるのかな・・・」
何を言ってるの何を!碇君にはそう言う事は似合わないから止めて!
「はは・・・もう一杯どう?」
頭を抱えたくなる衝動を必死に押さえて、何とか落ち着かせようと私はコップを差し出した。
不似合いなくらいさわやかな笑顔を浮かべていた碇君は、表情は変えずに黙ってコップを受け取ると、今度はゆっくりと飲み始めた。
その光景を祈るような気持ちで眺める私だったけど、その時ふとある事に気がついた。
(これって・・・間接キス・・・よね・・・)
私の口を付けた所がどこかなんてもう分からないけど、とにかく一つのコップを共有したという事実の方が私には大事だった。
なんせ私は典型的な耳年魔。知識としてはいろいろ聞いているし、女の子同士でのその手の話も平気だけど、実体験は全くなし。正直遅れてるとさえ思う時がある。
「どうしたの?」
赤くなって俯いてしまった私に、碇君が声をかけた。
「・・・コップ・・・」
「コップがどうかした?」
私らしくもなく小声で答えたけど、碇君にはさっぱり分かってないみたい。
「間接・・・キス・・・」
後ろの方は自分でも聞き取れないくらいの小声だったから、碇君にも聞こえなかったみたいだけど、前半は聞こえたみたい。
「間接?・・・・・・え?」
コップと私を見比べる事数回、どうやら気がついたみたい。
今の碇君が次にどんな行動に出るか分からないし、私は思わず目をつぶってしまった。
どす、ずるずる。
だけど私の耳に聞こえてきたのは、文字にすればこんな感じだろう音。
おそるおそる顔を上げてみると、碇君が後ろの気にもたれかかって、そのまま崩れ落ちていく所だった。
「・・・え?ちょっと!」
予想外の展開に私は一瞬付いていけなかったけど、慌てて碇君の前にしゃがみこんだ。
今の碇君はボーッとして焦点が定まっていない。私との間接キスが碇君にとって、それだけショッキングだったという事なんだけど、果たしてこれはどう評価すべきなのかしら?
とはいえずっとこのままにいる訳にはいかない。碇君の頬をペチペチと叩いて意識を回復させる。
「碇君、碇君。」
「ん・・・綾波・・・?・・・どうして・・・」
意識は戻ったみたいだけど、まだ混乱してるみたい。
「道の真ん中でおみくじ開いて・・・なんで僕、木にもたれかかってるの・・・」
「は?覚えてないの?」
「うん・・・もしかして倒れたりしたのかな・・・迷惑かけてゴメン・・・」
「ホントに、ホントに何も覚えて無いの?」
「うん・・・僕・・・何かしたのかな・・・」
どうやら元の碇君に戻った。それはめでたい。
そしてあの事も覚えていないみたい。これも幸いだと思う。
だけどどうしてこんなに腹が立つのかしら?
ふつふつと心の奥底から沸き上がってきた衝動の赴くままに、碇君の両方の頬を思いっきり引っ張った。
「何はないでしょう、何は〜。」
「いひゃい。いひゃいよ。あにひはんあよ〜(痛い。痛いよ。何したんだよ〜)」
私は何を言ってるのか分からなかった事もあって、更に引っ張ったりつねったりし続ける。
とはいえ1分近くもやっていれば飽きも来る。碇君は抵抗しなくなったし、15歳の男の子の肌は別にいじっていて気持ちの良い物でもない。
「もういいの?」
「今の碇君には責任はないし、この辺で許してあげる。」
「やっぱり何かやったんだ・・・」
急に手を放した私に、碇君は頬をさすりながら再び目を落とした。
(マズイ、またブルーになられたら・・・)
「ほらほら、もういいって言ってるじゃない。おみくじ木に結びましょ。それに破魔矢買ってくれるの待ってるんだから。」
そう言って碇君の腕を取って無理矢理立たせる。ちょっと強引だけど何とかして意識を他に向けなきゃ。
「うん、そうだね・・・約束したもんね。」
(よしっ!)
自信なさそうにと言えば失礼だけど、碇君らしい態度に私はほっとして、そのまま私は碇君を引っ張っていった。
暑い。ひたすらに暑い。
肉体的な暑さはもちろんのこと、精神的にも暑くるしい事この上ない。
周りを見れば人、人、人・・・
来る時の経験で電車が込む事は予想もしていたし覚悟もしていた。だけど現実は悪くなる方には簡単に動く物で、それらの心構えはほんの10分で切れてしまった。
車内は来た時よりも更に人が多くなった気がする。どうもこれから帰る参拝客に加えて、どこか郊外に遊びに出かける人とか、乗換駅に向かう人とか、お昼近くになって外出する人が増えたらしい。
それが全員厚着をして、しかも車内には暖房が入っているからたまらない。経験してみないと分からない苦労だろう。
綾波は僕がお詫びの印として買った、結構立派な破魔矢を折れないように抱きかかえて、丁度僕の胸に押し付けられるような格好になっている。
これはぎゅうぎゅう詰めの電車だからあくまで不可抗力の事態。それに抱き着かれてる訳でもないし、破魔矢を抱きしめる腕が支えとなって完全に密着している訳でもない。それでもアスカと言う例外を除いて、ここまで近くに女の子を感じた事はない訳で、僕の体感温度は多分他人より高かったと思う。
その事は綾波にしてみれば嫌かもしれないけど、僕にしてみれば勝手かもしれないけど唯一の幸運と言ってもいい。大体今更姿勢を変える事は不可能なんだから・・・
「んっ」
「大丈夫?」
電車が大きく揺れるたび、人の壁が傾いて僕達を押しつぶす。僕も苦しいには苦しいけど、やはり女の子には辛いんだろう、かなり我慢するような声が時折聞こえる。
「まだ何とか。」
「次で一回降りようか?無理しない方がいいよ。」
「だいじょーぶだって。今降りたら次はもっと混むだろうし。」
「でもまだ後30分あるし・・・」
「丘公園で減るでしょ。後20分弱よ。」
ここまで言うんなら、僕には無理矢理降ろす事はできない。綾波の場合、アスカと違って駄目なら駄目って言うと思うし、今すぐどうこう言うほど顔色も悪い訳じゃない。
「分かった。」
僕はそれだけ言うと視線を外した。会話したくなかったわけじゃなくて、はっきり言って僕もそれほど余裕がある訳じゃない。耐えるのにかなりのエネルギーを費やしていたのでそういうぶっきらぼうな態度になってしまっただけなんだけど。
それでも僕なんかは元々口数が多い訳じゃないし、多分他人から見たら変わらないと思われるんだろうけど、あのおしゃべり好きの綾波がほとんどしゃべらないと言う事には心配させられる。先月綾波が風邪を引いてお見舞いに行った時さえ、病人とは思えない勢いで喋りまくっていたのに。
『乗客の皆様、本日は車内大変込み合っておりましてご迷惑をおかけしております。次は〜新議事堂前〜新議事堂前〜。』
(謝ってないで何とかしてよ!)
(降りなくて大丈夫だろうか?)
そのアナウンスに僕は同時に二つの事が頭に浮かんだ。
顔を横に向けて、綾波の横顔を見てみたけど、変化と言えば暑さのせいだろう顔が少し赤くなっている事くらいしか見当たらなかった。
「ん?な、何?」
僕が見ているのに気が付いたのか、綾波も僕の方に顔を向けた。
「大丈夫だって。碇君の方こそ我慢できないんじゃないの?」
「僕そんな顔してる?」
「少し辛いってところかしら。」
別の意味で辛いっていうのは自覚はしていたけど、心配してるつもりがされるような顔になっていたとは自分が情けなくなる。
「そんな事ないよ。楽じゃないけどね。ただ綾波が黙ってるなんて普通じゃないなって・・・」
「喋ってないと変って事かしら?」
「変って訳じゃないよ。ただ余裕が無いのかなって。」
「・・・ん〜50点。間違いじゃないんだけどね。」
「厳しいね。」
「まあね。所でこうしてみると・・・」
「みると?」
「いつのまに私より背が伸びたの?春の時はほとんど同じだったのに。」
「ほんとだ・・・」
言われてみて初めて気が付いた。僕の視線を水平にすると、綾波の額の上の所にあった。お互い真っ直ぐ立っている訳じゃないから不正確だけど、明らかに僕の方が身長が上だと言う事には間違いがなさそうだ。
「おじ様大きいもんね。いくつあるって?」
「190ちょっとあるとか言ってた。」
「おば様も60はあるし、やっぱりまだまだ大きくなるわよ。」
「そうだね。やっぱり70は欲しいし・・・」
「志が低いわねー。私としては80は欲しいわね。」
「80って180センチ?綾波が?」
「あのね、そんなはずないでしょ。私は70くらいが理想だけど無理みたい。親戚みーんな大きくないから。」
「ふ〜ん・・・だったらなんで僕に80欲しいの?」
「え?いや、それは、そうじゃなくて、男の人にはそれくらい欲しいな〜っていう一般論よ、一般論。」
そういうことか。別にそんなに慌てるような内容でもない気がするけど。
(でもそうなんだ。やっぱり綾波も背の高い方が好みなのか。)
同時にそうも思った。綾波もまさか外見だけで判断するとは思わないけど、外見の重要性は無視できない。偏差値50は難しいか・・・
そうこうしている内に電車はその速度を落とし始めた。
『新議事堂前〜新議事堂前〜。皆様お忘れ物のなきようお気を付けください。新議事堂前〜』
アナウンスが流れると、窓の外には駅のホームが流れて行く。そしてブレーキ音が高くなっていき、しばらくして電車が完全に停止した。
プシュ〜
空気の抜けるような音と共に扉が開く。
それと同時に涼しい空気が車内に流れ込んできて、僕達にはつかの間の休息を与えられた。
これで人がいなくなってくれれば万々歳なんだけど、元旦にこんな官庁街で人の出入りが多い訳はない。
とは言えこれだけ電車に乗っていればそれなりの人がいるもの、一部の人が降りようと人の流れを半ば強引に生み出した。
「と、ちょっと、とと・・・」
そしてどうやら綾波はまたもやそれに巻き込まれたようだ。運の悪さにおかしくなったけど、僕はとりあえず綾波の腕を取って流されないようにはしてあげた。
だけど綾波は思いのほか強い力で向こうに引っ張られて行く。綾波が後ろ向きに移動している所から考えて、どこか引っかかっているんじゃないだろうか?
(ゴメン!)
掴んだ腕が予想以上に細かったので一瞬躊躇したけど、心の中で謝って、僕は綾波の腕を流れに負けじと引っ張った。
すると綾波の方も丁度その時になってようやく自由を回復したのか、つんのめりそうになりながらこっちに戻って来た。
「あ、ありがと。」
「いいよ。無理矢理引っ張っちゃったけど痛くなかった?」
「なんとか。」
「良かった。でもまた帯?」
「そ。なんか良く引っかかるのよねー。高さが丁度あってるのかしら?きゃっ!」
そんな話しを続ける僕達だったけど、再び強烈な圧力によって現実に意識を戻された。どうやら降りたのと同数かそれ以上に人が乗ってきたらしい。
「後2駅だね。」
「次まで確か8分だから、とりあえずそこまでの我慢我慢・・・」
「・・・でも帯は大丈夫なの?ほどけたりとか。」
「多分大丈夫とは思うけど・・・もしかして期待してる?」
「そ、そんな訳ないじゃないか。」
綾波の冗談(だと思う)を慌てて打ち消し、僕は次の公園前駅の事を思い浮かべた。この位置だと嫌でも一度降りなきゃならないとは思うけど、二度ある事は三度あるって言うし、多分綾波はまた流される。流されるだけならいいんだけど、着物がどうにかなったらさすがにマズイ。
(どうか何事も起こりませんように。)
僕はそう願わずにはいられなかった。
碇邸―
ここは普段のままだった。
大きな南向きの窓ガラスは、少ない冬の日光を出来るだけ取り込もうとするように透明でいたし、一月ちょっと前から再び動き出したエアコンは、ほとんど気が付かないくらいのファンの音を立てて稼動している。
目付きの悪い大柄な亭主は専用の椅子に座って新聞を読んでいる。
その年齢を感じさせない妻は小さく鼻歌を歌いながら洗い物をしている。
そして子供はソファーに座って煎餅をかじりながらテレビを見ている。
全くもって碇家は普段通りであった。
もし普段と違う点があるとすれば、些細な事だが、子供が女の子だった事くらいだろう。
「おじさま、シンジ達どこに行ったんですか?」
先ほどから言おうか言うまいか迷っていた少女は、自然な調子で、あくまでもさりげなくゲンドウに切り込んだ。
(ふ、だいぶ気になっているようだな。もう少し焦らしてやろう。)
大人げ無い事を考えて、ゲンドウは悠然と新聞を降ろすと少女の方を睨み付けるような視線で見つめた。
「初詣でとしか聞いていない。どこの神社か、それ以外にどこに行くのかも聞いていない。・・・アスカ君も分からんか?」
「ええ・・・大体は見当が付くんですが・・・」
落胆して、アスカはその青い瞳を再びブラウン管に向けた。
(シンジだけなら分かるんだけどね。不確定要素が一緒だから・・・)
アスカの内心はこんな所である。
アスカは自分が袖を通している振り袖を持ち上げて、ため息一つついた。
帯は美しい青、生地は正月にふさわしい明るい赤を基調としている。モデルも申し分なく、少女から女への脱皮の時期と言う限られた時間の美しさは、同年代の少女と比べても群を抜いていた。
(それもこれも冬月の叔父様がいけないのよ!)
思わずにはいられない。
大晦日にふらりと現れた叔父は人格的にはまず問題はなかった。だが酒が進み、大人達が酔っ払うにしたがってアスカにも被害が及ぶ事になった。
3人家族の家庭に存在する事自体不思議なのだが、とにかく4人揃ったと言う事でいきなり年越し麻雀大会が開かれる。
アスカも始めは早く抜ける事ばかり考えていたが、元々勝負事には熱くなるタイプ、その内大人以上の熱意でゲームを進めていった。
とは言えアスカも中学3年生。徹夜などめったにしない事もあり、明け方には見事に夢の国へ招待される。
そして目を覚ましたアスカが、自分の乗りやすさを後悔しながら碇家に現れたのが11時過ぎ。初詣での話を聞いた時、自分にのしかかる後悔の重りが増えるのを自覚せずにはいられなかった。
その意味ではあながち冬月のせいとばかり言えない事は自覚しているのだが、それではとても納得が行かなかった。
(シンジもシンジよ。レイ言う事何の疑いもなく聞いちゃってさ。電話の一つもよこさないなんて。)
これには少し誤解がある。レイは嘘を付いていない。事実は確かにインターホンは鳴らしたが、あいにく壊れていたため室内には聞こえなかったのである。シンジもたまの家族旅行と言う予測がそれらしかったので電話しなかった訳で、決して悪意があった訳ではない。
とにかく、シンジと初詣でに行こうと晴れ着まで用意したアスカの熱意が空回りに終わった時、「待ってたら?」というユイの勧めに深く考えもせず乗ってしまい、本格的にシンジが帰ってくるまで帰れなくなってしまった、というのが現状である。
「ごめんなさいね。シンジったら携帯持って行くの忘れたみたいで。」
ユイがそう言いながら台所から出てきた。
「いえ、気にしないでください。」
「ありがと。元旦からお店もあんまりやってないでしょうし、そんなにかからないと思うわ。」
(もしかして確信犯じゃないかしら?)
ユイはそう考えないではなかったが、アスカの手前口に出す事は避けた。息子にガールフレンドができそうと思えば親として一抹の寂しさと共に大きな嬉しさがあるが、その候補の事を考えれば可哀相にもなる。口をだそうとは思わないが、出したくなる気持ちまで押さえる事はできない。
「ええ、そうですね。」
一方アスカはユイの予想に賛同する。
(シンジなら真っ直ぐ帰ってくる。レイが誘っても元旦はほとんどの遊び場が閉まってる。外は寒くて長時間はいられない。レイも晴れ着だそうだしそんなに動く事はできない。おばさまの言う通りね。)
そう結論づけるとアスカは少し安心して、目の前の机においてある煎餅を手に取り口に運ぶ。
その煎餅をかみ砕こうとするのを止めたのは、碇家自慢のダイヤル型プッシュホン式電話の電話の音だった。これは穴に指を引っかけてダイヤルを回すのではなく穴を更に押すと言う物だが、始めて来た人間は必ず引っかかる。これを設置したゲンドウの性格の一端を示す物であろう。
「はいはい。」
ユイがいそいそと電話の所に向かい、受話器を持ち上げ耳元に当てた。
(そろそろ12時か・・・だとすると)
「おそらくシンジだな。」
新聞に目を通しながらゲンドウがつぶやく。外出時には食事が必要かどうか連絡を入れるという、碇家の掟がそう判断させた。
新聞の端からちらりとソファーを見れば、煎餅を咥えたまま電話に聞き耳を立てているアスカの姿があった。
(可愛い物だ。だが、機会があれば遊ばせてもらうぞ)
聞きようによっては誤解を招きかねない思いを抱きながら、ゲンドウもまたユイの対応に聞き入っていた。
「もしもし碇です。」
「シンジ?今一人?」
(やはりシンジか)
(やっぱりそうね)
アスカとゲンドウは同じことを考えた。そして更に聞き耳を立てる。
「違う?そう。今ね、アスカちゃんがね。」
「そんな事はどうでもいい?あなたねぇ。」
(このあたしを『そんな事』ですってぇ〜)
これでシンジの帰宅後の運命は決まったような物だ。アスカの手に力が入る。
「聞きたい事?何、着付けの仕方?ちょっとあなた!今どこにいるの?」
ばきっ
ゲンドウがその音の方に目をやると、予想通りアスカの姿があった。
ばりばりと煎餅をかみ砕いているが目が恐い。
(まるで夜叉だな。だが面白い。)
「着付けなどホテルのサービスでやっているのだがな。あるいは外か。」
微妙な表現で、ゲンドウはアスカに聞こえるように呟いた。
ばりばりばりばりばりばり
隣から咀嚼音が聞こえてくる。
(ふ、言いたい事があるのだろう?だがアスカ君の性格ではそれは口にする事はできない。それを煎餅で誤魔化すか・・・)
思わず緩む頬を新聞で隠し、ゲンドウは邪悪な満足感に浸っていた。
もっとも、ゲンドウ自身がその言葉を信じている訳ではない。あくまでアスカをからかうためだけの言葉だ。
(シンジには興味はあっても未だその覚悟はない。)
そう思っている。
「なんだ、駅なの。・・・いいのよそんな事は。で、今どうなっているの?」
果たしてその通りであった。アスカは幾分ほっとしているようで、落ち着くためだろうかお茶に手を伸ばしている。
「どうしたのだ。」
当初の目的を一応達成したので満足し、ゲンドウは当面の課題を片づける事にした。さも何も知らないかのように、受話器を握るユイに問いただす。
「ちょっと待ちなさい。シンジからなんだけど、レイちゃんの帯がほどけちゃったみたいなの。とりあえずシンジのコートかぶせてるみたいだけど。」
「そうか、今駅なのだな?貸してみろ。」
席を立ち、ユイから受話器を受け取ると自分の耳に当てた。雑踏のせいか良く聞こえないが、向こうでは何やら話しているように聞こえる。
「シンジ。私だ。」
『父さん?帯の結び方教えてくれないかな。綾波のがほどけたんだ』
「それは聞いた。シンジ、お年玉の袋はまだ持っているか?」
『え?・・・うん、まだあるけど・・・』
「中に私の名刺が入っている。駅ビルの写真館まで行け。それがあれば予約が無くても大丈夫のはずだ。場所は聞くなり何なりしろ。」
『でも綾波が・・・』
「大した距離ではない。コートでうまくやれ。」
『ちょ・・・』
そう言うなり電話を切ってしまった。
「ふん。世話を焼かせる奴だ。」
(これであいつも父親の威厳と言う物を再認識するだろう。)
こちらの目的も達成できてゲンドウは満足だった。知らない人間が見れば、社会に対する悪辣な陰謀を企んでいると思われそうな笑みを浮かべながらゲンドウは席に戻る。
「ご苦労様。」
ユイもそう言って出迎えて、と言うほどの事でもないがにこやかにお茶を入れ直した。
「ああ。」
(ユイも私の深謀遠慮に惚れ直したようだな。)
態度はぶっきらぼうだが、ますますゲンドウの機嫌は良くなる。彼にとって今年の一年は幸先の良い物であった。
碇君が受話器を見つめている。
見てもどうなる物でもないんだから、多分話の途中で切られたんじゃないかしら。相手はおじ様みたいだったけど・・・
でもそれはほんのちょっとの間。
すぐに受話器を元の場所にかけて、壁際の私の所に戻ってきた。
「綾波動ける?」
「うん。何て?」
「このビルの中に写真館があるからそこへ行けって。」
「そっか・・・写真館なら着付けもしてるだろうし・・・でも予約はいいのかな?今頃いっぱいだと思うけど。」
「何か父さんの名刺出せばいいみたいな事言ってた。」
「そう。」
「落ちない?」
「たぶん・・・ね。」
その点に関しては自信が無い。碇君に借りたコートのおかげでぐちゃぐちゃになりかけた晴れ着を人に見られずに済むけど、かなりかさばる着物を落とさずに歩けるかどうか・・・
今はトイレで適当に締め直した状態なんだけど、これって結構押さえる手が疲れるのよ。ここに来るまでで握力の半分近くは使った気分。
でも、それこそ動かなきゃどうしようもないのよね。碇君にはできないし、出来たとしてもまさかこんな公衆の面前では出来るはずもない。もっともそれ以前に、「僕に任せてよ」なんて言われたらなんて答えればいいのかしら。
「とりあえず行きましょ。あそこに案内所もあるし。」
ほんの数十メートル先の太い柱に「案内所」と大きく書かれた看板が見える。その下には紺色の帽子と制服を着た女の人がカウンターの向こうに座っていた。
「それより僕が聞いてくるよ。あんまり動かない方がいいだろうし。」
「うん、分かったわ。待ってる。」
「すぐ戻ってくるよ。」
そう言って案内所に駆け出していった。
碇君の心遣いには凄く感謝。ぱっとしない碇君だけど、アスカもこういう所が良いのかしら?良く考えたら、タクシーに私を放り込んでも良かったのよね。家まで遠いから幾らかかるか想像したくないけど、多分一番楽で確実な方法だと思う。
果たして碇君が気づいているのかいないのか。確率的には気が付いてない方が強いけど、一生懸命になってくれるのに水さす訳にも行かないし黙ってますか。それに悪い気分でもないし。
そんな訳で、しばらく私は碇君の動きを黙って(喋ってたら余計変だけど)見ていた。
笑いたくなるくらいオーバーアクションな所もあったけど、数分もしない内に帰ってきた。
「待たせちゃってゴメン」
他人のために動いておいて、普通いきなり謝るか?
「いいのよ、そんな事は。で、何階だって?」
「5階の端、北口のエスカレーターから上ったらすぐ側だって。」
「じゃ、行きましょ。」
「うん。気を付けてね。」
「分かってるって。」
北口のエスカレーターまで大体200メートルくらいかしら?それくらいは私の握力と集中力も余裕で持ってくれるとは思う。
と思ったけど、これが結構大変だった。
一階っていうのは人が多い。これをかわすのに余計な動きが必要とされる。
そして着物に男物のコートって言うのは異常に目立つ。非常事態だから仕方ないんだけど、このミスマッチのせいでどれだけ目立った事か。
更に時折聞こえる碇君のくしゃみ。私にコートを貸したせいでトレーナー姿になっている訳で、そのくしゃみは私の罪悪感を刺激するのに十分な効果を発揮した。
というわけで、何とかエスカレーターの所までたどり着いた時には、思わず安堵のため息が出る位になっていた。
エスカレーターに乗る人は少ない。どうやら駅ビルのほとんどの店も元旦くらいは休みになるみたいだった。確かに写真館みたいに、お正月とか休みの日が書き入れ時っていう方が少ないのかもしれない。
「5階・・・」
(へぇ・・・こういう顔も出来るのね・・・)
真剣な眼差しで上を見ながら、そう呟いてエスカレーターに乗った碇君を見て私はそう思った。笑ってたり困ってる顔ならいつも見てるんだけど、良く考えると真剣な表情は見た事があったかしら?
普段は何でも出来るアスカがそばにいるし、なんとなく周りの人間がいろいろやっちゃうから、そんな機会は少ないのかもしれない。
(意外といい顔よね・・・ってナニ考えてるのよ!ダメダメ!)
何とはなしに浮かんできた思いを私は即座に打ち消した。それに今はアクシデントのせいで少し不安になってたんだろうしね。
「どうしたの?」
「え、何でもないのよ気にしないで。早く上行きましょ。」
頭を振る所を見られてしまったみたい。碇君はきょとんした顔で私を見下ろしている。ホントの事は口が裂けても言えないし、私は慌てて誤魔化した。
「ならいいけど・・・」
明らかに釈然としない様子だったけど、特に何を言うでもなく、碇君は2階から3階へのエスカレーターに乗り換えた。
私もそれに続いて乗り換える。
3階・・・4階・・・
多分さっきの不自然な私の態度のせいだと思う。時折後ろに付いてくる私を確認するかのように碇君が振りかえる事もあったけど、取りたてて話す事もなく、只上へ上へと上っていった。
5階。
僕達がエスカレーターを降りると、確かにすぐ右手奥に「井上写真館」という文字が飛び込んできた。普段なら目立たないかもしれないけど、今日はほとんどの店がシャッタ−を降ろしていたから、光の灯っている店というのは凄く目立つ。
「ここみたいだね。」
「うん。混んでない?」
綾波の疑問は僕も持っていたので、僕達は扉の前まで近寄ってみた。
扉自体は木で出来ているみたいだったけど、その左右は茶色のガラスで出来ていたのでうっすらと中の様子が見る事が出来た。
「やっぱり混んでるね・・・」
「でも別の所に行くのは大変でしょ?」
綾波の呟きは僕も言いたかった事だけど、ここまで来たら多少時間がかかっても直してもらうしかない。
疑問形で尋ねはしたものの、僕はここで数時間待つくらいの覚悟は出来ていた。
「まあね。とにかく聞いてみましょ。」
「・・・?」
扉のすぐ前に立ち、聞こうと言い出した綾波が動かない事に、僕は一瞬訳が分からなくなったけど、すぐにその理由に思い当たって赤面した。
(綾波は両手がふさがってるんじゃないか。)
全くなんで僕が破魔矢を二本も持ってここまで来たんだか。綾波は帯だか着物だか押さえるために両手を使っているので、当然ながらドアの取っ手に手をやる事など出来ない。
「ゴ、ゴメン。」
慌てて取っ手を手に取りドアを押した。
「ナイト役としては失格かな。」
うう・・・綾波の冗談が耳に痛い。扉を開けるとカランカランと言う音がしたけど、まるでそれが試験落第の合図のように聞こえてしまった。
「いらっしゃいませ」
扉を開けると迎えてくれたのは、若い女の店員の声と冷え切った外とは対照的な暖房の効いた暖かい空気、それとずらっと椅子に座った10人以上の女の人達の姿だった。
(もしかして全員待ってるのかな・・・)
もしかしても何も当然そうに決まっている。
突然来店した僕達に向けられる視線は、冷静になって考えれば単に反射的な物なんだろうけど、驚いた僕にとっては乱入者を見る、非好意的な物に見えてしまった。
だからまるで逃げるように視線をカウンターに戻した僕は、つかつかと店員の前まで歩み寄って用向きを伝えた。
「あの、彼女の着付けをお願いしたいんですけど。」
視線は店員に向けたまま、僕の後に付いてくる綾波の姿を手で指す。
「お客様はご予約なさっておりますでしょうか?」
「いえ・・・」
「でしたら申し訳ございませんが、今日は予約でいっぱいになっておりまして。」
「じゃあ、ここで待ってる人は?」
僕の隣に来た綾波が尋ねる。
「皆様撮影をお待ちになられているんです。ですが先生は何度も撮り直しをなさりますので予定時間がどうしてもオーバーしてしまいまして。」
今まで営業スマイルを浮かべていた店員が少し困ったような顔をした。正確には表情は変わらなかったけど、困ったような光をその茶色の瞳にたたえた。
「着付けだけって言うのは無理なんですか?」
「申し訳ございませんが、当店ではそのようなサービスはご提供しておりません。」
僕の質問に、店員は内心どう思っているかは別として、凄く困ったような顔で丁寧に頭を下げた。
いくら客相手とはいえ、ここまでされると正直僕は「そうですか」と言って出て行きたくなる。
(あんまりこういうの好きじゃないんだけど・・・)
けど、ちらりと横を見れば綾波も困ったような顔をしている。
ここまで僕が引っ張ってきたのに、今更引く事なんて出来ない。僕の美学には暫くタンスの中で眠ってもらうとして、僕は懐に手を入れた。
「えっと・・・これをお見せすれば大丈夫と思うんですけど・・・」
懐からお年玉袋を取り出して、中から父さんの名刺を取り出し店員に差し出す。
何度か見た事のある名刺。初めて見せてもらった時は、美術の教科書に載っている前衛芸術の絵かと思ったイラストの紙に父さんの名前が書いてある。普通の名刺とは違い、役職とか会社名とかは書いていないけど、インパクトだけは十分あると思う。
もっとも、僕もこういう形で名刺を使うのは始めてだから、かなり緊張したけど、使命感と言うか義務感が躊躇する気持ちよりも大きかった。
「暫くお待ちください。」
こういう事が結構多いのか店員はなんの驚きも見せず、両手で僕から名刺を受け取ると、奥の部屋に消えた。
「どうかな?」
「父さんの人脈に期待しよう。」
不安そうな綾波の声に応えるために、敢えてお気楽な口調でそう言ったけど僕自身そんなに期待している訳ではなかった。外資系の所長だか部長と聞いた事があるから偉くなくはないんだろうけど、果たしてこんな事にまで使えるような人脈を持っているのかどうか。家でのイメージからは全く期待できなかった。
そして、一分もしない内に店員は戻ってきた。今度は男の人を連れて。
「店長の井上でございます。失礼ですがお客様、この名刺をどこで?」
その男の人は50代くらいで細面、頭のてっぺんの髪のほとんど無い人だけど、僕としては温和な表情の中に不似合いな、その鋭い眼光が妙に気になった。
「あの・・・父から貰ったんですが、駄目でしょうか・・・」
その目を見て、もしかして逆効果だったんではないかと思って思わず首をすくめて自信の無い言い方になってしまった。
「と、申されますとお客様はあの碇ゲンドウ氏のご子息で?!」
「はい。それが?」
「あの」という言葉の調子に少し疑問が湧いたけど、思いもよらず相手が驚いた感じだったのは意外だった。
「これは失礼しました。キミ、E室で撮影の準備。このお客様からの要求は最優先で。」
「ですがE室は既に予約が・・・」
「それは後にまわす!早くしたまえ!」
その強い調子に、店員は分かりましたと答えて再び後ろに去って行く。
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
僕も綾波もただ呆然とする以外何も出来なかった。僕としては列の最後尾に混ぜてもらえれば御の字くらいにしか考えていなかったし、綾波だってここまで劇的な効果は予想していなかっただろう。
「さ、こちらへ。」
妙に低姿勢で僕達を促す店長の声で、僕はなんとか我に返る事が出来た。
「あのっ、お忙しいみたいですし、彼女の着付けだけでいいんですが・・・」
「とんでもない!ゲンドウ氏のご子息を粗略に扱う訳には参りません。ささ、どうぞこちらへ。」
僕と綾波は顔を見合わせた。僕の言った事は本音だったけど、言ってない事もあったから。
昨日だったか一昨日だったか、テレビで着付けサービスが3万円と言っていた事を僕は覚えていた。その時はレンタル料と髪のセット料も含んでいたけど、ちゃんとした写真を撮ろうものならその位にはなってしまうかもしれない。
入り口で値段を確かめなかったのが不覚と言えば不覚なんだけど、父さんから貰ったお金があるとは言え、それをいきなり大部分消滅させる事はしたくなかった。
おそらく綾波も同じ事を考えていたんだろう。でも綾波は僕なんかよりもっと直接的だった。
「いえ、持ち合わせがそんなに多くないので。」
「そういう事でしたらお代は結構です。昔ゲンドウ氏には散々お世話になりましたから。せめてもの恩返しと言う事でいかがでしょうか。」
正直言って父さんを見直した。昔とはいつの事かは分からないけれど、ちゃんと人に感謝される事をしてたなんて思わなかった。
と同時に、ここまでしてもらって良いのだろうかという思いも抱く。
ただでさえずるしてるような物なのに、ここまでしてもらうのは間違ってるんじゃないだろうか?父さん本人ならともかく、只息子であるというだけでこの待遇は、すんなり納得できる物ではない。
「どうする?」
思考モードに入りかけた僕は、綾波の声で現実に帰った。
すっかり忘れていたけど、綾波はまだ僕のコートを羽織っていた。つまり暑いは動きにくいは恥ずかしいはで大変である事は間違いない。その姿を見て僕も覚悟を決めた。
「じゃあ、お願いします。行こ、綾波。」
店長と綾波にそう告げる。
(皆さん済みません。)
周囲の冷たい視線には気が付いていたけど、ここは僕の我が侭を通させて貰った。今年はまだ364日半あるんだし、悪い事なら罰は当たるだろう。それよりも綾波を何とかする方が僕には重要に思えた。
店長はそんな僕の返答に満足そうに肯くと、先導するように奥へと進み始めた。
「ではお客さまはこちらへ。」
僕達を少し奥に案内した店長だけど、とある部屋の前で立ち止まり、扉を開いた。
中にはいろいろな晴れ着やら白無垢、それに女の人達がいた。そこから考えると、どうやら女性の更衣室らしい。
「じゃあまた後で。」
「うん。また後で。」
見送る僕があげた片手を、綾波はリレーでタッチする時のように軽く叩いて中に入っていった。
やっと安心したのか久々に憂いの無い笑顔だった訳で、それだけでも父さんに感謝したくなった。
「で、お客様もどうですか?」
「は?僕・・・ですか?」
閉まった扉の外で待つつもりだった僕は、店長の言葉に驚かされた。
「左様です。それぞれお一人のお写真と、御一緒のお写真でいかがです?もちろんお代はいただきません。」
この提案は凄く魅力的だった。ケンスケという友人がいるせいか、写真を取られる事には抵抗はないし、綾波に聞いてみないと分からないけどツーショットの写真が撮れるかもしれないし、そうでなくとも記念写真にはなる。最大のネックがお金の事だったんだけど、それも心配ないようだった。
「・・・それじゃあお願いします。」
店長は僕の答えを聞き終わるかどうかという内に、先ほどの隣の部屋の扉を開けた。
「こちらが更衣室になっております。その後は係の者がご案内いたしますのでご心配なく。」
「えと、失礼します。」
そう言われて僕は部屋に入った。
部屋は結構広くて30畳くらいあるかもしれない。中には男の人が2人いていろいろタンスが並べてある。一方の壁際には全身鏡と鏡台が二つずつあった。
「イーワ、サン、ショウ。頼むぞ。」
「分かりました。」
扉の外に立つ店長の言葉は、僕には意味不明な物でしかなかったけど、中にいる二人には分かったみたいだ。多分暗号みたいな物なんだろう。
「では後程。」
店長は一礼するとそっと扉を閉めた。
「こちらへおいでください。」
そして更に部屋の中にいた年配の人からも声がかかる。
(僕は髪を直すくらいだから、少し待たされるかも。)
そんな思いが浮かんできたけど、待合室で待っている人達からすれば贅沢な思いだと怒られるだろう。
「はい。」
それに別段根の深い心配という訳では全く無かったので、僕は素直に呼ばれるままに店員の方に向かった。
「どうかなされました?」
店員さんがあたりを見回していた私に気が付いたみたい、スマイルしながら私に声をかけてきた。
「いえ、友達はどこにいるのかなと思いまして。」
「お連れの方なら先に部屋に行かれております。」
「あ、そうですか。」
途中どこかと連絡してたのはその事だったか。
碇君は待合室にいるかとも思ってたんだけど違ったみたい。「また後で」って言ってたから先に帰ったとは思わなかったけど、せっかくきちんとしたんだもん誰かに見て貰いたいじゃない。
写真を撮るんだし、着付けをして、セットを整える位は予想していたけど、まさか化粧まで丹念にしてもらえるとは思っていなかった。
私は普段リップ程度しか化粧品を使わないし、まして他人にやってもらった事なんて無いから、何かくすぐったくて変な感じだったけど、結果は上々自分の意外な一面を見た気がした。
私が納得したのを確認したのか、店員さんは別の部屋に向かって再び歩き出す。
私も黙ってそれに付いて行く。
決して明るいとは言えない廊下を歩き、いくつかの部屋を通り過ぎ、すれ違う人もいなかったから、一瞬このまま別の世界に連れて行かれるような感じもしたけど、当然そんな事はなかった。
廊下の突き当たりで店員さんは立ち止まった。その壁には扉がある。
「こちらです。」
一度振り返って私にそう言った店員さんは、ドアノブに手をかけゆっくりとまわし、静かに扉を開けて、私を中に促した。
中に入ってみると、広さは大して広くはなくて、薄暗くて、コンクリートむき出しの壁がうす寒かったかった。ただ写される人が座るんだろう椅子を中心とした場所には晧晧とライトが当てられ、唯一暖かそうな感じの場所となっていた。
そこまでは一応想像の通りだったんだけど、ただ一点、驚いた事があった。
「碇君?」
椅子に座っているのが碇君なのには驚いた。
始めは服も違うしイマイチ確信がなかったけど、こんな近いのに間違うはずもない。これでも私は両目2,0なんだから。
(碇君も撮ってもらう事にしたんだ・・・でも羽織袴はあんまり似合わないわね。)
失礼ながらそう思ってしまった。
紺色の羽織にライトグレーの袴は定番の色なんだろうけど、碇君童顔だから落ち着いた服と少しギャップがある。おじ様なんかだと逆に似合いすぎちゃって「組長」と言いたくなるんだろうし、この親子足して二で割ると丁度良いのかもしれない。
「彼女に見とれるのは後にしよう。」
「え、はい、じゃなくて・・・分かりました。」
碇君も私に気が付いたみたい。顔をこちらに向けたけど、それをカメラマンのおじさんに注意された。碇君は慌てて顔を正面に戻して、また目だけこっちにむけて、そしてもう一回前に戻した。
言いたい事は大体想像付くから後でからかってあげるとしよう。
(そう言えばカメラマン、店長じゃないのね。)
私はてっきりそうだと思っていてたど、確かにこんな何部屋もあるお店だったら二足の草鞋は履けないわよね。何人か専属のカメラマンがいるんだと思う。
この人は見た目は30代半ばの精悍な山男って言う感じなんだけど、実際の所見た目ほど恐くはないのかもしれない。写真家が相手怖がらせちゃ仕事になんないだろうし。
「じゃラスト一枚行くよー、あご引いてー、あ、引きすぎ、よし、笑ってー」
瞬間フラッシュがたかれ、私も釣られて瞬きをしてしまう。
「ハイ、お疲れ様ー」
そのカメラマンの声と同時に、碇君は立ち上がって一回背伸び。額の汗を袖でぬぐいながら、中央の段から降りてこちらに歩いてきた。
「良かったじゃない。元に戻って。」
「おかげさまでね。それよりどうしたのそのカッコ。」
「はは・・良くわからない内に着せられちゃってね・・似合わない?」
「可愛いわよ。」
「はぁ・・・それが中三に対する言葉?」
碇君もあまり似合っているとは思っていなかったのだろう、妙に演技がかった言葉で苦笑していた。
「気にしない気にしない。で、御感想は?」
「感想って言えば・・・」
碇君は何かを確認するように後ろを向いて、次に私の耳元で囁いた。
「あのカメラマン注文が多いから覚悟した方が良いよ。」
げ。向こうもプロだし自分の作品に対するプライドっていうのはあるんだろうけど、長引くと疲れるしあんま歓迎は出来ない。
そのカメラマンは何やら丹念に準備をしているけど、その念入りさがこれからかかる時間を予感させていささか憂鬱になった。ただでさえ今日は悪い予感は当たる日だし・・・
そしてすべからくしてその予感は的中した。
「膝を後10度右に、いや行きすぎ3度戻して。」
(分度器持ってきて!)
「視線は少し上向きに、あの非常灯のサインを、手の所じゃなくて頭の所。」
(同じじゃない?!)
「指先は閉じて両手は重ねてももの上。逆、左手が上。」
(どっちでもいいでしょう!)
「もう少し左に座って、あ、肩の位置はずらさないで。」
(出来るか〜!)
万事この調子だった。
タダだし割り込んだんだし文句は言える立場じゃないので我慢を重ねたけど、おそらく後3分続いたら私は切れていたに違いない。
幸運にも1分53秒ほどで最後の一枚が撮り終わったので、カタストロフは避けられたけど、その時には精神的にクタクタになっていて、怒る気力すらもてなかったというのが実状だった。
(終わった〜)
彫像のように固めていた全身の力をやっと抜いていいのかと思うと、それは期末試験で最終科目の終了のベルを聞いた時くらいの喜びに感じられた。
ふと顔を上げてみれば、壁にもたれかかった碇君が小さく手を振っている。
余りの注文多さに同情してくれたんだと思うから、戦友として私も手を振って返事をした。
(さて、戻りますか。)
ところが心の底からそう思って立ち上がろうと腰を浮かしかけた私に、カメラマンの無情な宣告がなされた。
「そのまま座ってて、すぐ次ぎ行くから。」
(まだ撮るの・・・)
タダといってももういいわよ。もしかしてこの人、趣味と実益が一致してるんじゃなくて、趣味だけでこの仕事してるんじゃないでしょうね。
「君は彼女の後ろに立って。」
(は?)
私も最初何を言ってるんだかわからなかった。
(ああ、二人一緒の写真を撮るって事か。)
碇君の方を向いて指を差し、その指を私の方にすっと動かしたことで私にも理解できた。
「は、はい。」
自分に向かって言われたんだから当たり前だろうけど、碇君はすぐ分かったみたい。慌ててというほどでもないけど、早足で私の方に歩いてくる。
「その、よろしく。」
「なによ改まっちゃって。変なの。」
見上げた碇君は頭を掻いて、どこか恥ずかしそうにしてるみたいだった。
確かにこんな格好で一緒の写真を撮るんだもん少しは意識するけど、別にやましい事をしてる訳でもなし、そこまで恥ずかしがる事ないじゃない。まぁ碇君はシャイだから仕方ないといえば仕方ないか。
「こんな美少女とツーショットが撮れるなんて幸運よ。ちゃんと家宝にしなさいよ。」
「家宝だなんて極端な・・・でも大事にする。」
こういうのを照れ笑いって言うのよね。やっぱり碇君は「カワイイ」わ。だからたまに見せる精悍さとかが引き立つのよ、きっと。そういう意味では得なキャラクターよね。私なんかまんまだし。
「よろしい。専用の立派なアルバム買って、一ページ目に入れておく事。」
「な、どうして・・・」
「不満?あっそう。写真に関しては相田君からいろいろ聞いてるんだけどなぁ〜」
これは全くのでたらめ。聞いても大した事は教えてくれないからほとんど分からない。これはおそらく教えられないような事にも手を染めているからだと睨んでいるんだけど、とりあえずカマをかけてみた。
「な、何の事だよ。」
「取り引き状況とか。」
「・・・知ってたの・・・」
碇君の顔が、更に赤くなって、今にも泣きそうな表情になっているんだけど、そんなにやましい事してたのかしら?どうせ隠し撮りか何かだろうけど、碇君も男の子だったという事ね。
ま、泣かせる事が目的じゃないから、ここら辺で戦略的撤退と行きますか。
「さて、どうかしら?」
「ずる・・・」
私の口がにやりとなったのは角度的に碇君からは見えないとは思う。
「それじゃ行くよ〜」
そして再び準備を終えたカメラマンの声で碇君の抗議は遮られた。
前を向いている私には、後ろの碇君の顔は見えなかったけど、多分不満と不安渦巻く複雑な顔になっている事は予測できる。
ここまで煽っておいて言うのもなんだけど、せっかくの写真なんだから私も碇君もいい顔で写っていて欲しいわよね。
でもこれからまたあの無理難題を聞くと思うと、私まで暗い顔になってしまいそう。
「お兄さんもう10センチ右。そう。胸を張って、表情堅いよ。楽しい事思い出して。」
始まった。私はさっきと変わらないからいいとしても、碇君にOKが出るまでどのくらいかかるのやら。
でも今回は意外なほど早くその時が来た。
「二人とも笑ってーハイ。」
その言葉と共にフラッシュがたかれる。
私はこんなに早くOKが出るとは思わなかったので、作りかけの引きつったような笑顔になっていたと思う。
「何かめちゃくちゃ早かったね・・・」
「そうね。さっきまでのは一体なんだったのかしら?」
碇君も同じ感想を抱いたらしい。思いを口に表したけど、どうやらボリュームが少々大きかったらしい。カメラマンにまで聞かれてしまったようだ。
「さっきまでのは『形』を最優先したからね。表情は二の次、お見合い写真に使えるくらいとにかく全体としてのバランスが大事だった。今回は顔優先にするつもりだったんだけど、どうも二人とも堅かったから、力を抜くために敢えて一枚簡単に撮ったんだ。」
私と碇君は互いに見合った。
良く分からない思考方法だけど・・・今回はリラックスしていいという事は理解できたわ。
「気楽に笑えって事じゃないかな。」
碇君も肩を竦めてそう評した。
それにしてもそうならそうと口で言ってくれても分かったのに、どうもこの人の考えてる事は分からない。もしかしたら凄い人かも知れないけど、さしあたり私の評価は「変な人」という物だった。
「さて、二人とももう一枚撮ろうか。」
私達は二人ともこのおじさんの奇妙な行動がおかしくなって、かなり肩の力が抜けた気がした。これもリラックスの手だとすればなかなかあなどれないんだけど、どう見てもそんな風には見えなかった。
「姿勢はそこそこに、とにかくニコニコしてろって言う事ですね?」
「ま、そういう事だ。デートの事でも想像しててくれればいいよ。」
私はつい調子に乗ってしまったけ。だけどど、おじさんも軽口で答えてくれた。
「お兄さんの方も気楽にしていいよ。もう少し姿勢を伸ばして、照れなくていいから笑って。」
後ろで布の擦れる音がする。碇君がごそごそやっている姿が目に浮かぶ。
(楽しかった事、いろいろあったなぁ・・・)
去年一年を振り替えると、やっぱり楽しかった事はまるで昨日のように思い出される。何かのイベントだけじゃなくて、普段の学校生活もてすととかいう物は除いて大体楽しかった。
なんとなくどたばたしてる内に終わってしまった一年だけど、充実もしていたし後悔はしていない。いくつか悩みも持ち越しちゃったけど、生きてるんだから仕方ないことよね。
「お嬢ちゃんも目を開けて視線はこの赤い光に会わせてー」
おや?いつのまにか瞼を閉じて感傷モードに入っていたらしい。全く何も一年の始めから昔を懐かしまなくてもいいでしょうに。
良く考えたら2年間良く遊んだグループも志望校が同じ碇君以外バラバラになる訳よね。それは寂しい事だけど、でも今年はもっと楽しくなると信じたい。と言うより碇君達とそうしなきゃ。
「よし。じゃあ笑ってーーハイ。」
声と共にフラッシュがたかれる。
眩しかったけど、それが良かった。
「少し涼しくなってきたかな?」
「もう3時近いもんね。まさかこんな時間になるとは思わなかったわ。」
僕達は綾波の内へと歩いていた。
一時的に暖かくなったような空気も太陽が傾くや否や急激にその温度を下げ、冬らしい気温へと変貌しようとしている。
さすがに夕焼けが見えるにはまだ時間があるものの、その足音だけは誰の目にも感じ取れるほどはっきりとしていて、周囲にはちらほらと家へと向かう人の姿があった。
実際に写真を撮り終えたのは1時くらいの事だったけど、こんな時間になってしまったのは、その後僕達は少し遅めの昼食ということで駅前のファーストフードに寄っていたから。
そこで去年一年に止まらず、綾波が転校してきてからの二年間の話しで盛り上がってしまい、結局一時間以上話し続けていた。
それから遊びに行く手もあったんだけど、体力的にも精神的にも疲れる事が多かったので、今日はお開きと言う事になり、今は綾波を家まで送っていく途中であった。
「でも驚いたよ・・・あれは・・・」
「やっぱりそういう事になっていたのね・・・」
僕達はここに車でのほとんどの会話をこの話で埋めてきた。
それは何かと言うと、話せば少し長くなるが、僕達がファーストフードから出てきた時、反対側の道路の雑踏の中に見たような姿を見つけた。
僕は自分の目が信じられなかったので、声はかけなかったけど、後から考えるとかけなくて良かったと思う。
しかし呆然としてしまったのは勘の鋭い綾波にはばればれだったので、当然のようにどうしたのかと質問された。
僕が見たのはトウジと委員長。
別にそれだけなら驚きはするけど納得もする。少なくとも意外とは思わない。
何が意外だったかと言えば間に『あの』妹がいて、しかも3人仲良くてをつないでいたから驚いた。僕なんかは委員長がどうやって妹を手なずけたのか聞きたかったし、話しを聞いた綾波なんかは「尾行しよう」などと言い出す始末。
結局人込みのせいでどこに行ったか分からなくなってしまったけど、そのせいで中途半端に疑惑が残ってしまい、ああでもないこうでもないと言い続けてきたのである。
「きっと少しずつ料理かなんかで懐柔していったのよ。料理だけとは限らないけどいわゆる優しいお母さん役を演じて。」
「ちょくちょくトウジの家に行って?あの委員長が?それはないと思うな。」
「たまにでいいのよ。方法は分からないけど逆にインパクト残す様な事したのよ。」
「何したんだろう?」
「それが分かれば苦労はないわよ。」
「気になる・・・」
「ホントよね・・・」
という感じである。
しかし無限に時間と道が存在する訳ではない。
綾波の家のシルエットが視界に入った時。ようやく着いたと言う気持ちよりも残念な気もちの方が大きかったのを否定は出来ない。
階段を上って二階に上がり、綾波の部屋まで到着してしまった。
綾波は財布の中から鍵を取り出し、鍵穴に差し込むと時計周りにまわして鍵を開け、ノブを回して扉を開く。
「じゃあ今日は本当にありがとう。破魔矢も買ってもらったし、楽しかったわ。」
「そう言ってくれて良かった。写真の方は僕が取りに行ってくるから休み明けに渡すよ。」
「お願いね。ホントはお茶でもご馳走するべきなんでしょうけど、振り袖今日中に返さなきゃいけないしね。」
「いや、いいんだよ。それより気を付けてよ。」
「分かってるって。じゃ、また今度。」
そう言って綾波は扉を閉めようとする。
(言わなきゃ!)
「あ、綾波!」
今まで言うタイミングを掴めずに、ずるずると先延ばしにしてきた事が僕にはあった。扉が閉まりかけた所で僕は声を出す事が出来た。
「ん、何?」
再び一メートルほどに開く扉。
(一つだけ確かめなきゃ。)
そう思いはするが口が動かない。
固まってしまった僕を不思議そうな瞳で見つめる綾波。
「あ、あの・・・」
だが、僕の口から出てきたのは目的とは違う言葉だった。
「あ、綾波、晴れ着、きれいだったよ。」
僕の笑いは引きつっていたと思う。
(結局また逃げちゃったな・・・)
言った瞬間そう後悔したが、口から出た言葉は改まらない。
「え?あ、そう。ありがとう。最後に言ってくれたね。嬉しいわ。それだけ?」
「うん・・・」
「そ。じゃあまたね。」
今度は完全に扉が閉まってしまった。
(情けない・・・)
その扉を見つめながら、僕は自分が改めて情けなくなった。
昼間の写真館での綾波の言葉「専用のアルバム」「取り引き状況」。
これを聞いた時は心臓を鷲掴みにされた気分を初めて味わった。
ケンスケから綾波のいろいろな写真を―友人特価で―譲ってもらい、隠しアルバムを作っていた事がばれていたのかと思った。
こうやって普段通りに話している所から見ると、どうやら綾波得意のブラフらしいんだけど、火のない所に煙は立たない。部分的にばれている可能性はある。
自信過剰かもしれないけど、知った上ではっきりするのを待っているのか、それとも言わない限り気にしない主義なのか、それとも単に気が付いていないのか。
このままにしていては、残りの冬休みはもんもんとしたものになるだろう。どうやって話を切り出そうかと思っていた。
結局切り出せなくて、最後にはほとんど選択肢はなくなっていた。
だから僕は今日最後のチャンスに聞いておきたかった。
「好きな人いる?」
と。
正月明け―
第三新東京市の冬休みはそう長い訳ではない。
もちろん大人達はより少ない休暇しか手に入らないのだが、子供にとってはその時間は短すぎた。
本格的な休みの気分になったと思ったとたんに休みが終わり、半分眠ったような身体に鞭をうって、寒い冬空の元学校に行かなくてはならない。
特に授業初日などは誰も教師の話を頭に残していないだろう。
中学3年生の場合、科目によっては駆け足で教科書の最後をなぞる場合もあるが、それ以外では受験前と言う事で自習になる事が多い。
その意味では授業などないような物なのだが、一般的な生徒にとって、休み時間以外に学校にいると言う事自体が苦痛の種であった。
従って、従業が終わると生徒は受験前だから「学校に残る者」と「出て行く者」に。より細かくは勉強に手を付けるかでも区分されるのだが、ここでは2分に留めておく。
そしてここにも出て行く生徒が一人。
「のう、帰らへんか?」
その言葉に、ノートを広げかけていた少年はどうしようかと言う顔つきになる。
「自分が推薦決まったからって、他の人を悪の道に引き込まないの!」
いつもの少女の声が聞こえる。
「悪とは何や悪とは。そないな大声出す己が一番の悪や。」
鋭い突っ込みに、少女はあたりを見回し真っ赤になった。
「あんたは当確線上の人間を引き摺り下ろそうとしているのよ。恥を知りなさい。」
二人の少年の間に割り込んできたのは気の強そうな少女。
「己には聞いとらん。こないな奴のおるとこで勉強してもはかどらん。帰ろやないか。」
この寒い冬でも黒ジャージ一辺倒の少年は、間の少女を無視して更に話し掛ける。
「あんたがいなくなれば勉強できるのよ!」
「二人の勉強タイムを壊されるのが惜しんだよ。帰ろうぜ。」
一人局外中立を決め込むかに思えためがねの少年が、やれやれといったニュアンスでジャージ男を誘った。
「ななんですって!もう一辺言ってみなさい!」
(駄目だ・・・とてもその環境じゃない・・・)
少女が激昂するに及んで、少年はここでの勉強をあきらめた。
ノートを鞄にしまって帰り支度をする。
「分かったよ。帰ろう。だけど寄り道はしないよ。」
少年の英断によって、教室で勉強をしようとした他の生徒が救われた。もっともそれが、日ごろの騒動の責任の一部を果たしたに過ぎないと教室内の誰もが思っていた事なので、特に少年が英雄視される事はなかったのだが。
「アスカはどうする?」
鞄に荷物を積め終わった少年は、隣に仁王立ちになっている少女に声をかけた。
「分かったわよ。用意するからシンジは待ってなさい。」
「別に惣流には頼んどらへんで。」
ジャージ男の一言は、強烈なアスカの視線によって封じられた。
「委員長は?」
アスカの一睨みを見なかった事にして、シンジは席一つ分右に立っている少女に尋ねる。
「私は図書館に行ってるわ。」
「わかった。で、綾波も帰るの?」
席ごと後ろに向き直り、シンジはレイに声をかける。
「私も残るわ。帰っちゃったら勉強しなさそうだし。」
「そう・・・」
シンジとしては限りなく誘いに近かったので、断られた事に残念な気もしたが、別に嫌われていて断られているのではないからダメージは小さかった。
「4人か。シンジ行こうぜ。」
「あ、ケンスケちょっと待って。」
「惣流か?すぐ来るよ。」
いつものメンバーの確認を終えた所で、ケンスケが鞄とコートを持って出て行こうとする。それをシンジが止めたので、ケンスケはてっきりアスカを待つためかと思ったがそうではなかった。
「そうじゃなくて・・・」
シンジは鞄をごそごそと漁ると、中からB5大の薄い紙袋を取り出した。
「はい。例のもの。」
そう言ってレイに袋を渡す。
「何?あっ写真ね!出来てたんだ。」
クリーム色で右下の方に「井上写真館」と印刷された袋を受け取って、レイはさっそく中を開け始める。
「見せてもらったけど、きれいに撮れてたよ。」
レイが目を輝かせながら袋に手をしたので、シンジは嬉しくなって笑いながらそう言った。
「何や何や。」
「どうしたの?」
「何だよそれ。」
「何やってんのよ。」
他の4人も集まってきた。
それぞれ興味津々な目でレイの手元を見ている。
「へえ。ちょっとしたアルバムみたいになってるの?立派じゃない。」
「ちゃんとした写真だからね。」
「何の写真や?」
「初詣での写真だけど。」
「見せて見せて。」
レイは袋から取り出したアルバム状の物をそっと机の上に置くと、一旦辺りを見回した。そして少し焦らすかのように間を取ってから、ゆっくりとその端に手を掛け開いていった。
「おお〜」(×2)
「へえ・・・」(×2)
一ページ目はオーソドックスなスタイルの写真だった。
人は斜め姿が一番美しいと言われるが、この時のレイも少し椅子に斜めに座り、化粧した顔にうっすらと笑みを浮かべて佇む様は、とても15歳のそれとは思えない美しさを醸し出していた。
「ええやないか」
「うまく撮れてるよ。」
「ふ〜ん、まずまずね。」
「いいな・・・」
初めてこの写真を見る4人は、多少表現に凹凸はあるものの、おおよそその見事さを誉めそやす。
(さすが形重視。)
レイとしても悪くないと思うが、いかんせんこれを撮るまでの苦労が思い出されて、素直に喜べない物があった。
「他のはどんなんや?」
あのトウジもかなり興味を示しているが、別に他意あってのことではない。単に奇麗なクラスメートの写真を見てみたいと言う欲求を、素直に表しているだけなのだが、その言葉の影響力と言う物を自覚していないのが彼の最大の欠点であろう。
「鈴原、いくら写真だからって女の子じろじろ見ないの!」
「写真見んでどうしろっちゅうんや。」
「見るなとは言ってないでしょ。遠慮しなさいって言ってるの。」
この二人の場合、自分が茶化して良い場合とそうでない場合がはっきりしているとレイは思っている。そしてこの場合後者に属していると判断した。
「まーまー落ち着いて。次いきましょ。ど〜んなのかな〜」
場をうやむやにするために、軽い口調で話しながらレイはさっとページをめくる。
「ほほう。」
「・・・聞いてないわよ。」
前者がケンスケ。めがねがタイミング良く光ったように見えたのはシンジの気のせいだろうか?
後者がアスカ。。普段は人前では見せないのだが、今回一瞬唖然とした様子は隠し切れなかった。
6人の目に前には、まるでそうなる事が必然であるかのような、一枚の絵画のようにバランスの取れた和服姿のシンジとレイのペア写真が収まっていた。
(何度見てもいいなぁ・・・)
シンジはのほほんとした感想を抱く。
(和服姿の碇君って似合わないと思ってたけど・・・こうしてみると悪くないわね。やっぱり一緒に写っている人間が良いからかしら。)
幾分図々しいがが、レイもまんざら悪い気はしていなかった。
「説明してもらえるかしら?」
真冬の北極の空気もかくやと思われる寒気がシンジを襲った。それを感じたのはシンジだけではなかったらしく、レイヤケンスケは言うに及ばず、喧嘩になりかけたトウジやヒカリの熱気すら奪い去った。
「せ、説明も何も、言ったじゃないか。ついでに僕も撮ってもらったって。」
「一緒にとは聞いてないわ。」
「そ、そんな!何でそこまで詳しく報告しなくちゃならないんだよ!」
直感的に、ここ最近最大級の痴話げんかになりそうだと判断したケンスケは素早く鞄からビデオカメラを取り出しファインダーを覗き込んだ。
(題名は・・・ワイシャツに口紅が付いているのを発見して激怒する若妻と浮気がばれそうになって開き直る亭主、かな?)
少しくどいかとも思ったが、この状況にぴったりの題名にケンスケはにやりとして思わず笑い声が漏れる。
これが致命傷となった。
「相田何笑ってる!」
突然画面一杯に見慣れた黒が広がる。
それはアスカの投げつけたシンジの鞄だったのだが、その被害者は既に認識能力を失っていた。
「シンジ、おまえ綾波に乗り換えた方がええんやないか?」
「な、何勝手な事言ってるんだよ!あ、綾波に失礼じゃないか!」
シンジの動体視力では、ついていけないほどのアスカの動きに呆然としている所へトウジの発言。
シンジは思わず混乱したが、そこへ更に油を注いだのがレイであった。
「あ〜らダーリン、私はずっと待ってるのに〜」
その態度は誰が見ても冗談以外の何者でもなかったが、休み中抱いていた思いと、レイが左腕に抱きついた感触とでシンジは更に赤くなる。
「レイ!あんた何してんよ!馬鹿シンジが誤解するじゃない!」
「奥様、御亭主は頂きましたわ。ほほほほほ。」
「誰が奥様よ!そんなに欲しいなら熨しつけてあげるわよ!」
「だって。来年は白無垢着るから期待しててね。あ・な・た。」
「こりゃええわ。そん時はワシらも呼んでーな。」
「何言ってんのさ!僕は来年まだ16だよ。ふざけてないで助けてよ。」
「そうよ!ヒカリもこの馬鹿になんか言ってやって。」
「え、私?」
「ヒカリちゃんは娘さんがいるもんね〜」
「え?」
「元旦娘さんと仲良く3人お手手つないで駅前歩いてたしー」
「な、何言うとるんや、あれは妹や!」
「て事は手を繋いでる事は事実なのよね?」
「そうだよ。トウジこそ機会があったら僕達を呼んでよ!」
「ヒカリったらいつの間にそこまで・・・」
「違うの!たまたま偶然神社で会って、方向が同じだから・・・」
「同じだと手を繋ぐの?」
「そ、それは・・・妹さんが小さいから・・・」
「おめでとうトウジ。頑張ってね。」
「ええい、じゃかしいわ!」
・
・
・
・
ぽた・・・ぽた・・・
(いけない汚れちゃう。)
そう思った私は、急いでティッシュでその水滴を拭き取った。
私は今自分の部屋にいる。
ベッドに寝転がって昔のアルバムを見ていたら急に悲しくなって・・・
(碇君、会いたいよ・・・)
第三新東京市から、京都の親戚の所に引っ越して一月半。
その思いは募るばかり。
電話だけじゃ耐えられない。
晴れ着を着た、写真の中の私と代わりたい。
この時に戻れたら、もっと笑っていられるのに。
自分に嘘をついていた罰だとしても、その罪はここまで大きいの?
『好きだったんだよ、ずっと前から!』
スキー場で言ってくれた、あの言葉は私の宝物。
「私もそうだったんだよ・・・もっと早く・・・そうすれば・・・」
写真の中の、少しはにかんだような碇君は何も答えない。
(・・・やだ・・・涙が止まらないじゃないの・・・)
たまらなくなって、私は枕に顔を埋めた。
・
・
「レーイー、食事ですよー」
どれくらいの時が流れたのか。
おばさんに呼ばれた私はアルバムを片付け、涙を袖でぬぐって居間に向かう。
おじさん達の第三新東京市への転勤を告げられたのは、その夕食の席でだった。
完