すっかり薄くなった夕日の残滓が、ようやく夕闇にかき消されようとしていた。
既に町には明かりが煌々ときらめき、夜空に星が輝くのを否定するかのように町の上空を光で染め上げている。
それでも刻一刻と、確実に夜は近づいている。いや、既に夜と言ってもいいかもしれない。
少なくとも、彼らにとってはそうだった。
男は傍らの女の身体を、シーツ越しにゆっくりと撫でていた。
情事の後、満ち足りた表情で女が目を閉じてからずっと、男はまるで子供をあやすかのようにそうしている。
男の手が止まった。
男はじっと女の顔を見つめーと言っても暗くなった部屋ではほとんど意味のない行為だがーそれが睡眠状態にあると理解すると、一人ベッドから身を起こす。
そして数瞬、まるで迷っているかのように女の顔を見つめた後、覆い被さるようにしてその頬に軽くキスをすると、そっとベッドから降りたのだった。
乱れたシーツを女にかけ直し、暗い足下に注意しながら、彼は椅子にかかっているバスタオルを手に取り、それまで全裸だった腰に巻き付けて部屋の出口へ向かう。
彼は音を立てないように気をつけながら襖を開き、最小限だけ開いたその隙間から静かに部屋を出た。
そして元のように襖を閉めようとした男だったが、残りわずかのところでその手を止め、部屋の中をのぞき込んで一言呟いたのだった。
「お休み、レイ。」
襖が閉まってから、一晩が明けた。
「はい、どうぞ。」
僕は冬月さんの前に焼き魚を置き、ついで僕の席の所に同じように皿を並べた。
「ん。」
「ご飯は?」
「いつも通りで構わんよ。」
「はい。どうぞ。」
「ありがとう。」
実を言うと冬月さんはさっきから新聞に目をやったまま。はっきり言って、適当によそっても分からないんじゃないかって思うこともあるけど、何となくやった瞬間にばれるような気がする。一応ネルフで副司令やってたんだからその辺は鋭いんじゃないかな?
朝日を背に受けて、新聞を熟読する冬月さん。
その姿は年齢以上にしゃきっとしてるから、いかにも有能な大学教授って感じ。そんな態度は生活全般に見られるから、根はかなり真面目な人だと思う。例え一人暮らしをしたとしても、冬月さんがミサトさんみたいな生活をするなんてちょっと考えられない。
僕は自分の分のご飯をよそい、最後にみそ汁を二人の前に並べた。
「レイはまだかね?」
「え?ええ。どうしたんでしょうね?」
レイの事に話が行った瞬間、僕の心臓は跳ね上がった。この時間になってもレイが起きてこないなんて初めてだから、冬月さんがいぶかしがるのも無理はない。
「病気の様子はなかったと思うが。」
「ええ。見てきましょうか?」
「その必要は無かろう。まだ間に合う時間だ。それにレイも寝坊の一回や二回はしてみるべきだろうな。」
はっきり言って、冬月さんの言葉は意外。真面目一辺倒の人かと思っていたけど、そうでもないみたい。3週間も一緒にいるのに全然気がつかなかった。
それに、今の僕の心境としてはそれどころじゃない。
レイがこんな時間まで寝ている?理由は、思い当たるのは一つしかない。まかり間違って冬月さんが「レイを起こしに行って来る」などと言おうものなら絶対に止めなくっちゃ。なんせレイのベッドなんかには、昨日の証拠が残ってるだろうし・・・
でも、そんな心配は杞憂だった。
何気なく振り返った僕の視線の先、廊下に通じる襖が開いてレイが入ってきたから。
「レ、綾波。おはよう。」
「レイか、おはよう。」
「・・・おはようございます。」
レイはそう返事してくれたけど、頭がまだ起きてないのかな。
どこかぼーっとしたまま洗面所へ向かおうとする。
(!!まずい!))
その背中を苦笑しながら見送ろうとした僕だけど、レイが通路の影に消えようとしたその一瞬、大事なことに気がついてしまった。
(とと・・・)
すぐにでもその後を追いかけたかったけど、この場には冬月さんもいるのだ。朝食の準備をしていた僕が、いきなりレイを追いかけるなんて怪しすぎる。
さっきだってレイを思わずレイって言ってしまいそうになっちゃったし、冬月さんにばれたらやっぱり不味いよね。
僕はなるべく自然に振る舞いながら、出来るだけ急いで机の上を整える。
それなりに形を取ったところで、これまた自然な形で薬用箱に手を伸ばし、なかからお目当ての物を取り出した、
そして先ほどから新聞を読みふける冬月さんを後目に、レイのいるだろう洗面所に向かうのだった。
・・・頭がまだはっきりしていない。
私は後ろ手にカーテンを閉め、その場で立ち止まってしまった。
普段の習慣で二人に挨拶して、そのまま洗面台の前までやってきたけれど、これからどうするべきかしら。
選択肢は3つ。
1,トイレ
さしあたって急ぎではないけれど、混んだら嫌
2,洗顔
習慣通り。
3,シャワー
・・・身体がべたついているから・・・(ぽ)
数瞬考えた後、私はシャワーを浴びることにした。
朝食の準備をしているシンジには悪いけれど、それくらいは待ってくれると思う。
冬月さん。ごめんなさい。
私はシャツのシャツの裾に手を掛けて、一気にそれを脱ぐ。
そして手に持った大きめのシャツを眺める。
昨日はあのまま寝てしまったから、今朝はとりあえずこれを纏ってきた。
だからほとんど汚れていないわけで、それを洗濯するべきかどうか迷ったけれど、今日の選択当番は私だし同じ事ね。私は洗濯かごにシャツを放り込んだ。
「あ・・・」
おふろ場に入ろうと扉の方を向いた私の目に、鏡に映った自分の姿が飛び込んできた。
白い身体、青い髪、赤い瞳。
けれどほんの少し普段と違う身体。
「残ってる・・・」
あれだけ頼んだのに、首筋には昨夜の痕跡がはっきりと2カ所残っていた。
今日は水泳をするって言ったのに。
私はそっとその箇所に手を当ててみた。
「・・・・・・・」
暖かい。
軽くさすってみると、特に心地いいというわけではないけれど、思わず目をつぶって昨夜のシンジを思いだしてしまう。
私の好きな人。全てを許した人。
昨日はお互いに夢中だった。
浅ましいとも、淫らとも思わない。お互いが心から求め合ったことだから・・・
「・・・ダメよ。」
いけない。
これ以上考えていたら、また変な気持になりそう。
鏡に映った、どこか照れたような自分に話しかけてから、私はお風呂の扉に手を掛けた。
「レ・・・」
冬月さんから見えなくなったあたりから洗面所に駆け寄って、慌ててその仕切のカーテンを開いた僕の視界に、真っ白な彫像が飛び込んできた。
お風呂場の扉のノブを掴んだレイ。
透き通るほど白い肌。ほっそりした、それでいて女らしいスタイル。そのしなやかさは僕だけが知っている。
僕の方へ振り向いたその赤い瞳が驚いたように見開かれた。
「「あ・・・・・・」」
僕の方はと言えば、ここに何をしに来たのかも忘れ、ただレイに見入っていた。
レイの方は、頭が働いていない事もあるのかな、何が起こったのか今一掴めてないみたい。
僕達の間に流れる沈黙。
やがてレイが、何事もなかったかのようにお風呂場の扉を開け、中に入って扉を閉めてしまった。
(・・・残念・・・はっ!違うって!)
危うく目的を忘れるところだった。
僕は扉の前に立ち、軽くお伺いを立てるようにノックする。
「レイ〜」
返事がない。
「レイってば」
やはり返事がない。けど中から水の音はしないし、聞こえてるはずなんだけどな。
(・・・もしかして、怒ってるのかな?)
あり得る。
これが漫画なんかだと、さっきの時点で物が投げつけられてはっきりと分かるんだろうけど、レイの場合なかなかわかりにくい行動をとることが多いから。
「あのさ、ゴメン。わざとじゃないんだ。」
嘘じゃない。
レイが裸なんて知らなかったし、別にさっきだってじろじろ見ていた訳じゃない。動けなかったんだ。まあそう見えたかもしれないけど。
「聞こえてるよね?確認しなかったのは悪かったからさ、もう許してよ。」
「・・・何?」
五センチくらい扉が開いて、ようやくレイが顔を見せてくれた。
はっきりと分かるくらい上気して、問いつめるような、それでいてどこか引いたような視線が僕を見つめている。
「いや、大したことじゃないんだけど・・・」
「覗きに来たの?」
「違うってば・・・」
「そ。」
やっぱり少し怒ってるよ・・・
こういうときは速く逃げるに限るかな?
「いやさ、首筋にその・・・キスマークが残っちゃってるから絆創膏持ってきたんだけど・・・」
僕はポケットから絆創膏を取り出した。
正直レイの後ろ姿にその後を発見したときは驚いた。
昨日は薄暗かったからよく分からなかったけど、朝日の中ではかなり目立つ。
冬月さんも僕たちが付き合ってることくらい走ってるだろうけど、そんな関係だと知ったら、もう別居させられるかも。いや、それならまだいい方で、監視役としてホームヘルパーなんて雇われたら最悪。
幸いにも新聞を読みふけっていたようだったから気づいてはいないと思うんだけど、これ以上危険を冒すことはないよね。
「・・・そこ、置いておいて。」
「あ、うん。そうするね。」
「それだけ?」
「そうだけど・・・」
「そう。先に食事してていいわ。じゃ。」
それだけ言うと、レイは扉を閉めてしまった。
そして次の瞬間、中からシャワーの音がし始める。
(拙いなぁ・・・)
ちょっとどころの怒りではないのかな?
とりあえず今日は大人しくしていよう。それと、お弁当はもう作っちゃたから、夕飯のメニューはレイの好物中心で行こう。
僕は絆創膏を洗面台の上に置き、頭をかいて洗面所を出た。
(でも、綺麗だったな)
それにしても朝から刺激的ないいものが見れたよね。レイは怒っちゃったけど、差し引きプラスかな?
(いいことあるかな。)
僕は今日一日が何となくついているような気がした。
シンジがカーテンを閉めて洗面所から出ていったと言うことは、シャワーの音にかき消されそうだったけれどしっかりと認識できた。
「ふう・・・」
私ため息をつき、シャワーから出る水流に向かって顔を上げる。
多少熱めのお湯が、私の額にぶつかり鼻筋を通って顎から滴り落ち、或いは首筋を通って身体へと流れていく。
(シンジったら・・・)
まだ私の心臓は跳ね上がったまま。
丁度裸の所に入ってくるなんて、実はシンジ狙っていたのかしら?そうとしか思えないようなタイミング。
初めは何が起こったのか理解できなくて、ただシンジと見つめ合ってしまった。
そこで騒ぐのは逆効果。
それが分かっていたから、我に返った後も何事もなかったようにここに入って、いえ、逃げ込んだ。
シンジの慌てたような謝罪の言葉も、それを聞いているどころではなかったわ。
ただ息を整えて、おそらく真っ赤になっているだろう自分の顔を元に戻さなくては。そればかり考えていたけれど、成功したかしら?少しぶっきらぼうな話し方になってしまった。
けれど、それはシンジが悪いの。急に覗くから(ぽ)
・・・準備をしてもダメよ(ぽぽっ)
ようやく落ち着いて来た。
私はシャワーを止めてスポンジを手に取った。それにいつものようにボディソープを含めて泡立てる。
泡立っていた方が身体を洗うのに便利。それとは別にその方が楽しいの。こう感じるのは変かしら?
それが目的になりそうなくらい泡立てて、私はゆっくりと左腕を洗い始めた。
気持ちいい。身体にまとわりついていた物がはがれ落ちていく。そんなはずあるわけもないのに、心までが物理的に軽くなっていくよう。
(くす)
私は可笑しくなった。
ずっと昔、と言っても一年も経ってはいないけれど、初めてシンジに抱かれた次の日、こうしてお風呂に入ったときにはこうは感じなかった。
肉体的な意味ではしみて少し辛かったけれど、幸せそうな顔をして眠るシンジをベッドに残して入ったお風呂では複雑な気持ちだったわ。
苦痛を伴ってはいたけれど、ようやく普通の意味でシンジと一つになれた嬉しさ、ようやく実感が涌いてきたその気持は確かにあったけれど、それ以上に離れたくないという想いが私を支配していた。
実際私が目覚めてから、一時間近くはシンジの寝顔を見ていたのかも。
まだしばらく目を覚ましそうにないと思ったから、先にシャワーを浴びることにしたけれど、あの時ベッドを離れることに未練をかなり残していた。
(あの時は・・・)
今と同じようにこうして首を洗っていたけれど、私が離れている内にシンジは目を覚ますのではないか、部屋に戻るとシンジはいないばかりか、そこは昔のアパートの中なのではないかと、言い様のない恐怖に襲われたり。
そのくせしっかり身体を洗うことは忘れないで、でもそれが昨夜のことを言葉通りの意味で水に流すような気がして一人沈んでみたり。そんなはずないのに。
椅子に座って足を洗い始める。
「あ・・・」
腿の内側にもキスマーク発見。
シンジ、つけないでっていう言葉を全く聞いてくれなかったのかしら?確かに目立たない場所だけれど、万が一見つかったら言い訳の効かない場所よ?
(男子の水泳は確か・・・次の金曜の3時間目。)
復讐の機会は遠くはないのね。
その時はどうしようかしら?シンジ、男の人は女より隠す面積が小さいのよ?しっかり跡を付けたらどうなるか・・・(ぽ)
(あ、朝から何を考えているの?)
もう・・・シンジが変なこと意識させるから・・・
私は頭を数回振って邪念を追い出し、手早く身体を洗うことに専念し始めた。
でも結局・・・その朝は食事ををする時間がなくなってしまったわ。
「ごちそうさま。お先に。」
「流石に若いと食事が早い。まだ時間があるのではないかね?」
「ええ、ただギリギリで慌てたくないんで・・・」
僕は軽く冬月さんに照れ笑いを残し、結局レイの来なかった食卓を離れた。
そして冬月さんから一刻も早く離れるべく、足早に自室へと歩を進める。
と言っても、別に冬月さんが嫌いだとか苦手だとか言う訳じゃない。
同居を始めた頃は、確かに冬月さんが副司令だった頃を思わず重ねてしまったけれど、よく見るとその顔つきというのか目の色というのか、とにかく昔とは全然違うって事に気がついた。
それ以来、僕は少しずつだけど、そんな過去も気にならなくなっていた。けれど今日は僕の方が普通じゃない。
朝から予想外にレイの裸を見てしまって嬉しいやら困ったやらしているのに、そのレイ自体がいつまで経ってもお風呂から出てこない。
レイは僕が朝食当番の時でも起きるのがそんなに遅くなるって事はないから、いままで朝風呂だろうと問題はなかったんだけど、やっぱり昨日は疲れてたのかな、だってレイも・・・ってそうじゃなくて!とにかくあんな時間からお風呂に入ったものだから、何となく朝食に間に合わないような気はしていたんだけど、やっぱり顔を見せなかった。
そもそもお風呂から出てきていないわけだから、怒り続けているって可能性は少ないと思うんだけど、じゃあ出てきてこっちに来てくれたら嬉しいのかと言われると、それはそれで困る。
だってレイの首筋には、はっきりと僕がつけたキスマークがついている。
それを隠すためにわざわざ絆創膏を持っていったんだけど、首の所が大きく開いているシャツをレイが来ていた場合、やっぱりどうしたって目立ってしまうだろうな。
ただでさえレイ肌が白いんだし・・・白いんだし・・・柔らかいし・・・
はっ!
危ない危ない。我に返った僕は、横目で居間の冬月さんからは僕が見えないことを確認すると、そっと自室の襖に手を掛けた。
「・・・ふぅ・・・」
何とか普段通りの雰囲気を漂わせて自分の部屋に戻って来れた・・・よね?
とにかくそんな状態のレイを見たら、間違いなく僕は顔に出る。
もちろんだからと言って何が変わるわけではないかもしれないけれど、冬月さんにばれるっていう最悪の可能性だってある訳だ。
だから結構食事も落ち着かなかったんだけど、レイが出てこなかった分、却って助かったかも。
後ろ手で、そっとふすまを閉め、視線を壁際の掛け時計にやる。
「まだかな・・・」
冬月さんの言ったように、登校時間まではまだちょっと時間がある。
やっぱり元チルドレンは、なるべく外に出したくないと言うことらしい。家から学校までは10分もかからない距離にある。昔の家は仮設住宅みたいな所を改造したらしいから結構距離があったんだけど、保安上の理由って奴はまだまだついて回るみたい。
時折鬱陶しくなる。
友達も出来た。親切な大人にも出会えた。学校だってつまらないくらい何も問題がない。
そして何よりレイがいる。多分幸せって言っていい状態だと思う。
けれど記憶までがなくなったわけじゃない。
昔の記憶。
辛い記憶。
忘れるわけには行かないと分かっていても、全てを消し去りたいと叫びたくなるような悪夢。
レイには言ったことはないけれど、やっぱり僕はこの手で人を、殺した。
手を切り落とすことで、記憶ごと消えてなくなるならどんなに楽か。
思っただけじゃない。実際にしたこともあった。全て途中で止められたけれど。
僕はシャツの裾に腕を通しながら、自分の手首の後を見つめた。
自殺のためじゃない。
結果的にはそうなるかもしれないけれど、そんなことはどうでも良かった。とにかくあの記憶を捨てたかった。どんな手段だって良かったんだ。
「ホントに・・・」
僕は学生服のズボンを手に取り、ベッドに腰掛けてパジャマを脱ぎ始めた。
「感謝してる・・・」
そう。こうやってパジャマを脱げるのも、ベッドから再び立ち上がれるようになったのもレイのおかげ・・・らしい。
当時、僕は重度の躁鬱状態だったらしい。錯乱状態にも良くなったとの事。だけどそんな僕にレイは何度も言ってくれたらしい・・・僕が帰って来るための言葉、一歩前へ歩き出すための魔法を・・・
このことは後で人ずてに聞いたことで、その人はレイに感謝するようになんて言ってたけど、そんな必要なかった。
命の恩人?違う。
僕を護ってくれた人?違う。
僕の側にいてくれた人?違う。
違いはしないんだけど、僕の中での気持は、感謝なんて言葉で表せない物になっていたから・・・
「・・・なんか恥ずかしいな・・・」
全く、朝から一体何を考えてるんだろう。明日世界が滅びるわけでもないのに、一体どういう心境なんだろう?
僕が自分自身に苦笑していると、小さく隣の部屋のふすまが動く音が聞こえた。開いて閉じたところから見ると、レイが帰ってきたみたい。時間的にも、これから身だしなみを整えたらやっぱりギリギリだろうな。いくら細かいことにこだわらないレイだって、食事をとれるほど時間はないと思う。
「さって!」
今のウチに後かたづけをしておこう。計算だと、いくら何でももう冬月さんだって食事を終えてるだろうし、二人分なら洗い終える頃にはレイが準備でき照るだろうな。
僕は鞄を手に部屋を出た。
襖を閉める瞬間、ふと机の上に飾った写真立てー初デートの時に撮った物ーがちらりと目に入った。
その中の僕達は、何時までも変わらない笑みを浮かべていた。
「これで・・・いいわね。」
私は鏡を見ながら、最後にスカーフの角度をきちんと合わせた。
本当は、鏡なんて見なくても形になることは知っている。
この制服になってから何度も繰り返してきた行為。もう体が反復行為を覚えていると言ってもいい。
『あの・・・セーラー服も・・・似合ってるよ』
鏡の中の私が微笑んだ。
初めてこの服を来て会ったとき、シンジが言ってくれた言葉。
その時はまだ、私達は付き合ってすらいなかった。
ずっと昔の話。
でも、それ以来、私はこうして身だしなみを整えるようになった。
私は私。服で私が変わる訳じゃない。
それはよく分かっているし、シンジだってそう言ってくれた。でも、やはりこうしないと落ち着かない。
髪は軽く櫛を入れるだけ。クラスメートに言わせると「ずるいくらいに綺麗なシャギー」らしい。
髪型のことは良く変わらないけれど、私の癖っ毛が一つの髪型になっていると言うことは理解できる。
化粧はしない。・・・あまり良い記憶がないから。
「さ。」
時計を見ると、やはりぎりぎりの時間。
急がなくては。
私は机の下の鞄を手に取った。
襖を開けて廊下に出る。
途中、居間を覗くと冬月さんがまだテレビを見ていた。今日は休みなのかしら?
「行ってきます。」
冬月さんがこちらへ振り向いた。
「ああ、気をつけてな。」
「はい。」
私が玄関に歩き出そうとした瞬間、台所の方からシンジの声がした。
『あ!ちょっと待って・・・』
数秒後に台所からシンジが出てきた。
姿は当然学生服姿。けれどエプロンをつけているから洗い物でもしていたようね。
そしてその右手には、コップ一杯のジュースが握られていた。
「はい、これ。飲んだ方がいいと思うんだけど・・・」
「野菜ジュース?」
確か冷蔵庫に入っていたのを記憶している。無くなりそうだったから、今日帰りに買ってきた方がいいわね。
「うん。これの飲むくらいの時間はあるよね?何も摂らないのは体に良くないから。」
「・・・ありがと。」
私はそのコップを受け取った。
確かにギリギリだけれど、確かにそのくらいの時間はある。少し走る距離が長くなるくらいね。
私は鞄を置いて、両手でコップを口に持っていき口を付ける。
(?)
「何?」
「え、いや・・・」
変なシンジ。
じっと私を見つめていて、一体どうしたのかしら?私の方が恥ずかしくなる。
慌てたようにシンジは、真っ白なエプロンをはずして台所に消えていった。
(?)
やはりよく分からない。
私は一気にそのジュースを飲み干し、シンジの後を追うように台所に入る。
「あ、それは流しに置いて置いて。」
その通りにする。
(つまり自分で片づけろって事ね。)
今日は私の夕飯当番だから、結局ここを片づけるのも私。不満というわけではないけれど、何となく変。
「行きましょう。」
「そうだね。」
私の後をシンジがついてくる。
「「行ってきます」」
「いってらっしゃい。」
冬月さんに挨拶し、鞄を手にとって玄関へ向かった。
「鞄は?」
シンジ、手ぶらで学校へ行くつもりかしら。部屋を出た時点で気がついた。
「ああ、玄関においてあるよ。いつレイが出てきてもいいようにと思って。」
「そう。」
そんなに待たせたのかしら?
(・・・・・・・待たせたかも。)
お風呂で少し時間を掛けてしまったから・・・(ぽ)
私が前を歩いていて良かった。
玄関で、靴箱から私とシンジの靴を並べて自分の靴を履く。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
私はずっとシンジから顔を逸らしたまま。
おかしく思ってはいないわよね?
もう少し普通に戻るまで待って。
私は玄関の扉を開けた。
と同時に、既に熱くなり始めた空気が私達の周りを包む。
「熱くなりそうだね。」
「そうね。」
サードインパクトの後、ほんの少しだけ平均気温が下がったらしい。
けれど体感的にはほとんど変わらない。
(いえ・・・やはり違うのね・・・)
玄関から廊下に出た私はそう思い直した。
ほんの少し、空気の質が違う。朝と言うこともあるでしょうけど、ほんの少しだけ清冽な空気。少なくとも、第三新東京市の空気とは違った。
「いい?」
「あ、うん。いそがなきゃ。」
「そうね。行きましょう。」
私達は走り出した。
斜め後ろにもう一つの足音。
(そう、この世界は、私とシンジの望んだ世界だから・・・二人で・・・)
走り続ける足音は、私の耳に心地よくなり響いていた。
(何とか・・・ぎりぎりかな)
僕達は街路樹の影の中、学校に向かって必死に走っていた。
普段はこんな時間になることはない。
レイが寝坊する事なんて全然なかったし、僕が寝過ごしそうなときはきちんとレイが起こしてくれていた。
もうちょっと優しく起こして欲しいなんて気はするけど、まあそれって言うのは贅沢な望みなんだろうな。
一回だけそう言ったら「きちんと起きないのが悪いの」とぴしゃりと言われてしまったし、多分これからも変わらないんだろう。
「急いで。」
「分かってるよ。」
前を走るレイが、軽く僕の方を振り返る。
正直レイの方が足は速い。
ネルフでの訓練がなくなってから、僕は運動らしい運動はあんまりやっていない。それに比べてレイは、一応水泳部に入っている。泳ぐこと自体が目的みたいだから、そんなに激しい練習はしてないみたいなんだけど、それでも運動にはなっているわけで、僕なんかより余程体力がある。
だから短距離ではあまり変わらなくても、これだけの距離を走ると僕の方はなかなかにきつい。
「それにしてもさ、」
僕はいったん言葉を切った。と言うと深い理由がありそうなんだけど、単に一気に言うほど呼吸が整っていなかったという話。
「何?」
普段道理の声が帰ってきた。流石。
「いやね、だいぶ車が多くなってきたよね。」
「仕方ないわ。来年から政令指定都市だから。」
道路には朝のラッシュアワーと言うことで、車が溢れ帰っていた。
なんでもこの町は、周辺の市が合併して、一つの市になるらしい。その市庁舎がこの町に置かれるとか。それを決めるに当たっては色々もめたらしいんだけど、結局まとまらなくて3市から等距離のこの町に落ちついたのだと冬月さんから聞いたことがある。
「そうだよね。また転校生とか来るのかな?」
「多分。気になるの?」
人口増に従って、子供の数も増える。ここしばらく転校生の数が急増していた。
「まあ。人数から言って、次は僕たちのクラスに入ってきそうだし。」
「可愛い子だといいわね。」
・・・冗談だよね?
(え〜っと・・・)
僕は最近の行動を思い返してみる。
あの本以外レイを怒らせるようなことはしていないと思う。
(よし、冗談だ。)
「そうだね。」
返事はない。拙かったのかな?
「僕には関係ないけど。」
「・・・シンジ?」
ま、拙い・・・この声は・・・間違いなく怒ってるっ!
僕は慌ててレイの横に並んだ。
「冗談だって分かってるよね?単に友達が増えるって事だって分かってるよね?」
「そうね。」
全く僕の方を見ずに、レイは怖いくらいの無表情で返事をした。
「仲、良くなるといいわね。」
「は?・・・ちょ!違うって!」
僕の脳裏には、数ヶ月前の事が思い浮かんだ。
居間の僕には昔と違って、レイの他にも仲のいい女の子がいたりするんだけど、その中の一人が僕のことを好きだって言う噂が流れたことがあった。
僕には全くその気がなかったし、その子も特に変わったところがなかったから全然気がつかなかったんだけど、結構有名な話だったらしく、隣のクラスのレイはやきもきしていたと後日人づてに知った。
結局レイの誤解は解けたし、その子ともまだ友達づきあいはあるんだけど、やっぱりまだ心配してるのかな?
「だから言ったじゃないか。関係ないって。」
「何のこと?」
(どうしようかなぁ・・・)
走りながら、僕は次の一手を考えていた。
横を走るレイの顔はただ前を見ているけど、意図的に僕から視線を外しているようにも見える。
(ま、いいか。)
実際僕にはそんな気は全くないし、この話は続けても不毛なだけのような気がする。
視線を前に戻すと、建物の影から学校の一部が見えてきた。
「さ、早く行こう。」
僕は空元気だけどスピードを上げた。
(?)
けどレイはついてこない。
「どうし・・・」
「前。」
レイの言葉に視線を前に戻した瞬間、僕は角から飛び出してきた何かとぶつかった。
「うわっ!とと・・・」
「痛っ!」
大した衝撃じゃなかったから、僕はよろめいただけで済んだけど、いったい何なんだろう。
見ると、小さなー幼稚園か小学校低学年ー男の子が地面にしりもちをついていた。
「大丈夫?」
すぐにレイがその子に手をさしのべる。そうやって美味しいところを持って行くんだよなぁ・・・
「うん・・・」
その子がレイの手を握った瞬間、更にその背後から女の子の声が飛んできた。
「ほら、なにやってるの?!はやくたちあがって。」
「うるさいなぁ」
僕たちがその子に目をやると、予想通りいかにも勝ち気そうな女の子だった。背中ほどもある赤いランドセルに抱きつかれた姿が微笑ましい。小学生だったんだ。
「あ、ゴメンね。大丈夫?」
僕はレイに引き上げられた男の子に謝った。飛び出したのはお互い様だけど、相手は小さな子だしね。
「ありがとうございます・・・ごめんなさい・・・」
その子は素直に謝ってくれた。でも、何でレイの方を見ながらなんだよ。そりゃあ引っ張り上げたのはレイだけどさ。
「ほら、はやく!がっこうにおくれるわよ!」
「あ、うん。」
「ほら、てをはなして。」
「え、あ、ごめんなさい」
男の子ははっとした感じでレイの手を離して頭を下げた。その瞬間、女の子に僕たちの来た方向ー小学校があるーに引っ張って行かれてしまった。「はやくはやく」「ちょっとまってったら」と喧噪を続けながら。
「なんか・・・可愛かったね。」
「そうね・・・」
レイの顔を見ると、先ほどまでの無表情は綺麗に消え去っていた。
軽い笑顔を浮かべ、小さくなっていく二人の背中を目を細めて眺めている。
僕も同じように二人の行く末を見つめた。
流石に声は聞こえなくなって来たけれど、なにやら言い合いをしながら、でも楽しそうに走っていくのが見て取れる。
「楽しいのね・・・」
「ん?」
僕はレイの方へ向き直る。すると、レイはゆっくりと僕の方へとその笑顔を向けてくれた。
「あの子達。」
「そうだね。」
男の子の方はちょっと気が弱そうで、他人のような気がしなかったけど、多分楽しく生きているって事は想像できた。
「それに、シンジも。」
「そう?」
「ええ。楽しそう。」
顔に出てたかな?何となく微笑ましいというか、あんな姿を見ると良かったって思える。
僕があれくらいの時、母さんがいなくなって、ひとりぼっちだった時代。
夕方母親に迎えに来てもらえる他の子が羨ましかった。自分の世界に閉じこもって、とてもあんな風には生きていなかったと思う。
でも、あの二人は違った。もちろん僕みたいな子供もまだまだ世界には多いんだろうけど、あんな子供がいるって事だけでも、僕の勝手で世界を滅ぼさなくて良かったと思える。
そして・・・
僕は改めてレイの顔を見た。
僕の好きな人。
強制されたわけでも、誰かの代わりでもない。世界で一番好きな人。
まじまじと自分の顔を見つめる僕の顔が変なのかな?レイはきょとんとした表情で僕を見つめている。こんな表情も可愛い。
結果論だけど、レイのためにもこの現実を残して良かったと思う。
楽しいこと、嬉しいこと、時には辛いこと、悲しいこと、いろんな記憶と経験を共有出来る幸せ、心の底から良かったと思える。
「レイ、行こう。」
「そうね。」
自然と僕はレイの手を取った。これから行かなくちゃいけないのは学校、そして、行きたいのは未来。
いつも手を繋いで、なんて事は言わないけれど、一緒に未来へ歩んでいきたい。もっともっといろんな場所へ、いろんな事を、いろんな時を共に・・・
「さ、急ごう!」
僕はレイを引っ張って走り初めた。
「どうしたの?」
やっぱり今の僕は変なのかな?レイは少しとまどっているみたい。
「いいから!」
「・・・そうね。」
釈然としない様だったけれど、機嫌は悪くはしてないみたい。声が柔らかくなっている。
レイもすぐに僕の横に並んで走り始めた。
手を繋いでいるから、さっきまでみたいな速度は出せない。
けれど、二人とも離そうとはしなかった。互いの手のぬくもり、時間なんかより余程大事にするかのように。
僕たちの前に立ちふさがる門は、何時までも閉まるようには思えなかった。
おしまい