彼は今だ忙しい。

末端の者なら、目の前の課題を処理してれば事足りるが、社長という立場は、それのみに拘泥する事を許してはくれなかった。それと共に綿密な予定を立て、起りうる障害に対する対応策を練り、万一のために準備を行わなくてはならない。たとえ準備段階が終了し、実行段階へと移行した現在といえどもそれは変わらない。それが出来るほどには彼の会社は大きくないのだ。設立したての会社は、人材的には彼の双肩にのみ頼っているといっても過言ではなかった。もっとも彼の性格からすれば、他に人がいても自分でやると言い出しただろうが。

目の前で行われているパーティーに、一参加者として出席したくないといえば嘘になる。彼とて人間、楽しい事が嫌いではないし、何より彼は主役の友人でもある。

「ウェイター、B−5のグラスが空になってるよ。それからC−1は食べ物の消費が早いから注意して。」

胸につけたブローチの形を模したワイヤレスマイクを通して指示を出す。そんな所まで社長が指示を出さなければならないのが、零細企業の辛い所だが、事この仕事に関しては、それは苦痛にはなり得なかった。

契約額は決して大きくはない。しかし友人達は自分を信頼して、自分にほぼフリーハンドの裁量を与えてくれた。友人達の希望を満足の行くようにこなすというのが普通であるにも関わらず。

だから自分もその期待には応えなくてはならない。他のどこにも出来ないパーティを開かなくてはならない。彼は誓った。派手でなくとも、賑やかでなくとも、誠意のこもった仕事をしようと。それが自分なりの祝辞だとも思う。

『おめでとう。シンジ、綾波。』

相田ケンスケの一日は、半分が過ぎただけであった。


それから 後編
Aida Outdoor Service limited。略してA,O,S。

野外で行うイベントなら運動会から登山キャンプの設営、花見の席取りまでなんでも手がけようという趣旨で設立されたケンスケの会社である。

彼は最初カメラマンの道を目指していたのだが、バイト先でいくつかのイベントの幹事をこなすうちに、裏方の面白さに目覚める。

「他人を喜ばせる事を面白いと感じる自分には驚いた」

そう本人が言ったように、彼は友人以上の関係の知り合い以外にはクールだというのが一般の評価だったので、会社の設立には誰もが驚いた。

カメラも今でも続けている。忙しいためそんなに遠出は出来ないし、いい大人が、昔のようにカメラを持ってうろつく訳にもいかないので、その量自体は減ったが、一枚一枚が大切になった。とは本人の弁である。

高校卒業後、量販店に就職、残業を繰り返し設立資金を溜め、二年前独立する。

現在の所「売れない興信所と同程度の便利屋」でしかないと、トウジに語った事があったが、赤字決算を出さない所が彼の有能さを現しているだろう。限りなくとんとんではあるが。

2ヶ月半前、久しぶりに暇が出来て、トウジと一緒にシンジを飲みに誘った時結婚話を聞かされたのであった。シンジは普通にホテルでも借りて式を挙げるつもりであったが、そこをケンスケが頼み込んで任せてもらったのである。

酔った勢いもあったし、結婚式も出来るという事になれば会社の新境地が開けるという計算もあった。だが、やはり一番の理由はシンジとレイが自分の大切な友人と思えばこそ、出来合いの、ありきたりの式になって欲しくなかった。

「ケンスケの思ったようにやってみてよ。ケンスケなら大丈夫だと信じてるから。まあ蓄えがそんなにある訳じゃないから、このくらいでやってくれると嬉しいんだけど。」

その後レイの承諾を得たシンジが、打ち合わせに来たケンスケに向かって最初に言った台詞である。その言葉に彼が感動したのは冒頭の通りである。

そのエネルギーは立案から予約、設営まで2ヶ月強というハイスピードでの挙式という形で現れた。

そして現在、彼の計画した野外パーティ兼披露宴は成功しつつあった。

 

「あ、すんまへん!この肉もう一皿いただけまっか?」

彼は通りかかったウェイターに頼む。

野外パーティという事で、食べ物や飲み物を一、二個所に集中させバイキング方式とし、後は動きやすい様に自由な空間にするという事もケンスケには考えられたが、参加者(特に男共)が食いに走った場合、そこだけに固まってしまうという事が予想されたため、会場は円卓テーブルをたくさん配置して、それぞれに料理を置く形が取られた。

当然各テーブルの構成メンバーによって、その消費量に大きな開きが出る事になる。

このテーブル付近は数少ない一中時代の友人も集まったが、たった一人の暴君によって、他のテーブルの消費量を大きく上回る事となった。

「ちょっとトウジ!そんなに食べる事ないじゃない。知らない人がには、よほど家で貧しい食生活をしてるように見えるわよ。」

「かまへん。知らん奴がどう思おかて、わしには関係ないことや。」

トウジの意識は目の前のご馳走を片づける事に集中しているため、返事もそっけない。

『私が困るのよ』

ヒカリは心の中で嘆息する。

ヒカリもトウジの言っている事は分からないではない。あそこまで割り切れはしないが頭では分かる。

だが自分が本当に言いたいのはそんな事ではない。知らない人はいいにしても、知っている人がどう思うか、それが問題なのである。

すでに「半同棲」状態の自分達を知っている人が見たら、何と思うか。よほど自分が食事に関して手を抜いているように思われるだろう。それには自分のプライドが耐えられない。だが、彼女の性格では、それをはっきり口にする事はためらわれるのである。

そんな思いに気がつかないトウジは辺りを見回して、シンジ達を離れた所に見つけると、行儀悪くフォークで指しながら言う。

シンジ達は野外パーティーでは不向きな服から着替え、シンジは紺のブレザー、レイは白のワンピースという簡素なものになっていた。

「あれ見てみい。ホストのシンジ達はいろんな客の相手せなあかん。結婚式で彼女見つけようする奴もおるらしいが、わしには関係あらへん。話すような奴もおらんしな。残ったゲストの仕事は食う事くらいちゅうもんやないか。」

「・・・二人とも中学では友達少なかったからね。相田君も忙しいみたいだし・・・」

「ま、そういうことや。ヒカリ以外話し相手がおらん訳やないが、さすがのわしにもあれに入ってく勇気はないわ。」

再びフォークで指した先には、ワイングラス片手に乱痴気騒ぎに突入しているミサトとコダマ。それをノゾミが何とか止めようとするが、それ自体が二人の肴になっている。その横には一見冷ややかな視線でその光景を見詰めるリツコの姿があった。

『ふ・二人とも・・・』

その様子を見て、ヒカリは今日だけは二人の姉妹の名前を戸籍から抹消する事に決めた。

 

「シンちゃーん!」

シンジの耳に何度目かの、昔散々聞いた、酔っ払った、なのに明瞭な声が響く。

シンジが呼ばれている事に気を使ったのだろう、目の前で今まで話していた友人は「じゃ、これからも頑張ってね」というと料理を取りに行ってしまった。

『やっぱり行かなきゃだめだよな。ミサトさんには散々お世話になったし。でも行ったら何を言われるか。でもいつまで無視できないし・・・』

彼はまだ迷っていた。何時かは行かなくてはならない事くらい分かっているが、酔っ払いと化したミサトは何をいうのか見当もつかないため、どうしても逡巡してしまうのだった。そのため呼ばれるたびにそちらへと、重い足を引き摺りながら向かうのだが、途中「偶然」しばらく会っていなかった友人に会うので、未だにミサトの元へ着かないでいた。

だが、もう直線距離にして2メートルも無い。テーブルを挟んだ所で高が知れている。もうそんな手は使えない。覚悟を決めるしかなかった。

そんな思いには全く気がつかないレイは、くいくいとシンジの袖をひっぱって来る。

『レイは素面のミサトさんしか知らないんだ』

この思いを分かってくれないのは残念だが、レイのためには、酔っ払ったミサトにはあわせない方がいいとシンジは思っていた。

だがもう逃げられない。せめて早く終わる事を期待しつつ、シンジとレイは並んでミサト達の方へと向かった。

 

「碇・綾波ご夫妻結婚おめでとー!!」

細い、色とりどりの紙テープがシンジとレイの頭に降りかかり、アイスクリームがトッピングされたような格好になる。

半分引きつった笑いでミサトの元にたどり着いたシンジ達を待っていたのは、どこに持っていたのかクラッカーであった。教会から出た時は覚悟していたから驚きはしなかったが、今回はいきなりである。しかも至近距離から発射されたのだからたまらない。シンジはひっくり返りそうになった。

「ミサトさん、危ないじゃいですか!」

さすがに本当に怒る。

「大丈夫よー。シンジ君荷電粒子砲にだって耐えたじゃない。」

「無茶苦茶言わないで下さい!」

『ああ、やっぱり酔ってる・・・』

シンジは嘆くしかない。そこへ天からの助けのようにノゾミが声を掛けてきた。

「あの・・・このたびはご結婚おめでとうございます。姉も家でも本当によかったといってました。」

「「ありがとう」」

シンジとレイが同時に答える。

「それで先ほど葛城さんからお聞きしたんですが、お二人は、中学時代からのお付き合いとか・・・。すごく強い絆なんですね。なんか憧れちゃいます。」

シンジとレイは顔を見合わせる。中二の時に会ってから、その一年間は運命に翻弄され、次の一年はレイが一方的にシンジの面倒を見ていたという関係だった様に二人には思える。とても付き合っていたなどと表現できるものではない。

「ミサトさん、いったいどんな風に説明したんです?」

シンジはそう聞いてみる。レイも興味を持ったのかじっとミサトの方を見詰めている。

その質問に待ってましたとばかりに、ミサトはにやりと笑う。

「なーに、シンちゃんがレイに一目惚れした話しよ。」

「はあ?」

「もう、忘れちゃったの?リツコがうちに来た時、レイの新しいIDをレイに渡してくれってシンちゃんに頼んだじゃない。そしたらシンちゃん、じっとIDの写真見つめちゃって・・・」

「そんなこと、ありましたっけ?」

シンジは完全に忘れていた。シンジがレイを気にしていたのは確かだが、その日は何よりMカレーという桁違いにインパクトあるモノを食したため、それ以外の事は余り記憶に残らなかったのである。

「でね、ノゾミちゃん、その後が面白いのよ。」

「え?何です、何です?」

コダマもその手の話しは好きであるらしく、催促するように目を輝かせている。

「そういうわけでシンちゃんが、レイの家にIDを届けに行ったんだけど。シンちゃんが行った時ちょうどレイはお風呂に入ってたの。」

『なんで知ってるんだ』『何故知ってるの』

シンジとレイは動揺する。二人とも無意識下では理由は分かっているのだが、意識の上では認めたくない自分がいた。

「で、鍵がかかっていない事をいい事に、シンちゃんはレイの家に上がりこんだの。」

「うんうん。」

「そこに丁度風呂上がりのレイが出てきたのよ、裸で。」

「えー!」

「ミ、ミサトさん!それ以上は・・・」

その反応に「やった!」と思う表情を隠そうとせず、ミサトは突っ込む。

「シンジ君、それ以上って何かなー?やっぱり何かあったんだー。」

しまった、はめられた!シンジが思った時には遅かった。自分の進歩のなさには馬鹿馬鹿しくもなるが、話しを逸らすため怒ってみせる。

「ななな何もありません!。それよりもやっぱり監視していたんですね。女の子の家の中を覗くなんてネルフって最低な組織だ。」

ミサトは明らかに「うっ(引き)」という顔になったが。助け船を出したのは意外にも、今まで中立を決め込んでいたリツコだった。

「中は監視の対象外よ。もちろん外は対象の範囲だから、シャワーを使えば水道メーターが回るのは確認できるわ。だからレイが毎朝シャワーに入るのは知っていたし、鍵をかける習慣がないのも知っていたわ。さすがに風呂上がりに何も付けずに出てくる事は知らなかったけど、あの頃のレイは人目を気にしなかったもの、別におかしくはないわ。もし私がシンジ君を引っかけようとしたら同じ事を言ったかもしれないわね。」

ミサトは親友の言葉にうんうんと首を縦に振っている。シンジはとても信用する事は出来なかったが、余計な事を言って、本当にその後に事を言われてもまずいし、祝いの席で十年も昔の事で喧嘩などしたくも無かったので大人しく矛を引っ込める。

しかし、引っ込めなかった人がいた。

洞木コダマ、二十ウン歳、独身。

本来シンジとレイは「妹の友達」でしかないのだから多少の悔しさはあっても、そんなに熱くなる関係ではない。この席に呼ばれたのも、中学時代の知り合いが少ないため、トウジとヒカリが寂しかろうというシンジ達の配慮が大きい。

だが、間の悪い事にコダマは少し前振られていた。別にコダマは結婚に至上の価値を見出している訳でもないし、取りたてて急いでいる訳でもない。それでも独身の友人が減るにつれ多少焦りを覚えるのは仕方の無い事だった。

そこへノゾミ曰く「美男美女のカップル」を見せ付けられたのである。ほとんど加持と会えずに不満が溜まり、飲みに走っていたミサトと意気投合するのに時間はかからなかった。

そして彼女は怒り上戸と絡み上戸というもっとも質の悪い組み合わせの人間だった。

「くおらー碇シンジー。無断で女の子の部屋に入るとは何事だー。」

過去のミサトの経験から、酔っ払いに何を言っても無駄だとは分かっているのだが、このような衆人環視の中で誤解されるのは避けたい。そう考えてシンジは抵抗する。

「何事も無かった訳ですし・・・」

その言葉を聞いたのか聞いていないのか、コダマはシンジの隣りに立つレイの右肩にポンと左手を置き質問する。

「ホントはどうなのー。」

シンジにとっては余り思い出したくない事だが、今の彼女は二人目の時の事を余り覚えていない。記憶のバックアップも完璧ではないのだ。つまり未だ感性が多少ずれているレイとは言え、その口から漏れる事はないというのがシンジの判断であった。

「ほんとにー?この身体に何もされなかったの?」

言いつつ肩に置いた左手が滑り落ち、レイの胸に触れる。

「きゃっ」

さすがに驚いたレイが飛びのいて、コダマから離れる。しかし、その表情は何かを考えているようで、頭をちょこんと傾けている。

「今の感覚・・・アパート・・・碇君・・・?・・・シャワー・・・眼鏡・・・」

まさか、思うシンジを尻目にレイは分かったという感じでパンと両手を合わせる。

「やっぱりなんかあったのね。」

「いえ、大した事はありませんでした。」

ほっとするシンジだったがコダマは追求を諦めない。

「つまり大した事でない事はあったのね。言ってみなさい。」

酔っ払いはしつこいからなあと、自らの過去を顧みて嘆息するシンジ。彼はどうやってここから抜けようか考え始めたがそう上手くはいかなかった。

「ええ、碇君が私を押し倒しました。」

「!」

「シンちゃんやるー」

「碇さんって・・・」

「・・・・・・」

語る方は淡々として、あくまで事実を言っている以上の意味はない。むしろ聞く方の反応が分からないといった風である。

レイが、あちゃーという感じで、顔を右手で覆っているシンジに、さすがに当人には恥ずかしいのか、少し赤くなって爆弾発言を続ける。

「どうしたの?いつもやってる事でしょう。」

「「「!!」」」

シンジはこの後、騒ぎに気がついたヒカリに止められるまでいびられたのは言うまでもない。

 

『全く何やってるんだか』

シンジ達はヒカリとトウジの働きにより何とか救出され、次の客の応対をしている。

一連の光景を遠くの方から見詰めていたケンスケは、そこに参加できない一抹の寂しさを感じる一方で、その友人達の平和な光景を心温まる思いで見ていた。

そんなケンスケの思いは、ブローチ型マイクの振動によって破られた。

「何だ」

「はい、ケーキが出来上がりましたので、そろそろ用意の方を。」

「わかった。いつでも出せるように準備してくれ。」

「わかりました。」

交信が切れると、再び彼は視線を上げ、シンジ達の姿を探す。といっても、そんなに時間が経った訳でもないので、先ほどと同じ場所に二人を発見した。

参加者の邪魔にならない様に大きく迂回しながらシンジ達の元へ向かい、シンジ達の会話のタイミングを見計らって声を掛ける。

「シンジ、どうだい?」

その声にあっという感じでシンジは振り向く。

「あっ、ケンスケじゃないか。今日は本当にありがとう。」

「なに、おまえ達を祝えるだけじゃなくて仕事にもなるんだ。気にしなくていいよ。それよりさ、ケーキが焼けたんだ。悪いけど、もう一回正装になってきてくれるかな。ケーキカットやるから。」

その言葉により早く反応したのはレイだった。

「じゃ、また・・・」そう友人に別れを告げるとシンジの腕を引っ張るようにして歩き出す。

「レイ、そんなに慌てなくても逃げないよ。」

『やっぱりレイも女の子なんだな』

普段は形式というものに無頓着なレイに似合わない、その積極的な行動にシンジは少々驚きながらも思わずにはいられない。

「初めての事だから・・・」

僕だって始めてだよと言おうとしたが、それはケンスケによって阻止された。

「レイ?碇もやっと綾波の事名前で呼ぶようになったか。」

三人で歩きながら更衣室へと向かう。ケンスケにとって、数少ない友人としての立場を取れる時であった。

「ん?ああ。やっぱその方がいいような気がしてね。」

「そうさ。みんな思ってたんだぜ。10年来の彼女を名字で呼ぶ碇は変だって。綾波はどう思ってたんだい?」

「別に構わなかったわ・・・。私は綾波レイ。呼ばれ方で私が変わる訳じゃないもの。」

「じゃあ今はどう思ってる?名前で呼ばれた感想は?」

「・・・なぜかしら、なにか暖かい。名前なんて記号だと思っていたのに。」

「そういうもんさ。で、彼女はそう言ってるけどどうするんだ?」

いきなり話を振られたシンジはケンスケの発言の意味が分からない。

「なにが?」

「だからさ、名字だよ、名字。最近はほとんどが別姓だって聞いてるけど。」

確かに最近は割合でいけば8割強が別姓を選択している。2008年に新民法が施行されてから徐々に夫婦別姓の割合は増えていき、2014年には新婚者の別姓選択率が同姓選択者のそれと逆転。2022年には全世帯における比率が逆転した。現在同姓を選択する新婚者は1割程度であった。

「そうだね、やっぱり別姓じゃないのかな。それが普通だし。」

何気なく答える。

シンジは気がついていなかったが、この「何気なく答える」のも進歩の一つであった。

覚悟はしたとしても、やはり多少の恐怖はある。「綾波」と呼ぶ事で、絶えず他人である事を確認する事を要求した深層心理。「レイ」という呼び方は、それを克服した証拠でもあった。

おそらく以前のシンジなら、こうも何気ない気持ちで答える事は出来ないだろう。答えは同じでもその心理状態は大きく違っていたはずである。

「と、シンジはいってますけど、綾波は?」

「どちらでも構わないわ。でも・・・出来るなら同姓の方がいい。」

ウットリとした表情になるレイ。

「でも、『綾波』がなくなるなんて何かもったいないな。」

「お、『碇』がなくなるという可能性は?」

ケンスケが突っ込む。

「あ・・・そうだね。レイ、ごめん。」

自分の男性中心主義的な考えを指摘されたと考えたのか、シンジは申し訳なさそうに謝罪する。

「謝る必要はないわ。私も気がつかなかったもの。そうね、どう?綾波シンジになってみる?」

「え・・・?えーと」

「ふふ・・・冗談よ。でもその話しはもう少し考えましょ。書類の提出期限はまだあるもの。」

「うん。そうだね。時間はまだまだあるしね。」

「そうよ。私達はこれから・・・」

シンジとレイは見詰め合い、二人の世界に入ってしまう。おそらく二人は互いの後ろに花畑でも見ていただろう。

「ほらほら、さっさと着替えた着替えた。主賓がいないとパーティーは進まないの。」

わざと不機嫌な口調で、二人を現実世界に引き戻すと、簡易更衣室に押し込む。

シンジとレイは残念そうな顔をケンスケに向けるが、どちらからともなく軽いキスを済ませると更衣室に入っていった。

「こ、こやつらは・・・」

シンジ達に悪意はないのだが、まるで見せ付けられた様なケンスケは、請求書を一割ほど水増することを心に誓った。

 

「社長、アルコールが切れそうです。」

「そんな馬鹿な。量は十分に計算してあったはずだ。予定通りに搬入したのか?」

「もちろんです。それでもぎりぎりのラインです。」

原因は何だ、と言おうとしたケンスケだったが、視界に妙に騒がしい一団を確認すると、首を振って諦めたように嘆息して指示を出す。

「・・・とりあえずはBエリアの巡回回数を減らして対処しろ。但し完全に切れるとうるさいから、そこら辺は気をつけて。」

「了解。」

通信が切れる。

ケンスケが、現在の所伴侶たることを強制されている独身主義に、63通りの悪口を並べ立てながら会場に帰ってきた時、丁度入ってきた連絡とそれに対してなされた指示が上記の会話である。

ケンスケにしてみれば、予定が狂う事甚だしい。

向こうの方で騒ぐ一団が恨めしい。

シンジの話から、ミサトが飲むのは分かっていた。

お調子者のトウジが、つられて飲むのも予定の範囲内である。

だが、ストッパーとして期待したリツコと洞木姉妹までが飲む事は計算に入れていなかった。

しかもその量が尋常ではない。そもそも結婚式で浴びるほど飲まなくてもいいだろうにと思わないではないが、自分の甘さを再確認するだけなので、口には出さなかった。

酔っ払うための席ではないので、アルコールの強い酒の量は多くないが、ワインやカクテルなど飲みやすい酒を多くした。どうやらそれが裏目に出てしまったらしい。

『思うように行かないものだな。自分の人生も、他人の人生も。』

昔読んだ小説の台詞の、本当の意味が分かったような気がした。

 

ここは何人にも侵されぬ絶対領域、ではない。

だが、何人も侵して欲しくない領域である事は間違いない。

ミサトにリツコにトウジに洞木姉妹。この6人の作り出す空間は、周囲のさわやかな結婚式会場とは、明らかに一線を画していた。

想像力豊かな者が見れば、ネオンサインが見えたかもしれないし、赤提灯が見えたかもしれない。それほど場違いな空間であった。

もちろん初めはそうではなかった。

ミサトはいつも通り騒いでいたが、それは祝い事の席で多少羽目を外した程度だった。

だが、どこからか雲行きが怪しくなり、いつのまにかミサトとリツコの大学時代の暴露合戦へと発展してしまった。それをなだめようとノゾミは飲み物を二人に薦めるが、それがアルコール飲料だったので、火に油を注ぐ結果となり巻き込まれる。そこへトウジがしなくてもいい突っ込みを入れて参戦。4人のピッチが早くなる。見かねたヒカリがトウジを止めようとするが、それはミサト達に酒の肴を提供する事となるにすぎなかった。トウジとの仲をからかわれるヒカリを見て、コダマが自棄酒に走り、妹に無理に飲ませる。余り酒に強くないヒカリがすぐに酔っ払ったのは言うまでもない事であった。

不幸だったのは、確実にストッパー足り得る冬月が、レイの大学時代の恩師と面識があり、そちらとの会話に花を咲かせていた事であったろう。冬月が気がついた時には、その空間は完成していて、いかな元ネルフの副司令と言えど、おいそれとは近づけなかった。

『まあ手が出ている訳ではないし、それまでは放っておいても構わんか。』

冬月の手に握られるグラスは、既に5杯目だった。

 

突然にあがる叫び声、いきなり静かになったかと思うと、地の底から湧きあがるような笑い声。

周囲2メートルを無人の空間にしたそのサバトが何とか終了したのは、新郎新婦の再入場の時であった。

再び正装に身を包んだ二人が、木漏れ日の中、森の中から腕を組んで出てくる様は、派手さや豪華さはないものの、一枚の絵の様にしっくりと来ていて、酔っ払い達の酔いを覚まさせるに十分な効果があった。あのトウジですら「何か・・・いいもんやな」と言ったくらいだから、自然に発生した静かな、しかし力強い拍手は、シンジ達が会場の前面に恥ずかしそうに立つまで続いた。

シンジ達が所定の位置に立ったのを確認すると、ケンスケはマイクの回線のチャンネルを切り替え、スイッチを入れる。

「では、皆様。これより新郎新婦によりますケーキカットを行いたいと思います。皆様右手をご覧ください。」

そうケンスケが言うと、会場右手奥から台座に乗せられたケーキが運ばれてくる。大きさはそれほどではないが、なかなかに手の込んだデコレーションのモノであった。

「新郎と新婦が始めて大喧嘩したのは大学一年生の時。仲直りする時、新郎はお詫びの印にケーキを新婦に持っていきました。今回のケーキは、その時のケーキを購入した洋菓子店「シャトー」の方にお願いしました。」

そう解説するケンスケ。参加者から笑いの声が上がる。

『今更そんな事言わなくても・・・』

シンジは更に恥ずかしくなる。見ればレイも赤くなっている。

大学一年生の時、確かに彼らは初めての大喧嘩をした。間接的な原因は、同じ構内とは言え学部の違うシンジが、女友達とレイに内緒で、泊りがけで遊びに行った事だった。

無論シンジにはシンジの言い分があったのだが、そんな事より問題を深くしたのは、その事でレイに詰め寄られた時、売り言葉に買い言葉で「それくらいの事で、なんでそこまで怒るんだよ!」と言ってしまった事であった。

シンジが自分にとってどういう存在であるのか、それを未だに分かってもらっていないと知ったレイは、本格的に怒ってしまった。

シンジもその後反省して、和解を求めたが、レイがそれを受け入れたのは結局2週間の冷戦の後の事であった。

その直後レイの家に行ったシンジのお土産が、前述の店で買った、チーズケーキ、モンブラン、ミルフィーユ、ストロベリーショートの四つであった。

今にして思えば増分と可愛いお土産だし、下手をすれば食べ物で歓心を買おうとしていると思われかねない危険性をはらんでいたが、シンジとしては高価な者をプレゼントして、それこそ物で釣るが如き真似はしたくはなかった。だから総額は大した事はないが、質で気持ちを表す事にしたのだ。

レイは喜んで食べてくれたし、実は紅茶を入れるのが上手いと言う事実を発見できたので、シンジとしては満足すべき結果であった。

余談だが、これ以来シンジはコーヒー党から紅茶党へ転向している。お気に入りはダージリンとマンゴーで、レイの家に行くと必ずどちらかを飲んでいる・・・

「覚えているわ。私、辛い・・いいえ、寂しかったの。私には碇君しかいなかったのに、一生懸命それを訴えていたつもりなのに。分かってくれなかったのかと思ったら、どうしようもなく怒りが込み上げてきて、だから・・・」

「僕も覚えている。今もたいして進歩はないかもしれないけど、慌てると、どうも自分でも信じていない事を勢いで言ってしまっていたから。自分の言葉がどれだけ綾波に影響を与えるかよく分かったよ。」

ゆっくりと運ばれてくるケーキを見つめながらシンジ達は語り合っている。

「もしかして、将来への布石?」

「?」

「碇君が私に酷い事を行っても、後で『あれは勢いで言ったんだよ』って言えるように。」

「はは・・・考え過ぎだよ。」

既にケーキはシンジ達の直前まで来ていた。

 

コック姿の女性スタッフが台車を押してくる。

ケーキが新郎新婦の前に来た時、事件は起こった。

それをその女性スタッフのせいにするのは酷であろう。台車を調達したスタッフのせいにするのも、ケーキカットの場所をここに設定したケンスケを責めるのも、同様に酷であろう。

僅かな偶然が奇妙な化学反応を起こした時、それは起こった。

台車が停止ポイントのわずか手前の、小さな窪みに差し掛かった時、それまでは何ともなかった台車のキャスターが、がたんと言う音と共に外れたのだ。

突然の傾斜に耐えられず、台車の上のケーキはその傾きに従って、滑り落ちる。

誰も動けなかった。

それが落ちる瞬間はもちろんのこと、ほとんど音たてずに落ちた後も。

シンジにも何が起こっているのか理解できなかった。

目の前で起こる、冗談のようなその光景は見えていたのだが。

他の参加者にも、それは同様の事であった。

正確には事実は認識できるが、それをどう表に出したらいいのか分からなかったのだ。

だから会場は水を打ったように静まり返っていた。

 

その場にいた者で、最初に動きがあったのは、花嫁であるレイであった。

目の前で起こった出来事に彼女も最初は呆然とし、次にその場に膝をついた。

その動きに、固まっていた参加者は、凍り付いた時が再び流れ出したように、そしてその埋め合わせをするかのように、騒然となった。

「シンジ、綾波、すまん!」

「も、申し訳ございません!」

現実に戻った女性スタッフとケンスケも、顔を青ざめさせながら二人に謝る。

大失態であった。解約とか、賠償とかそう言うレベルを遥かに超えた失態であった。

特にケンスケとしては、この式は会社員としてよりも友人として、素晴らしい物にしようと考えていたため、言いようの無い慙愧の念にとらわれていた。

シンジは怒りに肩を震わせていた。俯き、両手を握り締め立っていた。

少年時代に形成された性格は大人になった今でも余り変わらず、大声を出す事はあっても、怒ると言う事はめったに無かった。

そのシンジが今回は怒っていた。

怒り慣れていないため、どういうタイミングでそれを現せばいいのか迷うがごとく肩を震わせていたが、ケンスケ達の言葉がその契機となった様で、急に顔を上げ、女性スタッフの方を向いて怒鳴る。

「どうしてくれるんだよ!これを!」

女性スタッフの青ざめていた顔は、シンジの怒りに青を通り越して白くなっていて、かろうじて頭を下げて「申し訳ございません」と言う言葉を繰り返すのが精一杯だった。

その発言は仕方の無い事であったが、単調な、何の解決にもなっていない言葉は、シンジの怒りに油を注ぐ結果となり、シンジは更に言葉を投げつけようとした。

「碇君。」

それを中断させたのは、レイの、大きくはないがしっかりとした意志を感じさせる声であった。

「これを、片づけましょう。」

レイはドレスが草色に汚れるのも構わず膝をつき、シンジの手を取って引っ張り、見上げる様にしてシンジの目を見詰めている。

シンジは何か言いたげであったが、レイの瞳に反対を許さない強さと、懇願の思いが同居している事に気がつくと、無言で膝をついて、レイと共に片づけ始める。

「触らないで。」

ところが、それに今更のように気がついたケンスケ達が手伝おうとすると、レイは強い調子でそれを拒絶する。そして、ケンスケ達が手を引っ込めるのを確認すると、また作業に取りかかる。

『レイ?』

シンジはそんなレイを見て怪訝に思う。さっきは自分が怒るのを止めて、後片づけを優先させたのに、ケンスケ達が手伝おうとするとそれを遮るとはどういう了見か。

不可解に思ってレイを見つめ続けるシンジに、レイが気づいたのか、顔を上る。

その白い頬はうっすらと桜色に染まり、口には笑みを浮かべていた。

「レイ、いったい・・・」

「手、休んでるわ。」

『どうしたんだ』と言おうとしたシンジはレイの言葉に遮られ、更に疑問符が大きくなった思いだったが、それは表に出る事を許されなかった。

シンジは仕方なく手を動かし始める。レイもまたそれに釣られるかのように、片づけを再開した。

 

さして長くはない時間の後、とりあえずウェディングケーキだった物は、その皿の上に片づけられた。

一つのキャスターが外れたため、突如滑りの悪くなった台車がつんのめる形でケーキが落ちた訳で、台が水平でなくなった訳ではない。

シンジはレイに促され、二人でその皿を再び台車の上に載せる。

二人が皿の上の残骸が落ちない様に気を付けながら、台車に皿を戻すと、ケンスケは目でスタッフに合図して、それを下げさせる。

「二人とも、すまん。」

キャスターが3つであるため、少々不安定な台車をスタッフが奥に運ぶのを確認すると、ケンスケは頭を下げる。

シンジは機嫌が戻った訳ではないが、怒った所でケーキが元に戻る訳でなし、憮然とした表情で黙っていた。対照的に、レイは笑みさえ浮かべている。

「気にしないで。」

そう答えたのはレイである。

その声にケンスケはおやと思う。言い方はぶっきらぼうだが、怒りや嫌味が感じられない。かといって諦めているのでもない。一番近い表現は、本当にこちらを気遣っているという感じであった。

「綾波、そう言ってくれるのはありがたいけど、やはりこちらのミスだよ。」

「私はいいのよ。いえ、こっちの方が思い出に残るかしら・・・」

「何がいいんだよ。そりゃ思い出にはなるけどさ。」

シンジのそのいらつきを含んだ言葉に、レイはいたずらっぽい表情になってシンジを見つめる。

「だって、同じ事だもの。」

その言葉にケンスケはピンと来た。

『なるほど、綾波ならそう考えるかもな。』

そう思いながらシンジを見れば、未だ分からないと言う表情でレイを見つめている。

「綾波、シンジは分かってないみたいだから説明してやった方がいいよ。」

シンジは感のいい方ではないが、今回は分かる方がおかしいと思ったので、助けを出してみる。そしてその手はブローチに伸びていた。

 

「碇君は本当に分からないの?」

「何が?」

「・・・碇君はそんなにケーキカットしたかったの?」

「当たり前だよ。レイは違ったのかい。」

シンジは不安になって聞いてみる。レイはもしかしてこういう形式が嫌いなのではなかろうか。いや、それどころか自分との結婚に後悔を感じているのではないか。そんな思いがシンジの心を急速に冷やす。

「いいえ、そんな事はないわ。」

不安はひとまず回避されたが、それならばなおさらレイの考えが分からなくなる。

「じゃあどうして。」

「碇君はどうしてしたかったの?」

「・・・だって、二人の門出じゃないか。」

「どうして?」

「それは・・・」

シンジは言いよどむ。確かに本来、門出などという言葉は、実際の共同生活の最初にこそ使われるべきで、他者任せの結婚式という形式に必ずしも必要な言葉ではない。

「確かにこんなのは形式でしかないよ。でもだからと言って無意味って事じゃないだろ。」

「無意味だなんて言ってないわ。いえ、私にとっても大事な形式。」

「じゃあ・・・」

「私も本当の起源は知らないわ。でも、これは最初の共同作業。そういう意味だと聞いたわ。」

「あ・・・」

レイの言葉にシンジはやっと得心する。確かにシンジもそんな話は聞いた事はある。

「だからあなたとの片づけが最初の作業。ムードがあるとは言えないけど、人の後片づけが最初の共同作業なんて、私達らしくない?」

大人達の夢、あるいは野望。その道具として、本人達の意志によらしずて道を選ばされた過去。最終的に、大人達の夢は終わり、現実が始まった。そして、その夢を終わらせたのは他ならぬ自分達。更に、未だその影響を拭い切れぬ世界を作るのも自分達。それを思えば、他人の後片付けはぴったりの門出であるかもしれない。

「そうかもね。」

シンジはやっとレイに笑顔を向ける。

「でも、披露宴の招待者としては失敗かもね。」

シンジに分かってもらえたと知ったレイは、本気とも冗談とも知れぬ言葉を投げる。その表情は笑顔であったから、意味する所は考えるまでもなかったが。

 

会場には、初めは遠慮がちにぱらぱらと、それやら潮が満ちるようにゆっくりと拍手の輪が広がっていく。

大多数の人間にとっては、このアクシデントに対してどう行動してよいか分からなかったため、何だか誤魔化されたような釈然としない物を感じながらも 新郎新婦が納得したならまあいいかと言った程度の気持ちで拍手に参加していた。

それは咄嗟の機転で、マイクの回線をスピーカーに繋いだケンスケも同様であった。彼は過去のシンジ達を知っていたため多少は異なる感想を抱いたが、何といっても彼はこの会の責任者であり、レイに何と言われようと、シンジが納得しようと、罪悪感で満たされた心を癒す事は出来なかった。

そうでなかったのはケンスケを除く、過去のレイを知る人間達であった。

「ふふ、レイも言うようになったじゃない。」

ミサトが複雑な笑みを浮かべながら言う。その変化は嬉しいのだが、内容を考えると素直に喜べない。

「本当ね。あのレイがあれほどポジティブな性格になったとは驚きだわ。」

リツコにとっても驚きであった。ミサト達から変わったと聞かされてはいたが、実際それを目の当たりにすると驚きは隠せない。

「やっぱシンジ君の影響かしらね。」

「違うわ。多分レイはそうなる資質があったのよ。簡単に他人がどうこうできるほど人の心は簡単じゃないもの。よく言っても、シンジ君はきっかけに過ぎないわ。」

かつて自分が行った行為を思い出しながら、リツコが呟く。リツコですら知識操作はできても、心には手が出なかったのだ。

「かもしれんな。だが我々ではきっかけにはなり得なかった。当たり前だがな。ああなったのが彼女にとって真に幸福なのかは分からんが、今はあの笑顔を素直に祝う事でいいのではないかな。」

「そうですね。」

昔のレイを生み出すに最大級の関与をしたであろう人物が、単なる好々爺としてしゃあしゃあと言ってのける姿を、リツコは吐き捨てたい思いで軽く受け流した。

『この人は墓に行っても秘密を口にしないでしょうね。もう二度と。』

同時に、それもまた意識せずに知覚できたのも確かであった。

「それにしても、尻拭いが似合うなんて言ってくれるわよねぇ。あれ、絶対私達に向けていった言葉よ。」

「仕方がないわ。事実だもの。」

「そうよね。それに多分相田君をかばう意味も多少はあるかも。・・・皮肉に配慮、ほんと昔じゃ考えられないわ。」

それは冬月もリツコも同感である。昔のレイはよく言えば素直であった。たとえそれが、自分と他人を傷付けたとしても。事実意外の事象にはなんの興味も示さなかった。

「人としての成長と見るべきか、天使の失楽園と見るか。それを見守るくらいは許してもらえるのではないかね。」

その言葉にミサトのリツコも頷くしかなかった。

 

宴は最終章に入る。

未だ寒くはなってはいないが、日はだいぶ傾き、多少涼しくなった初夏の風が足元を駆け抜ける。

あのアクシデントもケンスケの必至のフォローで、内心はともかく表面上は落ち着き、何とか会を進行させる事が出来た。

「では最後に、新郎と新婦よりの言葉です。」

司会のケンスケが告げる。

既にそこにはマイクが設置され、そのすぐ後ろには15センチくらいの段が作られていた。

その横に控えていたシンジとレイは、ケンスケの言葉と共に並んで台に上がる。

両人とも先ほどの作業のため両膝が多少草色に染まっていたが、この期に及んでそれを茶化そうなどと言う者はいなかった。

『えーと何だっけ、原稿書いたのに・・・思い出せないなんて。シンジ落ち着けゆっくり思い出せ・・・』

やはりシンジはパニックに陥っていた。昔ほどではないが目立つのが苦手なのは変わっておらず、当然その経験も少ない。場慣れしない人間が突如スポットライトを当てられるとどうなるかという典型的な見本であった。

もちろんシンジもそれくらいの事は自覚している。だから原稿を書き、文学部出身の同僚に校正してもらって、期末試験並みに頭を使って自然に言えるようになる様練習したつもりだった。それでもこれである。

ちなみにレイに相談した事もあったが「思ったままを言うのが・・・一番だと思う。」というもっともな正論の前に撤退を余儀なくされた。

レイはなかなか話し出そうとしないシンジをいぶかしく思って、正面に向けていた顔をシンジに向ける。

『最初が碇君。次は私。』

そう取り決めてあったのだが、どうしたのか。

『焦っているのね』

シンジの目を見たレイには一発で分かった。シンジは焦ると虹彩の色がわずかに変わる。大学生の時気が付いたのだが、それ以来シンジはレイに嘘を付けなくなった。

この時も同じであった。まさかこの場で嘘など言う必要もないだろうから、何をどう言おうか困っている、とレイには感じられた。

『大丈夫。思った事、感じた事をそのまま言って。』

マイクは既に入っているから、その思いは口には出さなかったが、代わりに握ったり開いたりしているシンジの手をそっと手に取る。

パニックに陥っていたシンジではあったが、自分の手を優しく握る存在には気が付いた。

視線を横にやると、レイが自分をじっと見詰めている。

その視線は至極穏やかな物で、自分の焦りも共に静められるようであった。

少し冷静になれたシンジの脳裏には原稿のパーツが浮かび上がってきた。

レイの手を一瞬強く握り返すとその手を放し、一歩前に出て一礼する。

「皆様本日はお忙しい中お集まりいただき、まことにありがとうございます。僕たちの結婚式にこれだけの人が来てくれた事を思いますと、自分がどれだけ多くの人と関わって形作られた再確認させられ、感無量の思いがします。皆さん方は私達の大切な先輩であり友人であり後輩です。過去いろいろな場面で、いろいろな僕たちを見ていてくれたと思います。将来も彼女と二人、いろいろな私達をお見せできればいいなと思います」

一気に言いきるシンジ。再び一礼すると元の位置に戻る。

『原稿とは結構違うけど、ま、いいか。拍手してもらえたし。』

さしあたり自分の役目が終わりほっとする。拍手をしてもらえた所から、何とか成功だったのかなと思う。

そして自分を落ち着かせてくれた存在に目をやる。

レイは既に視線を前に戻していた。シンジと入れ替わりに前に出ると、同じように一礼し話し始める。

「繰り返しになりますが、本日は御来席誠にありがとうございます。夫ともども厚く御礼申し上げます。・・・昔の事になりますが、私達には両親がおりませんでした。私はもの心ついた時には天涯孤独の身、夫には父親がおりましたが遺伝的にはともかく、精神的には親子関係は存在しませんでした。そのせいでしょうか、二人とも人との絆を求めて、居場所を求めて必死であがいていたような気がいたします。幸いにも皆様と知り合う事が出来、生涯の伴侶を得る事ができました。この絆を現在の皆様と、ここにこられなかった幾多の方々と、将来の世代と共有できれば幸いと存じます。」

正直シンジですら驚いていた。レイがここまで形式ばった敬語を操れるとは知らなかったし、これだけの分量を話すのは珍しい事だったから。

レイの事なら大体分かると思っていた自分のなんと傲慢な事か。10年付き合っても知らない事が次々に出てくる。人の奥深さを思い知らされたシンジであった。

レイが拍手と共にシンジの横に並ぶ。レイはシンジが自分を見ている事に気が付くと、あのシンジを魅了して止まない笑顔を向ける。

いくら見ても飽きないその表情に、シンジは今でも顔が熱くなる。

顔を赤らめて前を向いてしまったシンジを、レイは楽しそうに見詰めていた。

「ありがとうございました。では新郎新婦の退場です。皆様拍手でお送りください。」

ケンスケの声が響く。

シンジはまず自分が段から降りて、次にレイが何事もなく降りるのを確認すると、自分の左腕を差しだす。レイはその差し出された腕を自分の右腕に絡めた。

万雷の拍手の中、二人はそろって退場して行く。

送り出す側の胸のうちは様々だったが、その前途が明るい物である事を祈らない者はいなかった。

 

幾度か通った控え室への小道。

ただまっすぐな道が続いている。

少し傾いた太陽がその道を真上から照らし、短く刈りこまれた芝を黄金色に染め上げる。

周囲の木々による暗さが、よりその光を際立たせている。

その光景にシンジはどこか既視感を覚えた。

『どこだったろう』

大事な記憶のはずなのだがどうにも思い出せない。

「なにか、この道見慣れちゃったね。」

何度も通ったからだろうと自分を納得させる。

その思いはレイも同様であったのだろう。一点を除いて。

「違うわ。エデンへの路。神の御許を離れたヒトが通った路だもの。」

「綾波?」

思わず昔の言い方でレイを呼んでしまう。いったい彼女は何を言っているのだろう。そう思う。

レイはしっかりと腕を組んだまま、視線を前に固定して歩き続ける。

「あなたが私から離れる時に通った道。それに似ているのよ。」

淡々とした口調。昔のように一切の感情を感じさせない口調。レイが不機嫌になるとこのような口調になる事をシンジは知っていた。

「僕が・・・綾波から・・・あっ!」

後になってレイから聞かされたあの戦闘の顛末。

シンジは補完計画の事も多少は聞かされていた。

自分は夢だと思っていた事が、人類の未来を決めたとは未だに信じがたいが、とにかく最後になって、「現実」に生きる事を選らんだ。アスカを選び、レイから離れた。

そして現実に帰ってくる時、一本の金色の道を通った事を思い出したのだ。

一切の闇の中、不安に押し潰されそうになりながら進んで行く。直感に頼りながら進み、後僅かでそこから出られると感じた時、何気なく振り向いたシンジの後ろには、金色の道が出来ていた・・・

「あの時は・・・その・・・」

「何も言わないで。」

思わず謝りそうになるシンジだったが、レイの言葉に何も言えなくなってしまう。

「碇君のあの時の選択は間違っていたとは思わないわ。だからいいの。」

レイはいったん息をつくと、口調も声色も普段の物に戻した。

「それにこれからは私の隣りにいる。それで十分。」

「レイ・・・」

「そう思えば、あの道は私達の始まりだったのかもしれないわね。」

「そうだね」

そう返すシンジだったが、本当は違うのかもしれないと考えていた。自分が始めて第三新東京市に来た時に見たレイの幻。そこから始まっていたのではないかと思う。

あの変わらない夏の中で繰り返された多くの悲劇と、少しの喜劇。

何もなかったお互いにできた、ほんの少しの絆。

すべての物語はそこから始まったのではないか、そんな気がする。

「僕たちはどこに行くんだろうね」

少々感傷的になったシンジは、遠い目を空に向けながら呟く。

「明日。」

レイの返答に迷いはなかった。

 


 

to be continued Korekara

 

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