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「ごちそうさま。美味しかったよ。」

シンジは麦茶の入っていたコップの残りを一気にあおると、満足した気分でそのコップを机に置いた。

「どういたしまして。」

レイは淡々と答えると、側に置いてあったトレイに空いた食器を乗せ、手早く机の上の皿を片づけ始める。

「ああ、そんなの後でいいのに。」

そう言ってレイの手を掴もうとしたシンジだったが、一瞬のタイミングの差で逃げられてしまった。

「結局やるなら同じ事。」

「ちぇっ。」

舌打ちしたシンジを後目にレイは流しへ皿を運んで行き、蛇口を捻って水を出す。その慣れた手つきは、この場所でこうすることが再度ではないことを如実に示していた。

そんなに手の込んだ料理でもなく、量も大したことはないので洗い物などすぐ終わるだろうが、差し当たりすることのなくなったシンジはテレビでも見ようと床に投げてあったリモコンに手を伸ばす。が、テレビの電源を入れようとした瞬間インターフォンが鳴った。

(こんな時間に誰だろ?)

どうせ大学の友人だろうとは思う。

時計を見れば8時。確かに遅くはないが、それ以外の人間の来る時間でもない。公共料金の払いはすべて自動引き落としだし、新聞の勧誘にしては遅すぎる。怪しい訪問販売の類はここに引っ越してきてから一度もなかった。

「出てくれる?」

流しからレイの声が聞こえた。

流しと扉は3歩の距離もないのだが、現在レイの手は洗剤まみれでとても扉に触れられる状態ではない。

シンジは来客を推測しながら立ち上がり、壁に掛かっているインターフォンの受話器を取って耳に当てた。

「はい?」

『あ、碇シンジさんでいらっしゃいますか?』

「ええ、そうですけども。」

(ネームプレート見なかったのかな?でも、誰だろ?)

少なくともシンジの知り合いに、このような口調と声の人間はいない。

感じとしては中年かそれ以上の男性。大学生のシンジとは縁の薄い年代の相手であった。

『私、小笠原法律事務所の小笠原と申しますが、少々お話がございましてお伺いいたしました。夜分申し訳ありませんが、是非お時間をいただけないでしょうか?』

「はあ・・・」

シンジの頭は混乱した。

(僕何かやったっけ?無免許で車乗ったのがばれたとか、バイト先の備品壊したのがばれたとか・・・)

『碇さん?』

何かではなく、シンジの脳裏に浮かんだ全ての事ははっきりと犯罪なのだが、それはともかく再び自分を呼ぶ声でシンジは正気に返った。

「え、あ、はい。あの、それでどういう用件で・・・」

『ここで詳しくは申せませんが、お父上についての件です。』

「!父さんの、ですか?」

『はい。』

「お待ち下さい。」

シンジは受話器を置いた。

「指令がどうしたの?」

レイも今の会話を聞いていたようだ。室内に戻って来た。

もしかすると扉越しに聞こえたのかもしれないが、レイにとってもゲンドウは縁浅からぬ人物、軽く聞き流すことは出来ない。

「分からない。だけど今頃になってどうして父さんの事・・・」

「とにかく話を聞いてみましょう。」

「そうだね。」

レイは蛇口をいつも以上にきつく締めた。そして掛けてあったタオルでしっかりと手を拭く。

シンジは玄関に歩いていき、チェーンと鍵を開け、取っ手に手を掛けて右に回した。


これから (後編)


「あ、どうもありがとうございます。」

6月の梅雨の時期。外は夜とは言え、余程暑苦しかったのか小笠原はハンカチで額から吹き出る汗を拭きながら、レイの運んできた冷たい麦茶のグラスを口にした。

こたつほどの大きさの机の正面に座るシンジは、そんな小笠原が用件を切り出すのを緊張した面もちでじっと待っている。それはレイも同じであるらしく、来客の目的がシンジであるにも関わらず、自然とその隣に席を占めるのであった。

そんなレイの動きを見て、小笠原は意外そうな顔で口を開いた。

「お伺いしたいのですが、こちらの方は奥さんですか?」

「は?」

シンジとレイは思いもかけない切り出し方に一瞬唖然となり、互いの顔を見合わせた。

「ち、違います!」

そしてその言葉に意味を理解すると、シンジは真っ赤になって慌てて否定した。レイの方はとりたてて表情の変化はないが、居住まいをそれとなく正したところから満更でもないらしい。

「ではお身内の方で?」

「いえ・・・それがどういう・・・」

シンジの言葉を聞き、ようやく得心がいった小笠原だったが、すぐに申し訳なさそうな顔になって言葉を続けた。

「これからお話しすることは、多分にプライベートな件を含みまして、出来れば第三者の方には席を外していただきたいのですが・・・」

『第三者』という言葉にレイは内心失望を禁じ得ないのだが、法律的にはまさにその通りである。

(私はいない方がいいのかも・・・)

そう考えて腰を浮かし、掛けてあった薄手のジャケットとハンドバッグを手に取る。

「私、帰るわ。」

「ちょっと待ってよ。」

シンジとしてもレイの内心は想像が付く。

(碇家のことなら自分には関係ないし、もし必要なら後で僕が話すだろうと思っているんだろうな・・・)

信頼してくれるのは嬉しいのだが、出来ればレイにも一緒に聞いて欲しかった。一人で聞くのが怖いのではなく、当時ゲンドウに最も近かった存在としてレイも無関係ではないと考えていた。

「どうしても彼女がいてはいけませんか?」

「私としてはお一人の方をお勧めします。」

(やれやれ。)

小笠原は心の中で嘆息した。

第三者が関わったことで、その後の人生を狂わせたケースを彼はいくつも知っていた。それは知っているのはと言うだけで実際にはもっと多いに違いない。

「構いません。綾波も座って。」

「いいの?」

「うん。」

レイは逡巡の色を見せたが、話への興味とシンジへの信頼が上回ったのか荷物を置いて再び腰を下ろした。

「では説明させていただきます。」

小笠原は鞄の中から、薄茶色の紙袋を取り出す。

「まずは確認させていただきますが、碇さん、一昨日の六日に二十歳になられましたね?」

「はい。」

「結構です。これをどうぞ。」

袋から書類の束を取り出し、シンジに読みやすい様にしてテーブルの上に置く。

「これは?」

「遺言です。」

「遺言・・・ですか。」

あの戦いで数多くの人間が死んだ。

今でも謎とされているが、LCLの湖から還ってきた一部の人間を除き、現在でも公式には500近い未帰還者がいる。巨大な爆発のためか、その後の調査でも遺体が一つも見つからなかったため「未帰還者」とされているが、実際は死亡と同義と取られていた。

シンジの知る限りでも、オペレーター伊吹マヤと、そしてネルフ司令碇ゲンドウは戻っていない。そして今後も戻ってこないだろう事はシンジだけでなく、レイにも分かっていたことだった。

シンジはその責任の一端が自分にあると思うと、今でも心が押しつぶされそうになる。

奥歯を噛みしめながら、シンジは渡された書類を手に取り、まるで心のかさぶたを剥がすようにそっとページをめくった。

「これはなんです?」

遺言と言うからには形式張った法律用語の羅列が出てくるのかと思いきや、適当にページをめくったせいもあろうが予想外の記載。シンジは手元の数字と小笠原の顔を何度も交互に見比べた。

「遺産の目録ですよ。」

「遺産?父さんのですか?」

「そうです。実際には相続税分が既に引かれていますが、間違いなくゲンドウ氏の資産だった、そして現在あなたの物となった資産です。」

シンジは再び書類に目を落とす。

確かに項目には現金・預金・有価証券から、どこにあるのか聞いたこともない固定資産の名まである。動産に至っては数が多すぎるらしく別の束にまとめられていた。

「綾波、知ってた?」

レイものぞき込むようにしてその書類を眺めたが、レイの知っているような名前は全くなかった。

「分からない。プライベートは殆ど知らなかったから。」

「そう・・・」

シンジは内心戸惑っていた。

目の前に並ぶ巨大な数字。

一般教養で取った天文学でこのくらいの数字があったような気もするが、とにかくシンジの感覚では把握しきれないくらいの額であった。

「この数字は、間違いないんですか?」

「驚かれるのも無理はありませんが、間違いありません。お父上は相当な資産家だったようですね。」

「はあ・・・」

実際ゲンドウは資産家だった。

ゲヒルンの時代から、表沙汰には出来ない資金等は全てゲンドウの個人資産という形が取られており、その為冬月などにその裏を嗅ぎつけられたりはしたが、組織がネルフとして再編された後も、その資産の一部はゲンドウ個人に任されていた。

初めはゲンドウもゼーレに従順な様に振る舞い、出来たはずの不正流用も起こさなかったので問題は全くなかった。

が、結局ゲンドウはゼーレと決別。

その資産は凍結されたが、サードインパクトの混乱の中でゼーレもまた崩壊。偶然と混乱と忘却の中で、その資産が接収されることはなかった。

そしてゲンドウの死亡とシンジの生存。相続が発生するのは当然の結果だった。

「今になったのは、あなたが二十歳になるまでこのことは隠すという契約をゲンドウ氏と結んでいたからと言うことをご了承下さい。」

これには嘘がある。この資産のことを知った彼の共同経営者が、小笠原に無断で先物取引に投資し大失敗。それを取り戻すのに5年かかったという裏があった。

「あの・・・」

そんなことは露知らず、より重要なことに気を取られ、表情の選択に困ったシンジは俯いて質問した。

「遺産って言いましたが・・・父さんが死んだのが確認されたんでしょうか?」

(父さんが、死んだ。)

額も気になりはしたが、どちらかと言えばそちらの方が重要であった。

『行方不明』であれば、内心死んだと分かっていてもまだ救われる。

だが死亡が確認された時、自分の心が完全な天涯孤独になることに耐えられるか。シンジは無意識の内にレイに顔を向けていた。

「確認はされておりません。ですが当時第三新東京市は戦争状態にあった、と言って間違いないでしょう。法律的には、そのような状況下での行方不明者は一年後には死亡と見なされます。」

「そうですか・・・」

(情けないな・・・)

それは分かってはいたが、死亡の確認がされていないということで、とにかくシンジはほっとした。

そして、それはレイも同様だった。

(司令の心は、あの人の魂と共にあるもの・・・)

見えるはずのない、宇宙の果てに向かって想いを馳せる。その先には、虚空の闇を行く初号機がいるはずだった。

 


 

「と言うことは、アンタ今じゃお金持ちって訳?」

今まで見学していた台所を後にして、アスカは背後からついてくるレイに問いただした。

「違うわ。」

「嘘おっしゃい。こーんな一等地の新築マンション買っちゃってさ。普通に共働きしたって無理だって事くらい分かるわよ。」

「そうかもね。」

「部屋数だって多いしさ。ここまでタクシーで来たんだけど、一瞬住所間違ったかと思ったわ。」

「そう。」

「・・・あんたねぇ。あくせく働いてるアタシを馬鹿にしてんの?」

レイの単調な答えにアスカが切れた。必死に働いたのならともかく、棚ぼた式に金持ちになること自体そもそもアスカには気にくわない。

逆にレイにしてみれば、これは言いがかり意外の何者でもない。自分は初めから否定しているのに、アスカが勝手に騒いで勝手に怒っているのである。多少口数が少ないとは思わないでもなかったが、それは性格だと思っていた。

「馬鹿になんかしていない。嘘も謙遜もしていない。本当よ。」

「だったら何でこんな家に住んでるのよ。司令の遺産で買ったんじゃないの?」

「そうよ。」

「やっぱりお金持ちじゃないの。」

「今は違うわ。」

「今は?」

「そう。」

別の部屋を見学しようとここまで歩いてきたアスカだったが、そのレイの一言で足が止まった。

くるりと後ろを振り向いて、じっと自分を見つめるレイの顔をまじまじと見つめる。

「ここ買うのに全部使っちゃったの?」

「1%にも満たないわ。」

(げ。)

具体的数字まで聞くのは流石に失礼だろうと今までそれは聞かなかったが、どうもこの様子では恐ろしいまでの額だったらしい。

「じゃ、残りはどうしたのよ?」

「そうね・・・目立たないように分散したから全部は覚えてはいないけれど・・・」

「いないけど?」

「殆ど寄付したような気がする。」

「あ、アンタ達は・・・」

アスカは目の前が真っ暗になったような気がした。

(そりゃまあ二人とも物に執着があったようには見えなかったわよ。でも、でも・・・いったい何考えてるのよ?!)

現実感を失い、どこかふわふわとした膝を必死に押さえつけ、叫びたい自分を喉の奥にとどめて、アスカは努めて冷静たらんとする。

寄付という行為が貴いものだとは思うが、まるで資産を捨てるような寄付まではマトモだとは思えないアスカだった。

「あのさ、どういった心境でそういう事しようと考えたのか、教えてくれないかしら?」

背後の扉にもたれかかり、アスカはレイの言葉を待つ。

「立ったままだと疲れるでしょ?扉の中入って。」

「ちょっと、こっ・・・」

こっちの質問に答えなさいよ!と続けようとしたアスカだったが、レイの現状に気が付いてそれを止めた。自分はともかく、妊婦をずっと立ったままにさせておくのは得策ではない。居間に戻るより、中に入る方が近いのは自明であった。

よく見れば、レイは僅かながら悲しそうな表情になっているように見える。余り感情の起伏が激しくはないレイの表情は見慣れないとなかなか判別しにくいが、アスカなればこそ微妙な変化にも気が付くことが出来た。

(結構長い話なのかしら?)

裏に複雑な事情のあると察したアスカはノブに手をかけ、木製の扉をゆっくりと押し開ける。

「寝室・・・」

中は寝室であった。ダブルベッドはきれいに整えられ、奥に置かれているクローゼットはなかなかしっかりした作りのように見える。反対側には3面の鏡台が据え付けられているが、余り化粧品が置かれている様子はない。そして白木の扉の収納の中身は分からないが、白いレースのカーテンと相まって新築の家に相応しい清潔さを感じさせた。

(やっぱこの子変わってるわ。)

アスカは辺りを見回しながらそんな感想を抱いた。もし自分であれば、少なくとも寝室だけは他人に見せたりはしないだろう。

「適当に座って。」

「おっけー。」

と言っても寝室にはまともな椅子などあるわけもない。仕方なくアスカは奥の鏡台の小さな椅子に座ることにした。

そしてレイはそのままベッドに向かいそこに腰掛ける。

「で、お聞かせ願える?その理由って奴を。」

アスカはその長い足を投げ出し、上半身は椅子から落ちない程度に後ろに傾けて聞く体勢をとった。

レイはそんなアスカを見て、覚悟を決めたかのように大きく深呼吸をし、ぽつりと一言呟いた。

「怖かったの。」

「お金が?」

それならば理解はできる。

自分がコントロールしきれる範囲内ならば、金銭という物が一定の自由を保障する物だとアスカは理解していたが、望んだ訳でも予想していたわけでもない巨額の金銭が手に入ったら、果たしてそれまでの自分を維持できるか自信はない。シンジやレイはもとより、一般人より許容量は大きいだろうが、それとて限度はあるだろうとは思う。

「違うわ・・・・・・・怖かったのは、人。」

「どういう事よ?」

「その弁護士が帰った後、私達相談したわ。でも、少し買い物したり旅行したりするくらいしか思い浮かばなかった。」

(それはそれで面白かったけれど・・・)

一通りの欲望を満たしてなお殆ど資産に目減りはない。

「どうしたらいいのか分からなかったから、冬月さんに相談したわ。」

「冬月、副司令の事ね。まあ妥当なところか。」

アスカは現在のレイの交友関係など知らないため、その想像力は自然ネルフ時代の関係者に止められていた。その中で、どうしても相談しろと言われれば、一に加持、二・三が無くて四に冬月となっただろう。

「冬月さんは堅実な手を打ってくれたわ。だけどその過程で、どこからか話が漏れてしまったの。」

レイはシーツを強く握りしめた。それからのことを思い出すと、今でも後悔と失望が蘇ってくる。

「それからが大変だったわ。私はそれほどでもなかったけれど、あの人の方が参ってた。」

(そういうことか。)

尚も続くレイの話を聞きながら、アスカは改めて人間の醜さという物を認識させられた。

セカンド・サードインパンクトで地球の人口は激減したはずだが、それに生き残った人間が、必ずしもその後の世界に相応しい者ばかりではないようだった。

「傷つけられもしたし、友人もたくさん無くしたわ。人は分を越えた物は持ってはいけないと、改めて気が付いたの。」

(何の事かしら?)

レイの言葉の中には、金銭だけでなく別の物を含んでいるような気がした。直感的にエヴァンゲリオンの事が思い浮かんだが、アスカ当人にしてもなぜ自分がそう思ったのか理解は出来なかった。

「その魔力に人は惑わされる。誰にも抑えられる物ではなかったわ・・・」

(そう・・・結局ネルフって何だったのか。本当にエヴァって必要だったのか、考えてみればそれすら分からないわね・・・)

訳の分からない使徒が来るからネルフが出来て、エヴァが出来た。

昔はそれでいいと思っていた。だが、今にして思えば納得のいかない部分が多すぎる。証拠があるわけではないが、それ以外の仮定も成り立ちそうであった。

「だから・・・」

「あ、ああ。だから寄付とかしたのね。」

レイの声で、アスカは今自分が何をしていたか思いだした。少なくとも、一人考え込む時間ではい。

「でもさ、ここも遺産で買ったって言わなかった?今から5年前のことでしょ?計画段階から予約してたとか。」

「まさか。本当は家なんて買うつもりはなかったわ。」

「現に買ってるじゃない。」

アスカの突っ込みにレイは目を落とした。

「そう。でも、この子達に、帰ってくる場所を作ってあげたくて・・・それが建物を指している言葉ではないとは分かっていたけれど、出来るだけの環境は作って上げたいから・・・」

近い将来に思いを巡らせ、レイは大きな腹部をさすっていた。

(すっかりママねぇ・・・)

アスカも同性ながら一瞬目を奪われる、そんな穏やかな表情だった。

「そうシンジに言ったら、あの人言いにくそうに白状したわ。『実は一部、残してあるんだ』って。」

「それってレイに嘘ついてたんでしょ?アンタ怒らなかったの?」

「もちろん怒ったわ。」

「どうやって?」

果たしてレイが怒るとどのようになるのか。アスカとしては非常に興味のある命題だったので、目を輝かせてレイの答えを待った。

「思い切り抱きしめてあげた。」

「・・・・・・・・はいはい。」

(何のこと無い。惚気られただけじゃないの。)

馬鹿馬鹿しくなってアスカは勢い良く立ち上がった。

復讐の意味も込めて、この夫婦のプライバシーを覗いてやろうという不健全な発想が、アスカの心の奥底から沸き上がってくる。

「でも本当に一部だったから、これからはローン生活。」

「それはよござんしたねー」

手近のクローゼットの前に立って、銀色の取っ手に手をやり、臆することなく白木の扉を開く。

(えっ?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・はっ!)

中を認識した瞬間、一瞬意識の跳んだアスカだったが、正気に戻ると慌てて扉を閉めた。

「何?」

「あはは、何でもないわ。そう、何でもないのよ。ホントに。はは・・・」

(よく考えたら、シンジも『あの』司令の息子だもんね〜。あっても不思議じゃないか。)

頬を赤くしながら、アスカは不思議そうな顔で自分を見つめるレイに、乾いた笑いを送り続けるのであった。

中に何があったのか、真相が暴かれる日はおそらく、ない。

多分。

 


 

二人は同時に紅茶を飲み終えた。

カップをテーブルに置くその瞬間まで、お互いまるで貴族令嬢であるかのような優雅な仕草だったが、残念ながらそこからが大きくランクダウンすることになってしまった。

「あー遅いっ!ヒカリは何やってるのよ!」

「もう一杯どう?」

「・・・要らないわよ。」

壁の時計を穴の開くほど見つめても時間が早くなるわけではない。

終いにはその時計に憎しみを覚えるほど見つめたが、時間はやはり3時30分を指していた。

約束は2時。アスカの知っているヒカリからは考えられない大遅刻であった。

「遅れるのは仕方ないけどさ、せめて連絡くらい寄越すのが常識って物じゃない?」

アスカは背もたれに寄りかかり、首の後ろで手を組んでぼやく。

「・・・・・・・連絡ならあったわ。」

クッキーを食べていたため、少し遅れてレイがさらりと答えた。

「いつ?」

「あなたがトイレに入っている時。」

「どのくらい前?」

「約一時間。」

「アンタねぇ、そういう事は早く言いなさいよ。」

「言わなかった?」

(マイペースと言うか抜けてると言うか。)

おそらくレイには自分が何度注意しても無駄だろう。この瞬間アスカは確信した。

シンジに言って貰うのが最も効果的だろうが、シンジの場合、それすら好ましく思う可能性がある。

(いえ、きっとそうに違いないわ。・・・何て言ったっけ、『炉端にえくぼ』だったかしら?)

どうも違うような気がして本格的に考え込もうとした瞬間、アスカの耳にインターフォンの鳴る音が飛び込んできた。

「来たようね。待ってて。」

レイは席を立った。

居間を出て廊下を通り、玄関に出てサンダルを履き、ドアの穴から外を覗く。

(間違いない。)

外には青のサマーセーターを着込んだヒカリの姿が見える。晴れてはいても鬱陶しい気候、ヒカリは多少参っているようにも見えた。

「今出るわ。」

レイは鍵を開け扉を開いた。その瞬間、多量の湿気を含んだ空気がレイを包み込み、レイはその気持ちの悪さに眉をひそめる。

「お久しぶり。遅れてゴメンね。」

逆にヒカリから見ると、ようやく爽やかな空気に触れられたと言うところである。砂漠でシャワーを浴びたような、そんな心地よい気分でレイに挨拶した。

「うっわー、大きくなったのねー。」

と同時に、目を丸くして驚くヒカリの背後に、レイは予想外の人物の姿を認めて口を開きかけたが、先ほどのアスカの言葉が思い出され結局黙ってしまった。

『鈴原とか相田、激怒してたみたいよー。』

(この人、今は危険。)

「・・・何?」

「おいおい、アポ無しで来たのは悪かったけど、長年の友達に向かって『何?』はないだろ。」

ケンスケは苦笑した。

(相変わらずだな。)

昔に比べれば普通になったレイだが、それでも時々ケンスケの理解力を越えることがある。自分は時々だから楽しいが、これに四六時中楽しみながら付き合えるのは、それこそシンジくらいな物だろうと思う。

「怒ってる?」

「怒る?誰に?」

「私達。特にシンジに。」

「シンジに?何で・・・ああ。」

ケンスケは気が付いた。

確かにトウジと飲んだ時、シンジを肴に盛り上がってそんなことを言ったような気もする。どこから聞いたかは知らないが、レイはそのことを言っているのだろう。

「あのな綾、碇。」

「言い難いなら旧姓でいいわ。」

「そうさせてもらうよ。あのな綾波、あれは酒の席の冗談だって。祝い事じゃないか。順序が逆なんて愛嬌だよ。」

相田君。

またケンスケが余計なことを言ったと思い、ヒカリは小声で注意をしたが、幸か不幸かケンスケの言葉がレイに影響を与えることは全くなかった。

「そ。入って。」

(これで良かったのだろうか?)

何事もなかったかのように二人を招き入れるレイ。誤解が解けたのはいいのだが、何か自分が軽視されたような気がして、何となく釈然としないケンスケだった。

 


 

部屋には様々な匂いが溢れていた。

ケンスケが持ってきた花束のむせ返るような香り、倍に増えた紅茶の透き通った香り、3人の女性から僅かに感じる香水の匂い、4人の前に置かれたモンブランの甘い香り。

傾きかけた太陽だったが、この時間はまだ夕方という感じは与えない。どことなく疲れた感じがするのは見る者のせいであって、太陽が変わっているわけではなかった。

そんなゆっくりとした午後の一時、アスカは目の前の皿の最後の一口を自らの口に放り込むと、呆れたような口振りでケンスケに話しかけた。

「アンタ社長やってるんでしょ?こんな平日の昼間に油売っててもいいわけ?」

「社長がいつもいつも忙しいようだったら、その会社は終わりだよ。」

ケンスケはティーカップを傾けつつ平然と答えたが、そんな演技に騙されるアスカではない。

「見え見えね。はっきりと仕事がないって言いなさい。」

「く・・・今に見ていろ・・・」

図星なだけに何も言い返せない。一時の最悪期は脱したとはいえ、日本経済は好況とは言えなかった。

「仕事がないって言えば、レイさん仕事どうしたの?産休?」

ヒカリのその物言いにケンスケは一層傷ついたように見えたが、それはともかく、レイは無言で首を横に振った。

「じゃあこれからはお母さん一筋なんだ。」

「専業主婦?アンタもつまんない選択したわね〜。」

レイは更に首を振る。

「産んでから一・二年は主婦でいるわ。けど、それからは福利厚生施設の整っている所で働くつもり。」

かなり都合のいいプランの様だが、一概にそうとも言えない。

セカンドインパンクトの影響と高齢化の進んだ現在の日本では、労働力の不足が深刻な問題となっていた。

企業としてもかつてのように『結婚した女性は家庭にいるべし』などと言える状況ではなくなっている。一部の大企業ならば外国から優秀な人材をいくらでも登用できたが、日本経済はそれら企業のみで成り立っているわけでもない。その為女性の社会進出は大きく進んでいた。と、言うよりそれ以外に選択の余地はなかった。

加えて前世紀末より進んできた実力主義が、日本企業にも根づいて来ていた。

さぼれば首になる分、結果を出せば相応に報われる。それが今の民間企業で働くと言うことである。

従って、優秀ならば女性だろうと既婚だろうと関係ない。むしろ、人材を他に奪われないためにも福利厚生は拡充される傾向にあった。

そして、レイは十分に優秀であった。

「ちょっと待った!そういうことなら是非ウチに来てくれ!施設はないけど在宅勤務で構わない。もちろんネットワーク化の経費は出すし給料も相応に出す。どうだ?」

『この前綾波が社長賞取ったんだ。これで4回目だよ?多分僕より給料多いんじゃないかな。』

ケンスケは以前シンジからこう聞いたことがあった。

その時はかなり色目が入っていると思って聞き流していたが、別の時、試しにヘッドハンティング専門の会社に調査させた所、色目どころかかなり控えめな表現であることにケンスケは驚愕した。

それ以来、何とか機会があればと思っていたが、今はまさに千載一遇の好機であった。

(どうしようかしら。)

レイは考える。

給料は出すと言っている。

子供を預けられないのでは仕事に影響するだろうが、その分自分で面倒を見ることが出来る。

両立は大変だろうが、だからと言ってどちらかを捨てることはしたくはない。

(シンジは何て言うかしら?)

「・・・考えておくわ。」

とりあえず結論を出すこと止めたレイは、ひとまず回答を保留した。

「ああ、忘れないでくれよ。他の所に行く前にまずウチに声を掛けてくれ。」

「あ〜うるさいっ!アンタ仕事の話しにきたの?だったら邪魔だから帰ってちょうだい。」

「え?いや、そうだな・・・済まなかった。」

実の所アスカがケンスケに言える権限はどこにもなかったのだが、言っていることは間違っていない。ケンスケは素直に謝罪した。

「そういや惣流こそ何やってんだ?結婚式といい今日といい暇なのか?」

「アンタと一緒にしないでよ。アタシは今フリーのジャーナリスト。だから時間は割と都合が付くのよ。」

「ジャーナリスト?惣流が?」

「私はぴったりだと思うわ。行動力も直感も知識も凄くいるんでしょ?」

(ゴメンね、ヒカリ。)

ジャーナリスト、その肩書きは間違っていなかった。だが自分のもう一つの顔、それは知らない方がヒカリのためであった。

(自分で望んだ道だけど、こういうことはばらしちゃいけないのよね、そうでしょ?加持さん。)

本来謝罪するべき物でもないが、心苦しいのもまた自然な感情である。にも関わらず、訓練の賜物か、そんなことはおくびにも出さずに話を続けるアスカ。

「加えて顔の広さ。ネルフ時代の人脈って意外と役に立つのよね。」

「そりゃそうだろうさ、裏の大物が絡んでるんだろ?エヴァのパイロットが秘密をばらすぞって脅せば・・・」

「アンタ馬鹿ぁ?!そんなことしたらこっちが先に消されるわよ。」

その通りであった。

一応チルドレンは国際公務員扱いであったので、ネルフが解体された今も恩給という形で金銭が支払われている。

だがそれは、これで満足しないようなら何が起こるか分からないという警告、形を変えた口止め料であることは皆承知していた。

「そうなの?」

ヒカリが心配そうに尋ねる。

「まあね。普通に暮らしてる分には関係ないんでしょうけど、こんな仕事してるといろいろとね。」

「無茶しないでね。」

「分かってるわよ。そう何度も死ぬつもりはないわ。それよりヒカリこそどうしたのよ。先週会社辞めたんだって?」

ヒカリから届いた突然のメール。

アスカはその詳細をまだ聞かされてはいなかった。

「これはある友人から頼まれたんだけど・・・」

「あ、相田君・・・」

「アンタには聞いてないわよ。」

「まあ最後まで聞けって。」

冷たく言い放つアスカだったが、ケンスケは今回はめげなかった。むしろ楽しそうな顔をして、ちらりとヒカリの方を見る。

そのヒカリは口を挟まれた格好にも関わらず、怒るどころか視線を落とし、体はもじもじと動かし、落ち着かないことこの上ない。

(?)

レイもアスカもそのおかしな状況には気が付いていたが、ヒカリが何も言わないので黙ってケンスケの言葉を待った。

「ある友人が俺に頼んでさ。どうしても転職させたい人間がいるからって俺に相談してきてさ、喜んでセッティングしたんだよ。」

「ヒカリと何の関係があるのよ。」

「欲しがられた人間が洞木さ。」

「辞めたって言うのはそういうことなの?」

得意そうなケンスケと、意外そうなアスカ。アスカにしてみれば、ヒカリはどちらかといえば一カ所に腰を落ち着けるタイプで、条件がいいからと言ってほいほい転職するタイプには見えなかった。

ヒカリは尚黙っている。

「で、後からその友人に聞いたんだけど、なんて口説いたと思う?『ワシん所に来てくれへんか?食うには困らせんし、後悔もさせん』だと。今時ねえ。」

ヒカリは真っ赤になっていた。一部は夕日のせいもあろうが、この場合それ以外の要素が大きい。

「それってもしかして・・・転職って・・・」

流石にここまで来れば分かる。両目と口とで3つの楕円を描きながら、アスカは驚愕で二の句がつけないでいた。

「おめでとう。」

沈黙する場を破ったのは、レイのこの一言だった。

ありがとう・・・

小声の謝辞がアスカも正気に戻す。

「ヒ、ヒカリッ!ホント?本当にそうなの?ホントに永久就職?」

アスカはヒカリの横に駆け寄って、無理矢理自分の方に体を向けさせると、触れるぐらいに顔を近づけてヒカリに詰め寄る。

「アスカ、えっと、その、もうちょっと離れて・・・」

「ホントなのっ?」

ますますにじり寄るアスカ。その分ヒカリは後ろに逃げざるを得ないわけで、背中を反らせてアスカの顔から離れようとする。

「ホント?」

「だから・・・うん。きゃあっ!」

これ以上逃げようがないとヒカリが正直に答えた瞬間、ついにそのバランスが崩れてヒカリは椅子から派手に落ちた。

「いったたたた・・・」

「ヒカリ、大丈夫?」

慌ててヒカリの手を取って立ち上がらせるアスカ。それを見てケンスケはぽつりと呟いた。

「自分のせいだって分かってるのかな。」

「多分、分かってないわ。」

レイもまた同意見だった。

「ま、何はともあれおめでとう。」

頭を掻きながら、アスカはヒカリに祝辞を贈るのだった。

 


 

「それにしてもヒカリまでもねぇ・・・何で?」

アスカとしては、相手がトウジだと言うことにも納得がいかないが、まさか本人がいる目の前でその婚約者をけなすことなど出来ようもない。何しろ似たようなことをシンジ達の結婚式でやってしまったことが、まだアスカの記憶に残っていた。

(何でアタシの周りはみんな早いのよ。)

従ってその疑問は置いておき、アスカはそちらの疑問に集中した。

ドイツでもアメリカでもエジプトでも中国でも日本でも、どういう訳か友人は結婚するのが早い事が多い。

女性の社会進出に伴い、平均結婚年齢は上がっているはずなのにどうしてこうなるのか。アスカは統計の調査元に聞きたくなった。

「何でって言われても・・・そろそろいいかなって思ってたから・・・」

責められているわけでもないのに、ヒカリは申し訳なさそうに小声で答える。正直を言えばそれもまたアスカには気に入らない。

「全く・・・レイもヒカリもクリスマスだからって焦っちゃって・・・」

「そういう訳じゃ無いけど・・・」

「クリスマス?去年の?」

「ああ、クリスマスっていうのは25歳のことさ。」

レイがこういった事を知らないのは慣れていた。

驚くようなことを知っているが、それを補うようにして俗語や常識が欠如したりする。ケンスケにとっては全く不思議な存在であった。

「ほら、クリスマスケーキってさ、12月25日すぎると途端に売れなくなるだろ?それに掛けてさ『25過ぎれば売れ残り』っていう言い回しがある・・んだ・・・・け・・・・・ど・・・・・・・・」

「あ〜い〜だ?遺書の用意はいいかしら?」

「いや、だから、今のは例えじゃないか、惣流が25だなんて、全然見えないって。大体25なんてまだま・・・」

「『にじゅうごにじゅうご』言うなぁ!!」

(ふふっ・・・・)

レイはにこやかにケンスケがしばかれる光景を眺めていた。

学生時代に戻ったような光景。懐かしかった。

おそらく昔の自分では決して理解できなかった楽しさ。高尚でも、役に立つ訳でもないが、ただ笑うことができる。それで十分意味があった。

(けど・・・これ以上は後が大変。)

ヒカリの制止にも関わらず、散乱の度合いを深めていく居間。幸いティーカップは既に下げた後だったので足を切る心配はなかったが、単にそれだけのことであって後の掃除の苦労が思いやられる。

自分達の生活環境を守るため、レイが文字通り重い腰を上げようとした瞬間、レイの中に激痛が走った。

「くっ・・・」

体を引き裂かれるような猛烈な痛み。立っていることさえ出来ず、レイはそのまま床に崩れ落ちる。

「?レイ!」

「レイさん?!」

「綾波!」

その派手な物音に、喧噪の中にいた3人も思わず振り向いた。そして床の上に腹部を抱えてうずくまっているレイを見るやその周囲に駆け寄ってくる。

「レイ!しっかりしなさい!」

「レイさん、もしかして。」

「・・救急車、おね・・・がい・・・」

レイの言葉で、3人は事態を理解した。

「惣流救急車呼んでくれ!」

「番号は!」

「いい!俺がやる!」

「ヒカリがやって!アンタはシンジに連絡。ヒカリじゃ分からないでしょ!」

「分かった!レイさんお願い。」

こういう時の役割分担は実にスムーズだった。

ヒカリが据え付けの受話器に飛びつき119をプッシュする。

ケンスケは携帯からシンジへと連絡を取る。

アスカはレイをそっと床に寝かせると、寝室に飛び込み掛け布団をはぎ取りレイに掛ける。

(シン・・・ジ・・・・・・)

苦痛に必死に耐えるレイの脳裏には、若い頃のシンジの姿が浮かんでいた。

ヤシマ作戦終了後、エントリープラグの出入り口から半身を乗り入れ、自分に手を差し出すシンジ。その背後からは丁度照明車の作り出す強烈な光が差し込み、声によって泣いていることは分かるがシンジの表情はよく見えない。

光源の無くなったプラグ内部から見ると、レイにはまるでシンジが自分を暗闇から光の元へ救い出してくれるように見える。

たとえ客観的事実と違っても、当時の自分がそう考えなかったとしても、今のレイにはそれが事実だった。

(お願い・・・早く・・・)

心の中で、レイは手を無限に伸ばした。

 


 

長針が4回同じ場所を通り過ぎた。

昨日と同じ、それまでと同じ、そして将来も同じだろう歩みだったが、頭上の赤い光を見ているとその早さが10倍遅くなったようにも感じる。

顔を上げているのに疲れて目を正面に戻すと、そこにあるのは銀色の扉。

それがまるで、時の流れを止める堰のように見えたのは皆同じであった。 

せめて騒がしければこのような気持ちにならずに済んだ物を、生憎とこの日この時間のこの場所には人気は殆どない。

初めの内は気を紛らわすため話し込んではいたが、今となっては重苦しい空気がのしかかっているのみであった。

従って、近くのエレベーターが到着した事を知らせる音は、薄ら寒いまでに明るい廊下に鳴り響くこととなる。

「あ、来た!」

「やっと来たか!おい、こっちだ!」

シンジであった。

エレベーターから飛び降りたシンジは目的地を探して左右を見回し、自分に連絡を入れたケンスケの姿を認めるとそちらに駆け寄ってこようとしたが、予想外の人物の姿を発見して思わず立ち止まった。

「ア、アスカ?何で・・・?」

アスカはそんなシンジにちらりと顔を向けたが、すぐに元のように扉に向かって視線を戻してしまった。

そして、シンジの方もアスカの行動で自分がここに何をしに来たのか思いだし、早足で3人の元に赴く。

「様子はどう?」

「まだ。4時間経ったけど・・・難産らしくて・・・」

「そっか・・・」

シンジはそばの長椅子に座り込んだ。

(レイ、頑張って・・・)

自分も外から応援している。そう思いこまなければ自分を抑えられなくなりそうだった。もし初めから自分が居合わせれば、間違いなく中で立ち会っていただろう。

「・・・・遅い・・・」

その声に、シンジは顔をアスカに向ける。

アスカは顔を扉に向けたまま、独り言を言うような口調でシンジに語りかけた。

「アンタって肝心な時に遅いのよね・・・」

「っ・・・・・仕方ないだろ・・・」

アスカが今回のことだけを言っているわけではないのは容易に想像がつく。

「そう、仕方ないかもね。」

何しろ今回は間が悪すぎた。

良く初産は予定日から遅れると言うが、遅れるどころか一週間も早まり、尚タイミングの悪いことにシンジの出張と重なってしまった。むしろここまで4時間で帰って来れたのは称賛に値する。

「何だよ!これでも努力したんだ!それでも僕が悪いって言うの!」

焦り、憔悴、羞恥、怒り。複雑に絡み合った感情を持て余し、シンジは席を蹴って立ち上がる。

「悪いなんて言ってないでしょ?!心当たりがあるからそんな風に思うのよ!」

キッとシンジを睨み付け、大きな身振りを交えてアスカも立ち上がる。

「そう思わせたのはアスカだろ!あれだけ挑発して置いて最後に逃げる気?!」

「逃げる?どうしてアタシがアンタなんかから逃げなくっちゃならないのよ。最近思い上がってるんじゃないの?」

「何にも知らない癖に勝手な事言うな!アスカこそもう少し大人になれよ!」

「何ですって?!散々人に迷惑掛けて置いてまだ言う?!」

「お互い様だろ!大体アスカは昔から・・・」

「うるさ〜い!」

ヒカリの大声で二人は文字通り停止した。ヒカリは矛盾した自分の発言に気がついたのか、僅かに頬を染めながらではあるが、強い口調で二人をたしなめた。

「二人ともここがどこだか分かってるの?喧嘩してレイさんにいいことある?焦るのは分かるけど二人とも落ち着いて。」

「とりあえず、座ったらどうだ?」

ケンスケの言葉で、シンジもアスカもばつが悪そうに再び腰を下ろした。

そんな二人を見て、ヒカリはアスカの隣に、ケンスケはシンジの隣に座を占める。

(悔しいけど、やっぱり焦ってたみたいね。アタシらしくもない・・・)

アスカは目を閉じ、天を仰いで反省していた。

(アスカに当たったって意味無いのに・・・どうしてこうなっちゃうんだろう・・・)

シンジはアスカのスリッパの先を視界に入れながら後悔していた。

「「あのっ」」

ハモった二人は一瞬目を丸くする。

「何よ。」

「そっちこそ。」

二人は視線を交差させたまま、辺りは沈黙に包まれた。

「「ゴメン」」

またもやハモった二人。

「いいわよ、もう。」

「ちゃらにしよう。」

二人ともどことなく気恥ずかしさを覚えて顔を扉の方に向けた。

「お前らホントに・・・」

仲がいいな、と言おうとしたが、その言葉を言ってしまうにはあまりにも状況が悪すぎる。何しろシンジの妻たる女性が扉の向こうでは今まさに出産しようとしているのだ。

それきりだれも口を開こうとはしない。

シンジは落ち着かなくなって席を立つ。そして辺りをぐるぐると歩き始めた。

それを咎める者は、誰もいなかった。

 


 

『何だよ!これでも努力したんだ!それでも僕が悪いって言うの!』

『悪いなんて言ってないでしょ?!心当たりがあるからそんな風に思うのよ!』

『そう思わせたのはアスカだろ!あれだけ挑発して置いて最後に逃げる気?!』

「頑張って下さい!」

「ここ、しっかり捕まっててください。」

(シンジが来た。)

分娩室の中もそれなりに騒がしさが続いていて、疲労と苦痛の中朦朧とするレイだったが、アスカと言い争うシンジの声を聞き逃す事はなかった。

いったいどれほどその名を呼び続けただろう。

果たして心の中で呼んでいたのか、それとも実際口に出していたのか、それならばどれくらいの声で呼んでいたのか。はっきりとは覚えていない。

だが、繰り返し呼んだという記憶だけは確かにあった。

(私は大丈夫だから。)

心の中でシンジに呼びかける。

すると丁度シンジ達の声が聞こえなくなった。科学的ではないが、自分の声がシンジに届いているのだと思うとレイはまだまだ耐えられるような気がする。

(名前、決まった・・・かしら?)

もうすぐ見るであろう子供達の顔。もちろん想像でしかないが、シャッターを切るようにレイの意識に上ってくる。

「あ、」

その時は近かった。

 


 

強い力が周囲を圧迫していた。

それまでそこは暖かく、安定した空間だったのだが、それもどうやら終わりのようであった。

暫くして、世界がより小さくなる。

それまで一つであった存在の消失感。

安定感が失われ、圧力はより強くなる。

がある瞬間、忽然と圧力が消失した。

代わりに部分的に安定する。

浮揚感と光を感じ空気を感じる。

 

初めに行ったのは呼吸。次は力一杯泣くことだった。

 


 

「聞いたか?」

「ええ。」

「やった!」

シンジ達は分娩室から泣き声が上がった瞬間、申し合わせたように一斉に立ち上がった。

それまで沈痛の面もちでいた4人だったが、その声によって最上級の笑顔が浮かび上がる。

「でも一つしか・・・」

ふと気が付いた事をそこまで言った物の、ハッとしてヒカリは口をつぐんだ。

「同時に出てくるわけじゃないわ。もうすぐよ。」

幾分軽くなった心で4人は待つ。

(こんな気分で待つのは久しぶりだな。)

ビジネスとはまた違った感覚。息苦しいし、親友の心中を察すれば辛くもなる。だが、不思議と気分は楽観的であった。

「あいつなら絶対大丈夫だよ。」

「あいつ『ら』でしょ。」

「そうだな。根拠はないけど、落ち着いて待ってろよ。」

ケンスケはシンジの肩に手をやる。

「・・・そうだね。ありがとう。」

ようやくシンジは口を開いた。この声が息子の物か娘の物かは分からないが、後の一人が尚心配であった。

(一人大丈夫だったんだから、もう一人も大丈夫に決まってる。)

ケンスケの言いぐさではないが、根拠のない楽観論に組する以外、シンジの精神は持ちそうにもない。

(くそっ・・・こんな時に何もできないなんて・・・)

少しでもレイに近づこうとシンジは扉の前に向かう。

無機質な銀色の扉に触れようとした瞬間、そこにもう一つの泣き声が重なった。

「!」

「産まれ・・・た?」

「産まれた?!」

「よしっ!」

4人は二つの声を確認しようと、それきり押し黙った。

「間違いない。」

「二人いる。」

「無事なのね?」

ヒカリとアスカは手を取り合い、ケンスケは軽くガッツポーズをした。どの顔にも喜びの笑顔が浮かんでいたが、一人扉の前にシンジだけが、尚扉に向かって俯いていた。

(レイが心配なのかしら?)

それにしても子供が産まれた時くらい、親には嬉しそうにして貰いたい物である。

「シンジ。」

その態度を咎めようとアスカがシンジの背中に声を掛ける。

が、返事はない。

「シンジ?」

見れば僅かに肩が震えている。

「シン・・・」

やった〜!!!」

アスカがその肩に手を掛けようとした瞬間、シンジは聞いたこともないような大声を上げた。

「レイ、良くやった!うん、ホントに良く・・・」

何もかもが吹っ切れたような開放感に包まれ、拳を肩まで上げてガッツポーズをして喜びを表し、感極まったのかそのままシンジは泣き始める。

唖然とする3人。けれど一同顔を見合わせると、シンジを囲んで口々に祝辞を述べる。

「良かったな。」

「うん。」

「おめでとう。」

「うん。」

「どうだ、感想は?」

「うん。」

何を言われても「うん」としか答えられない。答える度にレイへの感謝の念で胸が一杯になる。

(パパとママもこれくらい喜んでくれたのかな。)

そんなシンジをアスカは複雑な心情で眺めていた。

久しぶりに会って感じたが、やはりわだかまりは消えることはない。薄らぐことはあっても決してなくなりはしないだろうと分かった。

けれど目の前のシンジは一人の親として、最高に子供の誕生を歓迎している。これからも惜しみない愛を与えるだろう。

それは自分が求めて止まなかったもの。そして、おそらく今でも求めるもの。

その体現者たらんシンジを悪く思うことはアスカには出来ない。

「・・・みっともない所、見せちゃった、ね。」

シンジはポケットからハンカチを取り出して涙を拭いた。

「いいさ。こういう時はな。」

「そうよ。『ああ、碇君本当に喜んでるんだな』ってよく分かるもの。」

「うん。」

まだ目頭に涙が残っていたのか、再びハンカチを目に当てるシンジを見てアスカは苦笑した。

(いいわ。チルドレン碇シンジは許さない。けど、今のシンジにはチャンスをあげる。それが最大限の譲歩よ。)

「シンジ。」

「何?」

「ちゃんと育てるのよ。」

一瞬意味を把握し損ねて、シンジは2・3回瞬きする。

「もちろんだよ。当たり前じゃないか。」

決意のこもった笑顔とでも言うべきか。

これを見れただけでも、アスカは今日ここに来た意味があるような気がした。

 

 


 

(ここは・・・?)

レイの目の先には僅かに緑色の入ったクリーム色の壁が見えた。その中央から少し外れたところには真っ白い二本線。

(蛍光灯?・・・天井?・・・ここはどこ?・・・)

「気づかれたようです。」

先ほどまで記憶していた分娩室とは違う光景にレイは戸惑っていた。

「レイ、大丈夫?」

後ろに下がり部屋を出ていった看護婦の代わりに、シンジはレイの視界の端に立ち、気遣うような笑みを浮かべて問いかけた。

「あなた・・・」

軽く頭を横にしてみれば、シンジの側にアスカ、ヒカリ、ケンスケが座っている。

「みんな・・・」

「おめでとう。」

「頑張ったわね。」

「良くやったわ。」

未だ判断力の回復しきれていないレイは、とっさには意味を理解し損ねた。

「二人とも無事、どこにも異常はないそうだよ。お疲れさま。」

シンジの解説でレイは自分の腹部に目を落とした。

つい先ほどまでは見えなかったはずの足下が見える。

「無事だった・・・?」

「うん。」

「良かった・・・」

レイは視線を天井に戻す。

(良かった・・・けど、少し寂しい・・・)

3人が一つという状態も悪くはなかった。

二人が無事産まれたのは嬉しいことだが、また一人になってしまったという感覚は否定できない。

「どうしたの?」

「何でもない。それより顔見たいわ・・・」

首を振ってそう答えたレイの顔は既に母親の物だった。シンジとしては未だ親としての実感が湧かないだけに、一歩先を行かれてしまったような悔しさはあるが、レイのこんな顔も好きになりそうだった。

「やっぱり?レイは気絶しちゃったから見てないんだよね。今連れてきてくれるそうだよ。」

「本当?楽しみ・・・どっち似かしら・・・」

「シンジに似てなければ似てないほど可愛いと思うわ。」

横からアスカのちゃちが入ったが、今のシンジは精神的に余裕があった。

「良かった。女の子はアスカっていう反面教師がいて育てやすいや。」

「言ってくれるじゃない。でも本人が将来言うわよ『私もアスカさんみたいになるの!』ってね。」

シンジは身震いした。容姿といい生き方といい憧れる理由は確かにある。容姿はともかく性格は似て欲しくないと言うのが感想であった。

「気をつけようね。」

「そう?」

(何があったんだろう?)

どうやら結婚式の時以来レイとアスカは関係改善したようだ。それはめでたいのだが、自分の知らない所でそうなったというのが恐ろしい。

(レイも影響受けなければいいんだけど・・・)

教育方針の一つが決まったような気がした。

「でもどうだった?やっぱり大変だった?」

レイは話しかけてきたヒカリに顔を向け、一旦目を落としてから再び顔を上げる。

「一仕事。でも、終わってみたら良く覚えていないから・・・」

「ふ〜ん。そんなこと気にしてる場合じゃないって事。」

「私は・・・そうだったわ・・・」

「凄いな。なあ?」

「ホントだね。」

シンジもケンスケも頭が下がる思いだった。単に力仕事なら圧倒的にレイより上だろうが、果たして何時間も激痛に耐えることが出来るだろうか?もちろん個人差はあるだろうが、それよりもっと根本的な違いを見せられたような気がした。

「でもさ、はい?」

扉をノックする音が聞こえてシンジは言葉を切った。

皆、誰が入ってくるのかは想像が付いていたので、その登場を今か今かと待ちわびていた。

「連れてきましたよ。」

にこやかに入室してくる看護婦は、小型のベビーベッドに車輪を付けたような台車を押している。

嫌が応にも高まる緊張。それは二台目の車が入ってきたところで最高潮に達した。

その柵のせいで赤ん坊の顔はよく見えない。皆一刻でも早くその顔を見たかったが、アスカ達は最初は親からだと遠慮していたし、シンジは初めはレイからだと考えていた。

シンジがその座っていた椅子をずらしてスペースを作る。台車は静かにそこに収まった。

(ゴクッ・・・・・・・)

それぞれが唾を飲み込み、看護婦達が二人を取り上げるのを見守る。

「ほら、こっちが息子さんですよ。」

「こっちが娘さんです。よく寝ていますわ。」

看護婦は心配そうな顔になって子供の顔を見ているレイに優しく語りかけた。

「あ・・・」

レイの腕は無意識に子供に伸びていた。看護婦はそれには何も言わず、そっと男の子をレイに抱かせる。

「良か・・・った・・・・・・・」

やや危なっかしい感じではあったが、レイは基本通りに子供を抱いた。レイはその顔を見るや否や、今まで堪えていた物がこみ上げてきて、腕の中の赤ん坊に顔を埋めるように俯いて嗚咽を漏らす。

「せっかくの対面で泣くことはありませんわ。ほら、娘さんも・・・」

「ええ・・・ほら、あなた・・・」

嬉し涙で顔をくしゃくしゃにしながら、レイはシンジに息子を差し出した。

「え?うん。」

恐る恐る手を伸ばし、シンジはレイの2.7倍ほどの危なっかしさで子供を抱きかかえる。レイはシンジが無事受け取ったことに満足して、自分は幾分さっきよりは上手く娘を受け取った。

(これが僕の・・・息子・・・)

こうして実の子を抱いて尚、シンジには実感が湧かなかった。今まで父の後ろ姿を見てきた自分が、今度は見られる立場になってしまった。もちろんそれはシンジが望んだことではあったが、夢の中にいるような気分はしばらくは醒めそうにない。

ただ、嬉しいのは本当であった。自分の腕の中で眠る存在が堪らなく愛しくなるのも事実。

「レイ、ありがとう。」

「ううん。あなたのおかげ・・・この子も抱いてあげて。」

「そうだね。」

シンジとレイはひとしきり見つめ合った後、互いが抱いている子供を交換して、それぞれに微笑みかけるのであった。

「・・・ほら、早くこっちにも見せなさいよ。」

もちろん場の空気は理解しているつもりだが、先ほどから待たされて痺れを切らしている所へ二人だけの世界。時間も押していることで、アスカが我慢できなくなるのも無理からぬ事だった。

「ああ、ほら。」

シンジもレイもハッとして、子供を落とさない程度に急いで友人達に見せた。看護婦は一歩下がり、彼らに場所を提供する。

「小さい・・・」

「でもこんなのが腹の中に入ってたのか・・・不思議だな。」

「信じられないわね。」

ヒカリとケンスケの感想は至極一般的なものであった。色々と深い感慨はあったが、それら全てを言葉に表すなど出来そうにもない。

「ねえねえ、私にも抱かせて?ダメ?」

「いいわ。」

レイはそっとヒカリに息子を手渡す。見よう見まねのヒカリだったが、何とかしっかりと受け取ることが出来た。

「可愛い・・・ほら、アスカも見て。」

「ふーん・・・」

もちろんアスカにも思いは色々あっただろうが、まず最初に出てきたのはこんな言葉だった。

「・・・猿みたい。」

「は?」

「話には聞いてたけど、やっぱり猿みたい。」

「・・・・・・・・・・・」

(普通最初にそれ言うか?)

ケンスケは呆れ返った。言いたいことは分かるのだが、そう言うのは祝福を言ってから冗談に織り交ぜるべきだろう。

ヒカリも何と言っていいのか分からなくなりただ黙っている。ちらちらとレイとアスカを交互に見て様子を伺っていた。

「アスカ。」

「何よ。正直な感想じゃない。」

レイは強烈な視線でアスカを睨んでいる。

今しがた腹を痛めて産んだ子供を猿と言われれば腹も立つ。実際に怒らないのは性格もあるが、アスカが悪意を持って貶しているわけではないことを理解しているからに過ぎない。

シンジも困ったような顔をしている。

(確かにその通りなんだけど・・・) 

本音を言えばアスカの感想に近いのだが、待望の実の子でもあるし、レイの手前もあってそれを言うのは控えていた。果たしてここで怒るべきなのか、冗談として流すべきなのか、そんな複雑な思いが表情に現れていた。

「ま、おめでとうって言っておくわ。」

アスカはそう言って、子供達の頬を一回ずつつつく。

(きれいな肌。)

レイの血が強いのか、他の乳児よりも肌は白く、正に汚れを知らない存在にアスカは多少の羨望を抱く。

(アンタ達、頑張んなさいよ。)

果たして二人にどういう人生が待っているのか。アスカは今の自分に後悔はしていないが、自分のような過去を作って欲しくはなかった。その人生が出来るだけ幸福の色に彩られることを願ってやまない。

「さて、見る物も見たし、アタシ帰るわ。」

アスカは席を立った。

「え?もう?」

「まあね。スケジュール詰まってるし、これから最終でローマまで。大変よ。」

「もしかして、遠慮してる?」

果たしてその言葉が本当なのかどうかシンジには判断が付きかねる。

少なくともシンジは、そんな気の使い方など不要だと思っていた。

「何言ってんの。こんなアクシデントがなかったら、とっくに日本にはいない時間なのよ。その分面白い物は見れたけどね。」

「そっか・・・じゃあ、気をつけて。」

シンジにはそれ以上止めようがなかった。理由は何であれ、これ以上ここにいることが出来ないと言う点でのアスカの意思を尊重したい、そう考えたシンジであった。

「俺も戻るよ。本当はもっと居たいけど色々と雑用が残ってるみたいなんでね。」

ケンスケも椅子から腰を浮かせた。空いているベッドに放り投げてあったスーツの上着を肩に掛ける。

「じゃ、私も。」

「なぜ?気にしなくていいのよ。」

レイが引き留めたがヒカリは少し残念そうに首を横に振った。

「私がいないと洞木家の食生活は成り立たないのよ。はい、お母さんの所に帰りましょうねー」

ヒカリはにこやかに腕の中に語りかけてから、再びレイに子供を手渡す。

「鈴原の所は?」

「アスカ!」

そのアスカの突っ込みに、瞬間湯沸かし器のように赤くなったヒカリは怒って見せたが、それが照れ隠しであるのは明白であったので今二つ迫力を欠くのであった。

「じゃあまた今度、改めておまえの家に行くよ。名前決まったら教えてくれ。じゃあな。」

ケンスケはそう言い残すと病室を出て言ってしまった。

「レイさんお大事に。碇君もちゃんとレイさん助けるのよ。」

ウインクを残してヒカリも出て行く。

「負けるんじゃないわよ。」

誰が何に負けるのか。アスカが言い残した言葉は目的語を変え、碇家全員に向けられた物だった。

 


 

周囲は明るかった。

日は既に落ち、夜の闇は病室の外を覆っていたが、看護婦によって照明がつけられたので室内は明るい。

友人達も帰ってしまい、看護婦にも少しの間だが席を外して貰ったので部屋の人数は激減したが、二人は寂しさを感じない。互いの存在と抱きかかえている子供達、それが部屋を一層明るくしていた。

「疲れてない?」

「大丈夫。そんなに弱くはないわ。」

息子を抱いたままにこやかに答えるレイ。多少の強がりもあろうが、それでも確かに元気そうに見えるレイに、シンジは頭の下がる思いだった。

「今日は悪かったね、間に合わなくて。」

「いいのよ。急いで戻ってきてくれたんだから。」

「でもさ、今更だけど僕も立ち会いたかったな。ここに来るときも、レイ一人苦しい目に逢わせてると思うと結構辛かったんだ・・・」

もちろんシンジが立ち会ったとて何が出来たわけでもない。ただ励ますことぐらいだろうが、だからこそその『ぐらい』はやっておきたかった。

「ありがと。」

そんなシンジの考えはレイも理解しているらしく、どことなく嬉しそうな顔で夫とその腕の中の娘を見つめた。

「でも、私は・・・」

レイの声が突然暗くなる。

「いなくて良かったって分娩室の中で思っていたわ。変ね、近くにはいて欲しかったのに。」

「どうして?僕は邪魔?」

要らないと言われて、シンジは昔のように慌てたりはしなかったが気分がいいはずはずもない。憮然とした口調でレイに真意を尋ねた。

「笑わない?」

「何を?」

「今にしてみたら可笑しいと思うかもしれないけど・・・」

自嘲気味な物言いでレイは一旦間を空けた。その間によって、シンジもレイが言うほど可笑しいことを言うわけではないのが想像でき、瞬間的に心の準備を整える。

「もし私が別のモノを産んだとしたら・・・」

「!」

「ヒトではなく、違うモノを産んだとしたら・・・」

「綾波!」

「それを見られるのが、怖かったの・・・」

十年以上もそう呼んできたため、シンジは今でも時々レイを「綾波」と呼ぶことがある。その殆どは突発的にレイに何かあった場合に出てくるのだが、精神的にと言う意味でまさしく今回はそうであった。

(レイの過去、か・・・)

シンジは思い出したくもない過去を思い出してしていた。

自爆する零号機、記憶の欠けたレイ。プラントで漂うレイ、壊れていくレイ。まさか本人に聞くわけにも行かず真実は分からなかったが、今のレイはクローンではないかということはシンジも知っていた。

そして、それを承知した上で今まで付き合ってきたのである。

「考えすぎだよ。やっぱり不安だったみたいだね。」

出来るだけ冗談めかしてシンジは話を流そうとした。

「・・・そうね。でも事実と可能性から逃げるほど、私は弱くはないわ。」

「だったらさ、目の前の事実を見ようよ、」

シンジはそっと立ち上がり、レイの前に自ら抱いている娘を差し出す。

「ほら、鼻や輪郭がレイそっくり。口元は僕かな。」

レイはじっと二人の我が子を見つめていた。一卵性ではないのだが、そっくり言っていい二人である、確かにシンジのいう様に両親の特長が見え隠れしている。

(目はどうかしら?)

よく眠っている二人の目はしっかりと閉じられていた。産まれたばかりでもあってよく分からないが、レイとしてはシンジに似ていて欲しいと思う。

「きっと目はあなた似よ。」

「そう?僕はレイみたいな大きい目の方が可愛いと思うんだけどな。」

「でも、瞳は黒がいい。」

「赤も綺麗だと思うよ。」

そんなシンジに、レイはそっと首を振った。

(この子達には、苦労掛けたくないから。)

普通とは違うということで、色々と苦労してきたレイである。自分の容姿に関して、誉める声も少なからずあったが、それ以上に損をしたことが多い。人の差別意識はそう簡単には消えないとレイは理解していた。

それという意識はないが、時にレイの盾となり、時にレイの支えとなってきたシンジにもそれが分かる。

見れば、まだほとんどない頭髪は空色ではなかった。それだけでも差別と偏見の目は大分減るだろう事は間違いない、レイは心が軽くなる気がしていた。

「幸せにしたいわね。」

「そうだね。そう思ってくれれば・・・」

客観的には不幸と思えることも生きて行くには多いだろう。自分の過去を顧みて、そんな時でも明るく生きて欲しいと思うシンジだった。

シンジは息子を抱いたまま立ち上がり、窓際に立つ。

窓の外はすっかり日が落ち、闇に浮かび上がる街の光が一面に散らばっていた。その向こうには、僅かに残った夕日の残光が、ほんのうっすらと山の稜線を浮かび上がらせている。

「ご覧、これが二人の生きていく街だよ・・・」

街の中心部でも暗い箇所が見えるし、はずれの方でも明るい場所が見える。眠っている娘には見えるはずもないが、自然とシンジの口から言葉が漏れていた。

(人生みたい、っていうのは言い過ぎかな。)

だとすれば、一体自分はどの辺りを歩いているのだろう。シンジの感覚では真っ暗な山の中から出てきて、ようやく街の中心に近づいたように感じられる。

シンジは視線を遠くに延ばした。

ますます暗い空と見分けが付かなくなって行く山の向こうには、あの土地があるはずだった。今は地図に載っていない、かつて第三新東京市と呼ばれた嵐の中心地。

「あそこで僕達は出会って、生きてたんだよ。だから・・・」

(だからいつか話してあげる。僕達が何をしてたのか、お前達がどうして産まれたのか、父さんが何をしようとしいたかも・・・)

ゲンドウが何をしようといていたかは分からない。レイの限られた知識と補完計画と呼ばれた自分の夢、そこからただ推測するのみ。それでも伝えようとは思う。

「だから今度父さん達に報告しに行こう。いいだろ、レイ?」

シンジは遠い将来ではなく、近くの未来に視点を戻した。

後ろを振り返り、笑ってレイに承諾を求める。

「富士山の頂上が近いかしら?」

「はは、元第三新東京市にだよ。」

相変わらず冗談と本気のボケの区別が付きにくいレイ。変わらないレイを見てシンジは幸せだった。

「そうね。じゃあ早くこの子達の名前を決めなきゃ・・・決めてくれた?」

「そうそう、ここに来るまでに候補を絞って置いたんだけど、どれがいいかな?」

「聞かせて。」

シンジがレイの枕元に立ち返り、つい普段のように椅子に腰を下ろした瞬間だった。

「う・・・・」

(まずい!)

シンジの予想通り、突如鳴り響く大音量の泣き声。それが合唱になるのにはさほど時間はかからなかった。

「レイッ!、どうやって泣きやませるんだっけ?!」

「ちょっと待って、確かこういう風だったと・・・」

力強い生命の賛歌。明確な生命の協演。

パニックになりながらも、二人はどんなオーケストラよりも心地よくそれを耳にする自分を感じていた。

 

 

 

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