黒服の男が立っていた。

白い髪が示すとおり、男は既に老人と言っていい年ではあったが、それ以上にかくしゃくとしていて、目の前に立つ少年少女程度であれば、一人ずつなら格闘しても負けることはないであろう。

もっとも、そんな必要はまずなかったし、男もしようとは思わなかった。

なぜなら男の立場はその二人の保護者なのだ。教育方針として余程のことがない限り手は上げないつもりだし、彼らの方もそれぐらいの分別はつく年齢と性格であった。

「では後を頼む。ここでいなくなるのは、中途半端で悪いのだが。」

「いいですよ。周りの都合を考えて予定通り死ぬ人なんていませんし。」

「全くだ。」

自殺でもない限り死は突然やってくる。これから友人の葬儀に行こうとした男は苦笑した。

「もしかすると少し遅くなるかもしれない。私の分の夕飯は作らなくていい。」

「遅くなるんですか?」

「向こうに聞いてくれ。この年になると葬式も同窓会代わりになってな。」

「そうですか。変な言い方ですけど、ごゆっくり。」

確かに葬式をごゆっくりというのも変だが、思考の大部分が他の方へと行っている少年には、他の言い方が思いつかなかった。

「そうだな。ゆっくりする側にいる内が花かもしれないな・・・じゃあ行って来る。シンジ君、レイ、戸締まりは忘れないようにな。」

「はい。」

「行ってらっしゃい。」

エアロック式の扉が開き、男が二人に背を向けて出ていくと再び扉は閉ざされる。

「さて、冬月さんも行ったし、さっさと片づけようか。」

「ええ、そうね。」

居間に戻ればやりかけの掃除が待っている。

余り進んでやりたいという物でもないが、自らの住環境を守るため、仕方なく二人はそれを片づけに行くのであった。

 


現実の続き、夢の続き(前編)


 

「さてと・・・」

僕は辺りを見回した。

今回の掃除は結構大がかりな物だったんだけど、朝から一日かけて仕事を進めていたので今となっては大部分が片づいている。

もちろん「大部分」と言うからにはそれ以外の残っている部分もあるわけで、冬月さんという指揮者がいなくなった今、どこから手を着けたものか一瞬戸惑ってしまう。

「どこから片づける?」

隣に立つ綾波も同じみたいだ。この「一人で出来ないこともないけれどそれでは手間がかかる」という量が嫌らしい。

「どこからでもいいんだけど・・・」

僕はもう一度室内を見回す。

どうやら各部屋に少しずつやることが残っているみたいで、どこから始めても大差ない事が理解できた。

「適当に目に付いたところから始めようよ。僕はお風呂とトイレの掃除してるからさ。」

「わかったわ。」

アバウト極まりない提案だったけど、幸いなことに綾波は反対しなかった。

綾波は直接口に出して反対することは少ないけど、良く目で物を言う。

そのおかげかもしれないけど、僕は多分世界で一番綾波の目を見ている人間だと思う。綾波の考えていることが全部分かるはずもないけれど、よく分かる方だとは自負している。

その経験上、今回の綾波は内心でも反対はしていないだろう。

だから僕は、何はともあれ片づけなくてはならないことを先にしようと、その場を後にしてお風呂場に向かった。

 

碇君がお風呂場の影に消え、再び私は一人取り残された。

本心を言えば少し寂しい。いつも以上に居間が広く見えるのは気のせいではないと思う。

でも今は、片づけをしてしまわなくてはいダメ。それは分かっている。

だけど早く終わればその分時間が出来るから、どこから手を着けるか迷う時間ももどかしく、私は窓際においてある籠を手に取った。

そして網戸を開け、サンダルに履き替えてベランダに出る。

「気持ちいい・・・」

マンションの8階にあるこの場所には、私には少し強すぎる夏の西日が綺麗に差し込み、昔に比べてほんの少し下がった気温が風に乗って私の髪を心地よく揺らす。

ここに越してきてから3週間近く経つけれど、私はここが好き。朝の町並みも、昼の喧噪も、夕方の風も、夜の星空も好き。

・・・そして一人より二人の時が・・・もっと好き。

「・・・・いけない。」

思い出に浸っている場合じゃないのに。仕事が終わればいくらでも現実に出来るわ。

どれくらいの間町を眺めていたのかは分からないけれど、私はハッとそう気づいて意識を現実に引き戻した。

脇に抱えた籠を下に置いて、まずは桟にかけてある布団に手をやる。

そこには私と碇君の布団が干してあったけれど、両方とも晴天の夏の日差しを浴びて少し熱いくらいに暖まっている。衣服を取り込む前にまずは布団の方を取り込もうと両手を広げたけれど、この日差しから遠ざけるのはもったいないような気がして、私は再び籠を手にした。

「布団はまだいいわね・・・」

私はまず服から取り込むことに決めた。

 

「これで・・・よし。」

僕は額にうっすらと滲んだ汗を手の甲で拭った。

自分としても満足感に浸れるぐらいに目の前の浴槽は完璧に磨かれている。

聞いた限りでは、どうやら綾波はシャワーの方をメインに使っているらしいし、僕もないならないでわざわざお湯を張ろうとは思わないタイプなんだけど、冬月さんがお風呂好きなおかげでほぼ毎日お風呂が沸かされている。

どうせ使うなら、出来るだけ綺麗にした浴槽の方がいいに決まっている。いつもは学校もあるし、なんやかやとやることがあってここまで徹底的に綺麗にする事なんてなかったから、大したことではないんだけど結果に対する感慨というのは確かにあった。

「これで・・・」

僕は蛇口を捻ってお湯を出す。このお風呂は一定量でお湯が勝手に止まってくれるから便利。一度栓をし忘れてお湯を垂れ流したこともあったけど、ミスするとしたらそれくらい。

そして浴槽に蓋をして、次にトイレの掃除に移ろうかと扉に体を向けた瞬間、視界に入った物を見て大事なことを思いだした。

「そっか、シャンプー切らしてたんだっけ。」

別にこれって言うこだわりがあるわけでもなかったから、元々置いてあったシャンプーを使っていたんだけど、丁度昨晩切らしていた。

「どこに置いてあるんだろう?」

初めから置いてあったものだから、買い置きがどこにあるかなんてまだ聞いていない。

浴室を出て、洗面台の下の収納を覗いてみたりしたけどやっぱりない。

「聞いてみるか・・・」

綾波なら知っているかと思って僕は居間へと戻る。

「綾な・・・」

綾波はすぐに見つかった。

ベランダに出て干してあった洗濯物を取り込んでいる。

その行為自体は何でもない事だけど、思わず僕はその光景に見とれてしまった。

昔雑巾を絞っていた綾波から受けた印象とはまた別物の、もしかすると同じなのかもしれないけど、主観的には全く別物の雰囲気。でもこういう姿は嫌いじゃない。

8階というせいもあるだろうけど、外は風が結構あるんだろうか?綾波が耳元の乱れた髪をまとめるように手で梳く。

僕はそんな綾波を、ここへ来た目的も忘れてただ見入っていた。

 

「風・・・強くなってきた・・・」

私は乱れた髪を空いた左手で梳いた。

右手には取り込んだ洗濯物で一杯になった洗濯籠。ほとんどが私と碇君の分。

初めの頃はこうすることに碇君は抵抗があったみたい。「分けた方がいいんじゃないの?」と言っていたけど、私にはよく分からない。

ちゃんと洗ってあるんだし、別々に取り込むのは効率が悪い。何が問題だったのかしら?

「・・・!」

今頃お風呂場にいるはずの碇君が気になって、室内に顔を向けた私は驚いた。まさかその碇君がこっちを見てたなんて。

向こうは何か慌てた様子だけど、私もつい目をそらせてしまった。

悪いことはしていないのに碇君の顔が見れない。・・・多分顔も赤いはず。

「な、何?」

視線をはずしたまま、私は部屋に戻った。

私、動揺してる。

「いや、その、シャンプーが切れちゃって。換えがどこにあるのか知らないかなと思って聞きに来たんだけど・・・」

「それが聞きたくて、さっきから私を見ていたの?」

これは嘘。願望かもしれない。何時から碇君がここにいたかなんて私は知らない。

「あ、うん。すぐ声かけようと思ったんだけど・・・もうちょっとああいう姿見てようかなって思ったから声かけれなくて・・・はは、綾波ってやっぱり主婦とか似合ってるんじゃない?」

「誰の?」

「え?」

誤魔化すように笑った顔の碇君が、一気に真面目な物になる。

「それはその・・・」

「冗談よ。」

「は?」

私は呆けたような碇君の脇を過ぎ、机の上に洗濯籠を置く。

「ふう・・・」

私は一息ついたけれど、別に疲れた訳じゃない。

自分で言っておきながら、今の会話は緊張した。冗談と言ったのは本音。でも碇君の答えが怖かった。その答えがどんなものであろうと、それを聞くのが無性に不安だった。

「シャンプーは玄関脇の収納の一番上。そう言ってたわ。」

「あ、そうなんだ。ありがとう。助かるよ。」

まるで逃げるように碇君が向こうに行ってしまう。

「助かるよ・・・」

その言葉がいつもより他人行儀に聞こえて、私は不安が増したような気がした。

 

「参ったなぁ・・・」

僕はトイレに洗剤をかけながら天を仰ぐ。

さっきの綾波の言葉、どうしても意識してしまう。

「分かってやってるのかな・・・」

僕は洗剤を置き、ブラシを持って便器の掃除に取りかかった。

ここに引っ越してきてから3週間、大学に復職した冬月さんとは当然生活時間が違うから綾波と二人きりになることは多い。

でも冬月さんは昼の講座を受け持っているのか帰りは遅くならないし、今日みたいにまとまった二人きりの時間っていうのは存在しなかった。

そこへさっきの挑発するような発言。

僕の先走りすぎかもしれないけど、どうしても今二人きりという状況を意識してしまって思わず逃げてしまった。

「何か・・・照れるんだよね。」

今更照れるような仲でもないんだけど、まだ二十分に明るい時間だし、なにかこう・・・ストレートに言えるほど勇気がある僕ではない。

向こうからは掃除機の音が聞こえる。

どこの部屋からかは分からないけれど、綾波が掃除機をかけているんだろう。

(でも綾波の肌って綺麗なんだよな・・・)

何度も楽しんだその感触を思い出してしまって、僕の手はつい止まってしまう。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・はっ!」

まずいまずい。

僕は頭を振って、その思考を脳の外へと追い出した。

いるはずもないんだけど、今の僕を見られてはいないかと後ろを向いて確認し、誰もいないことに安堵して掃除を再開する。

「早く片づけなきゃ。」

片づけた後のこともちらりと思い浮かんだけど、僕は意識的にそれも考えないようにした。

「情けないな・・・」

前屈みになって作業する僕の格好は、お世辞にも格好のいいものとは言えないのは自覚していた。

 

いつもと変わらない部屋。

私は掃除機のコンセントを引き抜いて、今しがた綺麗にした自分の部屋を見回した。

昔よりは物が増えた部屋。でも、平均的な女の子の部屋とはかけ離れていることは私も知っている。

掃除機を持って隣の部屋へ行く。

襖を開けるとそこは碇君の部屋。

「やっぱり・・・」

ここでの生活は大分慣れたはずなのに、未だに私は自分の部屋だけがなじめない。

この3週間、家にいるときは基本的には居間にいることが多かった。

寝るときだけというのは言い過ぎだけど、あの部屋はいまいち自分の部屋だという実感がない。

私は再びコンセントを差し込んで、碇君の部屋の掃除を始める。

(昔の家の方が・・・)

あの家には思い出があった。

碇君と付き合い始めてから、よく遊びに来てくれた。

困惑することも、気分が悪くなるようなこともあったけれど、それ以上に嬉しくなることが多かった。

そして、何よりあそこは碇君と一つになれた部屋。

(けど今は・・・来てくれない・・・)

碇君と一つ屋根の下に住めると知ったとき、私は期待に胸を躍らせるという言葉を実感できた気がした。

そして、それはおおよそその通りではあったけれど、今みたいに掃除するときでもなければ互いの部屋にはほとんど入らなくなって、物足りない気分を味わったのも確か。

私の部屋と違って、碇君の部屋はいつも綺麗。私はさほど時間をかけずに掃除を終えてしまった。

『昔散々鍛えられたからね。』

ネルフにいたときはそうは見えなかったけれど、葛城三佐はかなり生活能力に欠けていたらしい。惣流さんも碇君に頼り切っていたみたい。

昔、どうしてそんなにきちんとしているのか聞いた時、碇君は笑いながらそう教えてくれた。

その笑いは「苦笑」というのだろうけど、私は羨望を、もっと言えば嫉妬を感じずにはいられなかった。

もし私がそこにいたら。

あり得ない過去。でも、あり得たかもしれない仮定。

ユニゾンの訓練のために同居を始めた3人。もしあの時、碇君があの人を追いかけなかったら、もしかすると私が訓練のために同居することになっていたかもしれない。

(そうだったら・・・)

碇君と一緒に何でもする。

碇君のためなら、全部を引き受けてもいい。

物理法則を無視してでも、過去に戻って何もなかった昔の私にそうさせる。

でも現実は・・・私はそこにいなかった。

私はコンセントを引き抜く。

「?」

その時私はタンスの後ろに、何か本のような物が落ちていることに気がついた。

どうしてこんな所に本が落ちているのかしら?

それは少し奥目にあったけれど、手の届かない距離じゃない。

「んっ。」

大きさはA4くらい。手を伸ばしてそれを引っぱり出す。

「・・・!」

手にした本の表紙を見た瞬間私は嫌な思いをしたけれど、中を見てみて私は嫌悪感すら感じてしまう。

そこにあったのは女の人の裸、裸、裸。あられもない姿の女の人が、まるで挑発するかのようにこちらを見ていた。

「私がいるのにどうして・・・」

悲しくなった。

何度も私の上で、『私』に夢中になってくれた碇君の顔が思い浮かぶ。

(もう、私には飽きたの?)

だからこんな写真を持っているの?

「そんなのは・・・嫌・・・」

碇君は碇君の物。それは分かっている。

だけど、他の女にその目がいくのは嫌!

例え想像だけでも私を思って欲しい。想像の中でも相手は私以外は許せない。

だから私はその本のどのページも写真が見えないくらいに何度も破き、その痕跡すら残すのは嫌だったから、今日の掃除で出たゴミの入っている袋に捨てるべく、私は足早に碇君の部屋を出た。

 

(うーん・・・)

洗濯物を目の前に、アイロン片手に僕は困ってしまった。

(何度も言ってるんだけどなぁ・・・)

昔、アスカやミサトさんと生活していた時も、洗濯までは一緒にやっていたけれど、取り込んでからは各々自分でやることになっていた。

それが今では全部一緒。

冬月さんの物はともかく、綾波の下着を僕にどうしろというのだろう?

とりあえず僕はいつものように、綾波の下着だけは取り除いてアイロンをかけ始める。

「んーんーんーんーんんんん、んーんーんーんーんーーんんーー♪」

とはいえ、こういう平和な時間は好きだ。思わず鼻歌まで出てしまう。

皺取りと糊付けを繰り返し、軽快にアイロン掛けを進めていく。

結果論でしかないけれど、これもミサトさんの所で鍛えられたおかげだろう。

「あ、これ綾波のか。」

シャツの腕の部分にアイロンを当てた所で、僕はそのことに気がついた。

まあ下着と違って僕の奴とやることは同じだし、別に恥ずかしくなるようなことでもないのでその点は気楽。

それに・・・正直言えば何となく嬉しい。

馬鹿な考えだとは分かっているけれど、まるで僕が常に綾波を包んでいるような気分。

あんまり男らしい考え方じゃないのは分かっているけれど、そう思ってしまうのは仕方ない。

ここ数週間、どうもチャンスがなくて綾波を抱けなかったせいで余計にそんな考えが浮かぶのかもしれない。

「違うか・・・」

チャンスがなかったわけじゃない。作らなかったんだ。

確かに冬月さんとの同居を始めたせいで機会が減ったのは事実だけど、それ以上に僕が躊躇してしまった。

住んでいる場所が違うという、自分の家に帰らなきゃならないという最後の一線。

綾波と同居すると言うことは、その一線が崩れると言うことを意味していた。

なし崩し的に自分の欲望に飲み込まれる。それが怖かった。

だからそれなりに気を使ってきたんだけど、どうもしっくりきていない。むしろぎこちなさだけが残っているような気がして自分の未熟さを思い知らされている。

「綾波はどうなんだろうな・・・」

先ほどまで掃除機の音がしていた向こうの部屋の方を見る。

別の場所から二回音がしたということは綾波が自分の部屋だけでなく、僕の部屋も掃除してくれたんだろう。

自分の部屋を掃除させるという関係は、結構深い方だと思うんだけど、綾波はどんな気持ちでしてくれているんだろう?

同居してるから?恋人だから?命令だから?義務で?

所詮他人の僕には分からないけれど、せめて綾波が僕のためを思ってやってくれていると信じたい。自惚れと思われても仕方ないけどそれが僕の本音。

昔みたいに仕方なくやってるのではなく、綾波のために今は喜んでやっている僕の思いと同じであって欲しい。そう考えることは傲慢なのだろうか?

綾波の持っているシャツの枚数から考えて、きっと今度の週末ぐらいには着て貰えるだろう事を予測して僕は再びアイロン掛けを再開した。

 

玄関にまとめてあるゴミ袋に不愉快な残骸を捨てた後、掃除機を片づけた私は勢い良く居間の襖を開けた。

「ああ、綾波、向こうは終わったの?」

アイロンを持った碇君が、どこか嬉しそうに私に問いかける。

「ええ。碇君の部屋も『綺麗』にしてきたわ。」

「そ、そう。ありがとう。」

不機嫌な私の感情は声に出てしまったみたい。

碇君は少し顔を引きつらせながら私に感謝する。

「後はそれだけ?」

「うん。そっちは?」

「ほとんど片づいたわ。布団を取り込みに来たの。」

「あ、ちょっと待ってよ。これ一枚で終わりだから。」

碇君はそう言って、丁寧に私の制服のスカートをアイロン掛けし始める。

私としては業者に出しても全く構わないけれど、碇君が「僕がやるよ。こういうのにはちょっと自信があるんだ。」と言うから、ここに越してきてからは冬月さんのスーツ以外全く業者に出さなくなっていた。

スカートのアイロン掛けに自信があるといわれた時、心に雨雲が掛かったような気がしたけれど、こうやって丁寧にやってくれているところを見ていると、そんな風に思ってしまう自分が醜く思える。

昔はともかく、今は私の為に手間をかけてくれている。それは嬉しいこと。

そう決まっているから着ていた制服を着るのが今は嬉しい。制服だけじゃなくて、余り多くはない私服も同じ。私の着る私服、ほとんど碇君がアイロン掛けしたものだと気がついているかしら?

「終わりっと。」

アイロンの電源を切り、碇君は綺麗になったスカートを、既に畳んである私の洗濯物の上に同じくきちんと畳んで乗せた。

「後で持っていってね。」

にこやかな碇君に、私はただだ肯くしかなかった。

どうして碇君は笑っていられるの?女物なんて面倒なはずなのに。

私のこと好きだから?ならどうしてあんな物が部屋にあったの?

・・・分からない。

「どうしたの?」

「何でもないわ。」

「ならいいんだけど・・・」

何でもないというのは嘘。でも、何があったのかは自分でも分からない。ただ、昔と自分は変わってしまった。それだけは分かっていた。

碇君はアイロンとアイロン台を片づけて立ち上がり、網戸を開けてベランダに出ていく。

「よいしょっと。」

クリップをはずして碇君が持ち上げたのは私の布団。

私も窓の側に移動して、それを受け取ろうと手を伸ばす。

「え?ああ。いいよ。部屋まで持っていくよ。」

「重いわ。」

「綾波が持ったら軽くなる?それくらいはやらせてよ。」

碇君は笑ってサンダルを脱ぎ、窓の縁で布団を汚さないようにゆっくり部屋に入ってきて、そのまま居間を出て私の部屋に向かおうとする。

私はその碇君についていこうか、それともまだ干されている碇君の布団を取り込もうか一瞬判断に迷った。

「・・・こっちね。」

けれど、迷いはあっけないほど簡単に溶け去り、私はベランダに出ることに決めた。

碇君と一緒にいたい。そして、いてもいいと思う。

だけど、それに甘えたくはなかった。優しくされるだけの存在になりたくはない。

碇君が私のためにやってくれるのと、多分同じ理由で私も碇君のために何かしたい。

私は碇君の布団を持ち上げた。

それはかさばって持ちにくかったけれど、思ったより軽かった。

 

「よっと。」

僕は足を上手く使って綾波の部屋の襖を開けた。

いつも思うんだけど、こういう時は襖という物は本当に便利だと思う。これがドアノブだったら一々荷物を下ろすか、苦しい体勢で手を使うかしなくちゃならないところだ。

「おじゃましまーす。」

ついてこないところを見ると、部屋の主人たる多分綾波はまだ居間にいるんだろうけど、何となくそう言わなきゃならないような気がした。

パイプベッドの上に持ってきた布団をおろして広げる。

綾波の髪と同じ色のシーツの場所は知っているけれど、タンスを勝手に開けるのはいくら何でも失礼なような気がしてそれはやめておいた。

「けど、綾波は開けるんだよな。」

僕は苦笑した。

何度か部屋の掃除をして貰ったことがあるけど、綾波の場合「部屋をきちんとする」という目的のためならあらゆる手段を取る。タンスだろうが机だろうが開けるのに何の躊躇もしないに違いない。

「不公平だよな。」

不公平とは言った物の、別に僕には人の家具の中を見て回る趣味はない。僕にも綾波に隠すような物は・・・・・・・・・・余りない。

だからひいたばかりの布団の上に腰掛けて、僕は綾波の部屋を見まわした。

昔より格段に綺麗になった部屋。でも、僕はあんまり同世代の女の子の部屋には遊びに行かないから分からないけど、多分まだそれよりはシンプルな部屋かもしれない。

僕はそのまま布団に寝ころんで、白と空色のストライブのカバーが掛かった枕に顔を埋めた。

「綾波の匂い、しないな。」

洗ったばかりのカバーはサラサラして気持ちよかったけれど、どことなく無機質な感じがする。

(この上で・・・)

前の家で、この布団の上で、僕は何度も綾波を抱いた。

初めの頃は焦るばかりで何もできなかったような気がするけど、やっぱり経験だろうか、なかなか教えてくれないんだけど綾波の方も慣れてきたみたいでもあるし、ようやくコツを掴みかけたような気がしている。

僕は体を反転させて仰向けになる。

ここに越してくるとき、綾波は大体の荷物を持ってきたわけで、横を見れば見覚えのある家具ばかりだった。

「また、したいな・・・」

そう呟いて、僕は額に腕を乗せた。

 

真っ白いシーツと少し熱いくらいの布団。

4つ目のピンできちんと止めて、ベッドにきちんと敷き詰めて終わり。

・・・ではない。

私は碇君のタンスの、下から2番目の小さめの引き出しから枕カバーを取り出して、枕に取り付ける。

それが終わったら、最後に掛け布団としてタオルケットを開いて布団に端を織り込む。

「出来た。」

多少の皺はあるけれど、今日は上手くいった方。

碇君、気持ちよく寝てくれるかしら?

脳裏に碇君の寝顔が浮かぶ。

私の知っている碇君の寝顔は大体が穏やかな物だったけれど、時折うなされることがあった。それで目を覚ますことも数回。

訳を聞いても教えてくれなかったけど、そんな後、必ず碇君は私を激しく求めてくる。

私が碇君を癒しているという気分。それはそれで嬉しさと満足感が無いわけではないけれど、やはりうなされているのを見るのは嫌。

「碇君・・・」

無性に碇君の顔が見たくなって、私は部屋を出る。

おそらく居間に戻っているだろうと小走りになりかけた私だったけれど、隣の私の部屋で碇君を発見した。

碇君は額に腕を乗せて、天井を見つめてボーっとしているみたい。

「疲れた?」

「ん?あ、ゴメン。そうじゃなくてベッドが気持ちよくてつい・・・」

私に気づいた碇君は、身を起こしながら私に謝罪する。

別に構わないのに。

「そんなに気持ちいい?」

「うん。少し布団が熱いけど、この部屋クーラー効いてるから気持ちよくて・・・」

「そう?」

「寝てみなよ。僕が寝ころんだ後だからちょっと質が落ちてるけど。」

碇君は立って私に場所を空けた。

「ええ。」

私はゆっくりとベッドに寝転がった。

「気持ちいい・・・」

「でしょ?」

ほらね、とでも言いたそうな満足げな碇君。

確かに気持ちがいい。太陽の熱は大分逃げてしまったけれどまだ十分に暖かかくて、これが食後ならそのまま寝てしまうに違いない。

でも、私が感じたのはそれだけではない。

今の今まで碇君が寝ていたところはその他の場所と少し温度差があり、布団の生地もほんの少しだけ柔らかくなっている。

(碇君が・・・いてくれた・・・)

今まで無かった匂いが戻ってきた。

私の部屋に欠けていた感覚が戻ってきた。

欲しかったのに、求めることも出来ず与えられることもなかったパーツが揃った気がする。

「天日で干すのって気持ちいいよね。良かったよ。休みの日に晴れて。」

碇君はベッドに、私の横に腰掛けた。

「ええ・・・」

私は俯せになって枕に顔を埋める。枕には新しいカバーがしてあったけれど、真ん中の部分が柔らかくなっていてやはり碇君の感じが残っている。

「碇君の匂いがする・・・」

「えっ?!そんなに汗くさいかな・・・」

横目で碇君を見ると、碇君は困ったような顔をして袖の匂いを嗅いでいた。

「あの・・・ゴメン。今日は結構汗かいたから・・・あ!汚れると困るからさ、早くシーツしようよ。タンス開けていい?」

「ダメ。」 

「あ、うん。そうだね。でも早くシーツした方がいいと思うよ。」

「嫌。」

「・・・・・・・・・」

まっさらなシーツは本当は好きじゃない。

病院や独りの時を思い出すから。

でも今はそんな理由で碇君を困らせているわけではなかった。

「何か怒らせるような事した?」

枕に顔を埋めたまま、私は首を横に振る。

「新しいシーツが欲しいとか?」

思い切り首を横に振る。

「あのさ、」

碇君が私の頭に手を乗せて、撫でるように髪をいじり始めた。

「僕気が回らないことが多いからさ、何かあるなら言ってよ。」

「そうね・・・」

私は碇君の手を取って身を起こし、その手のひらに私の頬をすりつける。

(・・・でも言えない。)

碇君の手は男の人の手でもあるし、特に綺麗というわけではないけれど、私にとっては最高に心地いい。

時折動かされる指が、私の方が碇君の手に擦り付けているという感覚を忘れさせ、まるで優しく撫でて貰っているような気にさせる。

もっとして欲しかった。

頬だけでは物足りない。

この手で、その唇で、その言葉で、体と心を満足させて欲しかった。

なのに、私の方から求める事なんて出来ない。

体だけじゃなくて心も碇君を欲しがっているのに、心と体がその言葉を躊躇わせる。

だから私は何も言わず、ずっと頬を「撫でられていた」

 

(どうしたんだろう?)

目の前で僕の手に頬をこすりつける綾波を、僕はある意味意外な思いで眺めていた。

普段の綾波がこんなにスキンシップを求めてくることは今までにはなかった。

興味がないのか奥手なのかは分からないけど、せいぜい腕を組んだり手を握ったり、別にどこの恋人同士でもやっているようなことしか今までしたことがない。

もちろん肌を合わせたときは別。

そういう時は時折積極的になったりもするけれど、その意味で今の綾波はその状態に近いのかもしれない。

(そう思ってもいいのかな?)

比喩ではなく、限りなく事実に近い純白の肌を僕の方からも撫で始めても、綾波は特に抵抗せずに僕の手の動きに身を任せていた。

冬月さんはいない。

夕飯は要らないという言葉から考えても、後3・4時間は帰ってこないに違いない。

これ以上のチャンスは滅多にないといってもいい状況だった。

そして僕も、堪らなく綾波を抱きたいと思っている。

今撫でている肌理の細かい肌。少し視線を落とせば細い首。Tシャツの下にもその白い肌が広がっているはずだった。

僕は唾を飲み込む。

あまりに大きく飲み込んだので、綾波に聞こえてしまったんじゃないかと心配したけれど、どうやら綾波は自分の世界に行っているようで、その心配はなさそうだった。

乾き始めた唇を舐めて、矛盾しているかもしれないけどもう一度唾を飲み込む。

僕は体勢を直して手の動きを止め、綾波の耳元にそっと顔を寄せて囁いた。

「綾波・・・」

「何?」

「しようか?」

「・・・・・・碇君がそう望むなら、私は構わない。」

(可愛いな。)

綾波の答えは一瞬間を空けて、いかにも私は受け身ですといった言葉だけど、僕はそれが言葉通りの意味でないことを知っている。

もちろん直接聞いたわけでもないし聞いても教えてくれないだろうから、正確には確信しているだけなんだけど、本当に綾波が仕方なくと言う時には「ええ」とか「いいわ」とか一文節の答えが返ってくる。

多分綾波は気がついていないんだろうけど、僕も面白いから言うつもりはない。

ただ、今回綾波は結構乗り気だ。それが分かれば十分だった。

こめかみから頬にかけて軽くキスを繰り返し、両手を綾波の肩にやってそっと布団に押し倒す。

「待って・・・」

「何?」

その桜色の唇にキスしようとした僕の顔を、綾波が手で押し戻した。

「汗かいてるから・・・シャワー行って来るわ。」

「同じだよ。」

どうせこれから汗をかくのに、どうして女の子はそういうことに拘るんだろう?

「馬鹿。」

綾波は僕を押し返してベッドから抜け出てしまった。

仕方なく、僕も頭を掻いて体を起こしてベッドの上に座る。

「一緒に入ろうか?」

「・・・本当に?」

「え?」

「入る?」

ちょっとした冗談のつもりだった。

ある程度返ってくる言葉まで予想していたんだけど、完全にその予想が外れた。

(本気かな?)

冗談かもしれない。

最近では綾波も冗談を言うようになってきたから、こういう冗談だって言ってもおかしくはない。

でも綾波はじっと僕を見ている。

「冗談よ」の一言が聞こえない。

「・・・・・・・・・・ごめんなさい。ただ、一緒にいたかったの・・・」

黙ってしまった僕を見て、綾波は無理難題を押しつけたとでも思ったのだろうか、目を落として僕に背を向ける。

「すぐ戻るわ。」

「待って!」

綾波が部屋を出るより早く、僕は立ち上がってその手を掴んでいた。

「一つ教えて。」

「何を?」

「もしかして、待たせちゃった・・・かな?」

やっぱり今日の綾波は普段と少し違う。少なくとも、今までこんな綾波は見たことがない。

この3週間というもの、僕は綾波にはキス以上のことはしなかった。

よく言えば自制心が働いていたからなんだけど、悪く言えば逃げていた。

変わってしまった状況への戸惑い、変わってしまうかもしれない自分への不安、そういった物に縛られていたからなんだけど、結局それは自分のことしか考えていないのと同じ事。

綾波がどう思っているかなんて、全く考えなかった。

僕は綾波をこちらに向かせる。

綾波は一旦僕の目を見て、視線を落とし、再び上げかけてまた落とした。

「私は・・・」

「正直な気持ちが・・聞きたい。」

綾波の頬に手を当てて、ちょっと強引かもしれないけど顔を上げさせた。

僕達の視線が重なる。

綾波の目は、潤んでいるような困惑しているようなそんな感じだった。

「碇君がもう私の体に興味なくなったと思ったら・・・寂しかった。もう私に興味がなくなったと思ったら・・・怖かった。時々キスしてくれたから、普段は優しかったから・・・信じているから、頑張って来れた・・・」

「ゴメン・・・」

僕は綾波にキスをする。上唇に触れるだけの軽いキス。

そんな思いをさせていたなんて気がつかなかった。

情けない。

自分の都合で恋人をこんなに不安にさせるなんて、僕は最低だ。

僕は綾波を強く抱きしめた。

「今日は一緒にいよう。ずっと、どこだって。」

「ええ・・・」

本当はずっとなんて無理なのは二人とも分かっている。

何といってもここは僕達だけの家ではないのだ。冬月さんが帰ってくるまでには全て元通りにして置かなくてないけない。

でも、今の僕達にそんな事は関係ない。一緒にいること、それが必要だったから。

「連れていってあげる。」

「あ・・・」

僕は綾波を抱き上げた。

口に出したら怒るだろうけど、思ったより軽い体。

綾波は初めは驚いたみたいだったけど、すぐに僕の首に腕を回してしっかりと抱きついてきた。

「いい?」

「お願い。」

目の前の大事な存在に笑顔を向けて、僕はゆっくりと歩き出す。

緊張よりも、興奮よりも、ただ愛しさだけが僕達を包んでいた。

 

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