あったかく陽の微笑むところ
(さいしょ)
作:金物屋忘八
鏡の中で、とびっきりの美少女が微笑んでいる。
赤味の強い栗色の、ストレートの長髪。しぼりたてのミルクをそのまま固めたような、真っ白くてつややかな肌。真夏の海の色のような、ぬけるような碧い瞳。この歳の女の子にしては、無駄な肉もついていないし、身体のラインだってきっちり整っている。
そして、あたしだけが浮かべることのできる、お陽さまのような笑顔。
「よし! 完璧!」
あたしは、玄関の姿見で、家を出る前の最後のチェックを終えた。毎朝こうして、自分が市立第一中学校最高の美少女、惣流・アスカ=ラングレーだっていうことを確認するのが、登校前の儀式なのだ。
ドイツ系日本人のママと、アイルランド人のパパの娘のあたしは、ドイツでも、ここ日本でも、ライバルすらいない美少女だった。
だからあたしは、当然の義務として、いつでも綺麗でいなくちゃいけないのだ。ちょっと見た目が良いからといって、それにあぐらをかいていると、あっというまにブスになってしまう。ブスっていうのは、顔形がどうしようもないんじゃなくて、心構えのことをいうのだ。だから、頭の良いブス、っていうのはいない。どんなに造作がよくっても、心構えがなっていないとすぐにブスになる。
そしてあたしは、ブスになる気なんかさらさらなかった。
「行ってきます!」
まだダイニングで朝食をとっているパパとママに、元気一杯のあいさつをして、あたしは家を出た。
マンションの廊下を階段にむかって走り、そのまま二段とびに上の階に駆け上がる。朝の日の光が動き始めた身体に心地いい。そして、目的の部屋の扉の前でいったん立ち止まり、呼吸を整える。二度ほど深呼吸をしただけで、息はおちついて準備ができる。
行くわよ、アスカ。
指がチャイムのボタンに伸びる。
「お早うございます!」
あたしは、ほおづえををついて、そいつの寝顔を眺めていた。
やわらかな顔の輪郭と、男の子にしては白い肌。くせのないさらさらの黒い猫っ毛が、触ってみると手のひらに気持ちいい。小さめの口がちょっとだけ開いて、中から白い歯がのぞいている。
普通、寝顔に見入るのは、男って決まっている。けれどもこいつは、女のあたしが見ていてもあきないきれいな寝顔をしている。ちょっとだけため息。本当は、もうちょっと見ていたい気もするんだけれど、そんなことをしていたら学校に遅刻してしまう。
あたしは、腰を上げると大きく息を吸って、こいつの耳もとで思いっきり大きな声で叫んでやった。
「起きなさい! バカシンジ!」
はっとして目を覚ますシンジ。どうもこいつは朝が弱くて、これだけ驚かせても跳ね起きてみせるようなことはしない。ちょっと起こしがいがなくって面白くないんだけれども、まあ、無い物ねだりをしたって仕方ない。ここの碇家の人たちは、みんな朝に弱いのだ。
そしてこいつは、むっくりと起き上がって、眠そうな目をこすりながらきょろきょろしている。
「ようやくお目覚めね、バカシンジ」
「……なんだ、アスカか」
このバカは、よりにもよってそうつぶやくと、おっきな口を開けてあくびをした。
あたしは、この間抜けづらしたバカに天誅を下すことを一瞬本気で考えたが、さすがにこぶしを握っただけで我慢した。いくらこいつがバカでも、朝から暴力をふるうなんてレディのすることじゃない。
「なんだとはなによ? それが、毎朝起こしに来てくれている幼なじみに対する感謝の言葉?」
「うん、ありがとう」
まだ半分寝ぼけているみたいで、ごしごし目をこすっている。
「だから、もうちょっと寝かせて……」
そうつぶやくと、こいつはごそごそと布団の中にもぐり込んでしまった。そのままもう一眠りするつもりらしい。
せっかくぎりぎりまで寝かさせてやったあたしの気遣いなんか、こいつはぜーんぜんわかっちゃいない。
「なに、甘えたこと言っているのよ! さっさと起きなさい、ってばっ!」
さすがに腹が立ってきたので、思いっきり勢いをつけてこのバカがかぶっている布団を引っぺがす。
心地いいくらいに見事に布団が宙を舞い、そのままの勢いで、シンジはベットから転がり落ちた。落ちたひょうしに頭のどこかをぶつけたみたいで、顔をしかめて右手で後頭部をさすっている。ほんのちょっと、悪いことをしたかな、という気になった。でも、その一瞬あとには、そんな気持ちはどこかに飛んでいってしまった。
このバカは、あたしの目の前で下着姿のまま両足を広げ、……その、まあ、なによっ、女の子の口から言えるわけないでしょ!
「エッチ! バカ! チカン! ヘンタイ! 信じらんない!!」
もう、なにがなんだかわかんなくって、あたしは、真っ赤になって叫びっぱなしになってしまった。まったく、朝からなんてもの見せるのよ、このバカ。時と場所を選びなさいよ、まったく。
「しかたないだろ、朝なんだから!」
パンッ!!
こ気味いいくらいいい音が、部屋いっぱいに響きわたった。
……仕方がないじゃない。手が出ちゃったんだから。
ちょっと痛む右手をさすりながら、あたしは、シンジの部屋を出た。
いくら幼なじみだからって、男の人の着替えを見るわけにはいかないじゃない。
シンジが着がえてくるまで、いつもあたしは碇家のダイニングで待っていることにしている。だいたいこれくらいの時間になると、おじさまも、おばさまも、レイも起き出してくる。
ダイニングに入ろうとしたその時、ちょうど着替え終わったレイが、洗面所から出てきた。目の前になにもないようにまっすぐ歩いていく彼女を、身体をそらして通してあげる。
「お早う、レイ」
いつも通り、返事はなかった。
彼女は、基本的に血圧の低い碇家の中でも、特別に朝に弱かった。朝と夕方とでは、まるで二重人格者みたいに性格が変わってしまうのだ。双子の兄のシンジが、基本的に四六時中血圧が低いだけなのに、妹のレイは、朝はまるで買ってきたばかりの人形みたいに無表情、無感動、無感情だった。そのくせ、月が出るあたりの時間になると、このあたしが気圧されるほどに活発で快活になるのだ。
初雪を固めたような真っ白い肌は相変わらず血の気が薄かったし、その月色のギャジーのはいったショートカットのプラチナ・ブロンドも、いつも通り影が薄かった。
夜の月の下で見ると、こんなに綺麗なものはない、って感じなのに、朝の日の光の下では単に影が薄く見えるだけなのが、不思議といえばものすごい不思議だった。
「お早うございます、おばさま、おじさま」
ダイニングでは、すでに朝御飯の用意が終わってしまっていた。
「お早う、アスカちゃん」
おばさまが、もう自分の分の食事もみんなの支度もすませてしまっていて、さっさと洗い物なんかしている。
ダイニングテーブルでは、パジャマのまま新聞を拡げたおじさまが、憮然とした表情で黙々とパンをかじっている。レイも黙って席に着くと、それが義務だからしかたなく食べている、って感じでパンを食べ始めた。二人とも朝のあいさつもなしで、まるで互いの顔を見ようともしない。
……知らない人が見たら、家庭崩壊している様にしか見えないくらいの暗い雰囲気だぞ。
「シンジも仕方ないわね、せっかくアスカちゃんが起こしに来てくれているのに」
碇家が、決して家庭崩壊なんかしていなくて、それどころかうちの両親すらうらやましがるほどうまくいっているのは、このユイおばさまのおかげだとあたしは思っている。
とてもじゃないけれどおばさまは、子供が二人もいて、しかも社会の第一線で働いているとは思えないほど若々しい。しかも、あたしが物心ついたときから、その美貌にまったく陰りがこない。その上、家の中のことをないがしろにしているところを、見たことも聞いたこともない。納得がいかなければ両親にだって平気でかみつけるこのあたしが、唯一頭が上がらないのが、この人だったりする。
「いえ、いいんです。あたしが好きで起こしに来ているんですから」
「そう? 今からあんまりシンジのこと甘やかしちゃダメよ」
「そんな、いやです、おばさま」
……もう、おばさまったら。
「ほら、あなたも、新聞ばかり読んでいないで、ちゃんと支度をしてください」
「ああ」
「レイ、準備はできているのね」
「……………」
なんか、なじんじゃってるな、あたしも。
「ほら、あんたがかばんを持つのよ」
そう言ってアスカは、僕の手の中に自分のかばんを押し込んだ。そのまま僕の前を、スキップでもしそうな軽い足どりで歩いていく。
「えー、なんで僕がぁ?」
理由はわかっているんだけれども、一応はそう言って抗議してみた。毎朝こうして学校までかばん持ちをさせられるのも、尻にひかれているみたいで、あんまり気分のいいものでもないし。
「シンジ、あんた、毎朝起こしに来てくれている幼なじみに、感謝の気持ちは持っていないの?」
一転して、どすのきいた低い声が返ってくる。くるりとふりむいたアスカは、両手を腰にあてて僕のことを正面からにらみつけた。それこそ、爆発寸前の火山のような表情をしている。で、いつも通りそんなアスカの表情に気圧されてしまって、僕は、しどろもどろになってしまう。
「も、持ってるけどさ、でも、それとこれとはまったく関係ないじゃないか……」
最後の方が尻つぼみになってしまって、なんだかかっこわるい。でも、やっぱりアスカの表情を見ていると、あんまり強いことは言えなくなる。こわくて何も言えない、ていうんじゃなくて、そうやってむきになってくるアスカが、なんかものすごく気になるから。こうして僕をにらみつけている表情だって、なんか心臓がどきどきしてくるほどにかわいいし。
アスカはものすごい美少女で、それは学校中のみんなが認めていることだ。
そのアスカが、何で僕なんかをこうしてかまってくれるのか、ものすごく不思議だった。
「だったら、つべこべ言わないで持つ!」
僕が黙り込んでいるのを、自分が勝利したからと確信したアスカが、ぴしゃりと言いきった。
と、同時に、レイまで自分のかばんを無言で押しつけてくる。
「なんでレイまで!?」
「……………」
レイは、何も言わずにその紅の瞳で、まっすぐに僕のことを見つめている。妹の瞳は、まるで宝石のように澄んで綺麗な色をしている。だからといって、まったくまばたきもしないで見つめられていると、さすがにたまらなくなる。
「わかったよ、校門までだよ」
結局、いつもこうして僕が二人にゆずることで、三人の関係は成り立っているんだ。
「なに、ぐだぐだ言っているのよ。あんた、男でしょ?」
「そ、そんなの、関係ないじゃないか」
「なによ、学校で一、二を争う美少女二人に囲まれて、なにか不満なの?」
「……美少女ってさ、自分で言うものなの」
「何か言った!?」
結局、口では絶対アスカにかなわないんだ。
「遅刻」
それまで黙って僕らのやり取りを見ていたレイが、ぽつりと一言つぶやいた。僕もアスカも、あわてて左腕の時計に目をやる。08:21。午前中は自分からいっさい行動を起こそうとしないレイが自分から口をきいただけあって、ほとんど走らないと絶対にまにあわない時間だった。あわてて僕もアスカもレイも、学校にむけて走り出した。
「遅刻したら、あんたのせいだからね!」
走りながらアスカが叫んだ。
僕はと言えば、両手に抱えている三人分のかばんが重くて、それどころじゃなかった。
「起立! 礼! 着席!」
委員長の号令にあわせていつも通りのあいさつをし、それから僕らは自分の席に着いた。
結局僕らは、なんとか朝のホームルームにはまにあった。さすがに、かばんを三つ抱えての全力疾走は疲れたけれど、まあ三人とも遅刻しなかったんだから、いいんじゃないかな。
「……と言うわけです。それでは、転校生を紹介します。霧島さん、入っていらっしゃい」
「はい」
ぼうっとしていてろくに担任の話を聞いていなかった僕は、突然教室に入ってきた女の子に、ちょっとだけ驚いた。
その転校生は、女の子で、しかもかなり可愛い子だったから。ショートカットの栗色のくせっ毛が、教室に入ってくる朝の日光に輝いているように見えた。ほっそりとしていて、でも、きりりとした眉をした、いかにも快活そうな女の子。クラスの男子が、みんなざわざわしている。
「初めまして、霧島マナです。よろしくお願いします」
「よろしゅう!」
誰かがぱっと合いの手を入れた。みんな思わず笑ってしまう。そう、教壇の霧島さんも、両手でおなかを押さえて笑っている。ひとしきりみんなで笑って落ち着いてから、先生が僕の方にむかって指をむけた。
「それでは、霧島さんは碇君のとなりの席に着いてください。碇君、立ってください」
「? ……あ、はい!」
突然のことに、ぼうっとしていた僕は、すぐには反応できなかった。
あわてて立とうとして、ひざを机のかどにぶつけてしまった。思わずひざを両手で押さえてしまう。クラスのみんなが、それを見てくすくすと笑いを押し殺している。
「碇君……ね?」
いつのまに来たのか、霧島さんは僕のすぐそばに立っていた。
「え?」
「へへん、かわいい♪」
一瞬僕は、霧島さんがなにを言ったのかわからなくて、きょとんとしてしまった。だって、これまで女の子に、かわいいなんて言われたことがなかったんだ。なんて答えたらいいかわかんなくて、僕は、頭の中がまっ白になってしまう。彼女は、そんな僕の顔をのぞきこんで、にっこり微笑んだ。
「あ」
その笑顔は、とてもさわやかできれいだった。
「よろしくね、碇君」
教室中が、ものすごい冷やかしでいっぱいになった。みんな僕らにむかってなにか叫んでいる。先生が、なんとかこの騒ぎを沈めようとしているけれども、だれも先生の言うことを聞いていない。
僕はなにがなんだかわからなくて、つい視線をアスカの方にむけてしまった。
アスカは、眉間に眉をよせて、ものすごい表情で僕らのことをにらみつけている。その表情は、いつも僕のことをバカ呼ばわりする時のそれとは、まったく違っていた。なにがどう違うか説明はできないけれど、違うことだけはわかった。
結局アスカは、その日はずっと、僕とは一度も口をきいてくれなかった。
霧島さんが転校してきてから、一週間がたった。
霧島さんは、あっというまにクラスに溶けこんでしまった。彼女は、気遣いが細やかで、朗らかで、笑顔がきれいだった。全然人見知りしなくて、だれにでも自分から話しかけっていった。今も何人かのクラスメイトと、楽しそうに話している。
僕は、そんな彼女のころころと変わる表情を、ぼけっとながめていた。
「シンジ」
「霧島さん?」
「ね、一緒に屋上でお昼しようよ」
そして僕も、霧島さんとずっと仲良くなっていた。霧島さんは、僕のことを「シンジ」って名前で呼ぶ。でも僕は、まだなんだか照れくさくて、彼女のことを名前で呼べないでいた。
「シンジ! ちょっと来なさいよ」
とたんに鋭い声が飛ぶ。はっとして、声がした方に顔を向けると、アスカが相変わらずすごい表情で僕を見ている。二人の間の険悪な雰囲気に、みんな黙って、どうなるのかを見ていた。
「なんだよ、アスカ」
「来なさいって、言ってるのよ!」
「どうしたんだよ」
「シンジ!」
「アスカ」
なかば意地になっているアスカを止めたのは、いつも通りに無表情なレイだった。
アスカは、妹の感情のこもっていない澄んだ声にうたれたようにびくっと身体を震わせると、僕をひとにらみして教室からレイと一緒に出ていった。
「シンジ?」
困ったような表情で、霧島さんが僕のことを見つめている。
僕は、なんとか笑ってみせると、彼女を安心させるように言った。
「屋上だよね。いこう」
霧島マナが転校してきてから、あたしはどうにかなってしまっている。
あたしは、前を黙って歩いていくレイの背中を見つめながら、そんなことを考えていた。
理由はいやになるほどわかってる。彼女がシンジに近づこうとしていて、シンジもそれがまんざらでもないように見えるからだ。これがただの嫉妬でしかないのも、あたしとシンジが恋人同士でもないことも、うんざりするほどわかっている。
「座って」
レイがあたしを連れてきたのは、彼女がいつもお昼を食べ、本を読んでいる、校舎の裏手にあるベンチだった。この木陰におかれた木製の長いすは、レイの指定席みたいなもので、普段は彼女しか使っていない。場所が不便なせいもあって、ほとんど人が来ないのだ。午前中の人形みたいなレイにとって、人がまったくいないというのは、かえがたい魅力なのだそうだ。
あたしは、彼女に言われるままにそのベンチに腰をおろした。
「そんなに、兄のことが気になる?」
この時間帯のレイにしては、めずらしく多弁だった。
あたしと、シンジとレイの二人との付き合いも、ずいぶんになる。物心ついた頃にドイツから引っ越してきたあたしに、最初にできた友達がこの二人だったのだ。それからあたしたちは、なにをするにもずっと三人で一緒だった。
そしてその頃から、レイはずっとあたしが今みたいに参っていると、こうして気を使ってくれていた。兄妹そろって優しいことこのうえない。でも今のあたしには、そんな優しさは、かえってうっとうしいだけだった。
「……なんで、あたしがバカシンジなんかのこと……」
「なら、兄に恋人ができそうなのに、何故じゃまをするの?」
「!?」
今この瞬間、視線で人が殺せるならば、多分あたしは殺人犯になってしまっていただろう。被害者は碇レイ。殺人の動機は、あたしのもっとも考えたくない現実をつきつけたから。
でもレイは、相変わらず感情がぬけ落ちたような瞳で、あたしを見つめ続けているだけだった。
「……あ、あんたの知ったことじゃないわ」
「そう」
そのまま沈黙が二人の間にわだかまった。
その沈黙はそれほど長く続いたわけじゃないだろうけど、あまりにも重たく、うっとうしくて、とてもじゃないけれども我慢できるものじゃなかった。
「そうよ、あのバカが転校生と仲良くしているところを見るのが嫌なのよ!」
その瞬間の声は、悲鳴そのものだった。あたしにとって、自分の本当の気持ちを口にするのは、ものすごく大変なことだった。学校一の美少女のはずのこのあたしが、これくらいでむきになっていることだって、耐えられやしないほどに口惜しかった。
「兄のこと、好きなのね」
本当にこいつは、核心ばかり突いてくる。
あたしは、なにも言えないまま、黙ってレイのことをにらみつけた。
くやしいけれども、なにも言えなかった。
それが本当のことだって、あたしが一番よく知っているのだから。
「だから、何よ!」
思わず立ちあがってしまい、レイの前に立ってにらみつける。そんなあたしの視線をまっこうから受けとめて、彼女は小揺るぎもしない。
「一言で楽になれるわ」
あくまでこの女は冷徹だった。その一言が言えなくて、素直になれなくて、あたしがこれだけ苦しんでいることを知っていて、それでももっとも的確な言葉を投げつけてくる。
「……それが言えれば……」
「言えなければ、ただの幼なじみで終わるわ」
この瞬間、拳を握っただけでレイに手をあげなかったのは、あたしが偉いからでもなんでもなく、これ以上みじめになりたくなかったからだった。
「レイ!」
「私は、霧島さんより、アスカの方が好きよ」
「………」
そうだ。レイは、好意を持っていない相手には、絶対に忠告めいたことを言いはしない。だからといって、その言葉を痛みなしには受け入れることはできはしない。真実は、いつだって苦いものなんだから。
「一言よ」
「一言ね」
「そう」
ここまで言われて、すごすごと引き下がる様では、惣流・アスカ・ラングレーの名がすたる。あたしは、レイの手を取って歩き出した。こうなったら、とことんまで彼女にはつきあってもらう。将来の妹に、あたしが尊敬に値する女だってことを、教えておかなくちゃならないのだ。
あたしは、まっすぐ屋上にむかって歩いていく。全てがそこで解決するはずだった。
そして、
僕と霧島さんが屋上にあがったときには、ながめのいいところはみんな他の生徒らが腰を落ち着けてしまっていて、僕らは、入り口に近い適当なところでお弁当を広げるはめになった。初夏の風がおだやかに流れていて心地よかった。僕たちは、互いのお弁当のおかずを少しづつ交換しながら、お昼を終わらせた。
紙パックの牛乳で口をしめらせている僕に、霧島さんは、普段とはちょっと違った静かな口調で話し始めた。
「惣流さんには、悪いことしちゃったかな」
「……なんで?」
「わかんない?」
僕は、そっと霧島さんを横目で見てみた。彼女は、僕が初めて見る真面目な表情で、空を流れていく雲をながめていた。
答えようがなくて、僕は口をひらくことができなかった。
しばらくそうして二人で空を見ていた。
「きれいね」
「え?」
次に霧島さんが口をひらいたとき、その言葉はまったく別のことだった。
とまどっている僕を見て、くすくすと笑っている。その表情は、普段僕が見なれている明るい笑みだった。
「あの雲。こんなふうに空をながめるのって久しぶりだから」
「そうなんだ」
「前にいた街ね、空がひくくって、雲なんかすごく重たかったの」
彼女の両手が、天にむかって伸びる。
「ほら、全然届かない」
霧島さんは立ちあがると、両手を頭の上にもっていって伸びをした。制服のブラウスの半そでのすそから、わずかに下着の白い色が目に入ってくる。思わず僕は、視線をそらせてしまった。
「わたしね、この学校に来て、すごくよかったと思っているの」
くるん。
スカートをひるがえして霧島さんがふりかえった。両手を後ろで組んで、僕のことを見下ろしている。
あ、と思ったときには、彼女の顔が僕の顔のすぐそばに近づいていた。
「シンジ」
霧島さんの息が顔にかかる。アスカとレイ以外の女の子とこんなに近くで話したのは、ほとんど初めてだった。わずかに彼女の体温が感じられて、自分でもわかるほど顔が赤くなっていく。
「シンジって、惣流さんのことだけ、名前で呼ぶんだよね」
「うん」
「それでね、一つお願いがあるの」
そばで感じる彼女の匂いは、甘くって、どんどん心臓の動きが激しくなっていく。
「わたしのことも、名前で呼んで欲しいな」
どきん。
心臓が、一拍、大きく脈打つ。
「だめ、かな?」
こつんと、互いの額がぶつかる。
僕は、押しきられるように肯いてしまった。
その瞬間の、霧島さんの……マナの笑顔は、本当にぱっと花開くようなきれいな笑顔だった。
「それじゃ、もう一つお願い」
「なに?」
「この街のいろんなこと、教えて欲しいな」
答は、言うまでもなかった。
あたしは、走っていた。
屋上への昇降階段を駆け下り、そのまま教室へは戻らずに玄関へと向かう。必死になって歯をくいしばって、何度もまぶたを右腕でこすらなきゃならなかった。そうしないと、いつ泣き出してしまうかわからなかったから。
シンジは、もうあたしの手の届かないところにいってしまった。あたしはただの幼なじみで、もうシンジにとっての特別な女の子じゃない。
その事実から、あたしは逃げ出したかった。
どれくらい走ったのだろう。気がつくとあたしは、人気のないどこかの公園の入り口に立っていた。
あたしは、もうこれ以上走れなくて、胸がはりさけそうで、そして、おなかのなかになにか冷たい鉛みたいなものが固まってしまっているみたいな感じだった。両わき腹がナイフでも刺しこまれたように痛くて、両手でおなかを抱きかかえてしまう。
必死になって歯をくいしばって声がもれないように頑張った。でも、もうとてもじゃないけど立っていられなくて、そのままそばのブランコに座りこんでしまった。
やっと視界がまともになって、あたりの風景をまともに見ることができるようになる。そしてこの公園が、昔、シンジやレイと三人でよく遊びに来ていた場所だったことを思い出した。
あの頃のあたしたちにとっては、どこまでも大きくて、毎日新しい発見があって、いろんな不思議でいっぱいだったこの公園。でも、今のあたしには、ここはあまりにもちっちゃくて、もうなんにもわくわくさせてくれそうな不思議な場所じゃなかった。今のあたしの目には、ただのくたびれた小さな街の公園の一つと同じにしか見えなかった。
ぼうっとそんなことを考えながら、あたしはブランコをゆらしていた。
「ここにいたのね」
もうずいぶんと影が長くなって、空も真っ赤になっていた。目の前に長くのびたあたしの影に重なるように、もうひとつの影がのびてくる。
振り返らなくても、あたしには、その影がだれのものだかよくわかった。
「探したわ。もう、帰りましょう?」
「ねえ、レイ。ここの公園のこと、覚えてる?」
「え?」
レイがあたしのことを心配して、こうして一生懸命探してくれていたことが、胸がしめつけられるほどにものすごくうれしかった。もう一回、視界がぼやけてきそうにすらなった。だからあたしは、振り返りもしないで話を続けた。これ以上優しくされたら、本当にどうにかなってしまいそうだったから。
「あの砂場。おぼえてる? 三人でよく砂山とか作ったでしょ」
あたしが指さした先に、ちっちゃな砂場があった。あたしが横になったら、つま先がはみ出てしまうくらいの、ちっちゃな砂場。でも、あの頃のあたしたちには、まるでそこに世界のすべてがおさまってしまうみたいに大きかったのだ。
「アスカ……」
レイの影が、あたしの影によりそう。
「おぼえてる? あたしがここに来たばかりの頃。あたしがガイジンっていじめられてたら、あいつが、かばってくれたの」
あいつ。
その言葉を口にした瞬間だけ、あたしの声は震えた。
「おぼえているわ。私もそうだったもの。ウサギ、ウサギっていじめられるたびに、お兄ちゃん、泣きながらいじめっ子につっこんでいったわ」
そう、普段はぼうっとしていて、いじめられっ子だったあいつ。でも、あたしやレイがいじめられているのを見ても、絶対に逃げようとはしなかった。……そりゃ、鼻水たらして泣きながらつっこんでいって、返り討ちにあってばかりいたけどさ。
「あいつ、ぼおっとしているようで、けっこういいところ、あるのよね」
昔の、そんなあいつのことを思い出して、あたしは少しだけ気分が楽になった。
そっと、あたしの肩に手のひらがおかれる。
もうだめだった。レイの手のひらのぬくもりが、あたしの心に染み入ってくるみたいだったから。どんなにがんばっても、やっぱりあたしは傷ついていて、シンジのことを考えないではいられなかった。
「あたしね、やな女だった」
シンジと、霧島マナが仲良くするのを見ていて、自分がどんなに見苦しいことをしていたか。今のあたしは、あんなに嫌だったブスになっていた。嫉妬に狂ってシンジに突っかかって、そして、シンジに嫌われてしまったのだ。
「でも、もう遅いの。あたしが馬鹿だから、ブスだから、シンジに……」
それ以上は、どうしても口にできなかった。もう我慢できなくて、嗚咽がもれてしまう。涙が、ひざの上でスカートをつかんでいる手の甲に、ぽたぽたと落ちる。
「アスカは、馬鹿でも、ブスでもないわ」
肩におかれているレイの手に、力が込められる。
「お兄ちゃんは、ただ女の子に優しくされて舞い上がっているだけよ。好きとか、嫌いとか、そういうところまではまだいっていない。人を好きになるって、絶対そんなことじゃないもの」
「レイ……」
「私は信じている」
ふりむいたあたしの前で、レイは、両手をそっと自分の胸の上においた。ちょっとだけうつむいて、でもしっかりした声で言葉を続ける。夕日を背中に背負った彼女は、やっぱりものすごく綺麗だった。
「本当に好きになったら、心が教えてくれる。私のお兄ちゃんなら、きっと私と同じように感じることができるはず。私は、好きな人と、身も心も一つになりたい。私のすべてを捧げて、すべてを受け入れたい。それは、きっと、素敵なことだもの」
そう力強く言い切るレイは、すごく素敵だった。
でもあたしは、そんな彼女がまぶしくて、見ていられなかった。そんな彼女の言葉が辛くて、涙は止まろうとしなかった。
続く
後書き
こんばんわ。まことにもってお久しぶりです、金物屋忘八です。
この作品は、「アニメ小説の部屋」の四〇万HIT記念に投稿したものを、再録したものです。あんまし褒められたことじゃないんですけど、とにかく、エヴァ関係のコンテンツの更新が、全く滞っている現状では、まあ、しかたがないということで。すいませんねえ(笑)。
で、この作品は、自分がどの程度かゆいラブラブな話を書けるかどうか試すのと、どうも一八禁ものの反応がよろしいので、読者サービスということで書き始めた代物です。まあ、ほら、このWebはYahooJapanによって、一八禁コンテンツに指定されてしまっていますから(笑)。実は結構恨みに思っているだろ、俺(爆)。
まあ、これの続きは、シンジとアスカのラブラブな初々しい初体験物となる予定ではあるのですけれども、それだけにいつ書き上がるかが、ちょっとはっきりしておりません。なにしろ、今私の頭の中では、現実、仮想戦記、ファンタジーを問わず、何故かあらゆる時代の兵器や状況や戦火が駆け回っているのです(笑)。
さて、ここであんまり「EVA1999」のことを書くのも気が引けはするんですが、今、完全にスランプに陥ってしまっております。というか、かの作品についてのみ。まあ、理由はつい最近分かりましたので、おいおい復調するかとも思っているのですが、さてそれまでどれだけかかるのやら(笑)。まあ、さっさと書き上げて、舞台を日本の旧東京に移したいなあ、と(笑)。
でわ、また機会がありましたならば、お目にかかるといたしましょう。