十八

 

 ずくずくと、ゴム底のスニーカーが下生えをふみしめる音が、暗闇の中を進んでいくアスカの耳の底に響いていた。

 半ば視界がぼやけたまま、もはや無意識のうちに足を交互に出しているだけなのが、アスカ自身にもなんとはなしにわかっていた。だが、もう何も考えるのが面倒になっていて、ただひたすら前を行く加持の背中を追い続けて足を前後させていた。地面をふみしめるたびに足の裏が痛くて、足を上げるたびに踵がスニーカーの内側とこすれて痛くて、声をあげそうになる。だが、自分の中にまだ残っているプライドが、前を行く大人二人にねをあげそうなのを知らせまいと歯を食いしばらせる。

 それに、何の荷物も背負わず、怪我もしていない自分が真っ先にへたばるのは、あまりにもみじめで格好悪かった。三人分の食料と水、医療キットやその他の諸々を詰め込んだ馬鹿でかいシェラフを背負っている加持や、肩をライフル弾で撃ち抜かれたダンテが、黙々となにも言わずにこの森の中を歩いていくのに、自分だけ不平をこぼすのはあまりにも情けないではないか。

「どうだ、アスカ。まだ歩けるか?」

 アスカの腕ほどもの長さをもつ山刀を振るって下生えをかきわけ先頭を進む加持が、ほとんど一〇分おきくらいにそう声をかけてくる。

「……大丈夫、だから」

 ゆっくりと、声が震えたりしないようにお腹に力を込めて、アスカはそう答えた。あともう少しは歩けると、なんとか自分に言い聞かせる。

 さっき見事にダンテに弾を命中させ、ブルーバードを捨てる羽目に追いこんだアメリカ兵が、今すぐにも後から狙撃してくるのではないかという恐怖感が、アスカの背中を押していた。

「……加持、大体一時間は歩いた。小休止にしよう」

 傷が痛むせいか、額に脂汗を浮かべているダンテが、さして疲れた様子もなくそうつぶやいた。

「ああ。荷物を見ていてくれ、周りを見てくる」

「……わかった」

 適当な木の根元にリュックを下ろした加持が、ライフルを肩から下ろして手に持つと、足早に今来た跡を戻っていく。

 一瞬、加持とダンテの視線が交差し、二人は何か意見の一致をみたように肯きあった。

 だがアスカは、近くの木の幹に背中をあずけスニーカーをむしり取るように脱ぐと、あえぐように荒い息をつくばかりで、そんな二人にはまったく気がつかないでいた。これまで何度も加持に注意された通り、塩の粒を二つ三つ、ぬるくなってしまった水筒の水一口で無理やり胃に流し込む。そのままむさぼるように水筒の水を飲みそうになるのを、精一杯意地と見栄とで我慢し、歯を食いしばって水筒のふたを閉めた。そのまままぶたが重たくなり、少しだけ、と思いながら目を閉じる。

 しばらくそうやって疲れきった身体を休めていたアスカが、いつまでたっても加持が帰ってこないことに気がついたのは、ようやくまぶたをあけられる程度に疲労が抜け始めた頃であった。

「……ねえ、加持さん、まだ帰ってこないの?」

「……起きたか。あと五分したら、出発だ。用意しておけよ」

「? どうして? 加持さん、まだ帰ってきていないじゃない」

「加持は、追っ手の足止めに戻った。勝てたら追いついてくるだろうし、駄目なら戻ってはこない。とにかく俺達は、一歩でもアパリで待つ船に近づくのが仕事だ」

「……ちょ、ちょっと!? ダンテ、何それ?」

 のろのろと顔をあげたアスカは、だが、ダンテが加持が置いていった荷物から怪我をしている自分でも持ち運べるように荷物を作り直しているのを見て、身体を起こそうとした。

 だがアスカは、そのままバランスを崩してしりもちをついてしまう。いくら彼女が意地を張ろうと我慢しようと、肉体の限界を超えることはできはしない。アスカ自身は気がついていなかったが、この四日間の逃走で彼女の中に蓄積されていた疲労は、じつはかなりのものであったのだ。

「このままでは、遅かれ早かれあの海兵隊員らに追いつかれる。しかも、加持には俺とアスカの二人の足手まといがくっついたままで、だ。ああ、あんたが足手まといじゃないっていうのは、今はなしだ」

 一瞬咬み付きそうな表情で何か言おうとしたアスカを、ダンテは、意思を込めた強い視線で押さえ込んだ。夜の森のどろりとした闇の中でも、「見る」事ができるアスカには、傷の痛みと疲労で疲れきっている彼の様子がはっきりとわかった。ダンテは、そのまま手を休めることなく新たな荷物をポンチョで包み、怪我をしていないほうの肩から斜めに背負うと、ポンチョの両端を身体の前で器用にも片手で結びつけている。

「とにかく、プロを二人向こうに回して怪我人や素人をガードしながら戦えはしない、というのが加持の判断なんだからな。俺達にできるのは、あいつの足手まといにならないように、一歩でも先に進んで生き延びる確率を増やすことだ」

「うん……」

「そこまで疲れきったあんたでは、加持の役にはたちゃしないさ。ここはおとなしく言うことを聞いてくれ、アスカ」

 納得したわけではない、という表情で、不承不承ではあるがアスカは肯き、スニーカーを履き始めた。ここで駄々をこねても、疲れきって今にも倒れそうなダンテの足手まといにしかならない事が、わかったのだ。とにかく、今は加持が敵を倒して帰ってきてくれるのを信じて待つことしかできはしない。

 ダンテは、残すことにした荷物の中から真っ赤なアポロキャップを引っ張り出すと、不満はあるにしろ言うことを聞いて移動の準備を始めたアスカの頭に被せた。

「え?」

 突然のことに、アスカはくつひもを結ぶ手が止まる。

「これくらいなら平気だろう。夜更かししたあとの朝日は目に染みるからな」

「……ありがと」

 ダンテが自分を元気づけてくれた事に気がつくまで、いくらか間があいてしまう。こういうときにどうんな表情をして良いのかわからなくて、アスカは、ついついぶっきらぼうな返事を返してしまった。だが、彼は軽く動かせる方の腕を上げただけだった。

 

 じっとりとした空気が、腰をかがめ木の根から根へと足跡を残さずゆっくりと進んでいく加持の全身にまとわりつく。下生えをできるだけ揺らさないように気をつけてはいるが、さすがにこれだけ密集しているとそう上手くはいかないでいた。それだけに、できる限り風が吹くのにあわせて進み、下生えが不自然に揺れないように気をつける。

 これまで進んできた三人の足跡が、この森の中の獣道にはっきりと残っている。そこからわずかに離れた下生えの中を平行に戻っていく加持は、時々立ち止まっては周囲の様子を耳と目で探っていた。

 ほんの数時間前、見事に追いついてきたマスタングに乗っていた海兵隊員らにダンテを撃たれ、ブルーバードを横転させられてから、加持達三人は、アパリの街へ向けてひたすら山の中を歩き続けてきた。だが、加持やダンテが考えていたよりも、アスカの疲労の蓄積は大きかったのだ。本人は絶対認めないだろうが、今のアスカでは、相手が例え素人の子供でも自分の身を守ることはできないであろう。超能力を使う事に限らず、戦うという行為はすさまじい精神の集中と体力の消耗を要求するのだ。

 とにかく、負傷したダンテとアスカを先行させ、自分が追いかけてくる海兵隊員の足止めをする。それ以外に三人が生き残る可能性はほとんどないと言ってよい状況であった。

「えげつない」

 敵がなにを考えているのかわかるだけに、加持としてはきりきりと歯噛みをしそうになる。

 もっとも大きな戦力であるアスカを疲労と不安で追い詰め、行動不能に陥ったところで包囲して火力を集中して殺すつもりなのであろう。自分が同じ任務を遂行するとしたら、確かに他に方法は考えつかない。だが、理屈と現実の差を簡単に納得してしまうには、加持は警察官としての矜恃が大きすぎた。

 アスカとダンテと別れて三〇分も経ったであろうか。加持は、歩いている途中でいくつか目星を付けておいた狙撃ポイントの一つに陣取っていた。山の斜面の起伏の一部の茂みの中に身を隠し、そこからわずかに森が切れている空き地を見下ろしている。月明かりが斜め後から差し込んでいるが、そばに密生している木々が影を作っていてくれているおかげで、そう簡単には敵に見つかることもない。

 加持は、そこでM21を構えると、ポンチョをかぶり全身の力を抜いて待機の姿勢に入った。ぼんやりと周辺視で周囲を観察し、自然の動きとは違う動きが何か見えたならば、即座に全身を緊張させる。ゆっくりと呼吸を周囲の草木が動くのに合わせ、何も考えずにただ目や耳や鼻から入ってくる情報を処理するそれだけの状態を維持する。かつて彼は、ニカラグアの密林の中でこうして六〇時間以上も待機し、目標を狙撃したこともあった。

 濃密な森の気配の中に、加持は溶け込んだように隠れてしまっていた。

 

 獣道からわずかに離れた下生えの中を、全周を警戒しながらオライリー大尉とホースト曹長はゆっくりと進んでいく。

 二人とも銃を肩に担ぐことなく、両手で保持したまま森の中を一歩一歩足を木の根の上をたどって足跡を残すことなく進んできている。時たま、先頭を行くオライリー大尉が手を上げ、動きを止めて周囲の状況を観察し、周りに誰もいないことを確認してからまた動き始めるという事を繰り返している。

「三〇分には縮まったな」

 何度目になるのか、むき出しの地面に耳をあて周囲の音を聞いていたオライリー大尉が、そっと息を吐くようにつぶやいた。それに答えるように、ホースト曹長も肯いて気配で同意を示す。

 手にしたカモフラージュネットを巻いたM16A2のスコープをのぞき、ぐるりと三六〇度回って周囲を確認してから、オライリー大尉は右手を軽く前に振って追跡を再開した。

 オライリー大尉は、しばらく下生えの中を歩いては獣道へ戻り、目標の足跡を確認してから下生えに戻って追跡を再開するということを繰り返してきていた。さらに、アスカらが残した足跡から、三人、特にもっとも体力が劣るアスカが、そろそろ限界に近づいてきているのを把握していた。もっとも小さいスニーカーの足跡が、不規則に乱れて進み、かつ何度も転んでいる跡がはっきりと残っているのだ。左右の足跡の間隔もかなり短くなってきており、もうすぐ足を引きずって歩いた跡が見つかってもおかしくはない様子でもある。

 さすがに大人二人の足跡に乱れは少ないが、少女の足にあわせて歩いている以上、それほど距離を歩けているとは思えない。

「大尉どの、こいつはカジの足跡だと思いますが、奴はかなりの荷物を背負っているようですな」

「うん。やはり貴様の狙撃はドライバーに命中しているようだな。さすがだぞ」

 獣道に出て、三人の足跡を調べていたホースト曹長のつぶやきに、オライリー大尉ははっきりと賞賛を口にした。時速六〇マイルで夜の山道を走っている乗用車から狙撃し、同じ条件で走っている乗用車のドライバーを撃ち抜くという真似は、相当な技量の狙撃手であってもそうそう出来る事ではない。しかも、これでアスカの周りにはまともな戦闘力を持つのは加持一人ということになったのだ。

 オライリー大尉は、近場の木の根元に手早く落ちている枝や生えている草でマーキングをすると、また下生えの中に戻って追跡を再開した。

 そうしてしばらく周囲の状況を確認しながら前へと進む。

 二人の足どりは、ゆっくりではあったがしかし確実で迷いがなかった。この下生えの密集している夜闇の山林を、いくら専門家のサポートがあるとはいえ素人の女の子がどこまで逃げきれるか、あまりにも明白であったのだ。

 しばらく進んだ二人は、もう一度足を止めた。

 二人の目の前で森が切れ、わずかに開けたくぼ地が広がっている。

 これまで二人がたどってきた獣道は、くぼ地のまん中を抜けて向こう側の森へと延びている。オライリー大尉は、身体を下生えから出たりしないようにさらに身をかがめると、できる限りあたりの草木を不自然に揺らしたりしないように前に進み始めた。ホースト曹長も、手にしたM40A1を構えてスコープをのぞきこみつつ、ゆっくりと銃口をめぐらせて周囲を監視している。

 

 ぼんやりと何も考えずに外から入ってくる情報に精神を反応させる機械と化していた加持は、入力される情報に何か違和感を感じ、全身を緊張させ意識を元に戻した。

 目の前に広がる下生えの揺れ方が、わずかにではあるが自然なものとは思えないほどに激しく揺れている。

 構えているM21をゆっくりと揺れている下生えの方向に動かし、倍率をできる限り低くして集光度を上げたスコープで様子を調べる。月が出ているおかげで、何故かはすぐにわかった。下生えが揺れるたびに、草木の間に影のようなものが動いているのが垣間見える。距離は、ほぼ一五〇ヤード。

 加持は、引き金に指を当てた。あとは、タイミングを見計らって引き金を落とすだけだった。

 

 ホースト曹長は、倍率を二倍にまで落としたスコープをのぞきつつ、いくつか目星を付けておいた場所を何か動きがないか見つめていた。敵がいるかいないかは、この場合さして重要な問題ではない。敵が反撃を行いやすい場所であるということが、二人にこの様な慎重な行動をとらせていた。

 常に最悪を想定し、それに対処できる様に態勢を整えて行動すること。それが、幾度も実戦をくぐり抜けてきた二人の、もっとも初歩的な行動のルールであった。

 前方を、オライリー大尉がゆっくりと、だが手際よく向こう側の森へと進んでいく。ゆっくりと円を描くように進んだかと思うと、次の瞬間には斜め向こうへと素早く進んだりと、不規則で一定しない歩き方をしている。そして、新たな行動を起こすその前には、手にしたM16A2のスコープをのぞきこみ全周を警戒して何か異状がないかを確かめている。

 これは、障害物から障害物へと不規則に移動することで狙撃手の捜索と射撃を難しくするためのテクニックの一つであった。一定の速度で一直線に進む動き方は、例えいくら足が速くてもすぐに狙撃手に見つけられ銃弾を叩き込まれることになる。単調な動きは、予測を簡単にし、先手を取りやすくするだけなのだ。だが、不規則で一定しない動きは、敵の発見を遅らせ、命中弾を出にくくさせる。最初に一撃が外せるならば、あとはいくらでも反撃の方法はある。

 そして、一人が進む間にもう一人がその前進を援護することで、敵はまずどちらを攻撃するべきか選択に迷うことになる。進んでいる敵を攻撃することは、援護している敵へその身をさらすことになり攻撃されやすくなるし、援護している敵を攻撃することは、まず敵を発見し遮蔽物の向こう側にいる敵を無力化しなければならず、その間に前進している敵をより有利な場所に進ませてしまうことになるのだ。ちなみに、迷いを持った攻撃が成功する確率が極めて低いのは、戦場の事実の一つであった。

 しかも今オライリー大尉は、狙撃しにくい方法で下生えの中を前進することで、射撃のタイミングを見計らっている敵の注意を引きつつなんらかのアクションを起こさせようとしている。もし敵がなんらかの行動を起こせば、援護しているオライリー曹長が見逃すはずもなく、敵は隠れて待ちかまえているという唯一の優位を失うことになる。

 そして、その所在を明らかにした敵を見逃すほど、ホースト曹長は無能ではなかった。

 

 加持は、M21を動いている目標に向けたまま、何度目かの射撃のタイミングを見逃していた。下生えの中を不規則に動く目標は、最初の一発を確実に命中させる可能性を低くさせていた。さらに、進んでいく敵を援護しているはずのもう一人の所在が明らかにならないことが、加持を一層慎重にさせていたのだ。

 加持とて、きちんと正規の訓練を受けた上で実戦を経験した経験豊富な狙撃手である。目標がいったい何を考えているのか、わからないはずもない。そして前を進む目標は、自分がここにいることは知らないまでも、いるものとして慎重にふるまっている。中途半端な対応は、確実に隙をさらすことになり、それは自分の死を意味していた。

 進んでいく相手が何度目かの周辺警戒に入ったところで、加持は、今目標が出てきた森の中で援護に当たっているはずのもう一人の目標の捜索に入った。

 

 最初にそれを見つけたとき、ホースト曹長はそれが何かわからないまま見逃し、別の方向にM40A1向けて周囲の索敵に移ったのであった。だが、長年狙撃手として軍暦を重ねてきた彼は、すぐに脳髄の奥にささやきかける勘という名の経験の蓄積によって、それをもう一度何か確認するべく銃口を向けなおした。

 数瞬前には確かにそこにあったそれは、もはやそこには存在せずどこかに消えてしまっている。

 ホースト曹長は、胸のあたりでサスペンダーに固定してある携行無線機のスイッチを二回オンオフに入れた。これで同じ無線機を携帯しているオライリー大尉にも、無線機からイヤホンを通じて二回空電が流れ、敵がこの場に存在することが伝わったはずである。

 曹長は、呼吸の間隔をゆっくりと開いてゆき、密林を通りすぎる風の流れに自らの気配を溶け込ませようとした。自らが背景と同化することで、そこにいるはずの敵からの発見を遅らせ、背景から浮き上がる異物である敵を見つけやすくするために。そして、右目でM40A1のスコープをのぞき、左目でただ入ってくる情景を受け止めつつ、今しがた何かが存在したはずの場所の周囲を探る。

 ホースト曹長のそうした粘着質といってもよい索敵は、だが意図した結果を出すにはいたらなかった。二度ほど周囲を同じ様に捜索してから、曹長は改めて結論を出した。

「下がったか」

 

 ねっとりとした闇だまりから闇だまりへと月明かりを避けて走る加持は、密生する下生えの中で、これまでにない早さで思考を巡らせていた。

 今の待ち伏せが失敗し、あまつさえ自分達の存在とおかれている状況についての情報を敵に与えてしまったという失策をおかした事については、すでに加持の頭の中にはない。彼の頭の中をしめているのは、敵が大量の増援をヘリで投入してくる前にあの二人を無力化し、自分達の行方をくらませてアパリの街へ入るか、という事であった。

 とりあえず、先行するアスカと敵との距離は、相当開いているこは確認できた。少なくとも、夜明け前に敵が二人に追いつく可能性はかなり少ないとみて良い。もし、なんとか敵を無力化する事が出来るならば、敵は増援の投入のタイミングを失い三人がアパリの街へと逃げ込むことも不可能ではないだろう。

 ある程度の距離を移動してから、加持は闇の中から後方の索敵に入った。とりあえず、敵が自分のすぐあとをついてきているかどうか確かめる。

 自分が今来た後に何者も居ないことを確認してから、加持は周囲の状況の確認にはいった。移動にかかった時間と、アスカ達と別れて戻って来る途中に確認しておいた周囲の風景から、少なくとも一〇分は時間を稼いだと目算をする。そして、もう一度、狙撃に適したポイントの策定に入る。

 とにかく、今度こそどちらか一人でも無力化しなければ、アスカの安全を確保できる確率が桁一つ少なくなる。

 その事実が、加持の思考の中心にあった。

 

 闇がわだかまる下生えの中で、オライリー大尉とホースト曹長は、今しがた目標が残していった足跡をゆっくりと追いかけていた。

 時たま立ち止まって三六〇度全周警戒を行い、周囲の安全を確認してからまた追跡を再開する。暗闇の中で浮かび上がる互いの白目が、しばしばちらちらと月明かりに浮かび上がり、獲物を追い詰めつつある二人の興奮を映し出す。

「目標は、相当にへたばっているようです。これなら、夜明け前には接触することも可能でしょう」

「そのためには」

「はい。カジを無力化すれば」

 加持がわざわざ残って追跡者の迎撃にでたということは、そうでもして時間を稼がないことには目標の少女がこの山林から脱出できないと彼が判断したからにほかならない。

 もしまだ少女が体力気力共に十分残っているならば、とにかく自分達の移動の痕跡を消して身を潜めてしまう方が効果的なのだ。少なくとも、NPA(新人民軍)の勢力が闊歩している北部フィリピン山中で、少数の米軍か完全武装で長期間活動し続けることは非常に困難といってもよいのが現状なのである。もしNPAとわたりをつけることが出来たならば、一週間でも二週間でもオライリー大尉らがあきらめるまで身を潜めることも出来なくはない。

 だが、あえて自らの存在を暴露してまでオライリー大尉らを迎撃することを選択せざるを得ないほど、加持とその一行のおかれている状況は抜き差しならないという事になる。

「まず、途中で身を潜めている加持を無力化し、それから目標に張りついてトレッキングだ。後方からプレッシャーをかける」

「はい。そして目標が山から下りたところで、包囲して火力でけりをつけます。いくら超能力者でも、迷彩して潜んでいるレザーネックを全て焼き尽くすことは不可能でしょう。軽迫と五〇口径でけりをつければ」

「よし。そのためにも、待ち構えているカジをどうにかするぞ。奴も必死だろうからな、気を張っていくぞ」

 だが二人にとってすでに加持の存在は脅威ではなく、処理すべき残務となっていた。いくら防御側というアドバンテージがあるとはいえ、選択肢をほとんど持たない彼は、イニシアティブを握っている二人にとってそれほどの脅威とは考えられなかったのであった。

 二人は、ゆっくりと時間をおいて闇の中から出ると、もう一度加持の残した足跡を追って動き始めた。

 

 ジャングルブーツにかかったわずかな違和感に、オライリー大尉はまず動きを止めて身をかがめ、それからゆっくりと感じた何かの正体を確かめた。

 ブーツの足首に、ごく細いワイヤーが引っかかっている。下生えや踏み荒らされた土くれに隠れて見えなかったのだ。そのごく細い線の先は、左右の下生えの中に消えている。

 後方で周囲の捜索に当たっているホースト曹長に、手振りでこのブービートラップのの事を伝えると、そっと揺らしすぎないようにワイヤーから足を外し、二三歩下がって下生えの中に身を潜ませる。そして、M16A2のスコープをのぞいて周囲の捜索に入った。

 わざわざここでトラップを仕掛けたということは、加持がとにかく態勢を整える時間を欲しているということに他ならない。トラップに引っかからなくても、こうしてオライリー大尉らが周囲の警戒に入れば、それだけ時間を稼ぐことが出来るし、引っかかってくれるならばそれにこしたことはない、という事でもある。そして、もしこのトラップが作動してくれれば、今どこまで追っ手が近づいてきているか、という格好の警報となるのだ。

 オライリー大尉が周囲の捜索に入ったのにあわせて、ホースト曹長は身をかがめて小走りに大尉の潜んでいる下生えの中にまで進んできた。

「あの先に、森が切れて開けている場所がある。多分、奴は今度はあそこで待ち構えていると思う」

「同意します。こいつは、警報兼時間稼ぎでしょう。ワイヤーの先に手榴弾が」

 ワイヤーの伸びる先を確かめたホースト曹長が、唸るように同意した。

「よし、警戒に入ってくれ。俺は先行して探りをかける」

 ホースト曹長がM40A1を持ち上げると同時に、オライリー大尉は下生えを出て素早く先へと進む。

 と、大尉が離れてすぐに、曹長の脳裏にこれまでの加持との戦闘の報告が思い出された。仕掛けられたブービートラップを解除しようとして、逆に近くに潜んでいた彼に狙撃された分隊があったことを。

 即座にホースト曹長はブービートラップの位置を確認し、そしてそこをもっとも狙撃しやすいポイントがどこかを探す。

 海兵隊に入ってから二〇年間培ってきた狙撃手としての経験が、半呼吸の間にいくつかの場所を候補として特定させる。

 そして、三つ目のポイントの周囲を捜索したとき、曹長は自分の勘が間違っていなかった事を確認した。そこには、先程見つけて、そのまま逃げられた暗い色の何かがうずくまっていた。さらにそれは、ゆっくりと下生えを揺らさないように、進んでいくオライリー大尉の方へと動いている。

 この見通しの最悪な密林の中で、加持は、ブービートラップを使うことで二人を分断することに成功しようとしているのだ。狙撃に適したポイントの手前でトラップを仕掛けて、今ここに加持はいないと二人に錯覚させて油断を呼び、互いの援護が実質的に途切れたその瞬間にどちらかを狙撃するつもりなのであろう。

 なるほど、警察官らしい心理的なトリックをうまく利用した罠ではある。だが、巧緻すぎる罠は、同時に仕掛けた人間そのものを巻き込んで自爆する事がままあるのだ。目標までの距離は三〇ヤードもない。曹長の技術ならば目をつぶっていても外すことはない距離である。

 ホースト曹長は内心ほくそえむと、ゆっくりとM40A1を動いている目標へと向け、それが動いた瞬間を狙って引き金を落とした。

 

 銃声が二度轟いたと同時に、オライリー大尉は携行無線機のスイッチを入れた。だが、ごぼごぼと何かがわき出るような音とひゅうひゅうという風切り音が聞こえるばかりで、ホースト曹長の声は聞こえてこない。

 二度の銃声の方向と、ホースト曹長が援護していた位置から三角形を計算し、大尉はその方角に向かってM16A2を向けた。緊張で息が荒くなっていくのが自分でもわかり、それがパニックを呼びそうになる。だが、一〇年以上も海兵隊の飯を食ってきた彼は、戦場でパニックを起こしそうになったとしてもそれを押さえ込むすべを心得ていた。長年連れ添った部下を倒した敵への憎悪を掻き立て、意識をそれだけに集中する。アドレナリンが全身を駆け抜け、これまで以上に意識をはっきりさせる。

 と、暗い色のポンチョが、すぐ目の前に一瞬ひるがえるのが目に入る。

 今ここにあるはずがないそれが、誰かわからない人間が着ているのを一瞬で確認したオライリー大尉は、ためらわずにM16A2の引き金を落とした。

 

 響いた銃声は、二回であった。

 


 あとがき

 

 今度は九か月ぶりになります。皆様如何お過ごしでしょうか、金物屋忘八です。

 いやもう、今回は平身平頭謝ります。いや、全ては自分の不徳のなすところです。というか、実は今回のだって、暫定版ということでして。近々、残りを書き上げて、追加するか、別にアップする化します。いやもう、本当に、ごめんなさいです、はい。

 で、とにかく、夏コミのCCさくらに向けて、全力を傾倒する必要性が出てきておりますので、次の更新はいつになるかさっぱりわかりませんです、はい。

 というわけで、まるで付け足しですが、このストーリーのテーマはあくまで「ラブラブシンちゃん」だとそっと書き添えてみたりますです、はい。

 それではまた、機会がありましたら、次の作品でお会いしましょう。

金物屋亡八 拝 


 L Partへ続く

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