人が人であるために……  

 

金物屋忘八   


 

 

 湖上を駆け抜けた風が、立ちすくむシンジの肌に夕立の到来を告げる。

 かつて第三新東京市であった場所にうがたれたこの湖は、今のシンジには、唯一自らの心の中へと逃避することが許される場所であった。彼が初めて心を開いた少女が自らの命と引き換えに少年の命を守ったあかしであるこの湖は、ただ静かにそこにあることによって、今は彼の傷つきやすい心を守り続けていた。

 しめり気をおびた風が、シンジの黒くくせなのい柔らかな髪を撫でていく。

 そのほほに触れる風の柔らかさに、少年は失われた存在の大きさにまたまぶたが熱くなった。そのまま目を閉じ、もう一度あの輝いていた刻を思い出す。あの夏の光のなかで輝いていた少女。あの戦いのあとで、蒼い満月の光のなかで微笑んでいた少女。

「綾波」

 口から少女の名がこぼれ、少年はまた自分の心の傷から血がにじみだす痛みにうめいた。

 僕はどうして、あの時、逃げてしまったんだ。

 傷の痛みが少年の心を嘖む。

 あの時僕がしっかりしていれば、そうすれば、綾波は死ぬことはなかったんだ。僕は彼女を助けるために出撃したのに、それなのに、助けられたのは僕のほうだった。

 僕のために、綾波は死を選んだんだ。

 シンジのほほに雨粒があたりはじめる。それは優しく温かく、シンジの心に流れる慟哭の血を洗い流そうと彼の全身を包みこむ。

 少年は、自分の身体を柔らかく包みこむそれが、まるで今はいない少女の手のひらであるかのような安らぎを覚えていた。

 

 少女は、自分がだれかに呼びかけられたような気がして、思わず立ちすくんだ。

 空は、突然わき出た黒雲に覆われようとしている。夕立の到来の予感に、人々はあたりを足早に行き交い、店の軒先へと動いている。少女はゆっくりと空を見あげ、一粒、二粒と、水滴がまるでだれかの涙のように降り始めるのを見やった。

 降り始める雨に、少女の白銀に輝くギャジーの入った頭髪が濡れそぼっていく。

 だが少女は、まるでその雨が語りかけてくるなにかに耳をすませるように、その場で顔をあげて立ちつくしていた。

 少女の心の中に、一人の少年の笑顔が浮かび上がってくる。

「碇君」

 言葉にして、その少年の笑顔を呼んでみる。

 が、しかし、次の瞬間その笑顔は、一人雨の中にうつむいて立ちすくむ少年の姿にとって変わられた。

 その雨の中、少年は一人で立っていた。誰もそばにいないまま、ただ一人孤独のうちに慟哭の涙に濡れていた。失われたかけがえのないものを、自らの愚かさによって失われたと己を責め続けていた。

 少年のその姿は、一瞬で雨の中へと消えていった。

 少女は、何故自分がその姿を見ることが出来たのかわからなかった。ただ、誰かが自分に何をするべきなのかを伝えたくて、その祈りにも似た思いが伝わってきたように感じられたのだ。

 いまだ少女がこの世に生まれ出でていくらも経っていないことが、常識という思考のかせにとらわれることのない洞察を彼女にもたらしたのかもしれない。

 少女は、今自分が感じている何かを、こう表現するしか出来なかった。

「心が、痛い」

 生まれて初めて得た感情を、少女はなんと呼ぶか知らない。

 ただ彼女の身体が、その思いにどう応えるべきかを知っていた。

 だから少女は走り出す。

 その心の痛みにつき動かされるように。

 

 西暦二〇一五年夏以来人類は、「使徒」と呼称される謎の生命体と接触し、これと戦闘状態にあった。

 人類は通常兵器の効かない「使徒」との戦闘に、汎用人型決戦兵器「エヴァンゲリオン」を投入し自らの生存をはかった。この「エヴァンゲリオン」と呼称される兵器は、その最大の特徴の一つとして、搭乗員に第二次性徴期に入る一四才前後の少年少女を必要とした。これは、この兵器を制御、操縦する手法として、人間の快楽神経中枢A10神経を搭乗員と「エヴァンゲリオン」との間で同調させることによって、比類無き運用の柔軟性を確保する必要性があったためであった。このために同調を行いやすい柔軟な精神を持ち、かつ「エヴァンゲリオン」に精神を崩壊させられないだけの強固な自我を持った搭乗員として、少年たちは選ばれたのである。

 そして、この「エヴァンゲリオン」システムの最初の実戦経験者であると同時に最も優秀な搭乗員であったのが、彼、碇シンジであった。

 彼は、ほぼなんの訓練を受けてもいない状態でありながら最初の戦闘で「使徒」に勝利し、以来最も多くの使徒を殲滅し、多くの任務を成功に導いてきた。いわばこの少年は、「エヴァンゲリオン」システムにおけるトップエースと言うべき存在であった。

 だが、その栄光は、労なくして得られたものではなかった。

 数々の戦闘で多くの犠牲者が生まれた。

 例えば「第十六使徒」との戦闘において「エヴァンゲリオン」零号機は、第三新東京市の大半と搭乗員自身を引き換えに、自爆することによって使徒を殲滅した。弐号機搭乗員にいたっては、心身共に過度の酷使によって精神に変調をきたし、廃人同様の状態で病院に収監されている。人々は生き延びるために多くの犠牲をものともせず、人類とその尖兵たるNERVによってなりふり構わぬ戦いを繰り広げてきたのであった。

 そして彼、碇シンジは、その戦闘において零号機を援護する立場にありながら、自分の過失によって零号機をその搭乗員綾波レイもろとも失うことになったと、自らを責め続けていたのであった。

 これは決して彼の責任ではなく、指揮官の判断ミスによる戦力の逐次投入によるものであった。が、元来内向的で責任感の強い彼にとってこの悲劇は、ただ受け止めるにはあまりにも重い事実であった。多感な一四歳の少年にとっては、友人であり、戦友であり、憧憬の対象であった少女のその苛烈な死に様は、もともと繊細で傷つきやすい彼の神経を限界まで痛めつけたのである。

 そして、戦闘行動可能な搭乗員が彼一人になってしまい、最上層部から責任追求の声が上がるにいたってNERV上層部は、新だ綾波レイのクローンを世に送り出すことによってその矛先をかわそうとした。

 限界まで痛めつけられていた少年の精神にとってこれは、まさしくとどめの一撃となった。

 少年はこれまで彼が信じてきた全てに裏切られ、もはやこれ以上戦う意義も何も見いだすことが出来なくなってしまっていた。彼がいまだに「エヴァンゲリオン」に搭乗し続けていたのは、それ以外に彼が存在し続けることを許される場所がなかったからでしかない。

 そして、凄惨な戦闘の連続によって余裕というものをなくして久しい大人たちは、表面上はこれまでとかわらない少年の内面まで思いやることはなかった。ゆえに彼は、ただこれまで通り黙々と自らの義務を果たすことで、精神に負わされた重圧に耐えるしかできなかったのだ。

 だから少年は、時間が出来ると、こうしてこの綾波レイが自らの命と引き換えに作った湖のほとりに立ち、自らの心を自らはめた枷から解き放っていたのであった。

 

 ふと、だれかに見られているような気がしてシンジは、雨でそれほど視界も通らないなか、あたりを見まわした。

 先程の柔らかな雨は、今では霧雨となってあたりにたちこめている。

 その雨粒が霧のように煙るなか、ここに来るときに通ってきた道のうえに赤い瞳をしたアルビノの少女が立っていた。

 シンジは、一瞬自分の目を疑った。その少女は、かつての戦闘で自分を守って死んでいった少女そのままの姿をしていたのであった。力を込めたならば折れてしまいそうな、細く華奢な身体。ぬけるように白く、細雪のような冷たい肌。一つ一つのパーツが繊細で可憐な作りの、綺麗と言ってふさわしい容貌。そして、月の光に冴え冴えと蒼く輝くプラチナブロンドと、その無表情な顔とは反対に色とりどりに感情のままに紅に輝く瞳。

 少女の亡霊を見たかのように、少年はその場に立ちすくんだ。

 そしてしばらく呆然と少女を見つめてから、やっとこの少女が亡霊などではなく、なぜかわからないまでもNERVの大人たちによって復活させられた綾波レイであることを思い出した。

 しばらく雨に濡れながら見つめあう二人。

 最初に動いたのはシンジの方だった。

 彼はおずおずと少女の方にむかって近づくと、互いが手を伸ばしてようやく触れあうことが出来る距離で足を止めた。

 だが彼は、うつむいたまま正面から彼女の顔を見ることは出来ないでいる。

 かつて少年とともに同じ刻を過ごした少女とうり二つの、だがその中身はまったく別の少女。その存在は、少年の思い出や思いをまったく無価値であると語っているにも等しい。そうであることが恐ろしくて、彼は少女のことを直視することが出来なかった。

「綾波?」

 ほんのわずかな間だけためらってから、シンジは少女に言葉をかけた。

 少女は無表情なまま、少年のことを黙って見つめている。

 二人の間にしんしんと霧雨が降り続ける。

「……風邪を、引くよ?」

 言葉のつなぎようがなくて、シンジはなんとか当たり障りのないことを口にした。

 と、それにつられたように少女は、右手を彼に向かって伸ばす。

「……?」

 その意味するところがわからなくて、シンジは、とまどったように顔をあげた。

 そこには、降り続ける雨に濡れそぼり、今にも煙る霧雨のむこうに消えていってしまいそうな風情の少女が、みじろぎもせずに彼を見つめながら立っていた。

 その紅の瞳からは、心の内に何か語るべきものがあって、そしてそれを言葉にするすべのない者が持つ激情の色を読み取ることが出来た。

 シンジは、綾波レイが死んでから初めて、固く凍りついてしまった自分の心が、傷つきにじみ出た血によってかさぶただらけになってしまって固まった自分の心が、うずくまり悲嘆にくれるしかなかった自分の心が、起きあがり外の世界に意識をむけようとしていることを感じた。

 自分は、もう一度差しだされた手を取ることが許されるのだろうか?

 もう一度自分の愚かさによって、この少女を死にいたらしめるかもしれない。後でもう一度失ってしまうものならば、今ここで得てもしかたないのではないか。それならば、このまま一人でいた方がいいのではないのか?

 でも、本当にそれでいいのか?

 自分の心が波うつようにざわめく。今こそ選択をしなければならない。このままうずくまって一人で安逸な孤独のうちに死を迎えるのと、立ち上がり少女の手を取って傷つき苦しみながら生きていくのと。そう、かつて綾波レイが選択したように、自分も。

 シンジは自分の心のざわめきが、全身の緊張となって体のばねがたわむのを感じた。もう一度自分の心の中を確認する。

 僕は、どうしなければいけないんだろう?

 僕は、一人だ。

 綾波は、僕を残して死んでしまった。アスカは、今も病室で眠り続けている。ミサトさんは、僕を僕でないなにかに見ている。NERVの人たちも、僕ではない何かを必要としているだけ。父さんも、そう。

 僕は、どうしなければいけないんだろう?

 僕を必要としてくれる人がいるの?

 いる?

 目の前の少女は、僕を必要としてくれているの?

 僕を?

 僕ではない、何かをではなく?

 わからない。

 そう、答は、わからない。

 でも、本当に分からないのだろうか?

 わからないのではなくて、答を見ようとしていないだけじゃないのか?

 ならば、答はどこ?

 答は、探しに行かなくてはいけない。

 そう、立ちあがって探しに行かなくてはいけないんだ。このままうずくまっているんじゃなくて。

 その時、シンジは思い出した。

 最初に自分と綾波レイがどうやって知りあい、心を通わし、友情をはぐくんでいったか。まず自分が立ちあがらなくてはいけない。そして、歩いていかなくてはいけないのだ。答はその歩いていった先に見つかる。これまでの自分がそうであったように。そして、綾波レイがそうであったように。

 シンジは、面をあげた。

 そして、もう一度目の前の少女を正面から見つめ直す。少女は、そんな彼をただ黙って手を差し伸べたまま、辛抱強く見つめている。

 シンジは、ゆっくりと、でもためらうことなく自分の手を伸ばした。そして、差し伸べられている少女の指先に自分の指先を触れさせる。そして、意を決したようにしっかりとその手を握りしめた。

 シンジは、突然笑い出したくなった。

 それがなぜだかわからなかったが、ただ無性に笑い出したくなった。

 だからシンジは、雨に濡れたままはればれとした笑みを浮かべ、少女の手をしっかりと握りしめたまま、綾波レイの住んでいたマンションにむかって歩き出した。

 

 

 綾波レイののマンションは、相変わらず殺風景で人の生活の匂いのしないままであった。

 二人は黙って靴を脱いで部屋に入り、そしてむかいあった。

 二人ともびしょ濡れで体の芯まで凍えていたが、不思議とそのことは気にならなかった。

 シンジは、少女が黙ったまま自分を見つめて立っているので、なんといって会話の糸口を見つけたらいいのか思案を重ねていた。だからといって名案が浮かぶはずもない。もともと人付き合いの不得意な彼に、この沈黙をどうにかすることが出来るはずもなかった。

 しばらくそうやって二人立ちすくんでいる。

 二人の息遣いだけが聞こえる部屋の中で、少年は、初めて少女が寒さで震えていることに気がついた。

 あわてて少女に問いかける。

「あ、あのさ、綾波。寒く、ない?」

 無言のまま、少年を見つめている少女。

「着がえるんなら、僕は向こうに行ってるから」

 シンジは、あわてて風呂場の方に視線をむけた。少女の沈黙が、彼の心におびえのさざ波を立てる。

「あ、そうだ、お風呂に火を入れてくるから……」

「私は、綾波レイ、ではないわ」

 彼の言葉をさえぎって、少女はつぶやいた。

 はっとして少女を見るシンジ。

 少女は、瞳に何か強い意志の光を灯しながら、黙って少年のことを見つめている。

「あ……」

 なんと言っていいかわからずに、シンジは少女のことを見つめ返すことしかできなかった。

「私は、綾波レイだけれども、綾波レイではない」

 いっさいの感情のこもっていないその言葉に、シンジは、それだからこそ彼女の深い悲しみを聞いた。

「私は、三人目だもの」

 シンジは、初めてこの少女が感じている何かに気がついたような気がした。何に気がついたのか、言葉にはできなかった。だから、彼はただ肯くことで、それでも自分が気がついたということを彼女に知らせようとした。

 少女は、彼が自分の言葉を理解はしてはいないものの、それでも言いたいことに気がついてくれたことに、同じように肯いて返すことで答えた。

 やっとお互いの間に何かが通わされたことで、シンジは、深い安堵のため息をついた。

 そして、今度は二人の体が、雨で冷えきってしまっていることに気がついた。あわてて風呂場に行って、何か身体を拭くもを探そうとする。

 脱衣所でタオルを探しているシンジの背中に、少女の気配が感じられる。

 はっとして振り向こうとして、彼は、彼女手のひらが背中に触れられたのを感じ、そのまま凍りついた。

 少女の手のひらは、冷たかった。

「寒い」

 そして彼女のつぶやいたその一言が耳に入ってきた瞬間、シンジは振り向き、彼女を力いっぱい抱き締めた。

 

 湯船に湯が満たされていく。

 二人は、一枚のバスタオルに一緒にくるまったまま、その様子を黙って見つめていた。

 あのまま濡れた服を着たままでいたならば、まず確実に風邪を引いてしまう。そう判断した二人は、替えの衣類がなかったこともあって、こうして二人で温めあうことを選んだのであった。

 正確には、なぜかシンジと離れるのを嫌がった少女が、あくまで彼のそばにいることを選んだためなのであったが。そしてバスタオルが一枚しかなく、いくらかなりとも温かい部屋がここしかなかったためでもあった。

「あのさ、その、着がえてきたら?」

 シンジは、自分の左腕をしっかりと抱きしめたまま離そうとしない少女の体温を感じながら、自分の顔がじょじょに上気していくのを感じていた。自分の心臓の鼓動が、どんどん早く激しくなっていく。少女の身体は柔らかく、すべすべしていて、ゆっくりと温かくなっていく。その感触は、少年の身体の奥に眠っている雄を目覚めさせるのに十分な刺激を持っていた。

「いや」

 そっけないほどの少女の返答は、むしろ今のシンジにとっては心のたがを緩める悪魔のささやきに聞こえる。

 二人がくるまっているバスタオルは、二人の全身をくるんでまだ余りあるほどの大きさを持っているが、むしろそうだからこそ彼の想像をかきたて惑わそうとしている。

 シンジは、自分が下履き一枚しか身につけていなくて、少女が文字通り最後の下着一枚、いや正確には二枚しか身につけていないままこうして身を寄せあっていることに、めまいを起こしそうな興奮を感じていた。

 少女の二つの胸の膨らみが、彼の腕に薄い布切れ一枚へだてて押しつけられている。その柔らかな布越しに、少女の心臓の鼓動と体温が伝わってくる。肩にかかる吐息が、甘くせつない。

「僕も、その、だから……」

「何?」

 自分がこのままでは我慢できないことをどうやってこの少女に教えたらいいものか、シンジは本当に途方にくれた。この無垢な天使のように清らかな少女を汚すことは、自分の内心の何かが許しはしなかった。それは死んだ少女に対する冒涜であり、裏切りであった。

 少年の潔癖で硬質な精神が、自分の中にある野性の本能を許しはしなかった。

 だが、この自分に寄りそっている少女に、その気持ちをどう説明したらいいものか。

 湯船に注がれていく湯の動きは、遅々として進まない。

「ごめん!」

 シンジは、意を決して少女を自分の身体から引きはがそうとした。そして、今の自分の気持ちを正直に伝えようとする。

 だが少女は、全身の力を振り絞って彼に抵抗した。必死になって少年の腕にしがみつき、顔をその胸にうずめようとする。

 もみあった拍子に、二人はもつれあって風呂場の床に転がった。

 その瞬間シンジは、無意識のうちに少女をかばって抱き寄せた。そのまましたたかに後頭部を打ちつけ、目の前が真っ白になった。ふっと意識が遠くなり、今自分がどうなっているのかわからなくなる。

 ふと、濡れそぼったまま自分を見つめている少女の姿が思い出された。

 少女は、その濡れたプラチナブロンドから水を滴らせ、彼女の着ている、いや、肌に張りついているにも等しい「エヴァンゲリオン」搭乗時に着用するプラグスーツがその躯のラインをあらわにしていた。その紅の瞳は、せつなく、悲しげな色をたたえて彼を正面から見つめていて、彼の心を落ち着かせなくする。

 綺麗だ。

 そんな少女の幻影を、シンジはぼんやりとそう思った。

 少女の細くきゃしゃな躯のラインは、まだ未成熟ではあったものの、そうであるからこそ天使のように清らかで美しかった。小ぶりではあるが綺麗な形をしたその胸の膨らみは、女の匂いではなく少女の香りをたたえていて、むしろせつない憧憬を思い起こさせる。

 無駄な脂肪のついていないそのうえストから下腹部にかけてのラインは、まだ青く固かったが、そうであるからこそはかなげな美しさをたたえていた。

「綾波」

 シンジは、少女にむかって語りかけた。

「僕は、君を守れなかった」

 心につかえていた悲しみが、言葉になってこぼれていく。

「いつも君はぼくを守ってくれた。なのに僕は、君に何も出来なかった。

 僕は、弱くて、ずるくて、卑怯で、今もこうして君に自分の苦しみや悲しみを押しつけることしか出来ない。

 だけど、信じてほしいんだ。僕は君のことが好きだった。ずっと一緒にいたかった。君となら、どこまでも一緒にいけると思っていた。

 でも、もう遅いよね。ぼくをおいて君は遠くに行ってしまったんだから。

 ごめん、でも、本当にそう思っていたんだ。僕は、君と一緒にいたかったんだ」

「遅くはないわ」

 突然耳に聞こえてきた声に、シンジは意識がはっきりと戻ってくるのを感じる。

 そこには少女が、シンジのうえに覆いかぶさるようにして四つんばいになっていた。二人を覆っていたタオルは今はなく、幻影に見た少女の肢体が、わずかな布切れで隠されたままの姿で彼の目の前にある。

 少女は、今度はシンジの胸に顔をうずめるようにして肌を寄せると、吐息をこぼすようにそっとつぶやいた。

「今こうして、あなたは私をかばってくれた」

 少女はそのまま両手を彼の胸のうえに添わせる。

「そして、たぶんこれからも」

 シンジは、少女の蒼くきらめくプラチナブロンドが、わずかに震えていることにこの時初めて気がついた。

 少女は彼の胸にその顔をうずめたまま、何かにおびえるようにずっと震えている。シンジは、少女がいっさいの過去を持たないままこうしてこの世界に一人で放り出されていることに、それがどれほど心細く恐ろしいことかに初めて気がついた。

「ごめん」

 自分がもう一度、同じ過ちを繰り返そうとしていたことに、やっと気がつくことができた。

 自分のことしか頭になくて、失われてしまったものをただ嘆くばかりで、今自分を本当に必要としてくれている人がいることが見えていなかったのだ。

 それは、今自分の胸の中にいる少女だけではない。今も病室で一人横たわって外の世界から心を閉ざしてしまっている少女もそう。わずかな間ではあったけれども、家族として暮らしたあの女性もそう。自分が守ってきたこの街で、一緒に暮らしてきた級友たちもそう。そして、NERVで自分が戦うのをただ黙って見ているしか出来なかった人たちもそう。

 誰かが自分を必要としてくれているから、今こうして自分がここにいることが出来る。

 そのことに、今やっと気がつくことができたのだ。

「ごめん」

 シンジは、何故自分が綾波レイを失うことになったのか、初めてわかったような気がした。

 だから少年は、自分の胸の中にいる少女をしっかりと抱き締めた。右腕で少女の小さな頭を抱き、左腕をその細い背中にまわす。そして、力を込めてしっかりと抱き締めた。自分がもっと早くに分かっていなければならなかったはずのことを、今やっと気がつかせてくれたこの少女をどこにも行かせないようにしっかりと。

「碇君」

 シンジが彼女にまわした腕に力を込めるのにあわせて、少女もシンジの躯にしがみつき、その細い腕に力を込める。

「綾波!」

「碇君!」

 二人は、精いっぱい力を込めて二人の距離を縮めようとしながら、互いの名を呼びあった。それだけが今の二人の距離を縮めることが出来る魔法の呪文であるかのように。

 しばらくして、二人の間に静寂が戻ってくる。

 浴室の中では、湯船に湯が張られていく音と二人の息遣いだけが、互いの耳に聞こえる。

 その静けさのなかで、少女は少年だけに聞こえるような小さな声でつぶやいた。

「私は、綾波レイではない。消えた綾波レイの影」

 少年の薄い胸に這わされている手に力が込められる。

「私は、綾波レイに、なりたい」

 

 

 シンジは、少女の言葉に意味の重さに、今までの自己陶酔にも似た高揚感が潮が引くように去っていくのを感じた。

 代わっておとずれたのは、せつないまでの少女に対するいとおしさと、熱情であった。

 少年は抱き合ったまま身体を左に半回転させると、左ひじをついて上半身を起こした。その動きにあわせて少女は少年の身体から浴室の床に横たわらさせられる。

 突然少年の温もりから引きはがされて、少女はその紅の瞳におびえとせつなさの色を浮かべて少年を見あげた。

 シンジは、少女に優しく微笑みかけると、今度は自分から少女のうえに覆いかぶさっていった。そして、少女の両ほほをそっとその手のひらではさみ、優しく彼女の顔に唇を這わせる。

 最初はその秀でた額に。そのまま小さな音を立てながら口付け、徐々に下へと自分の顔を動かしていく。

 少女のまぶたに、鼻先に、ほほに、そして、唇に。

 少女は最初はおびえたように少年のことを見あげていたが、すぐにその柔らかくて温かい感触に目を閉じて流れに身を任せることにしたようであった。

 二人の最初の口付けは、互いの間にあるとまどいや気恥ずかしさを表したかのように、そっと触れあうような軽いものであった。

 だが、二人の互いを求める思いが、その動きをいっそう激しくさせていく。

 シンジは、少女が自分を拒もうとしないことに気を良くし、まずは舌先で少女の堅く閉じられた唇をそっと開いた。そのまま舌先を少女の口に忍び込ませ、探るように中の粘膜をつついてみる。

 生まれて初めて味わうその感触に少女は、全身の筋肉を収縮させ、わずかにのけ反った。

 そんなおびえたようにも見える少女のしぐさに、シンジは、優しく少女の身体に腕を回すと今度は大胆に舌を彼女の舌に絡めあわせる。少女の舌は、柔らかく、温かく、そして甘やかであった。その感触が、彼の身体の奥に火を点け、舌の動きをいっそう激しくさせる。

 そんな彼の動きに、突然少女の身体が柔らかく変わった。

 シンジの動きにあわせて少女は躯をすり寄せ、彼の首に腕を回す。自分がされたように少年の舌に自分の舌を絡ませ、口のなかを味わおうとする。一瞬で少女の体温が何度も上がったように熱くなり、その熱がもう一人の彼に移される。

 ひとしきり互いの舌を味わうと、二人はどちらともなく顔を離した。

 そうしてわずかに離れた互いの瞳と瞳を見つめあい、鼻先と鼻先をすり寄せあう。二人のわずかに開いた口から漏れる熱い吐息が互いの顔を撫で、もう一度二人の間のなにかを熱していく。

「綾波」

「碇君」

 互いの間のそのやけどをしそうに熱いなにかが限界まで膨らんだ刹那、二人はもう一度互いを求めあった。

 シンジは、レイの胸の膨らみを覆っている白い布切れを押し上げ、あらわになった白い双球にむしゃぶりつく。そのままその柔らかく白い肌に赤い唇のあとを残し、桜色の頂点を口に含み吸い上げた。左手は彼女の背中にまわしたままひじで自分の体重をささえ、右手でもう一方の膨らみをつかみ、揉みしだき、こね回している。

 少女は、シンジの頭を両手で抱き締め、その頭髪に顔をうずめてほほを擦り寄せている。自分の身体のうえで少年がなにかするたびに、さざ波のような快感が皮膚の下を駆け抜け、全身を焼けるようななにかで満たしていく。

「ああ、はあ、はあ、はぁ、はあ、あぁ、はあ、はあ、はあ」

 互いの熱い喘ぎ声が重なり合いながら浴室を満たし、湯船からたちのぼる湯気とともに室内を熱していく。

 シンジは、少女の胸からみぞおちへ、みぞおちから下腹部へと唇をすべらしてゆき、彼女の全身の感触を確かめていく。唇に触れるそのきめ細かな肌の感触がなんともいえず心地よい。

 そして唇が、彼女の身体をおおっている最後の一枚にたどり着いたとき、シンジは顔をあげて少女の名を呼んだ。

「綾波?」

 ようやく自分の体温で温かくなりつつあるタイル張りの床の上で、目をつむったまま少年の愛撫に目を閉じて身を任せていた少女は、少年が自分に最後の選択をせまったことに気がついた。だが、考えていたのは一瞬でしかなかった。まぶたを閉じたまま彼女は、小さな、本当に消え入ってしまいそうな小さな声で答えた。

「お願い」

 

 古びた蛍光灯の光が照らし出す少女の裸身は、その寒々しい浴室内の雰囲気を圧倒して美しい。

 シンジは、こんどは身体を起こし、彼女の全身を膝下にとらえながらゆっくりと手のひらでおおうように愛撫していった。自分の中にある獣が、彼女の真っ白な姿を目にしたとたんまったく別のものに昇華してゆく。

 守りたい。

 わきのしたからその細くくびれたウエストへ手のひらをうごかしながら、彼はそう思っていた。

 彼女を、皆を、父を、そして自分を。

 薄く淡い茂みに指を絡ませ、その奥にひそやかに息づいている彼女の神聖な部分に触れながら、祈りにも似た思いがわきあがってくる。

 僕に必要だったのは、僕以外の人への思いだったんだ。

 しばらく彼女の細く長い足の内側を撫でると、扉をノックするように少女の蕾を指先でたたいてみる。

 ……初めてなのに、なんでこんなに落ち着いていられるんだろう?

 ふとシンジは、自分がまるで百戦錬磨の女ったらしのように自分が冷静で落ち着いていて、そしていっさいの怯えも昂ぶりも心にないことに気がついた。それは不思議な感じであった。今自分にはなにもなくて、ただ心だけが何者にも捕らわれずに自由であった。

 雑誌で読んだ体験談には、初めてのときには頭に血がのぼってしまってなにもわからないまま、ただ焦って終わってしまうことが多いと読んだこがあった。

「……わかんないや」

 不思議と穏やかな気持ちで、シンジはぽつりとつぶやいた。

「?」

 そんなシンジの独り言に、少女は目を開き、問うようにその紅の瞳で少年をみつめる。

 彼女が自分を見つめていることに気がついて、シンジは穏やかの微笑みを浮かべてたずねた。

「僕と、ひとつになりたい?」

 答は決まっていた。けれども、こうして尋ねることが二人の間には必要な儀式であると分かっていたから、彼は優しくそう口にしたのだ。そして少女も、これが儀式であると分かっているからこそ、しっかりと少年の瞳を見つめながら答える。

「私は、碇君とひとつになりたい」

 少女は、身を引き裂かれるような痛みとともに、やすらぎと充足感が全身を満たしていくのを感じた。

 

 湯船からこぼれた湯が、冷たい床にその熱を奪われながらも浴室内をひたひたと満たしていく。

 シンジは荒い息をつきながら、ゆっくりと少女の上で身体を前後に揺すっていた。自分の雄が彼女の身体の奥に入ったり出たりをくり返しながら、とろけるような快感を腰のあたりにためこんでいく。

 少女は左手の人指し指を唇に当て、自分が女にされていく苦痛と喜びに必死に耐えようとしていた。

 床からたちのぼる湯気だけではないなにかが二人の間にたちこめ、全身を汗でしとどに濡れそぼらせながら、二人は黙々と作業に熱中していた。

 少女の粘膜から少年の雄がせっせと悦楽を受け取り、受け取った以上の快楽を少女の牝に渡していく。互いの獣は、汗ではない甘い匂いをたちこめさせる蜜でしっとりと濡れ、互いを求めてうごめいていた。

「あや、な、み」

 荒い息で少年が少女に許しを請う。

 歯をくいしばっている少女は、全身を駆け抜ける痛みと愉悦のなかで、そろそろ終わりが近づいていることに気がついた。自分の躯の奥深いところにそれが生まれていて、そして少年の雄がさらに一回り大きくなって最後の咆哮をあげようとしている。

 少女は、少年の両手に自分の両手の指をからませることで許しの代わりとした。

 シンジは、そのまま腰の動きを早め、彼女の身体から得られるかぎりの快楽を得ようとする。互いの獣から、蜜をかきまぜる音と袋のようなものがうちつけられる音が浴室内に響き、二人の荒い呼吸の音がそれとかきまぜられる。

 最後の瞬間シンジは、わずかに口をうごかし、声にならない声で少女の名を呼んだ。その秀麗な眉が苦痛にも似た角度でよせられ、全身を痙攣が走り抜ける。

 少女は、自分の躯のなかで熱い焼けるようななにかが爆発し、全身をその熱で焼いていくのを感じていた。けれどもそれは決して不愉快なものではなかった。むしろ優しくて温かかななにかで心がいっぱいになっていった。

 そして少年が自分の身体の上に倒れこんできたとき、自分のなかの奥深くからなにか分からないものが浮かび上がってくることに、軽いとまどいと驚きを感じていた。

 ふと、昔、といってもほんの数ヶ月前少年と少女とがこうして互いの身体を重ねていたことが。

 いや、そのときには、こんな温かななにかが互いの間にあったわけではない。それに、それは事故みたいなもので、二人はすぐに互いから離れたのだ。あのときには、自分はまだ心になにがあるのか解らないまま、ただ戦い続ける毎日であったのだ。

 あのころ?

 自分がこの世に生をうけたのは、わずか数週間前のはず。数ヶ月という時間が自分に与えられていたはずがない。

 この記憶、誰の?

 少年とひとつになったまま、少女は自分の心の奥の扉が開かれ、そこにしまわれていたなにかが外へあふれ出してくることにとまどいを感じていた。

 そして、やっと気がつく。

 これは、二人目の記憶。

 少女は、自分の上で荒い息をついている少年の頭をそっと撫でながら、たぶん生まれて初めての微笑みを浮かべていた。

 

 

 それから二人は汗をシャワーで流しおとすと、こんどはベットの上でひとつになっていた。

 壁に背をあずけて座っているシンジに抱きかかえられるようにして、少女は彼とひとつになっていた。二人はシーツを身体に巻きつけ、互いの温もりをすこしでも多く受け取ろうとしているかのようにも見えた。

 少女は、自分の肢体を優しく撫で続けている少年の手のひらの温もりを感じながら、ため息にも似た声でつぶやいた。

「二人目も、貴方とこうしていたかったのね」

「なぜ?」

 彼女のうなじのあたりでささやかれる少年の声が、また全身にさざ波のような快感を拡げてゆく。

「彼女は、まだ心が卵から孵っていなかった」

 少女は、自分の心のなかにあるひそやかで小さなそれを、そっといだくように意識の手で包みこむ。

「でも、この世界に自分以外の誰かがいることを感じることが出来きるようになったから、二人目は、死を選ぶことが出来たの」

「それは、悲しいね」

 少女の身体に回されている少年の腕に、力が込められる。

「いいえ、それは喜び」

 少年の手のひらに自分の手のひらを重ね合わせて、少女は歌うようにささやく。

「……わかるような気がする。僕たちは、あの人に未来をもらったんだもの」

 少女の面に、花ひらくような微笑みが浮かべられる。

「でも、やっぱり悲しい。残された僕たちは、もう一度あえるその時までをこの世界ですごさないといけないんだもの」

「だから、人の死には価値があるわ」

「うん」

 しばらく、二人の間に心地よい沈黙がおりる。

「記憶を、受け継いだんだね」

 シンジの言葉は小さくて、ほとんどため息にも似たかぼそいものであった。

「ええ」

「でも、綾波は、綾波だよね」

「……ええ」

「よかった」

 そのままシンジは、レイの肩に顔をうずめる。

 少女は、彼が静かに震え続けている頭を、そっと優しく撫で続けていた。

 窓から見える夜空は、もう雨も上がってしまっていて、蒼い満月が輝いて浮かんで見える。

 レイは、かつてシンジがこうして月の光に照らし出されながら泣いていたのを思い出していた。

 そう、あのとき、少女の心の卵は孵ったのだ。今もまた、レイは自分という存在が本当の意味でこの世に生をうけたのを感じていた。

 優しい刻が二人の間に満ちてくる。

 少女は、そっと少年にささやいた。

「こんなとき、どんな顔をすればいいの?」

 わずかに甘えるような響きがこめられた言葉。だから少年は、あのときと同じように答えた。

「笑えば、いいと思うよ」

 

終  


 

 後書き

 

 皆様おひさしぶりです。

 この度は私の「密室観念論、しかも十八禁(笑)」小説におつきあいくださいましてどうもありがとうございました。たいしてよい出来ではありませんが、お楽しみいただけたでしょうか? もしそうであるならば、作者としては望外の喜びです。

 これからもどうぞよろしくおつきあいくださいませ。

 

 で、まあ、猫をかぶるのもこれくらいにしておいて(笑)、いやあ、まいった、まいった。

 って、なにが? そりゃあ、もう、まったくこの小説、すっごい手がかかりました。もう、今かかえているすべての連載がストップするくらいに(笑)。そのうえ、ハードディスクを増設しようとしたら、HDDの性能が高すぎてSCSIカードがデータ転送をこなしきれなくてフローおこしやがんの(笑)。で、そうであることが判明するまでまる一週間かかって、その間原稿の進捗もほとんどストップ。

 またっく、たまったものではないわ。まるで呪われているみたい(笑)。

 さて、この小説は、いつもお世話になっている阿久津さんの「アニメ小説の部屋」の入場者一〇万人突破を記念して投稿させていただいたものです。

 最初は、阿久津さんのリクエスト通り「明るくラブラブなシンジとレイの恋物語、しかも十八禁版(笑)」のつもりで書き始めたのですが、それはそれ、まあ、友人曰く「キリングフィールドとルサンチマンの蠢くプロイセンな甘粕正彦(笑)」な私が書くものですから、そうそううまくはいきません。

 おかげでこんな暗くて観念論ばりばりの原作の「EVANGELION」を笑えない代物となってしまいました。阿久津さん、本当にごめんなさい。って、反省しとるんかい、おどれは。ち、まあええわ、次は気張ってべたでラブラブな「シンジ×レイ」を書くんやで、おら(笑)。……自分で、自分にすごんでもむなしいだけだわ(爆笑)。

 しっかし、血圧の低いカップルやのう、この二人。おかげで書くのにえらい苦労させてもらったわ(笑)。ま、いいけどね。それがこの二人の持ち味なんだし。

 というわけですので、まあ、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

 それでは、もし機会がありましたなら、次のお話でお会いいたしましょう。

 

H金物拝  


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