あなたのこころのままに
机の上に散らばったお砂糖。昼下がりの眩しい光にきらきら光る。
きつね色にほどよくあがったパン生地にざらめのお砂糖。ちょっと甘い油の匂い。
あんどーなつが1個。
碇くんが買ったあんどーなつと同じ。
どうして買ってしまったんだろう……考えても解らない。
最近は解らないことが多すぎる。
こういうパンを食べるのは、多分はじめて。
かぷりと噛みつくと、砂糖が口のまわりについてくる。ちょっと食べるが難しい。
甘いお砂糖。
さらりとしたあんこ。あんこ——やっぱり初めて食べるもの。
口の中いっぱいに広がる甘さは、悪くない…と思う。
甘いものを食べたことがないからよく分からない。これが甘いという味覚で、悪くないというのは『よい』ということなのだろうか…。
女の子は甘いものが好き。
これが好きということ?
「あら。優等生、それあそこのアンドーナツじゃない?」
セカンドチルドレン——。いいえ、…惣流さん。
「あそこのアンドーナツはおいしいのよね。変に甘ったるくなくて」
「そうなの?」
「この私がおいしいって言うんだからおいしいのよ」
「そう…。これは、おいしいのね」
「そうよ『おいしいの』。あんたは偏食ばっかりしてるからわかんないでしょうけど、それは『おいしいの』よ」
「そう…おいしいの……その、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あの…あ、ありがとう」
「はぁ?」
彼女の返事はとても変な声だった。眉間に皺を寄せて、顔を近づけてくる。
私は何かおかしなことを言ったのだろうか?
「あのねぇ、何であんたが顔を赤くするわけ?」
顔が赤いの? 私が?
「だいたい、私にありがとうって言ったってしょうがないじゃない。私が作ってるわけじゃないんだから」
「ごめんなさい、こんな時なんて言えばいいか解らないの」
「あ、あんたねぇ……」
ため息をつく彼女に、私は少しだけ恥ずかしくなる。
(そう、たぶんこれは恥ずかしいということ)
ふいに両肩を叩かれた。彼女の顔がもっと近くなる——くるくる動く青い瞳の中に見えるのは私の顔。
「あのねぇ、そういうときは、黙ぁ〜って、にっこり笑えばいいのよ!」
「笑う? ……そう、こういう時は笑えばいいのね」
「そうよ、笑うの!」
『笑えばいい』
——何だか不思議な感覚。
——私、うれしい…?
「あ、あの。少し食べて…」
彼女は大きな目をさらに大きく見開いてびっくりしていたようだけど、腰に手をあてた、いつものポーズで笑った。
「しょーがないわねぇ。いいわ、一口貰うわ。でも、あんた食べ方ヘッタねぇ。口のまわりが砂糖だらけじゃない。いいこと、アンドーナツっていうのはね食べるのにコツがいるのよ」
差し出したあんどーなつを大きく口を開けて、唇がどーなつにつかないように器用に歯だけで齧り取った。
「ひょうふぁって(もぐもご)ひゃべるの(もきゅもきゅ)よ」
咀嚼しながら何事か言う彼女は、私にはとてもうれしそうに見えた。
私、彼女とは、あまり会話をしたことがない。
でも、今こうやって会話をしている。———これも不思議。
「ごちそーさま! やっぱり、アンドーナツはここのに限るわ!」
「他でも売っているの? これは」
「あ、だめよ、他のはだめ」
「何故、同じあんどーなつでしょ」
「同じじゃないわよ。なにせ、この私が眼をつけたパン屋なんだから。最近はそれに凝ってるのよねぇ。それをあのバカときたら、この前、買い忘れちゃってさ。朝買いに行かせたの」
白いトレイに乗っていたあんどーなつ。
一昨日の朝、碇くんが買っていたあんどーなつ。
これは、同じあんどーなつ。
(だから買ったの?)
「……碇、くん…」
零れた言葉に、心臓がどきんと波打った。
耳に飛び込んでくる碇くんの声。
鈴原くんと、相田くんと、フィフスチルドレンの声。
私、どうして俯いてしまうの?
私、どうして顔が上げられないの?
「あれ、綾波もそのアンドーナツが好きなんだ」
「お、綾波も渋いやないか、あそこのパンは通の味やで」
「なーに、知ったような事いってんのよ」
「やっかましいわ、ぼけぇ」
「ああ、あそこのパン屋はおいしいね。そのアンドーナツは特においしいと思うよ、ボクも」
「ちょーっと待って、渚! 何も言わなくていいわ。あんたの『アンドーナツ講義』は結構よ!」
「ボクはまだ何も言ってないのだけどね」
「言い出す前に止めてあげたんじゃない」
「かまうこたあないで、渚! どーせ惣流は外国育ちやさかいな、日本伝統のあんこの良さなんぞホンマはわからんのや!」
「何ですってぇ!?」
「だいたい何やオマエ、唇に砂糖がついてるで。どーせ綾波んのを食わせてもらったんやろ。意地汚いやっちゃなぁ」
「案外キミは食べるのがヘタなんだねぇ」
「きぃいい!! あんたたち、誰にむかってモノ言ってんのよ!!」
「ま〜た、始った。ホント飽きないねぇ」
賑やかな惣流さんの声と鈴原くんの声。
最近はよく笑うフィフスチルドレン——渚カヲル。
賑やかなのは何時ものこと。
気にしたことなんかなかった——。
どうして、いつも騒いでいられるのか、それが不思議だった。ただそれだけ。
ただのこんな小さなパンのことで騒げるのか、とても不思議。
ふと碇くんを見上げると、もう一回、心臓がどきんと波打った。
碇くん——微笑ってる?
何故、微笑ってるの?
賑やかなのが苦手だと言っていた。以前はこんなことで笑わなかった。
なのに、どうして今は笑っているの?
——これは、楽しいことなの? これは、嬉しいことなの?
「どうして微笑うの…?」
「え?」
振り向いた碇くんが、不思議そうに首を傾げる。
「碇くん、今、笑ってた」
「そう?」
「これは、楽しいことなの?」
碇くんはちょっとだけ瞬きをして。それから、ゆっくりと目を和ませて、微笑んだ。
「……そうだね」
「なぜ?」
「うーん。たぶん、みんなが楽しそうだからさ。それに——」
「え?」
「綾波も、微笑ってるよ」
私、笑っているの?
どうしてわらっているの?
どうして?
どうして?
——わからない…。
「私、笑ってる? ……何故?」
碇くんの夜色の瞳の中にいる、私。私の笑顔——。
「ねぇ綾波。楽しいと思ったら、笑っていいんだよ」
『あなたの こころの ままに』
「うわぁああああ〜、なんだこれぇ! ケンスケぇ!!」
碇くんの叫び声で、私は我にかえった。
相田くんのビデオカメラを覗いている碇くんの顔は、耳まで真っ赤。
「どうしたの?」
「い、いや、なんでもないよ、綾波っ…。あ、待てよ! ケンスケ」
碇くんは何だか腕まで赤いみたい。すこし怒ってるようにも見える。
相田くんは何故かとても楽しそう。
どうしてなのか、私にはよくわからない。
「なんでそんなの写すんだよ!」
「いやぁ、ベストショットだねぇ」
「なんや」
「何よ」
「どうしたんだい?」
「な、な、何でもないよ!」
カメラを掲げて逃げ回る相田くんを追いかける碇くん。
机の間をすりぬけながら廊下へ出ようとした相田くんが振り返った。
私を見て、笑っている…?
「綾波! あとでこの写真コピーするからさ! 最高にいい顔だったぜ、二人とも!」
Ende
--Februar 5, 2015
■By 日下智