天鵞絨の夏

 

「別居中の夫婦が神様の命令でしょうがないから年に一回だけ会うんでしょ」

「……何、それ?」

「……誰に聞いたんや?」

「なによ、違うの?」

「ちょっと、違う……かな」

「ちょっとどころやない。お前ぇ、ほんまに大学でとるんかぁ?」

「失礼ね。偉そうに言ってないで親切に教えてあげようっていう心遣いはないわけ?」

「それが人にもの聞く態度かい!」

「あ、あのさ、アスカ。七夕っていうのは、年に一度、織女と牽牛が天の川を越えて逢うっていう伝説があって。願い事を書いて笹に飾れば願いがかなうって言われてる日なんだ」

「ふ〜ん。ひっかがくてきねぇ」

「お前はロマンちゅうもんがわからんのかい」

「あんたがロマン? はん、似合わない単語は使わない方がいいわよ」

「何やてぇ!」

「ロマンっていうのはね、あたしみないな可憐な少女が使ってこそ似合うのよ」

「誰が可憐な少女や、だれが。ほんま図々しいやっちゃ」

「何ですってぇええ!?」

「ああ、もうっ、やめてよ二人とも! 今は笹を買いにきてるんだろ!」

 

 

びろうどの午後。

橙色の雲がゆっくりと流れる夕方。霞んだ風景はどこもかしこも金色を帯びていて目に染みる。

少し湿った風が薙ぐ。

何処かでちりちり音がする。——あれは、ガラスの風鈴。

ゆるゆるとたゆたう気怠げな空間。

紅い短冊、蒼い短冊、五色の短冊。金銀の星。……これは金魚、これは鬼灯、これは朝顔。

くすんだ灰緑の笹を飾りたて、託されるのは小さな『お願い』。

 

——何を、願えばいいの……?

 

「何を願うの?」

 

突然かけられた声に振り返ると、そこには自分によく似た風貌の少年が立っていた。

逆光の中、まぶしげに細められた綾波レイの眼は、彼を見つけた瞬間、色を消す。

渚カヲルはその硬質な瞳にやんわりと笑いかけてから、レイが見ていた笹飾りに視線を移した。

見知らぬ家の軒下に飾られた笹飾りは、時折流れてくる夕方の風に煽られてさらさらと川のような音をたてている。

 

「明日は七夕なんだね」

「何か用?」

 

睨みつけるような眼差しを返して無愛想に言い捨てる。

カヲルは別段気にとめた風もなく、笹飾りを眺めながら言葉を継いだ。

 

「織女星と牽牛星が年に一度、天の川を渡って再会する。……中国や日本の民間伝承が混合した物語だね。

——きみはどうして天の川ができたのか、知ってるかい?」

「……知らないわ」

「民間伝承の一つだけどね。——天女に恋をした人間の男が彼女の羽衣を奪い、天に帰れなくなった天女を娶った。やがて二人の間に子供が生まれ、穏やかな生活が続いていたが。ある日男が隠していた羽衣を偶然見つけた天女は、男と子供を置いてついに天へと帰ってしまう。天人の心が戻った彼女には、人間など取るに足らないものだったんだろうね。

けれど、天女はそれでも別れ際に男に瓜の種を一粒残していくんだ。

男はその種をまき、天に届くまでに育った蔓を伝い天女を追って天に行く。そして天女と再会を果たし、天に住むことを許されるんだ。

だが、その条件として天帝からたった一つ禁じられた『瓜を割ってはいけない』という言葉を、男は無視して割ってしまう。そうして割った瓜から大量の水が溢れだし、それが天の川となり天女と男を隔ててしまった」

「そう……」

「おまけに隔てられた川の向こうで、天女が言った、「七日七日に会いましょう」という言葉を、男は『七月七日』と勘違いをして、年に一度しか逢うことができなくなったんだそうだよ。

——まるで言葉遊びのような伝承だね」

 

カヲルは微笑う。

 

笹の葉がたてる音は水の音に似ている。

川の音。

天の川の音……。

 

一年に一度しか会う事ができない男は、残りの日々を何を想ってすごすのだろう。己の所業を悔やみ、その愚かさに自らを呪うだろうか。

男はたった一つの約束さえ、守れなかった。

災厄を招いたのは自分。二度と取り返しのつかないことをしてしまった自分。

罪は罰をもって処せられる。

 

——神様との約束を破ったから罰を受けているの?

——神様の言葉を取り違えたから罰をうけなくてはいけないのね。——ヒトは。

——それは、なんて……なんて——。

 

「愚かだと思うかい?」

 

笑いを含んだ声が静かに言う。

 

「でも、ぼくはそれでもヒトは憎めないんだよ。“彼”に逢ってしまったからね。——きみは?」

 

ゆったりと微笑むカヲルの顔を、はじめてレイはまっすぐに見た。

自分と同じ赤みを帯びた光彩は、夕日を映してますます赤さを増す。

その瞳はいつも穏やかな笑みに彩られて、巧妙に表情を、内に沈めたココロを隠している。何を考えているのか判らない。そのくせ時折見透かすような色合いを見せるのは、心を読むのかそれとも、心が同じなのだろうか……。

 

「私は、あなたではないわ」

 

疑問と動揺がおもわず口をついた。それがまったく質問の答えになっていないことにも気がつかない。

 

「もちろんだよ」

 

カヲルはさらに口元を綻ばせた。

 

「ぼくときみはひどく違ってしまったからね……だからこそ、キミの気持ちを知りたいと思う」

「なぜ?」

「さあ、なぜかな」

 

 

*   *   *

 

 

「何だか貧乏くさい笹の葉ねぇ。もっといいのないのかしら」

「しょうがないよ、笹を売っていたのはもうあそこしかなかったんだから」

「それにしたって……。ほら、ここのところ少し枯れかけてるじゃない。葉も少ないし、ちょっとねぇ……」

「アスカ! むしっちゃダメだよ」

「ええぃ、ごちゃごちゃうるさいわ。惣流が買うたんやないねんで、わしが買うたんや! 何ぞ文句があるんか」

「正直な感想を言ったまでよ。文句じゃないわ」

「そういうのを文句言うんじゃ! 大体ワシはセンセについて来てくれ言うたんやで、なんでおまえがおるねん!」

「男二人で買い物して、いったい何が買えるっていうのよ」

「ほー、惣流がいたところで買うたんはこの笹やで」

「ほ〜らみなさい。やっぱり不満に思ってるんじゃないの」

「やっかましいわ! ホンマいけすかんやっちゃ」

「図星でしょ。——で、何するのよ、この笹で」

「何って、七夕飾りにするんだよ」

「鈴原がぁ?」

「なんじゃ、その小馬鹿にしたような言い方わぁ! 妹のために決まっとるやろ」

「妹?」

「そうや。まだ退院できへんからな。あんな無愛想な病室じゃつまらんやろ? 笹飾りくらい作ったろう思っとんねん」

「なんだ、そうだったの。そうならそうと早く言いなさいよ」

「何で、お前に言わなあかんねん」

「鈍い男ね、このあたしが手伝ってあげるって言ってるのよ。ありがたく思いなさいよ。——それで笹飾りってなんなの?」

「ええ? 知ってるんじゃないの?」

「おまえ、今までなんも知らんでごちゃごちゃ言うとったんか!?」

「そんなの知るわけないじゃない。ドイツにこんなのないんだから」

「えーと笹飾りっていうのはね、五色の短冊にお願い事を書いて、色々な飾りと一緒に笹に結ぶんだよ」

「お願い事?」

「うん。元々は芸事がうまくなりますようにってお願いだったらしいけど、今はおなんでもいいんだって。リツコさんが言ってた」

「ふーん、誰に願うの」

「決まっとるやないか、織り姫はんと彦星はんや」

「やっぱり非科学的。——まぁ、鈴原の妹のためならいいわよ。私も手伝うわ」

「……なーんか偉そうやなぁ」

 

 

小さな子供が二人、嬌声をあげながらレイとカヲルの脇を走り抜けていく。

その袂で揺れる真っ赤な提灯が二つ。

沈もうとする夕陽の残光を受けて、朱色に染まる山。

赤い金魚。

紅い短冊。

 

薄く赤い、カヲルの瞳……。レイの瞳。

 

カヲルは短冊を一つ手に取った。そこにはたどたどしい子供の字で願い事が書いてある。

手に取る五色の短冊は、そのどれもにたくさんの願い事が書かれてあった。

 

「神様も大変だ。一度にこんなにたくさんの願い事を聞かなければいけないんだからね」

「よくばりなのね。こんなにも沢山の願い事があって、まだ何かを願おうとする」

 

言い放たれた冷めた声に、カヲルは苦笑した。

 

「そう、とても欲張りだ。一つ願いが叶ったそばから次の願い事が湧いてくる。人は常に何かを求めていなければ不安で仕方がないらしい。だからいつも何かを願っている」

「……そうね」

「けれど、それが人を作るひとつの『カタチ』だとも言えるね。人は『望む者』だから」

「ヒトのカタチ……?」

 

レイは僅かに首を傾げた。

 

「常に渇きを感じている事によって、渇きが満たされ癒された時の充足感に悦びを見出す。その充足感は快楽にも等しいとぼくは思うよ。だから人は常に渇き続け、望み続ける」

「なぜ、一つの願いではいけないの」

 

——願い事はただ一つ。

 

ぬるい風が吹く。

笹を、短冊を、風鈴を揺らし、レイとカヲルの間を吹き抜けてゆく。

揺れる笹飾りをじっと見つめるレイの前髪に、柔らかい指先が触れた。乱れた髪を鋤くようにそっと撫でつけてゆく。

レイはゆっくりと振り向いた。

その穏やかな——自分に似ているようで、でも別の誰かにもよく似ている瞳——を間近に見て、数度目を瞬かせる。

 

「きみは……何を、願うの?」

 

カヲルは静かに囁いた。

 

「……私?」

 

——願う事はたった一つ。ほかには何もいらない……いらなかった、はず。

 

「——あなたは?」

 

唐突に問い返されたレイの言葉に、カヲルは一瞬きょとんとして、次いで苦笑した。「そうだね……」と呟くと、口元に手を当て一つ一つ反芻するかのように言葉を繋ぐ。

 

「……ぼくの願いは一度かなえてもらったみたいだからね」

 

その口元は自嘲気味に歪んでいた。

 

「もしもまた同じ事を望んだら、今度こそ“彼”に嫌われてしまうよ。それはぼくの本意ではないからね」

「そう……」

「きみは何を願うんだい?」

「わたしは——」

 

レイは言いかけた言葉を飲み込んで口を噤んだ。引き結ばれた唇が小さく震えるのを、カヲルは見逃さない。

 

——思い出す。自分がかつて何を願っていたのか。

 

切望して止まなかったもの、それだけを考え、それが叶わない事に絶望したことを。

 

その願いは、結局かなえられなかったことを。

 

その願いを、今でも望むのか迷う自分を。

 

——そう……、ほしかったものは絶望。

 

——私、無に還りたいの。

 

——ずっとそれを願っていた。

 

——それが私の望みなのだと、信じていた。

 

——でも……。

 

「——わたしには、わからない……」

 

 

*   *   *

 

 

「それにしても、何かちょっと釈然としないのよねぇ」

「何が?」

「なんや、まだ何か文句があるんかいな」

「うるさいわね。あんたなんでさっきからからむのよ」

「からんどるのはおまえや!」

「はぁ……。何が釈然としないの、アスカ」

「だって、年に一回しか逢えない恋人同士が、何でわざわざ他人の願い事を聞いてあげなくちゃいけないわけ?」

「そら、そうやなぁ」

「でしょう? 大体、他人に願い事を叶えてもらおうなんてムシがよすぎるわ」

「そうは言うても、お願いなんてたかが家族が健康でありますようにとか、幸せでありますようにとか、そんなもんやろ。初詣やなんかといっしょや」

「あまーい! 健康も幸せも自分で見つけるものよ! 神頼みなんて甘いわ!」

「ええやないか、単なる行事やさかい。なに、まじめに考えとんねん。それともなにか? 妹のささやかな願いもダメ言うんか」

「そんなこと言ってないわよ。あんたの妹とは別問題。あたしだって書くわよ。早く退院できますようにって」

「……そ…、そらおおきに」

「あ、ねえ、アスカはお願い事とかないの?」

「あたし? この美人で天才のあたしにこれ以上何を望めって言うのよ? ま、あえていうなら、早くあたしにぴったりのいい男が現れますようにっていうのしら?」

「なんじゃい、そら」

「何よ、何か文句あるの?」

「けっ、そーゆーのを図々しいっちゅーんじゃ」

「何ですってぇええ  もう一度言ってみなさいよ!」

「おお、何ぼでも言うたるわい!」

「ああもう! 二人とも、いつまでやってるんだよ!」

「ふんっ。そういうシンジは何を願うのよ」

「え、——ぼ、ぼく?」

「そや、センセはなんか願い事あるんか?」

「そんな急に言われても、よくわかんないよ」

「あいかわらず優柔不断なヤツ。あんただって願い事の一つくらいあるんでしょ? ほら、聞いてあげるから言ってみなさいよ」

「急にそんなこと言われても……」

「あーもうっ男のくせにぐちぐち煩いわね。ほら、早く言いなさいよ。あんたは何を願うのよ!」

 

 

「きみは何を願うんだい?」

 

飲み込んだ言葉は喉の奥に張りついたままでてこない。レイは凍りついたようにその場に立ち竦んでしまった。

彼女が何を考え、何を想っているのか手に取るように解る。

カヲルは小さく首を横に振った。

 

「だめだよ。それは、もうきみの願いではないはずだ」

「いいえ……」

 

か細い声が呟く。

カヲルの口から深い溜息が漏れた。

 

「それはたしかに『ボクらの』願いだったけれど、今となっては何の意味も拘束ももたないものだ。——わかるだろう?」

 

レイからの応えはない。

 

「きみはそれを考えなくてもいいはずだ」

「いい……え……そう、願った。そう願っていたの」

「レイ——」

「私は願ったの。——でも……」

 

きゅっと口を噤み。

 

「……今は……それを願うことが怖いの……」

 

そう言って、深く深く俯いた。

 

カヲルは無言のままおもむろにレイの頭に腕を回すと、静かに自分の方に引き寄せた。

驚きに体を震わせ、見上げようと動かしたレイの頭はカヲルの腕にやんわりと抱きとめられた。頬に触れんばかりに寄せたカヲルの胸からほのかな体温を感じとる。

夏の陽をあつめたような匂い。——それは、どこか懐かしくて……。

 

——この人……碇くんと同じ匂いがする。

 

レイの耳に静かな言葉が響いた。

 

 

「『綾波レイ』は——何を願うんだい?』

 

 

*   *   *

 

 

「あんたねぇ、何をそんなに考え込んでるのよ」

「なんも難しく考える事やないやろ。ぱっと思い浮かんだものでええんやで」

「だから急に言われたって思いつかないよ」

「どーせ、あんたのことだから、ミサトの酒量が減りますようにとか、碇所長ともっとうまく会話ができるようにとかなんでしょ」

「……惣流、そりゃぁ洒落にならんでぇ」

「ん、もう! じれったいわね。ほら、シンジ!」

「何?」

「目を瞑んなさいよ!」

「何で?」

「何すんのや?」

「いいから瞑る!」

「う、うん」

「いいこと、そうやって一番最初に頭に浮んだのが、あんたの願いよ」

「えー、何だよそれ」

「瞑れって言ったでしょ!」

「ご、ごめん」

「そらむちゃくちゃ言いよるなぁ。真っ先に浮かんだんがアイスが食いたいとか、便所に行きたいちゅうのやったら、情けないでぇ——って——」

 

 

「——あ——おい、センセ。あれ」

 

「あら、あそこ歩いてるの優等生と渚カヲルじゃない」

 

「え? カヲルくんと綾波?」

 

 

*   *   *

 

 

「何だか珍しい組み合わせね。渚と優等生なんて」

「そうかい? 丁度そこで会ったからね」

 

あからさまな揶揄とも思えるアスカの視線を軽く受け流して微笑む。レイははなから気にもとめないのか、いつもの無表情のまま眉一つ動かさない。

 

「ふーん……なぁ〜んか怪しいわねぇ」

 

苦笑いをしながら、カヲルはふとシンジが担いでいる笹に目を落とした。

 

「それは笹だね。きみ達も七夕飾りを作るのかい?」

「うん、トウジの妹さんの病室に飾るんだ」

「ああ、いいね。病室は殺風景だからね」

「そうだ、カヲルくんと綾波も飾り付け手伝わない?……その、時間があいてたらで、いいんだけど……」

 

シンジの極めて消極的な提案に、すかさずアスカが横やりを入れる。

 

「あーら邪魔しちゃだめよ、シンジ。そういうのを、“ぶ、す、い”って言うんだから。せっかく二人でいるんだもの、無理にあたしたちにつきあわせちゃ悪——」

「わかったわ」

 

アスカの言葉を遮り、即答したのはレイだった。

その無愛想な上、まるで話など聞いていないといった態度に、アスカのこめかみがぴくりと痙攣する。

 

「……え、来るの?」

「いけないの?」

「い、いけなくは……ないわ」

「そう、ならいいのね」

「え、ええ」

 

一見、感情が篭ってなさそうに見えるレイの言葉に、アスカは見えないトゲを見たような気がして思わず口篭もった。

短く交わされる女の会話に口を挟めない男3人は、黙ってそれぞれ肩をすくめるにとどめた。

我が身が可愛ければ、よけいなことは決して言うまい。

行き場をなくしたアスカの不満の矛先が、とばっちりという災禍を恐れて沈黙を守る男3人に向かうのも当然だろう。

アスカはスカートを翻す勢いで振り返ると、カヲルに向かって指を突き立てた。

 

「渚! あんたはどうするのよ」

 

カヲルは一瞬きょとんとして、すぐに鷹揚に微笑みかえした。

 

「ぼくも構わないよ。何もすることはないからね」

「あっそ。そうと決まれば、鈴原。あんたヒカリに人数が増えたって連絡しなさいよ」

「何でわしがせなあかんのや!?」

「なんでって……」

 

アスカは眉間に皺を寄せてトウジを睨むと、呆れたとでも言いたげに手をひらひらさせた。

 

「お弁当を作ってくるのはヒカリでしょう、人数の変更を言っておかなくちゃこまるじゃないの」

「惣流がすればええやないか。何でわしが女の家なんぞに電話せなあかんねん!」

「ごちゃごちゃうるさいわね! あんたがするのよ! わたしは四バカの残りに連絡するんだから、それでおあいこでしょ! なんか文句あるわけ!?」

 

弾丸のように飛び出る言葉の襲撃に、ただの一言も反論を差し挟む余地などなくて。トウジは怒りで顔を真っ赤にしながら、ただ金魚のように口をぱくぱく開閉させるだけだった。

 

「あ、あのさ、ぼくが委員長に電話——」

 

見かねて口を開いた瞬間、シンジは振り返ったアスカのすさまじい一睨みで凍りついてしまった。

 

「あんたは余計な事を言わなくていいの! これだから鈍い奴ってキライよ」

 

 

大股に乱暴な足取りで少し前を歩くアスカ。男の沽券がどうのとぶつぶつ呟きながらしかめっ面で歩くトウジ。笹を抱えて歩くシンジ。シンジの隣をただ微笑みながら歩くカヲル。

それぞれの長く伸びた影に目を落としながら、レイはカヲルの隣を歩く。

 

「そーだ、シンジ! さっきの続きよ!」

 

ふいにアスカが振り向いて叫んだ。

 

「いったい、あんたは、何を願うのよ!」

「まだ、言ってる……」

 

シンジはうんざりしたように溜息を零した。

 

衆目がに見つけられる中、シンジは少し顰め顔で俯いていた顔を上げて遠く山並に視線を泳がせた。

その横顔にふわりとした柔らかい笑みが浮かぶのを、レイは見た。

 

「ぼくは、——まだ、ここにいたい。それが願いかな」

 

「何それ? あんたって、ほんとーに進歩のない男ねぇ!」

 

呆れた、とばかり言い放たれたアスカの声は、レイの耳に届かなかった。ぼんやりとシンジを見つめるレイを横目に捕らえて、カヲルはゆったりと微笑んだ。

 

 

*   *   *

 

 

繰り返された問いを耳の奥に残して、ゆっくりとレイはカヲルの胸から離れた。俯いたまま何歩か後退る。困惑に瞳が揺れて、迷うように唇が動いて。そして。

 

「私……何故、ここにいるのか解らないの」

 

そう呟いた。

 

「それは、存在理由が解らない、ということかい?」

「私がここにいる理由はもう何もないはず。なのに、まだここにいる……」

「本当にそう思うのかい? 理由がない、と本当に?」

「必要とされない生は無意味なものでしかないわ」

 

カヲルはやれやれと、些か呆れたように首を振った。

 

「矛盾してるね。もし本当にそう考えているのであれば、ぼく達は今ここにこうしてはいない。——あの時、せっかく叶った願いだったんだ。あえて無駄にすることはないよ」

 

レイは顔を上げてカヲルを見返した。

 

「きみはさっき、それを願うのが怖いと言った。——それはなぜ?」

「……わからない」

「そう? それじゃ当ててみようか?」

「なにを?」

「——きみは誰かに必要とされたいわけではない。きみ自身が必要としているんだ。……だから、その誰かのいない世界に行くのが怖いのさ」

 

レイの目がみるみる大きく見開かれてゆく。

ほんの短い言葉が、明らかに彼女の動揺を誘ったのが見て取れた。そしてそれがカヲルの笑みをも誘う。

まるで彼女の心の襞まで見えるようだ。

同時に、恰も自分の事の様に響いてくるのが不思議だった。

いや……実際そうなんだろう。

だからこそ、笑みが零れるのだ。

自らで自らを嘲笑う笑み、が零れるのだ。

 

「ぼくらは違ってしまったけれど、『同じであった』という記憶は消せないよ」

 

微かな音を立てて風がまく。

風に弄ばれてくしゃくしゃに絡まった髪をかまいもせず、レイは呆然と立ち尽くしていた。

そんな彼女の姿を見ながら、なおもカヲルは言葉を紡いだ。

 

「天女が全てを捨てて天に還りながら、それでもヒトと再会を望んだのはなぜ? 天人の資質を捩じ曲げてでもヒトと共にいようとしたのはなぜだ?」

 

返答の代わりに、小さな頭が左右に振られる。

その頑なとも思える姿に、カヲルは肩を竦めた。

 

「ヒトは所詮独りであるという寂しさを知っているから誰かを必要とし、必要とされるのを望む。

例えそれが単なる代替行為でしかなくても、それで生きてゆけるのであればそれもまた正しい事なのだと思う。

けれど、あの時のぼくらはそうじゃなかった。『個』である事——『独り』であることの寂しさが理解できなかった。——だからこそ選び取った願いは無への回帰だった。

結果、ぼくらは何処に行きついた? 何を残した? それで本当に願いは叶ったのか?

——また同じ事を繰り返したいのかい——きみは?」

 

およそ彼らしくない硬い、無機質な声。

レイはカヲルから視線を逸らし俯いた。動揺が——戸惑いが更に大きくなる。

 

「それは……」

 

呟いたレイの声は途切れそうなほどにか細く。

 

「それは?」

「それは、——嫌なの」

 

やがて鳴咽とも思える声が絞り出された。

震える小さな肩。俯けた顔。その頬をぬるい雫が一筋、伝う。驚いて顔を上げたレイの眼から、はたはたと涙が零れ落ちた。

カヲルの口元に困ったような笑みが浮かんだ。そっとレイの頬に両手を添えると、目尻に溜まった涙を指で拭ってやる。

 

「どうして泣くの?」

 

やさしい声が囁く。

 

「私……」

 

返すレイの声は震えて、涙に濡れていた。

 

「私の記憶は、あんなにも無に還るのを望んでいたはずなのに、でも、私の体は生きようと願っているみたい」

「そう……」

「傍にいると——体が震えるの。体温が上がって、息が苦しくなって……自分が生きているんだと思い知らされるの」

「そう」

「それがとても心地よいと思えて……だから願うのかもしれない。でも……」

 

それは誰の傍? とは敢えて問う必要もない。

 

「どうしてそう思うのか……わからない」

「急いで解る必要はないよ。でも……それじゃあ、きみはまだここにいなくては」

 

そう言うと、カヲルはレイの小さな体を包み込むように愛しげに肩を抱きしめた。

レイは身じろぎもせずに、黙ってその行為に身を委ねた。

 

あやすに似た手でゆっくりと背中を撫でながら、カヲルは静かに呟く。

 

「それがきみの生きる理由に繋がる。——かつての、ぼくらの願いは本当に無意味なものになるんだよ」

 

それは水が染み込むように静かに、言い様のない苦しさに押しつぶされそうなレイの心に滲んでくる。

 

 

「ねえ……綾波レイの願いはなんだい?」

 

 

どこかで風鈴の鳴く音がする。

重なる優しい声にレイは静かに目を閉じ、そうして、ほつりと呟いた。

 

 

「私……ここに、いてもいいの?——私、ここに、いたいの」

 

 

<< END >>

--Januar 5, 2016


■By 日下智

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