Bitter & Sweet
バニラアイスにウェハース。散らされたたくさんの苺。その下にはストロベリーソースのかかった生クリームと、ピンク色のムースにふわふわのスポンジケーキ。鮮やかなグラデーションに彩られた芸術的とも思えるストロベリー・パフェを目の前にして、レイは静かに斜向かいに座る赤毛の少女を見やった。
「なに?」
「だーかーら人の話はちゃんと聞いてなさいよっ。いいこと、あんたこれから髪を伸ばしなさい!」
「……なぜ?」
「何でもいいから、とにかく伸ばせばいいのよ! これは命令よ」
「ちょっとアスカったら、もう……」
高飛車に宣言して 踏ん反り返るアスカの隣で、洞木ヒカリが呆れたように小さな溜息をついた。
甘い香りがたち込めるカフェ・スタンドは、同じような制服を着た少女達の笑いさざめく声で充ちている。
まるで日課のような放課後の寄り道。甘いデザートを食べながら、アスカやヒカリといった少女らとの他愛ないお喋りに付き合うようになったのはいつの頃からだったか。彼女たちの話題はもっぱら学校でも出来事とか、テレビの話、ショッピングやお洒落といったレイには全く興味のないものばかり。無駄なお喋りに付き合って時間を過ごすつもりはないと最初は拒否していたけれど、強引につき合わされている内にいつの間にか慣れてしまった。状況に流されてると言った方がいいのかもしれない。
興味の薄い会話は未だ頭の上を通りすぎてゆくだけだけれど、この時間を無駄と思うことはなった。それどころか楽しいと思うことさえあった。
だが今日はいつもと少し違った。
通いなれたカフェに入って注文が終わるなり、突然アスカが言ったのだ。
曰く、「髪を伸ばせ」と。
前後の話の脈絡もなく、ただ「髪を伸ばせ」と言われても、何のことか解らない。「なぜ?」と問えば「命令だ」と言う。何故彼女に命令されなければいけないのか、まったくもって理不尽他ならない。
レイは真っ直ぐ、逸らさずアスカを見据えた。
「あなたがそう言う理由はなに?」
「理由? そんなもの、だいたい年がら年中おんなじ髪型なんてね、女の怠慢よ。た、い、ま、ん」
「何故、同じ髪型であることが怠慢になるの?」
「そんなことも解んないの、あんた」
「解らないわ」
アスカは大げさに肩を竦めながら首を左右に振ると、「ま、ファーストにはオシャレなんて概念は理解できないかもね」と言って、ふふんと鼻先で笑った。
「あーもうアスカってば……」
踏ん反り返るアスカと眉を顰めるレイの間のとても和やかと言えない二人の遣り取りに、ヒカリは深く溜息を零した。まったくどうしてこの二人はもっと普通に話ができないのか。
ヒカリが諌めの言葉を発するよりも早く、レイが口を開いた。
「あなたは何が言いたいの」
声音は勤めて冷静を装っていたが、眉間の皺はひしひしと不快感を示している。だが当のアスカは全く意に介した風もなく。それどころかテーブルに身を乗り出し、ずいっとレイの鼻先に人差し指をつきつけた。形の良い口元がにやりと歪む。
「決まってんでしょ。あいつの気を引くのよ」
一瞬の沈黙。
「ちょっと、アスカっ……!」
真っ先に反応したのはヒカリだ。慌ててアスカの腕を引っ張り強引にソファに引き戻す。ちらりと横目で掠め見たレイの顔は、彼女にしては酷く戸惑った表情を浮かべていて、それも仕方ないかとヒカリは思う。気を引くなんて子供が使う言葉じゃないもの。
「もう変なこと言わないでよ、アスカ!」
「なによ、ホントのことでしょ」
さらりと言ってのけるアスカの涼しげな顔を見ながら、ヒカリはこめかみの辺りがズキズキと痛むのを感じた。
「じゃあ何て言えばいいわけ? もっと女を磨けとでも言うの? そーんなこと言ったってファーストには通じないって」
「だから、そんな言い方したら綾波さんが誤解しちゃうじゃない。いいからアスカはちょっと黙ってて」
ぴしゃり釘を刺す。
ひょいと肩を竦めてそっぽを向きアスカは食べかけのケーキに手を伸ばした。それを横目で確認してからヒカリは改めてレイへと向き直った。
「あの、……えーと、綾波さん?」
きょとんと目を見開いたまま固まっているレイはアスカの言葉を脳内で反芻しきれずに、その薄赤い瞳には困惑に揺れていた。
レイは思った。
彼女達はいったいさっきから何の話をしているのだろう?
彼女たちの話は全く脈絡がなくて。髪を切るということと、怠慢と、気を引くということの関連性が掴めない。
第一、気を引く、とは?
——誰の?
「あなた達の言っている事が理解できないわ」
思っていることが素直に口をついた。
ヒカリは「わかってる」と頷いた。
「あのね、ここに来る途中で話してた内容、覚えてる?」
問われて、下校途中にヒカリとアスカがずいぶん興奮した調子で話ていたのを思い出す。ある女優が髪型を変えてイメージがかなり変わってしまったというような話だった。TVにも女優にも全く興味のないレイにはさっぱり解らない内容だったし、第一その女優の顔すら知らない。ただ、アスカはその女優の変化に好意的見解を示し、逆にヒカリは否定的な見解だったことで、見る者が違うと印象というものは随分変わるものだと、漠然と思っていた。
だが、それが一体自分とどう関係があるのか。
「綾波さんって中学の時からずっと同じ髪型でしょ。変えようって思ったこと、ない?」
「ないわ」
「あのね、綾波さんって髪にクセが少ないからきっと長く伸ばしても似合うと思うの」
「似合う?」
「そう。似合うと思うなぁ」
言って、ヒカリはにこやかに笑う。
髪型を変える。
そんなこと考えたことがなかった。
その概念自体レイの中には存在しない。今の髪型で生活に支障をきしたことは一度もないし、むしろあらゆる行動の妨げにならないという点において現在の髪型が一番適していると思っている。だからその必要性が解らない。
「別にこのままでいいわ。伸ばす必要がないもの」
「そうかもしれないんだけど、たまに変えてみるのもいいんじゃない?」
「それが気をひくということにどう結びつくの?」
「あ、アスカの言った事は忘れて……。そうじゃなくって気分も変わるし、興味、ない?」
「ないわ」
一瞬の躊躇もなく切り捨てるように却下する。
まさにとりつく島もない態度にヒカリは返答に詰まった。興味がないという者に無理強いするわけにはいかず、どうしようと、助けを求めるようにアスカを見る。
隣で大人しくアイスコーヒーを飲んでいたアスカは、とうとう堪えきれずに吹き出した。けたけたと一頻り笑う。
「ほらみなさい。レイにそんな遠まわしに言ったって通じるわけないんだから。こういう子にはね、きっぱり言った方が早いのよ」
「でも……」
気まずげに見たレイの顔は、疑問と憮然がない混じったような表情をしている。確かに遠まわしに言ったところで、レイの性格では理解してくれという方が無理だったのかもしれない。
「いいこと、レイ」
グラスを脇に寄せて、アスカはレイへと顔を寄せた。
「単刀直入に言うわ。レイ、あんたシンジのために髪を伸ばしなさい」
アスカの口から飛び出た思いもかけない名前に、レイは思わず小さく肩を震わせた。
「碇くんがそうしろと言ったの?」
「違うわ。あくまでもこれはあたしとヒカリの意見よ。シンジの意思はどこにも入ってないわ」
それならば何故、彼の名前がここに出てくるのか?
それよりも何故、彼のために髪を伸ばさねばならないのか?
レイの頭に渦巻く疑問を透かし見て、アスカはにまり内心でほくそ笑んだ。
「それがシンジの為になるからよ」
「碇くんの……?」
「そう! あんたはシンジを意識してる。シンジもあんたを気にしてる。あたしは伊達に三年もアンタ達につきあってきてないんだから、それぐらい判るわよ。でもあんたも知っての通り、あいつは鈍感でデリカシーがないし女心なんてぜんっぜん理解してないつまんない奴だから、気の利いた言葉一つ言えやしないし。このままあいつの任せてぼーっと過ごしてたって、なんにも始まらないわよ」
何も始まらない。口の中で反芻する。
「だから、あんたから動くのよ」
は、と弾かれたようにレイは顔を上げた。
「私から……動く?」
「そうよ」
「それが髪を、伸ばすこと?」
「そうよ。そうやって自分をアピールするのよ」
動物だって異性に気に入られるために身繕いするでしょ。
そう言われてレイは改めて、アスカとヒカリを交互に見比べた。
以前は長い金茶の髪を豊かに垂らしてその存在を鼓舞していた少女は、今は緩やかに編み込んで一つにまとめている。そばかすの少女は左右で結んでいた髪を、今はポニーテールという髪型に変えてしまった。
今まで気にしたこともなかったけれど、装いを変えた彼女たちの印象はずいぶん変わったような気がする。アスカの、あの強烈で威圧的な雰囲気は影を潜め、容姿だけ見れば驚くほど穏やかな気配を醸し出すようになった。方やヒカリも幾分大人っぽい印象を受ける。
では、彼女たちもそうなのだろうか? 誰かのために自らを変えたのだろうか。
「あなた達が髪型を変えたのも、誰かの気を引くためなの?」
ふと、疑問が素直な問いとなって口をついた。
途端、アスカとヒカリの頬にさっと朱が差した。
「ち、ち、違うわよ!」
「いやだ、その、こ、これは違うの。そんなつもりじゃないのよ」
二人同時に慌てて首を横に振って否定してみせる。
言っていることが矛盾している。そう思ったが口には出す前に、代わりに彼女たち自身がフォローをしてくれたようだ。
「なーに言ってるのよ、ヒカリ。大人っぽく見えるかなーってこないだ言ってたじゃない」
「そういうアスカだって、ホントは意識してるんでしょ?」
「だ、誰を意識してるってーのよ」
「ふーん呆けちゃってぇ。人気あるものねぇ、彼は。アスカも頑張らないと大変よね」
「ちょっと、聞き捨てならないわね。いいこと渚はね——!」
「あら、私、渚くんなんて言ってないけど」
「そういう鈴原だって——!」
「鈴原は関係ないでしょっ」
飛び交う売り言葉に買い言葉の半分近くが要領を得ない意味不明な内容が多かったが、なんとなく解るのは彼女たちも特定の誰かを意識して身繕いをしているらしい、ということ。
誰かのために着飾り、変化する。
動物世界ではあたりまえのディスプレイ行動だと思えば、生物として人が同じであってもいいのかもしれない。そして、何よりただそれだけの行為であの穏やかな顔がもっと笑顔になるのなら。
——喜んでくれるだろうか?
脳裏に浮かんだ透明な笑顔にレイは知らず口元を緩めた。
「ちょっと、レイ」
アスカの声にはっと我にかえる。
「何、一人で笑ってんのよ」
「笑ってなんかいないわ」
「あんたばか? 自分の顔を見てごらんなさいよ!」
レイはアスカが指差したガラスへと視線を移す。そこに映っていたほんのりと微笑んでいる己の顔を見て瞠目する。
「ま、誰のことを考えてんだかは一目瞭然だけどね」
言ってアスカが肩を竦める。
「ほんと」
手のひらで口元を隠してヒカリがくすくす笑う。
「悪い気はしないでしょ? レイ」
「判らない……考えたこと、ないもの」
「じゃあ考えなさいよ。別に無理にやれなんて言わないから。あんたが自分で考えて、やってみる価値があると思ったならやればいいわ」
アスカの言うことも尤もだと、レイは思った。自分に必要でなくても、彼女たちの言うようにひょっとしたら彼には必要なのかもしれない。喜ぶかどうかは判らないけれど、やってもいない、始まってもいないことに不必要だと結論だすのは早すぎる。
人の心は法則も定理も通じない予測不能なものだから。
——髪を、伸ばしても、いいかもしれない。
レイはどこか感慨深げに息を吐いた。
「髪、伸ばせばいいのね」
ぽつり言えば、ストロベリーパフェの向こうで、少女が二人満足げに笑うのが見えた。
Ende
--Dezember 15, 2014
■By 日下智