Ever Green

 

ただこのまま永久にあなたに触れていたい……。

 

 

風が強い。

ベランダを吹き抜ける風が観葉植物の枝葉を揺らし、淡い緑の香を乗せて、軟らかな空気を部屋いっぱいに運び込む。

冷えたジンジャーエールの缶を手に、もう片方の手には拍節器。

小脇に真新しい楽譜を抱えて。

少年はベランダに足を踏み入れた。

 

初夏の眩しい陽光が降り注ぐ午後。 

 

 

ページを繰る指を止めて、レイはベランダを振り返った。

開け放たれた窓から風に混ざって、柔らかな日向の匂いと濃い緑の香が流れてくる。

生い茂る観葉植物の葉の隙間から、陽光がプリズムのように瞬き。風に乗って、名前も知らない小鳥の囀りが微かに耳へと届く。

穏やかな午後。

いつもと同じ。

見なれた日常の欠片。

レイはもうずいぶん長い間、ここに座っていた。

ベランダに面した居間で、窓辺に腰を下ろして本を読む。時折、首を巡らしてはベランダの観葉植物を眺めたり、まれにスズメが羽を休めに訪れるのを静かに見守ったりと、何をするでもなくぼんやりとしていた。

彼女の中に退屈という言葉はなかった。

待つ事には慣れている。

こうやって、ゆるやかに流れる時間にただ身を浸していれば、まるで頭上を素通りするかのように、時間の方が勝手に過ぎてゆく。今までがずっとそうだったし。これからもたぶんあまり変わりがないだろう。レイにとって、相変らず世界はほんの少しずれた所にあるものだったから。

けれど、それでも別に構わなかった。

自分を取り巻く環境がどうであれ、彼がいてくれれば、それだけで自分が揺らぐ事は、もうないのだから。

かつてとは、もう違う。

思いたったようにレイは立ち上がると、風舞うベランダへ一歩、足を踏み入れた。

ベランダには、空間の半分を埋めた名前も知らない観葉植物と、木製の長椅子と小さなテーブルが一つずつ置かれている。

テーブルの上には、新しい楽譜と銀色の拍節器。飲みかけのジンジャーエールの缶が一つ。拍節器はもう随分と前からリズムを刻むのを止めている。

そして。

長椅子に、身を横たえる少年が一人。

小脇に見知ったペンギンを抱え、艶やかな黒髪を風が遊ぶに任せて寝入っている。

レイが訪れた時、すでに少年は夢の中の住人だった。ひっそりと、まるで植物の一部にでもなってしまったかのように、静かに深い眠りの中に身を浸していた。

最初は起こそうと思ったけれど、結局声はかけなかった。あまりにも穏やかに安らかに寝入っているから、起こしてこの空間を壊してしまうのが何だか勿体なかった。

言葉はなく、静謐な空気だけあることに、安らぎにも似た気持ちを感じた。

だから声はかけなかった。

起きてくれるのを待とう。そう思った。

それから時計の針が二順したが、いまだ起きる気配はない。

——碇くん。

見下ろした少年は、いつ見ても出会った頃の印象を損なわなかった。

細い線で描かれた柔らかいラインを辿る顔。夜を映した黒髪や、黒曜石にも似た瞳。どれをとっても昔そのままの面差しを残している。

変わった事といえば、過ぎた年月の分だけ上へ上へと押し上げられた身長くらいだろうか。肉付きの薄い手足も同じように長く伸び。その痩身を評して、金茶の髪の友人は『貧弱だ』とよく詰っていた。

そうい言われる度、少年は少し気分を害していたようだけど。

——いいえ、それは違うもの。

彼女は何も知らないからだ、と心の中で反論する。

ちゃんと知っている。

この、なだらかな肩から繋がる広い背中を。ほっそりとしているけれど、自分とはまるで骨格の違う躯を。筋肉の付き方も、節の長さも、何もかもが自分とは違うモノであるということを。

知らず知らず、レイは口元を笑みに綻ばせた。そっと両手を胸に押し当てて、何かを確かめるように瞑目した。

——そう。ちゃんと知っている。

何故なら。ほんの先日、それを自分自身で確かめたのだから。

月日は少しずつ少年を大人にするけれど、彼の本質はきっと何も変わらないだろう。

なんて穏やかな寝顔。

寝ている彼は本当に静かで、まるで空気に溶けてしまいそうな錯覚に陥る。

あの時もそう思った。目覚めた傍らに眠る彼を見た時、その錯覚に慌てて揺すぶり起こして、彼を驚かせてしまった。

今も、こうやって存在を確かめてしまいたくなる。

そっと頬に額に触れて、柔らかさと温もりを確かめる。起こしてしまうのは忍びないから、ほんの一瞬触れるだけで終わり。

そんなことをもう何度も繰り返している。

起こすのは可哀相と思いつつ、早く目覚めて欲しいと心の隅で願いながら。

 

少年はあまり触れられる事が好きではないようだ。

昔はどうであったか知る由もないが、少なくとも今は触れられる事を厭う。

そんな事はお構いなしに少年によく触れるのは、自分を除けばあの人ぐらいしか思い浮かばない。彼の少なくない友人達とでさえ、以前のように気軽な触れ合いをしなくなった。

大人になるとそんなものだよ。——と、あの人は言う。それが欺瞞とわかっていて口にする。

何故なら、誰にも気づかれぬよう注意を払って、さりげなくそれを拒むのは少年の方なのだから。

だからこそ、触れるのを許されている自分が嬉しい。

触れたいと思うのはあの人と彼、だけ。

でも不思議。彼に触れたいと思う気持ちと、あの人に触れる時の気持ちは全然違う。

そう、全然違う。

最初はその違いは、小さなしこり程度の疑問だった。それが月日を重ねる毎にどんどん大きな疑問になっていって。どちらも触れられると安心するけれど、嬉しいと想うのは、彼だけだ。

それが何故なのか、よく解らない。

以前は触れられる回数を数え。それで得られる感情を一つ一つを確認していたのに、今はたった一つの感情が心を満たす。

それを嬉しいと想う気持ちが心をいっぱいにして、溢れそうだ。

いつか、どうしてなのか? と、疑問のままに二人に問うたら。

あの人は声を珍しく立てて笑い。彼は心底困っているようだった。答えはどちらからも聞けなかった。

ただ、あの人が一つだけ教えてくれた。「ボクも、キミと同じ気持ちになるよ」と。

そういわれて、ふと気づいた。

自分に向けられる、あの優しい笑顔と温かい手を手放したくない自分がいる事に。それどころか、他のどんな人にも——たとえあの人であっても——渡したくないと、想う気持ちに。

もしも、失ってしまったら

強く強く、思う。

浅ましい……?

きっとそうなのだろう。けれど、失ってしまった願いの代わりに得た新しい願いを、今度こそ亡くしたくない。永遠に続かない願いかもしれないけれど、でも。

触れてくれる手がいつも傍にある事を。

眼差しがいつもそこにある事を。

強く強く、想う。

身の内で膨れ上がるこの気持ちは、独占欲だと言ってもいい。拒否されないのをいいことに、ありのままの気持ちを示して、彼を困惑させる時もある。

それでも、手放せない。

レイは、少年の頬から顎へと形をなぞるように、そっと指を滑らした。

指が辿る柔らかいその肌を自覚する度に、自らのそれに蘇る感触。

離すのが名残惜しくなってくる程に。

本当は、このままずっと互いの体温を分け合っていられたら。

 

そんなこと、彼はけして望まないから。

 

だから、せめて今だけでもこうして触れていたい。

 

 

*   *   *

 

 

風が舞った。

あんまり長い間ぼんやりしていたので、風向きが変わったのに気づかなかった。

煽られた髪が揺らめいて、太平楽に寝こけていたペンギンの顔をぴしゃりと叩きつけた。

「あ……」

目を瞠ったレイの前で、毛先が鼻を擽ってしまったのか、ペンギンはむずむず顔を動かし、ぶしゅんと大きなくしゃみをした。

途端、つぶらな瞳が見開かれて、レイを見上げた。

「……ごめんなさい」

ささやくような謝罪を耳にしたのか、ペンギンは不思議そうに首を傾げてきょろきょろ辺りを見回した。

やがて何事もなかったかのように、ペンギンは青年の傍らに身を横たえると、再び目を閉じた。その際、自分の寝易い空間を作り上げようとするかのように、少年の腹部を短い足で蹴りつける事も忘れない。

できた隙間に体を沈めて、ペンギンは満足げに喉を鳴らした。

その遠慮のない仕草に少年が起きてしまわないかと重いながら、レイは上下する白い腹に、しばし呆気にとられてその行動を目視していた。

階下の住人が飼っているペンギンだというのに、見る限りではほとんどの時間を少年の元で過ごしているような気がする。

よほど居心地がいいのか。それとも、いるべき巣の居心地が悪すぎるのか。

そういえば。

階下の住人について、年々ずぼらが酷くなると少年が愚痴を溢していたのを思い出し、レイは思わず忍び笑いを漏らした。

——そう。

アナタも居心地がいいのね。

——ここが。

「わかるもの」

言葉にして言ってみる。

 

再び、静かな寝息がベランダを満たした。

小さな吐息を零して少年が寝返りをうった。真っ直ぐに向けられた寝顔を見とめて、レイの鼓動が一つ、とくんと脈打った。

もう一度躊躇いがちに手を伸ばす。額に流れた少し汗ばんだ黒髪に触れ、指に絡ませるように梳いて流せば、滑らかな感触が指を擽った。

レイは少年に覆い被さるように、身を屈めた。

蒼銀色の髪がさらさら流れて、間近で向かい合う二人を外界から切り離す。「碇くん」

囁きほどの小ささで、名前を呼んだ。

応えなど期待してはいない。もう一度、規則正しい寝息を耳にしながらなおも言葉を重ねて——。

「起きないの?」

起きない事を確認するような言葉。否、起きないと解っているからこそ口にする言葉だ。

閉じられた瞼が一瞬ぴくりと震えたのを見つつ。長椅子に手をかけると、重みで椅子がぎしりが軋んだ音を聞く。

——まだ目を覚まさないで。

レイは引き寄せられるかのように、ゆっくりと顔を近づけた。

頬に、唇に、だんだんと彼の呼気を感じながら、眼差しを伏せる。その薄く開いた唇に己のそれを重ねるほんの一瞬。触れるか触れないか、確かに温もりを感じたと思った瞬間。

ぶしゅん。

盛大なくしゃみが胸元で響いた。

「——!!」

レイは飛び退くように少年から離れた。

その勢いで背後にあった植木に強か体をぶつけてしまう。枝が大きく揺れて、足元の植木鉢が音を立てて転がった。慌てて踏鞴を踏んだものの、バランスを崩して、おもいきり枝葉の合間に頭を突っ込んでしまった。

——痛い……。

髪の毛が引き攣る痛みに、レイは顔を顰めた。

枝葉に髪が絡みついてしまったらしい。解こうにも身を捩れば捩るほど、ますます絡み付いてレイの動きを奪う。

その間も、ペンギンの苦しそうなくしゃみがベランダに響く。

髪の毛の先でイヤというほど鼻を刺激されたのだ、相当に苦しいだろう。たまらず少年の脇でじたばたと暴れ回っている。

——だめ……暴れないで。

暴れるペンギンの姿を目にして、レイは改めて自分が何をしようとしていたのかを自覚した。体温が上がったような気がした。

——起きてしまう。

焦る気持ちは指の動きを鈍らせる。焦るということ自体、後ろめたい気持ちの裏返しなのだと気づきもせず、思い余って絡みついた髪を強引に引き千切ろうとした時。

ぱちりと少年——シンジの目が開いた。

あれだけ小脇で暴れられれば、嫌でも目が覚めるだろう。何が起こったのか分らず、シンジは慌てて半身を起こした。

「なに? どうしたの?」

暴れるペンギンを抱え起こして、寝起きそのままの茫洋とした口調で問い掛ける。

ペンギンは甲高く鳴くと、振り向きざまにその黄色いくちばしでレイを指した。つられてシンジも振り向く。視線が薄赤い瞳とぶつかった。

シンジは驚いたように目を瞬いたが、すぐにいつもの穏やかな瞳でふわりと笑った。

「あれ? 綾波? どうしたの」

レイは俯いた。

こういうのを、悪戯が見付かってしまった子供のような気持ちとでもいうのだろうか。視線ふらふら足元にさ迷わせて、口篭もる。

何をしているか、なんて言えない……。

どんな言い訳も、レイの頭には思い浮かばなかった。蒼銀色の髪を植物に絡めとられた挙句、観葉植物に埋もれたまま真っ直ぐに立っている事もできなくて。あまつさえ、足元には植木鉢がいくつも転がっていたりするなんて。

こんな状態で、なんて言えばいいの?

どんな顔をすればいいの?

「大丈夫かい?」

「ええ。でもごめんなさい……植木鉢を倒してしまったわ」

「いいよ、そんなの。あ、動くと余計に絡まるよ」

手でレイの動きを制して、シンジは長椅子から立ち上がった。

ちょっと待ってて、と声をかけ、くしゃみを繰り返すペンギンを椅子へと移した。その背中を軽くあやすのを忘れないところが、彼らしい。

歩み寄ろうとするシンジを見て、レイは声を上げた。

「いいの……! 大丈夫だから」

シンジは、「どうして?」と、首を傾げる。

長身が日差しを遮って、レイの前に影を造った。

レイは唇を小さく噛み締めて、俯くしかなかった。

さっきまで見下ろしていた胸元が、今は目前にある。鼻孔が敏感にシンジの匂いを捉えて、鼓動が大きく跳ね上がった。

頬はいつも以上に熱を持ち、レイは息苦しさを覚えてきゅっと目を瞑った。

時々、髪を解くシンジの指が頬や頭を掠めたりすると、思わず吐息が零れそうになり、懸命に喉の奥でかみ殺した。

そんな彼女の様子に気づくことなく、シンジは丁寧に枝と髪を分けてゆく。

「このベランダ、植物だらけだから——はい、取れたよ」

ずいぶん髪も伸びたみたいだしね。と、付け加えながら、乱れた髪を整えるように指で掬い上げた。

指先が、つ、と頭皮を掠めた。

「——っ!」

レイはその手から逃れるように身を放すと、急いで手串で髪を整えた。

「ありがとう……」

「……あ、うん」

ぎこちないレイの態度に、僅かに首を傾げたシンジだったが、別段気を悪くした風もなく、椅子に座り直した。

「ここで楽譜見てたらつい寝ちゃって、起こしてくれても良かったのに」

喘鳴を繰り返すペンギンを抱きかかえて、痙攣している背中をさすってやる。しばらくすると、ようやく落ち着いたのか、ペンギンはシンジの腕に体を預けて、甘えるように頬をシャツに擦り付けた。

「どうしたんだろ? 虫でもいたのかな」

事情を全く知らないシンジには、原因が虫どころか彼女の髪の毛だとは知る由もない。あまつさえ、それが己に対する行為のとばっちりだとは思いもしないだろう。

ペンギンの恨めし気な目が、じっとりレイを見やった。

散々昼寝を邪魔されたのだ、言葉が喋れたならば、洗い浚いをシンジに訴えたかもしれない。

「ごめんなさい」

「何が?」

唐突に謝るレイを見上げて、シンジは首を傾げた。

「……碇くんは気にしないで」

「え? でも、今ごめん、って」

「碇くんに言ったんじゃないの」

「あ、そ、そうなんだ?」

「ねえ、碇くん」

「なに?」

「私。髪、切った方がいい?」

「は?」

あまりに唐突な問いに、シンジは咄嗟に返事ができず、ぽかんと口を開けたまま押し黙った。

レイは視線を外して「いいえ」と、小さく首を横に振った。

「何でもないわ」

「う、うん」

きっぱりと言われて、シンジは納得しがたくも曖昧に笑いかえした。レイのあまり表情が表に出ない顔を見ていると、何故だかそれ以上は聞いてはいけないような気がする。

「えーと、綾波はいつ来たの? 起こしてくれればよかったのに」

「気持ち良さそうに眠っていたから、起こさなかったの」

いけなかった?

言って。おもむろにレイはシンジの腕からペンギンを掴み上げた。

「綾波?」

「お水、飲ませたほうがいいと思って……」

レイの腕にしっかりと抱きとめられて、ペンギンはしばらくじたばたともがいていたが、やがて観念したようにしゅんと嘴を垂れた。

縋る視線が、まるで助けを請うようにシンジを捕らえる。

彼女の突然のリアクションとペンギンの無言の訴えを交互に見ながら、シンジは更に困惑を深くする。何だかよく分らないが、二者の間で何事かあったらしい。

「あの、さ……ペンペン、どうかしたのかな?」

「何でもないから。——お茶、入れるわ」

ペンギンをぶら下げたまま踵を返すと、レイは軽い足取りでリビングへと姿を消した。

シンジは唖然と彼女の後ろ姿を眺めるしかなくて、去り際に彼女が僅かに微笑んだことなど知る由もなかった。

 

レイは台所でペンギンを降ろすと、再度「ごめんなさい」と呟いて、その柔らかな毛並みを撫で付けた。

そうして薄赤い瞳にほんの少し悪戯めいた光を宿して、囁くような声で言った。

「やっぱり切った方がいいのね。——だって、あなたが起きてしまうもの」

問いかけに、ペンギンはクア、と短く鳴いた。

それが肯定の返事だったのか、それとも抗議の返事だったのか、それはレイにもわからなかった。

 

Ende

 

--Januar 3, 2015


■By 日下智

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