こころのままに

 

——CASE/1

 

朝はいつも一人で起きる。

 

服も一人で着替えられる。ブラウスのボタンも一人で止められるし、靴下も履ける。寝間着をきちんとたたんで、ベットの上に置いて。それから洗面所に行って、顔を洗って、歯を磨いて。

もう、何でも一人でできるの。

 

階段を降りて一階に行く。

真っ先に玄関に行って、新聞受けから新聞を取り出すのがわたしの仕事。

玄関には、わたしのくつ、ママのくつ、……パパのくつはない。

昨日もなかった、一昨日もなかった。でも明日はあるかもしれない。

 

……毎日、そう考えている。

 

 

玄関脇の扉の向うがキッチン。

扉のすりガラスから白い朝の光がにじみ出ている。でも何の物音もしない。はぁ、と深呼吸をしてノブに手をかけ、そっと開く。

 

そこにはママがいる。

 

今日も椅子に座ったまま寝ているママ。

テーブルの上にはお酒のビンが出しっぱなし。コップには飲みかけの茶色い液体。前に内緒でちょっとなめてみたけれど、とても苦くておいしくなかった。

どうしてママはこれが好きなのかわからない。

染みだらけの白いクロス。

シンクには昨日の夕ごはんの食器がそのまま。

少し生ゴミの臭いがするキッチン。

ママの臭いはお酒の匂いと同じ。

 

 『おはよう、ママ』

 

けれど、ママは答えてくれない。

 

いつものように冷蔵庫をあけてミルクを出してコップについだら、ちゃんと椅子に腰掛けて行儀よくしなくちゃ。ママを起こさないように、音をたてないように、ママの寝顔を見ながらミルクを飲む。

また、ママの頬に涙の後が残っているのを見つけた。

静かに静かにミルクを飲んでいると、柱時計の針はいつの間にか8時45分をさしている。

もうすぐ幼稚園バスが来る時間。遅刻はダメ。

急いで残ったミルクを飲み干して、コップを洗う。ずっと前にママが用意してくれた立ち台に乗れば何でもできる。お手伝いをするとママは誉めてくれた。だから、ママを振り返って。

 

 『ママ、洗ったの』

 

けれど、ママは起きない。

 

ママの寝顔に向かって「いってきます」と小さく声をかけて、そっとキッチンをでる。

急いで部屋に戻って幼稚園バックと帽子をとってくる。

靴をはいて玄関の扉をあける。ポケットに鍵が入っているのを確認してから、もう一度だけ振り向いて。

 

 『ママ、いってきます』

 

けれど、返事の代わりにオートロックがカチャリと音をたててかかっただけ。

 

——もう、何も言わない。

 

門を出てすぐ角の集合場所には友達がバスを待っていた。みんなママといっしょ。一番なかよしの子はパパといっしょ。だけれど、わたしのパパはお仕事。私のママは疲れてるの。

だから私は一人でいいの。

なかよしの子が手をふっている。

おばさんやおじさんには、ちゃんと挨拶をしなければいけない。大きな声で「おはようございますっ」って。

そうすると、きまってみんなこう言うの。

 

 『あら、今日も一人で来たのね』

 『えらいのね、何でも一人でできるのね』

 『いいこだね』

 

そうして、頭を撫でて褒めてくれる。

 

 

 

 

デモ、ウレシクナイノ

 

イイコデイテモウレシクナイノ

 

ドウシテウレシクナイノ?

 

 

 

*   *   * 

 

 

 

「どお? シンジくんの調子は」

「順調よ。シンクロ率も安定しているし。一時はどうなることかと思ったけど」

「んー、そうね。まあ、さすがにあの日はちょっち気まずかったけどね。とりあえず……やっと、友達もできたみたいだし」

「ああ、エントリープラグに入った二人ね。——そういえば」

「なによ」

「シンジ君、駅で青春したんですってね」

「せいしゅん〜? あーあ、男の友情ってやつ? ま、ねー。昨日から朝、迎えに来てくれるわよ。鈴原くんと相田くん」

「よかったじゃないの。これであなたも少しは楽になるんじゃない? カウンセラーのお姉さん」

「よしてよ、カウンセラーだなんて」

「あら、そのつもりで引き取ったんじゃないの? また音をあげても二度目の家出は見過ごしてくれないわよ」

「わかってるわよ。でもねぇ……これがなかなかねぇ……」

「わだかまりは無くなったんじゃなくって? ————シンジくん、レイ。テスト終了よ。あがってちょうだい」

「難しいのよねぇ」

「しっかりしてちょうだい。お、姉、さ、ん」

 

 

 

——CASE/2

 

母が泣き顔しか見せなくなったのはいつの頃からだったろう。

寂しいといっては泣き、辛いといっては泣く。

悲しいといっては泣き、疲れたとこぼしては泣く。

 

父は……父の顔は……ない。

物心ついた時から、父は背中しかない存在だった。

家にいることはほとんどなく、たまに帰ってきても自室にこもりきり。

父の書斎の重厚な樫の扉はいつも厚い壁となって立ち塞がっていた。

たまに開いていた扉の隙間から覗くと、そこには背中しかない。

研究、研究、父の頭の中にはそれしかないらしい。私の入る余地はないのだと、父の夢の中には私はいないのだと悟らざるをえなかった。

 

父と母と子。

 

それらは別個に存在しており、それらの間につながりはなく。そこに家庭といったものは存在しない。子はその存在を主張するためにそれぞれの前で、それぞれのために演技する。自分を殺して……。

長い、長い間積み重ねてきた努力。

 

それは報われただろうか?

 

母が父と別れると言ったとき、私は喜んで賛成した。

母の気持ちを十分理解できる年齢まで達していたし、何より母は十分すぎるほど我慢した。

だいたい母の幸せと父の幸せは、ことごとく一致しなかった。

母は研究とは縁遠い世界の住人だったので、彼女の要求は父には理解しにくいものだっただろう。

 

 『側にいて』

 

 『私をアイシテルって言って』

 

 『ケンキュウとワタシとドッチがダイジナノ?』

 

母がそう言う度に、父は困惑していた。

妻と研究。

天秤にかけられるものではないものを天秤にかけて選べと迫る母を、父は本当に理解出来なかったに違いない。

父にとって、家庭とはいったい何だったのか——。

彼女が妻として望んだほんの一握りの要求さえ、父には重荷だったのだ。だからその重荷から逃れようと、ますます夢に逃げ込んでいってしまった。

私は、ずっと母を可哀相だと思っていた。

妻が重荷だというのなら、なぜ結婚などしたのか。逃げてばかりいる父は、ずるい。

 

ずっとそう思っていた。

 

離婚の申し出に父は反対はしなかった。いや、反対できなかったといった方がいいかもしれない。

これは家庭を顧みなかった俺への罰だと、最後くらいは「理解ある夫」を「演じ」ようとしていた。

そのくせ目線はおろおろと宙をさ迷っていた。

『行かないでくれ、捨てないでくれ』——そう思っているくせに、それを言い出す勇気も度胸も持ち合わせていない。何より自分が傷つくのを恐れて、必死になって平静を装っていた。

 

もう傷ついているのに、それすら気付かないふりをする。

 

突きつけられた現実から目を逸らすことしかできなかった父。

 

私は、当然の報いだと嘲笑った。

この男はこれからずっとこの傷を背負って生きていくのだ。

本当は寂しいくせに。

本当は恋しいくせに。

気まぐれに帰ってくる家はいつも灯が点っていた。けれどこの男はその価値に気づかなかった。いや解らなかったのかもしれない。この現実を突きつけられて初めてそれを認識した時はもう遅く、彼を迎える灯はとうに消えていたのだ。

 

母と別れてすぐ、父はある調査隊の主任として南極に行くと言ってきた。提唱した理論を真に証明することができるらしいと、科学者らしく喜んでいた。

みんなは夢の実現への第一歩だと父をはげまし惜しみない声援を贈ったが、でも私は知っていた。

父はきっとこの現実の辛さから逃れるために行くのだ、と。

この現実から夢という現実へ——。

父はまだ、現実から逃げ続けているのだ。

 

そして、私は母にではなく父についていく事を望んだ。

 

打ちひしがれた父を哄うため。私を見捨てた父を、こんどは私が捨てるために……。

 

 

 

 

ホントウニソウダッタノ?

 

ホントウニソウオモッテイタノ?

 

 

 

*   *   *

 

 

 

「しっかし、うちのカフェ、もうちょっと何とかならないのかしら。はっきり言って不味いわよねぇ」

「あなたにだけは言われたくないでしょうね。カフェ側も」

「何よぅ」

「あたなの味オンチは学生時代に証明済みでしょう? 大体あなたの料理ってレトルトじゃないの」

「あら、そんなことないわよ〜。シンジくんだって文句言わずに食べてるし」

「どうだか。彼の健康管理もあなたの任務なのよ。それ、忘れないでちょうだい」

「わーってるって」

「それと、あなたまさかシンジくんをハウスキーパーがわりにしていないでしょうね」

「ど、どうして?」

「特売日のスーパー、コンビニエンスストア、マンションのゴミ出し」

「なによ、それ」

「ミサト、忘れてるの? 彼の行動は細かくチェックされているのよ。いつどこに寄ったとか、誰と接触したとかね」

「そ、そうだったわね——(ちっ、保安部もなんて暇なところなの。報告内容くらい選べっていうの)」

「あなた、家事をやらせるために引き取ったわけじゃないでしょう」

「し、失礼ね、ちゃんと『公平』に決めて分担してるわよ。疑うんならこんど家にいらっしゃいよ。

シンジくんも落ち着いたことだし、引越しの荷物も片付いたから。きれいなもんよ」

「誰が片づけたことやら……。でも、そうね一段落したら伺おうかしら」

「いらっさい、いらっさい」

「楽しみにしてるわ。——じゃ、私は戻るわね」

「オッケー。あ、リツコ」

「なに?」

「わたし、ちょーっち仮眠するからさ。2時間、ううん。1時間で起きるわ。支障はないでしょ?」

「わかったわ。ふふ、さすがに夜勤2日目はこたえるかしら? お互い年はとりたくないわね」

「うっ……やめましょ、その話」

 

 

 

——CASE/3

 

わたしはとてもいい子だ、とみんな言う。

 

そう、わたしはいい子なの。

 

いい子はどんな子?

 

いい子は何でも一人でできるの。

幼稚園だって一人で行ける。給食だって残さず食べるし、好き嫌いもない。ケンカもしちゃダメ。悪い事しちゃダメ。いい子でいるとセンセイが褒めてくれる。

幼稚園が終るとみんなはママやパパが迎えに来てくれるけど、わたしは一人で帰れるから。

だからわたしは一人でいいの。

 

 

『ただいま、ママ』

 

 

(ほら、ちゃんと一人で帰ってこれる)

 

玄関にはわたしのくつだけ。ママのくつはない。パパのくつもない。

台所にも、居間にも、どこにもママはいない。

書斎にも、寝室にも、どこにもパパはいない。

 

 

『でも大丈夫。一人でできる』

(だって、わたしはいい子だから)

 

 

まず着替えて、それから手を洗っておやつを食べる。おやつだって自分で作れるの。ずっと前に、わたしが作ったホットケーキをパパはおいしいって言ってくれた。

もちろん後片付けだって、ちゃんとできるもの。

それから庭に出て洗濯物を取り込むけれど、これはちょっと大変。タオル、ママの服、わたしの服、わたしの靴下。

早く背が伸びればいい。そうすれば、もっと何でもママみたいにできるようになれるのに。

 

なかよしの子が遊びにきてくれたけど、今日はダメ。いっぱいやる事があるから。

お風呂だって洗わなくちゃいけないし、居間に落ちているママの服も片付けて。でも、どうしてだろう今日の新聞がびりびりに破れて散らかってるから、それも捨てなきゃ。

 

そうしたらもう夕方。

でも、まだママは帰ってこない。

 

もちろん、夕ご飯だって作れるの。

包丁だって、フライパンだって、電子レンジだって使えるから。

焦げてしまった目玉焼きも、うまく切れなくて潰れてしまったトマトも、ちょっと辛い味噌汁だって大丈夫。ちゃんと残さず食べるもの。

 

大丈夫、大丈夫……。

 

だって、わたしはいい子だもの。

 

いい子は泣かない。

 

一人だって、寂しくないから。

 

 

 

 

ダカラ、パパママ

 

ハヤクカエッテキテ

 

ワタシイイコニシテルカラ……

 

 

 

*   *   *

 

 

 

「——ト、ミサト!」

「んー、あと5分だけ寝かせてぇ、シンジくん〜」

「あきれた、あなたシンジくんに起こしてもらってるの? ちょっと、ミサト!」

「んー、あー、なんだ〜リツコじゃない」

「仮眠は1時間の約束でしょう、タイムオーバーよ。

まったく目覚しくらいセットしなさいよ。これじゃ寝坊しますって言わんばかりじゃないの」

「あれ〜、セットしたと思ったんだけどなぁ。ね、副司令怒ってる?」

「副司令の命令よ、起こしてこいっていうのは」

「あっちゃ〜」

「碇司令がいないことに感謝しなさい」

「はぁー、もう、何か寝た気がしないわー」

「何言ってるの、ぐっすり寝てたわよ。

全くシンジくんの苦労が忍ばれるわね。これじゃあ、どっちが面倒見てるんだか判らないじゃないの」

「悪かったわね。起こしてくれって頼んだわけじゃないもの。彼が自主的にやってくれてる事よ」

「そうでしょうとも、あなたの生活を見ていれば口を出したくもなるわよ。彼、几帳面な性格みたいだから」

「几帳面っていうより、ちょ〜っち潔癖ぎみなのよね。男の子なんだからもうちょっとルーズでもいいと思うんだけど」

「それも彼の処世術なんでしょ。他人の家で自分の居場所を確保するために手のかからない、いい子でいることを選んだ」

「そっか。シンジくん、よその家に預けられていたんだっけ。

10年も人んちで暮らしてちゃ、しょーがないかもね」

「今となっては染みついた習性って言ったほうがいいかもね。どちらにしても中学生に面倒見てもらうなんて情けないわよ」

「はいはい」

 

 

 

——CASE/4

 

最初は、まだ家族というものがあったと思う。

その頃は父も気まぐれに家にいる事があった。時々家族で出かけもした。

少しぎくしゃくとした壊れやすい、危うい関係だったが、少なくとも傍からは家族の姿に見えたに違いない。

それでも私はよかったんだろう。母と父がいて、私を見ていてくれたから。

 

しかし、それも長くは続かなかった。

 

父が研究室に入り浸りになると、母はその淋しさに毎日泣いた。

今考えると母はずいぶん依存度の高い女性だったのかもしれない。彼女には支えてくれる誰かの手とぬくもりが常に必要だった。

誰かに依りかかることでしか、自らの存在を認識できない人だった。

もっとも父もあまり現実を知らなかった人なので、彼にこそ支えてくれる手が必要だったと言えた。

求めるばかりのお互いでは、互いに埋めあう事などできはしないだろう。

 

そうして、いつしか母は淋しさを紛らわすために私に愛情を注ぐことで——私に依存——しはじめた。

けれど、それもそう長い期間ではなかった。

次第に少しずつ母の目から私の姿が消えてゆき。

そのうち、母の淋しさを紛らわす道具は私から酒へと変わっていった。

そうなるとますます父は家に寄り付かなくなり、母の酒量も比例して増えてゆく。彼女がキッチンドランカーになるのに時間はかからなかった。

 

彼女に差し伸べてあげるには、私の小さな手ではあまりに力不足だったのだ。

 

いつしか、母の目にも、父の目にも、私がうつらなくなった……。

 

私は私の居場所を確保するため出来ることはなんでもした。関心をひけるのならば、なんだってやれた。

 

いい子でいること——。

 

料理も、掃除も、洗濯も全てやった。一生懸命だったといってもいい。

みんな、私をいい子だと言った。

同い年の誰よりもしっかりしていて、大人で、お父さんもお母さんも安心ね……と。そう言われる事が嬉しかった。

 

——私は、私の居場所を確認できた。そう思った。

 

 

 

 

ホントウニウレシイノ?

 

ホントウニウレシカッタノ?

 

 

 

*   *   *

 

 

 

「リ〜ツ〜コ〜。ん、じゃあ、私、帰るわね」

「お疲れさま」

「あんた、まだ帰らないの? ほんっとタフよねぇ」

「アリガト。

あ、ミサト、夜勤明けだからって寝過ごさないでよ。あなたが起きる頃はシンジくんは学校に行ってるでしょうから、あてにできないのよ」

「わぁってるって。信用しなさいって」

「信用できないから、言ってるのよ」

「じゃあ、モーニングコール入れてよ」

「お生憎さま、私も少ししたら帰るもの」

「あ、そー。じゃあ、シンジくんに頼もうかなぁ、学校からモーニングコールしてちょーだいって」

「ミサト! あなたねぇ、さっき私が言ったこ——」

「いやぁね冗談よ。んも〜、冗談が通じないんだから」

 

 

 

——CASE/5

 

なかよしの子はブラウスのボタンがとめられない。

 

(でも、わたしはとめられる)

なかよしの子は目玉焼きが作れない。

 

(でも、わたしは作れる)

なかよしの子はお風呂を洗わない。

 

(でも、わたしは洗う)

なかよしの子は洗濯物をとりこまない。

 

(でも、わたしはとりこむ)

なかよしの子のママは優しい声で起こしてくれる。

 

(でも、わたしは一人で起きる)

なかよしの子のママはケーキを作る。

 

(でも、わたしのママは作ってくれない)

なかよしの子のパパは遊んでくれる。

 

(でも、わたしのパパは遊んでくれない)

なかよしの子が泣いているとママもパパも優しい。

 

(でも、わたしは泣かない)

 

 

 

いい子は泣かない。

 

 

 

イイコは泣かナイ。

 

 

 

イ・イ・コ・ハ・ナ・カ・ナ・イ。

 

 

 

 

 

 

わたし、こんなにいい子なのに。

 

わたし、こんなにがんばってるのに。

 

……私、こんなに一生懸命だったのに——。

 

どんなにいい子でも、結局、私にはなにもない。

何一つなかった。

いい子でいれば、パパもママも——父も母もきっと褒めてくれる、そう思ったから。

先生やおじさんおばさんに褒めて欲しかったんじゃない。父や母——パパやママに褒めて欲しかった。

ただ私を見ていて欲しかっただけなのに!

 

でも、褒めてくれなかった!

 

私を見てくれなかった!

 

私はどこにもいなかった!!

 

父は研究という夢を見て、母はただ父だけを見ていた。

 

そして——。

 

とりのこされた哀れな子供が私だった——。

とりのこされることから逃れようと、必死になって空しい足掻きを繰り返していた馬鹿な子供が私だった。

 

イイコって何だったんだろう?

 

そんなもの、何処にもいはしなかった。

 

いたのは、ただ。

 

父や母の顔色を伺い、優しい言葉をかけてくれることをもの欲しそうに待っていた私。

母や父の目が私をしっかり見てくれるのを渇望している私。

いい子でい続けた、本当はいい子なんて大っ嫌いだったくせに、自分に嘘をつき続けた私。

 

 

父は嫌い! (私が南極に行ったのは、あなたなんか嫌いって言いたかったから)

 

母は嫌い! (私が南極に行ったのは、あなたの泣いている顔を見たくないから)

 

 

いい子は嫌い!

お掃除も、お料理も、大嫌い。

一人でご飯を食べるのは嫌、さびしいのはもっと嫌い!

わたしは、ずっと、いい子でいようとしたのに。

なのに、どうしてわたしには何もなかったの?

どうしてわたしを見てくれないの?

 

優しい言葉も、暖かい手も、笑い顔さえ、何も与えてはくれない!

 

たった一つのものさえ私のものじゃなかった。

 

そう、たった一つでよかったのだ。

 

そんなたいした物じゃない。

 

それは、いい子もそうじゃない子も、みんなあたりまえのように持っていたもの。

 

ボタンの掛け違った家族でなければ、きっと私も手に入れられるはずだったもの。

 

本当にちっぽけで、でも、とても確かなもの。

 

けれど、そんなささやかなものを掴むのさえ、私の手では小さすぎたのだ。

 

 

 

 

トントントントン

 

(これはきっとママが包丁を使っている音)

 

クツクツクツクツ

 

コンロの鍋には、きっとお味噌汁が煮えている)

 

パタパタパタパタ

 

(忙しなくキッチンを行き来する足音)

 

湯気の温かさ。

 

朝の匂い。

 

息づいた生活の音。

 

そして、

 

なにより、欲しかった——。

 

 

 

 

 

 

『おはよう。ミサト』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

——EPILOGE

 

「おはようございます。ミサトさん」

 

その声に、ミサトはキッチンの入り口でぼんやりと突っ立っている自分に気がついた。

壁時計に目をやると、針はまだ7時を少しまわったところを指している。

夜勤明けで帰宅したのは空が白く滲みはじめた頃だった。顔も洗わず布団に潜り込んだというのに、目が覚めるにはずいぶん早すぎる。

第一、どうしてキッチンまで来てしまったのかよく覚えていない。

 

——いやだ、寝ぼけるなんて不覚……!

 

「もう起きるんですか?」

 

訝しげな問いかけにはっと顔を上げると、鍋の蓋を持った少年が怪訝そうな目でこちらを伺っていた。

そう言えば彼が朝食を用意している間に起きたことは一度もなかったような気がする。

 

「あの……ミサトさん?」

 

扱く遠慮がちな声。

ミサトは苦笑いをしながらぽりぽりと頭を掻いた。

 

「あー、ちょっち起きるには早かったわね。悪いけど、もう一度寝るわ」

「はい。じゃあ、朝食は置いておきます」

 

そう言って、味噌汁の湯気の向こうでふわりと少年が微笑んだ。

ミサトは僅かに目を見開いた。

そこには、いつも卑屈な顔をして俯いてばかりいた少年の見たことのない姿があった。

彼はあたりまえのように制服の上にエプロンをつけて朝食を作っている。

器用に葱をきざみ、網の上の魚を返し、炊き上がったご飯にしゃもじを入れ、中学生とは思えないほどの手際の良さで動いている。

珍しくもない朝の風景なのに、もう何週間も一緒に生活をしながらこんな朝は初めて迎えるような気がする。

 

穏やかな、ひだまりを思わせる瞳が微笑んでいる。

 

ダイニングキッチンいっぱいに広がる暖かい生活の匂いと音と、そして情景。

 

——忘れていた。

 

——こんなの、もう……ずっと、忘れていた。

 

ふいにミサトの胸の奥を何かが引っかいた。小さな痛みが湧いてくる。

 

(何かしら……?)

 

その痛みは、やがて圧迫感に変わりゆっくりと胸を押し潰してゆく。

まるで苦い綿で喉を塞がれてしまったかのように息が苦しくて、鼻の奥がツンと引きつって。

 

(どうしたの?)

 

はたっ、と右目から何かが滴り落ちた。

ミサトは弾かれたように顔を上げた。あわてて踵を返すと、キッチンを飛び出した。

 

「ミサトさん?」

 

背中にぶつかる声を振り払って洗面所に駆け込み、勢いよく水道の蛇口を捻った。

そして、取り繕うようにキッチンにいる少年に向けて取り繕った大声を張り上げる。

 

「あ、あのね、やっぱり朝ご飯を食べてから寝るわ! で、できたての方がおいしいわよね!」

 

上ずった涙声に、彼は気づいただろうか?

ミサトは乱暴に濯ぐというよりは水を叩きつけるように顔を洗った。けれど、顔を洗いながらも涙はとめどなく溢れ続けた。

 

 

涙が溢れる理由はなに?

 

哀しいわけじゃない。

 

泣きたいわけでもない。

 

ただ——ただ、酷く切なくて苦しくて——。

 

 

誰かの声と重なるから。

 

心をふるわせるから。

 

 

 

「おはようございます、ミサトさん」

 

『おはよう、ミサト』

 

 

 

<< END >>

 

--Januar 4, 2016


■By 日下智

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