Nostalgia Blue

 

焉りなき青の向こう。キミへと続く空がある。

 

 

雲の欠片一つない鮮やかな青い天蓋。

空の高み。

こんなにも空は青いのだと初めて知った日。

地平線と分たれるずっと先まで青はどこまでも青のままで、首が痛くなるほど仰向いて、ただ呆然と眺めていた。

そんな姿を見てどう思われたのか、それは解らない。

ただ一言。

空は青ではない——と、誰かが呟いた。

 

 

——ずいぶんと古い話だ……。

澱のようにこびりついた拭い切れない記憶の残滓が時折、こうやって意識の表層に現れては無意味に神経を逆なでてゆく。

 ——厄介だね……本当に。

行き場のなくなった記憶という情報が辿り着いた先。それが、『ボク』だったというだけなのに。

 あれは、ボクの現実ではない。

 そう。

 ——これは、記憶なんかじゃない。

 ——ただの……記録だ。

 視界を覆った両手の指が小刻みに震えているのに気気づいて、苦笑せずにはいられなかった。この頃はずいぶん少なくなったと思っていたのに。勝手に脳が記憶を引き摺り出して、それに勝手に身体が反応している。

 記憶など、全ては脳の襞に蓄積された、薄っぺらな数字と記号の集まりでしかないのに。

 ただ、それだけなのに。

 例えば。

 ——空が青いと知った、あの幼い日。

 何を想い、何を考え、何に心動かされたのか。そして思考はどこに行き着いたのか……何一つ、今のボクにはわからない。

 どれだけ考えようとも、けして思い出すことなどできやしない。

 何故なら。

 あれは、ボクの感情ではないからだ。

 あの幼い『ぼく』は、『ボク』ではない。

 狭いガラス箱の中で『ぼく』と繋がる事のできないボクはもう、けして『ぼく』にはなり得ない。

——『ボク』はもう『ボク』でしかない。

そう頭で理解していながら、そのくせ意識の奥底では同化を果そうと躍起になっているのは、いったいどういう事なのか。こうやって夢という形を借りて記憶を再統合しながら、少しずつ嘘を織り込むというこの愚かな行為が、ただの記録をいつのまにか自らの現実としての『記憶』へと刷り替えようとしている。

 『ぼく』が感じたであろう感慨の、ほんの触りさえ解らないというのに。歓喜も、憤怒も、慟哭も、何もかも知るはずもないのに。知っているんだとばかりに振舞う己は、なんと浅ましいことだろう。

 これは冒涜だ。

 『ぼく』への。そして、自らの手で『ぼく』と決別しなければならなかった『彼』への。

 ——なんて醜いことなんだ。

 何も解ってないのに解ったつもりになって。もう一方ではそういう己を非難し、自らを苛む一人芝居は、酷く滑稽なことのように思えた。

 そして、そんなつまらないものに一々反応してしまう感情も体も疎ましい。

 いっそのこと、何もかも消去してしまえたら。

 全てを無にしてしまえたら。そうしたら……。

 

 ——それこそ愚かだ。

 

 

カヲルは、うとうとした眠りから引き戻されて目を開けた。

ゆっくり視線を巡らせたそこは、見慣れた学校の屋上だった。少し錆ついた金柵と灰色のコンクリート床。給水塔に、校舎へ続く重い鉄の扉。人影はない。

午後の授業をサボって昼寝を決め込んでから、ずいぶん時間が経ってしまったようだ。

汗でじっとり湿った体に吹き付ける温い風が気持ちいい。

起き上がろうと身じろいで、背骨や腰がひどく軋むのに顔を顰める。どうやら屋上のコンクリートは昼寝の寝床には適さなかったらしい。すっかり強ばった節々が抗議の悲鳴を上げる。

仕方なく四肢を投げ出し鈍痛をやり過ごている間に、痛みがゆっくりと意識と感覚を現実へと押し戻してゆく。

西に少し傾いた太陽を視界の隅に留めて、カヲルは小さく息を吐いた。

 古い夢を見ていた気がする。

仰ぎ見た空は、夕暮れ前のくすんだ水色をしていた。青というには幾分黄色味がかった、けれどとても優しい色をしていると思う。

 穏やかな午後だ。

本当は夢ではないかと錯覚しそうになるほど、穏やかな午後。

 

 

*  *  *

 

 

「なにやってんのよ」

 不機嫌そうな声と共に、音高くカツンと踵を鳴らして太陽を遮るように立ちはだかった人影に、カヲルは小さく笑みを返した。

「やあ惣流さん」

逆光の中、その表情を伺うことはできないが、腰に手を当て仁王立ちにふんぞり返る様子から、きっと相当怒っているに違いない。

「何が、やあ、よ。午後から姿を見ないと思ったら、こんな所でバカみたいに寝転がって何やってんのよ」

「鐘、鳴ったのかな?」

「とっくの昔に。掃除当番のくせにサボってんじゃないわよ。あんた、昨日もサボったでしょ。迷惑するのはヒカリなんだから、ちゃんとやりなさいよ!」

「そういうキミも掃除当番なのではないかい?」

「あたしはいいのよ。シンジが『快く』あたしの分までやってくれてるから」

「それは大変だね、シンジくんが」

「いいのよ、どーせシンジなんだから。それよりいつまで寝てるわけ? とっとと起きたら!?」

快活というには些か荒々しい彼女の声は、ともすれば夢の中に逆戻りしそうなほど未だ茫洋としている意識を、現実へと引き止めてくれる。

——そう、これが現実だ。

 ここは学校で。今は放課後で。

 目の前にいる少女——惣流・アスカ・ラングレーに何故か怒られている。

 ——これがボクの日常。

「今起きるよ」

 カヲルはゆっくりと上体を起こした。

「……っ」

 その瞬間、急に視界が歪んで耳鳴りと頭痛が襲ってきた。どうやら軽い目眩を起こしたらしい。そのまま少し後ろに下がり、突き当たった金柵に背中を預けた。

「ジジくさいわね」

「ちょっと背中が痺れてね……。キミは先に行ってくれて構わないよ。ああ、洞木さんにはすぐに行くと伝えておいてくれないか?」

 言って、カヲルは目を伏せる。

目眩がする上に、どうにも体が怠くてすぐに動けそうにない。

寝過ぎのせいかそれとも体調不良のせいか。それをどう捉えたのか、アスカの双眸がひたとカヲルを見下ろし顰められた。次いで金属の擦れる音がして、勢いよく金網が揺れた。

顔を上げると、隣に金柵に寄りかかるアスカの姿を見る。制服のスカートからすらりと伸びた足が休めの姿勢で交差する。その視線はまっすぐに空に向けられていた。

「あんたを連れて来るってヒカリに約束したんだから、あんたが動くまであたしも動かないわ」

 

 

時折、風に乗って聞こえてくるグラウンドのざわめきや小鳥の囀り。頬や目蓋に感じる太陽の熱と眩しさが、匂いが、とても心地好い。ここでこうしてぼんやりしているだけで、とても穏やかな気持ちになれる。

「ねえ……何考えてるの?」

口を開いたのはアスカだった。

「別に、何も」

「嘘ばっかり」

「どうしてそう思うんだい?」

「言いたい事があるならちゃんと言えば? そんな顔しちゃってさ。あんたのその口、飾り物なわけ?」

カヲルはきょとんと目を瞬いて、思わず右手で頬を撫で擦った。

 自分はそんなに物言いたげな顔をしていたのだろうか。

 ポーカーフェイスには自信があったつもりだが、どうやら彼女には丸解りだったらしい。実際、彼女はとても聡い。他人の心の機微に敏感で下手な嘘や誤魔化しは通用しない。ただその言動故に時に誤解を生みやすいだけで、けれどカヲルにはそれさえも好ましく思える。けして本人を前に口にはしないけれど——。

出会った頃は言いたい事を言わなくて、自分の心に嘘ばかり付いていたのは彼女の方だったというのに。これでは立場が逆だ。

「そんな風に見えたかな?」

「あんたバカ? 見えたから聞いてんでしょ」

見上げたアスカの目の色は深い。剣呑な色が見える。

「言いなさいよ」

 逃げることを許さない強い声。カヲルは静かに息を吐いた。

「キミは、空は何色だと思うかい?」

あまりにも唐突すぎる質問に、アスカは「はぁ?」と絶句する。一瞬険しく跳ね上がった柳眉は、だが次いで呆れたという風に顰められた。訝しげにカヲルを見下ろしていた視線は、やがて真摯なそれに取って代わり。「そうね」と呟いて、アスカは小さく肩を竦めた。

「青、って答えるのが一般的ね」

「どうして?」

「あんた、そんな事も知らないの? 拡散される光の量が入射光の角度に依存してるとすれば、可視光線の波長が短い上に拡散率が高いのが青なんだから、当然、空は青に決まってるじゃない」

「レイリー拡散だね」

「知ってるなら聞かないでよ。嫌味ったらしいったらありゃしない」

アスカは憮然とした。

「ああ、ごめんよ。そうじゃないんだ」

 そんな教科書通りの答えが欲しかったわけじゃないんだ。——そうカヲルは胸裡で呟いた。

 原理は彼女の言う通りで。空の色など大気の状態と光の粒子の拡散率によって決められる。それ以上でも以下でもない、ごく当たり前の自然現象の結果にすぎない。

 でも、その青い空を見ながら「違う」と言ったのだ。

 その言葉が記憶から離れない。

「あんたね、その歯に物が挟まったような言い方止めなさいよ」

 苛ついた声を上げて、アスカは踵でコンクリートの壁を蹴り上げた。一回、二回。——三回目を蹴ろうとして足が止まる。

ふいにアスカが質問を返した。

「あんたはどう思うのよ」

「判らない……」

「あのねえ、どう思うのかって聞いてるのに、判らないなんて答えがある? 第一、最初に質問してきたのはあんたなんだから、ちゃんと答えなさいよ」

 ——確かにその通りだ。とカヲルはアスカを見上げる。

「そうだね……」

アスカは視線をカヲルに向けて、無言で促す。

「……そもそも大気に色などあるんだろうか…。時間と状況によって目に映る色彩が変わるだけと思わないかい?」

「それ、さっきあたしが言った事とどう違うのよ」

「原理は同じさ。だけど、今ボク達が見ている空の色はこんな色だけど、例えば千キロ離れた場所で見る空はこれと同じ色だろうか? この空の延長上にある空は、果たして同じ色をしているだろうか?」 

 同じ空の下。見上げるこの青は、本当にどこまでも青く見えているのだろうか。誰の目にも青く見えているのだろうか。今この瞬間でさえ、空は刻一刻とその色を変えて。もう数時もすれば漆黒の帳に覆われてしまう。そうしたら、それはもう青とは呼べないのではないか。

 大気の汚染、見る側の問題。疑問を一つ一つ上げればキリがない。

 アスカは寄り掛かっていた金網から身を起こすと、徐にカヲルの隣に腰を降ろした。制服のスカートがふわりと揺れてコンクリートの上で波打つ。両腕で膝を抱き寄せ、立てた両膝に額を押しつける。

「あんたって本当にバカよね」

 さも呆れたと言わんばかりの口調だった。

「そうやって一人で無駄なことばっかり考えちゃってさ」

 だから馬鹿なんだ、とアスカは思う。

 渚カヲルという存在の、その人となりや内面を全部知らなくても、短いけれど浅からぬつき合いの中で解った事もある。

 例えば、こういったどこか曖昧で漠然とした話をする場合。

 答えが欲しくて話をしている訳じゃない。

 すでに答は彼自身が持っている。

 以前はただからかわれているだけだと思っていたが、付合いを重ねて行くうちに少しずつ彼の想うところが見えてきた。

しばらくしてぽつりとアスカが言った。

「訂正するわ。空は青じゃないわよ」

「何故?」

「少なくとも、あたしが知っていた空は青じゃなかったもの。まあ見た時がたまたま曇りの日ばかりだったのかもしれないけど……とにかく、小さい頃は空は灰色なんだって思いこんでたわ」

 言って俯く。

「あんたが見ていた空が何色だったかなんて知らないけど、でも、あたしはあんたの空に続いている空を見ていたのよ、確かに」

「そう……」

「それは青じゃなかったわ。——同じ空なのに青じゃなかった」

「そうだね」

「あんたの言いたいのは、そう言うことでしょ?」

 そっとカヲルは横目でアスカの顔を伺い、口元だけで笑みを作った。本当に彼女は聡い。——聡くて、そして優しい。

 カヲルはゆっくりと肺に溜まった息を吐き出した。

「昔、きみと同じ事を言った人がいたよ」

「あんたが想い出話なんて珍しいじゃない」

からかい口調のアスカに比べて、カヲルは苦く唇だけで笑って小さく首を横に振った。

 ——想い出ではない。

 ——ただの記録だ……。

 声にならない言葉は彼女に届く事なく、自身の中で苦いものだけを残して掻き消える。そういう感情を彼女が知る必要はないから。

「初めて見た空は、雲一つない真っ青な空で——でも、その人はそれを青ではない、ただ目に青く写っているだけだ、と言ったんだ。その人はどちらかというと情緒的な人でね。物事を数式で考えるよりも、文学的な思考の方を好んだんだよ。真上にあるのは確かに青い空だが、だが裏側ではそこは真っ暗な夜空だし、赤く染まる空もある。だが、どれもここの延長上に存在する同じ空で。それならば、いったいどれが本当の色なんだろう、とね。その時はどういう意味なのか良くわからなかった」

「今は判るの?」

「いや……。正直今もよく判らないよ。ただ——」

 ただ。

 目に映る全ての空は色こそ違えど、全てが一つであり。見る人、条件によって見え方が変わっただけで、そもそもはどれも同じである、と。たぶんその人が言いたかった事はそう言うことなんだと思う。

 そして、それは何も空に限ったことではなくて。

 たくさんの『ぼく』はどれも『ボク』ではなかったけれど、でもどれも同じなのだと。そう言いたかったのかもしれないと思うのは、自分の勝手な感傷なのかもしれない。なぜなら、もはや、その人の顔も声音も確かに引き継いだ筈の記憶の中に、思い出すことはできなかった。

「ただ、何よ」

 胡乱げに見下ろすアスカを一瞥して、カヲルは視線を空へと向けた。

「ボクが空を見ていたとき、キミも同じ空を見ていたって事さ」

「はぁ? あんたが空を見てた時なんてあたしが知るわけないじゃない」

「もちろんだよ。あくまでも比喩的なものさ。それはキミでなくてもいい。シンジくんだって、レイだって、他の誰だっていいんだ」

「何よ。なんか引っ掛かるわね、その言い方」

 誰だっていい——なんて十把一絡げに言われたくないわよ。だいたいシンジや優等生と同列にするなんてどういう了見? ——と、不機嫌そうに口を尖らせるアスカに、カヲルは一層笑みを深くした。

「……ぼくの空の向こうにはキミがいたってことかな?」

「何それ。ますます訳解んないじゃない。あんたねぇ、日本語の使い方絶対間違ってるわよ!」

呆れたように放たれた言葉は、それでもとても優しくカヲルの心に響いた。

「ボクはどうやら馬鹿のようだからね」

 

「……あんた、本当にばか?」

 

 

*  *  *

 

 

「と、こ、ろ、で!」

急に声を張り上げてアスカはカヲルに詰め寄った。膝立ちになってカヲルの目前に身を乗り出し、その鼻先に指を突きつけた。

「絶対、変!」

「何がだい?」

「あんたのその態度以外になにがあるってーのよ!」

そう言いながらアスカはカヲルの前髪をかきあげた。

「え?……」

 いきなり前髪をかきあげられたカヲルは、彼には珍しい驚いた声を出す。思わず後退ろうと身を捩れば、鋭い声で怒鳴られた。

「いいからじっとしてなさい!」

 構わずに、アスカは露になったカヲルの額に右手を強く押し当てる。カヲルは反射的に目を閉じた。少し汗ばんだ額に柔らかい感触が吸いつく。そこから安堵が染み込んで、まるで体中の力が抜けていくようだ。

 けれど、アスカの表情はだんだんと険しくなり。

「やっぱり熱があるんじゃないの!」

 怒鳴られた。とりあえず何故こうも体がだるかったのかをようやくカヲルは理解した。

「そうなのかい? それは知らなかった」

 事も無げにのんびり言ってのけるカヲルの額を、アスカは「ばかっ!」と怒鳴り様、返し手でぴしゃりと叩いた。

「だったら学校なんか来ないで寝てなさいよ! 何やってんのよ。夏風はバカしかひかないって言うけど、ホントね!」

「手厳しいね」

「あったりまえでしょ。自己管理ができないヤツを甘やかすほど、あたしは優しくないんだから」

 相手がまともな応対をしないのであれば、実力行使しかない。そう悟るまでもなく、言ってアスカは乱暴にカヲルの腕を掴んだ。

「ほら! 保健室に行くか、病院に行くか、どっちかしなさいよ」

 立ち上がり引き起こそうとして、逆に腕を捕まれた。およそ彼らしくない動作に、アスカは振り返る。

「な、なによ」

 カヲルは無言のまま、狼狽えて身を引こうとするアスカの手を引き、再び自分の額へと押し当てた。自分でも不思議なくらい強引な態度だ。

「ちょっ……!」

 反射的に手を引っ込めようとしたが、重ねられた手は思いのほか力強かった。

「病院よりも、こっちの方がいいよ」

 アスカの顔に朱が走る。

「な、何言ってんのよ。あんた自分が何やってんのか判ってる? この変態!」

「変態は酷いなぁ……さっき君がやってくれたんじゃないのかい?」

「あ、あれはただ単に体温の確認をしただけじゃない! あたしは別に——」

 他意なんかないんだから。口の中でもごもご呟いていたアスカは、やがていかにも不承不承という風に口をとがらせてカヲルの隣に膝をついた。額に捕らえられた手はそのままに。

「こーいうのを、甘えてるっていうのよ」

 空いた左手を、そっとカヲルの手に添えて。

「ほら、これでいいんでしょ?」

 つん、と尖った声はしかし、どこか優しい響きを含んでいた。重なった手のひらから感じる温もりが、ただ愛しかった。

ぶっきらぼうで、その癖とても繊細な優しさが嬉しくて、カヲルはアスカの手を掴む指に力を込めた。

「まったく……高くつくわよ」

 カヲルは僅かに唇を歪めた。

 きっと、今度はもっとマシに笑えたに違いない。

 

「うん。——考えておくよ」

 

Ende

 

--Januar 4, 2015


■By 日下智

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