Promis(捏造未来:ちょっと大人なアスカ&カヲルの話。Rondeの続き)

 

爪を立てた猫

牙を剥いた猫

泣き出しそうな顔で世界を睨んだ猫

とても扱いづらくて、とても狂暴で、とても寂しがりやな猫

毛を逆立てて小さな体を大きく見せようと精一杯の背伸びをしていた猫

差し伸べられた手に横目で睨んで噛み付いた猫

 

でも、その手はまだ猫の前にある……

 

「あっらぁ〜、寝ちゃってるの?」

 

ええ、とカヲルは笑った。

玄関先で腕組みをしたまま、葛城ミサトはカヲルの背中で小さな寝息を立てているアスカを覗き込んだ。

 

「まぁったく気持ちよさそうに寝ちゃってぇ。——ほらアスカ、起きなさい」

 

アスカの肩を軽く揺さぶった。

が、それに逆らうかのようにアスカの手はカヲルのシャツをしっかり掴んで離さない。

 

「起きなさい、アスカ」

「惣流さん、ついたよ」

「うるさぁい!」

 

突然、カヲルの後頭部にアスカの拳が飛んだ。

 

「っ……!? 惣流さ……」

「ばか!」

「え?」

「ばかばかばかぁ。こぉのぉ意気地なしぃ〜ぃい! 誘ったんならねぇ最後までちゃんと誘いなさいよぉ!」

 

叫んだと同時に、肩越しに振り返ろうとしたカヲルの襟首を締め上げた。

 

「ちょ、ちょっと、何やってんのアスカ!」

 

ミサトの慌てた声が聞こえたのか、カヲルの咳き込みが聞こえたのか、ふっとアスカは手を緩めた。そして起き上がった時と同じ唐突さで、ぐったり脱力してカヲルの背中に凭れ込む。

程なく可愛らしい寝息が玄関に響きだした。

 

「……どういうこと?」

 

呆れて首を傾げるミサトに、カヲルは「ははは」と短く笑う。

襟元が縒れて伸びたシャツと、鼻先までずり下がった眼鏡がいっそう情けない。

 

「しょうがないわねー、あいっかわらず寝ぎたないんだから。悪いけど渚くん、アスカを運んでくれる?」

 

なんとなく事情を察したミサトは肩をすくめて、手でカヲルに家に上がるように促した。

 

「布団は……、あ、私の部屋でいいわ。もう敷いてあるから」

 

ごみ袋が幾つも放置された廊下を通って、ビールの空缶が積まれたダイニングを通って、辿り着いたミサトの部屋は確かに布団が敷いてあった。

いや、きっとずっと前から敷いたままになっているのだろう。

薄暗い和室の中央にぽつんと残された布団を囲むように、ごみや雑誌や下着が散乱している。

唖然と立ち尽くしたカヲルにミサトは豪快に笑った。

 

「ちょーっち散らかってるけど気にしないでねー」

「……はぁ」

 

ちょっとという言葉の意味を問いたい気もしたが、ぐっと胸の内に押し込める。

 

「ほら、アスカ。寝るなら布団で寝なさい」

 

アスカは不機嫌そうに唸るだけで動こうとしない。

 

「……また、妙に懐いたものねぇ」

 

カヲルが苦笑する。

 

「いいですよ、ここに寝かせればいいんですね」

「うーん。それじゃあ、お願いできるかしら?」

「ええ」

「じゃ、コーヒーでも入れるわね。ここまで大変だったんでしょう?

——あ、そーだ。渚く〜ん、分かってると思うけどぉ、変なことしちゃダメよ〜。い、い、わ、ね」

 

返答のしようがなくて困ったように笑うカヲルを横目に、にやにやしながらミサトは部屋を出ていった。

意図してかそれとも無意識なの課、律義に細い隙間を残して襖が閉められたのを見て、カヲルはやれやれと思う。

忠告をしながら襖を閉めてどうするというのだろう?

薄暗い部屋の真ん中で、カヲルは小さく溜息を吐いた。

 

「惣流さん、下ろすよ。いいかい?」

 

布団を背後に腰を屈めて、ゆっくりと膝裏を支えていた手を離すと、ずるりとアスカの腰が布団に落ちた。少し身を捩って右手を脇から背中に回し、左手で両足の膝裏を支えて抱きかかえる。首が反り返らぬように心持ち自分の方に引き寄せながら、静かに布団に横たわらせようとした時。

いきなり縛った後髪がおもいっきり下に引っ張られた。

バランスを崩して危うくアスカの上に倒れ込みそうになったのを、咄嗟に突いた右肘と左手で支えた。

反動で飛んだ眼鏡が、ぱさりと布団に落ちた。

 

ふわりと揺れる銀の前髪がアスカの頬を撫でて。

互いの間には、呼気を——肌の暖かさえ感じるほどの距離しかなかった。

 

見ればいつの間にかアスカの手には、しっかりとカヲルの髪が握り締められていた。

 

「——これは……困ったね」

 

さほど困っている風でもなく一人ごちる。

 

遠く聞こえてくるのはミサトの足音。

換気扇の音。

食器が触れ合う音。

微かなアスカの息遣い。

 

カヲルは小さく息を零して、アスカを引き離そうと髪に絡みつく指に手をかけた。

 

そのとき——。

 

「ばか」

 

耳元で響いた声に、さすがのカヲルも瞠目した。

慌てて見下ろすと、細く開いた襖から漏れる光に照らされて揺れる青い瞳にぶつかった。半ば口を開けて黙り込んでしまったカヲルに抗議するように、細い指が髪を引っ張る。

 

「痛いよ、惣流さん」

 

顔を顰めてうめく声には明らかに動揺が混じっていた。不自然な姿勢を支える左手は小さく震えている。今、少しでもバランスを崩してしまったら、否応なく彼女の上に伸し掛かってしまうだろう。

 

「惣流さん……」

 

困惑げな抗議を無視して、なおも髪を引っ張るアスカ。

 

「やめてくれないか」

 

カヲルは幾分うんざりとしたように言うと、強引に引き離そうとアスカの指に手を掛けた。

 

「……ばか」

 

ふいに、ほつりとアスカが呟いた。

 

「あんたもそうやって私を独りにするの?」

 

カヲルはその言葉の意味をはかりかねて瞬きをする。口をついたのは少し間の抜けた言葉。

 

「起きているのかい?」

「答えてよ、——あんたも同じなの?」

 

小さな呟きなのに、どこか強い情感を滲ませた声。真っ直ぐ見つめてくる目は真摯な色が浮かんでいる。

短い沈黙の後、ふっとカヲルは表情を和ませた。

 

「独りは嫌かい?」

「イヤ」

「それは寂しいということ?」

「それもイヤ」

「……キミは独りではないよ」

「嘘。嘘よ。……ママもパパも、加持さんも……、シンジだって……。みんな——。もう、まっぴらよ」

「——そう」

「独りにするんなら……最初から優しくなんかしないでよ」

「…………」

「あんたも同じなの?」

「……何故、ボクなんだい?」

「あんたが私に手を差し伸べたからよ。私はそれを掴んだんだもの。——責任とりなさいよね」

 

まるで子供のように縋りつくアスカの瞳には、はっきりと自分の顔が映っていた。きっと、自分の目にも彼女の姿——不安げに潤む瞳が——映っているのだろう。

 

カヲルはゆっくりと目を細めて、穏やかに微笑んだ。

未だ髪を握り締めたままの細い手を、あやすように柔らかく握りかえす。

 

「……では、こうしよう」

 

それは囁きほどの静かな声。

 

「ボクは、出来うる限りのボクの時間をキミに購うよ……」

「相変わらず、回りくどい言い方ね」

「そうかい?」

「それは、約束?」

「そうだね。キミが望むなら……これは『約束』だ」

 

確かな肯定の笑みを浮かべて肯いた。

 

ふいにカヲルの髪を掴んだアスカの指が緩んだ。はたりと布団に手が落ちるのと、青い瞳が閉じられたのはほとんど同時だった。

カヲルは訝しげに首を傾げた。

 

「惣流さん……?」

 

応えはない。

 

「眠ってしまったのかい?」

 

小さく寝息を立てはじめた口元は、僅かに微笑んでいるようだった。

何気なくアスカの前髪をそっとかきあげてみる。柔らかな髪が指の間を流れて零れる。

微かに鼻孔をくすぐる甘いコロンの香り。剥かれた卵のようにするりとした滑らかな肌。

触れられる事を厭いながら、放っておかれる事にも傷ついて。縋りつく事に安心しながら、拠り所がなくなりはしないかと不安がる。

そうして痛がるココロにまた傷つく……。

 

ほんとうに、触れるのさえ躊躇われるほどに繊細で脆い存在。

そう、カヲルは思った。

 

——だから、これは約束だ。

 

カヲルは見下ろす寝顔にゆっくりと唇を寄せると、そっと、誓いのようにその額に接吻けた。

 

「キミに約束……するよ」

 

Ende

 

--Juni 6, 2015


■By 日下智

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