Ronde(捏造未来 ちょっと大人なアスカ&カヲルの話)

 

 

——Scene:1

 

「ここかい?」

 

呆れるほど派手な電飾に彩られた建物を前に、唖然と渚カヲルは呟いた。

長く伸びた道路沿いには他に建物らしき影もなく、ただオレンジ色の無骨な道路灯だけが点々と続いている。その寂しい一画におよそ場違いと思えるほどの不釣り合いさでソレはあった。

 

「そうよ」

 

道路の脇に停めた車のキーを閉めながら、アスカはさも当然というようにさらりと言い放った。

音高くハイヒールの踵を鳴らしながら歩み寄りカヲルの側に立つ。

 

「何か文句ある?」

 

カヲルは肩を竦めて首を横に振った。

オレンジと黄色に瞬くネオンを見上げて、どうしたものかと少しだけ途方に暮れる。そんなカヲルの内心にお構いなく、アスカはカツンとヒールを一回鳴らすと、腰に手をあてたいつものポーズで振り向いた。

 

「だいたい今、何時だと思ってるのよ。この時間にあいてる所が他にどこかあるってーの?」

「いや、——ないだろうね」

「でしょ。それとも何? このあたしとじゃ不満だとでも言うの?」

「そういうわけではないよ。ただ、こういう所は初めてなんだ」

「へぇ〜、以外ねぇ。あんた見た目は結構遊んでそうなのにねぇ〜」

 

アスカが悪戯っぽい瞳を向ける。その目線をうけてカヲルは苦笑以外の返答を返せなかった。

 

「しかし、キミは本当にいいのかい?」

「このあたしがいいっていうんだから、いいのよ。それに、給料前のあんたの財布の中身ぐらい知ってるわよ。だから『ここ』でいいの」

「……それはどうも」

「じゃあ、ぶつくさ言ってないでさっさと入るのよっ」

 

アスカはそう言うと、乱暴にカヲルの腕を掴んで『牛丼屋』ののれんをくぐった。

 

 

——Scene:2

 

軽快な足音が廊下に響く。

音の主は小脇に分厚いファイルを抱えて、渚カヲルの居室へ続く廊下を大股で歩いていた。

やけに体のラインを強調させたノースリーブのワンピースに身を包み、ワインカラーのハイヒールに彩られた細い足。一歩踏み出すごとに長い金茶の髪が背で揺れた。

十九の誕生日を目前にした彼女——惣流・アスカ・ラングレー。

未だ少女の匂いを残しながら、開花寸前の蕾に似た艶やかさを覗かせる彼女。

5年という年月はゆっくりと少女を育てあげ。そして、彼女はとてもキレイ——になった。

しかし今、大股で廊下を進む彼女に話し掛けようというものはいない。

すれ違う誰もが顔を見たとたん、脅えた表情をを浮べてそそくさと道を譲り。彼女の声を聞いた者はあれは呪いの言葉に違いないと顔を蒼くした。

 

「まったくまったくまったくまったく……」

 

アスカは目的のドアの前で立ち止まり鼻で大きく深呼吸をすると、乱暴に開閉スイッチを叩いた。低い電動音を響かせながらのろのろと開くドア。待ちきれずにおもいきり蹴り飛ばす。

 

「ナギサ!! カヲルっ!!」

 

無駄に広い室内にその大声はいやによく響いた。

部屋の奥でパソコンのモニタを見ながら話し込んでいた渚カヲルと綾波レイが振り向く。

 

「やあ、惣流さん」

 

カヲルは鼻先にずり下がったメガネを指で押し上げ、のんびりと笑った。

室内に踏み入ったアスカは、床に乱雑に散らばる書類を踏みつけながら二人に歩み寄った。

吊り上がった目と引き結んでなお、ふるふる震える唇が怒りの度合いを示している。

 

「あんたっていう奴は!」

「……ぼくはキミに何かしたかな?」

 

噛みつかんばかりの剣幕に、カヲルは不思議そうに小首を傾げた。

 

「これよこれっ!」

 

アスカは叫ぶと同時にカヲルに向かって小脇に挟んでいたファイルを突きつけた。

 

「あんた、何でこのあたしに教えないのよ!」

「何のことだい?」

「そのレポートよっ!」

 

カヲルは訝しげにファイルを手に取り、ぱらぱらと書類に目を通した。

どこかで見たような論文だな、と思い。それが自分の物だとわかると興味なさそうにファイルを閉じる。

 

「これがどうかしたのかい?」

「あたしもそれを研究してたのよ!」

「ああ」

 

怒りに震えるアスカを眺めて、やっと得心がいったらしく鷹揚に頷いた。

 

「どうして教えないのよ。研究内容は重ならないように事前にそれとなく教え合うのが礼儀でしょ!?」

「しかし、これはキミにはあまり縁のない分野のような気がするんだけどね」

「面白そうだからやってみよーかなって思ってたのよ。それをあんたが先にやったおかげで、あたしの題材が一つ減っちゃったじゃないのよ! どーしてくれるのよっ!」

 

どうしてくれると言われても……。

あまりにもあまりといえるへ理屈に、呆れたようにカヲルはしきりに目を瞬かせた。

 

「……それはまた、ずいぶん理不尽な話だねぇ」

 

アスカはぼやくカヲルを鼻息一つで無視をして、次いで矛先をレイに転じる。我関せずとモニタに流れるデータを眺めている彼女を見下ろし、冷ややかに言放つ。

 

「あんた知ってたんでしょ?」

 

レイはゆっくりと頭を起こした。

 

「いいえ、知らないわ。あなたがそれを研究しようと思ってたなんて」

 

あいかわらずの無表情さでアスカの言いがかりをさらりと否定する。少しだけ大人びた顔つきになった分、無表情にも凄みが増した感がする。

しかし、それに怯むアスカでもない。

 

「ともだちなら、こいつの研究内容くらい教えてくれたっていいじゃない」

「どうして?」

「それが友達だからよっ。少しは気を利かせなさいよ。あんた、あのグズの性格が移ったんじゃないの?」

「碇くんはグズじゃないもの」

「そうやってすぐに名前が出てくるってことは、あんたもそー思ってるって証拠なの!」

「思ってないわ」

「思ってるわよ!」

「何故? 私は思っていないわ」

「思ってるったら、思ってるのよっ!」

 

小学生なみの低レベルな言い合いを耳にしながら、カヲルはやれやれと肩を竦めた。

 

「で、惣流さんはぼくにどうしろというんだい?」

 

まるでその台詞を待ってましたとばかり、一分の間を置かずアスカの口元がにやりと上向きに歪んだ。

その顔を間近に見て不信げに眉を顰めるレイに構わず、アスカはわざとらしくくるりとターンを描くと、カヲルに向き直った。

 

「ふっふ〜ん、そうねぇ……」

 

歪んだ口の端に勝ち誇ったような笑みが浮かぶ。

 

「罰として今日の夕飯おごってちょうだい。それで帳消しにしてあげるわ。安いもんでしょ」

 

益々理不尽だ。

カヲルは苦笑する。

 

「それは、かまわないけれど……」

「あ、心配しないで。店はもうピックアップしてあるんだから」

 

そう言ってアスカはにやにや笑いながらポケットからグルメ雑誌の切り抜きを取り出すと、カヲルの目の前でひらひら泳がせた。

 

最初から確信犯か……と諦念を込めて更に苦笑する。

 

「では、キミの仕事が終ったら迎えに来てほしいな」

 

そう言いかけて、ふと思い出したように傍らに立つレイを振り返った。

こういう場合、果たして彼女も誘った方がいいのか、否か。

 

「キミも来るかい?」

「私、行かない」

 

即答が返ってきた。

カヲルは「そう……」、と薄く微笑んだ。

 

「残念だね」

 

レイはそれには答えず、おもむろに机の上に散乱した書類やフロッピーをかき集めると腕に抱えた。カヲルとアスカを交互に見比べて、「じゃ、また後で……」と呟いて踵を返す。

脇を通り過ぎざまにちらりとアスカを一瞥したが、口を開くことなく研究室を後にした。

 

 

——Scene:3

 

アスカの車を見たときから予感はしていた。

どうやら彼女の視界には赤と青しか入らないらしい。急停車、急発進を繰り返す荒い運転に閉口しながら、カヲルは助手席でほぼ一方的に喋るアスカの『ぐち』に大人しく耳を傾けていた。

 

「——全くこれだから日本ってダメなのよね。だってそうでしょ? あたしはとっくに大学なんて卒業しちゃってるのよ? なんで今更日本の大学なんかに入り直す必要があるのよ。時間の無駄じゃない。それなのにあいつら、このあたしに向かってなんて言ったと思う? 『海外の大学卒業は実績に入らない』ですってぇ!? ばっかじゃないの。だいたい日本の大学ってお金がないんでしょ? そんなんじゃロクな研究なんかできないじゃないの。なーんで、このあたしがそんな所に行かなくちゃいけないのよ!?」

「何故、松代に行かなかったんだい? 誘われたのではないのかい?」

「行きたくないから行かないだけよ。ここでも不自由はないんだし。だけど、こう度々レポートを出さなくちゃいけないなんて誤算だったわ、あ〜あ性に合わないなぁ」

「キミはよくやっていると思うよ」

「そう言うあんたはどうなのよ」

「どう、とは?」

「いつまであんなつまんない研究やるつもりなのかって聞いてるの。形而上生物学なんて今更流行らないわよ? もっとぱっと派手なのじゃないと世間は見てくれないんだから」

 

正直なアスカの問いかけに、カヲルはふっと口を閉じた。

ややあってぽつりとこぼす。

 

「いいんだよ。……ぼくにとって世間はあまり意味のないものだからね」

「ちょっと、それ私に対する厭味?」

 

アスカの声に僅かな剣呑さが混ざる。

カヲルはゆるやかに首を左右に振り、仄かな笑みを浮かべた。

 

「それは違うよ、惣流さん。——世間よりも大切なものがあるってことさ。だからボクはあそこにいる」

「なによ、それ」

 

カヲルは静かに笑ったまま答えなかった。

 

「あいっかわらず食えない男」

 

 

——Scene:4

 

深夜だからか、それとも店が流行らないのか、客はアスカとカヲルの二人だけだった。店員は、『牛丼特盛 卵付き』を置いたっきり、厨房の奥に引っ込んだまま出てこない。

微かに流れてくる深夜ラジオがBGM代わりだ。

 

「ちょっとぉ……。なにしてんのよ、あんた」

 

アスカは眉間に皺を寄せて、さも厭そうに言った。

首を傾げるカヲルに、割り箸で手元を指す。

実際、カヲルの丼は牛丼と言うには程遠い代物と化していた。手順は手慣れたものだったから、きっといつもこうやって食べているんだろう。丼の中央に穿った穴に生卵を割り入れ、底を掬い上げるようにかき混ぜる。その上、ご飯と卵と肉としらたきと煮崩れかかった葱がそれこそ渾然一体と同化するまで練り続けるのはどうだろう。卵が泡立とうが、飯粒が崩れようが、葱が溶けようが、肉が分解しようがお構い無しだ。

卵と汁の混ざる粘つく異音がアスカの耳を打つ。

そこに出来上がったのは、得体のしれない物体で満たされた、匂いだけ牛丼。

 

「まるで……まるで……」

「ああ、それ以上は言わなくていいよ。キミの言いたい事は大体想像つくからね。お互いの食欲の為にその言葉は口にしない方が懸命だ」

「分ってるんならどーにかしなさいよ、気色悪い!」

「そうかい? 少なくともキミの食べ方よりは、まだ理に叶っていると思うけど?」

「どうしてよ」

 

頬を膨らましたまま、アスカは自分の丼を見た。

 

黒い。

ひたすら黒い。

しらたきも肉もご飯も黒々と艶光している。

備え付けのソースを手に取り、嬉々として牛丼の表面をそれこそ真っ黒になるまでまわしかけた結果の産物。丼の底までソースで溢れている。

既に牛丼の味はどこへやらという感じだ。

 

「ミサトはいつもこうやってたわよ。牛丼はこうやって食べるもんだって」

「——ああ、葛城さん、ね……なるほど」

「なに納得してんのよ。失礼な奴」

 

 

——Scene:5

 

「——ねえ。今日、レイの様子、おかしかったでしょ」

 

ぼそりとアスカが言った。

 

「さあ? ぼくにはわからなかったけれど?」

 

首を傾げるカヲルに、呆れたとでも言うように首を振る。

 

「はんっ。これだから男ってーのは……。一緒に仕事してるくせにどうして気づかないのかしら? あんたには判んなくてもあたしには判るのよ」

 

カヲルは軽く笑って、「すると」、と呟いた。

 

「キミは彼女の不調の原因はいったい何だというんだい?」

「そんなの決まってるじゃない、——あの馬鹿よ」

 

カヲルの眼前に人差し指を突き立てて、きっぱりと言い切る。

 

「シンジくんか……」

 

アスカは大袈裟に肯いた。

 

「レイに問いただしたら、あいつから一回も電話がかかってこないっていうじゃない?

信じらんない。あいつは一人で旅行に行ってんのよ。レイを置いて。そうしたら普通は心配して電話ぐらいするのがじょーしきでしょ!?」

「しかし旅行といっても理由は明白だし、出かけたのは昨日、不在にする日数はたったの一日。気にするような長さではないと思うけど」

「馬鹿ね、その一日が問題なんじゃないの。少しは女心ってもんを勉強したらどうなのよ!」

 

軽く握った拳でカヲルの肩を叩く。

 

「いい? そのぼけぼけっとした頭に、よぉく叩き込んでおきなさい。

仮にもね、つき合ってるんなら、「いつも相手の事を気にかけてます」、っていう姿勢くらい見せるのが当然でしょ? 何してるかな、とか。こっちはどうだ、とか。

とにかく電話の一本くらい入れるのが礼儀ってもんじゃない。どーせレイなんかあの調子でしょ、『電話してね』なんて言うわけないんだから。

あいつが気を配らなきゃ誰が配るっていうのよ! 全く、どうして男ってそのあたりに気付かないのかしら。あーあ、加持さんみたいな男っていないものね…。

——って、ちょっと聞いてんのあんたっ!」

「もちろん聞いてるよ、惣流さん」

 

湯呑みにセルフサービスのお茶を注ぎながら、カヲルは顔を上げてやんわりと笑う。

 

「あんたも少しはシンジに何か言ってやったらどうなのよ。ほんとにもう、ぼやぁ〜としたとこまでそっくりなんだから!」

「そうだねぇ——しかし、あのシンジくんがそのあたりに気づくとも思えないんだけどね」

 

カヲルは至極のんびりとそう言った。

ふいに、はたとアスカの動きが止まった。

きょとんと目を見開いて黙考する事、数秒。次いでぷっと小さく吹き出した。

 

「鋭いわね。あたしもそー思うわ」

 

一頻り笑った後、お茶を啜りながらアスカはほっと息を零した。

 

「ファーストも物好きよね。女を不安にさせる男なんてサイッテー」

「電話のない事が不安につながる?」

「そんなの決ってるじゃない、どこで何やってんだかわっかんないんだから」

 

湯呑みに視線を落としていたカヲルは僅かに顔を上げた。

 

「それは——」

 

おもむろに口元に手をやり、そのまま浅い思惟に沈む。

眉間に僅かに皺を寄せ、薄赤い瞳が心なしか細くなるのは彼が考え込むときのクセだ。

 

「それは、つまり互いに信用をしていないということだろうか?」

 

しばらくの沈黙の後。

 

「それは違うわね」

 

真っ直ぐにカヲルを見据えて、アスカは断言した。

 

「お互いの距離を縮めるための必要な努力よ」

「そういう態度を示さなければお互いは解かり合えないということかい?」

「解かり合う為の姿勢なのよ。黙っていても相手が理解できるなんて、そんなのただの思い上がりだわ」

 

ぴしゃりと言い放った彼女の横顔を眺めて、カヲルは小さく頷いた。

 

「恋愛してる連中が『何も言わなくても心が通じてる』って言うけど、あたしに言わせればちゃんちゃら可笑しいわね。そんなの解ってるつもりになってるだけじゃない」

「察しと思い遣り、というのも大切だろう?」

「それが甘えてるっていうの」

 

微かにカヲルは苦笑する。

 

「そりゃあ察し合うのもいいわよ。黙っていても何となく相手の気持ちが解かる事だってあると思うわよ。

でもね時にははっきり示す事も必要なの。それが恋愛ならなおさらよ」

「そう……」

「大体、そう言ってる奴に限って、関係が壊れたときには決まってこう言うのよ『あの人の考えてる事が解らなくなった』って。——馬鹿よねぇ、最初から解ってなかっただけじゃない」

「そう……」

「結局はただの錯覚。単なる自己満足でしかないわね」

「——そう」

「自分で何もしないで解って欲しいなんて、そんなのただ相手の心に寄りかかってるだけじゃないの」

 

言って、アスカはぬるくなったお茶を一気に飲み干した。

 

——聞いた風な事言ってる……。

 

大口で演説しておきながら、自分の顔には自嘲の笑が浮かんでいるのが判る。

そっと横目で伺ったカヲルは、また考え込んでいるのか黙って湯呑みを眺めていた。

 

——何でコイツにこんなことぺらぺら喋ってるんだろう。

 

思うに、渚カヲルと話をするのは嫌いではない。

感情の起伏が少ない彼は物事に対して殊更感情的に大声で反論する事もなければ、逆に軽々しく迎合する事もない。

人を食ったような物言いで逸らかされる事も多かったが、少なくとも無知で退屈な男ではなかった。

放り投げたボールはどんな形であれ必ずキャッチされた。

 

ようするに話をしていて『楽しい』ってこと……?

 

——だからコイツを誘うの?

 

違うわよ、と心の中で頭を振る。振りながらに本当に? と響く声に気づく。

百歩譲ってそうだとして、恋愛云々などとカヲルに話してどうするというんだろう。どんな答えを期待して言っているんだろう。

 

——期待って、なによそれ。

——こんな朴念仁に言ったってしょうがないじゃい。

——変よ、あたし……。

 

目だけを動かしてそっと隣を伺う。

いつの間に顔をあげたのだろう、じっとこちらを見つめている赤い瞳と目が合ってびくりと肩が震えた。動揺が指先まで走り、掴んでいた湯呑みがチンと音を立てた。

 

「あっ……」

 

慌てて顔を背ける。

耳が熱い。

これは店の空調が悪いせい。

動揺なんかしていない。このあたしがするはずがない。

 

——何でこのあたしがっ……!

 

顔を背けてもカヲルの視線を痛いほど感じる。

何かを言わなければいけない——この沈黙は不自然だから———だから、噛み締めた唇を無理矢理こじ開け、上ずりそうになる声を抑えて。

 

「だ、だから、レイはずっと——」

 

言いかけてアスカは気がついた。

 

——あたし、レイに託けてる……?

 

「……ヒトはどこまでいっても他人でしかない」

 

カヲルの声にアスカは我に返った。

 

「互いに理解しあう為にはまず互いが他人であると認めあわねばならない。そういう事だね?」

 

覗き込まれるように見つめられて、アスカは思わず反射的に仰け反ってしまった。

その動作にカヲルの顔に少し吃驚したような表情が浮かび、やがてそれは苦笑に変わった。

 

「だから、『言葉』や『行動』は互いが他人であるという事実を再認識させ、理解しようとする『ココロ』を促す?」

 

ひどく静かな声は、まるで独り言のようだ。

 

そして——。

 

「……では、キミは?」

「え?」

 

一瞬の沈黙。

カヲルはにっこりといつもの笑顔で笑うと、やおら椅子を鳴らして立ち上がった。その動きを、アスカは視線で追う。

 

「あ、あたしが何だっていうのよ」

「いや……。そろそろ帰ろう。随分遅くなってしまったからね」

 

曖昧な笑みを残して、カヲルはテーブルの上の伝票を掴むとすたすたレジの方へ歩いてゆく。

 

「ちょ、ちょっと! 待ちなさいよ!」

 

アスカはショルダーバックを掴んで、慌ててその後を追った。

 

 

——Scene:6

 

店員の挨拶を背後に店の外に出ると、車道を眺めてぼんやり突っ立っているカヲルがいた。

カヲルの背中越しに車道を伺ったアスカは一瞬にして現実にかえった。ほてった頭が一気に冷めてゆく。早鐘のようであった動悸が、今度は別の意味で大きく跳ね上がった。

 

「ちょっと、うっそぉー!?」

 

愛車が止めてあったはずの道路に書かれたチョークの文字を読んで叫ぶ。

 

「レッカー移動されてしまったようだね」

「んなこと、見ればわかるわよっ!!」

 

のほほんと言うカヲルに怒鳴るのは単なる八つ当たりだ。

 

「何よ、ちょっと止めてただけじゃない。だいたいこんな時間にこんな寂れた所で車通りなんてあるはずないじゃないの。どーしてこう日本の警察ってマヌケなの!? 時と場合を選んで仕事しなさいよ! 信じらんないっ!」

 

駐車禁止の標識の真下に車を止めていた自分の所業を無視した怒りを爆発させる。

 

「このあたしに歩いて帰れってーの!?」

 

苛立たしげに道路を思いっきり蹴り上げた。

どこまでも続きそうな長い道路を延々歩く事を思うだけでげんなりする。

がっくり肩を落とした姿を見て、カヲルは小さく笑った。それをアスカは下から見上げるように睨めつける。

 

「タクシーを呼ぶかい?」

「いいわよ、歩いて帰るから。ここからならミサトの所が近いし、泊めてもらうわ」

「では、送るよ」

「あったりまえでしょ。こんな美女を真夜中に一人にするなんて犯罪の手助けをしてるようなもんだわ」

 

そう言って踏ん反り返った身体が、けれど思わぬ夜風の冷たさにぶるっと小さく震えた。

一年中夏の気候とはいえ、時期によっては夜中はかなり涼しくなる事もある。薄いノースリーブのワンピース一枚では少々薄着すぎるとかもしれない。

徐にカヲルはジャケット脱ぐと、黙ってアスカの両肩に羽織らせた。

アスカは驚いてジャケットとカヲルを見比べると、次いでふふんと鼻で笑う。

 

「いい心がけね」

 

袖を通すと、肩がずりおち袖は手のひら一つ分長く余った。麻混のジャケットはその大きさに見合った分の重さを感じる。

見た目は華奢そうな男なのに——、と思う。

アスカは改めてカヲルをしげしげと見つめた。

 

背はずいぶん伸びた。もう見上げなければ目を合わせることもできなくなった。相変わらずの痩身に、すらりと長く伸びた手足。

綺麗な薄赤い瞳は、いつの頃か眼鏡の小さなガラスごしにしか見る事が出来なくなったけれど。

その理由については何も問わず、似合わない訳でもないので黙っている。時々鬱陶しそうにしているのが可笑しかった。

縛っていても明らかに不精だと分かる野放しっぱなしの髪。

どうでもいいようなシャツとズボンと、薄汚れた白衣が彼の制服だ。

端麗なのは顔ばかり。

知り合った頃はこんなに自身に関して無頓着な男とは知らなかった。

少し猫背気味の姿勢にどこか飄々とした雰囲気を纏わりつかせた、掴みどころの無い青年。

 

だけれど、——何一つ変わらない奴。

容姿がどうなろうとも、渚カヲルという人物は変わりようがなかった。

人を食ったような物言いも、起伏の少ない感情も、静かな微笑みも……。

彼は変わらず『渚カヲル』としてアスカの目の前にいた。

いつでもアスカの手の届く所に——もうずっと前から差し伸べられた手はそこにあった。

 

それを掴むか否かの選択権はアスカにある。

 

カレはただ、拒まず、笑っているだろう。

 

 

——Scene:7

 

「そうだ」

 

とぼとぼ歩いていたアスカは急に声を上げて、カヲルを振り返った。

 

「何だい?」

「あんたねぇ、何でレイを誘うのよ」

「彼女もあの場にいたからね。いけなかったかい?」

「馬鹿ね、あんたも知ってるでしょ、今日はシンジが帰ってくんのよ、少しは遠慮ってもんがないの? まったく顔は良いくせに、こーいうことはそこらの男と同レベルなんだから」

「それは褒め言葉ととったほうがいいのかな?」

「あんた馬鹿ぁ!? どこが褒めてるってーのよ!」

 

怒鳴って振り上げたショルダーバックは、難なくカヲルに受け止められた。

 

「あいかわらず口と手が同時だね」

「うるっさいわね! よけーなお世話よっ!」

 

カヲルの手からバックをもぎ取る。

 

「……キミは“本当は”優しいんだね」

 

その唐突な言葉にアスカは眉をよせた。聞きようによっては非常に失礼な事を言われたような気がする。

 

「はぁ? あのねぇ、あたしは“前”から優しいの!」

「ああ失礼——。そうだったんだ?」

「なぁーんですってぇ!? きぃいいっ! ホント、あんたって嫌なヤツ!!」

 

 

——Scene:8

 

両側に低い雑木林が広がる道路はすれ違う車もほとんどなく、ただカヲルとアスカの靴音だけが辺りに響いていた。時折、木々の切れ間に遠くぼんやりと夜に溶けかかった街の灯が見える。

 

「……疲れた」

 

呟いてアスカは立ち止まった。脹脛をさすって溜息を吐く。

 

「もうっ、こんなことになるんならヒールなんて履いてくるんじゃなかった。どこかに休むとこないの〜?」

 

自ら歩くといいながら、未だ十五分程しか経っていない。

カヲルは肩を竦めた。

むくれるアスカを見やって、ふと彼女の背後にある看板に気づく。『徒歩70M』と描かれた大きな矢印の指し示す方に首を巡らすと、少し行った先に雑木林の木立に隠れて建物の一部が見えた。

 

「給料前のボクの財布では“宿泊”はムリだけど“休憩”ならできそうだよ」

 

アスカは首を傾げた。

いぶかしげに顔を上げ、親指で示された方を見る。見開いた目に明るいピンクのネオンと一緒に飛び込んできたのは、『HOTEL』の文字。

振り返った先、カヲルがにっこり微笑んだ。

アスカはうっと唸って身をひいた。

 

「ああああんたっ! いいい意味解って言ってるわけぇ? それ!?」

 

吃りながら上げた頓狂な声にカヲルは応えず、ただにこにこするばかりだ。

アスカは慌てて顔の前で手を振った。

 

「だ、大丈夫よ! 疲れてなんかないわ! このあたしがたかがこれくらいで疲れるはずないでしょっ!」

「そう、……それは残念だね」

 

カヲルはさらりと言った。

 

——残念って……。

 

アスカは唖然とした。

笑顔を崩さないカヲルの真意がどこにあるのか、意図をはかりかねて絶句する。馬鹿みたいに口を開けてただただカヲルの顔を眺めていた。

 

——なんなの……?

 

鼓動が早い。駆け上がる脈拍に体が震える。

 

くすっ、とカヲルの喉が笑った。

 

「歩けるかい?」

 

思わず反射的にアスカは頷いた。

 

「では行こうか。——ああ、もちろん葛城さんの所へ」

 

そう言うと、何事もなかったかのように再びカヲルは歩き出した。

アスカは茫然と立ち止まっていた。

離れていくカヲルの背中。

それを眺める自分……。

 

唇が震えて。

 

「……ばか」

 

小さな呟きが零れた。その青い瞳はどこか泣き出しそうに歪んでいた。

 

街灯に映し出される影を見ながら、アスカはカヲルの左隣を半歩下がって歩く。無言のままカヲルの足音だけを聞いていた。

ピンクのネオンが輝く建物の前にきても、カヲルの歩調は変わらなかった。アスカを振り返る事もなく、また何の躊躇いもなく通り過ぎてしまった。

緊張に背中を強ばらせ、バックの紐をきつく握り締めて、馬鹿みたいに意識していたのは自分だけ。

ただからかわれた?

そうなのかもしれない、何故なら渚カヲルのココロなど昔から判りはしないのだから。

判っているようなつもりになっていただけなのだから。

 

けれど——。

 

顔が熱い。

耳が熱い。

体が熱い。

 

ついさっきまで冷たく感じていた夜風にさえ、何の慰めにもならないくらい体が熱い。

歩く度、肩に腕に足に纏わりつくジャケットがカヲルの物であるという事実が意識を支配して、そう考えるだけで胸が疼く。

まるでカヲル自身に包まれているような、そんな愚かな錯覚を抱きく自分を馬鹿みたいと思う。

耳障りなのは自分の鼓動。

右手は置き所が無くて、しきりに掌を握ったり開いたりを繰り返した。

 

——何やってんだろう、あたし。

 

理由にならない理由で夕飯を奢れと言ったのは自分、わざと郊外の牛丼屋に誘ったのも自分。

そしてこうやって並んで歩くと言ったのも自分。

 

——どうして……?

 

理不尽だってわかってるはず。

単なるあたしのバカなわがままだって知ってるはず。

 

——なのに、なんにも言わない……。

 

あきれてる?

見透かされてる?

だから、からかわれるわけ?

 

——でも……。

 

「——流さん、惣流さん……惣流さん?」

 

呼びかけられて鼓動が一際大きく鳴った。慌てて顔を上げると、立ち止まって訝しげに振り返るカヲルと目が合った。

 

「なな何よ」

「さっきから黙っているね。どうかした?」

 

カヲルが一歩、アスカへと足を踏み出した。

 

「何でもないわ」

 

アスカが一歩、退く。

 

「惣流、さん——?」

 

差し伸べてくる大きな手から逃れるように身を反らし。

 

「何でもないわよっ!」

 

カヲルは「でも」、と言いかけて困ったように顔を曇らせた。

 

「何でもないったらっ!!」

 

叫ぶと同時に、身内で何かが砕ける音を聞いた。

アスカは愕然とする。

もうずいぶん昔、こうやって道端で叫んだ事があったような気がする。

その時はもっと酷い言葉でこいつを罵って、貶めて。傷つけて——今と同じように、伸べてくる優しい手を振り払った。

 

——全然変わってない、あたし。

 

立ち尽くしたアスカの頭は重力に逆らえずしな垂れてゆく。唇を噛み締めた口元は自嘲の笑みで歪んでいた。

 

「惣流さん」

 

頭上に落ちる気遣わしげな声。

 

「あたし……」

 

——解って欲しいって思っているのは、たぶん——自分。

——あたし、コイツの心に頬杖をついているんだ……。

——だってコイツの手は……、ずっと前からココにあるんだって、知ってるから。

——だから、甘えてるの。

——この手が自分の物だって、最初から判っているから。

——あたしがコイツに何かを伝えた事があっただろうか……?

 

『では、キミは——?』

 

——アタシは……。

 

体の内側でで、意地が——強がりが——砕けた。

 

アスカはゆっくりと喉に詰まった空気を吐き出した。

肩で呼吸を整えて、おもむろに両手を首筋にまわすと、靡かせるように髪を掻きあげた。長い金色がかった栗色の髪が風に流れて舞う。街灯の明かりの中で髪は光の粒を零しながらきらきらと輝いていた。

小さく息を吸い込んで、スッと顔を上げ。

僅かに頬を上気させ。

精一杯大人ぶった笑みで飾る。

 

「ねえ、歩き疲れたらおぶってよ。……昔みたいに」

 

ほんの少し甘えを忍ばせた声。じっとカヲルを見つめる潤んだ青い瞳。

カヲルは一瞬、戸惑った顔をして数度目を瞬かせたが、やがて薄っすらと微笑んだ。

 

「……もちろん、構わないさ」

 

そう言ってくれると信じて、それが裏切られない事に、満たされる。

 

「ああ、でも髪を引っ張るのだけは勘弁してくれないかな。あれはずいぶんと痛いのでね」

 

微笑んでくれるのが嬉しい。

この赤い瞳は、どうしてこんなに優しい色をしているんだろう。

 

躊躇いなく手を伸ばし、初めて自らの意志で触れたカヲルの手。

すらりと歪みなく伸びた腕に両腕を絡め、寄り添うように縋りつく。肩口に頬を寄せると、少しばかりの薬品の匂いと、お醤油の匂い。そして、風舞う草原のような香りが鼻孔に満ちて胸が温かくなる。

渚カヲルの存在を、肌で、香りで感じる事で、こんなにも満たされるなんて知らなかった。

 

「考えとくわ……」

 

そうしてアスカは幸福そうに微笑み返した。

 

 

<< END >>

 

 

--Maerz 6, 2015


■By 日下智

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