天上音階

 

惣流・アスカ・ラングレー

 

セカンドチルドレン

 

彼女に対する最初の見解

 

『極めて非友好的、もしくは攻撃的』

 

そこに内在するモノ

 

他者に対する恐怖と執着

 

自己に対する嫌悪と偏愛

 

ボクに対する敵意と——憎悪

 

「けれど」

 

「彼女は自らを押し潰しながら生きているように見えた……」

 

 

 

渚カヲル

 

フィフスチルドレン

 

あいつに対する最初の印象

 

『いけ好かないヤツ』

 

あいつは

 

シンジと同じ感じがする

 

ファーストと同じ臭いがする

 

だから、キライ——大っ嫌い

 

「でも」

 

「あいつは自分を突き放して生きているように見えた……」

 

——第一楽章

 

「んもうっ! 不良品なんじゃないの、あの靴」

 

踊り場にへたり込んだアスカは、階段の途中にころがる靴を見て頬を膨らませた。

滑った、と思った次の瞬間にはもう遅くて、受け身を取る間もなく階段を転げ落ちていた。たかだか三、四段とはいえ随分と派手に落ちたらしい、足も腰も鈍い痛みに痺れている。

大した失態だわ、と舌打ちする。

幸いなのはその場面に立ち合う者がいなかったことだ。無様な姿を曝さず済んだことに、アスカは心底ほっと息をついた。

 

その時。

 

「大丈夫かい?」

 

ふいに頭上から降ってきた声にアスカはぎくりとして顔を上げた。

声の主を確認するや、その顔は不機嫌も露に顰められる。

 

「……見てたの、あんた」

 

——渚、カヲル。

 

睨みつけた視線の先には、彼女が最も会いたくなかった人物が立っていた。

 

「いや、残念なことに事故の瞬間には立ち合えなかったよ」

 

アスカの顔がさらに険しくなる。

 

「何の用なのよ。シンジならいないわよ、あいつ今日はさっさと帰ったんだから」

「シンジくんが早く帰ったのは知ってるよ。ぼくは週番日誌を職員室に持っていくところなんだけどね」

 

そう言って、カヲルは小脇に持った週番日誌を見せながら階段を降りると、アスカの傍らに膝をついた。

アスカの上半身がびくりと跳ね上がる。「な、何よ。来ないでよ」、嫌悪も露にカヲルを避けて身を捩った。

露骨な態度に表情を変えずに、カヲルはアスカの右足首に触れようと手を伸ばす。

途端、その手は乱暴に払いのけられた。

 

「触らないで!」

 

叩き返された手を見やって、カヲルは小さく嘆息した。

 

「かなり腫れているようだよ? 捻挫をしているかもしれない」

「よけいなお世話よ! あんたに関係ないでしょ!」

 

大きく頭を振って、アスカは叫んだ。

 

「いいから、あっちに行ってよ!」

 

できることなら今すぐにでもこの男を振りきって、この場を去りたかった。しかしカヲルに言われるまでもなく、赤く腫れ上がった足首は少し動かしただけで鋭い痛みが走る。歩く事は愚か、立つのだって今は辛いだろう。

忌々しげに顔を顰めて、アスカは唇を噛みしめた。

 

「つかまって、保健室まで連れて行くよ」

 

言われて反射的に見返すと、かがみこみ背中を向けるカヲルがいた。どうやら『おんぶ』の姿勢をしているらしい。肩越しに振り向いた顔が穏やかに微笑んでいる。

アスカは一瞬唖然として、次いで体の奥底から怒りに似た感情が沸き上がってくるのを覚えた。

 

——なんで微笑うのよ。

 

そもそも渚カヲルという男は出会ったその日から気に食わなかった。理由はいろいろある——。とりわけ、この薄笑いが一番気に食わない。他人は、上っ面だけを見て優しそうだとか穏やかそうだと言う。

でも、あたしは騙されない。

あたしには判る。

あたしは知っている。

——だって、こいつは!

 

「いいからほっといて!」

「しかし、この足では立てそうにないよ。立てなければ保健室はおろか家にも帰れないだろう? さあつかまって。——どうぞ」

「うるさいっ! あんたなんかの手を借りるくらいなら、死んだほうがましよっ!」

 

叫んでアスカは憤然と立ち上がった。腫れあがった足首が悲鳴をあげるのを懸命に堪えて歯を食いしばる。

 

「どきなさいよっ!」

 

強引に足を踏み出そうとした時、痛みが足先から背中を突き抜けた。堪えきれず、かくんと膝の力が抜けて前のめりになる。転ぶ——、と思った体を受け止めたのは、カヲルの背中だった。

カヲルはそのままアスカの両方の膝裏に手を回すと、軽々と背負って立上がった。

何事が起こったのかと、ほんの数秒呆気に取られていたアスカだったが、すぐに我に返ると烈火のごとく怒りだした。

 

「ちょっと……! おろしなさいよ! 自分で歩けるって言ってるでしょ、よけいなことしないでよ!」

 

カヲルの後ろ髪を乱暴に引っつかみ、耳元でがなり立てる。

 

「痛いよ、惣流さん」

「あたりまえでしょ、痛いようにやってるんだから! いいから降ろしてよっ」

「あんまり大声をだすと、それこそ人がくるんじゃないかい?」

 

その言葉にアスカは慌てて口を抑えた。素早く辺りに視線を走らせる。

 

「——誰もいないよ」

 

くすりと、小さく笑う声がする。かっと、アスカの頭に血が上った。殴りつけたい衝動を堪えて、ぐっと手を握り締める。そんな彼女の内心を知ってか知らずか、カヲルは穏やかに言った。

 

「保健室に行ってもいいだろうか?」

「……か、勝手にしなさいよ!」

 

叫ぶその顔は、不本意極まりないといった表情に歪んでいた。

 

 

 

——第二楽章

 

昼間の暑さがうそのように涼しい夕刻だった。

傾いた斜陽がビルの合間に横たわり、けだるげに揺らめいている。

時折、気まぐれな風が街路樹を揺らし、金色の木漏れ日を振りまく。日暮れが近いせいか蝉の声もか細い。人通りの途絶えた静かな道をカヲルとアスカは並んで歩いていた。

端から見れば、穏やかな夕刻のありふれた下校風景に見えたかもしれない。

しかし当のアスカは湧き上る不愉快さに顔を歪ませ、包帯でぐるぐる巻きになった右足を庇いながら懸命に歩いていた。その左手はカヲルの右肩——正確にはシャツを掴んでいた。

これは酷いね——と応急手当をした保健医は言った。

ついでにカヲルに向かって、責任を持って送ってあげなさい——と、余計な事まで言ってくれた。

もちろん独りで歩くつもりだった。けれど校門まで歩いているうちに、支えもなしに独りで歩くのは無理だと悟らざるを得なかった。そして、その事実はよけいに彼女を苛つかせた。

 

「ちょっと、止まって」

 

アスカは大きく息をつくと、汗で首筋に張りついた髪を鬱陶しそうにかき上げた。荒い息を整える顔は薄っすらと汗ばみ、桜色に上気している。

 

「やはりぼくが背負って行った方がいいのではないかい?」

「うるさいわね、いいって言ってるでしょ」

 

カヲル言葉を、苛ただしげに遮る。

 

「……まったく、こういう時に限ってシンジのヤツいないんだから」

 

それはアスカ自身全く意識して言ったものではなかった。いつもの通り、何気なく零れた単なる愚痴だったが、ふとカヲルは首を傾げた。

 

「きみは、シンジくんに送ってもらおうとしたのかい?」

「別にそんなんじゃないわよ。あんな役立たず、はなっからあてになんかしてないわよ」

「では、何故シンジくんの名前がでるんだい? ぼくには彼をあてにしての言葉に聞こえたけど?」

「違うって言ってるでしょ! 変なこと言わないでよ。 あたしは誰も頼ったことなんかないわ。シンジも誰もねっ。まして誰があんたなんか……!」

「そう……?」

 

カヲルは静かに呟いた。おもむろにポケットに手を収めると、ゆっくりとアスカに向き直る。相変わらず口元は微かに笑っていたが、紅の瞳はそうではなかった。

 

「……きみは何事も一人で対処をしようとするね。失礼だが、ぼくには、きみはその言動に反していつも誰かが手助けしてくれることを望んでいるように見えるよ?」

「……なん……ですって……?」

 

静かな声だ。——穏やかとさえ思える声だった。しかし、アスカにとってそれは鋭くささくれ立った楔にも等しかった。

深く突き刺さり、ゆっくりと彼女の深部を侵食してゆく見えない棘のよう——。

腹の底でとぐろを巻いた怒りが、その鎌首をゆるりと擡げた。

アスカは息を詰まらせた。凍りついたように固まった身体が小刻みに震え出す。その顔は怒気をはらんで赤く染まり、噛みしめた奥歯がギリリと異音をたてる。きつく握り締めた拳は白く変色し、睨みつける瞳は真っ青な炎のようだった。

カヲルは正面から真っ直ぐにアスカを見据えて、言葉を続けた。

 

「キミは他人を信用していないのかい? ああ、——それとも他人が怖いのだろうか」

 

——何言ってるのこいつ。何、知った風な事言ってるの!?

 

「他者を畏怖するのはヒトの質だ。恥じ入る事ではないよ。しかし、ヒトは己を理解してほしいと望みながら自らの心内を晒す事を厭うのは何故……? そのくせ理解されないと落胆するのは何故?」

 

——うるさいっ。黙れ。

 

「きみはいつも自己を誇示しているが、実際は誰にも心を許していない。そのくせ他者に固執する。——いや、他者の自分に対する反応と言った方がいいかな?」

 

——うるさいっ!

 

「自分を開く事と誇示する事では大きく意味は違うだろう? ——しかもきみの行動はとても攻撃的に見えるね」

 

——うるさい

 

——うるさいっっ

 

「それでは他人がきみを理解する前に感情によって阻害されてしまうよ」

 

——この男はキライ。

 

——あの赤い瞳がキライ。

 

「そうやってきみ自身が他人の理解を拒んでいるのに、それでも他人を望むのかい?」

「うるさいっ!」

 

——見透かされているような……心を覗かれてるような錯覚を起こす瞳。

——あのとき、無残に暴かれた記憶。

——再び心の奥底に閉じ込めて厳重に封をした『それ』を呼び覚まされる。

——理性で押し留めようとして、

 

「……きみも気づいているんだろう?」

 

そして、その過敏な神経に無遠慮に爪を立てられて、感情が爆発する。

 

「——っ 」

 

振り上げた手が、カヲルの頬を激しく打った。銀色に近い色素の薄い髪が波を描いて舞う。

 

「あんたなんか……あんたなんか……大っ嫌い  そうやって見透かしたような顔して、人の心に土足で踏み込んで!」

 

振り上げた拳も、叫び出した心も止まらなかった。もう——止めようがなかった。

 

「あたしは誰も頼らないし、なんでも独りでできるの! なんであんたにそんなこと言われなくちゃいけないのよ! 知った風なこと言って。あんたなんかに何がわかるっていうのよ!」

 

そう叫んだのは本心だったのか、勢いだったのか——。少なくとも、包み隠さない感情の吐露だったことは確かだ。ずっと心の奥底に澱のようにこびりついていたカヲルに対する不快と不信と疑念、それに相反する理性のぶつかりが起こした巨大な摩擦。いずれ起こさねばならない爆発だった。

そして、火種に油を注いだのは、他ならぬカヲル自身だ。

 

「同じよ、あんたもファーストやシンジと同じ! そうやって笑いながら本当はバカにしてるんでしょ 」

 

道路を激しい怒りを宿した蒼い瞳は道路を睨みつけ、口は苛烈な言葉を並べ立てる。

 

「なによ……っ。知ってるわよ、あんたが何モノかって。人間じゃないくせに。ヒトのふりをしてるだけの人形のくせにっ!」

 

「……それで?」

 

——……!

 

静かな声が耳に届いて、アスカは我に返った。

 

——あ……たし……。

 

——何を?

 

のろのろと首をもたげ見上げたカヲルの頬に薄く赤い痣ができているのはどうして?

掌に残るこの痺れた痛みはなんだろう?

なんだか、ずいぶん昔に同じ事があったような気がする。

赤く充血している己の掌とカヲルの頬を見比べて、やっと自分が何をしたのか理解する。急速に感情が冷めてゆく。理性が警鐘をうつと同時に、心に小波がたった。

 

「あ、あたし……」

「それで、きみはどうしたいんだい?」

 

カヲルの表情がほんのわずか揺らぐ。

怒るのでなく、泣くのでもなく、ただ微かに瞳を曇らせて静かにアスカを見つめている。しかもアスカの目にはそれがなおも微笑っているようにさえ見えた。

 

「……なんで」

 

紅の瞳はどこまでも深くて底が見えない——何も読めない。まるで誰かのように。

そう——、カヲルの笑みは綾波レイと同じだ。

『微笑み』という名の無表情をまとっているだけなのかもしれない。その向こうにあるべき『ココロ』は覆い隠されたまま人の目に触れることはない。

腹を立てればいい。怒ればいい。悲しいのなら泣けばいい。

 

——なのに、どうして笑ってるのよ!

 

だから腹が立つ。

腹を立たせる自分にも腹がたつ——。

 

「もう……いいっ! 一人で帰るっ」

 

アスカは叫ぶと、踵を返して駆け出した。背後で渚カヲルの声がしたが、振り向かずに走った。傷んだ右足が激痛を伴い軋む。だが、それさえも忘れてしまうくらい居たたまれなかった。

 

——なによっ、なによ!

——バカみたい。

——バッカじゃないの!

——ほんとに大バカよっ

 

渚カヲルがいない所へ、とにかく何処かへ、と走る。

けれど幾らも走らないうちに、自分の足にもつれて無様に転んでしまった。全身をしたたか地面に叩きつけられて低く呻く。顔だけはとっさに手を出して庇ったものの、顔以外のかしこが痛い。右足に至ってはもう痛いのかなんなのか解らない。ただまるでそこが心臓だとでも言いたげに大きく脈動するばかりだ。

転んだ拍子に口の中を切ったのか、口の中に鉄の嫌な味がじわりと広がった。

頭を動かして見上げた道路に、かばんの中身が広く散らばっているのを見る。その光景が急に滲んで揺らめいた。目頭が勝手に熱くなって、ぬるくて痛い水が溢れてくるのを止められない。

 

——どうしてあたしが泣くのよ。

——なんで……なんでこのあたしがっ!

 

道路を伝って聞こえた足音にびくりと身体が硬直した。

きっと渚カヲルだ。

 

「……惣流さん——!」

 

声がする。

この無様な姿をもう一度、晒さなければならないのか——。

そう思ったら、どうしようもないほどの悔しさがこみ上げてくる。頭の中は涙と悔しさで一杯で、もう何が何だかわからない。腹の中も胸の中ももやもやとして気持ち悪くて吐き気さえ込み上げてくる。

 

——もう、嫌……!

 

「惣流さん! 大丈夫かい?」

 

頭上でカヲルの声がした。彼らしくない、どこか焦燥を含んだような声。

 

「触らないで! あんたなんかに触られたくないって言ってるでしょ!」

 

肩を掴まれて、アスカは全身でそれを振り払った。

カヲルはとりあえず散らばっている教科書やノート類を拾い上げた。それらをきちんとカバンに納めてやる。本人はまだ地面にうつ伏せに倒れたまま顔も上げない。

小さく嘆息する。

両手の埃を叩き落とすと、少し乱暴とも思える手つきでアスカの両肩を掴んで引き起こした。彼女が口を開くよりも早く、そのままむりやり背中に覆い被らせると膝裏を抱えて立上がる。

 

「止めてよ! 私に構わないでよ!」

 

悲鳴がこだまする。

カヲルは構わず歩きだした。

 

「降ろして、このバカ! 降ろしなさいよ 」

 

カヲルの頭や背中に容赦なくアスカの拳が振り下ろされる。日本語とドイツ語の入り混ざった罵声——どちらにしてもよく通じている——が耳朶を打つ。とても少女が使うものとは思えない口汚い罵り。彼に対する侮蔑と否定——きっと何を言っているのか喚いている本人にも判らないに違いない。しかし、それは確実に相手を傷つけられる凶器だ。

解らないわけじゃない。

傷つかないわけじゃない。

それでもカヲルは暴れるアスカがずり落ちないように、膝裏を支える腕に一層力を込めた。

 

「あたしに触らないでよ! あんたなんか大っ嫌い!」

 

繰り返される悲鳴に、返す言葉は持ち合わせていなかった。

やがて疲れ果てたのか、うずくまるように身を縮めるアスカ。消え入りそうな声で呻く。

 

「止めてって言ってるのに……。お願い……止めてよぉ……」

 

カヲルは俯いた。

人は一方的に傷つけられはしない。

誰しも己が傷つけられたのと同じ分だけ、本当は誰かを傷つけているのだ。自分で気づかぬうちに——他人の誤解の中で——無理解の中で——つまらない心の投げ合いをしているのだ。

 

——例外など、何処にもない。

——ぼくを含めて。

 

戸惑いに彩られた瞳は更に憂いを重ねて揺れた。

「きみを傷つけるつもりではなかった。——このまま家に着くまで、どうかもう少しだけ我慢をしてくれないだろうか」

返答はない。かわりに背中ごしに伝わってくる小刻みな震えと、押し殺した嗚咽が返答の代りになった。

カヲルは目を伏せて、呟くように言葉を零した。

 

「……赦して……欲しい……」

 

アスカはわずかに顔を上げた。

涙で曇った目に、白いうなじと、光を受けると銀色に輝く色素の薄い髪が映った。

汗で薄っすらと湿ったシャツから伝わる仄かな体温。呼吸に合わせて上下する肩。華奢に見えるのに、その実、自分のそれよりもがっしりとして大きな背中。膝裏に添えられた手の思わぬ強さ。

背中越しに伝わる微かな息遣い。

全ては、この渚カヲルという『もの』を象っている。

全ては、確かな感触をもってアスカの前に在る。

 

そして——。

 

 

 

——第三楽章

 

——泣いてる?

 

何気なくそう思った。

 

——『使徒』が泣くの……?

 

そう、『シト』だ、と頭が答える。

だから、この男がキライ。

 

——『使徒』

——『わけのわからない連中』

——『ヒトの敵』

——『あたしの心を無断で覗いて、引っ掻き回していったイヤな奴ら!』

 

アスカはきつく目を閉じた。

それは渚カヲルではないと解っている。解っていながら『シト』という言葉が頭の中でこだまする度に心が疼く。記憶の断片が蘇り、塞がりつつある傷を抉り出す。

 

——あたしは大丈夫。

——もう、あたしはダイジョウブなんだ。

何度も繰り返した言葉。だけれどそれと同じ数だけ繰り返した言葉がある。

——でも……やっぱりダメっ!

——だって、こいつは……っ。

『違う!』

突然、思い出された声にはっとする。

『違う! 違うっ! 』

響いたのはシンジの叫びだった。

使徒でもヒトでもなく、ただ一人の『渚カヲル』という存在であればよいと言った。泣き出さんばかりに、怒り出さんばかりに、そう叫び、怒鳴った。

はじめて目にした、あいつの姿だった——。

その時はただ、

——ばかみたい……としか思えなかった。

いったい何があったのか。どうなったか。誰も何も言ってくれなかった。あいつも言わなかった。

——だからあたしも、なんにも知らなかった。

耳のずっと奥で、シンジの声がする。

 

『使徒だからなんだって言うんだよ! もう……イヤなんだ!』

——それが甘えてるっていうのよ!

『カヲルくんはカヲルくんなんだ。何でそれだけじゃダメなんだよ!』

——そうやって現実から目をそむけてるだけじゃない。

『現実ってなんだよ……。真実ってなんだよ……。何も知らないくせに……』

——ヒトの敵なのよ!

『自分じゃ何も考えなかったくせに! 現実から眼をそむけていたのはアスカのほうじゃないか!』

——あたしは違うっ!

——あたしはちゃんとやっていた!

『使徒って何かな? どうして使徒って攻めてくるんだろ?』

——ワケわかんない連中が攻めて来てんのよ。降りかかる火の粉は取り除くのがあったりまえじゃない。

『だから人間って特別なのかな? だから使徒は攻めてくるのかな?』

——あんたバカ? そんなのわっかるわけないじゃん。

 

——違う。ただ、解ろうとしなかっただけじゃない。

 

与えられた命令と、与えられる賞賛という褒美。それだけで満足だった。——あえて考えまいとした。考えてしまえば、疑問に思ってしまえばわたしの居場所がなくなると思ったから……。

それが怖かったから。

だから、あたしは一生懸命だったんだ。

それを失うのが怖かったから。

でも——もうなくすものなんか何にもないのに。ありもしないものがなくなることを怖がって。まだ未練がましくしがみついてる。

この期に及んでもまだ——っ。

——バカはあたしだ……。

アスカはきつく目を閉じて項垂れた。

息を吸い込む。口の中に溜まった唾を嚥下する。奥歯をかみ締めていたせいか、少し口の中が震えていた。

——あたしどうすればいい?

頭ではちゃんと理解しているのだ。今となっては『シト』と『ヒト』がどれほどの違いを持つかなど意味がないということを。けれど、どんなに頭がわかっていても、一度ついてしまった傷はちょっとしたことにでも簡単にその口をあけてしまう。

渚カヲルを認めるということは、その傷さえも認めてしまういうことだ。

 

——ヒトと同形を取るに至ったのよ、彼らは。それが彼らが選択した進化の道。

——人間だもの。

そう言ったのは赤木リツコ。

——昔を忘れろっていうのはちょっち無理だけどね。

——でもね、ヒトはね、傷ついた分だけ他者に優しくできるもんでしょ?

そう言ったのは葛城ミサト。

——もう終わったんだ。

——カヲルくんはカヲルくんなんだ! 何でそれだけじゃダメなんだよ!

そう言ったのは碇シンジ。

ああ、そうだ——。

もはや、形態や生物的な存在が問題なのではない。

何故なら『渚カヲル』という存在は、もはや『わけの解らない連中』ではありえなかったから。

大切なのは、そのどうでもいいほどのほんの僅かな(それでいて悲しいくらい決定的な)違いを認めることができるかどうかなのだ。

——わたしにそれができるかどうかなのだ。

 

彼は——今ここに存在する——その事実だけでもう全てが許されているのだ。

 

鈴原トウジや相田ケンスケは、きっと渚カヲルが何かと知ったとしても四バカと呼ばれることを変えはしないだろう。

碇シンジは、最初からそんな違いなど眼中にないらしい。

綾波レイは、自らの存在も含めて沈黙という方法で全てを享受しているようだ。

では——。

——あたしは……どうすればいいの?

「あんたなんか嫌い。……大っ嫌い。……ホントに嫌いなのに——でも……」

 

 

 

第四楽章

 

「あいかわらずみたいね」

バインダーに挟んだ資料をめくりながら、リツコが言った。

なんの事? と首を傾げながら、ミサトは冷めたコーヒーに手を伸ばした。一口啜ってその不味さに顔を顰める。

「さっき定時報告が入ってきたわよ」

リツコは意味ありげに笑って振り向いた。ミサトはげんなりと天上を振り仰いだ。定時報告に何が書かれてあるかは、あえて報告書を読むまでもない。光景さが目に浮かぶようだ。

「あっちゃ〜。今日もやったの? あの二人。——これでまた今晩のアスカの機嫌は最悪ね」

「あら、いいじゃない。あなた今日は泊まりでしょ?」

「あたしはいいんだけど。シンちゃんがねぇ……被害甚大」

両手を広げてお手上げをする。

「あらあら……。——そろそろ考えなさいな? 別居」

「んー。……ま、ねー」

「いつまでもずぼらな女二人のハウスキーパーさせるわけにもいかないでしょ」

「失礼ね!」

「あら、私は事実を言ったまでよ。何か違って?——それとも傍に置いておかないと不安なのかしら?」

リツコが冷めた笑いを返す。ミサトの顔に一瞬だけ能面のような無表情さが宿る。横目でリツコを一瞥して、「かもね」——と呟いた。

「——とにかく。こればっかりはアスカが一方的に嫌ってるだけなのよねぇ」

「そうでしょうね。——彼、あの子のプライドを刺激するには充分だもの。きっとシンジくん以上に効果があると思うわよ」

「ちょっと、リツコ。あんたそういうつもりでけしかけたんじゃないでしょうねぇ」

「そんな訳ないでしょ。人聞きの悪いこと言わないで頂戴。大体あなたも予測していたことじゃなくって?」

「そりゃあまあそうだけど……。ああもう——ようやく家の中が落ち着いてきたっていうのに、これ以上もめごと増やさないで欲しいわぁ」

ミサトの言葉に本音を理解して、リツコは苦笑した。

「何言ってるの——保護者のあなたがそんなんでどうするの?」

「へいへい」

気のない返事を返す。

「あの……」

突然、口を挟んだのは伊吹マヤだった。キーボードを叩く手を止めて二人を振り返る。

「どうしてアスカちゃん。あそこまで毛嫌いするんでしょうか? なんだか見てると可哀想ですよ。いくら彼が——」

言いかけて口篭もる。

リツコとミサトは互いに顔を見合わせ、肩を竦めた。

「理屈じゃないのよ。感情は……。心が頭に追いつくには時間がかかるの」

「嫌いだって思いこんでるだけなのよ。アスカは——」

 

 

 

第五楽章

 

アスカはカヲルの背中に体をあずけたまま、ぼんやりと夕方の柔らかい光に包まれた街路樹を眺めていた。カヲルが足を踏み出すごとに、体が小さく上下に揺さ振られるのが心地よい。背中越しに伝わる体温のぬくもりでさえ、今は何だか気持ちがいい。

——そっか……人の背中って、こんなにも気持ちよかったんだ……。

ぼんやりと思う。

ひどく穏やかな気分だ。

さっきまでの怒りや憤りがまるで嘘のように払拭されている。

あんな醜態を曝してしまったというのに、こんなに何にも感じないのは何故だろう?

——変だな……あたし、どうしてこんなに落ち着いてるんだろう?

 

長い坂を上りきるとバス停があった。

備え付けのベンチに下ろされると、アスカは小さく息をついた。いいかげん火照った体にゆるく吹いてくる風が心地良い。

髪をかきあげ首筋に涼を通す。

ふと、アスカは何かに気づいたように顔を上げた。風が揺らす木々の音に混じって別の音が流れてくるのを聴き取る。目を閉じて耳を澄ます。

遠くから風に乗って微かに響いてくるそれ——どこかで聴き覚えがあるものだ。

「これ……」

包帯を巻き直していたカヲルが顔を上げる。

「——ああ、何か聞こえるね」

カヲルは立ち上がると首を巡らし、どこというわけでもない遠くに目を向けた。

「これは——チェロか。誰かがひいてるというわけではないね」

たぶんディスクかなにかだろう。低く長く微かに響いてくるそれは、確かに聴き覚えがある曲目だった。

そう、あれはいつのことだったか——。

「ああこれ、シンジがひいてた曲だわ」

「シンジくんが?」

「そ、あいつがひいてた曲。えーと、何て言ったかしら」

「無伴奏チェロ組曲。バッハだよ。そう、彼が……。それはシンジくんらしいね」

カヲルは遠くに視線を向けたまま、ゆるやかに微笑んだ。

「——とても、シンジくんに似ているよ」

そう言った声には、どこか楽しげな響きが含まれていた。嬉しげに口元を綻ばせるカヲルを横目に見て、アスカは顔を顰めた。

「はあ? なに言ってんの、あんた。どこをどうすれば、バッハの名曲があのバカシンジといっしょになるってーのよ」

「そうは思わないかい?」

「あったりまえでしょ! どっかおかしいんじゃないの、あんた?」

心底呆れた、と言いたげに言い放つ。

「……おかしいだろうか?」

「少なくとも、普通程度にはね」

見返したカヲルの瞳は大きく見開かれていた。

どうやら彼は驚いているようだった。およそ『驚く』という動作には縁がなさそうな男なのに、明らかに今は驚いている、という顔をしている。紅色の瞳を見開いて、唖然とアスカを見下ろしている。

何か変なことを言ったのだろうか?

「な、何よ。なに驚いてるのよ」

「ああ——いや……」

カヲルは我に返ると、ぱちぱちと二度ほど瞬きをした。

「気持ち悪いわね。言いなさいよ」

返事の変わりに、くすりと小さな笑いが零れた。目元を和ませたその顔が、ゆっくりと朗らかな満面の笑顔に変ってゆく。やがてそれは涼やかな笑い声を伴い、破顔する。

「ちょっ……! なに笑ってるのよ! 嫌なヤツっ 」

「ごめん、ごめん」

懸命に笑いを噛み殺しながら、二、三歩後退ってバス停のポールに寄りかかった。

 

カヲルはしばらく微かに流れてくる旋律に聴き入っていたが、やがておもむろに口を開いた。

「この曲はバッハの作品の中でずっと長い間低く評価され、無視され続けてきた曲なんだよ」

「ふーん、結構いい曲だと思うけど」

「……一声部の旋律線のポリフォニー。この無伴奏曲の特徴を理解することは難しい。だから、長い間ただの練習曲のように扱われてきたんだ」

「どうしてよ。バッハなんて凄く有名じゃない」

「——実際、チェロのような楽器で無伴奏を演奏するというのは、極めて希な試みだった。本来なら合奏、もしくは鍵盤楽器で演奏されるべき音楽を一つの旋律楽器が担うのだからね。つまり、その楽器は通奏低音と上声部の二役を強いられているわけだ。チェロやバイオリンといった楽器は、本来は一本の旋律をひいてこその楽器だろう? たしかに十八世紀のドイツは重音奏法の技術がどこよりも進んではいたが、その技術をもってしても和音ばかりをひくことは、旋律楽器としての魅力をつぶすようなものだったんだ。しかし、バッハはみごとにそれをやってのけた……。ポリフォニーのように機能する一本の旋律を紡ぎ出すことで——分散和音と言われるもの——もっともバッハの和音は複声部的ではあるね。だから——」

「ちょ、ちょっと……!」

慌ててアスカは話を遮った。さして音楽的興味を持たない彼女には、カヲルの言っている事の半分近くが言語として耳に入ってこない。まるで見知らぬ外国語を聞いているに等しかった。だいたい惚けたまま黙って話を聞いていると、この男は永遠にでも喋っていそうだ。

「あのね、音楽の講釈はいいわ。あたしが聞きたいのは、なんでこれがシンジといっしょなのかってことよ」

「——ああ」カヲルは苦笑して頷いた。

静かに密やかに流れてくる曲はいつのまにか第二番ニ短調のプレリュード部分にさしかかっている。

「緊張と不安感の連続だ」

「は?」

唐突な単語にアスカが声をあげる。

「よりポリフォニー的であるがゆえに、線的に進行する旋律は緊張と不安感を強めている。しかし、この一見、無茶な重奏にもかかわらずその和音に濁りはなく、むしろガラスのように透明で繊細で……そして、それはとても『自然』に思える。——ぼくにはね」

「……それは曲の事? それともシンジの事を言ってるの?」

「この曲はとてもシンジくんに似ていると、ぼくは言ったと思うけど?」

アスカはうんざりした気分で肩を竦めると、「やめてよね」と呟いて首を振った。

「センサイ? あれが繊細だって言うの? あんなのはただ鈍感なだけじゃない。——ああもう、これだから世間慣れしてない使——ト」

言いかけた言葉を慌てて飲み込んだ。

こんな所で声高に言うべきものじゃない。そのくらいの分別は持ち合わせているつもりだ。さっきと同じ愚は犯したくない。

それでも僅かな気まずさを感じて、そっとカヲルを伺い見る。あいかわらず仄かに微笑んでいるが、その笑みの内側を知る事はできない。

気を悪くした様子もないので、内心ほっと息をつく。

そんな彼女の胸内を知ってか知らずか、カヲルは少しだけベンチに歩み寄った。徐に腰をかがめてアスカの顔を覗き込む。

「な、なによ」

不意にカヲルの顔を間近に見て、背中に緊張が走る。

「——バッハの無伴奏チェロ組曲の一番偉大なところは何だろうか?」

唐突な質問に言葉が詰まった。

「そ、そんなの、知るわけないじゃない」

ぶっきらぼうに返す。

カヲルは好ましげに笑って真っ直ぐに立ち上がると、おもむろに視線を街路樹に移した。つられてアスカもその視線を追う。折り重なるように生い茂る葉の隙間から零れる柔らかな光が目に眩しい。

指先から足先からゆるゆると緊張が溶けてゆくのが分かる。

ほんの少し互いに沈黙する。やがて、カヲルが口を開いて、

「——それはね、『楽譜には書かれていない音』のことさ」

そう言った。

「はぁ?」

とっさに言葉の意味がつかめなくて、アスカは首を傾げた。

「さっきも言ったように、たった一つのチェロは通奏低音と上声部の二役をこなしている。たとえ単声部であっても二つ、三つの声部が絡み合ってできている。だからこそ低音の順次進行で、ない音があたかも鳴っているかのように聞こえてくるんだ」

「はぁ……」

「実際はチェロの独奏であるのに、まるでオーケストラを聞いているかのような錯覚をおこすことがあるよ。耳に聞こえている音に重なるように、聞こえない……そこにはあり得ない音が響いてくる」

「……ありえない、音?」

「聞こえない音。語られない言葉。それでも、確かにそこにあるんだ。何かを伝えたくて、伝えきれない……心が——」

最後の言葉は、ほとんど独り言のようだった。

アスカは、まっすぐにカヲルを見つめた。その瞳は怖いくらいの真摯さに彩られている。カヲルの薄赤い瞳も静かにアスカを見返していた。

「——それがシンジのココロだっていうの」

「ヒトの、だよ」

カヲルは口の端を少し歪めて曖昧な笑みを浮かべた。それは、肯定とも否定ともとれる静かな笑み。

「そう……」

アスカは喉の奥まで溜まっていた息をゆっくりとはきだした。

「……それで、あんたはどう思うの」

「好意に値するよ」

「コウイ?」

訝しげに首を傾げるアスカに、カヲルはゆっくりと口元を綻ばせた。

そうして囁くように言葉を繋ぐ。

「——好きってことさ」

 

 

 

第六楽章

 

マンションに着いた頃には、空はすっかり薄い藍色に覆われていた。西の地平に僅かに残った茜色の夕焼けが名残惜しげに消えようとしている。

「ここでいいわ」

葛城、とプレートの掲げられた玄関前で、アスカはカヲルの背中から降りた。カードキーを通すと手応えがある。ということは、まだ誰も帰ってきていないということだ。

その事実にほっとする。

マンションのエントランスからここに辿りつくまでは、冷や汗モノだった。

幸いなことにここに、誰にもすれ違わなかった。もし口さがないご近所の主婦達にでも見つかろうものなら、どんな脚色された噂をたてられるかわかったものじゃない。根も葉もない不潔な噂など真っ平ごめん、と思っていたが、夕飯時の主婦はそれほど暇でもないようだ。

廊下にただよう生活の匂いに、改めて夕暮れ時を実感する。

「じゃあ、シンジくんによろしく」

そう言って踵を返すカヲルの背中に向かって、突然アスカが叫んだ。

「待ちなさいよ!」

カヲルが怪訝そうに振り向く。

待て、と言ったものの次の言葉が喉の奥に引っかかって出てこない。口篭もるアスカにカヲルはますます怪訝そうに首を傾げる。

「その……あ、あがってちょうだい。その……お茶ぐらいだすわ。シ、シンジももうすぐ帰ってくると思うし」

意を決して口を開いてみれば、みっともないくらい声は上擦っていた。

——なんでこのあたしがこんなことで動揺しなくちゃいけないのよ。

ただ借りを返すだけなんだから、と心の中で何度も呟いて、でもやっぱり言うんじゃなかったかも、と気弱に臍を噛む。

方やカヲルの方も当惑を隠せないらしい。困ったように苦笑して「いや、ぼくは……」と言い淀む。そして、その態度がアスカに火をつけた。

「……うるさいわね」

アスカはむっと顔を顰めると、ぼそりと言った。

「なにか言ったかい?」

「うるさいって言ったのよっ! いいから黙って入りなさいよ。……アンタに借りを作ったままじゃ気持ち悪いでしょ。だからお茶ぐらいだすって言ってんのよ!」

両手を腰にあててふんぞり返りると、いけ高々に言い放つ。鼻息まで聞こえてきそうな勢いだ。とてもお礼をしたいと言う態度には見えない。どうやら彼女はすっかり居直ってしまったらしい。

カヲルは口元に手をやって、やけに真面目な顔つきで考え込んだ。

「しかし、シンジくんもいない。葛城三佐も不在……。問題があるのではないかい?」

「なにが?」——と、言いかけて、はたと気づく。

「あ、あ……あんた……」

カヲルの言わんとしていることに思い当たる。

一気に耳朶まで顔を赤くしたアスカの行動は素早かった。

左手でカバンを叩きつけてドアのスイッチを押すと、右手でカヲルの襟元を掴みあげ、返す手で半開きの扉に強引に押し込み、素早く自分も飛び込む。その間数秒。とても足を負傷しているとは思えない行動だ。

突然の成り行きに、カヲルは目を丸くしたまま三和土呆然と立ち尽くした。アスカがその鼻先に指をつきつけ怒鳴る。

「あんたってズレてるくせに、なんでそんな余計な事ばっかり気が回るわけ  あたしはお茶を飲んでいけって言ってるだけよっ!」

カヲルは——今日何度だろう——驚きに目を瞬かせていたが、やがてゆうるりと微笑んだ。

「じゃあ、お邪魔させてもらうよ」

「——いいこと勘違いしないでちょうだい。あたしはお茶に誘っただけなんだからっ! 変なことしたら殺すわよ!」

捲し立てるアスカの目が潤んでいるのは、怒りよりも気恥ずかしさのせいだろう。赤ら顔で鼻の穴まで膨らませてむくれる姿に、カヲルは堪えきれずに小さく吹き出した。

「な、な、何よ。——何なのよ」

それを聞き逃すアスカではない。剣呑な目線でカヲルを睨めつける。

「いや——」

継ながれるはずの言葉は笑い声に溶けてしまった。両手で腹を抑えながら楽しそうに声を立てて笑うカヲルを、アスカは憮然として睨みつけた。

——なによ、ちゃんと『笑える』んじゃない。

腹をたてながらも、ふとそんなことを思う。

カヲルの笑い声を間近で聞くのはこれが初めてのような気がする。

こんな側にカヲルがいるのも初めてのような気がする。

昨日——いや、つい数時間前まで感じていた嫌悪感はいったいどこに行ってしまったのか。この急激な心境の変化はいったいなんだろう。——まるで、最初からそんなものは無かったかのように気にならない。

——悔しいけど、『使徒』には見えないわよ……。

そう認めることを苦々しく思いつつも、意外と素直に自身の心に頷く。

——あたし、こいつのこと嫌いなのに?

自分の事なのに、こんなにもよくわからない。

「ちょっと、いつまで笑ってんのよ!」

「ああ、ごめんよ。——惣流さん」

カヲルは涙の溜まった目頭を指で拭いながら、なんとか笑いを収めようとする。

「笑う、つもりでは、なかったんだけど……」

途切れ途切れに言葉を詰まらせながら言う。

「あのねぇ、それだけ大笑いしてるくせにそういうつもりじゃないって通じるとでも思ってんの 」

「ホントウにそう思うよ——」

肩で息をしてようやく笑いを収める。

「はんっ。どうだか」

ふくれっつらをしたアスカはちらりとカヲルを見やって、廊下へと上がった。振り向きもせずに、「早くあがんなさいよ」と投げかけると足を引き摺りながらリビングへと歩き出す。

カヲルはゆっくりと吐息を一つ零した。

「——ホントウに——ぼくは君のことも好きなんだろうね」

それは、聞き漏らしそうなほどの何気なさでアスカの耳に届いた。

アスカは立ち止まると、何事を言われたのかと口をぽかんと開けて振り向いた。

紅色の瞳が笑っていた。

「な——」

それは確かにしっかりと耳の奥まで届いていた。

「なな何よ、それ! 変なこと言わないでよ!」

声を大にして叫ぶ。

「あんたが好きなのはシンジなんでしょ。そんなついでみたいに言われたって嬉しくも何ともないわよっ!」

カヲルは、ああ——と頷いた。

「失礼——でも、ぼくはきみの事も好きなんだと思うよ」

それは、唖然とするほど優しい微笑みだった。見たことがないくらい暖かな笑顔だった。

あれだけ罵られて、傷つけられて、どうしてそんなことが言えるの——? 全く理解ができない。

「冗談はやめて! 気持ち悪いっ」

「……冗談を言ったつもりはないのだけれどね」

「あんたどういう神経してんの  あたしはあんたなんか大っ嫌いなんだから 」

「知っているよ。それでも——多分……。そうだね——きみに逢った、あの時から」

「か、勝手に言ってなさいっ!」

たまらずアスカはくるりと背を向けた。

天井を仰ぎ見る顔は、いろいろなモノ——泣きそうな、笑いそうな、怒っていそうな——が綯い交ぜになってくるくると表情を変える。どうしたいのか、どう答えればいいのか判らなくて自棄ぎみに声を張り上げた。

「何でもいいから、笑ってないで早く上がってよ。玄関先でバッカみたい 」

 

 

 

第七楽章

 

「やぁ、シンジくん。お邪魔してるよ」

惚けたようにぼんやり居間の入り口で立ち尽くすシンジに、カヲルは笑いかけた。カップにお茶を注ぎ足そうとしていたアスカが、振り向きざまに怒鳴る。

「遅いじゃない! 何してたのよ、ばかシンジっ」

「あ、ただいま……。あの、ど、どうしてアスカがカヲルくんと……?」

「何よ、何か変だっていうの?」

「え……。だって……」

言いかけてシンジは口篭もった。目の前の光景が信じられなくて何と言ったらよいのか判らない。

居間でテーブルを挟んで仲良さげに——そう見える——二人の姿など考えたこともなかった。

シンジが何を言いたいのか、アスカもカヲルもよく解っていた。しかし、今あえて互いがそれを口にすることもない。事実は一つだけれども、いたる過程はあまりにも複雑で長い。うまく説明できるとも思えなかった。

とりあえず、目に見える事物だけを示す。

「これよ」

あれこれと頭の中で思考を巡らせ困惑しているシンジの前に、アスカは右足を突き出した。白い包帯が目に入り、微かに湿布薬の匂いが漂った。

「どうしたの、それ」

「ちょっとやっちゃってね。歩けないから、渚に送ってもらったのよ」

「カヲルくんに? だって……」

「うるっさいわねぇ、男がいちいち細かいこと気にしないでよ!」

まだふに落ちないといった風に呟きかけたシンジに、アスカは苛立たしげに声を荒げた。怒鳴られてシンジは首を竦める。

「ご、ごめん。……えーと、それで大丈夫?」

「あったりまえでしょ。このあたしがたかが捻挫ごときでどうかなるもんだとでも思ってるの?」

「それは……思わないけど。——全然」

「ちょっと、あんた。全然ってどういうことよ」

「え? あ、や、その……」

「——あんたねぇ、そういうときは嘘でもいいから気の利いた台詞の一つくらい言ったらどうなのよ」

「でも、アスカが自分で大丈夫だって言ったんじゃないか」

「あんたバカぁ  だから鈍感だっていうのよっ!」

「そ、そんなぁ……」

シンジとアスカのやり取りを眺めながら、カヲルはくすくすと肩を震わせた。

笑い声に気づいてシンジが恥ずかしげに頬を赤らめると、それを見たアスカが「いちいち赤くなるんじゃないわよ!」と怒鳴りかえし、ますますカヲルの顔は綻ばせる。

「男同士で見つめあわないでよね、ばかっ 」

最大級の大声で怒鳴ってから、はたとアスカは気づいて話題を転じた。

「それよりあんた、こんな遅くまで何してたのよ!」

カーテンの隙間から垣間見る外はすっかり暗い。遠くに非常灯の赤い光が規則正しく瞬くのを見る。時計の針は7時を大きく回っていた。

「うん、ちょっと」

薄っすら笑って答える。

「何がちょっとなのよ。遅くなるんならちゃんと言って行きなさいよ」

「……ごめん」

小さく謝って、言葉を濁す。

ふと、強い視線に気づいて顔を上げると、カヲルと目が合った。

いつの間にか笑みが消えて、何か言いたげに揺れるカヲルの目に、シンジは困ったように笑いかけてから、気まずげに目を逸らした。

短い沈黙を破ったのはアスカだった。

「あーもう、何、ずっと突っ立ってんのよ! こっちはずっと待ってたんだから!」

その声にシンジは我に返る。

「待ってたって——あっ!」

アスカの『待っていた』が何なのかすぐに理解して、台所を振り返る。——思ったとおり朝、家を出たときのまま『綺麗に片付いた台所』がある。

「ごめん! すぐ作るよ。——あの、カヲルくんも食べていってよ」

シンジが急いで台所に消えようとするのを、アスカの慌てた声が引き止めた。

「違うわよ。誰が夕飯の話をしてるのよ」

「え? じゃあ、何?」

緑のエプロンを手にしたシンジが振り返る。

「今すぐあんたのチェロを持ってらっしゃいよ」

「チェロ? なんで?」

唐突な発言の意味を測りかねて首を傾げる。だいたいアスカが自らチェロを聞きたいと言ってきたことは一度もない。シンジ自身あまり人前で演奏しないというのもあるかもしれない。

それを急に言い出すのはどういう訳だろう? 戸惑うシンジに、さらにアスカは追い討ちをかける。

「ひくの、ひかないの 」

「で、でも夕飯が……」

「あんたって、とことん小市民的ね! そんなもんピザでもなんでもとればいいじゃないの。あんたのチェロが聴きたいからひけって言ってるのよ。渚だってそのために今まであんたを待ってたんだから」

「カヲルくんが?」

驚きの声を上げる。

「チェロを……?」

カヲルが頷く。

「そうよ。だから早く支度してらっしゃいよ!」

「わ、わかったよ」

アスカの怒鳴り声に急かされて、慌ててシンジはチェロを取りに自室にひきあげていった。

 

「全く。いつまでたってもとろいんだから」

アスカはシンジを追いやると、電話帳と一緒に積み上がっている出前のチラシを物色し始めた。

「ロクなものないわねぇ」

言いながらカヲルを振りかえる。

「ピザでいいわよね。あんた、まさか優等生みたいに肉が食べれない——なんて言うんじゃないでしょうね」

「綾波レイは、菜食主義なのかい?」

「あれは主義主張じゃないわよ、単なる食わず嫌いってヤツね」

「どうして?」

「だって豚骨ラーメンは平気で食べるんだから、一種の偏食と一緒よ。栄養ってもんをなんだと思ってるのかしら」

「心配なのかい?」

「なーんでこのあたしが優等生の心配をしなきゃいけないのよ!」

 

 

 

第八楽章

 

何気なく手に取ったCDは『Suiten fur Violoncello solo』と書かれていた。

 

あの時、シンジは第1番から第3番までひいてくれた。好きな曲だからと言うだけあって、演奏は悪くない。音楽のことはよく解らないけれど、結構イイんじゃない、と思った。

あれだけまじめに『聴こう』と思って耳を傾けたのは、初めてかもしれない。

 

でも——。

あのバス停で聴いたディスクと、あいつのひいた曲は少し違って聞こえた。

どこがどうと言われても、テンポの違いとか、強弱の違いとか———。

でも、それだけじゃないような気もする。

それがどうしてなのか解らなくて、なんとなくCDを買う気になったのかもしれない。

 

その違いこそが、渚カヲルが言わんとした事の一端なんだろうか。

 

「ああ、そういえば一つ言い忘れていたよ」

「なによ」

「あのチェロ曲の事だよ」

「だから、なんなのよ。もったいつけないで早く言いなさいよ」

「曲の真価に気づいた演奏家が言ったんだよ——」

「あの『楽譜には書かれていない音』——あれは『天上の音……天使の声』に違いない——って」

 

 

 

<< END >>

 

--Mei 5, 2015


■By 日下智

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