鳥のある風景

 

“それ”は、濡れた路面にあった。

 人通りの途絶えた歩道の真ん中にぽつんと取り残された“それ”は、さして引くべき興味のない、ごく当たり前の事象としてあるものだと認識している。目にする場合しない場合。恒常的に無数ともいえる頻度で起こっている事象。その数多の中のただの一例に過ぎない。

 ただし知識という無形のものではなく、今は形ある現実のものとして綾波レイの前にあった。

 レイは立ち止まり、それを見降ろした。

 浅い水溜まりの中に、泥にまみれた一羽の黄色い鳥が横たわっていた。もげた左足、ひしゃげた羽。水面に散らばる汚れた羽毛。泥と血と路面の油に汚されたそれは鳥としての形骸を留めているのみで、すでに鳥とは言い難く。

 “それ”という以外の言葉を知らない。

 “鳥”としての機能の果たさないものを、はたして『鳥である』と言えるのだろうか……?

 ——鳥。

 鳥類の総称。羽毛で体を覆われ、嘴を持ち、多くは卵生の翼をもって空を飛翔するもの。(でも…葛城三佐の家にいる鳥は飛ばない鳥)活動するもの。

 ——生きているもの。

 これはもう“生きてはいないもの”。

 ここに留まれといわれれば永遠にでも留まっている塊。

 存在する“意味”を失くしてしまった——必要とされないもの。

 必要としないもの。

 そう認識すると、レイの“それ”に対する興味は急速に薄らいでいった。立ち去ろうと踏み出した足の下で、ぴしゃりと水が撥ねる。水溜まりに広がる波紋に“それ”はゆうるりと揺すられ、そして自らの力で震えた。

 レイはぎくりと立ち竦んだ。少し驚いて目を見張る。

 “それ”は生きていた。

 汚れた全身を細かく痙攣させて、未だ生きているという範疇に懸命にしがみついていた。

 罅割れた嘴が動いて、薄い胸がひくひくと上下する。残された右足が弱々しく宙を蹴り、動かせる翼をばたつかせ。まるでこの冷たい泥の中から抜け出そうとするかのように繰り返される動作。

 これはただの徒労。この鳥がもはや“鳥”として空に飛び立つ事はありえない。誰が見てもそう思うだろう。こうやってもがけばもがく程、僅かに残された生きる力さえ無駄に消費するだけなのに。それなのに、どうして……どうして足掻くのだろう。

 これは、生きる事への無意識の反射?

 羽毛が飛び散る。血か泥か判別のつかない水が跳ね飛び、レイの足を汚す。痙攣はだんだんと途絶えがちになり、はばたきも弱くなってゆく。それでも“それ”は足掻く。

 ゆっくりとレイは腰を下ろすと、のろのろと右手を降ろした。びくりびくりと震えるばかりになった鳥の喉元に触れようと、手を伸ばす。

 その時。

「何してんのや?」

 聞き覚えのあるイントネーションの声が背中にぶつかった。

 レイははっと頭を上げた。肩越しに振りかえった目に映ったのは見知った黒いジャージのズボン。

 夕暮れのぼやけた逆光の中にぽつんと佇む人影は、鈴原トウジだった。むっつりと不機嫌そうに顔を顰めてレイを見下ろしている。

 レイは黙したまま視線を足元に戻した。鳥に触れるか触れないかのところで止まったまま固く強ばった右手を、無理矢理自分の膝まで戻す。まるで油のきれた機械のようにぎこちない動作に骨が軋んだような錯覚を覚えた。

「助けたい思ったんか? それとも、楽にしてやる思ったんか?」

 レイの頭上にトウジの言葉が落ちる。冷たいと感じられる響きも、哀れと認識できる感情もその中には含まれていない。まるで乾いた砂を食んでるような、ざらざらした感じがする声だ。そう思う。

「……わからない」

 零すように呟いて、レイは立ち上がった。

 俯けた顔の先、瞬きをしない瞳はずっと鳥を見つめたまま動かない。

 そんなレイの横顔をちらりと一瞥してから、トウジはおもむろに水溜まりの傍にしゃがみ込んだ。

「ああ、あかんな、これは」

 その言葉の通り、いつのまにか鳥は動く事を止めていた。僅かに震えていた体は、今はぴくりとも動かず。ぐにゃりと泥水の中に横たわる擦り切れた翼。右足は空を掻いたまま冷たく固まり。瞳は灰色の分厚い瞼の下、もう永遠に日の目を見る事はないだろう。

 ただの骸に——。

 鳥は、こんどこそ本当に“それ”になってしまった。

「どっかの家から逃げだしたんやなぁ、飼われとった鳥は弱いんや」

「何故?」

「人に餌貰って育つやろ、外に出たところで餌の取り方も知らん。縄張りもわからん。外のルールを何もしらんし、おまけに外敵ばかりや。籠から逃げてずぶとく生き残れるんはよっぽどの少数なんやで」

「何故、逃げたの?」

「そんなん、ワシに分かるかいな。たまたま籠が開いとったんと違うか?」

「外に出れば死ぬと分かっていても逃げるのね?」

「鳥にそないなの分かるか。本能で生きてんねや、飛べればほんでよかったんちゃうか? だいたいな、危へん事はせぇへん、無駄な事はせぇへん、嫌な事はせぇへんちゅーのは、ワシらの専売特許なんやで」

「ワシ、ら? なに?」

「あー人間や、にんげん」

「そう……?」

「たぶんな」

「私には…解らない……」

「まぁな……・ホンマのところ、ワシにもわからん」

「そう?」

「ワシかて性に合わんことはしとうないねんで。ホンマは恐い事はごっつ嫌いなんや。せやけど、たまたまワシにも出来よる、言われたらなぁ……。一人だけ逃げるわけにはいかんやろ」

「……そう」

 レイは僅かに視線を動かして、トウジを見た。背中を向けてしゃがむトウジの後頭部が見えるだけで、その顔は伺えない。どんな表情をしているのか判らない。唯一、握ったり開いたりしている右手だけが彼が何を言わんとしているのか物語っていると、おぼろげにレイにも理解ができた。けれど、わかったところで何か言うべき言葉があるわけもなく。ただ唇を噛みしめ、沈黙する。

 伏せた瞼の裏に、かつて彼に殴られ頬を腫らした少年の昏い顔が、一瞬浮んで消え去った。

 

 

 

 

 

 午後六時半を告げるサイレンがけたたましく鳴り響いた。

 朱く朧げに揺れる太陽は、頭だけを残してビルの谷間に沈もうとしている。深く傾いた西日に照らされて茜色に染まる街。ぬるい風が吹き渡り、滞った昼間の熱をかき回してゆく。

 どれだけの間、互いに黙ったままだったのだろう——。

「鈴原くん」

 長い沈黙を破ったのは、レイだった。

「ああ?」

 トウジは首を傾げてレイを見上げた。声をかけた筈のレイの視線は変わらず鳥の死骸を凝視したまま。トウジもまた目を合わせることなく視線を鳥に戻した。

「何や?」

「これは、助けられなかったのね」

「見たとおりや」

「じゃ、……」

「あぁ?」

「じゃあ、——」言いかけてレイは一端口を噤んだ。

 トウジは黙って次の言葉を待った。やがてひゅうと息を吸い込む音がトウジの耳に届き、続いて紡がれた言葉は——。

「楽にするって、何?」

 トウジは俯けていた顔を上げて正面を見た。残光に一瞬まぶしそうに目を細め、次いで「よっ」という小さな掛け声と一緒に立ち上がった。ゆっくりと体ごと振り向く。初めて交わされる二つの視線。

「おまえ……あれを“殺し”たかったんか?」

 トウジの言葉に、レイの目が小さく見開かれた。

「楽にしたる言うんは、“殺したる”言うのと同じなんやで」

 薄赤い瞳が揺れた。

「出来るんか? 綾波?」

 ——コロす……?

 発しかけた言葉は喉の奥で凍りついて出てこなかった。真っ直ぐに見つめてくるトウジの瞳の中に映る自分の姿。目を見開いて呆然と佇む自分が左右の瞳にそれぞれ一人づついて、同じように二つの瞳で真っ直ぐにレイを見つめている。

 思わずレイは瞳を逸らした。知らず知らず、顔が俯いてゆく。

 視界の隅で、トウジが僅かに苦笑するのが見えた。

「あのな、ワシな、妹が一人おるんや」

 唐突に切り替わった話題のその意図が掴めず、レイは瞬いた。

「ま、今はちぃとばかし怪我して入院してるがな。知ってるんやろ?」

「ええ……」

 レイは小さく頷いた。

 それはもうずいぶん前の事のように思える。

 第三使徒の出現と初号機の初起動——暴走。公式に何一つ正確な情報が発表がされないだけで、物的人的共に被害は甚大。鈴原トウジの妹も重軽傷者の数の中にカウントされているのだろう。それ故に、かつて殴られた少年がいる。

 殴った少年がいる。

 居合わせた少女がいる。

 三角形の中で微妙に釣り合う見えない繋がりが、ここにある。

「妹のやつな、今の病院やったらダメなんやと。治る見込みはない言われてな。…ああ、シンジには黙っとけや、あいつ気にしいやさかい。あんま気にされると何やうっとーしうてな」

 レイは再度、頷いた。

「最初はよかったんや。大怪我やったけど意識はしっかりしとったし、お喋りもしとったんやけど。それが何やだんだん悪うなってきてな……。この頃はほとんど寝たきりや。たまに起きとるときも苦しそうやし、最近は ワシの顔もわからん事があってなぁ、あれはキツイでぇ……。医者の奴はすっかり匙投げてんねんし。アイツなまだ小学生なんや……だから……」

「だから、乗るの?」

「……まぁな、それも条件のうちや。——少しでも望みがあるんならNERVでも何でもええ」

 そう、と言いかけた言葉はレイの口の中で掻き消えた。

 何に乗るのか、と聞かずとも、互いに理解している。それが理由はどうであれ避けられない道であることも。

 ぼんやりと目線を落とすトウジにつられて、レイも俯く。水溜りの中で、ゆるく地面を撫でてゆく風に押されて鳥の死骸は波を掻くように揺れていた。

「ウチはおかんがおらんやろ、お父とおジイは研究所に詰めっぱなしやし、ワシが妹の面倒を見なあかん

「……そう」

「せやけど、あいつが苦しんでてもワシはなんにもでけへんのや。ただ見とるしかないんや。……ホンマ情けないわっ」

 自嘲気味に、半ば吐き捨てるように言ったトウジの声は震えていた。

 何を言おうと言うのかレイの唇が小さく震えた。けれど口を開きながらその実、何一つ語るべき言葉を持っていない自分に、レイは愕然とする。

 こんな時驚くほど何もできない自分を思い知る。慰めればいいのか、励ませばいいのか、それとも沈黙するべきなのか。その判断すらできないのだ。

 何て言ったらいいのか。どんな顔をしたらいいのか。

 ——解らない。

 ただ黙って唇を噛み締めるトウジの顔を見ているしかない。

 鈴原トウジの家の事情など、ただのデータ上の物事として以外の知覚を持たない。データである以上、そこに何の感慨も入るものではなかった。その筈なのに今自分が感じてるこの靄々とした不快さはいったいなんなのだろう。

 どうして胸が痛いの?

 ——解らない。

「代れるもんやったらワシが代ってやりたいわ。それができんのなら、せめて苦しまへんようにしてやりたいんや」

 噛み締めた歯の間から苦しげに漏れるトウジの言葉に、レイは弾かれるように顔を上げた。

 苦しまない様にしてやる、というのを、彼はどういう意味で言ったのか?

 トウジを見返すレイの視線が鋭さを帯びた。すぐにその視線の意味を直感的に思い当てたトウジは、思わず声を荒げた。

「なに勘違いしてんねん、あほう! ワシがそないなことするかい!」

 自分の上げた声の思わぬ大きさに、トウジははたと我に返った。

「す、すまん綾波。怒鳴ってもうて」

「……ごめんなさい」

「綾波が謝らんでもええ。悪いんはワシの方や。……すまんかった」

 トウジは気まずげに視線を逸らし、顔を隠すようにまた水溜まりの前にしゃがみ込んだ。

「あんな、楽になりたいんはホンマは自分の心なんや。苦しんどる妹の姿を見んですむワシの心が楽になるだけなんや。せやけど、リスクちゅーもんがつくんやで。それには」

「どいいう意味?」

「楽にしたる言うのは“殺したる”ってことと同じなんと思ったんやろ? 綾波は」

 背後に立っているだろうレイからの返答はない。けれどトウジはかまわず話しを続けた。

「そりゃ世の中死んだほうがよっぽどましや、いう事もあるやろ。殺してやったほうが親切や言う奴もおる。なんやセカンドインパクトの時がそうやったらしいって、耳にタコできるくらい聞かされたわ。……お爺の話はホンマくどいさかいな。お前かて授業で聞いたやろ?」

「……うん」

 ようやく細い返事が返ってきて、トウジは口元に薄っすらと笑みを浮かべた。

「せやけど、ワシにはできん。何もできん自分を阿呆やぁ思うけど、それだけはしとうないんや。誰だって嫌やろ、自分の手ぇ汚すんは。まぁ、それを卑怯や逃げや言う奴もおるやろ。けど、いいねん、それで。ワシかてそれほど出来てんねん人間ちゃうからな、他人の命を背負ったるほど背中は広ないんや。できんものはできん。妹の奴がどんだけ苦しんどっても、楽にしてやろ思うことはできんのじゃ」

 淡々と喋り続けるトウジをレイは静かに見下ろしていた。

「こいつだってそうや」

 そう言うと、トウジは鳥の死骸に手を伸ばし拾い上げた。

 指の間を伝って泥水がぽたりぽたりと滴り落ちる。すっかり冷えて固まってしまったそれは、まるで襤褸屑のようだ。

「綾波がこいつの命を背負うてやる必要なんてないんじゃ」

 トウジは鳥を掴んで立ち上がると、レイの脇を過ぎて歩道の端に並ぶ街路樹の一本に歩み寄った。大きな銀杏の根元を二度、三度と靴先で蹴り上げ、「ここならええやろ」と、独り言ちる。そうしておもむろに地面を素手で掘り返しはじめた。

「何しているの」

「道の真ん中に転がしとくわけにもいかんやろ」

「それは必要な事なの?」

「ま、ワシの気休めや」

「……そう」

 ふいに白い二本の手が差し出された。

 ほっそりとした滑らかで柔らかそうな指先が黒い土を掻く。トウジは手を止めて驚いたようにその手の持ち主を眺めた。その視線の先には、無表情に土を掘るレイの姿があった。

 手伝って欲しいと言ったわけではない。自主的にレイがしていることに驚いた。だいたい学校で同じ教室にいても何事にも無関心な彼女がこんな事をするとは以外だった。そもそも、こういう事をするタイプには思えなかった。

 事実、トウジが驚く以上に驚いているのはレイ自身だ。一切がその表情に現れないが、頭の中ではしきりと自分の行動に意味を付けようと思いあぐねていた。昼間といい、今といい、今日は驚いてばかりいるような気がする。

「制服、汚れるで」

「かまわないわ」

「そっか…」

 短く言うと、トウジは口の端をゆるめて僅かに笑った。

 表面は硬かい地面も、銀杏の根っこに掻き回された土中は素手でも容易に掘れる。二十センチばかり掘ると大きな銀杏の根につきあたった。その上に鳥を置いて掘り返した土で再び穴を埋めてゆく。黒い土が静かに降り注ぎ、鳥の骸は徐々に土の下へと覆い隠されてゆく。

 しばらくして黙々と手を動かしていたトウジが口を開いた。

「あんな、殴った手の方が痛いちゅーこともあるんやで。わかるやろ」

「ええ」

「お前がよけいな痛みを背負う必要なんてないやろ、違うか?」

 問われて、レイは首を傾げる。

「痛み…? ——わからない」

 トウジは軽く溜息を吐く。

「ワシもなエヴァに乗れと言われへんかったら解らへんかったかもしれん」

「エヴァ?」

「エヴァに乗るいうことは、そんだけで背中に重いもんを背負ういう事やったんやなぁ」

「そう」

 ——考えた事がない、と言いかけた言葉を飲み込む。

 背負うって、何?

 痛いって、何?

 私、何故、エヴァに乗ってるの?

 ——“乗れ”と言われたから乗っている。

 私にはエヴァしかないから。それが自分の義務であり全てであり絆だから。

 痛いとか、辛いとか、考えた事なんかない。

 ——たぶん、ない。

 だから彼の言う“痛み”というのが何なのか、よく解らない。

 エヴァが動けば人が死ぬ。動かなくても人は死ぬ。

 人は弱い。人は脆い。使徒に対抗できるのはエヴァだけ。

 生きるために選択の余地はないからエヴァを動かす、結果、人が死ぬ。

 ——ただそれだけ。

 それが痛いということ?

 人が死ぬのは、辛いこと?

 それは心が、痛いの…?

「これでええやろ」

 ジャージの上着で無造作に手を拭うトウジの隣で立ち上がったレイの手も土と泥で汚れていた。けれどレイはハンカチを出すわけでもなく、汚れた手をだらりと脇に垂らして、ぼんやりと埋め戻したばかりの地面を眺めている。

 女のクセにハンカチ持ってへんのか? と呆れ半分、トウジはちょっと逡巡してから自分のポケットに手をつっこんだ。撚れてくしゃくしゃになったハンカチを掴み出すと、ずいっとレイに差し出した。

「なに?」

 目を瞬かせたレイはハンカチとトウジを見比べ、次いで自分の手を見て納得する。

「あ、安心しいや、ヨレヨレやけど綺麗や。ま、まだ二日しか使ってへん」

 おずおずと手を伸ばして、レイはハンカチを受け取った。その頬は薄っすらと赤く染まっていた。

「ありがと……」

 もそもそと手を拭うレイを見ながら、トウジは照れ臭げに鼻の頭を掻いた。普段やりなれないことをしたせいもあるし、見慣れない態度のレイにもどこか気恥ずかしい。

「な、なんや、つまらん話聞かせたみたいやな。すまんかった」

「何故、謝るの?」

「何でって、ホンマお前は“何で”が多いんやなぁ」

「そう?」

「そう、て——まあええわ。ワシ、何で綾波にこんなこと話たんやろ」

「わからない」

「あたりまえや、喋っとるのはワシや。独り言にまで答えんでもええやんか。ほんまそう言うところは相変わらずけったいなやっちゃ。——ま、お前もシンジと同じやな」

「碇くん?」

 突然出てきた名前に、レイは思わず上ずった声で聞き返していた。

「せや。最初は無愛想やし、可愛げないし、ホンマは根性悪いんとちゃうか思っとったけど。なんやずいぶん変わったんちゃうか?」

「そう?」

「シンジのせいか?」

「わからない……でも…そう、かも……しれない」

 逡巡しながら返した声は、もうすっかり震えていて。どこにでもいる女子と変わらない反応を返す彼女は本当に綾波レイらしくないと、トウジは胸裡で苦笑した。

 

 

 

 

 

 東の方から藍色の帳が下りてくる。西の稜線に紅色にじみを残して、日は暮れようとしていた。

 トウジは腕時計に目を走らせると、こらいかん、と呟いて歩道の脇に転がしてあったサブバックを掴んだ。

「遅くまで付き合わせて悪かったな」

「いいえ」

 レイも学生カバンを掴む。

「ワシ、明日、早いんやった」

 ぴくり、とレイのカバンを持つ手が震えた。

 その台詞に、鈴原トウジは明日、松代に行くのを思い出す。

 トウジの溜め息交じりの憂鬱そうな声がする。

「センセとケンスケにごっつ文句言われるんやろなぁ」

「何故?」

「男の友情に、内緒はなしなんや」

「?……そう?」

 何のことか解らずキョトンと首を傾げるレイを見て、ちょっと臭かったかとトウジは思う。シンジにもケンスケにも明日自分が松代に行く事は告げていない。もとろんその目的も。ケンスケとシンジとそれぞれに気の使いどころは違ったが、騙しているような気がして後ろ暗いのは仕方がない。後日バレるのは必至だが、どうしても今は言う気になれなかった。

 だが、どうやら綾波レイは事情を知っているようだ。

「一人で帰れるか?」

「……ええ」

「そうか。ならええな」

 トウジは左手を軽く上げて踵を返した。

「ま、これからよろしゅう頼むわ。ワシ、初心者やさかいなぁ。ほなら、またな」

 努めて明るく言い放ったトウジに、レイはどんな表情を返したのだろう。

 走り去るトウジの背中を眺めながら、ふとレイは左手に握り締めたままのハンカチに気付いた。慌てて顔を上げてトウジの姿を探すが、その背中は既に暗がりの中に滲んで遠く小さかった。せっかくのハンカチも土と泥で真っ黒だ。

 洗濯をして、彼が松代から帰ったら返そう。

 そう思い無造作にポケットに突っ込んだ。

 歩き出したレイの足が水をピシャリと撥ねた。あの水溜まりだ。

 “鳥”は、銀杏の根元でいずれ土へと還り、無に還る。生きようと足掻いていた姿は当分レイの脳裏に残っているだろう。

 あまりに小さく、あまりに脆い姿——。

 あの時、私は“あれ”をどうしたかったんだろう?

 あの、苦しみもがく姿を見て、どうして手を伸ばしたんだろう?

 もしももう一度“あれ”と同じモノに出会ったら、私はどうするのだろう?

 きっと、そのときになってみなければわからない。

 助けるために手を伸ばすのか。

 それとも、楽にするために手を伸ばすのか。

 小さく溜め息をこぼして、レイは家路へと歩きだした。

 もうすぐ夜になり、そして日が昇る。

 そして。

 

 

 

 ——あの、長い一日が、くる。

 

 

 

 

 

*       *       *

 

 

 

 

 

 高い天井と四方を囲む壁と磨いた床。何もかもが白く彩られ、灯る蛍光燈が更に白く染めあげる。そして、この清潔な白さが目にする現実を一層惨く見せるという事も知っている。

 けれどその無残な現実はレイのものじゃない。

 今、ここに横たわる彼のものであり、別の病室で昏倒しているもう一人の彼のもの。

 ——鈴原くん。

 青い顔をして横たわる鈴原トウジの姿に、レイは膝の上で両手をぎゅっと握りしめた。

 使途に取り込まれた三号機と共に処理される筈だった命は取り留めた。けれど代償は支払われてしまった。不自然に窪んだベッドの膨らみの下、そこにあるべき筈のものは永遠に失われたまま。

 私は引き金を引けなかった。銃口は向けられても引き金を引く指が使途のスピードについてゆけなかった……。いいえ、引くことが出来なかった。

 あの時。引き金に掛けられた指は何のためだったんだろう。

 助けるため。

 それとも楽にするため?

 結局、その時になっても分からなかった。伸ばした手の先で答えは零れ落ちてしまった。

 きつく握り締めた手の中で、綺麗に折りたたまれたハンカチがくしゃりと潰れた。

 

 

 

<< END >>

 

--Januar 8, 2016


■By 日下智

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