古びた建物の4階、生ぬるい雨上がりの空気がゆっくりと流れる。そんな暗い廊下で部屋の扉の前に立ち、少女は悩んでいた。体の脇にだらりと下げた左手と、いつもの通学鞄を持った右手を見比べ、しばらく考えてから鞄を床に下ろす。 空いた手でノブを引き、軽くひねった肩でドアを支える。そして再び鞄を持ち上げするりと室内へ体をすべらせる。軋みながら扉は閉まり金属質の音が響く。

 そして薄く埃の積もった部屋を横切りベッドの傍にたどり着くと、レイは拾ってきた猫をシーツの上に置いた。



綾波と猫





 その30分前、綾波レイは道端にうずくまる猫を見ていた。

 乾きかけのアスファルトから立ち上る水蒸気と、夕方と言うには今だ早い時間の日差し。そんな中で猫は動かず、ただ水溜りに映る雲に目を向けている。レイは三歩ほど離れた所で立ち止まっている。

 誤解を恐れずに言うならば、綾波レイは奇妙な存在だった。整った、そして特異とも言える外見のためでは無く、他者との関わりが際立って少ないと言う点において。学校は言うに及ばず、その所属する組織の中でも彼女が自発的に話す相手は存在しない。ほぼ唯一とも言える例外的な相手との関係も、男の側かららすれば必要な道具としての側面を忘れる事の出来無さと、追い続ける女の面影が彼を臆病にさせていた為、どこか超える事の出来ない壁を彼女に感じさせるような物だった。それでいてレイは超然と、ただ独りであると言うことになんの痛痒も感じていないように見えた。そして身に纏った孤独への耐性こそが一層他人を遠ざける。それが真実であるかどうかに関わらず。
 そんな彼女が、今は何故か猫を見ている。

 小さな茶色い毛皮に浮かぶ細いあばら。目には薄く膜が張ったように光が無い。
 黙ったまま表情も変えず其処にいる少女。時折吹く風が髪と制服を揺らすだけ。
 その小さな生き物にはもう動く力が無いのかも知れない。レイがなぜ動かないのかは解らない。多分、本人にも。

 交通量の少ない道を何台かの車が走り過ぎ、鳴き疲れ地に落ちた蝉の死骸を運ぶ蟻達がレイの足元を通りすぎた。やがて何時しか少女は一歩を踏み出す。
 彼女が価値を認める事柄は非常に限られた物であり、その中には道端で行き当たった小動物など含まれてはいなかったはずである。けれどレイは手を伸ばして首の後ろを掴み持ち上げていた。理由は解らない。

 解らないことばかりではあるけれど、細い指に持ち上げられた猫は暴れもせず身を任せた。
 それだけは確かな事。


 そして今、レイはベッドの上でじっとしている猫を見ながら、この部屋に「他者」が存在する事にかすかな不安を感じていた。
 ここを彼女が与えられてから随分と長い間、だれも訪れはしなかったのだから――数週間前の再起動実験の日にやってきた少年以外には。その日の事にしてもほんのわずかな時間であった所為か、あまりそういったことを感じはしなかったのだが。
 けれど今、自分ともう一つの存在を同じ空間に感じながら、レイはこの場所が変わってしまったように思う。そんな感触に戸惑いながらも、何らかの行動を起こさなくてはならないと考えた。ここに運んだのは自分なのだし、猫は動く様子が無い以上は。

 観察の結果外傷は見当たらず、また病気であるならば自分に出来ることは無い。ならば食事を与える事ぐらいしか出来ることは無いと判断。
 この部屋にある唯一の食料である固形食を戸棚から取り出し、鼻先につき付けるレイ。
 そっと首を動かし匂いをかぐ猫。うす紅い舌を出し舐めはするものの、それ以上の事はせずさし伸ばされた手を伝ってレイの顔を見る。
 少し首を傾げてから、固すぎるのだろうかと考え、砕いて水でゆるめた物を指ですくい与えてみた。
 指先に感じる息の生暖かさにわずかに眉をしかめ、やがておずおずと伸ばされた舌のざらつきに驚き目を見開く。



 そして半分ほどを食べ終えた猫は、そのまま眠ってしまった。ベッドの脇に立ったままだったレイは、今その横に腰を下ろしている。
 一日中閉められたままだったカーテンの隙間から漏れる月の光。
 青白く染まった部屋の中、ほんの小さな息遣いとその横でじっと緊張している少女。

 ゆっくりと、本当にゆっくりと伸ばした手が伝えてきた物は、しめった毛並み、ぐにゃりとした皮、そのすぐ下の細いあばら、そしてかすかな鼓動。生きていると言う事。そして彼女には判るかすかなもの――心と世界を区別するもの――A.T.フィールド。
 それを感じながら、レイはふと思った。

 殺して見ようかと。

 暗く赤い水槽で二人目として目覚めて以来、レイは生物が死ぬところを見たことが無い。使徒と呼ばれる自分に似た存在の仕方をしたものは別として。
 今触れている手を少しずらし、頚骨を捻ればこの小さな生き物は死ぬだろう。そうレイは思う。
 そしてそのとき何を自分は見るのか?
 息は絶え、体は冷え、鼓動は止まるだろう。けれど、それ以外のものはどうなるのか?

 感情、心、魂。呼び名などは如何でも良い。“自分”を形作るものは?

 多分、無に還るのだとは思う。けれど、もしかしたらそうでは無いのかも知れない。
 それはここを、今の体を離れどこかへ飛んでいくのかも知れない。自分にならそれを感じる事が出来るだろう。そしてその後を追う事も。その先で何を見ることか出きるだろうか?
 死んだ体を出たものは、あの水槽と同じような所で新しい体を見つけるのかも知れない。自分と同じように。新しい体で目覚めた猫は、其処を離れ暮らしていく。前の記憶を無くして。やがて何時か其処へ戻る時まで。自分と同じように。綾波レイは空想する。とても暗い場所を。その自ら光るような赤い水だけが光源の水槽を。其処には猫が、犬が、沢山の動物が、そして人間が、浮かんでいるのだ。何千も。何万も。何億も。自分と同じように。

 レイは手を動かした。わき腹から首へと。猫は動かない。

 指で輪を作る。その小さな手でも充分に掴める細い首の周りに。
 赤い目が向いているのはその手だけれど、見ているのは脳の中の水槽だった。沢山の人間たちが浮いている。虚ろに笑いながら。自分達と同じように。

  本当にそんな場所があるとは思っていないけれど、それでも、万が一にも、この猫にも、他の生き物にも、綾波レイ以外の存在にも、代わりがいるのなら――
「それは、私がこの世界からはずれていないと言う事」
 そう呟いた自分の声に驚いて、レイは小さく肩を震わせた。

 伝わったであろう振動にも猫は目を覚まさず、レイも手を離さない。

 変わらずレイが想うのは人々の浮かぶ水槽。沢山の人たち。同じ顔が何十とセットで笑っている。学校で見た顔達が。ネルフで見た顔達が。お下げ髪の少女の顔が、老教師の顔が、ジャージの少年の顔が、メガネの少年の顔が、黒髪の女の顔が、童顔の女の顔が、白髪の老人の顔が、白衣の女の顔が、浮かんでいる。
 そしてもう一人の顔が見えそうになった時、嘔吐感がレイを襲った。
 こみ上げる吐き気に耐えきれず、流しへ走る。朝にとった固形食は消化されていて、吐き出せたのはコップ一杯分の水。それでも暴れる事を止めない内臓は胃液を吐き出させて喉を焼く。咳き込みその所為でまた胃液を吐く。横隔膜を捻り上げるような痛み。口元からこぼれる濁った音。やがて力の抜けた体はそのまま床に座りこむ。喉の痛みと酸の臭いを不快に想いながらも、ただそのままでいた。

 ふと上げた目線が、光るものを捕らえる。ベッドの上から猫が見ていた。

 こんな時、人は泣くのかもしれないと思った。
 レイの目から、涙がこぼれる事は無かったけれど。



 結局、その後ろくに眠りもせずに一晩を過ごした。何度か意識を手放しはしたが動く気もせず流し台に背中を預けながら迎えた朝。

 あの時一度だけ目を覚ました猫はすぐに眠っていたが、朝になって空腹を覚えたのか床に降り、レイに近づいて指先の臭いを嗅いでいる。それをしばらく見つめた後、どこか惰性じみたゆっくりとした動きでレイは昨日と同じように食事を与え、自分の朝食を済ませた。

 満足したのか猫はすっかり自分の場所と定めたのかのように、ベッドの上に戻り体を丸めた。着替え登校の準備をはじめたレイを見もせずに眠っている。

 エヴァと同じなのだ。
 人が自分と関わるのがエヴァに関してだけである様に、この生き物が自分を見るのは必要性がある時だけなのだろう。そうレイは思い、そして少し安堵する。それは予想のつく慣れてしまった関係だから。けれど解らない何かも同時に感じていた。寒さに似た何かを。

 そして靴を履き扉を閉めようとした時、彼女は迷った。 
 今日はネルフに行く予定は無いものの、放課後には戻ってくることを猫が理解できるわけは無い。
 なら外に出たがるだろう。食料を手に入れられないならば、ここにいる理由もないのだから。
 出口を探して歩く猫の前で、鉄の扉が閉まっている。そんな光景を空想し、なぜだか嫌な気分になった。
 軋む扉を大きく開く。錆びきった扉止めは利かず、閉まりそうになる戸の下に適当な紙くずをさし込んで固定する。
 玄関からベッドは見えない。けれどレイはその上で眠る猫のいる方向に目を向け、何か言いそうに口を開きかけ、けれどなにも言葉にせず立ち去った。


 晴れ上がった空。教材に書かれた事を読み上げるだけの授業。グラウンドからの白い照り返し。自分の周りから人が減り、教室が広がった様に思える休み時間。薄緑に光る端末の液晶。遠く聞こえる他人の話し声。それは綾波レイが今日学校で感じたものの全て。

 放課後、レイは教室に残っていた。掃除も終わり人影は無い。窓際の席に独り。
 そして、帰ろうと決断する。
 誰も、何も居ない部屋へと。

 教室の戸を開く。人気の無い廊下と階段を通り、靴を履き替える。

 彼女を見るものは無く。語りかけるものも無い。無へと還るまでの身の置き場。
 それはあの部屋だけでなく、この世界全てなのだと。そう思いながら。


 でも、そうでは無かった。

「綾波」

 校門の前、レイは少年に呼びとめられた。
 何時もならば、ただそれに続く言葉を待つか、そうでなければ一言『何?』という事が出来ただろう。けれど、今は。
 レイは別に隠れていたわけでもなく門柱の横に立っていた少年からの声に、本当に驚いていた。
 彼をたじろがせる勢いで首を向け、目を見開いて少年を無言のまま見つめる。
「あの、別に大した用って訳でもないんだけど、その……どうしたのかなと思って」
 レイの様子を見て、それに驚きながらも、どこかやはりといった感じで彼は言葉を続ける。
「ゴメン、意味わからないよね、これだけじゃ。何て言うかさ、今日の綾波なにか、今もそうだし、上手く言えないんだけど、えっと……考え事してるって言うか、いや、綾波って何時もなにか僕には解らないようなこと考えてるんだろうなって感じはするんだけど、今日のは違ってて」
 レイは少年を見る。赤い瞳を瞬きで覆う事も無しに。
 それに彼が耐えられたのは、つかえ、目線をあちこちに飛ばしながらも話し続ける事が出来たのは何故だったろうか。
「普段は、僕なんかよりずっとしっかりしてて、何が有っても平気って言うか、大人の人みたいな感じなんだけど、でも、今日は……今日の綾波の目は」
 其処で言葉を切り、レイを見つめなおしてシンジは言う。
「泣き出しそうだった」
 そこで言葉は終わった。


 自分が泣きそうだったとはレイは思わない。涙を流した事など有りはしないし、自分にそう言う機能が有ると意識した事も無いのだから。
 けれど、今日、自分はいつもと違っていたのだろうか? 違っていたとしても、それが大きな違いだったとは思えない。普段と変わったことをしたつもりは無いのだし、そもそも学校でする行動などたかが知れている。
 それなら、彼は、その小さな違いを見付けたからこそ、あんな事を言うのだろうか?
 それが間違いだとしても、その目の、以前から向けられていた先は自分なのか?
 そして自分は――本当にそれは間違いなのだろうか?

 長い時間が過ぎていたのかもしれない。意識を外界に戻した時、こちらを見るシンジの目が揺れていた。それを見たレイは、自分の言葉が待たれていた事に気付く。


 だからレイは一言だけを口にする。

「ねこ、拾ったから」
「え?」
 それが原因なのだし、それ以外の言葉も思いつかなかった。
 唐突な声に驚き口を開いた姿に、肩が軽くなる。水の中に入った時の感じ。
「見に来る?」
 泡の様に浮かび上がって来たことをそのまま口にして、呆然としている少年の返事を待たず、歩き出した。


 綾波レイは思う。
 あの猫は、まだ部屋に居るかもしれない。
 ベッドの上に丸まって、待っているのかも知れない。
 シンジは、付いて来るかもしれない。
 今だ状況が掴めずとも、もうすぐレイの名を呼びながら後を追い始めるかもしれない。



 私は、ここにいるのだから。と、そう思う。




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