壁の中の街で霧と踊る 序章

1

 赤黒い剥き出しの地面に、壁が立っている。
 衝撃波で削り取られた山の残骸の中に、壁が立っている。
 あの時以来形を変えた海岸線の隣に、壁が立っている。
 焼け焦げたトラックの横に、投げ捨てられた小銃の傍に、誰の物とも知れない骨の傍らに、壁が立っている。

 その壁は何処までも続き、やがて一周して中と外とを切り離している。

 所々で垂直を保っていない荒いコンクリートの表面。
 上端に張り巡らされている錆びきった有刺鉄線。
 大きな亀裂を覆って打ち付けられた歪んだ金属板。
 雑な作りは、短期間に建てられた為だけでは無く、世界に余裕が無かった所為。

 ヒトの恐怖と逃避が作り上げた壁。

 薄青い太陽が荒れ地の中、それを照らす。

 その壁の向こうには、折れ曲がった電柱が、崩れたビルが、赤く染まった湖が、
 サードインパクト以前に第三新東京市と呼ばれていた街が、ある。


 そして夕暮れ時に、その街は霧に包まれる。


2

 仕事を終えたシンジは、いつもの様に時間を潰してから立ちあがった。
 同じようにその時間を避けて帰宅を送らせていた数人に声をかけてから、隙間に布を硬く詰め込まれた扉を開け窓の塗りつぶされた部屋を出る。

 外に広がるのは白く霞んだ暗くなって行く空と剥き出しの黒い土。

 離れた所には、山よりも大きな影が有る。その形を崩さぬままに、そして質量からすればほんの僅かな影響しか与えずに空から落ちた黒い卵が、あの日、シンジが目を覚ました場所が有る。

「自転車、直さなきゃ」
 建物の脇の駐車場を見て呟く。以前そこに止めていた自転車はチェーンが切れたまま家の横に放り出してある。

 剥き出しになり地面に落ちたジオフロントと逆の方に伸びる細い道をゆっくりと歩き、家に向かう。
 昇ってきた月から目を逸らし、下をむいて歩く。

 霧を避けるのにも、月を視界に入れない様にするのにも、もう慣れた。
 当たり前なのかもしれない。
 三年もあれば、人は大抵の事に慣れたり、なにかを忘れたり出来るのかも知れない。
 もしかしたら、傷も、罪も、洗い流せるのかも知れない。
 そう、シンジは思う。

 背負った荷物の重さに足が止まりかけた頃に辿り着く。
 帰るべき所。
 十数の仮設住宅と、崩れかけた以前の家屋を無理矢理に補修した物が並ぶ場所。
 この街に幾つも有る、一人にはなりたくない、けれど一箇所に集りたくは無い人たちの棲家。

 その雰囲気が違う事に気が付いた。
 慌ただしさの欠片が漂っている。開けっぱなしのドアが幾つか、数かに聞こえるざわめき、何時もはこの時間消えているはずの家の灯り。
 あたりを見渡し、見つけた人影に声をかける。
「なにか、あったんですか?」
 道の向こうを見ていた背中が、一度震えてから振り帰る。
 パーマの取れかかった肩の長さの髪。日に焼けた顔。シンジを見る細い瞳。
 シンジの隣の家の住人だった。
「ああ、あんた」
 歳の割りに少ししわがれた声だな。そう思ってから彼女の正確な年齢を知らないことを思い出して少し嫌な気分になった。
 きっと四十前だよね。自分の中で決める。そうしないと何か落ち着かなかったから。
「三軒向こうの長瀬さんがねぇ……」
―たしか、奥さんが還ってこなかったひとだ。
 そうシンジは思う。
「ああ。また?」
 何度か、霧の後に奥さんと話をしたと言い張り、それを信じない周りの人間と喧嘩沙汰を起こした事があった。
「ただね、今度は居なくなっちゃってさ。皆で探してたんだよ」
 声をひそめて言う。昔、近所のおばさん同士で井戸端会議をしていた時の様に。
 人間なにがあっても、そう言う所は変わらないのかもしれない。
「で、見つかったんですか?」
「何とかね。さっき連れ戻してきたとこだよ」
 疲れた様子でそう答えた。
「ああ、良かった」
 自然に声が出た。
 そういう事を普通に言えるようになった自分。
 シンジはあまりそれが好きではない。本気で思っていない事を話の流れで口に出せる事が。
「まあ、そうなんだけどね……」
「どうしたんです?」
 浮かない顔を見て、不思議に思う。
―いつもは意味なく笑っているような人なのに。
「見つかったのがさ」
 そう言って、さっきまで見ていた方に目を戻す。
「まさか、壁の、」
 その視線を追ったシンジの言葉は、喉にからんで消えた。
「そうなんだよ、すぐ傍って訳でもないけど、壁が見えるぐらいのとこでね」

 答えた声も暗く、何時の間にか静まり返った道に、ただ風が吹いた。


3

 シンジの部屋には意外と物が多い。
 奇跡的に歪むだけで、足が折れたりもしていない低いベッド。
 休みの日に遠出して見つけたグレイのカーテン。
 たまにどこかの放送を拾い上げるラジオ。
 配達の帰り、車で運んだ大きめの姿見。
 多少うるさいが、中身を腐らせる事の無い冷蔵庫。
 配給の合成食と交換して手に入れた雑誌や本が床の上に散らばっている。
 決して広くない部屋に適当に詰め込んだ所為も有るのだろうけれど。

 ここが、国連があの頃に、かって多くの人がこの街に生贄と理由を探しにやって来たあの頃に建てた幾つもの仮設住宅の一つ。それが今、シンジの帰る家だ。
 
 たまにしか日に当てないベットのシーツの上に上着を放り投げ、シンジは背負っていたナップサックから今日働いた分の食料を取り出す。
 合成食はそのまま冷凍庫に仕舞い、交換用に取っておく。
 ほんの僅かに付け足された米を研ぎ、炊飯器に入れ、朝炊き上がるようにセットした。
 冷蔵庫の中を覗き、軽くため息をつく。
 保存の聞く野菜が幾らかと、何となく入れたままの缶詰が数個。
 畑を作った住人も居る野菜はともかく、それ以外は手に入る当てが無い。
 何故か、どうしても合成食を食べる気になれないシンジの食卓がにぎわう事は暫くなさそうだ。
「栄養、偏るよなぁ」
 そう言いながらも、初めて赤く濁った色のそれを食べようとした時の不快感を思いだし、もう一度ため息をついた。
「まあ、ちゃんとしたもの食べてない割りに背は伸びてるし、良いんだけどね」
 すっかり癖になった独り言を呟きながら横になる。シャワーを仕事場で住ませてきた事も有り、そのまま寝る事にする。

 今夜も、夢は見なかった。


4

 何時もと違う配達ルート、それがいけなかった。
 その所為で、シンジは彼女に会った。

 悪路と慣れない道の所為で時間が掛かり過ぎ、最後の配給所を回り終えた時には夕暮れを車中で迎えるしかなくなっていた。
「この道を日が暮れてから通るって訳にもいかないしな。ま、諦めろや」
 そう助手席から声を掛けてきたのは、何度か一緒に働いた事の有る男だった。
「まあ、仕方ないですけどね」
 そう答えながらシンジは、荒れた路面にトラックを走らせる。
 細かく振動し続けるシートに座り、跳ねようとするハンドルを押さえつける。
―そう言えば、名前聞かなかったや。
 隣の男のである。いや、前に聞いた事は有るのだろうけれど、シンジはそれを思い出す事が出来なかった。
「……なんで、残ったんだ」
 そう聞かれた。
「他に行くところなんて無かったですから」
 きっと意味のない質問に、最初に浮かんだ言葉で答えた。
「そうか」 
 会話は途切れ、日は傾く。
 暫くして、ひび割れた唇がもう一度動いた。
「あいつが……還ってこなかったんだ」
―そう言う人がほとんどですよ、ここに居るのは。
 口に出さずに答えた。
―この人も、久しぶりなのかもしれない。だから、不安で黙っていられないのかな。
 シンジがそう思い、なにか言おうとした時、幾らかましな道に差し掛かった時、何処からともなく、霧。

 赤い色の霧が。

 車を止めた。
「なあ、お前は如何する?」
 普通の住人にとって、霧の中で他人と居るのは楽しい事ではない
 泣き顔も、笑顔も、まして震える肩も、見たくも見せたくも無いから。
「僕は……」
 言葉を探して濁したシンジを遮り、
「俺は降りるよ」
 そう男は言った。
「……終ったら、戻ってくる」
 それだけ言って、白い物の混ざり始めた頭が外を向き、ドアが開き、閉じる。

 シンジは独りになった。

 濃くなって来た窓の外の赤色から目を逸らし、瞳を閉じた。
 このままじっとしていれば善い。あの人が戻ってくるまでこうして目を閉じていれば善い。
 そうシンジは自分に言い聞かせた。
「ほんの三十分じゃないか」
 目蓋の裏の暗闇の中、また独り言。
 それぐらいの時間で霧はいつも晴れる。
 何故か思い出せないあの男の名前を考えていればすぐに時間がたつ。

 そのはずだった。

 呼ばれた気がした。

 だから、目を開けた。

 まだ霧は出ていた。

 すぐに目を閉じた。遅かった。

 懐かしい制服が、揺らめく髪が、こちらに向いた瞳が、白い肌が、窓の向こうに、霧の中に見えた。

 閉じた目の中にその姿が焼き付いていた。
 そのままずっと震えていた。

 ただ、
―なんで、右腕が無かったんだろう。
 それが判らなかった。


―なんで、あの幻には、あの幻の綾波には、右腕が無かったんだろう。





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