壁の中の街で霧と踊る 一章
5
次の日シンジは仕事を休んだ。
連絡はしなかった。
シンジがそうやって休むのは初めてだったが、無断で休む人間は何時も誰かしら居た。
だから問題は無かった。
集配所には実際に仕事をする以上の人数が集って、あぶれた者は一日そこで過ごしていた。
だからシンジが休んでも何も変わらなかった。
ベットに寝転んで、天井を見ていた。
「怖かったわけじゃない」
そう呟く。
それは本当だった。
ただの幻なのは解っていたから。
あの霧の中では皆、誰かに、誰かの幻に出会う。
それは当たり前の事だ。その幻を振りきれなくてここに残った人間も多い。
そして、それを見ようとしない人間も多い。
シンジは後者だった。
何度か霧を避けきれず見たのは、ミサトの、カヲルの、ゲンドウの、レイの、あの人たちの姿だった。
嫌っても、恐れても、求めてもいないけれど、見たくなかった。
あの頃の事を思い出させるから。
自分に出来る他人との距離の取り方を知らなかった頃のことは、思い出したくないから。
あの、どうしようもなく惨めな、夏の日々のことは、忘れてしまいたいから。
そしてシンジはそのまま眠った。
今日も、夢は見なかった。
6
薄く埃の積もった廊下、足取りの重さを0.6゚傾いた床の所為にしながらシゲルは歩いていた。
もう以前の塵一つなく清掃されていたその姿を思い出す事もない。
そして目指していたドアの前で立ち止まり、軽く息を吐いてからノック一つ。
返事は無く、ただドアが開かれる。部屋の中に入ると、端末を覗きこんだままの人影から声。
「なに?」
やっとこちらに向き直ったマヤの顔に溜まった疲労を見た。
肩に掛からない程度に伸びた髪が揺れ、その影を一瞬隠す。
それを見なかった事にしようと決め、要件を告げる。
「明日の会議に出すデータを見ておきたいんだよ。こっちが足並みそろえとかないと厄介だ」
自分の言葉で気に入らない相手の顔を思い出し、シゲルは軽く眉をひそめた。
「そう」
「ああ、解析結果はどうなってる?」
ためらい無くマヤは答えを返す。以前の上司の様に。
「後六ヵ月。このままの状況が続けばそれだけよ、この街の寿命は」
固い口調はこの数年で身に着けたもの。
それが必要だったのだろうとシゲルは思う。
自分が伸ばしていた髪を切ったように。あいつが今でも軍の記章を外していないように。
マヤには、そうすることが必要だったのだと。
「六ヶ月か……」
空回りする疲れた頭は、聞いた言葉をただ繰り返し意味を薄める。
「減り続ける外からの物資、疲弊していく各設備、広がる閉塞感……発電関係の施設がほぼ無傷なのだけが救いだけど」
マヤは言葉を切り、首を振ってその続きの代わりにした。
「電機だけ有ってもな」
―エヴァじゃあるまいし。
自分の思考に笑いそうになる。
「その電力にしても、無限にあるわけじゃないわよ。まあ、先に他の限界が来るでしょうから構わないって言えばそうなんだけど」
ネルフに備蓄されている燃料は今やそう多くは無い。
電力の消費量自体が以前と比べ物になら無いほど落ち込んでいることが幸いだった。
「……不安が無いのはプラントぐらいね」
驚いた顔に気付いたのだろう、軽く笑ってマヤは続ける。
「あれは解らない事だらけだもの、気にしてたら始まらないわよ」
「ああ」
事実上ネルフの、いや、この街の生命線となっている存在への不安を思いだし、そっけなく答える。
「そっちの方は?」
今のシゲルの仕事は、この街全体の管理だ。
―もっとも、やってることは町内会長レベルだけどな。
実際にはそれほど酷くは無い。
技術部以外の旧職員の指揮。施設の補修や破棄された区画の発掘と封印。
外からほんの僅かに送られる物資の分配。特に医薬品等の貴重な物はシゲルの指示でしっかり統制されている。
……一番多い仕事が喧嘩の仲裁なのは事実だが。
「相変わらずさ。下らない揉め事ならいくらでも起きてる」
職員と住人と元戦自隊員と。揉め事の種は尽きない。
「でも、深刻な騒ぎは無し?」
「ああ、それいつもどうりさ」
肩をすくめシゲルは答える。
「でしょうね」
「?」
「きっと怖いのよ、皆。……ここの中の人が一人でも減るのが」
―本当に、似て来た。
「そうかもしれないな」
先ほどと逆に彼女はこれで善いのだろうかとも思う。
こうしていることは、酷く残酷な事ではないのだろうか。
いなくなったあの人の変わりをさせているのは。
しかしすぐに、どうしようもなく、また自分も同じであると気付く。
だから、ただやらなくてはならない事をする。考える事を止めて。日常の、この変わってしまった日々を流されるために。
「後……外はどうなってる?」
「よくないわ。大したデータが無いからはっきりした事は解らないけど……」
―ここに構っている余裕が無いんだろうな、結局。
外の連中からしてみればこんな街に情報を知らせる手間など無駄意外の何物でもないのだろう。
「食料の生産量は三分の二程度まで落ちてると思う。工業製品、特に精密な加工の必要な物は五分の一って所じゃないかしら」
全ての外部回線を封印された、しかしそれでも世界有数の能力を持つMAGIが推定したデータが呼び出される。
「酷いな」
「人口が減ってるから何とかなってるようなものよ。正直言って」
「回復の可能性は?」
低い声で聞いた。
考えこんだ後でマヤが口を開く。
「……厳しいと思う」
今、あの時と、セカンドインパクトの後と違う条件が有った。
「一番の問題は太陽、いいえ、太陽光を遮っているガスの存在ね」
「ガス……あれの、残骸か」
あの時、発令所で見たモノ。
白い体。あまりに非常意識な、それでもMAGIはヒトと判断したモノ。
何時の間にか消えた、いや、その有り方を変えたモノ。
「ええ、あれ以来成層圏全体に広がったガス状の物体の所為で、地表に届く光は可視領域で10%、そして赤外線はそれより更に少ないのよ」
外を照らす青白い太陽を思い出す。
「農業はもちろん、海洋生物への影響も無視できないレベルになっているはずだもの。それに、」
「まだ何かあるのか?」
モニタに現在のこの星の熱収支がグラフ化された。
「はっきりしたデータが送られてこないからなんとも言えないんだけど、このままいけば極冠氷が再生するはずよ」
「おい、今の極地って、」
セカンドインパクトで移動した南北の極地を思い浮かべ、シゲルの声は震える。
「ええ、大西洋北部と南太平洋が凍る事になるわ」
それは、かろうじて生き残った海上輸送網が寸断されるだけでなく、海流の変動をひいては大規模な気象災害の発生を意味した。
本来数万年のスパンで起こるべき、大気と海流に拠る熱交換の変化がほんの僅かな時間で狂う事になる。
「また、あんな時代が来るって言うのか」
セカンドインパクト以降の数年間、世界の死人の半数近くは自然災害によるものであった。
シゲルもマヤも、子供時代をそんな中で過ごした世代である。
日常と化した水害。その合間に訪れる旱魃。
それが再び繰り返される。しかも、ほぼ確実に。
「対策は?」
―この部屋で今日何度目の質問だろう
そんな事を思いながら聞く。
「不明。そもそもガスなのかも解らないわ。取りあえずここからじゃそう見えるってだけで、サンプルも無いもの」
シゲルの方を向いたまま手元も見ずにマヤの指がキーボードを叩く。
映し出されるのは地球の模式図。
それを薄く覆う白い幕。
「実際には数百メートル程度の厚さが有ると思われるの。これを何とかしない限り」
「人が滅ぶ、か」
「そこまで行かなくても、文明の保持はほぼ不可能なレベルに後退すると思う」
二人とも現実味の無い口調で言う。
暫くの沈黙の後、冷え切った声。
「ただ、一つだけ手が無いことも無いけれど……」
「?」
疑問を乗せて見つめ返したシゲルに、ただ一言でマヤは答える。
「コアの破壊」
「それは……」
「もちろん何が起こるか解らないけど」
かすれたシゲルの言葉を遮り、言う。
「上手く行けば、全て消えるかもしれないわよ」
言外に失敗の可能性を告げる。
「しかし、もしも……いや、上手く行ったとしても」
戸惑いがシゲルの思考速度を引き下げている。
「ええ、そうね」
返す声は冷たい。
「どうする?私達をここに閉じ込めて忘れようとしている世界の為に、賭けてみる?」
こたえは、無かった。
7
結局いつも通りの打ち合わせを気の抜けたままに済ませ、シゲルは帰っていった。
また一人になったマヤは、端末をスリープさせて深く椅子に座り直す。
手を机の上にさまよわせて、冷え切ったマグカップを掴む。
「……タバコ、吸えればいいのに」
ぼんやりと呟く。
何度か残されていたタバコを吸おうとして、どうしても自分には向いていない事が解った時は少し悲しかった。
今はただ疲れと苛立ちを消してくれる何かが欲しかった。
「何で言えなかったのかな」
膝の上で手を組んで天井を見上げる。
マヤがこのところ塞ぎこんでいる理由の一つは、秘密を持った事に有った。
その事実が怖くて、自分の仮説が信じられなくて、もしかしたらと言う希望が消えそうで、誰にも言っていないことが出来た。
―どうせ、間違ってるに決まってる。
なんの整備もしていなかった機材が、ほんの一瞬拾ったノイズだらけのデータ。
子供の積み木遊びのようにただ積み上げただけの、仮定。
―絶対、間違ってる。でも。
「私どうしたら良いですか?」
焦点を失った目が見るのは、きっと……
8
翌日は、またあの男と同じ組になった。
「どうしたんだ、昨日来てなかったろ?」
島村はそうシンジに聞いてくる。
―島村ヨシオ
そういう名だと、出発の前に配送のための書類で名前を確かめて来た。
「寝てました」
言葉少なに答えると、何倍にもなって帰ってくる。
「いかんなぁ、いい若いもんがそんなことじゃ。まあ、何もしなくたって食っていけるにしてもな……」
暫く続いた説教を聞き流して運転を続けるシンジ。
そして、急に黙った島村が硬い視線で聞いてきた。
「そう言えば……」
「なんです?」
雰囲気が変わったのに気付き、促す。
「あんたの住んでる辺りで、最近壁のほうに行ったやつがいたんだって?」
「ああ、もう噂になってます?」
代わり映えのしない毎日、知り合いの顔ぶれも変化することもない。
当然、少しでも変わった何かは、どうしても必要な娯楽として広がる。
「まあな」
少し恥ずかしそうに鼻を掻いて、また聞いてくる。
「で、どうだった?」
「壁の見える所まで言ってたとしか聞いてないです」
「そうか、すぐ傍まで行った、って話になってたんだがなぁ……ま、所詮噂だからな」
ため息をつき、顔に似合わぬ細い声で言う。
「そうですね」
―みんな気になるんだ。やっぱり。
壁については、噂が多い。
越えようたしたある男が撃たれた、門番に賄賂を渡して出ていった奴が居た、何処かに穴が開いている。
そのどれもが、ただの噂だろうとシンジは思う。
―きっと、外に本気で出ようとする人間はもう、ここには居ないのに。
そして、シンジのその考えはほぼ事実だった。
壁に近づいた人間は居た。しかしそれに触れる気になった者は居なかった。
ただ一つの門は、閉じられた日から一度も開いたことはない。
その向こうに何が有るのか、門を、壁を、守る者が居るのか。それを知っているこの街の人間は居ない。誰も。
そして一日が終る。
シンジは仕事を済ませると、いつもの様に霧の出る時間を避けて夜家に帰る。
独りの部屋で、眠りに落ちる。
今日も、夢は見なかった。
9
「後二年か……微妙な数字だな」
四角い顔のその男は、マヤの報告を聞き終えると眉をひそめ髭を触りながらそう言った。
隣に副官を従え、シゲル達の反対側の席に座っている。
「ええ、楽観は出来ませんが慌てて動くほどでは有りません」
―昨日の敵はなんとやら、か……
この男、近江コウヘイとこうして同じ席についていることを、今更ではあるが不思議に思いつつもシゲルは答える。
「では何もしないと?」
「いいえ、外への働きかけは続けるべきでしょう」
以前の階級に従い、敬語を使って言う。
「ただ、方針を大きく変える必要は無いかと」
「なるほど、要求は物資と情報の提供に留めたままでいたい訳か」
「ええ、向こうは今だ我々に対し不信感を持っているはずです。それを不必要に大きくする事は無いでしょう?」
「我々ね……」
「何か?」
コウヘイが自分を見つめながら唇の端だけで作った笑みにいらつきながら、シゲルは尋ねる。
「いや、その"我々"に俺達は入っているのかと思ってな」
苛立ちも、思わぬ所に飛んできた問いかけに拠る同様も押し隠して答えた。
「勿論です」
それをしばらく見つめて、そして息を吐き言う。
「まあいい。そっちの結論としては現状維持でいくつもりなんだな」
「ええ。ですからあなた方もあまり外を刺激するような行動は控えて頂きたい」
それを聞くと、いかにもわざとらしく片方の眉を上げ、不思議そうにして聞いてくる。
「……たとえば、何をかな?」
「パトロールの経路が壁に近過ぎます」
「あれは通常の治安維持のための物だ、問題ないだろう」
「そもそも、壁の近くには誰もいませんよ。一々見まわる必要は無いでしょう」
僅かに声に力を込め、シゲルは相手の目を睨む。
「だからだよ」
平然と、手元に置かれていたコーヒーに口をつけるコウヘイ。
「誰もいないからこそ、監視しなくてはならない」
そしてカップのふち越しにシゲルを見返してくる。
「何故です?」
黒い瞳の奥にある力、何処かで見たことの有るそれに押される様に聞き返した。
「……不法な侵入、及び脱出を防ぐ義務がある」
確かにそれは、彼らがここに残された公の理由ではあった。
誰も信じていないが。
「……」
―あんた達もここに捨てられた癖に。
口には出さずにそう思う。
それが言ってはいけない事であるのは明白であった。
この街で単純な力に限れば最大の勢力である彼らの、かってネルフを壊滅させかけた旧戦自隊員達の、支えを失わせるような事は自殺行為だった。
たとえそれが嘘だと、彼ら自身が誰よりも知っているにしても。
―しかし、何故だ?そんな事を言ってまで、何故壁に近づく必要が有る?閉じ込められている事に変わりはないのに。
そう、自分の中で問いかけていた所に、再びコウヘイの声。
「それと、これは別の話だが、」
言葉を切り、口の中で一度確かめるようにしてから続ける。
「国連の査察が入るかもしれん」
それは一種の爆弾だった。
これまでほとんど無反応を通していたマヤも、その驚きを隠せず声を上げかける。
「昨日、数ヶ月振りに無線で知らせてきた。日付、人数等は未定だそうだ」
そんな回りの反応を気にした様子もなく、淡々と言う。
シゲルは何とか気を取り直す事に成功し、
「本当ですか」
と、聞いた。それが今口に出せる全部だった。
「さて、どうせただの秘密主義だと思うがね」
意図的にかどうか、シゲルの疑問にずれた答えを返す。
「で、だ。その査察とやらが来る前に、"我々"は相互理解を深める必要があると思うんだが」
「どう言うことです?」
会話の主導権を奪われたまま、聴き返すことしか出来ない。
「今更なんのための査察だと思う?」
眉を寄せ一息置き、続ける。
「この街の人間の事も、あんたらも、俺達も、外の連中にしてみればゴミみたいなもんだ」
その言い回しにシゲルは思わず顔をしかめた。
「わざわざゴミ捨て場になんの用がある?……俺達にはわからん」
「それは、」
「だが、あんた達は知ってる。そうじゃないか?」
一度切れた所に口を挟みかけた。そこに被せる様に遮り切り込むコウヘイ。
「それを知らなければ、何か大変な事になるような気がするんだよ……根拠はないんだがな」
後半は自分の口の中だけで呟き、真面目な表情でシゲルを見つめる。
確かにそうだった。今更の外からの介入は予想外で、確実に何か重要な事があるはずだった。
「それはそうでしょうが……」
しかし、言葉に詰まった。
素直に思った事を答える訳にはいかなかった。
彼の言葉の裏付けを取る必要もあった、自分の推測どうりの目的だとしてもそれを出来るだけ有利に使わなくてはいけなかった、そして何より不信があった。
かって同僚たちを殺していった相手を、半分近くは還って来たとしても、彼らもただの道具であったと言うことが解っていても、信じる事は出来なかった。
そして暫くの沈黙の後。
「まあ、すぐに答えてもらえると思っちゃいないが……時間がないかもしれん。何か思いついたら教えて欲しい。以上だ」
コウヘイはそう言い捨てて、席を立った。
結局一言も口を開かなかった副官がその後に続き、二人は部屋を出て行く。
「……どう思う?」
二人だけになり、急にその広さを増したような部屋の中で、小さい声で短く聞く。
「プラント、でしょうね」
マヤもこれに合わせて答えた。
予想通りの答。
「だろうな、他に今手を出してくる理由がない」
ここには多くの物が残されている。
例えばMAGIがそうだ。MAGIタイプは外にも有るが、やはりここの物が最大の経験を積み、ハードとソフトの両面で独自の成長を遂げているはずだ。そしてデータの一部は封印されMAGI本体にしか記録されていない物も有る。
しかし、今現在外で必要とされるような物となるとシゲルにはそれ以外に思いつかなかった。
今、世界がこの街に求めるものは、食料合成の技術の他に何も思いつかなかった。
シゲルには。
10
その日、あの霧の中でレイに出会ってから3日目の夜、シンジは夢を見た。
アスカと最後に会った日の夢だった。
目を覚ました時、泣いている自分に驚いた。
すぐに夢の内容は忘れてしまった。
けれど、それでも、確かにアスカがこの街を出て行き、自分が残った時の夢だと思った。
顔を洗い、鏡の中の自分を見る。
腫れた目に苦笑し、
「もう、行かなきゃ」
独り言。
ただ何時もより少し大きな声で。
行くのを止め様かとも思った。行く事にした。
何も変わらない毎日に埋めてしまうために。
そのほうが良いと思った。
ドアを開け、まだ直していない自転車を横目に歩き出す。
晴れた日だった。青みがかった光が降っていた。風は無かった。
そして、仕事場に着くと、駐車場にアスカが居た。
金が強くなった髪。力の有る青い瞳。少しだけ日に焼けた肌。
アスカが黒い車のボンネットに腰掛け、シンジを見ていた。
「久しぶり、シンジ」
そう、声をかけられた。
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