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Monologue

時たま思いついた戯れ言、突発的妄想、現実逃避


2000/02/07 (Mon) 02:04:37

京都の小学生殺害、犯人が死んだとき「死が軽い、ゲーム感覚」とのコメントが
ニュースで出た。

本人が死んでも、怒りや悲しみは残る。
人は親しい人の死を見て、自分の死の外側を知る。

そこにある"想い"を捉えられないとき、全てが空疎になってしまう。
いや、己の感ずることのみが真実で、あとは意味を失った記録としての「絆」になる。

死の外側に、"意味"を捉えること。
誰もができる簡単なことだけど、誰もができる簡単なことじゃなくなっている。

2000/02/07 (Mon) 01:20:29

人のことを言えるわけがないが

論理的に、議論して、と言っている人が
諸々の書籍や、科学諸仮説の引用や紹介をし始めると

改めて自分の頭で1から論理的に考える、
ということをおろそかにしているんじゃないか、と思う。

だからといって、内的感覚の表出にこだわるのもおかしいが

肝心なのは、思考の方向、何を見ているか、見ようとしているか
そこから心をそらさない表現ではないだろうか

まったく人のことを言える義理ではない

2000/02/06 (Sun) 23:49:37

■論理的思考法

日本人にはこれがないと日本人が言い続けて100数十年
論理的に考える日本人だってそこそこいるはずだが、
大勢にはならない。
教育の問題だというのは簡単だが、教える前提としてある物の見方、
考え方にズレがあるのではないか。

●仮説1:
普遍的(誰でもどこでも妥当する)真理が必ず存在するという確信が
あまりないのではないか。個人的、地域的と言ったローカルな真理は
信じることが出来ても、どこにでも通用するものではないという考えが
底にあるのではないか。

もうひとつ、普遍的な真理は、段階(議論、論理構成)を踏んだ手続きに
よって見いだされるという考え方に対するものがある。

つまり、真理は直接的直感的に把握されるものが本来であるという考え方。

「論理的には分からない、感覚的にしか言えないが」
という言い方がされる、わたしだってする。
こういう言い方の底に上のような考え方があるのではないか。

むろん、普遍的な真理、段階的手続きが全てではない。
しかし、普遍性とローカル、段階と直接性、どちらを優位に置くべきなのか。

○問題点:
利害得失(現実的)と言う考え方 論理の底にある選別と排除
段階的手続きとはいかなるものか 無限定に置かれている"真理"と言う言葉

2000/02/04 (Fri) 00:48:26

科学の夢が、充分信じられた頃に、わたしら30過ぎの連中は生まれたのだろうか
むしろ、科学の夢がどんどんやせ細っていく中にいたような気がする。

訳知りに科学につきあうよりは、実生活の方が大事だというのはわかる。

いや、科学がもはや夢でなく、生活体系の中に根深く入り込んでいること、
科学を夢でも何でもいいが、距離を持った対象として感受することが
難しくなっているのではないだろうか。

脳死問題などが示していることは、そういうことだと思う。

中途

2000/02/03 (Thu) 23:30:51

次世代まぐまぐ(ref. http://www.mag2.com/)のお知らせを見る
やはりInternetワールドも、ラジオと同じように、
作り手と受け手の分化が進んでいくのは避けられないのかもしれない。

物を作ることが出来る人は、よりチャンスを
消費する人は自由な選択を

見えなくされてしまうものは、なんなのだろう?

2000/02/03 (Thu) 23:22:09

創作は、小説でも映像でもない、メディアではない、"何か"を表わすこと
なのだろう。

"何か"はどこにあるのか? 現実?内面?葛藤?未来?ビジョン?

創作の前は、まねること(学ぶこと?)から始まる。
描いていけば、違和が生まれる。

違和が総体として感受できるなら、それが"何か"なのだろう。

本当に、まねることから始まるのか?

2000/02/03 (Thu) 05:41:00

Reality(本当らしさ)とReal(現実)は違う
Realityは虚構の属性
また、Realityはメディア(映像物語、絵物語、言葉、会話)において
それぞれ表現が異なる

去年Privateで書いたのと似たような感じになったな、
どうなるかわからんけども


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