綾波補完委員会・競作企画参加作品(シリアスバージョン)

約束


 一日の訓練も終わり、私は薄暗い灰色の部屋に戻ってきました。
 鞄をわきに置き、ベッドに身を横たえて目を閉じると途端に体が重く感じられまし た。

 疲れやすくなっている・・・

 初号機に拒絶されたとき以来、身体の不調がひどくなっていくのを感じていま した。
 四肢のしびれ、内臓の鈍痛、時折襲う激しい頭痛・・・
 体の自由が利かなくなることも何度かありました。
 その先に何があるのかも、知っていました。

 私が死んでも代わりはいるもの・・・

 これまで私はそう言ってきました。

 代わり・・・水槽の中の多くの私・・・

 あれを見たときから、私は人間であることを放棄しました。
 人に言われたまま動く機械人形。
 惣流さんの言う通りです。
 そうならなければ、私は耐えられなかったから。
 死ぬことも許されず、利用されるために生かされる存在。
 言葉にも言い得ぬ恐怖、明日も見えない不安を誰がわかってくれるでしょう。
 私のことを理解してくれる人はいない。
 誰に助けを求めることもできず、私は心を閉ざすことしかできませんでした。

 そう、これまではそうだった。でも・・・

 ベッドに腹這いになり腕に顔を埋めて問いかけていると、突然激しい喉の乾き を覚えました。

「水・・・」

 私はベッドから立ち上がると小さな冷蔵庫を開けました。

「・・・」

 常備していた飲み物はもうありませんでした。
 私はジュースを買いにコンビニに出かけました。
 空には巨大な深紅の夕日がかかり、崩れかけたビルを真っ赤に染めあげていました 。
 エヴァ参号機の血のように・・・

「いらっしゃいませ」

 コンビニには店員の他に誰もいませんでした。
 棚には商品がほとんどなく、売れ残った先々週の週刊誌が寂しげに置かれているだ けでした。
 私は残り数本になったジュースをすべて買い物カゴに入れ、レジに向かいました。

「・・・が1点、・・・が1点、・・・。お会計のほう占めて550円になります。あ りがとうございました」

 買い物を終えてコンビニを出ようとしたそのとき、聞き慣れた声に呼び止めら れました。

「綾波?」
「碇君・・・」

 声に驚いて振り返ると、碇君が弁当を片手に持って立っていました。

「何か、用?」
「用ってわけじゃないんだけど、綾波の家って方向同じだから、一緒に帰ろうかなっ て思って・・・」

 私は、碇君がそんなことを言う理由がわかりませんでした。
 なぜ、私と一緒にいたいと思うの?何を、私に求めるの?
 あなたに与えられるものなんて、私には何もないのに・・・
 私は、碇君に答えることができませんでした。

「・・・僕とじゃ、嫌かな?」

 私が黙っていると、碇君は足下に視線をさまよわせて言いました。

「そんなことない!」 

 不安げな、恐れているような、すがるような瞳で私の顔色を伺っている。
 そんな碇君の様子を見て、私は思わず大きな声で答えました。

「あ、綾波?」
「・・・」

 碇君は私の言葉を聞いて目を見張りました。
 私自身も、いままで出した事のないような大声に驚いていました。
 何もない、命令を遂行するためだけの生を生き抜くために自ら築いた心の壁。
 その壁に生じた亀裂からあふれ出す感情に、私は戸惑っていました。

「・・・ありがとう。買い物済ませるから外で待ってて」
「うん」

 私は碇君が買い物を済ますまでコンビニの外で待っていました。
 太陽はビルの谷間深く沈み、あたりには濃い夕闇が迫っていました。
 車の騒音も人の話し声も聞こえない、静寂のみが支配する街。
 建設されてまだ1年にも満たない第3新東京市は、早くも廃墟を思わせる重苦しい 雰囲気に包まれ、墓場のような印象を与えました。
 唯一の光を宿す店内には、ガラス越しにお金を支払う碇君の姿が見えました。
 でも心には、何も映っていませんでした。
 どうして、あんな大声を出したんだろう。
 その理由ばかりを考えていました。
 碇君が不安そうにしているから?
 私は、碇君のことが、心配?
 私には、自分の心を知る手段すらありませんでした。

「お待たせ」

 碇君はコンビニから出るとそう言って、私に向かって歩いてきました。

「・・・帰ろうか」

 私は碇君の横に並んで歩きました。
 蛍光灯の白々とした明かりが、周囲の闇をより深く濃く彩っていました。
 しばらくして、碇君が口を開きました。

「綾波はどうしてコンビニに?」
「飲み物を買いに・・・」
「そうなんだ・・・」

 ふたたび沈黙が訪れました。
 碇君は下を向いて歩きながら、時々私の方を見ていました。
 何か言って欲しげな、弱々しい瞳につられるように、私は碇君に尋ねました。

「碇君は?」
「アスカの夕ごはんを買いに」
「どうして?」

 私は不思議に思って聞きました。
 碇君は料理が得意で、惣流さんのお弁当をよく作って学校に持ってきていました。
 楽しげに話をしながら、おいしそうに昼食をとる二人を、私は憧憬のこもった瞳で 眺めていました。

「アスカが、もう僕の作ったものなんか食べたくないって、そう言うから・・・ 」

 碇君は悲しそうな表情で答えました。

「そう・・・」

 惣流さんはあれ以来、シンクロテストにも参加していませんでした。
 誰も寄せ付けず、家に一人で閉じこもっていると、赤木博士から聞きました。
 私には、惣流さんの事がわかりませんでした。
 なぜ、心を開けなかったんだろう。
 私は密かに、惣流さんを羨んでいました。
 碇君と一緒にいられる人。
 そう、碇君と一緒にいられる「人」である、惣流さんを。
 私の望む物をすべて持っているのに、なぜ惣流さんは拒絶したのだろう。
 それが私には、わかりませんでした。
 なぜ惣流さんは気づかなかったのだろう。
 分かりあえる人がすぐそばにいることに・・・

 私はそれ以上、碇君に声をかけることができませんでした。
 何を言っても、碇君を悲しませることしかできない。
 そう感じていたから、何も言うことができませんでした。
 碇君も黙って、ひび割れた道路をじっと見つめて歩きました。
 思い詰めた様子で、もう私の方を見ようとはしませんでした。
 ポジトロンライフルの直撃を受け、崩れかけたビルから細かい破片が舞い落ちて、 さびれた街は灰色の涙を流しているようでした。

 埃っぽい階段を上がり、ゴミが転がったままの廊下を抜けて、私は部屋に戻っ てきました。
 碇君は最後まで黙りこくったままでしたが、玄関まで見送ってくれました。

「じゃ、明日、ネルフで」
「さよなら・・・」

 私はそう言って、碇君に背を向けて玄関の扉に手をかけました。

「綾波!」

 碇君はそう叫んで、後ろから抱きついてきました。
 驚いて振り返ると、碇君は顔を上げ、涙をためた目で私を見つめて言いました。

「さよならなんて、そんな悲しいこと、言わないでよ!」

 碇君は感極まった様子で、私の胸に顔を埋めて泣き始めました。

「お願いだから僕を一人にしないで!どこへも行かないで!お願いだから・・・ 」
「・・・」

 私はブラウスに涙がしみ込むのを感じながら、泣きじゃくる碇君を呆然と見て いました。
 激情に身を任せて、碇君はいっそう強く私を抱きしめました。
 その力強さとは裏腹に、碇君の存在がとてもか弱く、繊細に思えました。
 まるで迷子の子供のよう。
 見守ってあげたくなるような、そんな愛しさを感じさせる姿でした。
 私も碇君の背中にそっと手を回し、軽く優しく抱きしめていました。
 胸に、背中に、腕に碇君の体温を感じる。
 そのあたたかさがとても心地よくて。
 いつまでもこのまま、抱きしめていたい。
 そう、思いました。

 いつまでそうして抱き合っていたでしょう。
 碇君は顔を見上げて言いました。

「・・・ありがとう。もういいよ」
「うん・・・」

 背中にそえていた腕をほどくと、碇君は一歩離れて向かい合いました。
 碇君は泣きはらした真っ赤な目で、照れ笑いを浮かべて言いました。

「ごめん。濡れちゃったね、服」
「ううん、いいの。いいの・・・」
「ありがとう」

 碇君は優しい微笑みを浮かべていました。
 なぜだろう、この感じ。なんだか、とても安心できる・・・
 私も、暖かな気持ちで碇君を見つめ返しました。

「・・・綾波」

 じっと見つめ合った後、碇君は真剣な表情で言いました。

「何?」
「約束、してくれないかな」
「約束?」
「そう、約束」
「何を?」

 私は不思議に思ってそう尋ねました。
 命令されるのには慣れていましたが、約束を交わすことはありませんでしたから。

「僕のそばにいて、絶対にどこへも行かないって、そう、約束してくれないかな」
「どうして?」
「寂しいんだ・・・アスカも、ミサトさんも僕から離れていくみたいで・・・誰もい なくなってしまいそうで、怖いんだ・・・綾波までいなくなったら、僕、僕・・・」

 碇君は声をふるわせて言いました。

「・・・大丈夫。私は、ここに、いるから。いつまでも、ここに、いるから・・ ・」

 私は碇君に言い聞かせるように、ゆっくりと言いました。
 嘘とわかっていても、私はそう言うことしかできませんでした。
 これ以上、碇君を悲しませたくはないから。
 ごめんなさい、碇君。でも、私は・・・
 胸が締めつけられるように痛くて、言葉になりませんでした。

「・・・ありがとう。綾波は、必ず僕が守るよ。アスカみたいな事には、もう絶 対になって欲しくないから」

 碇君はやっと落ち着きを取り戻して言いました。

「指切り、しようか・・・」
「指切り?」
「うん。こうやって小指と小指を結んで誓うんだ」

 碇君はそう言うと、私の手を取って小指を絡めました。
 そして、結んだ小指に少し顔を寄せて言いました。

「碇シンジは必ず綾波レイを守ります」
「・・・」
「綾波も誓って」

 私も同じように、顔を寄せて言いました。

「綾波レイはいつまでも碇君のそばにいます」
「約束だよ」
「うん・・・」

 碇君は名残惜しそうに指を離して言いました。

「じゃあ、また明日会おうね」
「うん」

 そう挨拶を残し、碇君は帰っていきました。
 碇君が去った後も、私は玄関に立ちつくしていました。
 約束・・・与えられたものではない、初めて自分で結んだ絆・・・
 その意味に戸惑いながら、碇君の暖かい体温がほのかに残る小指を眺めていました 。

 しかし、その約束は、決して果たされる事はありませんでした・・・










Please Mail to ZOE <Hiroshi.Miyazoe@ma1.seikyou.ne.jp>



mal委員長のコメント:
これが参加予定コメントの「月に届く思い」外伝バージョンですね・・・
彼女の切ない未来(さき)への想い・・・思いつめたようなレイの語り口が、
ZOEさんのつかんでいるレイをとても表わしてる気がします・・・
こんなレイを、とことん書いて欲しいというのは私ばかりではないでしょう...(^^;
いつかでよろしいので・・・お願いしますm(__)m
最後に・・・・すばらしいお話でした。

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