開け放たれた窓から迷い込んでくる真夏の熱い夜風に、シンジは眠りの園から蹴落された。起き上がり、寝苦しさに呪詛をつぶやきながら目をこすりつつ部屋の中を見まわす。
うちっぱなしで剥き出しのコンクリートの壁。彼が横たわる粗末なパイプベッド。物入れと化している動かない冷蔵庫。寝苦しさを運んでくる風が揺らす、薄汚れて所々に穴の開いたカーテン。それがこの部屋の調度の全てである。綾波レイの部屋にも似ているが、それもそのはずで、この部屋はレイの部屋の隣にあたる。間取りは全く一緒だった。
だが、今、隣の部屋の住人は存在しない。
隣の部屋の住人だけではない。この世界に人間と呼べる存在はもはや彼しか残ってはいないのである。
重い挙動でベッドから降り、窓に歩み寄ってカーテンを開ける。
満月を半分隠している『モノ』から意識して視線を外し足下を見る。
見渡す限りの廃墟が広がっている。彼が今いるマンションの他には原型をとどめた建物は片手で数えられるほどしか残っていない。そしてその向こうに海……紅い……LCLの海が広がっていた。
これも、
終局のカタチの一つ
written by 桔梗野聡視
老人達と一人の男、そしてそれらに抗おうとした人々の責めぎ合いの末、人類補完計画は不完全な形で一旦の終焉を迎えた。それによって残されたものは一人の少年と異形の『モノ』、廃墟、人間達のなれの果て……LCLの海だけだったのである。
シンジがここに戻ってきたとき、その時は一人ではなかった。だが、彼と共に帰ってきた赤毛の少女は、「きもちわるい」という一言を残してLCLへと『還って』行った……
ここは、補完の場。自らの存在を、自らの思惟を見失えばLCLへ還るしかない。だが、シンジは独りこの絶望的な場に踏みとどまっていた。
自らの望みのために……
喉の渇きを覚えて冷蔵庫に手を伸ばす。無論、電気などきていない。ただの物入れと化している冷蔵庫の中から密封ミネラルウォーターの壜を取り出す。蓋を開け、ぬるい中身を口に含みながら残りを確認すると補給を必要とする数しか残っていなかった。 重い足取りで扉の外へと出て行く。
時々こうして近所のコンビニエンスストアであった場所に生活必需品、この場合ミネラルウォーターを探しに行くのである。
隣の部屋の扉の前を通過する際、シンジはその部屋の表札を見上げた。
『綾波』
薄汚れたその表札を見上げると、彼は大きなため息をついて階段へと消えていく。
崩れかけた、見上げれば星空の見えるコンビニエンスストアであった廃墟の中を物色するシンジ。入り口の脇に積んであった籠の中から壊れていないものを選び出し、店の中にわずかに残っていたミネラルウォーターを全て籠の中に入れる。
このコンビニエンスストアは本来であればマンションからは歩いても20分ほどの距離にある。だが、崩れ落ちた建材が道をあちこちで塞いでるため、遠回りを重ねて1時間以上歩く必要があった。歩き回って渇きをおぼえていた彼は、籠の中から壜を一本取り出すと蓋を開けて一気に飲み干す。そして、小さくため息を一つつくと、覚悟を決めたような表情で店を出る。
『碇君……』
店を出て数歩も歩いていないところでシンジは唐突に呼びかけられた。肉声ではない、彼の心に直接呼びかける『声』であった。
『……碇君……』
今度は少しおびえを含んだ口調で呼びかけてくる。シンジは全く落ち着いた様子で静かに頭上を見上げた。満月を隠す異形の『モノ』を。
綾波レイ
かつて綾波レイと呼ばれていた存在。そして、彼女は現在は全ての母、リリスへと姿を変えていた。
地平線の向こうに立ち、それでもなお月を隠すほどに巨大な異形の姿となった彼女は、その白い裸身を隠すでもなく、四枚の羽を広げて彼を悲しげな紅い瞳で睥睨する。
『碇君……まだ、私の所へ『還って』はくれないの?』
レイの問いかけに静かに首を振って否定の意思を示すシンジ。レイの瞳の悲しみの色が濃くなる。
『……どうして? 『ここ』はすべてが一つになった場所……碇君を傷つけるものは何も無い……碇指令が全てを犠牲にしてまで得ようとした空間……ここでならば私も、碇君も一緒に永遠に幸福でいられるのに……』
もう一度首を振るシンジ。そして言った。
「駄目だよ、綾波。それは『幸福』じゃない……『虚無』だよ。無からは何も生まれない……」
マンションに向かって歩き出すシンジ。レイの声……『意思』が彼の後をついてくる。
この街に……この世界に存在する限りどこにいても、見上げれば異形のレイが目に入る。逃れることなど不可能なのだ。
『でも、決して傷つけられる事は無いわ。全てが一つだから……私も碇君と一つになれる……』
「傷つけるものが無い事と幸福は全く別物だよ、綾波。僕は知ったんだ……僕はこれまでの14年間ずっと逃げる事で僕を傷つけようとするものから逃げてきた……確かに傷つく事は少なかったかもしれない……でも、決して幸福じゃなかった」
『碇君がそこにいる限り、私は無へ帰る事はできない……補完は完成しない……お願い、碇君。私の所へ来て、そして私と一つになって!』
憂色をたたえた瞳をして首を横に振るシンジ。
「それでは駄目なんだよ……綾波……それよりも僕は綾波に戻って来て欲しい。皆にも戻って来て欲しい。ミサトさんがいて、アスカがいて、リツコさんがいる。トウジやケンスケ、委員長。それに父さんも! その中で僕は綾波と一緒にいたい! 綾波! みんなを解放してよ! そして、ここに戻って来てよ!!」
レイは震える声で拒否する。
『……駄目……私は『帰れ』ない……私はリリスだから……リリスに戻ってしまったから、私のいるべき場所はそこにはもうないの……』
「違う!! 綾波は綾波だよ! それに、綾波のいるべき場所は僕の隣だ!! お願いだから帰ってきて! 僕を一人にしないで!!」
『……私はずっと偽りの体と偽りの心を持っていた……でも、最後に『本当の心』を知ってしまった……私は碇君が好き……一緒にいたい……一つになりたい……でも、駄目。私はもうそこには戻れないの……どうしても戻れないの!』
「綾波!!」
『『好き』という気持ちを知ってしまった私は、リリスとしては不完全なの……『帰る』ことも『還る』事もできないの……碇君がそこにいる限り』
「綾波……」
気持ちが揺らぎそうになるシンジ。だが、レイ同様彼にももう後はない。それに彼女をこのままリリスに戻してしまう事など到底できない。
行着くべき目的は同じ……にもかかわらず何がここまで二人を分かってしまったのか。狂おしいまでの焦燥を感じつつ歩いていく二人。
深刻な、だが決して結論の出ることのない不毛な議論を続ける二人。いつしかかつての彼女の部屋の前に到達していた。じっと『綾波』と書かれた表札を見上げるシンジ。
「ほんの少し前までここは君の居場所だったんだ……」
『ここは仮の居場所に過ぎなかったわ……LCLの水槽……零号機のエントリープラグ……そしてリリス……でも本当に居たかったのは……碇君の処だった……』
レイの言葉にはやや非難めいた響きが含まれている。目を閉じるシンジ。
「僕だって同じだよ……でも、ここに来れば何時だって会えたんだ……綾波に……」
『……』
涙の溜まった目を擦って振りかえる。実際には居ないにもかかわらず、確かにそこにはレイが感じられた。淡く揺らめくような気配に憂いと悲しみが満ちている。
「……待ってるから」
『……?』
「僕はここで綾波が帰ってくるのを待っているから」
『……』
「ずっと待ってるから」
『……私は……』
「僕は待ってる! 絶対に!! 綾波が帰ってくるまで!!」
『……』
レイの気配が悲しげに瞬くと静かに消えた。感極まって叫んだシンジは、そのままその場に膝をつき、涙を流し続ける。
朽ち果てたぼろぼろのテーブルに食事を並べるシンジ。
彼の分と、もう一人分……
缶詰に頼らざるを得ず、商品流通など存在しないこの地にあって肉無しの食事を作るのは大変な労力を要する。にもかかわらず、彼は毎食このもう一人分の肉を使用しない料理を用意するのを止めようとはしなかった。
彼は信じているのだ。
いつか彼女が戻ってきて目の前のがたつく椅子に彼女が座り、一緒に食事をする日が来ることを……
帰ってきた彼女が『ただいま』と挨拶する日が来ることを……
『おかえり』と言って彼女を迎える日が来ることを……
終劇
Please Mail to 桔梗野聡視 <asj1117@mail.interq.or.jp>
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