「ねぇ〜、シンジィ。しよぉ〜よ」

薄暗い闇の中けだるい甘さを漂わす女の声が、ベッドに蹲る黒い影にまとわりつく。

「ねぇ〜、シンジ、シンジったらぁ〜」

女は一段とトーンを上げ、その黒い固まりを押し転がすよう揺さぶり続ける。

あまりの勢いにその影は一回転した後、鈍い音を伴って女の視界から消えてなくなる。

「シ、シンジ、大丈夫!?」

女は慌ててベッドから立ち上がり、その影が消えた先へと駆け寄る。

枕元の灯りがベッドで遮られた辺りの暗さを一段と強調し、落ちたはずの影はその中に溶け込んでいる。

 

「アスカ。ごめん。まだ、僕は君を受け入れることができない」

闇から覗かせたのは陰影を含んだ男の顔。その瞳は、駆け寄ってきた女の顔を映している。

その視線に射すくめられたかのように、立ち尽くす女。瞳には大粒の涙が溜まっていく。

「わかっている、わかっている、そんなこと・・・

でも、いっておきたいの・・・

いつでもいっておきたいの・・・

私はあなたを待っているってことを・・・

そのことを、いつも分かっていてほしいの・・・」

女は鳴咽を無理に押えながら、自分で自分を確めるように、男への想いを絞り出す。

悲しみで湿った空気が男の心に染み込む。

 

「アスカ!」

男は思わず立ち上がり、憂いを帯びた女の輪郭を両手で抱きすくめる。

「シンジ・・・シンジ・・・シンジ・・・」

女のくごもった声が男を微かに揺らしている。

 


明日への翼 (Stairway to Heaven)

Written by Kie


 

「もうすぐ6月6日・・・僕も20歳」

感慨深げに一言呟いた男は、暗闇の中ベッドサイドのスイッチを捻る。間接照明が青みがかった人の影を写し出す。

木製の椅子の背もたれを抱きかかえるように座る男の姿。細面の柔和な顔には泣きはらした後の虚脱感が漂っている。

男の目の前には、ベージュのタオルケットに包まれた女の姿。穏やかな寝息に溶け込んでいる。

そっと触れたたおやかな髪の感触。男は右手で女の軟らかな髪を優しく愛撫する。

細い指がその女の繊細さを感じ取るように一本一本を掬い上げる。

男は女の寝顔を愛おしさに溢れた目で見つめている。

・・・アスカ、あれから5年も経つんだね・・・

・・・でも・・・こんなアスカ・・・初めてだった・・・

「今日のワイン・・・苦すぎたな・・・」

 

女の名は惣流・アスカ・ラングレー、男の名は碇シンジ、二人の間を遮るものは何もないはずだった。

約束の日と呼ばれた出来事から再生した人類の中にあり、その事実を知る唯二の存在。あれ以来、時には、反発しあい、すれ違いながらも支えあってきた二人。そのなかで、女が男を求め、男が女を求めるのが自然の摂理。そして、女は素直にそれを受け入れていった・・・

 

「うぅ〜ん」

女はむずがるように寝返りを打つ。男の指と指の隙間から金色に輝く光の筋がさらさらと滑り落ちる。

その様をじっと見つめていた男は、おもむろに自分の右手に置かれたワイングラスを取り上げる。

グラスの中に煌く赤ワイン。微かな清香を感じながら、男はその色を虚ろな目でしばし眺めている。

ふと、そのグラス越しに見える白い世界。夜しか咲かないというサボテンの花。白い孔雀が羽根を広げたような青白き煌き。

鉢植えの中で繰り広げられる幻想的な美しさに男の瞳は一瞬にして囚われる。

 

「綾波・・・」

そっと、呟く男の声。自分の言葉に驚く男の顔。

唇を引きつらせながら目を伏せる男の姿。

 

・・・綾波レイ・・・

 

・・・分からない。なぜ、綾波のことが今も気になるのか・・・

・・・僕にとって、綾波はなんだったんだろう・・・

 

・・・母さんのクローンだった綾波・・・

 

・・・エヴァと共に生まれ、エヴァと共に消えていった綾波・・・

 

・・・綾波ってどうして生きてたんだろう・・・

・・・生きていて幸せだったんだろうか・・・

 

・・・綾波にとって人との絆ってなんだったんだろう・・・

 

・・・綾波はどこに行ってしまったんだろう・・・

・・・身体を離れた魂はどこに行くんだろう・・・

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

「肉体なき精神か・・・」

男は右手に持ったグラスの中身を喉に流し込む。

 

「・・・肉体なき精神・・・」

女がそっと呟く。

「あっ、起こしちゃった?」

男は気まずそうに声を上げると、女の背中に目を向ける。

「・・・天使・・・13世紀西洋での捉え方・・・」

「天使?・・・ANGEL・・・使徒」

「いいえ、違う・・・この世にあってこの世にないもの。人を超越した存在なのに人の心をもっているもの・・・それが天使。

神と人をつなぐ使者のイメージはあっても、本当は人の知性で理解できない彼方の存在・・・」

「それが、天使?」

「そう・・・天使・・・」

 

・・・じゃ、綾波も天使だったんだろうか・・・

・・・でも、彼女は確かに存在した。この手にその温もりが残っている。・・・

・・・あの時確かに、僕は綾波と握手をした。その時、一瞬驚いたようだったけど、僕にはそれで十分だった・・・

・・・姿は母さんのコピーでも、心はやはり綾波レイだったんだって・・・

・・・母さんに別れを告げた時、綾波も彼方へ去ってしまったけど、心はいつも僕の側にいるという感じだった・・・

 

 

男は僅かの間、目を伏せて物思いに耽っていたが、ワイングラスを丸いサイドテーブルにそっと置くと、椅子から身を乗り出して、女の背中に囁きかける。女は男に見つめられていることを感じつつも、そのままの姿勢を崩さない。ただ、男に応えるその声はしっかりとした優しい調べへと変わっていく。

 

「ねえ、覚えている。あのLCLの浜辺での出来事・・・」

「あの時、僕はアスカを殺そうとしたんだ・・・包帯を巻いたアスカに綾波の姿をみた時、まだ母さんと別れられない自分が情けなくなって・・・」

「でも・・・アスカの優しさに触れて正気に戻った・・・と思う」

「アスカはあの時、言ったよね・・・『キモチワルイ』って」

「あの言葉の意味は何っだたの?」

「聞きたい?」

「うん」

「うぅ〜ん、でも教えない!」

「けち」

「ふふぅ〜ん、シンちゃん。そんなこと言っていいのかなぁ〜。もう絶対、教えてあげない!」

「ご、ごめん。でも、いままでずっと気になっていたんだ。あの時の言葉」

「聞いちゃいけないのかもしれないって、いままで我慢してきた・・・でも、もう我慢できない。教えてよ、お願いだから」

「そこまで言われれば、アタシとしても教えない訳にはいかないわよね・・・でも、本当はアタシもよく覚えていないの」

「あの後、また二人とも寝てしまったでしょ。アンタ、私の上に乗っかってたんで、寝苦しかったけど・・・そして、再び目覚めた・・・その時のこと覚えている?」

「うん。LCLの海なんてどこにもない。穏やかな青い海辺。二人ともプラグスーツ姿だったはずなのに、いつもの普段着だったよね」

「でしょ。だから、アタシは思うの。あの時の光景は二人が同じ夢を見てたんじゃないかって」

「確かに、あの瞬間、アタシは何か分からない嫌悪感をもった・・・でも、それは、シンジ、アンタの姿をみてじゃないの」

「なんというか・・・シンジの心そのものだったみたいな感じだった」

「ねぇ、シンジ。アンタ、あの時、アタシの上で泣いていた時、どんな気持ちだった?」

「えっ、うん・・・自分が情けなくて・・・気持ちの行き場がなくて・・・」

「そう、やっぱり」

「なんていうんだろう。そういうの」

「魂の共有とでもいうんじゃないの・・・実際、アタシが目覚めたあとアンタが目を覚ますまで、ずっとアンタの顔をみていたのよね。昔なら、絶対アタシの上で眠りこけるシンジなんて突き飛ばして、どっか行っちゃってたでしょうけど、あの時はなぜかしら・・・心が落ち着いたのよね。アンタがアタシに身体を預けてくれるって。かわいい寝顔を見ているだけでも飽きなかったわ」

「やっ、やめてよ。恥ずかしい」

「恥ずかしいもんですか。実際、誰に見られないかってひやひやしてたのはアタシの方だったんですからね!」

「でも、その時思ったの。私たちの心が触れ合った時に、何か知らない絆で結び付けられたんじゃないかって」

「アンタは、あの時、アタシを拒絶したわよね。いや、誰とも溶け合おうとしなかった。ファーストに対してもでしょ」

「アタシはアンタとだけは絶対嫌だと思っていた。他の人ならだれでもいいと思っていた位・・・でも、最後はアンタとともに過ごして分かったんだ。アンタはアタシと似てたって。だから分かった気がしたの。誰とも溶け合いたくないって気持ち」

「でも、アスカは誰とでも溶け合おうとしたんでしょ。何故」

「分からない。でも、エヴァに乗って、ママが見守ってくれていたことを知って、結局、ママを助けることができなかったけど、その瞬間、ママが言ったの・・・『心を開けばいつでも私に会えるわ』って」

「それで、今のアタシがあるって言う訳。分かった?」

「そう・・・だから、アスカは今までと違うんだ」

「アスカは今では学内のアイドルだもんね」

「あら、昔だってそうだったじゃない」

「中学校の時?」

「そう、違う?」

「うん、でも、今とは違うと思う。昔は奇麗な外見に惹かれているんだってケンスケがいってたけど、今はアスカそのものの魅力が人を惹きつけているって思う。優しさとか思いやりとか・・・何て言うのかな・・・素直さ・・・かな」

「何よ、照れるじゃないの」

「いや、本当にそう思う。今のアスカは僕からみても魅力的だもの」

「こんなアタシ、嫌い?」

「いや、好きだ・・・と思う」

「こんな、眉目秀麗、才色兼備なアタシに好意を寄せられているんだから・・・わかってる、シンジ・・・うふふ」

「うん、感謝している。アスカをみて僕も少しずつ変わっていってるという気持ちはしているんだ・・・だけど・・・」

 

それまでの流れるような会話が一瞬途切れる。椅子が軋む音がして、男の絞り出すような声が聞える。

 

「・・・でも、だめなんだ」

 

「僕を愛してくれていることは痛いほど分かっている。僕も君の愛情に答えたいと思っている。でも・・・」

 

女はその言葉を遮るように、突然、男の方を振り向き、男の瞳を真剣な眼差しで覗き込む。

 

「あなたは自分では気づかないでしょうけど、私以上に変わったと思うわ。いつも人の目を見て話しているもの。昔のあなたはいつもおどおどして、人との接触を避けていたでしょ。私も人の事は言えないけど、結局相手をみていなかったのよね。でも今は違う。いつも相手を見ている。その中であなたは自分にできる精一杯のことを相手に与えようとしている。それが、あなたに惹かれるところ、私を包んで欲しいと思う私の気持ち・・・」

 

男は女の視線から目を逸らすと、俯いたまま顔をあげようとしない。その姿を見た女は再び背を向けて呟くように言葉を紡いでいく。

 

「・・・そう、まだ、ファーストのことが気になるのね。もう一度聞くわ、あなたにとってファーストってどういう存在だったの。あれから5年たっても消えないファーストって・・・」

 

 

 

「アタシ、帰るわ」

アスカはベッドから突然跳ね起きると、乱れた髪を後ろ手に束ねながら、わき目も振らず、シンジの横を通り過ぎる。

「待ってよ、アスカ。送っていくから」

突然のことに驚いたシンジは、アスカの後を追おうとする。

「今日は・・・いい・・・また明日!」

アスカは一瞬躊躇う素振りを見せたが、何事もなかったかのようにドアの開閉ボタンを押すと、闇の中に吸い込まれて行く。

ガタガタガタ

部屋の中から慌ただしい物音が聞える。

 

 

冷たいハイヒールの音が街灯の白さを強調する夜。第二新東京市と呼ばれる街の郊外を一人の女が歩いている。淀んだ雲が天空を覆い隠し、遠くに聳えるビル群の赤い光も虚しく上空に警告を発するのみ。人の気配は既になく、時折、車のヘッドライトが女の真剣な表情を照らし去っていく。草むらからは微かに虫の音が聞える。

 

アスカはシンジの部屋を出てから、ただひたすら、自分の影を踏みつけ前に進んでいた。等間隔に並ぶ街灯の光は彼女の影を幾重にも映しだし、濃淡、長短を伴いながらアスカを嘲笑する。そう感じる自分を不思議に思いながら、アスカはいつしかその行為に夢中になっていた。

 

「アスカ〜〜〜待ってったら〜〜〜」

ふと、遥か後方から自分を呼ぶ声に気づく。振り向くこともなくその声の主を確認すると、その表情には僅かばかりの笑みが零れる。

意識は背後へと向けられているものの歩くピッチは変わらない。ただ、近づいてくる足音にあわせて少しずつ歩幅を狭めていく。

 

「はい、アスカ!忘れ物」

立ち止まったアスカは差し出されたシンジの手を一瞥する。

その手には赤いヘッドセットが握られている。

「何それは?一つ持ってなさいってアンタにあげたもんじゃない。ほんとにもう」

あきれた声を上げながら、シンジの顔を優しい瞳で見つめるアスカ。

「あっ、そうだったっけ・・・

まあ、ついでだから送って行くよ。女性の夜道は危ないから」

頭を掻きながら自分を見つめるシンジに気づき、思わず顔を背ける。

「このアタシが暴漢ごときに負けると思っているの?ははん、来れるものなら来てみなさい。返り討ちにしてあげるわ!」

シンジを横目で睨みながら、元気一杯、ハイヒールで前方を蹴り上げる。

・・・うん、そうかもね・・・

「何か言った!?」

「あっ、いや、こっちの話」

フンとシンジから背を向けるアスカ。

 

「でも、アンタが勝手についてくるんだったら、アタシはどうでもいいけど」

肩越しに聞える声。シンジに優しい笑顔が生まれている。

「行くわよ」

「うっ、うん」

 

暫くの間、一言も言葉を交わさず並んで歩く二人。その影は少しずつ重なり合うのが見える。

 

 

「ねぇ、アスカ」

「何?」

「この世界、どう思う?」

「また、その話?」

「うん。どうしても納得できないんだ。どうして、僕たちだけが使徒やエヴァのことを覚えているのかとか、ネルフはどうなってしまったのかとか、なのになぜ、僕たちが自然な形で生活できるのかとか・・・」

「前にも言ったでしょ。この世界はやはり私たちの世界だって。あの時、私は確かに聞いたわ。『人の心が自分自身の形を創り出し、新たなイメージがその人の心も形も変えていく、自分達の未来を創り出していく』って。だから、アタシはこう思うの。この世界は人類が選択した新しい世界なんだって。その中には当然、私たちも含まれているはず。だから、ネルフやエヴァがなくても、人同士の結びつきが自然な形で実現されているんだって」

「でも、やっぱりおかしい。エヴァは確かに存在した。使徒も。そのためのネルフも・・・綾波も・・・なぜ、僕たち以外の人間は覚えていないんだろう。なぜ、記録が全てなくなっているんだろう」

「その点については、私も分からない。何か大きな意志が働いたのかもしれないわね。でも、それが事実なんだから、受け入れなきゃ」

「アスカは現実的だよね。僕はそういう風には割り切れない。あの過去は決して忘れてはいけないことなんだって」

 

「シンジ・・・アンタ・・・」

 

「ねぇ、シンジ、未亡人という言葉、知ってる?未亡人というのは夫に先立たれた妻の別称。生きながら死んだものとして扱われていた存在・・・もう死語に近いけどもね・・・昔、夫婦は生死を共にすることが当たり前だったみたい。だから、夫が居なくなったら妻もこの世から居なくなってしまう。妻は亡き夫の姿を見つめてただ死を待つだけ・・・悲しいわよね・・・まだ生きているのに」

「アスカ、何が言いたいの?」

 

・・・・・・・・・・・・

 

「ねぇ、シンジ。今のヒカリたちをどう思う?」

「えっ、トウジたち?うん、幸せだと思う。結婚してからは特にそうかな。」

「そうよね。あの二人色々あったけど、今は将来の同じ夢について語り合える・・・幸福よね。いつも前をみつめて一緒に歩いているもの・・・じゃあ、もう一つ・・・今の世の中って、私たちが知っている過去と比べて何か違う感じしない?確かに、使徒との戦いは人類の存亡を賭けたものだったはずよね。でもあの時、世界では所々で飢餓や地域紛争が起こり人類自体も疲弊していた。でも今はどう?そうした争い事は無くなり、食料についても互いに支えあって生きてるでしょ。私はね・・・人類が過去を克服したんじゃないかって思っている。エヴァや使徒についてもそう。過去の出来事を未来に向けて昇華したんじゃないかって・・・記憶が曖昧なのはそのせいかもって・・・」

 

「アタシに言えるのはこれだけ。後は、自分で考えなさい。」

アスカはきっぱり言い切ると、躊躇いがちにシンジの右腕に両手を回す。

無言で歩く二人、一つの影。

 

 

「ここでいい」

急に立ち止まるアスカ。

「どうして?もうすぐじゃないの?」

驚いたように振り返って問い掛けるシンジ

「・・・だって、別れが辛くなるもの・・・」

俯いて、誰にも聞えない小声で話すアスカ。再び顔をシンジに向けると、その顔を真剣な眼差しで見つめる。

「アンタ、先に帰りなさい」

「今日はごちそうさま。おやすみなさい。」

優しいなかにも、有無を言わせない威圧感。

「わかったよ、アスカ、おやすみ。またね」

シンジはしぶしぶ今来た道を引き返していく。

女の影がただ佇んでいる。

 

 

暗黒の空が鬱蒼と茂った森に重く圧し掛かり、それを取り囲む湖も緊張感に満ちた燻銀の鏡相を水面に湛える。その辺に佇む男の姿。森に背を向け、闇との融合を果たした遥か彼方の稜線を望んでいる。静寂が辺りを支配する。

 

ふと、天空から一粒の水滴が湖面に落ちる。

ポチャン・・・

男は意識を湖面へと向ける。静止した湖面には同心円状の波紋が幾重にも形づくられている。

 

最初の小波が男の元へ届く。それを見つめる男の姿。

パシャ・・・

波が微かに砕け去る音。

 

『あなたは死なないわ・・・私が守るもの』

『絆だから・・・みんなとの・・・私には他に何も無いもの・・・じゃ、さよなら』

初めて交わした綾波との会話

 

 

パシャ・・・

『何、泣いてるの・・・ごんめんなさい・・・こういう時、どんな顔をすればいいのか、わからないの』

『笑えばいいと思うよ』

綾波を見つめた自分の心

 

パシャ・・・パシャ・・・

『おかあさん?・・・なにを言うのよ』

『あ、ありがとう』

自分が感じた綾波の心

『いえ知らないの・・・たぶん私は3人目だと思うから』

目を背けた綾波の真実

『・・・綾波・・・レイ』

目を背けられなかった綾波の現実

 

押し寄せる小波の一つ一つに浮かんでは消える少女の面影、自分の想い。男は頭を両手で抱えながら、苦しみの表情を浮かべる。

「あなたにとってファーストってどういう存在だったの」

アスカの声が棘となって突き刺さる。出口の見えない迷路を彷徨う。銀蒼色の髪。無垢の紅瞳。純真な顔。しなやかな体躯。全てのイメージが彼を責め苛む。噛み締めた口元から一筋の赤い血が滴り落ちる。

「あっ、綾波」

救いを求める視線の先には湖面に浮かぶ少女の姿。鶯色の制服を纏った14歳の綾波レイ。優しい笑顔を湛えながら男をじっと見つめている。

男は思わず冷たい水中に歩みを進める。

・・・どうして、碇君は私の夢を見るの・・・

暗き森から木霊する哀しみの調べ。その声に後ろを振り返る男の影。天空より涙の滴が一斉に降り注ぐ。

 

ザァ−−−−

激しい雨脚が湖面を叩き、白い霧が湖面より立ち上る。冷たい雨が男の体温を奪っていく。

男はその場に蹲ったまま動けない。両肩が大きく震えている。

視界の途切れた白い闇の世界。僅かに残る聴覚から雨音を切り裂くように別の音が鳴り響く。

『だめ私がいなくなったらATフィールドが消えてしまう。だから、だめ』

『私はあなたじゃ、ないもの・・・だめ、碇君が呼んでる』

『今のレイはあなた自身の心・・・あなたの願いそのものなのよ』

「私はあなたを待っているってことを・・・」

決意に満ちた綾波の声。懐かしい母の声。アスカの叫び。

・・・どうして、私を感じるの・・・

ビカッ・・・ゴロゴロゴロ

雷光が一閃し男の歪んだ横顔を照らす。瞳は焦点を失い、蒼白い顔面は死者の苦悩を滲み出す。

雷鳴により聴覚すら奪われた男の脳裡にはあの時の映像が甦る。

『これがあなたの望んだ世界・・・そのものよ』

『でも、これは違う・・・違うと思う』

『他人の存在を今一度望めば、再び心の壁が全ての人々を引き離すわ。また、他人の恐怖が始まるのよ』

『いいんだ・・・ありがとう』

ビカッ

『希望なのよ・・・』

「私を包んで欲しいと思う私の気持ち・・・」

『これが私の心・・・碇君と一緒になりたい・・・』

男を包み込む温かい光。

ドカン・・・バシュッ

大木が切り裂かれ無残に倒れ落ちる。

その音に解き放たれたかのように男は立ちあがると、ひたすら森へと駆け出す。

「綾波!」

何かを必死に求める男の叫び。

・・・どうして、私の願いを叶えてくれないの・・・

儚い白い輝きが闇に溶けていく。

 

「綾波!待って!」

シンジは両手で空中を抱き締めるかのようにベッドから起き上がる。

ベッドの上で暫し茫然と佇む。

その鳶色の瞳には止めど無く冷たい涙が溢れ出ている。

「・・・また、同じ夢か・・・」

右手をこめかみに当てながら、そっと呟くシンジ。

 

・・・このままじゃいけない・・・僕にとっても・・・アスカにとっても・・・

男は涙をそっと拭うとベッドの右脇に目を移す。

その先にはぼんやりと浮び上がる白い影。

本来の夏の夜の一瞬の煌きであったはずのQueen of the Night。

今や品種改良により鮮やかな永遠を繰り返す白い翼。

シンジは暗闇の中で色褪せたその輝きを充たされぬ気持ちで眺めている。

 

 


 

「今日は突然どうしたの?誕生日プレゼントを前日に欲しいって言っても、あげませんからね!」

微笑みながらシンジに対して軽やかな口調で喋るアスカ。

「うん・・・実は・・・」

シンジは真剣な面持ちで、アスカの青い瞳をみつめている。

 

憩いの場所として繁盛している駅前の喫茶店。白を基調としたアンティークな調度品に囲まれた空間を道を行き来する人たちが羨望の眼差しで眺めるところ。いつもは落ち着きの中に華やいだ雰囲気を醸し出すその場所が、今は一種異様な緊張感に包まれている。ウェートレスや会話を楽しんでいたはずの人々はあるカップルの成り行きを息を潜めて見守っている。

 金色に輝く髪をポニーテールにまとめ、赤いTシャツとジーンズというラフな格好ながら、どこか気品を感じさせるハーフらしき女性と痩身で優雅な雰囲気を漂わせるTシャツ、ジーンズ姿の男性。傍目からみれば美男美女の学生カップルという形容がピッタリする両者の間には無言の時が流れている。女性は両腕を組んだまま、男性はテーブルの上で両手を握り締めたまま、お互いの視線がぶつかり合い微動だにしない。

 

時折、二人の前に置かれたアイスティーの氷がカラリと乾いた音を立てている。

 

「・・・で」

女は男に向かって棘を刺すのような声を発する。

男は意を決したかの如く、女の問いかけに努めて冷静に言葉を紡いでいく。

「アスカは言ったよね・・・人は明日を見つめて生きるって・・・

アスカが明日を見つめられないのは僕が過去に拘っているからだと思う・・・」

男はそこまで言うと、目をきつく閉じ、体の底から苦悩に満ちた声を絞り出す。

「だから・・・

だから・・・

 僕は君にさよならを・・・」

「いい!!」

女はその言葉を遮るように叫び声を上げる。

「聞きたくない!」

・・・どうしてそうゆうことを言うの・・・

男が驚いて目を開けると、俯きながら、飛び出そうとする女の姿が見える。

木製のチェアを蹴飛ばすように駆け出していく。

 

「アスカ・・・綾波・・・」

チェアの激しく転がる音が男の呟きをかき消して行く。

 

 

女は男から逃げ出してから、ただあてもなく彷徨っていた。すれ違う人たちが誰もが振りかえる容姿も、今や生気を感じさせない抜け殻のような瞳のため色褪せ、両手をだらりと前に垂らしたまま、力なくただ歩き続けていた。人込みを抜け、郊外の高台へと向かう女。夕刻を告げる陽の光は、女の影をひたすら長く道に映し出している。

 

・・・ここは・・・

アスカは自分が立ち止まっていることに気づいて、自分の居場所を確認する。高台の公園、いつもシンジと歩いている場所。夕陽に照らされる高層ビルの姿がなぜか懐かしい気持ちを起こさせる。

『そういえば、ここから見える風景・・・第三新東京市と似ていない?覚えている?ユニゾン練習から逃げ出したアスカを追ってきた時のこと・・・あの時二人で眺めた風景となんだか良く似ている・・・』

初めて二人で来た時、男が言った言葉。

『ほんと、不思議よね。第三新東京市なんてこの世界に存在しないのに・・・なぜかしら』

その時の女の言葉。

 

・・・不思議・・・ここに来るとなぜか落ち着く・・・

アスカは街並みを見下ろすベンチに腰掛けると、太陽の沈む様を静かに眺めている。

・・・あの時、私はファーストに負けたと思った。自分が皆のさらし者になったと思った。だから、たまらなくなって逃げ出した。そしたらあいつが追ってきてくれたんだ。サードチルドレン・・・いきなりの実戦でエヴァを動かし、第三使徒を殲滅した男。こいつもライバル・・・こいつに私の優秀さを見せ付けてやらなければならないと思っていた・・・だから、私は精一杯背伸びして、ユニゾンを完成させてやるって夕陽に誓った・・・と思う。でも、本当にそれだけだったの?シンジの姿を見た時、心の底では嬉しいという気持ちはなかったの?・・・ううん、分からない・・・あの時、私がシンジをどう思っていたのか・・・今の私には分からない・・・

・・・でも、ファーストだけは別。私は最初からあいつを意識していた。私がセカンドという呼称を与えられた時から。初めて会った時もこいつにだけは負けられないと思った。命令に従順な優等生的な態度にも反発した・・・人形を見ているみたいでたまらなく嫌だった・・・シンジからファーストの秘密を聞いた時は少しわかったような気がしたけど・・・やはり気持ちは変わらない・・・あんたにだけは絶対に負けたくない・・・

 

アスカは瞳にオレンジ色の光を宿しながらおもむろに立ち上がると、夕陽に背を向ける。

俯いた視界の先には長く伸びきった自分の影法師がわずかばかりの輪郭を保っている。

雑草を踏みしめる音。耳障りな蜩の声が草いきれの重苦しさを強調している。

 

・・・ファースト、貴方を憎みたい・・・貴方を憎めればどれほど楽か・・・

・・・でも、わかってる・・・それは無駄なこと・・・これは、シンジの問題・・・シンジの心に住む貴方には何の関係もない・・・

・・・わかっていても、私はいつも不安・・・シンジが貴方のことをどう思っているのか考えると心が不安・・・シンジに問い掛けても何も答えてくれない・・・だから心が不安・・・

・・・私にできることは、シンジを待つだけ・・・シンジが私を振り向いてくれるのをただ待つだけ・・・

 

・・・ふっ、昔のあたしはこんなことなかったのに。こんなに人の気持ちが気になるなんて・・・

・・・そういえば、バカシンジと言わなくなったのはいつからだろう・・・

 

女は公園の木立を通り抜け、広場へと出ると、自分の右手前方から懐かしい声がすることに気づく。青い瞳がその声の主を求めて動き回り、エプロンを付けた女性の背中を見つける。右手に買い物袋をぶら下げ、ブランコに向かって話しをしている。

 

「ほら、もういいでしょ?帰るわよ!」

その先にはブランコに乗ってはしゃぐ女の子の姿。

「マ〜ちゃん!ほんとにもう、少しだけだっていうから来たのに、もう知りませんからね!パパが帰ってきたら叱ってもらうから、いいわね!」

その言葉の勢いに気脅されたのか、ブランコが軋む音が止み、代わりに子供の泣き声が聞えてくる。

「あらぁ〜ごめんねぇ。大丈夫。マ〜ちゃんはいい子ですからね〜」

子供と戯れるミサトの姿・・・幸せそうな優しい声。

 

・・・ミサト・・・

アスカはかつての上司で死線を越えることをチルドレンに幾度も命じた女性の後ろ姿を遠巻きに眺めている。

・・・ミサトはもうエヴァのこと覚えていない・・・そんな人間にこんな話できない・・・

・・・でも、エヴァを覚えていることに、何の意味があるの・・・

・・・覚えている必要があるの・・・

・・・ミサトの今に・・・

 

アスカはその場に立ち尽くした姿勢のまま静かに目を閉じると、首を僅かばかり前に傾ける。

蝉の声が鈴虫の声へと代わろうとする頃、その口元から微かな笑い声が聞えてくる。

「ふふふふふ・・・」

・・・未亡人か・・・シンジへの問いかけは自分への問いかけでもあったってことよね・・・

 

今や自嘲気味に歪められた唇は堅く閉ざされ、大きく開かれた瞳には大粒の涙が浮かんでいる。

・・・あたしはバカだ。過去に拘っているのはシンジだけじゃなかった。私も同じ・・・

・・・今日、シンジは言ってた・・・『アスカが明日を見つめられないのは僕が過去に拘っているからだと思う』って・・・

・・・シンジにそう感じさせたのは私の過去への拘り・・・シンジの拘りじゃない・・・

・・・私がシンジを追いつめていたんだ・・・

 

・・・シンジ・・・

 

・・・私が好きなのは今のシンジ、そしてこれからのシンジ・・・過去のシンジじゃない・・・

・・・今のシンジが過去を捨てられないならそれでもいい・・・私だけは過去と決別しよう・・・

・・・過去を乗り越えてシンジの為に明日の陽を照らそう・・・

・・・シンジが迷わないように私が手を引いてあげよう・・・

・・・それがアタシらしさじゃなかったの・・・

 

「いくわよ、アスカ」

 

アスカは片腕で目に溜まった涙を拭うと、意を決したかの如く走り出す。公園を出ると下り坂を一心不乱に駆け下りる。その先には子供の手を引いて歩くミサトの姿が見える。

「ミサト!」

「あっ、あれ。アスカ。どうしたの?」

「ありがとう。それじゃ!」

「えっ、ありがとうって・・・」

横を勢い良く追い越していくアスカにあっけにとられるミサト。

「ママぁ」「はいはい、ママはここですよぉ」

アスカを追っていたミサトの目は子供へと向けられる。

 

・・・待つだけじゃ駄目、会って話をしよう。今の私の気持ちをシンジに伝えよう・・・

 

街路灯がアスカの背中を明るく照らす。

 

 

男は両肘をテーブルについて顔の前に手を組んだまま、女が席を立った辺りをじっと見つめていた。その瞳に映るのはアイスティーに差し込まれたストロー。空調の効いた室内の空気の流れで揺れ動く様をただ見つめている。氷が溶け切った薄い琥珀色のグラスの中を危うい均衡を保ちながら回転する。付着したルージュの赤が男の心を揺らす。柱時計の鐘の音が幾度となく時を刻む。

 

・・・なぜ・・・僕はこんなに苛立っているんだろう・・・アスカと別れること・・・それがアスカにとって一番いいことだと自分で出した結論じゃないか・・・アスカがアスカらしく生きていくには僕では駄目だって・・・あんな、いつも心配そうなアスカはアスカじゃない・・・なのに・・・アスカが出ていってしまった後のこの不安はなんだろう・・・この喪失感は・・・まるで、自分の半身をもぎ取られるような痛みは・・・本当にこれで良かったんだろうか・・・あの時、綾波の声を聞いた気がした・・・なぜ・・・

答えるもののない問いかけ、エンドレステープの繰り返し。

 

店の照明が部屋の陰陽を一斉に照らし出すのを感じた男はやっと顔を上げて辺りを見回す。にぎやかだった室内も客の姿がまばらとなり、窓から見えるネオンサインの輝きが外の夕闇を強調する。男はそのまま窓に映る自分の姿を何気なく見ていたが、自分をじっと見つめる知り合いの姿を認ると、窓から顔を背け、自分の膝頭辺りに視線を移したまま、再び動かなくなる。

 

彼を凝視していた影がシンジへと近づく。以前女が座っていた椅子にゆっくりと腰を下ろす。

「なあ、シンジ。申し訳ないけども話は聞かせてもらった。ちょっといいかな」

「う、うん、ケンスケ・・・」

ケンスケと呼ばれる男は眼鏡越しに俯いたシンジの後頭部を優しい目で見つめている。男は暫くの間、その状態を続けていたが、おもむろにシンジに向かって軽い口調で話かける。

「俺もこの歳になって、やっと分かったことがある。相手を思いやるのと相手に自分の気持ちを打ち明けるのは結局、同じなんだって。所詮、人同士が完全に分かり合うことなんてできない。自分自身も怪しい。でも、だからこそ、人は人をもっと知りたいと思う。真実を求める。その中で自分ができることは、自分の素直な気持ちをみつけること、それを相手に伝えることだけ。嘘のない自分の気持ちこそ相手にとっての最高の思いやりだって。まあ、当然、いつでも、どこでも、誰とでもってわけじゃないけどな」

シンジの反応がないことを気にも留めない風に言葉を続ける。

「それがお互いの心を結びつけ、少しずつ同じ気持ちを分かち合うようになる。そこには、自分や相手なんてものはない。同じ心なんじゃないか・・・と、俺は考えているわけだ」

一通り話終えたケンスケはシンジの前に置かれていたグラスを手に取る。残っていた水を一気に飲み干す。

男の喉仏が音を立てる。

 

「おい、シンジ」

これまでと違う真剣な口調でシンジに問いかける男。シンジはその一言に肩を震わせ、ゆっくりと顔を持ち上げる。その様子を確認した男の口調は諭すような穏やかなものへと変わっていく。

「シンジ・・・お前は変わったよ・・・いい意味でね。なのに、なぜ、惣流に対してだけ自分を偽るんだ・・・本当にお前はこのままでいいのか?」

二人の瞳が交錯する。男の真剣な視線がシンジの瞳を釘付けにする。

沈黙の瞬間・・・刻が止まる

次の瞬間、シンジは意を決したかのように無言で席を立ち上がると、一気に外へと駆け出していく。

「おっ、おい、レシート」

突然の事に慌てて声を発するケンスケ。

「まあ、いいか。今日のところは奢ってやる・・・がんばれよ、シンジ」

茶髪を片手で掻き回しながら独り言を呟くにこやかな男の顔が窓に映っている。

 

 

薄暗い宵闇の中、男はひたすら走っていた。人通りに途絶えた舗道を駆け抜け、いつもアスカといく公園をひたすら目指していた。アスカはそこにいる。なぜ、そう思うのか分からない。しかし、何故か確信にもにも似たものがシンジにはあった。ケンスケが話してくれたこと、以前、加持からも同じようなことを聞いた。あの時思ったこと、自分が子供だということ。今思ったこと、この気持ちをアスカに伝えなければならないということ。自分がアスカを愛しているかどうかはわからない。でも、自分が感じたアスカを失うことへの不安、痛みは紛れもない真実。この気持ちだけはアスカに伝えておかねばならない。知ってもらわなければならない。シンジはアスカを求めて今を駆けている。

 

シンジは高台の公園へと続く道の入り口までくると、勢い良く駆け下りてくる足音の主に目を凝らす。

暗闇に浮び上がる白熱灯の煌きの中、求めていた女の姿を見つける。

既にアスカは入り口付近に立ち止まっているシンジを認め、一心不乱にその場を目指している。

二人を隔てるのは2車線の道。

男も女を向かい入れようと駆け寄ろうとする。

その刹那、大型トラックが暴走気味に向かってくることに気づく男。

「危ない、アスカ」

その声に驚いた女は立ち止まると、自分の右手に迫る黒い物体の狂暴さに足が竦み動けなくなる。

トラックの車輪が路面との摩擦により悲鳴を上げる。

「アスカ!」

男は叫ぶ。

女に飛びつき、横倒しになりながらも守るように身体を包み込む。

「轢かれる!」

男は覚悟を決めると女を一層強く抱き締める。

車輪が二人の影を踏み潰す

 

 

 

男は自分達を包むオレンジ色の光を見た。

 

・・・ATフィールド・・・

 

 

 

 

トラックが5mほど行き過ぎてから停止し、中から慌てて人間が飛び出してくる。

「おい、大丈夫か!」

「さあ、アスカ・・・行こう!」

男は女の手を取り立ち上がらせると、優しい口調で囁く。

「あっ、大丈夫です」

シンジは何事もなかったかのように、駆け出してきた運転手に声をかける。

「き、君たち!」

唖然とする男の声を後目にシンジはアスカの身体を抱きかかえるようにその場を立ち去っていく。

 

 

カーテンの隙間から零れる月の光が照らす白華。白い肌地に浮かびあがる水滴の輝きで蒼銀色の翼を大きく四方に広げる。

部屋の中でチェロの音が聞える。以前、女が聞いた曲。

J.S.バッハ 無伴奏チェロ組曲 第1番 ト長調 BWV1007

一本の弓と4本の弦の出会いが奏でる重厚な響き。男の繊細な指先が縦横無尽に弦の上を駆け巡り、正確なボーイングが清澄な雰囲気を醸し出す。

 

・・・自分の胸の中で泣きじゃくるアスカ・・・

・・・「シンジ、大丈夫? ありがとう、シンジ!」・・・

・・・自分より一回り小さい姿・・・華奢な身体・・・自分のことを求めてくれる女の温もり・・・

・・・帰りの道で交わされたアスカの決意、自分の気持ち・・・真剣な眼差し・・・

・・・ATフィールド・・・絶対不可侵の聖なる領域・・・心の光・・・心の壁・・・一つの心・・・

単調さの中に繰り広げられる数々の声部が男の心を心地よく揺さぶる。

 

・・・アスカ・・・

男はチェロの弓をゆっくり引き抜くと、残響が残る部屋の片隅をじっと見つめる。

白い瞳の奥には明るい光が宿っている。

程なくして、男のマンションから飛び出した白いセダンのテールランプが赤い軌跡を残して闇の中に消えていく。

 

 

人類が終わりそして再び始まったはずの夜の海辺。そこに立ち止まる小さい影。

無数の星々が夜空に明るく輝き、波間に漂う月は厚い雲に隠れている。

きらめく波光を浴びた男が一人、僅かに判別できる水平線を眺めている。

 

『人は忘れることで、生きていける。だが、決して忘れてはならないこともあるのだ。ユイはそのかけがえのないものを教えてくれた。私は、その確認をするためにここに来ている』

波音を聞きながら、昔、ゲンドウの言った言葉が頭を過ぎる。

 

・・・父さん、今の僕には、あの時の言葉の意味が分かる気がする。父さんの気持ちも・・・

・・・でも、それじゃいけないと思う。父さんは後ろを振り返っていただけなんだ。それは何も産み出さない。回りの人たちに悲しみをもたらしただけなんだって・・・自分の心が過去を乗り越えられれば、その記憶なんか関係ない。今、そしてこれからを作り上げることこそ大事なんだって思う・・・

・・・母さんも言っていた『生きていこうとさえ思えば、どこだって天国になる、幸せになるチャンスはどこでもある』って・・・僕は生きている。そしてアスカも、この世界に生活する幾多の人々も・・・

 

俯いていた顔を上げ、海に向かって決意に満ちた言葉を紡ぐ男の声。その明瞭な響き、両手に握られた意志の力は海面を遥か彼方まで震わせる。

「僕は前を見つめて生きていこうと思う。明日を信じて今日を生きようと思う。アスカと共に・・・

だから、綾波、僕はもう君を振り返らない・・・君を僕の中で昇華させたい」

 

そして、僅かに聞える優しい囁き。

「・・・わかってくれるね・・・綾波・・・」

その鳶色の瞳には止めど無く温かい涙が溢れ出ている。

 

その言葉を待っていたかのように、雲の切れ間から満月が姿を覗かせ、一本の光条が男の姿を照らす。

その刹那、男は自分の前を白銀の翼が通り過ぎたのを感じる。

はっと、息を呑み、自分に差し込む月を見上げる。

月は一遍の曇りもない引き締まった男の顔を映し出している。

 

 

「あれ、どうして僕は泣いているんだろう」

シンジは自分の目の辺りに手をやり、自分が泣いていることに気がつく。

「ここに立って何をしていたんだろう・・・でも、何故か嬉しい。」

清々しい潮風に頬を晒しながら、少しの間、物思いに耽る。

決断するように、顔を両手で覆い一気に涙を拭き取ると、浜辺に印した自分の足跡を避けるよう歩き始める。

シンジの足跡が一歩、一歩、確実に砂の中にめり込んでいく。ふと、前方から驚きに満ちた声が聞えてくる。

 

「シ・・・シンジ」

声の先にはもう一本の光条が映し出すアスカの輝きに満ちた姿。

「どうして、アスカがここに?」

「分からないの。なぜかここに来ればシンジに会える気がして。」

戸惑いながらもシンジの顔をにこやかに見つめるアスカの表情にシンジは思わず我を忘れる。

アスカがシンジの方へゆっくりと近づいてくる。

「・・・ねぇ、アスカ、ここに座らない?」

シンジは立ち尽くしていたことに気まずさを覚え、海辺からやや離れた砂浜に腰を下ろす。

波音が耳をくすぐる。

「う、うん」

二人は寄り添うように座り込むと、じっと天空で披露される宝石の輝きを飽きもせず眺めている。

シンジはアスカの横顔を時々盗み見しては、意味もなく右手の開閉を繰り返す。

 

突然、シンジがアスカに向かって、上ずった声をかける。

「ねぇ・・・アスカ」

「えっ、何?」

「ちょっと、立ってもらえない?」

自らがアスカの前に立ち上がると、右手を差し出して、優しい笑顔を浮かべる。

「何よぉ、ほんとに」

アスカはシンジの手の温かさを感じながら、面倒くさそうな声を上げ男の顔を覗き込む。

「さあ、立ったわよ。で、何?」

アスカの視線を感じてやや緊張した面持ちながら、しっかりとその瞳をみつめるシンジ。

手はしっかりとアスカの左手を握っている。

 

「アスカ、明日・・・二人で歩かない?」

シンジの右手に力が込められる。

「それってどういう意味?もっと、はっきりいってよ」

苛立ちを隠せないまま、詰め寄るアスカ。

「えっと・・・つまり・・・僕と・・・結婚・・・してくれない?」

シンジはややはにかみながら、そっと目を伏せる。

 

女が男の手を強く握り返すのが見える。

バシッ!

何の躊躇いもなく女の手のひらが男の左頬に叩き付けられる

「やっと言ったわね、バカシンジ!」

その痛みに一瞬、目眩を覚える男。

男は左頬に添えられた女の右手に手を重ねたまま、女の顔を凝視する。

そのまま言葉を失ってしまうシンジ。

 

「アスカ・・・」

青い瞳には美しい涙が溢れている。

「シンジのバカ!なんで・・・こんなに待ってたのに・・・バカ・・・」

シンジに身体を預けながら泣き崩れるアスカ。

「アスカ・・・待たせたね・・・」

シンジの胸が微かに震える。

 

 

涙で濡れた胸のときめき

夜の狭間を彷徨った人の魂

一つに重なったつきせぬ想い

 

再び向き合った二人に零れる笑顔

・・・さよなら、こんにちわ・・・

満天の空を月が明るく照らす

 

 

・・・やっと一つになれた・・・

 

・・・ありがとう・・・

 

・・・碇君・・・

 

 

「あれ?」

「どうしたのシンジ?」

「いや、なにか懐かしい声が聞えた気がして」

「空耳じゃない。どうせ、風の音か何かよ。それより、みてよ、あの月・・・奇麗」

「うん」

二人は満天に輝くさやけき月の光を浴びながら、静かで何処か優しい感じのする月の美しさに魅入られていた。

やがて、お互いの瞳が相手の姿を映し出し、二つの影が一つに重なる。

 

 

・・・その時、確かに・・・

 

・・・蒼く輝く光条の束が天使の翼となり・・・

 

・・・二人を温かく包み込むとゆっくり天へ舞上がるのが見えた・・・

 

 

Fly me to the moon

And let me play among the stars

Let me see what Spring is like

On Jupiter and Mars

In other words, hold my hand

In other words, darling, kiss me

 

Fill my heart with song,

And let me sing forevermore

You are all I long for

All I worship and adore

In other words, please be true

In other words, I love you

 

 

 

・・・美しい花を毎夜咲かせていたサボテンの煌きが・・・

 

・・・静かに・・・消えた・・・

 

 

 

Fin

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