その日、彼女は一世一代の勇気を振り絞った。
「……好きです」
放課後の校舎裏。
頭上に広がる薄紅の空から陽光が降り注ぎ、遠くからは運動部の掛け声が響いてくる。
――呆れるほどありがちなシチュエーションだとは自覚していた。
誰も登校していない早朝にそっと彼の机に忍ばせた手紙も、今このときの自分の台詞も。
この日、このときのために、彼女は彼女なりの精一杯の努力を積み重ね、予習を繰り返してきた。
自宅に山ほど貯め込んだ少女漫画と恋愛小説は、この半年で本棚を二つ買い足すほどだったし、古今東西の恋愛ドラマのDVDも飽きるほど見た。
おかげでクラスの女の子達とも異様に話が合うようになり、恋愛モノのマニアとして密かに一目置かれるようになったりもしたのだが、それはまァささやかな余禄というものだろう。
気の利いた告白の台詞は無数に学習したし、その中には読み聞きする間に思わずぽろりと涙が出てしまうほど感動的な傑作もあった。
けれど、数千に及ぶ教材の果てに彼女が到達したのは、自分の本心は結局自分自身の言葉で語らねば意味をなさない、という当たり前の真理だった。
そうして今度は自分自身で紡げる告白の言葉を何万通りもシミュレートし、時には告白を通り越して結婚、出産、老後の孫とのじゃれ合いまでつぶさに想像して顔をニヤケさせ、一年前から親友となった赤毛の元同僚やクラスの委員長に気味悪がられたりもしたのだが、これはまァ単なる余談というものだろう。
ともあれ。
かような経緯を経て、彼女がこの日このとき、ようやくのことで振り絞ったのは、自分で自分が嫌になるくらい単純で単調で起伏に乏しい台詞だった。
「……いえ、ずっと好きでした。……付き合ってください」
シンプル・イズ・ベスト。
自分で自分をそう慰めようとしても、結果は無駄だった。
語彙に乏しく感情表現に乏しい自分に対する、どうしようもない自己嫌悪が怒涛のように胸中に溢れる。
自分が今変な顔をしていないか、どうにも気になって顔を上げることが出来ない。
心臓は壊れるくらいに激しく高鳴り、血圧は青天井にうなぎ上り。呼吸は狭心症の発作を起こしたように苦しい。
全身に火が灯されたように体温が上昇し、特に顔面に至ってはそのうち火炎放射器になれるのではないかという気すらした。
彼女は全身全霊の勇気を振り絞って、うつむいた顔の目だけをちらりと上に向ける。
彼の顔が視界に入りかける。
その途端、全身全霊の勇気があっさりとくじけて、地面に目を落とす。
再び勇気を振り絞ろうとして、また挫折。
さらにその次、三度目の正直も、三度目の挫折に終わった。
彼の表情がどうしても見れない。
彼の目がどうしても見れない。
いつもは、ずっとずっとこのまま見つめていたいと、そう思える彼の顔が、今だけはどうしても見ることが出来ない。
時間がとてつもなく長く感じた。
きっと時計の秒針は、この日このときに限ってゆっくりと回っているに違いない。
時間の神様とやらがいるとすれば、それは絶対、すごく意地悪な神様だ。
他にも機会はあろうに、何故自分の告白というちっぽけなイベントを狙い撃ちするのか。
――実際のところ、彼が黙っていたのは五秒やそこらのことだろう。
しかし彼女の時間感覚が知覚したのはその一万倍にも値した。
「えっと……」
彼がようやく口を開く。
彼女はびくっと体を震わせる。
恐る恐る、今度こそ四度目の正直、有史以来最初にして最後であろう(と、彼女は思った)勇気を総動員して、上目遣いに彼の表情を確かめる。
とりあえず、迷惑とか嫌悪とかの色合いはなかった。
では具体的にどんな表情かというと、そこまでは彼女には見当もつかなかった。
すべては、今から彼が紡ぎ出す言葉によって判明し、決定する。
そう、すべては彼の言葉によって――
「なぁに二人でいちゃいちゃこそこそやってんのよーーーーーーーっっっっっ!!!!」
その瞬間、轟き渡った大声は、あいにくと彼のものではなかった。
箱舟
七瀬由秋
時に2016年八月某日。日本時間にして午後七時二分三十七秒。
世界の至る場所でこんな言葉が発された。
「あれ? 一体全体何があったんだ?」
後の世に「パーフェクト・ブランク」、あるいは「クリムゾン・アウト」と称されたその日、自分たちに一体何が起こったのか、全世界の九割九分の人間が首を傾げた。
その日その時刻に至る直前の約十二時間に限って、自分たちが何をしていたのか、まったく思い出せないのだ。
ある会社員は、朝に出勤のために家を出ようとして、ドアを開けたら既に夜だったと証言した。
あるタクシー運転手は、運転中一瞬気が遠くなって、次に気付いたら空が暗かったため、驚いてうっかり信号無視してしまったと語った。
ある大学生は、目が覚めたら夜の七時を回っていたため、自分は二十時間以上眠っていたのだろうとあっさり納得したという。
世界的集団ヒステリー、地磁気による脳波干渉、宇宙放射線の影響、はたまた神か悪魔の起こした奇跡――などなど、医学者に科学者、オカルト研究家に宗教家まで動員しての原因究明が行われたが、万人を納得させ得るだけの結論はついに提出されなかった。
考え得るありとあらゆる検査を行っても、無作為に選ばれた被検者たちの脳にも精神状態にも異常はなく、医学的には「単なるド忘れ」としかいいようがなかったのだ。
むろん、全世界の人間が特定の一日についてだけをド忘れすることなどあるはずがない。
あるはずがないのだが、実際に見たままをいえばそう結論するしかないのである。
膠着した議論と調査に疲れきったとある医学者はこう述べた。
「誰も彼も、心身ともにまったくの健康体。異常がないこと自体が異常というべきなのかも知れないが、私からいえることはただ一つだ。
この事件の調査を続けるくらいなら、風邪の予防に勤しんだ方がはるかに有益だ」
ところで。
この奇怪極まる日が、「クリムゾン・アウト」とも呼ばれるに至ったのには、もう一つの不可思議な事象が背景にある。
――その日以来、全世界の空を霧のように覆うようになった、淡い紅の大気である。
地球の大気圏にくまなく広がるその成分については、国連が組織した研究チームが最高の設備と人材を投じて解明に明け暮れたが、得られた結果は「無数の化学物質を含み、一部に未知の粒子を発見、されど気象及び生体に対する影響は認められず」という、何とも煮え切らないものであった。
とある学者は「理論上推測される、生命誕生以前の海の成分に酷似している」との見解を述べたが、他の無数の推論の中に埋没した。
ちなみに、このときの研究チームの設立には、アメリカ・ソ連・中国・フランス・イギリスをはじめとする全世界の国々が、正真正銘打算も取り引きも抜きにして協力し、「至近距離における共通の事象を前にして、世界は初めて一つとなった」と評された。
実質的な脅威という点では、それ以前の使徒来襲の事実の方がよほど急を要する危機であったはずなのだが、やはり人間とは自分自身が具体的な当事者になればこそ切羽詰るもののようだ。
日本の第参新東京にしか現れない怪物、起こるかどうかもわからないサード・インパクトよりも、今現実に視界に広がる紅の大気こそが、火急にして緊急の課題であった。
とはいえ、大気成分の解明は、当初に報道された暫定的な報告から以後まったくといっていいほど進展がなく、世界規模の意識喪失事件との関連も相変わらず不明のままで、マスメディアの報道もマンネリの一途をたどった。
そうして半年ほど騒ぎに騒いだ後、人々はこの話題に関して頭を悩ませることにすっかり飽きてしまった。
一年経ってから、とある民法テレビ局が放送した特集番組の中で、インタビューされたとある青年はこう答えたものだ。
「わけがわからないっつったらその通りだけど、別に悪いこともなかったんだからいーんじゃないの?」
実際、これはこの不可解な事件に対する一般市民の率直な本心を、おおむね代弁するものであった。
人生の中でほんの一日だけ、何をしていたか何があったのか覚えていない。
さらにその日以来、空が妙に紅っぽくなった。
それはそれは奇妙なことではあったが、だからといって実害があるわけではなく、後日またもや記憶が飛んだというわけでもない。
日中でも紅っぽい空も、見慣れてしまえばそれまでのことである。
これまで空は青かったが、これから生まれる子供たちにとっては紅いのが当然になるのだろう。
紅だろうが青だろうが、地球は相変わらず回っていて、日々の糧のためには働かねばならない。
――要は、既成事実として受け入れられてしまったわけである。
人間とは繊細なようで案外図太いものだ。
二年が経つ頃には、空が青かったことを忘れる者すら出てくる始末で、事件は完全に風化してしまっていた。
そう、空が紅に染まる直前の時期、世界を襲っていた実質的脅威についても、世間の大多数は「そんなこともあったな」で済ませるようになっていたのである。
第参新東京市。
かつて次期首都という名目で資金と設備が投入されたこの都市は、しかし使徒が来襲しなくなった今日、単なる一地方都市として扱われるに過ぎなくなってしまっている。
一応、第参新東京市という地名はそのまま残されてはいるが、それがいずれ実質を伴うようになるとは誰も考えてはいない。
改名されなかったのは、建前とはいえ首都移転計画をぶち上げた政府の面子を維持するためと、地名変更に伴う行政手続きが面倒くさいからだろうというのが、現地市民の率直な意見である。
むろん、この都市は単なる一地方都市ではない。
件の「パーフェクト・ブランク」以降、国連直下の特殊技術研究機関として再生したネルフの本拠地であり、世界最高水準の頭脳と技術が集積する都市なのである。
ちなみに、かつてジオフロントという特殊な地形に壮麗な本部施設を造り上げたネルフであるが、現在はジオフロントの施設のほとんどを破棄し、地上に建てられたビルディングにその中枢を移している。
これには、真面目なのと不可解なのと、二つの理由があった。
真面目な理由とは、何といっても「パーフェクト・ブランク」以降のネルフの対外姿勢の変化である。
もはや来襲してくる使徒はなく、見る者を威圧する要塞同然の本部など必要はない。加えていえば、地下深くの本部施設など、お世辞にもアクセスがいいとはいいがたい。
一般市民及びマスメディアに対してオープンな姿勢を見せつけるためにも、地上に本部施設を移したのは妥当な成り行きであった。
そして、不可解な方の理由だが、これについてはいまだにネルフ側と日本政府の間で議論が交わされている問題でもある。
かの「パーフェクト・ブランク」から目覚めたとき、世界中の人間が記憶の欠如に首を傾げたのは先述の通りだが、第参新東京市のネルフ本部においてはそれにプラスアルファがあった。
――見事なまでに瓦解したそれまでの本部施設と、その方々で目が覚めた戦略自衛隊の兵士たちの存在である。
双方とも、瓦解した施設を見て仰天し、次にそれぞれ近くにいた相手を指差してこう叫んだという。
「あんたらがこんなことをしたのか!?」
むろん、誰も何も覚えていないからこその「パーフェクト・ブランク」であって、互いに互いへ責任を押し付けようにも根拠がない。
ともかくも、そのときは双方の責任者が後日の真相究明を約束することで、戦略自衛隊は撤収し、後には瓦礫の山を前に首を傾げるネルフ職員らだけが残された。
その後、崩壊した施設を綿密に調査したところ、戦略自衛隊の兵士たちが手にしていた重火器が使用されたことはまず間違いないとの結論が出たものの、その頃には誰がいつどうしてそんなことをしたのかはどうでもいい問題になっていた。
何せ、調査の結果、死者も行方不明者も怪我人も見事にゼロ。壊れているのは施設だけ。
世界中が「パーフェクト・ブランク」と紅い大気の解明に大騒ぎになっていたこの時期、施設の半壊ていどは大した問題とは思われなくなっていた。
いずれにせよ、施設の崩壊に戦略自衛隊が関与していることだけは間違いなさそうだったので、日本政府は渋々ネルフ側に対して補償を行い、ついでのように第参新東京市を半独立都市として扱う密約にも同意した。
要は、これ以上の面倒は御免だから勝手にしてくれ、ということである。
そして現在。
2018年七月。
かつて使徒戦争を戦い抜いた子供たちは、高校二年になっていた――
碇シンジの朝は遅い。
むろん、遅いといっても昼まで寝過ごせるような優雅な身分ではないが、それでも同じ高校に通う同級生たちからすれば、HR開始二十分前までベッドに寝ているというのは羨望に値するものであったろう。
かつて、ずぼらな同居人のいる家庭を運営していた頃の彼は、遅くとも七時半には起床して朝食の支度に勤しんでいたものだが、今となっては懐かしむべき時代の慣習でしかない。
もともと勤勉な性質ではなく、自分自身のことにはあまり手間暇をかけない主義なのだ。
着替えに二分、身支度に三分。食事は五分間で食パンを一枚コーヒーで流し込む。
残りの十分が登校に当てられる時間というわけだが、シンジの理想ではそれすらも余裕がありすぎる。
「碇家」の表札がついたこのマンションの部屋から高校まで、その気になれば五分で駆け抜けられる距離である。
先年購入した原付で登校すれば、三分を切る自信もある。
もっともその場合、道路交通法をいくらか無視する必要があるだろうが。
というか、それ以前に、シンジの通う高校は――私立第壱高校という捻りのない名前がついているのだが――、原付での登校が校則で禁止されている。
別段、校則を破ったところで良心が痛むわけではないのだが、路上に駐車して盗難に遭うのも気分の悪い話である。
かくして彼は、今日も今日とて不本意ながら理想から外れた朝を送る。
ぴんぽーん
いつものように、インターホンが鳴り響いたのは、シンジがまさに食パンの最後の一切れを飲み下そうとした瞬間だった。
まったく、毎度のことながら時間に正確なものだと思う。
彼自身が計ったように正確な朝を営んでいる――というより、余分な時間が入る隙間のないギリギリの朝を営んでいるのは事実だろうが、だとするとこのインターホンの主たちはどうしているというのか。
まさか、始終時計を睨みながら生活しているわけでもあるまいに。
頭の中に砂時計でも飼っているとしか思えない。
ぴんぽーん
ぴんぽーぴんぴんぴんぴんぽーん
出かけたため息とともに最後の一切れを胃に放り込む間にも、インターホンは鳴りつづけ、このまま行くと伝説のゲーム名人の十六連射を超えるのではないかと思われるほどに加速して行く。
インターホンの限界に挑戦させて見たいという危険な誘惑を胸の奥に留め、シンジは玄関に向かって声を上げた。
「はーい、ちょっと待ってー」
がんがんがんっ
がががんがんっっ
返答は、もはやインターホンではなく、玄関のドアを蹴り破ろうとするかのような(いや、実際に蹴っているのだろうが)ノックの音だった。
スチール製の頑丈なドアのはずだが、今にも破られそうなのは果たして気のせいだろうか。
住宅用のシェルターを探して見るのもいいかも知れない。
いずれにしても、常夏の季節とはいえ無闇に家を風通しよくする気もないシンジは、席を立って洗い場に食器を放り込んだ。
鞄を手に取る前に、テーブルの端に置いていたシルバーのクルスを首にかけ、ピアスを両耳につける。指輪は二つ、左手の人差し指と中指に。最後に右の手首にプレスレットをつけて、準備完了。
二年前、かつての保護者にクルスを預かって以来、十字架を象ったシルバーのアクセサリを集めるのが趣味になってしまったのだが、これが彼にとっては唯一といっていいお洒落である。いずれも大して高くはない、素っ気の無い十字架柄のものばかりだが、そこがむしろ気に入っている。
ごすごすごすっ
ごんっ
玄関のドアはいよいよ危険な音を奏で始めている。
「やれやれ」
ため息をつきながらも足取りはあくまでゆっくりと、彼は鞄を背負いつつ玄関に向かう。
靴を履き、キーを解除。ドアを開ける。
果たして、予想通りの顔がそこにはあった。
今しもドアに最強の一撃を加えんと足を振り上げた赤毛の少女と、その後ろで慎ましやかに立っている銀髪の少女だ。
「おはよう、綾波ー」
「……おはよう、碇君」
銀髪の少女、綾波レイは微かに口元を綻ばせる。他の人間ならうっかり見落としそうな微かな変化だが、毎日顔を合わせているシンジには、今朝の彼女が機嫌よさそうに見えた。
「こらっ! 何シカトしてんのよ!」
鮮やかに無視された形の赤毛の少女――惣流・アスカ・ラングレーが吼えるように噛みついてくる。
シンジは非常ににこやかな視線を彼女に向け、
「やかましい。静謐な朝を何と心得る」
ごすっ
――おもむろに、誠心誠意を込めた足の裏を、彼女の顔に叩きつけた。
「まったく、信じらんないわっっ!! 迎えに来てやった心優しい美少女の、あまつさえ顔面に、いきなり蹴りを入れるなんてっ!!」
早足で学校に急ぎつつ、顔面に微かな靴痕を残したアスカが吐き捨てるようにいう。
「人格を尊重しているといって欲しいな。性別で人を差別するような狭い了見とは無縁なんだよ、僕は」
毎朝のことなので、シンジの返答も慣れたものである。
「だいたいアスカだって、我が家のドアに対して無法な暴力を」
「無機物と人間を一緒にするつもり!?」
「愛するマイホームを慈しんで何が悪いんだろうな」
「マイホームの前に人を慈しみなさい!」
「蹴られたていどで壊れるような人間なら考えよう」
遠まわしに――というにはえらく容赦のない台詞であったが――「無機物以下」の評価を押しつけられたアスカは、ちょっと涙目になりながらも彼を睨みつけ、
「だいたい、悪いのはあんたでしょっ!! どうしていつもいつも、こんな余裕のない時間帯に出るのよっっ!!」
「それは失敬な。曲がりなりにも歩いて登校できるのは、余裕のある証拠じゃないかい?」
この二年間で見違えるほどに身長が伸び、見違えるほど性格が図太くなった(ついでに容赦なき武力行使をためらわなくなった)元同居人は、あっけらかんと言い返してくる。
その耳に下げられた小さな銀の十字架が陽光を反射して、アスカはわずかに顔をしかめた。
まったく、かつては純朴丸出しのダサいガキだったというのに、いつからこんな風に色気づいたのか。それが似合っていると思えてしまうのだから、まったくタチが悪い。
「あたしはね、曲がりなりじゃなくて正真正銘ゆっくりと歩いて登校したいの!!」
「それはまた恐ろしいことを」
「何が!?」
「ゆっくり歩くくらいなら、ゆっくり眠るほうを僕は選ぶ」
「自慢げにいうなっっ!!」
吼えるようにいうのだが、一向に堪えた様子はない。
「ふぁあすとっ!! 黙ってないでアンタもこの寝ぼすけ男にいってやんなさいっっ!」
暖簾に腕押し、糠に釘――そんな諺を実感したアスカは、側面援護を求めてもう一人の同行者に話を振る。
レイは、応じてシンジに視線をやり、
「……碇君」
「はい?」
「……一緒に住みましょう」
「……もしもし?」
のっけから同棲の誘いを受けてしまった。
「ああああああんたねぇぇぇぇぇぇっっっっ!!! いったい何をほざいてやがんのよーーーーっっ!!」
「私と一緒に暮らせば……朝起きるのも、朝食も、全部面倒見るわ」
「あ。それはいいかも」
「っっっ!! あんたもナニ適当なことをいってんのよっっ!!」
思わず足を止め、爽やかな朝空の下でアスカは吼えた。空は薄紅だが、夕焼けでないのが残念なところだ。
ちなみに、かつては廃墟同然のマンションで一人住まいしていたレイだが、現在は冬月の家に居候している。
結婚もしていないのに孫が出来たような気分だ――とは、レイを引き取ったときの冬月の言葉で、以来この温厚なネルフ副司令は「爺馬鹿」と陰で評されるほどにこの銀髪の少女を猫可愛がりしている。
「だいたいねぇっ! こいつの家に厄介になるくらいなら、そもそもミサトの家を出た意味がないでしょ!?」
その通り、レイとは対照的に、シンジは高校入学と前後して二年近くを過ごした葛城家を離れていた。
高校生にもなる男女が同居しているのはさすがにまずい、というのがその理由であったが、一つには、加持リョウジとの結婚を控えたミサトに気を使ったというのもある。
頃合を同じくして、ネルフ内で人事異動があり、アスカも養父母がネルフ本部に――つまりこの街に――転勤してきたため、葛城家を離れることになった。
当時、アスカはかなりゴネて、「アンタを放っとくと野垂れ死にされそうで後味悪いのよ」などといいながら、惣流家に居候するようシンジに再三強制した――誘った、のではなく――のだが、「いつまでも親を放っておくわけにはいかないだろう?」との正論の前に、二重の意味で屈したのであった。
「問題ないわ……冬月さんも、碇君を気に入ってくれているもの」
「問題大有り、よっ!!」
「どこに?」
「どこが?」
「声揃えて聞き返すんじゃないわよっ!! だいたい、このあたしを差し置いて、同居なんて百年早いっっ!!」
エキサイトする余りなかなか過激な台詞を口走るアスカであったが、本人はさいわいそれに気付かず(気付いていればさらなる大騒ぎになったことは間違いない)、
「……どうして?」
「アスカとミサトさんの次は綾波と副司令。順序としては悪くないと思うけど」
聞いていた二人は鮮やかにスルーした。
「そーゆー問題じゃないっ! だいたいアンタ、実の父と義理の母を放っていくつもり!?」
「うーん、何故だろう。放っていっても恨まれる筋合いはないような気がひしひしと」
「ミサトの家を出たときの台詞はどこへいったのよ!?」
「人は日々成長し、状況は移ろい行くものなのだよ」
「屁理屈をこねるなっ!!」
「失礼な。真理を屁理屈としてごまかすのは悪い癖だよ……それはともかく」
シンジは腕時計をこんこんと指差し、
「時間、いいわけ? 僕の勘違いでなければ、そろそろ競歩の学生記録に挑戦すべき時刻になっているように思えるんだけど」
「……へ?」
「本当……もう遅刻しそう……」
全然驚いたようにも急いだようにも見えないレイがぼそっという。
「…………」
アスカは数秒間、フリーズ。
ショックで呆けたか、とシンジは納得し、レイは珍しい動物を観察する表情で元同僚を見つめている。
二人が見守る中、赤毛の少女は肩をわななかせ、掠れた声を押し出した。
「さ……」
「さ?」
「さ?」
「さっさといいなさい、このボケボケコンビーーーーっっっ!!!」
朝焼けの通学路に、惣流・アスカ・ラングレーの絶叫がこだました。
「まぁぁぁぁっっっったく、このボケナス! 大馬鹿世界記録! 朴念仁! 鉄面皮! 傷害罪常習者!」
陸上部顔負けの健脚を駆使しながらノンブレスでこれだけの悪口雑言が出てくるあたり、いつも大したものだとシンジは感心する。
シンジ自身、この街に来てからネルフで訓練を受けたこともあり、体力にはそれなりの自信が出来てきたところなのだが、やはり幼少時から訓練を受けてきたアスカやレイは別格というべきなのかも知れない。
もっとも、当のアスカにして見れば、かつてのドジでノロマなシンジが、いつの間にやら息一つ乱さずに自分のハイペースについてこられるようになった事実に理不尽なものを感じているらしいのだが。
「破滅的鈍感! 笑顔の独裁者! 百年寝太郎! 天然ジゴロ!」
しかし、とはいえ。
「女たらし! 八方美人! 第九次十字軍! 世紀末覇者!」
こうも悪し様にいわれると(一部訳のわからないものが混じりつつあるが)、多少なりともむかついてくるわけで。
「悪人伝説! 暴力ファシスト! あんたなんか……」
ごすっ
ごろごろごろっ
どたっ
後頭部への無造作な鞄の一撃によって、アスカは綺麗に前転するような形ですっ転び、そのまま正確に三回転してから地面に倒れ伏した。
「さらば我が宿敵。君のことは忘れない。五分くらいは」
意に添わぬ路上前転を強いられたアスカの脇を華麗に駆け抜けつつ、シンジはわざとらしく目許を拭った。
「……五分たったら……忘れる……の?」
ハードル走の要領でアスカを飛び越えたレイが、毎度の如く冷静な口調で問うてくる。
「人の脳の容量には限りがある。過去は忘れて未来を見つめるのが健全なあり方だと僕は信じている」
「……正しい……と、思う……わ」
少々息を切らせながら、レイはこくんとうなずく。アスカほどに体力派でもない彼女には、シンジたちのハイペースはややつらそうだ。
それでも文句一つ言わず、また周囲にそれをほとんど悟らせないあたりが彼女の彼女たる所以であったが、それはそれで対処に困る、とシンジの方では思う。
これがアスカなら、「ペース早過ぎるわよっ! 馬鹿シンジのくせに生意気なっ!」とでもわめくだろうから、横隔膜に手刀を叩き込んで強制的に沈黙させることも可能なのだが――シンジは、アスカがことあるごとに「贔屓よ差別よファシズムよ、待遇改善を要求するー!」と叫ぶ理由に気付いていなかった。気付いたところで態度を変えるつもりもなかったろうが――。
とりあえず、レイにはそれとわからないように心持ちペースを落としかけたシンジは、何気なく彼女を振りかえってあっさりその意図を撤回した。
不死鳥のように蘇り、不動明王の如く怒り狂った赤毛の少女が、彼らより十メートルほど後方を猛烈なペースで追随してきている。
「――急ごう綾波。アスカの怨霊が追ってくる」
「誰が怨霊かぁぁぁぁ!!!」
どうやらしっかり聞こえたらしく、怒声も一緒に追ってくる。見上げた聴力と肺活量である。
「追いつかれたら食われてしまうよ。もう少しだからがんばって」
「食うかぁぁぁぁ!!!」
「訂正。きっと犯される」
「…………」
何故か今度は怒声は飛ばなかった。
怒声よりも罵声よりも、その沈黙の方にこそ差し迫った危機を感じたのは、果たしてシンジの気のせいであったろうか。
駆け足のギアをさらにもう一つ上げようとした彼は、ちらりと振り返った視界の端にレイの顔を確認して、再び己の意志を曲げる必要を認めた。
銀髪の彼女が、今は誰の目にもわかるほど頬を紅潮させて、前を行く自分のペースに合わせようとしている。
表情だけは相変わらず無表情を保とうとしているようだが、それが彼女にとってかなり無理をした結果であることが彼には洞察できた。
シンジはため息を一つつき、おもむろに足を止めた。
レイが驚きつつも慌てて彼に倣う。
「綾波。鞄、お願い」
鞄を押しつけつつ彼女を背中に庇い、シンジは闘牛士の気分で背面の敵に相対した。
一言でいえば、憤怒。
二言でいえば、怒れる鬼神。
ホラー映画の悪霊役を素でこなせそうな勢いで、惣流・アスカ・ラングレーが迫ってくる。
「シンジぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!!」
「父と子と聖霊の御名において」
彼は短く祈りの言葉を呟いて、十字を切った。胸元のクルスが音もなく揺れる。
二、三歩踏み込んで勢いをつける。相手はもう目の前だ。
タイミングはばっちり。ジャンプの飛距離も適切。突き出した両足の角度ときたら、芸術的ですらあったろう。
「Amen」
ぼぐんっっっっっっ
「ぬふぐほぎぃあああああ!?」
相対速度を十分につけてのドロップキックというのは、さすがにちょっとえげつなかったかも知れない――
シンジがそのことに思い至ったのは、赤毛の少女が表現しがたい悲鳴と共に華麗に宙を吹っ飛んで行く光景を見送った、その次の瞬間のことだった。
「うううううううううううううううう」
「綾波、予鈴まであと何分?」
「……五分はあるわ」
「うううううううううううううううううううううううううううう」
「よしよし、死ぬ気で走ったおかげでかなり余裕ができたね」
「碇君、足が速いから……」
「うううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう」
「そんなこともないと思うよ。――しかし、学校もいい加減、校則変えて原付の駐車場でも作ってくれればいいのに。そしたらもっと余裕が」
「……それはダメ」
「ううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう」
「どうして? 綾波たちだって原付の免許くらい持ってるだろ? ってか、一緒に取りに行ったじゃないか」
「バイクだと……ヘルメットつけてるし……話せないもの……」
「ううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう」
「……参ったな。わかったよ、わかりました。どうも僕はその上目遣いに弱い」
「……ありがとう……」
「ううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう」
「…………」
「…………」
「ううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう」
「……アスカ」
「…………」
背後から聞こえる恨めしげなうめき声に、シンジはいい加減うんざりした表情で振り返った。
「願わくば、しばらく口にガムテープでも張っていてくれるとありがたいんだけど。いや、しばらくといわずずっとでも」
「乙女の顔面にドロップキックめり込ませといて、かける言葉がそれ!?」
猛然と顔を上げ、アスカは弾劾の徒と化した。
マンションでの蹴りなど問題にならぬほどの威力で靴底と接吻した彼女の顔面には、それはそれは見事な靴跡が二つついている。
「うん、たしかにちょっとだけやり過ぎたかと思わないでもない」
正直、蹴ったときのあまりに鈍い感触からして、救急車か霊柩車を呼ぶ必要も感じていたのだが。
よろよろしつつも五秒で立ちあがった彼女の姿を見たときは、心底感嘆したものだ。
「やはり、ドロップキックではなくラリアットにすべきだったかと」
「お・な・じ・よぉぉぉぉ!!!!」
「アックスボンバーの方がよかったの? なかなか通だね」
「暴力から離れろっつってんのよぉぉぉぉぉぉ!!!!」
「人間の歴史は闘争の歴史なんだよ」
「平和的解決を模索するのが人の道だと思わないの!?」
「思うに、人道とか理想とかいうものは、実現不可能だからこそ尊いものかと」
「あ・ん・た・っ・て・い・う・や・つ・は・あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
――いつか殺す。
ろくでもない未来図を描く彼女を、一体誰が責められようか。
しかし、堅く決意すればするほど、この二年ほどで骨の髄まで思い知らされた呵責なき武力行使の思い出――自分の弁当を忘れたとき、彼のを横取りしようとしてパイルドライバーを食らったこととか、その腹いせに黒板の隅っこに悪口書いたら、今度は校庭に生き埋めにされたこととか――まで蘇ってきて、アスカは非常に涼しい気分を味わった。
まったく、本当に、いつの間に、こんな手のつけられない男になったのか。
出会ったばかりの頃のあの大人しい面は、フェイクだったとでもいうのだろうか? あの日の思い出を返して。
慰めといえば、かつて彼とともに三馬鹿トリオと呼ばれた二名の馬鹿どもも――彼らもまた、同じ高校に進学しているのだが――、下らない冷やかしを口にしてヤクザキック百連発の刑に処されたり、隠し撮りがバレて中庭の池に五分間ほど沈められたりと、自分と同じような青春を送っていることだが……
「って、何であたしがそんなことで自分を慰めなきゃならないのよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
悲痛な声で、運命に抗議するアスカ。
そこまでされたなら、とっととシンジとの縁を切ればよさそうなものなのだが、そんなことは彼女は脳裏の端にすら思い浮かべたことはない。
何故かといえば、それはまあ、微妙な乙女心という奴である。
――ある意味、非常に健気な乙女、惣流・アスカ・ラングレー。
彼女の一途さが理解される日は、きっとない。
「あ、アスカ? 何叫んでるの?」
恐る恐るかけられたその声に、アスカは我に返って周囲を見回した。
学校はもう目の前。同じ制服を着た生徒たちがちらほらといる。
そんな中、いつの間に現れたのか、中学時代からの親友、洞木ヒカリが引きつった顔で傍に立っていた。
ちなみにシンジとレイはさっさと先に行っている。
「ヒ、ヒカリ? これはちょっとした青春の叫びという奴で……ってか、シンジにファースト! 待ちなさいよ!」
照れ隠しに怒鳴るアスカ。
肩をすくめつつも、前を行く二人は足を止め、彼女たちが追いつくまで待ってくれた。
「おはよう、洞木さん。珍しいね?」
「……おはよう」
アスカを見捨てかけたことは綺麗に忘れて、ヒカリに挨拶する二名。
待っていたのはあたしじゃなくてヒカリか、とアスカは問いかけて、寸前でそれを堪えた。
――答えが見えている問いかけをするのは虚しい。蹴られた顔面がちょっぴり風に染みた。
「そ、そうね、ヒカリ。どしたの? いつもならもっと早く登校してるはずじゃないの」
「う、うん、それが……」
靴底の痕がいまだに残る親友の顔面に少し怯みつつ、ヒカリは口を開く。
「実は、校門の近くに何だか変な人たちがうろついてるのよ」
「変な人? というと、顔に靴跡を張りつけたくそやかましい女の子とか?」
「やったのはあんたでしょーが!!!」
「冗談を理解して欲しかったな」
「あんたの冗談は悪質過ぎるのよ!」
「価値観の相違は悲劇だね」
「加害者が悲劇とかいうなーーーー!!!」
「で、洞木さん、変な奴らがなんだって?」
「無視するな馬鹿シンジーっ!」
めきょ
喉に地獄突きを食らって、沈黙するアスカ。
ごろごろと声にならない叫びを上げてのたうち回るその姿に、ヒカリは冷や汗を流しつつも深入りを避ける表情で、
「そ、それが、別に何をする様子もないんだけど、何だか暴走族みたいな人たちで……すごく大きなバイクでたむろってるの。
皆、怖くて学校に入れないのよ。今、誰かが先生を呼びに行ってるはずだから、それを待ってたら碇君たちが見えたんで……」
とりあえず声をかけた、というわけである。
ちなみに、声をかけようとした寸前、赤毛の親友がいきなり立ち止まって叫び声を上げたため、ちょっと怖くなって物陰に隠れてしまったのは黙っておくことにした。
――洞木ヒカリ、友情を大切にする少女であった。
「へえ、それはまた。暴走族とはアナクロな」
「…………」
感心したように呟くシンジに、よくわかっていない表情で首を傾げるレイ。
「ま、とりあえず行こっか。チャイムまで三、四分くらいしかないし」
「そうね……」
「ちょ、ちょっと待って、二人とも! 私の話、聞いてくれてた!?」
ごくごく普通に歩き始めたシンジとレイに、慌ててヒカリは叫ぶ。
「もちろん。この歳で難聴にも健忘症にもかかったつもりはないんだけど」
「……私も」
「だ、だから、先生が来るまで少し待ったほうが……」
「通う気があるうちに出席日数は稼いで置きたいんだ」
微妙に不穏な返答をしながら、シンジとレイは通学路の角を曲がる。のたうち回るアスカは当然の如く見殺しである。
ヒカリはとりあえずアスカに目で謝りつつ、二人に続く。
数十メートル先が校門だが、たしかに何やらバイクに乗った複数の人影と、遠巻きに見守る生徒たちの姿が見えた。
シンジは微かに眉をひそめ、しかし足取りは緩めることなく進んで行く。
その後ろをカルガモのように付いて行くレイに、おっかなびっくりのヒカリ。
同じ制服の群れをかきわけ、校門にさらに近づく。
と、バイクに乗った少年の一人が、こちらに気付いたようだった。
長身にたくましい体格、浅黒い肌に黒いタンクトップを着た、気の強そうな顔立ちの少年だ。年の頃はシンジたちより一つ二つは上だろう。
「い、碇君……?」
ちょっと震えながらヒカリが呼びかける。シンジはしかし、無視してずんずんと進んで行く。
浅黒い肌の少年が、周囲の仲間たちに何事か合図するのが見えた。
十台近くのバイクがいっせいにエンジンを吹かす。
「いいいいいいい碇君っ!?」
裏返った二度目の呼びかけも、シンジは無視した。
歩調を緩めぬ彼に、浅黒い肌の少年もバイクに乗ってゆるゆると寄ってくる。
ぴたり。
一メートルほどの間を置いて、両者は停止した。
「…………」
「…………」
「…………?」
無言のうちに数秒が流れる。
遠巻きに見守る生徒のうちの何人かがごくりと唾を飲み下した。
「…………」
浅黒い肌の少年が、バイクを降りてシンジに近づく。
その場の緊張感は痛いほど張り詰め、見守る何人かは呼吸すら忘れていた。
恐怖の入り混じる視線の中、少年はずかずかと歩み寄り――
「心の友よ――!」
にわかに破顔すると、ばしばしとシンジの背中を叩いた。
「久しぶりだね、ムサシ。どうしたんだい、朝っぱらから」
「シンジ、お前はサイコーだ! すべてはお前のおかげだ! 昨日のレース、万馬券だぜ!?」
「ああ、あの例の予想? 的中したんだ?」
「おお、お前を信じた俺の目に狂いはなかった!」
ムサシと呼ばれた少年は、感極まったようにシンジの肩を叩き、満面の笑みを見せた。
周囲の暴走族もどきの連中も、ヘルメットを取ってシンジに会釈したり親指を立てたりしている。
一見柄は悪そうだが、なかなか気のいい連中らしい。
「い、碇君、知り合いなの?」
ざわめく周囲の生徒たちの内心を代弁するかのように、ヒカリが訊ねる。
シンジはうなずき、
「一応ね。ムサシ・リー・ストラスバーグ。こう見えても戦自の元軍人」
「軍属だ軍属。あんなけったくその悪いトコ、誰が正式に入隊するか」
ムサシと呼ばれた少年は、毒づきながらも明るく笑う。
「んで、まさか競馬の礼のためだけにここで注目の的になってたわけ?」
「お前が遅いのが悪いんだよ。俺たちだって好きでビビらせてたわけじゃねー」
いささか唖然とした空気の漂いつつある校門周辺を横目で見渡し、二人は苦笑を交わした。
「騒がせた詫びも兼ねて、だ。どうだシンジ、これから付き合わないか? 祝杯代わりにカラオケでも行こうって話になってんだが」
「これからねぇ……」
「久しぶりに付き合えよー。ウチの連中も、お前が来ると喜ぶんだ」
予備のヘルメットをくるくると回しながら、ムサシはいう。
精悍といっていい外見なのに、妙に愛嬌のある仕草だった。
シンジは苦笑し、
「OK、わかった。付き合うよ」
「そうこなくちゃ! 乗れ乗れ」
ヘルメットを受け取り、バイクシートのムサシの後ろにシンジはまたがった。
「碇君……学校……」
取り残された形のレイがいった。ちょっと口を尖らせている。
「そうよ、あんたサボるつもり!?」
いつの間にか復活して追ってきたらしいアスカも轟然と糾弾する。
「生理痛で休みますとでもいっといてよ」
「信じる人間がいるか!」
「心がけの問題だよ」
重々しくいってから、シンジは何かを思い出したように背中の鞄に手を突っ込み、小さな円形のケースを取り出した。
なおも何かいいかけたアスカに向かって、軽く放る。
「顔、痛むようならつけとくといい」
反射的にケースを受け止めたアスカに、シンジはくすっと笑った。
「義母さんが調合した塗り薬。打ち身と擦り傷にはよく効くよ。僕も試したことがあるから効果は保証する」
「え……あ……」
アスカは忙しく、薬のケースとシンジの顔との間で視線を往復させる。
その顔が徐々に赤くなって行くのは、痛みのせいだけだったろうか。
「じゃ、後よろしくー」
「おお、飛ばすぜぇ!」
とっさに言葉を失ったアスカ、そのアスカを見て不機嫌に口を噤んだレイ、呆然自失としているヒカリをはじめとする第壱高校生徒一同を尻目に、ムサシが猛然とアクセルを吹かした。
周囲のバイクもそれに続く。
「ば、ばかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
朝焼けの空に、惣流・アスカ・ラングレーの絶叫と、走り去るエンジン音の残響とが響き渡った。