最終決戦から半年――
 未発に終わったサード・インパクト、紅い海から帰還してきた人々、急速に復興する街と人。
 そして、水面下で繰り広げられたネルフとゼーレの政治的抗争。
 それらすべては、書に著したならば大河歴史小説のシリーズが一つできるくらいであったのだが、あいにくと政治的抗争に関わる人々は謙虚を旨としていたために(そうでない不幸な人間はすべからく別の世界に旅立つはめになった)、市井に知られることはなかった。
 ただし、使徒戦争当時にチルドレンと呼ばれた少年少女たちについて述べるならば、これは平穏息災という他はない。
 大人たちは、かつて子供たちを死線に立たせた償いをするかのように、すべての厄介事から彼ら彼女らを守り続けたからだ。
 ゼーレにしても、チルドレンを調略の対象に含めてはいたものの、その優先順位はいたって低かった。というのは、子供たちが操るべきエヴァが、全機喪失なり大破なりしていたためである。
 零号機は第十六使徒アルミサエル戦で自爆。
 初号機はサード・インパクトに際して宇宙空間にLost。
 弐号機は、やはりサード・インパクトに際しての決戦で大破。
 量産型エヴァシリーズもまた、全機大破状態――もともと無茶な突貫工事で完成させられたところを、ろくな運用試験もなしに実戦投入され、さらに補完計画などという人知を超えた事象に関わったことが、機体寿命を著しく縮めたらしい。
 弐号機にせよエヴァシリーズにせよ、金と時間さえかければ復旧は決して不可能ではなかったが、両勢力ともにその二つが絶望的に不足していた(何せ、兆単位の金額に年単位の時間が必要だと試算されたのだ)。
 かくして。
 ご都合主義も何のその。渡る世間に鬼はなし。世はなべてこともなく。幸せの鳥はチルチルミチルの家に。
 復興相成った第参新東京、疎開地からUターンしてきた人々に囲まれて――
 戦乱から解放された子供たちは、人並みの生活を取り戻そうとしていた。

 

 ――していたはず、であったのだが。
 あいにくと、平和イコール苦悩なき日々とはいかないのが、人生の常というものであった。

 

 

 

 

 

 

 

惣流アスカには彼氏がいない

七瀬由秋

 

 

 

 

 

 

 

 惣流・アスカ・ラングレーには悩みがあった。
 どれくらい深い悩みかといえば、それが頭に浮かぶだけで発作的に壁に頭を打ちつけ、苦悩にプラス実質的な苦痛にまみれた頭を抱えながらごろごろと床を転がりたくなってしまうほどだ。
 この間は、友人の洞木ヒカリと喫茶店で談笑している最中に突然その悩みを思い返してしまい、白昼の街中でちょっとした惨劇(奇行)を演出してしまった。
 壁に亀裂を入れられた喫茶店の店主は何をどう請求すればいいものか悲嘆に暮れていたし(怪奇・石頭女という都市伝説が出来たらしい)、それ以来ヒカリの態度もよそよそしい(自分を見る目がえらく痛々しくなったと感じている)。
 まあ、すんでしまったことは仕方ない。仕方ないということにしておく。
 そんなものは、この巨大な苦悩に比べればささやかなものだ。
 アスカは机の上の写真立てを手に取った。
 一ヵ月前、皆で遊園地に行ったときに撮影したものだ。撮影者は当然のように相田ケンスケである(通行人に撮影を頼んではどうかと勧められたのだが、彼は頑としてそれを固辞した。彼なりにこだわりがあるらしい)。
 鮮やかな陽光の下で、六人の少年少女が笑っていた。
 一同の中央には、碇シンジ。この半年で本格的な成長期を迎えたのか、出会った頃に比べるとかなり背が伸び、筋肉もついてきた。顔立ちに年齢不相応な落ち着きがあるのは、それなりの修羅場を経てきた名残といえるかも知れない。
 その彼の右腕に抱きつくようにして、こげ茶色のショートカットの少女が弾けるような笑みを浮かべている。霧島マナ、使徒戦争の一時期に奇妙な成り行きで出会った少女は、今また同じ学び舎の同じ教室で机を並べるようになっている。碇ゲンドウが日本政府とあれこれ交渉した結果らしい。
 マナのさらに右隣には、綾波レイが佇んでいる。かつて静物じみた無表情を保っていたその顔は、しかしこのとき、はっきりそれとわかる微笑を浮かべていた。
 シンジの左側には、こんなときでもジャージ姿の鈴原トウジ。いつも通りの馬鹿笑いを浮かべているが、それがどこか引きつっているように見えるのは、左隣にいる洞木ヒカリを意識しているからだろう。ヒカリは彼と腕を組めるほどの立ち位置にいながら、しかし最後の勇気が出ないのか、触れそうで触れない微妙な距離で顔を赤らめている。初々しくて結構なことだ。
 アスカは、一同の右隅に写っていた。何がつまらないのか、仏頂面でそっぽを向いている。
 彼女は知っている。このときの自分の心境を。
 つまらなかったわけではない。腹を立てていたわけでもない。
 むしろ、他の誰にも負けないほど浮かれ、楽しんでいた。
 ただ、それを表に出せるほど素直でなかったというだけのことだ。感情を持て余していた、というのが正解かも知れない。

「はぁ……」

 惣流・アスカ・ラングレーはため息をつく。
 いつからこうなってしまったのだろう。
 それはまさに、落とし穴のようなものだった。不意打ちもいいところだ。
 アスカは気が付いたときにはそこに嵌っていて、もがいていたのだから。
 フレームの中で笑う子供たち、そのうちの一人の表情に彼女の視線は吸い寄せられた。
 綺麗な微笑だ、と思った。
 汚れなき純白。濁りない無垢。
 透き通るような笑顔というものを、生まれて初めて見たように思う。
 宝石のように水晶のように、その笑みは眩しく輝いて見えた。

「はぁ……」

 アスカはもう一度、ため息をつく。
 どうすればいいのか、わからない。大学でもネルフでも、誰もそんなことは教えてくれなかった。
 彼女はただ、その胸奥に満ちた切なさとでもいうべき気分のままに、その名を呟いた。

「綾波、レイ……」

 

 

 実際にそれを口に出した瞬間、不幸にも彼女は我に返った。
 ぼん、と音を立てそうな勢いで顔面に血液が集中する。

「んのぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」

 慌てて写真を放りだし、ごろごろとのたうち回る。

「違うっ!! 違うのよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」

 誰にともなく(多分、自分に向けて)弁解する。

「レイなんてっ! あああじゃなくてファーストなんてっ!! 無愛想で世間知らずなガキなのよっっっ!!!」

 頭を抱えてそう叫んでから、
 ――でもそこがまたいいのよね、物を知らなくて手のかかるところが可愛くって。
 などと、余計なことを考えてしまう。

「あたしが好きなのは加持さんっ!! 落ち着きのある大人なんだからっ!!!」

 そうはいっても、加持リョウジ(死んだように偽装工作をした上で、しっかり生きていたらしい)は、今や葛城ミサトと婚約してしまっている。そしてそのことを知らされたとき、大してショックを受けなかったことをアスカは覚えていた。
 ぜーはーと息を整えつつ、彼女は身を起こす。
 放り投げてしまった写真立てが床に落ちていることに気付いて、彼女は慌てて拾い上げた。
 幸い、傷などはついていなかった。
 アスカは安堵のため息をつき、写真立てを大事そうに抱き締める。
 集合写真とはいえ、綾波レイが写っている写真を、彼女は他に持っていなかった。
 大事な、大事な、幸せの詰まったただ一枚の写真……

「……じゃなくってっっ!! しっかりしなさいあたし!! あたしは、あたしは――」

 またもや我に返り、慌てて写真立てを(しかし今度はやけに慎重な手つきで)机に戻し。
 惣流・アスカ・ラングレーは絶叫した。

「あたしはノーマルなのよーーーーーーーーーーーーーっっっっ!!!」

 悲痛な叫び声には、違いなかった。

 

 

 肺を絞り尽くすほどに喉を酷使してから、アスカはようやくのことで気を落ち着けた。
 落ち着け、落ち着け自分。ドイツ人は慌てない(?)。
 冷静に分析しよう、と彼女は自分に言い聞かせた。
 綾波レイと自分の関係が、一時期に比べて著しく改善されているのは紛れもない事実だ。
 使徒戦争が終わり、エヴァパイロットとしての使命が事実上完了して、アスカはその呪縛から解き放たれていた。
 渇望していたエースの称号も、どうでもいい過去の思い出になっている。
 そうなると、以前は同僚というより潜在的な競争者であった他のチルドレンにも、至って素直な気分で相対することができるようになったのだ。
 同じ屋根の下に暮らす碇シンジとの関係は真っ先に修復された。シンジの方でもそれを望んでいたし、アスカと同様エヴァの呪縛から解き放たれ、父との複雑な関係にも一定の決着がついた彼は、本来そうあるべきだった健やかな少年としての成長を始めていた。優しく、温厚で、しかしその下にたしかな強さを備えた彼の人柄は、アスカにとっても快いもので、性別を越えたよき友人としての絆が急速に形作られた。
 綾波レイについては、ある意味でもっと単純だった。もともとアスカが彼女を嫌っていたのは、「よく知らなかったから」という点がもっとも大きい。人形のように盲目的に命令に従う姿が不快だったし、人との交流を最初から無視しているような態度は傲慢そのものに思えた。
 しかし、その後のシンジの取り成しと、先入観を取り払った態度で相対したときの驚きが、それまでの感情を百八十度変えてしまった。
 素直に表現するところ、レイは無知で不器用な少女だった。
 他者との付き合い方を知らず、人間らしい趣味や娯楽を知らずに生まれ育った、純粋培養の少女だった。
 シンジとあるていど親しくなる過程でそれなりにマシになってはいたが、それはあくまで比較の問題である。
 テレビの番組といえばニュース、服といえば学校の制服、本といえば実用書か、せいぜい詩集。
 今時の中学生とは思えないその偏った価値観に――惣流・アスカ・ラングレーは、何故か憤りを覚えた。
 それと知ったその日から、彼女はレイを方々へ連れまわした。
 評判の喫茶店でケーキを奢り、ブティックに連れ込んで似合いそうな服を見繕い、好きな歌手のCDを押しつけて絶対に聞けと言いつけた。
 ファッション誌や都市情報誌を一緒に読み、興味深い記事があれば熱心にその魅力を解説した。
 それはどちらかというと、世間知らずの妹を持った姉の態度だったのかも知れない。
 もともと面倒見のよいアスカには、たしかにそうした傾向があった。あるいは加持のような包容力のある大人に憧れる反動というべきか、自らもまた庇護する対象を求めていたのかも知れない。レイの方でもまた、自分をいつも気にかけ、面倒を見てくれるアスカに心を許し、何かと頼りにするようになっていた。
 そんな日々が数ヶ月続いた頃、いつしかアスカにとってはレイが隣にいることが日常になりかけていた。
 ともにいることが呼吸するよりも当然と思われた日々――
 妹に接するようだった感情は、いつしか変質を始めていた。
 そして、ふと気がついたとき。
 惣流・アスカ・ラングレーは、モノの見事に深みに嵌っていたのである。
 体育の着替えでレイの下着姿を見たとき、どきりと心臓が鼓動を跳ね上げるようになった。
 何気なく髪を掻き揚げるその仕草に見惚れ、垣間見得たうなじを食い入るように見ている自分に気付いた。
 遊びに行く約束をしていて、待ち合わせの場所に一足先についていたレイがどこぞの大学生らしき男にナンパされていたときなど、音速で駆けよってその不埒者にドロップキックをかまし、マーシャル・アーツのフルコースを見舞ってしまったほどだ。あのときは危うく殺人犯になるところだった。
 アスカの目には、綾波レイは純粋だけど頼りなくて、凛としているようで儚くて、思わず抱き寄せて頬擦りしてあれやこれやしたくなるほど愛らしく見えて……

「……だからそうじゃなくてっ!!」

 虚空に向けてツッコミを入れてから、アスカは再び冷静に(少なくともそのつもりで)己を省みた。
 まあ、よろしい。仮に、自分が綾波レイに友人以上の感情を持っていると仮定しよう。あくまで仮定だ。シミュレーション、あるいは思考実験といってもいい。
 しかしながら、多感な思春期の少女が自分の感情を持て余すというのは当たり前のことではあるまいか。
 特に、閉鎖的な環境で育った少年少女が、身近にいる同性の友人への感情を愛情だと錯覚する事例はさして稀少なケースではない。
 自分もそうなのだろう。うん、そうなのだ。間違いない。
 アスカは、今度は安堵を含んだ(つもりの)ため息をついた。
 冷静に考えて見ればどうということはない。誰もが通る道――ではないかも知れないが、まぁ珍しいことではないのだと思うことにする。
 そう、やましく思う必要など何一つないのだ。
 いずれ大人になり、まっとうに恋愛して、結婚でもした後、そういえば昔はこんなことが……と、懐かしく思い出すエピソードになるだろう。
 ――ねえ、実はあたし、自分が変態じゃないかって思ってた時期があるのよ。
 ――? それってどんな?
 ――いつも側にいた仲のいい友達、もちろん女の友達に、恋をしているんじゃないか。そんなのおかしいって思い悩んだの。
 ――ふふ。何、それ。
 ――おかしいでしょ? 今にして思えば、何でそんなことで悩んだのかなって。
 ――本当。おかしいわ、アスカ。
 ――ええ。素直に認めて、受け入れてしまえば、変な回り道なんてしなくてすんだのに。
 ――くすくす。
 ――大好きよ、レイ……
 ――私も。アスカ……

「違う違う違う違うでしょあたしぃぃぃぃぃぃぃ!?」

 まっとうな将来の旦那との未来像ではなく、大人になった綾波レイと自分が愛を囁き合う(二人の左手薬指にはお揃いの指輪付き)という光景をつぶさに想像してしまい、アスカはがんがんと壁に頭を打ち付けた。このところ連日のように衝撃にさらされている彼女の部屋の壁は、そろそろ亀裂でも入りそうだ。傷一つつかない頭蓋の頑丈さを褒めるべきかも知れないが。

「あ、あたしはノーマルなのよ。加持さん……はミサトに譲るから仕方ないとして、年上の大人の、優しくて頼り甲斐のある人を見つけて、普通に恋愛して……」
「それで、綾波の結婚式を友人代表として見守るわけ?」
「冗談じゃないわ! あのコが結婚なんて、とんでもない! そんな奴がいたらこの世から抹殺してやるわ」
「それじゃ、綾波は終生独身を貫くことになるのかな」
「日本じゃ同性の結婚が認められてないし、そうなるかも。でも、あのコのウェディング・ドレスも見てみたいし……」
「アメリカのどこかの州なら同性婚OKだったっけ、そういえば」
「そうね。でも、形式にこだわる必要もないと思うのよ。あたしはレイが側にいてくれればいいし、例え正式なものでなくても内々で式を挙げりゃいいわけだし」
「綾波の花嫁姿、似合うだろうね」
「当然よ! 男なんかに渡すもんですか」
「お芝居みたいなものでいいなら、僕が神父役を務めてもいいよ」
「ダンケ。恩に着るわ、シン――ジ……?」

 タキシードで男装した自分の横で微笑むウェディング・ドレスのレイの図――という、幸せな空想に浸っていたアスカは、そこでようやく我に返った。
 たてつけの悪い扉のような軋み音を立てつつ、首を回す。
 彼女の同居人でありよき友人であるところの少年が、当たり前のような顔をしてそこに立っている。
 しげしげとアスカを見下ろす視線は、何やら優しさに満ちていた。
 平たく表現すれば、生暖かい視線という奴かも知れない。

「ああああああああああああんた!! いつからそこにぃ!?」
「『冷静に分析しよう』ってぶつぶつ呟いていたあたりから」

 碇シンジはどこまでも優しい笑みを浮かべつつ、無情な事実を伝えた。

「アスカ、悪いことはいわないから、無意識に独り言を呟く癖は直した方がいい」

 ざざーっと、アスカの頭から血の気が引いた。
 視界が急速に明度を落とし、血液が上から下へと一方通行に流れ落ちて行く感覚というものを、彼女は初めて体感した。
 シンジは何事もなかったように、そんな彼女の肩をぽんぽんと叩き、「それじゃ」と踵を返した。
 部屋の戸に手をかけ、出ようとする寸前、彼はついでのように振りかえって、

「ああ、それから。『大好きよ、レイ』って台詞だけは、独り言にするだけでなく本人にはっきりいってあげた方がいいと思うよ。綾波は、あれでストレートな台詞に弱いからね。仮に『そういう意味』だと伝わらなくても、きっと喜ぶよ」

 どこまでも穏やかに、とどめを刺した。
 ――自分の中で何かが音を立てて崩れ落ちるのを、惣流・アスカ・ラングレーははっきりと耳にした。

 

 

 何故か苦笑めいた表情を浮かべて戻ってきた碇シンジを、彼の部屋で待っていた霧島マナは不思議そうに迎えた。

「ね、シンジ。アスカさん、何があったの? 叫び声に加えて、何かを打ちつけるような音も聞こえてきたけど……」
「何でもないよ。――何でもない、ということにしておいて欲しい。マナ、君がアスカを友達だと思っているのなら」
「? う、うん。わからないけど、わかった」

 マナは素直にうなずく。事情はさっぱりわからないが、シンジがそういうのなら問題はないだろうと思っている。彼女は彼に絶対的な信頼を置いていた。
 シンジはそんな恋人の様子に微笑みながら、ベッドの脇に腰を下ろし、彼女を手招いた。
 あっさりと先刻までの疑問を忘却し、マナは彼の胸に頬を寄せる。
 いつの間にか随分逞しくなったシャツ越しの胸板に、小犬のように顔をこすり付け、ごろごろと甘える。
 二度と会えないとまで覚悟していた恋人と再会して以来、彼女は二人きりだといつもこんな調子だった。一応、身分の上ではネルフ警備部の見習い扱い、つまりは碇シンジ専属のボディ・ガードという形なのだが。
 マナにいわせれば、こうして思う存分じゃれ合っているのも警護の内、ということになる。

「シンジー」

 愛しげにその名を呼んで、彼女は顔を上げた。彼の顔をじっと見つめてから、静かに目を閉じる。
 心得たシンジが、彼女に顔を近づけて行く。
 二人の唇が、まさに触れ合おうとした、その瞬間――

『あ、あたしはぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!』

 かつてない悲痛な叫び声と、続いてどたどたと廊下を駆け去って行く物音とが高らかに響いた。
 びくりとしたマナが目を開ける。

『ノーマルなのよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!』

 ドアが蹴破られる鈍い金属音。閉めることを忘れているのか、それとも本気でドアを破壊してしまったのか、遠ざかる足音がやけにはっきりと聞こえてくる。

「…………」
「…………」

 そして、最後にずががががっ、と何か転げ落ちるような音と、鈍い落下音を最後に、すべてが静寂に包まれた。

「…………」
「…………」
「…………」
「…………シンジ」
「………………ん?」
「あれって、多分……非常階段を滑り落ちた音、じゃないかな」
「…………多分ね」

 何ともいえない表情で、シンジは同意した。

「アスカさん、一体何が……」
「そっとして置いてあげて欲しい」

 シンジは静かに、恋人を制した。
 当惑もあらわに見上げてくる彼女へ、彼は同居人の身を案じるというより、世の無常を思いやる行者の如き表情で頭を振った。

「とかくままならないものなんだ――世の中も、人間も」

 

 

 打ち身が二ヶ所、右手の甲に擦り傷。それが、非常階段一階分を転げ落ちたアスカの負傷のすべてだった。事故現場の踊り場の床面には、落下の衝撃の激しさを物語る亀裂が入っていたのだが、本人は骨折一つ負うでもない。つくづく頑丈な少女である。
 いずれにせよ、念のためということで病院に運ばれ(救急車はシンジが呼んだ)、二日間の検査入院を申し渡されたアスカは、病室の白いベッドに身を横たえていた。
 担ぎ込まれてから一時間弱が経った現在、泥のように眠りに落ちているのだが、それが肉体的負傷のためか精神的疲労のためかは微妙なところである。傍らで看護についているシンジには、どうも後者の方が(おそらく九対一くらいの割合で)大きいように思われたが。
 病室は、そこそこに広い個室をあてがわれていた。今や形式的な地位になっているとはいえ、そこはネルフのチルドレン。病院側が気を利かせてくれたらしい。
 もっとも、そうした快適な空間もクランケの個人的苦悩にまでは効果がないようで、先刻からアスカは寝苦しげにうなされている。

「あ、あたしは……ノーマルなのよぉ……」

 寝言ですら苦しげに潔白を主張する彼女に、シンジは思わず目頭を押さえた。服の着替えやタオルなどを取りに行っているため、マナが席を外しているのは幸いだった。自分だけならともかく、マナにまで苦悩の内容を知られては、アスカは卒倒するだろう。今度こそ自室の壁を瓦解させかねない。
 そこまで気に病まなくても、などとシンジとしては思うのだが、アスカ的にはどうにも踏み越えられない一線というものがあるのだろう(今更という気もするが)。彼女はワガママで勝気なように見えて、内面はひどく潔癖で初な部分を残している。そういう意味でいえば、再会したマナと恋人としてのあれこれをすませてしまっているシンジの方がよほど「大人」である。
 シンジは同居人兼友人の苦悩に満ちた寝顔を眺めながら、腕時計の時刻をちらりと確認した。
 ――連絡を入れてから十五分。
 そろそろかな、と思う。
 まさにそのタイミングを見計らったかのように、とたとたとた、という足音がドアの向こうから響いてきた。
 間を置かず、病室の扉が音を立てて開かれる。
 振り返ったシンジは、僕の推測は正確だったな、と己の先見に満足した。
 綾波レイ。アスカの最愛(!)の存在にして苦悩の根源でもある少女がそこにいた。

「早かったね」

 呑気に挨拶するシンジに、彼女は軽く顎を引く仕草で応えて、ベッドに歩み寄る。
 何気ない、いつも通りの態度だが、その目はじっと病床でうなされているアスカを見つめていた。

「…………」

 彼女はしばしアスカの容態を確認し、次いで物問いたげな顔をシンジに向けた。傍から見ればまったくの無表情のようだが、いい加減付き合いの長いシンジには彼女の表情の微妙な変化がはっきりとわかる。
 彼は安心させるように微笑むと、

「さっき電話で話した通り。階段で足を踏み外したらしくってね」
「……怪我の程度は」
「打ち身がいくつかできただけだよ。二日ほど検査入院することになってるけど、文字通りの検査だけで終わるだろうね」

 彼はそこまでいってから、レイの表情がなおも晴れないのを見て取って、むしろ微笑ましい気分で付け加えた。

「大丈夫だって。アスカは衝撃に耐性があるんだ」

 僚友にして親友をゴムタイヤか何かのように表現しつつ、彼は椅子に座るよう促した。

「…………」

 レイはやはり無言のままに、勧められた椅子に腰を落とす。
 一見平然としているが、目許が少し赤くなっていた。
 こっちはこっちで素直じゃないな、とシンジは内心で肩をすくめた。まあ、綾波の場合は本心を隠そうとしているのではなく、それを表すことに馴れていないだけだろうけど。
 連絡を入れてから十五分――というのは、実のところレイのマンションからこの病院まで全力疾走した場合の所用時間に等しい。いつも通りの鉄面皮のようだが、彼女は多分その表情のまま、わき目も振らず駆けてきたのだろう。彼女の首筋や額に汗がにじんでいることに、シンジは最初から気付いていた。

「……苦しそう」

 しばしの沈黙の後、レイがぽつりと呟いた。二人の見守る中で、アスカは相変わらず苦悩もあらわに唸り声を上げている。

「繰り返すけど、傷は別に大したことはない。寝苦しいだけだよ。枕が合わないらしい」

 親友として、シンジはさり気なくフォローを入れた。
 内心で、もしもアスカが寝言で苦悩の内容を呟こうものなら、どう対処したものかと彼は考えていた。特に、つい数時間前に彼が耳にしたような独り言――「大好きよ、レイ」という台詞を含むアスカ的薔薇色の未来図――をレイに聞かれてしまった日には、正直お手上げだ。変な夢を見ているのだという言葉でレイが誤魔化されてくれるだろうか。それともいっそ、アスカの横隔膜に手刀を叩き込んで黙らせるべきか。
 ひとしきり彼は思考を巡らせ、あっさりと結論を出した。
 ――ま、いっか。バレたらバレたでそれはいいさ。
 薄情なようだが、これでもシンジとしてはアスカを思いやっているつもりである。色恋沙汰の悩みなど、うじうじ内心で抱え込むようなものでもないのだ(今回のケースはいささか特殊だが)。

「…………」

 現実的なような他人事のようなことを考えているシンジをよそに、レイはベッドの脇に垂れていたアスカの手を、両掌で包み込むように取った。
 そうすることで、アスカの苦悩が少しでも和らいでくれればいい。表情は相変わらずの無表情に近いが、そんな様子だった。
 少女の柔らかな手のぬくもりを感じたのだろうか。うなされていたアスカの顔が、見る間に安らいで行く。
 シンジは苦笑すると、

「綾波、ちょっとごめん。ミサトさんに連絡入れてくるからさ」

 そういって、椅子から立ち上がった。
 実際は、そのていどのことはとっくの昔にすませてある。レイにだけ連絡しておいてミサトを放置するほどシンジは間抜けではない。もっとも、彼らの法的保護者にしてネルフの作戦部長でもあるミサトの元には、アスカが救急車に乗せられた時点で既に病院ないし警備部から報告が入っていたようだったが。
 レイはしかし、彼の言葉を疑う様子もなく、こっくりとうなずいた。いつもの落ち着きを取り戻しかけていた表情に、無言の使命感が満ちていた。

「じゃ、よろしく」

 もっともらしくそういってドアに手をかけた彼の耳に、すーすーというアスカの寝息が聞こえてきていた。

 

 

 目覚めては眠り、眠っては目覚める、幸せなまどろみに似た感覚があった。
 部屋の空調はよく効いていたけれど、どこか暖かい、心地よい温度があって、それがまた眠気を誘う。
 何より幸せだったのは、ふと隣を確認したとき、いつもそこに彼女がいてくれたことだ。
 彼女は自分を見下ろしながら、どこまでも静謐な目をしている。けれどもそれは、何故か今にも泣き出しそうな顔にも見えた。誰にいっても信じられないかもしれないが、何故かそんな気がしたのだ。
 いたたまれなくなって、手を伸ばした。
 泣く必要なんてない。一人で泣く理由なんて何一つない。あんたを悲しませるもの、苦しませるもの、すべてあたしが一緒に戦ってあげる。
 素直な気持ちでそういって、頬を撫でると、彼女はそれこそ本当に泣き出しそうな顔になった。
 ばか、と優しくたしなめる。
 だから、そんな顔をしないで。あたしはいつだって――

 

 

  ――と、いうような夢を見ていた気がした。
 アスカが目を開けたとき、とりあえず見えたのは白い天井だった。
 入院することになったんだっけ、と彼女は思い出す。それほどの怪我をした自覚は欠片もない(事実その通りである)のだが、まぁ念を入れるのはいいことだ。一日二日、病院で頭を冷やして見るのもいいだろう。
 そう思いながら身を起こしたとき、
 ――十秒ほど時間が消し飛んだ。

「ななななななななななななななななな…………」

 呂律の回らない舌で意味のない音を発する。
 綾波レイが、すぐ側で眠っていた。傍らの椅子に座りながら、頭をベッドのシーツの上に載せ、すーすーと寝息を立てている。
 何故ここに、いやシンジが連絡したのは当然だろうし、見舞いに来てくれるのももちろん嬉しい、むしろ来てくれないと寂しいけどこちらにも心の準備というものが、ああ変な寝顔してなかったかしら?
 恐慌に陥りかけた頭が脈絡なくいくつかの思考を走らせ、そのうちの一つが戦慄すべき推測に至った。
 ――もしかして。
 今の夢って、現実?

「………………………………………………………」

 ざざざざざざざ―――――――――っと、シンジに独り言を聞かれたとき以上の勢いで、血流が頭頂より落下して行く。体の中にナイアガラの滝でも出来たかのような感触であった。
 思い出せ! 思い出しなさい! 何か変なコトをいってなかったか! 血迷って「愛してる」とかいわなかったでしょうね!?
 内心で彼女は絶叫した(レイの眠りを妨げるのが嫌だったので、実際に絶叫するのは何とか堪えた)。
 許されるならごろごろと転がりたかったが、それもままならない。そうでもなければ、この病室は亀裂だらけになっていたであろう。
 この世のありとあらゆる苦悩を一身に背負った気分に浸りながら、恐る恐るレイの様子を見やる。

「…………」

 ――少しだけ、アスカは安心した。
 レイは気持ちよさそうに眠っていた。
 秀麗な美貌が、不思議なほどあどけない印象をあらわにしている。
 それに何より――レイは、アスカの右手を握り締めるようにして眠っていた。
 掌から伝わる体温が、内心に吹き荒れかけた嵐を急速に収束させていく。

「レイ……」

 小さく、その名を呟く。眠っているとはいえ、レイの目の前でそう呼ぶのは初めてだった。
 眠りを妨げないように、硝子の工芸品を扱うように、右手を抜こうとする。
 抵抗が感じられた。
 レイは眠りながらも、それを離すことを嫌がるかのように、きゅっとささやかに力を込めていた。
 ――ばかね。
 アスカは、夢の中でそうしたように囁いた。
 悩みも何もかも、今だけはどうでもいいような気分になっていた。
 暖かい、優しい、穏やかなものが心を満たしている。
 ――ちなみにこのとき、病室のすぐ外では、細く開けたドアの隙間から覗く某少年がうんうんとうなずいて目頭を押さえているのだが、当然ながらアスカは気付いていなかった。
 彼女は幸福とも呼ぶべき気分のままに、左の手でレイの髪を梳いた。少女はくすぐったそうに身じろぎした。

「……セカンド……」

 その唇が、そんな言葉を紡ぎ出す。

「…………」

 じーん、と感動に浸るアスカ。
 寝言で自分を呼んでくれたことに、かつてない衝撃と感慨が溢れている。「アスカ」と呼んでくれなかったのは残念だが、それは後々の課題としておこう。自分だって「ファースト」としか呼べてないわけだし。
 レイの唇は、さらに何かを囁く形に動いている。
 アスカはさらなる期待に胸を高鳴らせながら、それを聞き取ろうと耳を澄ませた。

「……いつまでも……一緒……」
「…………」

 今度こそ頭が沸騰した。
 加速装置始動。リミッター解除。面舵一杯。全速前進。缶が爆発しても構わん銀河の果てまでも進撃せよ――という、訳のわからない号令が頭の中で轟いている。
 ああもう可愛過ぎる! このまま食べてしまいたい! というか食べないのは犯罪よ! 据え膳食わぬは女の恥(←?)! 行け行けゴーゴー!! 
 アスカの中で、天使と悪魔が同意し、理性と感性がただ一つの結論をがなりたてた(このとき、件の某少年は、予想以上に早く戻ってきた恋人の姿を廊下の向こうに見つけ、足止めすべくドアの前から離れていた)。
 熱に浮かされたような感覚のままに、アスカはレイに顔を近づけていく。
 間近で見た少女の肌はどこまでも白く、美しい。
 ごくりと飲み下した唾が、えらく質量を感じさせる。
 ――唇を奪うなんて贅沢はいわない。せめて頬にちょっとだけ。
 そ、それくらい、欧米じゃ立派な友情の証よね? と、こんなときにも自分を騙そうとするアスカであったが、とにかくこれは彼女にとっての一大決心ではあった(しつこいようだがこのとき、某少年は恋人を何とか言い包めて、ナースステーション横の談話室に誘導しようとしている最中だった。「一人の少女が苦悩の果てにささやかな幸せを掴もうとしているんだ」「?」)。

 あと二十センチ

 で、でも、本当にいいのかしら?

 十四センチ

 ええい、ここまで来て引いたら泥沼よ!(※ すでにして十分泥沼である)

 十センチ

 いざ行けあたし! 明日のために!!

 七センチ

 そ、それにしても何て綺麗な肌なの、これはもう犯罪の域よね。

 五センチ

 そ、それに、こんな近くでレイ(ぽっ)の顔を見たの初めてかも。

 四

 あああ。む、胸が……胸が、破裂しそう……

 三

 は、鼻血が……

 二

 …………

 一

 ………………………………………………………………ぷちっ。

 

 

「ねー、シンジ。何で病室に近づいちゃいけないのー?」
「友人としてのささやかな心遣いだよ。そろそろアスカも幸せになっていい頃だしね」

 不思議そうな顔を浮かべる恋人を、シンジは毎度の如く達観した態度で煙に巻く。
 階段から落ちて入院するのが幸せ? と、マナは首を傾げたが、まぁシンジがそういうのならそうなのかも知れないと納得したようだ。
 談話室に、他に人影はいなかった。
 第参新東京市立第六病院は、使徒戦争中にネルフの肝いりで建設されただけあって、内装にも十分に費用がかけられている。二人がこのとき陣取っていた談話室も、ちょっとした喫茶店並の雰囲気があった。さすがにウェイトレスの類がいるわけではないが、テレビ、自動販売機に加えて雑誌や小説の納まった本棚、果てはネットに繋がったコンピュータまで設置されている。噂では、戦後にオーヴァー・テクノロジーの研究機関として再生したネルフが、その成果の生み出す莫大な利潤の節税対策としてせっせと寄付を行ってもいるらしい。

「ねえ、マナ」

 コーヒーの缶を片手に、シンジは何気ない様子でいった。

「許されぬ恋というものについて、どう思う?」
「? な、なに、突然?」
「いや、大した意味はないよ。一般論として、どう思うかという話なんだけど」

 シンジの表情は言葉通りに何気ないものだったが、マナは真面目に考え込んだようだった。
 許されぬ恋云々というなら、そもそも碇シンジと霧島マナの関係がそうだったからだ。ネルフのエースパイロットと、戦略自衛隊の工作員。彼女は彼の機密を知るために接触し、彼はそれと知らず彼女を近づけた。偽りのはずだった親密さが本物になってしまったのは、少女の未熟さのためだったか、少年の優しさのためであったか――おそらくは両方だろう。
 紆余曲折の末に二人は互いの思いを確認し、別れ、再び出会って、その想いを遂げて、今ここにいる。ロミオとジュリエットは悲恋に終わったが、彼と彼女は想い続けた末に結ばれた。

「私は、その……恋愛感情に許されるも許されないもないって思うな」

 照れ隠しのつもりだろう、自分の缶コーヒーに口をつけてから、彼女は続けた。

「社会がどうあれ、お互いに愛し合っているというのなら、少なくともその感情は否定されるべきものじゃないと思う。ありがちな意見かも知れないけど……」
「いや、十分だよ。ありがとう」

 実感のこもったマナの台詞に、シンジは心から満足げにうなずく。
 彼は何かを決心した様子で、

「実はさ――」

 と、何か言いかけた。
 ばたばたばた、と談話室の横のナースステーションが騒がしくなったのはそのときだった。
 常時開放されている談話室のドアの向こうで、幾人ものナースが慌てた調子で叫び声――あるいは悲鳴――をあげている。

『何があったの!?』
『581号室のクランケが――』
『あああ、病室が血の海にぃ!?』
『大至急輸血の用意――!! 先生を呼んでっ!!』
『どこから出血したの!? まさか吐血!?』
『そ、それが、どうも……』
『……はあ?』
『……………………………………鼻血ぃ!?』

 何やら微妙に切羽詰っているような、そうでもないような様子であった。

「ね、シンジ……」

 何だろアレ、と訊ねかけたマナは、シンジの様子を見て目を丸くした。

「…………」

 本格的に頭痛を覚えている表情で、彼は頭を抱えていた。

「ど、どうしたの!?」
「……いや。馬鹿と罵るべきか、気の毒にと同情すべきか、判断に迷ってるんだけど……」

 ナースたちの悲鳴の原因について、彼には何故か確信めいた心当たりがあった。
 前々から不器用だとは思っていたが、まさかここまでとは。
 余計な気を回し、お膳立てを整えようとした至近の過去が、何かとてつもなく無駄な努力であったような気分になってくる。
 彼はため息を一つつき、いっそ清々しいほどの諦観の微笑を浮かべると、おそらくはこの状況をもっとも的確に要約する台詞を吐いた。

「ダメだこりゃ」

 

 

綾波レイの日記:
 本日1450、碇君よりセカンド・チルドレンこと惣流・アスカ・ラングレーが入院したとの知らせを受け、市立第六病院に直行。
 1505、病室に到着。
 当時、セカンドは睡眠中。
 呼吸・表情共に苦しげで、安否が気遣われた。病床に付き添っていた碇君はしかし、深刻な負傷でない旨を確言。多少の安堵を覚える。
 しばらく会話した後、碇君は葛城三佐への連絡のために席を外し、留守を私に一任。当然ながら快諾する。
 その後、セカンドの看護に当たるも、無事と知って気が抜けていたのか、いつしか眠ってしまっていた。使徒戦争中であれば考えられない失態だ。猛省する。
 五分ほどして目を覚ましたとき(ぷち、という妙な音を聞いた気がした)、セカンドは顔面より大量に出血し、昏倒していた。自らの迂闊さを呪いつつ、ナースコールを押して急を知らせる。
 緊急の輸血後、担当医が述べたところでは、出血はただの鼻血とのこと。その割に出血量が尋常ではなかったように思うのだが、これについては担当医も首を捻っていた。よほど何かに興奮したのではないかという推測も述べていたが、真相は不明。
 なお、セカンド・チルドレンは、この騒動のあった数時間後、医師及びナースの制止を振り切って無理やり退院。
 本人のコメント:「死ぬ。このままだと、あたし確実に死ぬわ。出血多量で」
 碇君のコメント:「情けがあるなら黙って帰らせてあげて下さい」
 言葉の意味は不明なるも、後日再検査に訪れるという約束を取りつけた上で病院側は退院を許可。ただし、半日分の入院費にベッドシーツのクリーニング代が上乗せされていた。
 その後の容態が気にかかったので、葛城三佐宅まで同道する。
 セカンドのすぐ側について、異常があればすぐさま応急処置が出来るよう注意して見守っていたのだが、何故か彼女は絶えず頬を紅潮させていた。発熱があるのかも知れない。額と額をくっつけて体熱を計測する(この手法は碇君から習った。日本ではもっともポピュラーな家庭的医療法の一つとのこと)と、やはりひどく熱い。しかも、直後にセカンドはまたも鼻腔から出血してしまった。予想もしない事態に狼狽し、一時思考停止に陥る。沈着に手当てを行ってくれた碇君と霧島さんには心から感謝を。
 それにしても、セカンドは何か持病でも持っているのだろうか。いや、そうしたものに心当たりがないからこそ(チルドレンである以上、その種の検査は毎年念入りに行われている)、担当医も私も首を捻っているのだが。
 葛城三佐宅に到着後、セカンドは自室に直行して就寝。精神的に著しく疲労したらしい、とは碇君の説明である。
 セカンドには何か悩みがあるのだろうか? もしあるのなら、是非とも力になりたい。これは同僚であるからではなく、私個人の望みだ。
 碇君にその旨を申告すると、嬉しそうな困ったような、曰く言い難い複雑な表情で「うん、アスカも喜ぶよ」といわれた。ただし、具体的にセカンドが何に悩んでいるかまでは教えてはもらえなかった。見た限り、碇君には心当たりがあるようなのだが。
 私一人が蚊帳の外に置かれているようで、少し悲しい。碇君は、「いずれアスカから話してくれることもあるだろう。それまで待っていて上げて欲しい」といわれる。待つこともまた信頼するということだ、と。その通りかも知れない。
 帰り際、碇君に奇妙なことを尋ねられた。
 セカンドを個人的にどう思っているか、というのだ。
 私にとって、セカンドは生まれて初めて出来た同性の友達だ。楽しいこと、嬉しいこと、面白いこと、そのほとんどはセカンドが教えてくれた。
 彼女と一緒にいると、とても楽しい。ずっと一緒にいられたらいいと思う。
 かつて、私は碇君と一つになりたいと望んだことがある。今では、セカンドとも一つになりたいと思うときがある。
 そのようなことを答えると、碇君は再び嬉しそうな困ったような複雑な表情で考え込んだ後、「アスカにもいずれその言葉を言ってあげて欲しい」といった。
 そうすれば、彼女の悩みもいくらか晴れるのではないかというのが碇君の見解だった。なるほど、一人で悩む必要はないのだと知らせることは、たしかに心強いはずだ。
 明日にでも早速、その提案を実行して見ようと思う。

 

 

 翌日、再びアスカは出血多量で昏倒、緊急入院した。
 しかしその寝顔は、奇妙に幸せそうであったという。

 


後書き

 我ながらなかなかにお馬鹿な話ですねー。
 元ネタは「マリみて」……のはず(笑)。
 いえ、エヴァで百合ネタをやってみたらどうなるかなーと漠然と考えてたら、アスカ・レイというカップリングが自然に浮かんだというだけのことなのですが。
 本来はもう少しシリアスな百合的恋物語になるはずだったのにー。

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