『それでね、昨日は福沢先輩や細川さんたちと買い物行ったんだけど、そのとき寄った喫茶店がすごーく美味しかったの! あそこのラズベリーパイは一度は食べなくちゃ人生損するよ、本当!』

 受話器の向こうからは、どうしてここまで楽しく人生生きられるんだ、と教えを乞いたくなるような声が響いていた。

「そんなに美味しかったんだ?」
『もう絶品! 私、生きててよかったーって思ったもん。舌がとろけるっていうの? パイがこれほど美味しいものだったなんてーって、人生観が変わっちゃったもの!』
「大袈裟だなぁ」
『そんなことないよ、シンジもこっちに戻ってきたとき連れて行って上げる。そしたら絶対絶対、大袈裟なんかじゃないってわかるよ!』

 一を返すと十くらいになって返ってくる。
 この舌の回転の早さはとりあえず感嘆に値するな、と碇シンジは考えた。しかもこの電話の相手は、言葉、声の中に感情を含ませる術を自然に心得ている。根本的に情緒が豊かで、だからこそ言葉を生かすことができる。
 宗教家か政治家、はたまた革命家向きの資質かも知れない。これもまた一つの才能だろう。
 とりあえず自分としては、何気ない相槌を打つだけでも会話が途切れることがないのがありがたい。

『ねー、シンジー、こっちに戻ってくる予定はないのー?』

 ひとしきり、その喫茶店の素晴らしさについて語り尽くしてから、彼女は寂しそうな甘えたような声で訊ねてきた。
 はっきりいってしまえば毎度の文句だった。
 そして、シンジが答える言葉も決まっている。

「ごめんね。しばらく、こっちも立て込んでるんだ」

 より正確には、今の自分には大した自由がないというべきなのだが。
 あの人型決戦兵器のパイロットになるというのは、そういうことだ。機密保持の関係から、第参新東京を離れるのにはいくらか制限がつく。ただの旅行にも、申請して許可を得ねばならないという。いや、実際はそれすらただの建て前で、いくら申請しても許可が下りることなどないのだろう。エヴァのパイロットとはそれほどに貴重で、重要な存在だ。
 もちろん、碇シンジのパイロットの肩書きは、純粋に形式的なものである。彼に限っていうならば、申請はあっさり通るかも知れない。
 しかし、形式的だろうが何だろうが、機密に守られた決戦兵器に一度でも乗ったという事実は変わりようがない。シンジ本人にとってはどうでもいいようなことでも、諸国の諜報機関はそう思ってくれない。
 何より大事なことに、役立たずのパイロットが誘拐されたとしても、ネルフの側に救出の意欲が湧くものかどうか、実に怪しいところがある。そのまま永久に帰って来なくても対使徒戦には影響しないし、大した情報を知らされているわけでもないのだから、むしろそれは当然だ。
 当事者としてはたまったものではないが、それが悪いとはあえていうまい。各々立場と事情があるということだ。世界の命運と中学生一人の人生、どちらに重きを置くべきかは馬鹿でもわかる。であれば、慎ましく分際をわきまえた上で、できる限りの保身を図るのが正解だろう。
 よってシンジとしては、今のところ第参新東京を離れるつもりは毛頭なかった。
 なおも食い下がる相手に、二、三、どうでもいいような謝罪の言葉をかけてあしらうと、シンジは「ごめん、そろそろお風呂に入りたいから」と告げた。すでに一時間近く話し込んでいた。

『ぶー、シンジ、冷たいよ』
「マナだって、明日は早いだろ?」
『そうだけど……仕方ないか。また電話するね!』

 残念そうに、それでも存外素直に聞き入れてから、『おやすみ』という挨拶を最後に電話は切れた。
 シンジは我知らずため息をつく。
 最後に会ってから数ヶ月、まったく変わってないな、と心底思う。まあ、人がそう簡単に変わるものではないのは承知しているが。
 受話器を置きながら、部屋の壁にかけられたコルクボード――何枚もの写真が貼られたコルクボードを眺める。一年前の誕生日に、今の電話の相手から贈られた物で、ついでにそのとき貼るべき写真まで一ダースほど押し付けられた。いや、より正確には、彼が見ている前でべたべたと勝手に貼られていったのだが。
 私たちの思い出のメモリアルなんだからいつもここに飾って大事にしてね、などといっていたか。思い出とメモリアルは同じ意味で重複しているよ、と返すのが精一杯だったように記憶している。
 クラスの人気者。女子たちの中心人物。そして、ことあるごとに「シンジの恋人」と自称していた娘。彼自身、一時期はその通りに振舞っていたこともある。
 転校するまでの約一年で、コルクボードの写真は順調に増え続けた。彼自身が貼りつけた写真は一枚もない。すべては、彼女が遊びに来た際、勝手に継ぎ足していったのだ。
 前の中学での体育祭――男女混合リレーで、シンジが彼女にバトンパスしようとしているシーン。
 水族館でのデート――これは、タダ券があるから付き合ってねといわれ、断りきれなかったときのもの。道行く通行人を捕まえて撮影を依頼したのだ。
 小学校六年のときの修学旅行――京都の寺の門前で、クラスメイトたちと一緒に写した記念写真。さり気なく端っこの方に写ろうとした彼を、彼女はわざわざ中央まで引っ張っていき、あまつさえ腕に抱きついてピースサインを決めたものだ。
 彼女が何故自分にそこまでの好意を寄せてくれたのか。小学校の三年でクラスが一緒になって以来の付き合いだが、ついぞ答えが出た試しはない。
 彼女はいつだって無邪気で、明るく、朗らかで、健やかで、賑やかだった。一見どこまでも押しつけがましいように見えて、その実他人の内心にはひどく敏感で、厚かましいところがない。だからこそ、周囲のほとんどは彼女を好いた。
 恋人にするならば間違いなく最上級の相手。シンジがそう判断したほどの、それは心地よい闊達さだった。
 ――こちらに引っ越してきて以来、ただ壁に飾られているだけだったコルクボードの写真には、うっすらとだが埃が付きかけていた。
 碇シンジは立ち上がり、近くに転がっていたタオルで適当に埃を落とす。
 実用を第一義に置く彼が、引っ越した今でもこのコルクボードを壁に飾り、おざなりとはいえ手入れまでするというのは、はっきりいって奇跡的な事例というべきだろう。
 シンジは無秩序に貼りまくられた写真の中の一枚、彼女の顔がアップで写されたものを眺めた。これを手渡された経緯を想い出し、一人苦笑する。
 彼はこの写真を「ずっと肌身放さず持っていてね」といわれながら渡されたのだ。朝の教室、公衆の面前で。
 それだけならば、取り立てて大したことはない。いつも通りに適当な相槌を打って、困ったように笑いかけておけば、すんだ話だ。
 ただ、その日の彼にとり、それはまさに奇襲だった。
 あまりといえばあまりの意外さ、予測も解析も効かない事態に、十秒ばかり呆然と間抜け面を浮かべてしまったのをよく覚えている。どんな事柄に直面しても、コンマ以下の単位で対応策を思いついてきた、この自分が。
 ――何故ならば。
 その前日、彼と彼女は破局していたはずだったからだ。

 

 

 写真の中の彼女はしかし、忌々しいほど可憐で、綺麗な笑顔を見せている。
 彼女の名は、霧島マナという。

 

 

 

 

 

 

 

another age
幸福の要素

七瀬由秋

 

 

 

 

 

 

 

 最後の回答欄を埋めた瞬間に、チャイムが鳴った。

「よーし、今日はそこまで。まだ回答し終えていないようならそれを宿題とし、次の授業で答え合わせと解説をする。いっておくが、期末試験の出題範囲にはしっかり入っているからな。さぼると後悔するぞ」

 そんな文句とともに、授業の終了が告げられる。
 クラス委員長が「起立、礼」の号令をかけ、教師が退室すると、周囲で一斉に無秩序な嘆声と話し声が響き始めた。
 この日の授業はこれで終わり、後はどうでもいいような終礼をすませれば、自由な放課後が待っている。
 しかし、生徒たちの多くは解放感をただ満喫する贅沢を味わえてはいなかった。
 残りは宿題だと指定されたにも関わらず鉛筆を動かし続ける者、そこまでいかなくとも重い表情でプリントを眺めている者、あるいはまったく逆に忌々しいものを扱うようにさっさと鞄に押し込む者など、いずれも先刻退室した教師が最後に残した脅し文句が気になっているらしいことが窺える。
 2014年十二月初頭――二学期期末試験が数日後に迫った一日としては、当然の風景であった。この場にいる全員が、「鬼の新田」の異名を取る国語教師が有言実行を地でいく教育者の鑑であることを、骨身に染みて知っていた。
 とはいえ、何事にも例外というものは存在する。

「シンジー、今日は暇か? どっか遊びに行かないか?」

 授業が終わるや、真っ先にシンジに声をかけてきた少年は、その例外の一人だった。
 シンジは苦笑すると、

「こういっては何だけど、本気でいってる、ムサシ?」
「今更ジタバタしたって始まらん。俺は素の実力で勝負する」

 胸を張って堂々といってのけたその少年の名は、ムサシ・リー・ストラバーグという。名前からわかる通り、ハーフだかクォーターだかで、肌の色も日本人としては浅黒く、長身で逞しい骨格を有している。どこからどう見ても体育会系でしかありえない風貌――実際、剣道の道場にも通っている――で、控え目な優等生肌のシンジとはあまり接点がないように思えるが、現実として二人は小学校以来の親友付き合いをしていた。少なくともムサシはそう認識していたし、シンジの方でもそれを否定したことはない。

「お前だって試験勉強なんて必要ないだろ? 普段から予習復習ばっちりしてやがるくせに」

 僻みっぽい台詞だったが、声音にも表情にも陰りが欠片もないため、奇妙なほど嫌味がない。得な性分というべきだろう。
 シンジは苦笑して、

「そうでもないよ。普段の勉強と試験勉強とは、やっぱり違うからね。あまり気楽に構えてもいられない」

 ――まあ、どちらかというと親孝行の延長みたいなものだけど。
 シンジは内心で付け加える。
 伯父の家に居候している身分というのは、そういうものだ。目に見える形で「いい子」を演出しておかなければ、すぐに居心地が悪くなる。伯父夫婦は決して悪い人間ではなかったが、といって居候を無条件に可愛がれる聖人君子でもなかったので、優等生の評判と見栄えのいい成績表は必須のものだった。

「いーじゃねーかよー、一日くらい」

 ムサシは拗ねたようにいってくる。精悍な顔立ちに子供っぽい表情が、奇妙に似合っていた。
 その一日が堕落の元――というあたりさわりのない道徳論をシンジが説こうとしたとき、

「あ、シンジ、遊びに行くの?」

 横合いから新たな声が割り込んできた。
 シンジは思わずこめかみを押さえ、ムサシは降って湧いた援軍に表情を輝かせる。

「賛成賛成! 久しぶりにカラオケ行こうよ、シンジ」

 まるで玩具を見つけた小犬のような仕草と表情で、彼女――霧島マナはシンジにいった。
 ムサシが得意げに、

「話がわかるじゃないか、マナ! そうだよな、試験前だろうが何だろうが気にする必要なんて……」
「え? ムサシは来なくていいよ?」

 朗らかそのものの微笑を浮かべつつ、マナは無情なことをいった。

「中間試験も赤点取って新田先生に大目玉食らったんだし、ムサシには勉強が必要でしょ?」
「お、お前という奴は……」
「モトコ先生にも半殺しにされかけたくせに。あの人、文武両道だっていつもいってるじゃない」
「うぐぐ……」

 笑顔を浮かべたまま、マナはムサシを追い詰める。この二人は家が隣同士で、シンジが知り合う以前からの幼馴染という間柄だった。
 ちなみに「モトコ先生」とは、ムサシが通っている剣道道場で指導員を務める女性のことで、彼が全面的に畏れる数少ない人間の一人でもある。

「もし今回も、ムサシが懲りずに今回も赤点取ったりしたら、モトコ先生が何ていうかなー? あ、物を言う手間も惜しんで真剣を抜くかも」
「…………!!」

 マナの物騒極まる脅迫に、ムサシの顔面が蒼白に染まる。
 モトコ先生――フルネームは青山モトコというのだが――は、現役東大生(この国の最高学府は、名称をそのままに第弐新東京へ移転してきている)という燦然たる学歴を持ちながら剣道の腕も達人級、しかも若く美しいという、世の女性の憧憬を一身に集め得る傑物であった。
 しかし、そんな女傑にもただ一つ、恐ろしく気が短く手が早いという欠点があることを、シンジも知っていた。彼は何度か、激昂のあまり真剣を抜き放って門下生を追い回す「モトコ先生」の姿をその目で見たことがある。一歩間違えれば――いや、間違えなくても――裁判沙汰になりかねない酸鼻な光景だった(さすがに峰打ちで済ませるていどの理性は残ってはいたようなのだが)。

「……ムサシ」

 シンジはため息まじりに、友人の肩を叩いた。

「客観的に考えて、おそらくモトコ先生ならマナのいう通りに反応すると思うよ。真剣抜くかどうかはともかく、シゴキ確定」
「うう……」
「悪いことはいわないから、しばらくは大人しく勉強に勤しんだ方がいい」
「ううううう……」
「わからないところがあれば相談に乗るから。今度、勉強会でもしようか?」
「シンジぃぃぃぃぃぃぃぃ」
「すべてが無駄に終わって、『剣道の練習中の事故』で死んだとしても、弔辞は僕が読んで上げるから」
「……。うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 どこまでも模範的な友人としての口調で言い切ったシンジの台詞に、ムサシは突如奇声を発して頭をかきむしってしまった。

「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 そしてそのまま、奇声の延長のような雄叫びを発しつつ、鞄を引っ掴んでいずこともなく走り去る。
 まさに一陣の風のようであった。

「また明日ねーっ」

 マナは呑気な表情で、すでに教室の扉の向こうへ消えた背中へ別れの挨拶を送っている。
 それを横目で眺めながら、シンジは腕を組んで首を傾げた。どうもムサシは、今しがたの彼の台詞によほどの衝撃を受けたものらしい。
 軽い冗談のつもりだったのだが、と彼は一連の会話を再検討した。
 前々から思っていたことだが、どうも自分には冗談のセンスが乏しいようだ。冗談のつもりでいったことが、何故かそうと受け取られないことが多々ある。冗談を言う相手の選択に問題があるのか、言い方に問題があるのか、そもそも根本的なところで何か間違っているのか――対話というものはつくづく難しい。このあたり、もう少し研究と学習の余地があるだろう。
 本格的に考え込み始めたシンジへ、マナは元気よく振り返り、

「それじゃ、シンジ。行こ?」

 そう、当然のようにいった。
 彼は眉根を寄せて、

「本気だったんだ?」
「当然じゃない。それともシンジは、私とじゃ嫌なの?」
「相手じゃなくて、日程の問題だよ。勉強しなきゃいけないのは、少なくともこの学校に通っている生徒全員にいえることだと思うけど」
「私、ムサシほど成績悪くないもの」
「よりよい成績を目指そうとは」
「思ったこともない。そこそこの点数維持できればそれでいいの。勉強そこそこ、遊びは一杯、それが私のモットーなのだヨ」

 ――それはそれで一つの考え方ではあるな。
 シンジは苦笑まじりに納得した。
 一定以上の成績を維持している限りにおいてならば、それ以外を極力楽しむことに費やすというのは間違いではない。いや、これは一般的な人間の生き方そのものに通じる考え方でもある。大抵の人間は、そこそこの暮らしができるだけの金を家計に入れた上で、残った遊興費でどれだけ気晴らしできるかに頭を絞る。まして中学一年生、よほど上の高校を狙うというのでもない限り、遊びの配分を多くしても罰は当たるまい。

「……やれやれ」

 彼はひょいと肩をすくめ、断わられるとは思っていないらしいマナの顔を眺めた。
 頭の中で、彼女と遊びに行くことのメリットとデメリットを瞬時に勘案する。
 霧島マナはクラスの女子生徒の中心人物。もちろん男子生徒にも評判がいい。そして、彼女と碇シンジは恋人かそれに近い関係であると認識されているらしい。下手に冷たくあしらうことは、クラス内での対人関係に支障をきたしかねない。その点の厄介さはムサシよりもはるかに上だ。
 養父母への言い訳は、まぁ大丈夫だろう。こつこつと積み上げてきた「いい子」の印象は、一日遊び惚けたていどでは覆らない。実際にテストの点数を落とさない限り、言い包める手段などいくらでもある。
 それに、まぁ――と、シンジは考えた。
 ともに時間を過ごす相手としては、霧島マナは彼が知る中でも最上等の部類に入る。

「OK、どこ行こうか?」

 柔らかく微笑してうなずいた彼に、マナは弾けるような笑顔を見せた。

 

 

 変わり映えのしない日常というものは、ただ漫然と過ごすうちに多くの時間が過ぎ去っている。
 学生の九割以上にとっては忌むべき定例行事である試験であっても、例外ではない。少なくとも碇シンジにとってはそうだ。
 いつも通りの予習復習。いつも通りの試験勉強。そして、いつも通りの試験本番。
 それらをつつがなくこなすと、西暦2014年は残り二週間ほどになっていた。

「シンジ、すまん。ちょっといいか?」

 多くの者が待ち焦がれる冬休みまで秒読み段階となったその日の放課後、帰宅しようとしたシンジをクラスメイトの一人が呼びとめた。

「ん? 何かな?」

 振り返ったシンジに、前原ケイイチというその級友は、すまなさそうに用件を切り出した。要約してしまえば、週番の用事を代行して欲しい、ということらしい。かの「鬼の新田」から、放課後の職員室にプリントを届けるよう言いつけられているのだが、どうにも外せない用事があるとのことだった。
 構わないよ、とシンジは軽く請け負った。交友関係を円滑にするためには、このていどの手間は必要投資だと考えている。それに、職員室への用事というのも都合がいい。内申点をよくするためには、教師の心証も大切だ。「鬼の新田」はともかくとして、大抵の教師は職員室にこまめに出入りして用務を果たす生徒に好意的な印象を持つだろう。

「ごめんな。恩に着る」

 ケイイチはそういって、プリントの束をシンジに差し出した。国語の授業で出された宿題、それを回収したものだ。

「今度、ジュースでも奢るからさ」
「あはは。いいよ、これくらいで。それよりも――」

 と、シンジはくすりと笑った。前原ケイイチとは、クラスの男子の中でもムサシの次くらいに親しい関係にある。理由の一つは、ケイイチが学業面では優等生の部類に入る成績上位者であること。そしてもう一つは、彼がゲーム同好会に入っており、ゲーム全般を趣味とするシンジと何かと話が合うからだった。

「今度また、ボードゲームに誘ってよ。『レッドサン』だったっけ、あれが妙に気に入っちゃって」
「お、あれの楽しさがわかるか? やっぱりボードゲームには、TVゲームにはない面白みがあるっつーか」

 水を得た魚のように、ケイイチはゲームについて語り始める。
 やっぱアレだよ、アナクロで単純なものほど奥深いね。駆け引きの緊張感ってのは、やっぱりコンピュータ相手じゃ味わえない。ウチの同好会じゃ、時たま鬼ごっこなんかもするんだけどさ――ゲーム(遊戯)であればこだわりがないんだ、ウチは――、これがまた、本気でやり出すと洒落にならない駆け引きが必要になるというか。
 シンジは大人しく謹聴しながら、要所要所で相槌を打った。趣味について語る人間には、多くを返す必要はないと認識している。聞くだけ聞けば相手は満足してくれるのだから、楽なものではある。
 適当な所で会話を切り上げて、シンジは「そろそろ」と別れを告げた。
 外せない用事とやらを思い出したらしいケイイチも、すまなさそうに頭を下げながら慌てて教室を駆け出して行く。廊下の向こうに消えて行く途中、同じ同好会の部員らしいポニーテールの上級生と合流するのが見て取れた。部活の用事か、はたまたデートか。どちらにせよ、彼は彼で満足すべき学生生活を送っているらしい。
 一応の儀礼として、マナとムサシに事情を告げてから、彼は教室を出た。

 

 

 期末試験が終わって間もない時期ではあったが、職員室の雰囲気は以前にも増して慌ただしかった。いや、試験が終わったばかりだからこそ、というべきだろう。深く考えるまでもないことだが、試験の問題を作るのと、受け持ちの生徒すべての答案用紙を採点するのとでは、作業の物量が各段に違う。
 教師たちの机と椅子の合間を縫うようにして、シンジは敬愛すべき「鬼の新田」の机へ歩み寄る。東青中でもっとも畏れられている教師も、ご多分に漏れず試験の採点をしている最中だった。

「新田先生」

 シンジは呼びかけた。
 初老の鬼教師は顔を上げ、彼を見て首を傾げる。

「碇? 何か相談でもあるのか?」
「いえ。前原君に頼まれて、宿題をお届けに来ました」
「おお、そうか。すまんな」

 新田はシンジをねぎらうように微笑して、差し出されたプリントの束を受け取った。「鬼」の称号には似つかわしくない態度のようだが、これは碇シンジが学年でも指折りの優等生である事実とはまったく関係がない。シンジは、この新田という初老の教師が、成績の善し悪しで生徒を区別する習慣を持たないことを知っていた。鬼とあだ名されるほどに厳格なのは紛れもない事実なのだが、どれだけ素行の悪い生徒でも決して蔑んだりすることはなく、見捨てることは絶対にないのだ。今時珍しい、本物の教育者といえる。そのためこの初老の教師は、畏れられはしても決して嫌われてはいない(東青中のOGでは、在学中に素行の悪かった者ほど、卒業後には彼を慕うようになることが多いほどだった)。

「大変ですね。採点、まだ終わってないんですか?」

 机の脇にのけられた答案用紙の束――生徒のプライバシーを考慮してか、新田はさり気なくその上に別の書類を置いていた――を眺めながら、シンジは話題を振った。
 新田は苦笑しつつ、

「まあな。明日明後日まではかかりそうだ」
「平均点、どれくらいになりそうです?」
「まだ半分ほどしか済んでおらんから、たしかなことはいえんが……六十五点前後というところだろう。前回とあまり変わらん」

 ――ならば十分だな。
 シンジは心の中でうなずいた。自分の点数については、答案の返却を待つまでもなく自己採点を済ませてある。それによれば、国語は八十六点だったはずだ。文系科目を苦手としている(あくまで比較の問題ではあるが)彼にとっては、十分過ぎる結果だ。養父母もさぞかし満足してくれるだろう。これでまた、居心地のよい居候生活の継続が確約されるのだから、安いものだ。

「本来は、平均を七十点くらいにするつもりで問題を作ったのだが……」

 新田はぶつぶつとこぼすようにそう呟いてから、自分の前にいるのが誰か気付いたように表情を改め、

「ああ、いや。すまんな、碇。ご苦労だった。係でもないのにな」
「いえ。これくらい、大した手間ではありませんから」

 いつもにように如才なく彼は微笑し、一礼する。
 それでは失礼します、と辞去しかけた彼を、

「……ああ、それとな。碇」

 新田はふと呼びとめた。
 何か、と振り返った彼に、初老の鬼教師は仏頂面で、

「半月前の授業でお前が提出した作文だが。書き直して再提出しろ」

 机の中から一枚の原稿用紙を取り出し、彼に突きつける。
 碇シンジは苦笑した。

「まずかったですかね、やっぱり」
「具体的過ぎる上に打算的過ぎる。お前、その歳で老後のスケジュールまで組んどらんか?」
「いえ、死後の遺産配分までです」

 将来の夢、と題されたその作文を受け取りながら、彼は答える。
 新田は何ともいえない表情で彼を見つめ、ため息をついた。
 また外したかな、とシンジは内心で首を傾げる。やはり自分はジョークが下手なようだ。
 もっとも――と、彼は手元の原稿用紙を眺めた。これも少々、おふざけが過ぎたかも知れない。
 その作文は、半月前に新田が所用で学校を空け、国語の授業が自習になった際に出していた課題の一つだった。当時、すでに試験範囲までの課業(つまり、二学期分すべての学習)は終えてあり、新田にしても学力評価云々というより期末試験までの穴埋めのような感覚で課したものだったのだろう。
 だからこそ碇シンジは、らしくもなく「正直」に書いてみた。
 思いつく限りの将来設計を、かなり現実的な側面を踏まえて書き上げたのだ。至近に迫る期末試験の目標点から志望校、さらには高校以降の進路希望。近隣でこれはと思われる大学名とその必要偏差値、さらには一応の志望である公務員試験の今年度倍率や初任給(たまたま新聞で読んだのを記憶していたのだ)まで記載したのは、書きながらさすがにやりすぎかと思わないでもなかった。
 これはこれで趣旨から外れてはいないし、例え不興を買ったとしても、新田ほど公正な人間なら間違っても恣意的に内申評価を下げることはあるまいと見切ってのことだった。そうでもなければ、他のクラスメイトたちのように、画家だのスポーツ選手だのという当たり障りのない夢をそれっぽくでっち上げていただろう。

「すいませんでした。明日には提出します」

 ぺこりと頭を下げるシンジを、「鬼の新田」はどこか静かな目線で見つめていた。
 鋭くも険しくもなかったが、年齢と経験を幾重にも積み重ねた、教師の眼だった。
 シンジが露ほども動揺しなかったといえば嘘になる。
 彼は、自分が優等生を演じ切れていることを確信していた――だが、それが万人を騙し通せるものであるとも自惚れてはいなかった。
 それに何より、「鬼の新田」という教師の見識を、碇シンジは同級生の誰よりも高く評価していた。
 ややあってから、彼の国語担当教師は口を開いた。

「なあ、碇。お前は、わしが受け持ってきた中でも、おそらくはもっとも頭のいい生徒だ」
「あはは。先生にしては珍しいですね。誉め過ぎですよ」

 笑って誤魔化そうとした彼の台詞を、新田は無視した。

「その作文も、お前にとっては掛け値なしの本音なのだろうな。いやそもそも、お前は夢というものを見ないのだろう」

 そんなことは、と否定しかけて、シンジは口を噤んだ。それはたしかに事実であったから。
 将来の夢というテーマを突きつけられたとき、碇シンジに見えたのは、遠い未来に見える漠然とした希望などではなかった。
 現時点の状況要素、そこから派生した数えるほどの選択肢、そしてそれを舗装するモノクロの道程。夢と呼ぶにはひどく散文的で味気ない、そうしたものしか、彼には見えなかった。

「それ自体は、大して珍しいことではない。程度の差こそあれ、似たような生徒はこれまでにも何人か見たことがある。もっとも、そうした子供たちは皆、随分と無理をしていたが。理屈に走り過ぎ、現実社会における非合理的なもの……慣習や伝統、技術や物理の限界、何より人の感情の生み出すあれこれに適応できていなかった」

 初老の鬼教師はため息をついた。

「お前の場合は、違う。すべてを受け入れてしまえる。非合理的なものですら、お前のロジックは呑み込めてしまう。……しかし、それがお前本人にとっていいことなのかどうか、わしには正直、見当もつかん」
「……先生にも、わからないことがあるんですね」
「この歳になってもわからないことだらけだ、世の中というのは。月並みないい方だが」

 独り言のようにして、

「お前には他の人間よりはるかに多くのものが見えているのだろう。誰よりも明晰に、正確に、客観的に。――だが、それを見ているお前自身は、一体どこに立っているのだろうか……と、わしは時々思うのだよ」

 碇シンジがこの学校で随一の教育者だと考える教師は、静かにいった。
 束の間、沈黙が落ちた。
 シンジの口許からは、いつしか微笑も消えている。
 彼は、尊敬に値する人生の先達の顔を正面から見据えた。透けるような眼差しだった。

「それこそ、先生らしくもない言い回しですね。僕はここにいて、状況が許す限り幸福な人生を歩んでいるし、これからもそうしていくつもりです。それで十分じゃないですか?」

 白々しさすら感じさせる口調で、碇シンジはいった。
 鬼と呼ばれる教師は、無言で微笑した。どこか、老いを感じさせる表情だった。

「ああ、そうだな。――そうだった」

 

 

 職員室を出てから、シンジは鞄を取りに教室に戻った。
「鬼の新田」の言葉が、胸に残っている。すべての事象に対して即座に結論を出して片付けてしまう彼にしては、極めて珍しいことに。
 あの敬愛すべき教師は、自分を心から案じてくれている。それは否応無しに実感できる。彼とて、それを感謝に思う心が擦り切れているわけではない。
 ――お前は夢というものを見ないのだろう。
 ええ、その通りです、先生。
 しかし、大人になるというのはその夢とかいう代物を削ぎ落とし、現実に対応していくことなのでしょう? 教育とはそのための作業のはずです。
 だとしたら。
 自分は褒められてもいいくらい模範的な優等生だと思うのですが。
 碇シンジは、そこまで考えて苦笑した。
 毎度のことながら小賢しい理屈だ。「鬼の新田」がいいたかったのは、そんなことではあるまいに。
 彼にははっきりとわかっていた。わかってしまえることが、最大の問題なのだろうということも。即座に答えを見出せてしまうことが、自分という人間の根本的な欠陥なのだろうということも。
 つまり、はっきりしているのはこの一点に尽きる。
 どうにもならないし、変わりようがない。――そういうことだ。
 教室の扉をがらりと開ける。クラスメイトはもうほとんど残っていなかった。
 残っていた生徒の一人、数人の女子と歓談していた霧島マナが、彼の姿を見つけて破顔した。

「シンジ、一緒に帰ろっ」
「何だ、もしかして待っててくれたの?」
「当然でしょ?」

 当然と来たか。
 彼女が自分の何にそこまで思い入れを持っているのかは推測する以外にないが、まぁありがたく思うべきなのだろう。
 明朗闊達な彼女に応じて笑みを形作りながら、彼は考えていた。
 とりあえず、見栄えがよくて、性格も評判もいい。
 碇シンジにとって、この少女もまた、幸福な人生を構成する一要素ではあった。
 霧島マナにとっての碇シンジもそうなのだろう――彼女の態度や言動を解釈するに、そういう結論が出る。
 ならば問題などあるはずはない。世の中というものは、それが物質的なものであれ精神的なものであれ、多数の者が利益を得られるならば、多少の齟齬には気にせず回るように出来ている。
 例え、当事者の一方が恋愛感情なるものとは縁遠い人間であったとしても、相手がそのことに気付かなければお互い幸福でいられる。
 観測されない不幸とは、存在しないも同義なのだから。

 

 

 

続劇


後書き

 少年期外伝。シンジ君が前の学校にいた頃のお話ですー。
 マナとムサシが出張っているのは、少年期の設定だとおそらく「鋼鉄のガールフレンド」が成り立ちそうにないからだったり。役立たずのパイロット相手にスパイ活動する必要はあまりないし、何より戦略自衛隊とネルフの関係が良好ですしね。
 まあ、かつて食い入るように読んだANNE様のSSの影響が強いというのもありますが(笑)。
 例によって、脇役キャラでは遊びまくり。
 お決まりの注意事項として付け加えて置きますが、正真正銘エヴァの二次創作である本作品において、彼らはあくまで名前と一部設定を持ってきただけです。モトコ先生はごくふつーの才色兼備な剣道の先生(指導員)ですので、「斬岩剣ーーーっ!!」と叫んで岩を断つような真似は出来ませんし、「気」を扱うなどという超人的な芸当もできません。前原ケイイチ君とポニーテールの上級生が、「一人が死に、一人が消える」連続怪死事件に巻き込まれることもありません。
 新田先生がえらく目立ってますが、東青中に魔法使いな子供先生が存在するという事実もありませんので、悪しからず(笑)。
 SS書きのささやかなお遊びと認識していただければ間違いないです。

 

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