「――当面の目的としては期末テストにおける平均点75点以上。そして以後もこれを維持すること。
 志望は公立のN大付高。次点として私立S高も候補に挙げられるが、学費を考慮した場合、躊躇せざるを得ない。
 高校進学後も平均以上の成績を継続することが目標となるが、このあたりは進学後の授業のレベルにもよるだろう。現時点では目標以前の想像とならざるを得ない。
 部活は文化系の、それもできれば人気のない部を選び、幽霊部員と目されないぎりぎりの境界線を見極めて顔を出したい。
 とりあえず二年に上がれば部長を押しつけられるような部が望ましい。例え部員数が数人で、名ばかりの部長職でも、とりあえず内申点がよくなる。
 大学は近辺の……」
 ――碇シンジ、中学一年次の作文「将来の夢」より。
 国語担当教諭により却下。書き直しを命じられる。
 そのときの教諭の言葉:具体的過ぎる上に打算的過ぎる。お前、その歳で老後のスケジュールまで組んどらんか?
 それを受けた碇シンジの返答:いえ、死後の遺産配分までです。


















 その日、碇シンジは鞄を手にして暇を持て余していた。かなり容赦なく持て余していた。
 退屈すぎる。やることがない。どうしようもない。
 だが、まあ、仕方ないか――シンジは自分を慰めた。
 列車に乗っている最中、突然警報が鳴り響き、途中の駅で降ろされてしまった。
 迎えの人にも知らせが行っているだろうが、混乱が生じるのはやむをえない。
 それにしても、あの警報が何だったのか、いまだにシンジにはわかっていない。
 アナウンスでは「付近のシェルターに避難してください」としかいっていなかったが、それに従うべきだったか。
 しかし、シェルターに避難してしまっては、迎えの人と合流できなくなるおそれがある。
 列車から降りた後、父からの手紙に書かれていた緊急連絡先の番号にもかけてみたが、公衆電話は何度十円玉を入れても不通のままだった。
 まったく、あの警報は何だったというのか。
 首相がどこぞに宣戦布告したというニュースは聞かないが、戦争でも始まったというのか。はたまた怪獣が攻めてきたのか。
 シンジは欠伸を噛み殺し、手っ取り早い事態の解決を諦めた。
 今日中に目的地に着くのはもう無理だ。避難勧告に従ってシェルターでも探すとしよう。
 この付近の住民がいれば、何かしか情報が得られるかも知れない。
 妥当な結論にたどり着いて、鞄を抱え直したとき、シンジは遠くのビルの隙間にありえない光景を見た。
 とりあえず幻覚の可能性を疑い、次に夢の可能性を検討する。
 ひとしきり頬をつねり、自分の頭を殴り、今朝の献立を反芻して、幻覚でも夢でもないことを確認してから、彼はやむなく現実を受け入れた。

「なるほど。戦争と、怪獣だったわけか」

 ビルの隙間に見えたのは、得体の知れぬ巨大な生物が、戦闘機と戦っている光景だった。










 

少年期
1st age

七瀬 由秋















 葛城ミサトはハンドルを握りながら当惑していた。
 彼女は上司の命令で、総司令の御曹司(という表現が適当かは知らないが)を迎えに来ていた。そして、それをほぼ遂行していた。
 使徒――そう称される敵性体と国連軍の戦闘に巻き込まれかけていた彼を保護し、車に乗せた。
 本部に向かう途中でN2爆雷の爆発に車ごと吹っ飛ばされたが、それもどうにか切り抜けた。
 愛車は徹底的な修理を要するだろうが、これは後のことだ。走るたびにガタついたが、とりあえず愛車は本部直行のカートレインまでたどり着いてくれた。
 そのカートレインも、実は多少心配していたのだが、問題なく作動している。
 唯一といっていい問題、いや、疑問は――
 ミサトはちらりと助手席を盗み見た。
 この少年、碇シンジの落ち着きようは何だというのか。
 あんな異常な光景を目の当たりにし、平穏無事とは言い難い体験をしたにもかかわらず、今は助手席で何事もなかったかのように数学の参考書を開いている。

「……? ああ、すいません」

 こちらの視線に気付いたか、参考書を閉じながらシンジがいう。運転している脇で本を読むのは失礼に当たる、と考えたらしい。

「あ、いいのよ、遠慮しないで。ただ、えらく落ち着いてるなーって感心してただけだから」

 慌てていうと、苦笑で返される。

「落ち着いているどころかむしろ焦ってますよ。こちらに転校してくるとなると、授業の進み具合が気になりますからね。できるだけ予習しておきたいんです」

 何と模範的な優等生の台詞――!
 ミサトは感心半分呆れ半分でその言葉を聞いた。
 彼女も事前にこの少年に関する資料を読んでいる。
 先日まで通っていた中学の評価は良好だ。
 曰く、「極めて優秀かつ模範的な生徒。一年次修了時点での学業成績は学年四位。同級生との交友関係に問題なし」
 絵に描いたような優等生ながら人当たりもよいので友達も多いという、まさに理想的ともいえる学生だったらしい。
 その反面、実際に彼に接した担任教師は、多少の扱いづらさも感じていたようだ。
 資料の備考欄に、その教師のコメントが載っていた――「中学生とは思えないほど大人びており、考え方も明晰に過ぎる。こちらの指導ミスをやんわりと指摘されたことも一切ではなく、また本人に悪意や反抗の意思がなかったので、余計にやるせない気分になった」
 優等生過ぎるのも考え物だったということか。
 教師も人間であり、教える相手は自分より未熟な子供であるという意識が前提にある。
 たしかに、大人でも動転するだろう状況下で、平然と転校後のプランを心配できるような少年が相手では、やりにくいどころの騒ぎではなかっただろう。
 良心的で熱心な教師ならば尚更だ。

「そういえば」

 と、世間話のような口調でシンジはいった。遠慮したのか、参考書は鞄に押し込んでいる。

「さっきの怪獣、あれは一体何なんですか? あんな生物は聞いたことがありませんし、まさかロボットとか?」
「あれは使徒。私たちはそう呼んでいるわ」
「使徒――マルコとかペテロとかの? こういっては何ですが、変わったネーミングですね」

 まあ、ただ怪獣と呼ぶよりは気が利いてますけど、と笑いかけられて、ミサトは苦笑した。
 如才ないというべきか、気が回るというべきか。
 たしかに十四歳の少年としては、この物言いは明晰すぎている。
 カートレインが中盤に差し掛かり、突如として視界が開けた。
 それまで周囲を覆っていた鉄板が開け、眼下の光景が明らかになったのだ。

「――ジオフロント! 本物は初めてです……」

 地中に築かれた都市の光景。
 ネルフの総本部が置かれた。人類の英知の結晶。
 それを目の当たりにして、シンジは初めて素朴な驚きの声をあげた。
 何だ、可愛いところもあるじゃない、とミサトは微笑ましげにその姿を見守る。
 シンジは彼女に振り返り、興味深げに尋ねた。

「でも、地中だと何かと不便な点もあるんじゃないですか? 例えば食料や飲料水の流通とか。まさかジオフロント内部だけで循環する閉鎖型のシステムが完成しているんですか?」

 ――これだ。
 今日の中学校教育に頼もしさを覚えるべきか空恐ろしさを感じるべきか、ミサトはかなり深刻に悩んだ。






 カートレインは何事もなくネルフ総本部にたどり着き、ミサトは頭痛を堪えつつもシンジを引き連れて本部内を先導した。
 彼女は上司から、シンジをサード・チルドレンとして登録する予定である旨、教えられている。
 途中、物の見事に道に迷い――彼女はつい最近になってドイツからここに着任したばかりなのだ――、旧友の赤木リツコに助けを求める一幕があったものの、それはご愛嬌というべきであろう。
 ミサトとしては、シンジが優しい微笑すら浮かべて「誰にでも間違いはありますからね」といってくれたこと、呼び出されたリツコに向かって「僕に気を使ってくれていたから迷ったんだと思います」などとフォローを入れてくれた事実の方にこそ、むしろやるせないものを覚えたものだが。
 曰く、中学生にフォローされるネルフ作戦部長!
 何と心温まる称号か。ミサトは心から、シンジの一年次の担任教師に共感を抱いた。
 一方、リツコはというと、シンジの落ち着いた物腰に素直に好感を抱いたようだった。
 絵に描いたような理系的思考の彼女は、シンジの少年らしからぬ物言いをむしろ評価に値するものと感じたらしい。

「このまますぐに父のところへ?」

 そう尋ねた彼に、ミサトが口を開くよりも早くリツコは応じたものだ。

「いえ、お父さんに会う前に、見て欲しいものがあるの」
「何です? まさかこの建物を見学させてもらえるとか」
「ふふ、残念だけど、それはいずれ機会があればね。一応、機密の問題とかもあるの」
「残念ですね。まあ、先ほど拝見した資料から察するに、ここが重要度の高い施設だというのは了解してますよ」
「話が早くて助かるわ。まあ、実際に働いている人間からすると、神経質に思える面があるのも事実なんだけど」

 リツコには珍しい楽しげな口調で会話しながら歩き続け、ミサトは若干の疎外感を感じながらそれに追随した。
 シンジは大人しい見掛けに似合わずなかなかの話し上手だったし、相手に応じて関心を引きそうな話題を選択する術も心得ていた。
 もといた学校で人望があったというのはたしかな情報のようだ、とミサトは心にうなずいた。
 やがてリツコは一つの扉の前で立ち止まった。
 目的地――初号機のつながれたケイジにたどり着いたのだ。
 キーを開けて扉が開かれたとき、中は暗闇であった。

「…………?」

 シンジが首を傾げる気配があった。
 リツコが壁のパネルを操作し、照明を点ける。

「うわっ」

 シンジは思わず、驚いた声を上げた。
 そのていどの反応ですんだのは、むしろ賞賛すべきことであろう。
 彼の目の前には、巨大な顔があった。
 分厚い装甲板に鎧われた、鬼を思わせる形相の巨人。
 顔面だけで、彼の身長を凌駕するサイズがある。

「――巨大ロボ?」
「いいえ。ネルフが開発した汎用決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオン。これはその初号機よ」

 リツコが淡々と説明する。

「初号機というからには、2号とか3号もあって、シリーズになってるんでしょうね。失礼を承知でいえば、何か冗談のような話ですが」

 可愛げのない落ち着きぶりも、ここまで来ると見上げたものであった――シンジは既にして立ち直り、呆れたような表情すら浮かべていた。

「冗談のような現実よ。私たちの未来はこれにかかっているといってもいいの」

 シンジの感想に多少うなずく点を見出していたのか、リツコは怒らなかった。
 実際、エヴァという存在とその作られた目的について、ミサトよりもはるかに多くの知識を得ている彼女は、内心でシンジの台詞にまったく同意している。
 このようなモノが何機も揃えられるなど、冗談としかいいようがない。
 しかし、その冗談を、現在と未来において現実とすることが、彼女たちに課せられた任務であった。

「そうでしたか。いや、部外者の身で失礼をしました」

 頭を下げてから、シンジは疑問を顔に浮かべた。

「で、それほど重要な兵器を、何故僕に?」
「それは――」

 リツコが応えかけたとき、不意に響いた声が少年の疑問を解かした。

「お前がそれに乗るからだ」

 ネルフの技術部長と作戦部長は驚いて上を見上げた。
 部外者であるはずの少年は眉をひそめて視線を上に向けた。
 ケイジを見下ろすモニタ室から、碇ゲンドウが彼と彼女らを見下ろしていた。

 

「久しぶりだな、シンジ」

 ゲンドウは乾いた声で呼びかけた。

「はい、父さんもお元気そうで何より」

 さして戸惑った様子もなく、シンジは答える。
 模範的な息子の表情と台詞――しかし、実に三年ぶりのはずの父との再会に、感動も興奮も当惑も覚えていない、そんな態度だった。
 ミサトは一瞬、何とはなしに眉をひそめ、慌ててその表情を打ち消してから口を開いた。

「司令、今のお言葉は……」
「聞いた通りよ、葛城一尉。シンジ君にはこれに乗って、戦ってもらいます」

 ゲンドウではなくリツコが答えた。半ばはシンジに向けた台詞だった。

「そんな……! いくらなんでも無茶よ! レイですら起動には七ヶ月かかったのよ!?」

 たまらずミサトは叫ぶ。
 彼女もシンジがパイロット候補として呼ばれたことは承知している。しかしそれは、あくまで相応の訓練と準備期間を置いて、だと思っていた。
 正規の軍人である彼女は、素人を実戦に駆り出すことの無謀さと、指揮運用の面での困難さを熟知している。

「他に方法はないわ。それとも今、上で暴れている使徒を倒す方法が他にあって?」

 感情を消した声で、リツコ。
 ミサトは声もなく沈黙する。
 本来、迎撃の主役となるはずであったファースト・チルドレン綾波レイは、先日起動試験中に起こった事故で重傷を負い、治療中。
 とてもではないが戦闘に耐え得る体ではない。彼女を出撃させるということは、死にに行けと命じるのと同義だ。
 復帰するまでには最低でも半月。理想をいえば一ヶ月以上は治療に専念するのが望ましい、と担当医は断言していた。

「シンクロできる可能性があるなら、それが例えどんな人間であろうと、乗せるしかないのよ」

 たたみかけるようにリツコはいい、ちらりと横目でシンジの表情を確認した。
 この期に及んでなお、少年は泰然としていた。
 わずかに首を傾げるような仕草をしている以外、戸惑いの色はない。

「どうも物騒というか不条理なお話になっているようですが……」

 シンジは口を開いた。自分の父とリツコ、ミサト、三人のすべてに訊ねている口調。

「僕は格闘技の心得があるわけでもない、ただの中学生ですよ? 運動が苦手とはいいませんが、別に国体に出られるようなレベルでもない」
「知っている」

 ゲンドウが無感動に答える。
 シンジは本格的に呆れた表情で、

「戦略自衛隊の軍人はどうしたんです。僕が払っているのは消費税くらいのものですが、こういうときのための軍隊でしょうに」
「他の人間では無理なのだ」
「それはどうして」
「説明している暇はない」
「――父さん、もしかしなくてもあなた、話し合うつもりがありませんね?」

 シンジは視線を動かして、ミサトとリツコを見やった。

「シンジ君、司令のいうように、あなたならエヴァを動かせる可能性があるわ。そして、使徒にはエヴァでないと勝てない」

 リツコが口を開き、ミサトは悄然とうつむいた。
 シンジはため息まじりに、

「他にパイロット候補はいないんですか?」
「エヴァという兵器は、極端にパイロットを限定するの。素質を見出されたのはあなたで三人目よ」
「僕以外の二人はどうしてるんです」
「一人は起動試験中の事故で重傷。もう一人はドイツにいるの」
「僕にパイロットが務まるなどと、どこの誰が?」
「それ専門の機関があるのよ。選出の基準は機密ということで納得してもらうしかないけれど」
「その機関に連絡して、もっと頼りになりそうな候補を探してもらうことは――」
「くり返しになるけど、エヴァはパイロットを限定するの。建造されてから十年、ようやく見つけられた三人目があなたというわけ」
「僕は十四歳のガキですが」
「他の二人のパイロットも十四歳よ。十代の子供、というのが判明しているパイロットの条件の一つなの」
「――『汎用』という言葉に正面から喧嘩を売っているような兵器ですね。いや失礼、どうも混乱しているようです」

 どう見ても落ち着いているとしか思えない表情で呟いて、シンジは天を仰いで見せた。
 照明の明るさに耐えかねたように目を閉じ、前髪をかきあげる。
 きっかり十秒、その姿勢のまま黙考してから、彼はリツコに視線を合わせた。

「つかぬことを伺いますが、ネルフは国連直下の特務機関なんですね?」
「? そうだけど?」
「それは、状況によっては日本政府に命令なり要請なりすることができる――平たくいえば超法規的な権限も認められた機関である、そう考えていいのですか?」
「概ね間違っていないわ」
「そうですか」

 シンジはため息をついた。
 清々しいほどに何かを諦めた表情だった。

「わかりました。なら、乗りましょう。どの道、拒否権はないようですから」

 最後にちょっとした皮肉を滲ませて、彼はうなずいて見せた。



「随分あっさりとOKしてくれたものねぇ……」

 出撃準備で活気付いた発令所で腕を組みながら、ミサトは誰にともなく呟いた。

「彼、頭がいいもの」

 同じく暇を持て余した様子のリツコが応じる。
 出撃の前段階である現時点において、作戦・技術のトップに座る彼女たちには、モニタに表示される情報を読み取るくらいしか仕事はない。
 開始の指示さえ下してしまえば、優秀なスタッフたちは黙々と職務をこなしてくれるのだ。彼女たちの仕事の本番は、準備が終わった後になる。
 使徒はN2爆雷のダメージから回復し、第参新東京への侵攻を再開し始めていた。
 あと二十分ほどで市街地中央部に到達すると予測が出ていたが、それに関しては手の打ちようがない。

「頭がいいからこちらの言い分に納得したと?」
「納得というより諦めたというのが正解ね。ネルフの権限を確認していたでしょう。あれは文字通り、その気になれば私たちが人権も道理も無視した手段に出るかどうかを確認したのよ。逃げ場がないなら、下手な怪我をしないうちに大人しく……理性的な判断だわ」
「――気分の悪い話ではあるけれど、事実でもあるわね」

 選択肢がないのは、ネルフも同様なのだ。
 ミサト自身は、相変わらず素人を実戦に出すことにためらいを覚えていたが、現実がそれを強要していた。
 仮にシンジが拒否したところで、替わりに出撃するのは負傷したレイであり、敗北は目に見えている。
 そして彼女が敗北すれば、今度こそ無理やりにシンジが出撃させられることになるだろう。そのときは、ミサトの方にも人間的な感情を働かせる権利も余裕もなくなっているはずだ。
 ミサトはモニタに映る少年の表情を観察した。
 せめて何か励ましの言葉をかけてやるべきかと考えたのだった。
 ――そして、その必要がないことに気付いた。
 彼は緊張も恐怖もしていなかった。
 目を閉じて指示を待っているその表情は、穏やかですらあった。
 ぞくりとした。
 呼びつけられた見知らぬ街。
 得体の知れぬ怪物。
 巻き込まれた戦闘。
 三年ぶりに会った父の冷ややかさ。
 訳のわからぬ決戦兵器。
 押しつけられたパイロットの責務。
 これほどの過酷な現実にさらされながら、今年十四歳の少年はなおも平静を失っていなかった。
 まるで朝起きて学校に通うのと同義であるかのように淡々としていた。
 それは、頭がいいとか理性的であるとかいうレベルを超えているのではないか――
 そんなことを考えたミサトをよそに、オペレーターの伊吹マヤが振り返って、リツコに確認するような視線を向けた。

「始めて」

 リツコは短く答えてうなずいて見せる。

「了解。――エントリープラグ、注水」

 初号機プラグ内の映像を映すモニタに変化が生じた。
 プラグの内壁から紅い液体――LCLが注入され始めたのだ。
 シンジが目を開けて、いわくいいがたい複雑な表情で口を開いた。

『――差し支えなければ、この水攻めの意味を聞かせていただきたいんですが』
「それは水ではないわ。LCLといって、酸素を含んだ特殊な液体なの。緩衝材や生命維持も兼ねているから、気にしないで肺にまで吸い込んで」
『気にするからやめてくれといっても無駄なんでしょうね、やっぱり』

 口調に諦めを滲ませながら、シンジは大人しく従う。
 さすがに平気とはいかなかったようだが、プラグ内の水位が顎まで上がってきても取り乱すことはなく、覚悟を決めたように勢いよくLCLを吸い込んでいた。
 やがてプラグがLCLで満たされてから、リツコはおもむろに命じた。

「エントリースタート」
「了解」

 電源の接続、回路への動力伝達などの手順を経て、作業は遅滞なく進んでいく。
 ミサトは疑念を抑え切れず、小声でリツコに囁いた。

「動きそう?」
「さあ? MAGIの予測では起動の確率0.000000001%。オーナインシステムとはよくいったものよ」

 突き放したような口調、冷厳に過ぎる現実に、ミサトはいうべきこ言葉を失った。
 ――そして、ついにその瞬間は来た。

「双方向回線開きます。シンクロ率――えっ?」

 端末を見つめていたマヤが絶句する。
 リツコは眉をしかめていった。

「どうしたの?」
「は、はい。シンクロ率……」

 マヤは泣きそうな声で告げた。

「……0.04%。エヴァ初号機、起動しません……」


 

 発令所に満ちた沈黙は、物理的な重みすら伴っているようだった。
 誰もが唖然とし、近くの者と視線を交し合う。
 深海にも似た湿った暗さが漂う中、ただ一人冷静さを保ったミサトが口を開いた。

「起動しない確率99.999999999%。100000000000回中99999999999回起こりうることが、順当に起こったわけね」
「現実はどこまでも冷たく、かくて奇跡は起こり得ない」

 こちらは呆然とした口調で、しかし皮肉っぽい響きは失わず、リツコが応じる。
 一方、発令所を見下ろす高みでは、副司令が青ざめた顔で、彼の唯一の上司に詰め寄っていた。

「おい碇、どうするつもりだ……?」
「…………」

 応じる声はない。
 冷徹無比の総司令はこのとき、驚きよりもむしろ理不尽を咎める表情で、モニタの中の息子を睨み付けていた。

「――シンジ君、聞こえるかしら」

 気を取り直したリツコが、プラグ内への回線に呼びかけた。

『聞こえてますよ。起動しませんとかいう物騒な台詞もしっかりと』

 むしろ呑気ですらある声で、シンジが答えた。
 まるっきり他人事の口調に、リツコの眉が痙攣した。

「どんな感じかしら。何か、違和感みたいなものはない?」
『特にありません』
「本当に? 何かないの?」

 リツコはしつこく問いかけた。
 ミサトにはああいったが、彼女は実際のところ、起動の確率はかなり高いと踏んでいた。
 碇ユイの息子――あの碇ユイの息子。ただそれだけで、彼にはパイロットの資質がある。
 どう控え目に見積もっても、10%ていどのシンクロ率は見込めるはずだった。
 逆に、1%以下という極端に低いシンクロ率の方が、むしろありえない。

「もう一度、集中して見て。自分の感覚、思考、すべてをクリアにして……」
『了解』

 モニタの中で、シンジが再び目を閉じた。
 真摯な表情で集中力を高めているのが感じられる。
 沈黙の十数秒が過ぎた後、リツコの目配せを受けたマヤが、厳かに応えた。

「……シンクロ率、変動ありません」

 今度こそ、絶望的なため息がそこかしこから漏れた。

『お役に立てませんで』

 プラグの中から、申し訳なさそうな声。

『すいません、どうすれば動かせるのか、もう少し具体的に教えていただければ努力して見ますが』
「あー、いいのよ、シンジ君。最初からこっちが無茶いってたわけだし」

 ミサトが慰めるように応える。絶望に包まれた発令所の中で、彼女はいまだ健全な判断力を残していた。
 予備として採用されたパイロットが使い物にならないことが判明した。あえていえばただそれだけだ。
 自分のなすべきことは、唯一残された手札であるファースト・チルドレン――負傷し戦闘に耐える体ではない正規パイロットをいかに使って地上の使徒を殲滅するか。
 皮肉な見方をすれば、命題がシンプルになったという点で、対処がしやすくなったともいえる。
 不確定要素の多い素人に戦闘を任せるよりは、負傷していても訓練を積んだ玄人を活用することの方が、軍人としては成算が立てやすい。
 ミサトは周囲を見渡し、パン! と手を叩いた。
 びくりと雷に打たれたように注目する部下たちに向けて、不敵なまでの微笑を見せる。
 葛城ミサトは人間として未熟な部分も多い女性だったが、軍人としては得難い資質を有していた。
 絶望を連れ合いにしたことは一度もなく、部下にそれを抱かせたこともない。
 このとき、シンクロ率1%以下という現実に打ちのめされかけていた発令所のスタッフは、たしかにミサトの姿に希望を見た。

「パーソナルを書き換えて再起動の準備! レイを病院から呼び戻して!」

 あえて大声をあげて命じたミサトに、発令所全体が再始動しかけたとき、不意に重々しい声がそれを遮った。

「――その必要はない」

 全員の視線が発令所の上方、司令席に集中した。
 ネルフ総司令・碇ゲンドウは冷然と、常と変わらぬ視線で部下たちを見下ろしていた。

「し、司令……? 必要がないとは、一体……」

 唖然とした声でミサトが問いかける。

「言葉通りだ。初号機を出撃させろ。むろん、パイロットを交代させる必要はない」

 発令所に三度沈黙が落ちた。
 今度のそれは、絶望の類を含んではいない。
 あまりに意外で論外な現実に対する、それは当惑そのものだった。

「ほ、本気ですか!?」

 悲鳴のようなミサトの台詞は、「正気ですか!?」と問うているように周囲には聞こえた。
 リツコですら例外ではなかった。彼女は呆然とした声で、

「司令、いくら何でもそれは……」

 無謀すぎます、という言葉を呑みこんだのは、上官に対する礼儀ゆえであったか、それとも説得の無駄を悟ってのことだったのか、彼女自身にも判然としない。

「碇……!!」

 傍らからも、長年連れ添った初老の副司令が制止の声を上げている。
 そのすべてを傲然と無視して、ネルフ総司令は言い放つ。

「命令だ。葛城一尉、初号機を即座に出撃させ、指揮を取りたまえ」
「しかし司令!!」

 ミサトの声は激発する寸前にある。
 先刻の、素人のシンジをパイロットにするといわれたときとは訳が違う。
 素人のパイロットは、パイロットにすらなれない素人であることが判明している。
 重傷のレイより素人を出撃させた方がまだ勝算があるという論理には、まだしも説得力めいたものがあった。
 しかし、起動すらできない素人をそのまま出撃させるなど、単なる愚行としかいいようがない。
 死にに行けと命じるのを通り越して、単なる死刑宣告ではないか。
 その場にいた何人かは、息子に対する総司令の殺意の存在を疑ったほどであった。

「自分は軍人として、そのような命令を遂行することはできません!」

 昂然と上官を睨み付け、ミサトは言い切った。
 ほとんど軍法会議を覚悟の台詞であったが、臆した様子はない。
 ゲンドウの命令は、軍人として許容しうる範疇を逸脱していた。
 周囲の部下たちが戦々恐々としてミサトとゲンドウの間で視線を往復させたが、そのほとんどがミサトに同意する空気を含んでいた。
 部下から糾弾された総司令は、しかし怒らなかった。
 ただ彼は、それまでとまったく変わらぬ態度と声で、くり返し命じた。

「総司令としての、命令だ。出撃させろ。従わないようならば君をこの場で解任する、葛城一尉」
「……………………。せめて、その命令を下される理由をお聞かせ願えますか」

 震える声でミサトは問うた。

「マルドゥックの報告を信用しているだけのことだ。碇シンジには紛れもなく適格者の資質がある」
「現実として、彼は起動できておりません」
「現時点では、だ」
「準備段階でできなかったことが、実戦の最中に突然できるようになるとおっしゃるのですか?」
「そうだ」

 論理の強引さはゲンドウとて承知している。
 ミサトに限らず周囲の部下たちを納得させるなど望むべくもないことも。
 しかし、もともとゲンドウは、シンジが起動に成功したとて使徒に勝利できるとは考えていなかった。
 彼が勝算を見込んでいたのは、初号機の暴走に他ならない。
 その胎に抱え込んだパイロットを守るため、エヴァが――そのコアに融けた女の本能が引き起こす、暴走現象。
 例え今、シンクロができていなくとも、碇シンジは間違いなく碇ユイの息子であり、彼の窮地に際してエヴァ初号機は暴走を引き起こすはずであった。
 それに――ゲンドウは冬月に横目で目配せしてその動きを封じた。
 シンジは、将来遂行されるべき人類補完計画における重要な手駒であった。
 より具体的には、初号機の中に眠る一人の女を目覚めさせるのに不可欠な手駒であった。
 使い物にならないとあっては、計画それ自体の進行に影響を及ぼしかねない。
 ならば、多少の危険には目を瞑っても、適格者たる資質に目覚めてもらわねばならない。

「司令……!!!」

 今度こそ、決定的な台詞を叩きつけようとミサトが息を吸い込んだとき、スピーカーから場違いなほど落ち着いた声が響いた。

『――これは確認のために訊ねますが、本気なんですね、父さん?』
「当然だ」

 モニタ越しに、父親と息子は視線を交し合った。

『撤回する気はないと?』
「……その通りだ」
『例えどんな結果になっても?』
「どんな結果になっても、だ」
『…………』

 シンジはしばし、無言で父の姿を見つめた。
 ショックを受けた様子ではなかった。
 ありのままの現実、ありのままの父を無機的に観察する冷静さだけがあった。

『――了解しました。どうぞご自由に』

 ややあってからスピーカーから流れ出た返答は、自暴自棄とも信頼ともまったく違う、朗らかなほどの諦観があった。

「ちょ……シンジ君!?」
『逃げたいのは僕も山々ですが、またも逃げ道はなさそうですので』

 たまらず口を開いたミサトにかけられる、穏やかな声。

『命令をどうぞ、ミサトさん。――どうなろうと、あなたを怨む気はありません』

 シンジは、むしろミサトの立場に同情した風でもあった。
 ミサトは無力感に唇を噛み締めた。
 ――実の父から死刑宣告を下された中学生に同情される作戦部長!
 これほど素晴らしい称号が他にあろうか。
 もし許されるなら、声を上げて笑い出したいほどであった。
 今この場で階級章をむしり取ってゲンドウに叩きつけてやれば、どれだけ気分がいいかと思った。
 だが、それが責任回避であり逃避にしか過ぎないことを、ミサトはこのとき痛感していた。
 シンジはほとんど自分の生還を諦めた上で、ミサトに命令を求めたのだ。
 ならば、それに応えてやれなくて、何が大人か。
 ミサトは腹を括った。
 モニタの中の少年に一つうなずき、

「――エヴァ初号機、発進!」

 ネルフ作戦部長は高らかに命じた。地獄行きの特等席は手に入れたと確信しながら。

 

 強烈なGを全身に感じたのは、ほんの数秒のことだった。
 発進用の高速リフトは正常に作動し、任意の射出口へ彼と初号機を放り出す。
 シンジが目を開けたとき、日は既に暮れ、人工の照明の中に見覚えのある巨大生物が立ちはだかっていた。
 二つある顔面(らしきもの)の、人間なら目に当たるだろう部分にそれぞれ二つずつ、都合四つの穴が開いている。
 本当にそれが目であるかどうかはともかくとして、残念なことにこちらの存在はしっかり知覚されているらしかった。
 運がよければ路傍の石として通りすぎてくれるかも知れないというささやかな希望が、これによって潰えた。
 シンジは他人事のようにその事実を受け入れる。

『リフトオフ、できそう?』
『無理です。そんなことをすれば転倒します』

 発令所につながる回線から、そんな会話が聞こえてくる。
 外部カメラで見てみると、自分が――正確にはエヴァ初号機が――リフトの固定具に支えられることでどうにか直立していることが、シンジにも確認できた。
 初号機は相変わらず起動する様子がなく、彼にはそもそもどうすれば起動するのか見当がつかない。
 つまり、こういうことだ。
 シンジは現実を認識した。
 今現在、彼は突っ立っている以外の選択肢がなく、目の前の敵に抵抗する手段がない。
 生き残る望みがあるとすれば、彼の命がある間に使徒が攻撃に飽きて立ち去ってくれることのみ。
 そしてどうやら、その望みも持たない方が無難なようだ。
 何せこの使徒、自分の進路を妨害した国連軍の戦車やら戦闘機やらを微塵に撃砕してきたらしいから。
 碇シンジ、享年十四歳。巨大ロボットの中で死す。
 冗談のような死に様だが、まあそういうこともあるのだろう。
 運命という言葉で片付けるのは思考停止というものだが、自分より奇態な死に方をした人間も、歴史上には少なくないはずだから。
 シンジが運命なるものに関してある種の理解に至った頃、使徒は行動を起こしていた。
 大したスピードはないが、誰にも止められないだろうと思わせる足取りで初号機に歩み寄り、その顔面をおもむろに掴む。
 頭部に備え付けられた外部カメラが使徒の手に覆われ、メインモニタが用をなさなくなった。
 しかしシンジにはどうしようもない。
 途端、がん、という衝撃がエントリープラグを貫いた。それも一度ではなく、立て続けに。
 モニタが断続的に強烈な光を放っていた。
 シンジには見えなかったが、使徒は掴んだ掌から発する光のパイルによって、初号機の顔面をいいように打ち据えていた。
 強烈な打撃はエントリープラグを揺らし、腹に響くような衝撃を伝えてくる。
 シンジの見るところ、プラグはかなり頑丈な金属で造られているようだが、それもいつまで持つことか、かなり心許ない。
 この場合、モニタが塞がれているため、自分がどう攻撃されているのかもわからないというのは、幸運に当たるのか不幸に当たるのか、シンジには判断がつかなかった。目隠しをされて殴る蹴るの拷問にあうようなものだ。
 まあ、見えたところで結果は変わらないのだ。
 ならばどちらでも構うまい。とりあえずあれこれと頭を働かせてもどうにもならないのだ。
 エントリープラグが一際大きく震動した。今度は腹部にでも直撃を受けたらしい。
 ――うん、やはり生きて帰るのは無理っぽい。
 プラグ内壁の軋む音を聞きながら、シンジは了解した。
 彼は悠然たる動作で操縦席の背もたれに体を預け、欠伸を噛み殺した。
 恐怖はなかった。
 こういうときは泣き叫んで運命を呪うのが正しい在り方かも知れないが、あまり楽しそうではない。
 長生きできるなら人生を楽しむつもりもあったが、それも今となっては儚い望みになってしまった。
 どうやら、碇ゲンドウの息子として生まれた時点で、こうなることは決まっていたらしい。
 いや――、碇ユイの息子として生まれたときから、といった方が正解か。
 通信回線はいまだにつながっている。
 ミサトの彼を気遣う声、リツコの慌てた声、その他の名前も知らない人々の悲鳴のような声。
 いずれの声にも共通していえることは、彼の余命を長引かせることには役立ちそうもない、ということだ。
 雑多に響くいくつものノイズの中で、不意に響いた一つの声が、ふと彼の興味を惹いた。

『――シンジ、聞こえているか』

 父の声だ。
 彼をこの場に送り出した、父の声。
 詫びか慰めか励ましか、それとも「ずっとお前を殺す機会を窺っていた」とでも告白するつもりか。
 シンジは父に憎まれる理由に心当たりはなかったが、現状を見るとそう考える他にないような気もする。
 まあ、どんな理由で憎むかは人それぞれ。父が自分を殺したいほど憎んでいたとて、驚くこともないのだろう。そういうものだ。世の中とは。

『お前なら初号機を動かせるはずだ』

 〜のはず、という推論が現実になるのなら世話はないんですよ、父さん。理屈に傾きすぎてやしませんか。

『感じろ。エヴァの声を。エヴァを受け入れ、応えろ』

 ――また訳のわからないことを。
 シンジはため息をつき、父の正気を疑った。
 いや、多分本当に狂っているのだろう。あのときから。
 そして自分はその息子。
 なるほど、説得力がある。
 ……まあ、他にやることもない。
 死までの短い時間、父の言葉に理解の努力を払い、その通りになるよう試みるのもいいだろう。
 衝撃は相変わらず断続的に轟き、何か亀裂の入る音も聞こえてきていたが、シンジは構わず神経を研ぎ澄ませた。
 がん、がん、がん、と、エントリープラグは相変わらず物騒な騒音を奏でている。
 LCLを通して感じられる衝撃は、徐々に激しいものになっていた。
 シンジは何となく、以前テレビで見た氾濫する川の映像を思い出した。
 前日の記録的豪雨、そしてその日もなおぱらぱらと降り続く雨で荒れ狂った川の中州に、一匹の小犬が取り残されていたのだ。
 付近の住民やら何やらが救助しようとした映像が、生中継でテレビに流されていた。
 結局、小犬は助からなかった。
 消防車まで動員した救助活動が行われる最中、押し寄せる水の塊に流されて、その後はどうなったか知る由もない。
 死体がどこかに流れついたという話も聞かない。
 自然の脅威と無情さを物語る、ありふれたエピソードの一つだ。
 ……やれやれ。どうしてこんなことを思い出す。いや、今の自分があのときの小犬と同じだというのは重々承知しているが。
 集中しないといけないらしいのに。
 走馬灯という奴か? だったらわかる。
 エヴァンゲリオンは相変わらず起動する様子はない。
 外部カメラが塞がれた今のシンジには現在の様子すら満足にわからないが、どうやらいい感じでズタボロになっているようだ。
 これだけはしぶとく生き残っている通信回線、その向こうから響く悲鳴のようなやり取りがそれを証明している。

「リフトが」「損壊」「使徒」「回収不能」「危険」「プラグを射出」「無理」「故障?」「国連」「不明」

 ざっと取り上げればこういう具合で、実りのある通信を期待するのは無理な段階に至っている。
 国連直下の特務機関らしいが、非常事態にこれほど混乱するようで大丈夫なのだろうか。
 完全に他人事として同情しかけたとき、不意にモニタが光を取り戻した。使徒が手を放したらしい。
 カメラの焦点がずれたのか光量の調節がイカれたのか、モニタの画像は奇妙にぼやけている。
 数秒して、画像がようやく明瞭さを取り戻したとき、シンジは無気味に光る使徒の眼を見た。
 その腕が大きく振り上げられる。
 巨体からは想像もできない速度で振り下ろされる。

「あ。やば」

 呟く暇もあればこそ。
 一際強烈な衝撃が全身を貫き、シンジは意識を手放した。



 真紅の夢を見た。
 自分は足場もないもない空間に立っていて、空気は紅く濁っていた。
 いくら目を凝らしても無限に続く真紅の空間。
 だから、これは夢の中なのだ。
 シンジは奇妙に納得する。
 だったら、目が覚めればここから出られるのだろう。
 あるいは永遠にここにいるのかも知れないし、こんな夢すら知覚できない暗闇に落ちていくのかも知れない。
 タチの悪いことに、その可能性は甚だ大きい。
 だが、自分にできることは何もない。
 よくあることだ。夜が怖いからといって、日が沈むのを止められるはずもない。
 世の中は大概無情なもので、どうにかできることとが一あるとすれば、できないことは百でもきかない。
 そして今はその一に含まれる事象にない。
 何とシンプルな。
 納得してさえしまえば、どうということはない。
 さて、この夢が終わるまでの退屈をどう使うか。
 そう思ったとき、自分の体にふわりとした感触がまとわりつくのを感じた。
 何というか、誰かに抱かれ、包まれているような感触だ。
 どこかで憶えもあるような気もするが、思い出せない。
 それに、誰かに勝手に全身を抱きすくめられるような感触は、ありていにいうと――






「気持ち悪い」







 顔をしかめて率直に呟くと、急に頭が醒めた。




 状況は依然変わりないようだった。
 ぼやけた頭を何とか覚醒させつつ、シンジは事態を認識した。
 意識を失っていた時間は十秒やそこらのようだ。
 幸いというべきか不幸というべきか、どちらともいえない。
 敗北確定、死が不可避の事象として目の前にある現状では、気絶している間にとどめをさされた方が余計なことを感じずにすんだはずなのだが。
 使徒はゆっくりとした動作でこちらに歩み寄ってくる。
 ノイズの入るモニタでシンジはそれを確認した。
 通信回線はすでに沈黙。
 先ほどの衝撃で完全にイカレたらしい。
 少し残念だった。
 もし通信が生きていたら、遺言の一つも残すこともできたのだが。
 僕が死んだら棺の中に愛用のS−DATを入れて下さい。チェロはどこかの学校にでも寄付して、ささやかな貯金は募金に回してもらえるとありがたく思います。ああそれと、前の学校の友人や教師、引き取られていた家の人にもよろしくいって下さい。
 ……何だ、遺言といっても大したことはないな。
 よくよく考えたらそのままくたばっても普通に実行してくれそうなことばかりじゃないか。
 つまり――
 シンジは粗い画像をつらつらと眺めた。
 使徒がすぐ側に歩み寄っていた。
 両腕に輝く光の槍のようなものが見える。
 こちらの頑丈さにいい加減嫌気がさしたのか、完全な全力攻撃で一気に片を付けようというらしい。
 両腕の光の槍が短くなる。
 それは激発の瞬間のために力を溜めたのだということが、シンジには何となく理解できた。
 ――今ここで自分が死んでも、世界はつつがなく回っていくのだろう。
 そんなことを考えて。
 轟音とともに襲い来る衝撃。無茶苦茶にかき回されるLCL。割れ始めたエントリープラグ。ブラックアウトするモニタ。
 最後にそうした光景を認識して、シンジはいつものように諦めた。
 自分の命を諦めるのは、二度目の体験ではあった。




 発令所のメインモニタの中で、完全に破壊・沈黙したエヴァ初号機を眺めながら、ミサトはしばし無言だった。
 敗北の衝撃はさほどない。それはすでに予測されていた。
 ただ、あの機体の中で無理やり死地に追いやられた少年の安否が気がかりだった。
 かわいそうに。率直にそう思う。
 見苦しく泣き喚いたりすることもなく、自分の運命を仕方ないものと受容して。
 彼は絶望の只中に放り込まれ、そして、そして。
 ミサトは司令席に座る総司令を見上げた。
 上官に対するものとしては褒められるものではない、糾弾するような目つきだったが、それを隠す意図もない。
 あの男、父親であったはずのあの男の愚かな命令で、少年はしなくてもいい犬死を強いられたのだ。
 何たる愚行、暴挙、そして無能!

「司令、この会戦においてエヴァ初号機が再起することはもはや不可能であると小官は愚考します」

 わざわざいうまでもない現状を報告した声には、復讐するような響きがあった。

「同時に、我々ネルフは作戦遂行能力を消失したと断定せざるを得ません。もはや地上の使徒に対して、打つべき手段をすべて失ったのです、我々は」

 ミサトの声の孕んだ剣呑さは、周囲の職員にも伝染したようだった。
 発令所にいたほとんどの職員が、端末から目を放し、先刻までの彼らの絶対的な総指揮官を見上げていた。
 口を出して罵る者こそいなかったが、それらの視線のすべてがミサトのそれと同調している。

「ご決断を」

 ミサトは殊更にゆっくりといった。
 ゲンドウはこのとき、らしくもなく呆然としていたのかも知れない。
 その姿勢は相変わらずの傲然たる落ち着きを保ち、その眼は色付きの眼鏡で隠されてはいたが、彼は食い入るようにメインモニタの初号機を――頭部装甲は中身ごと半分、片腕は根元からもぎ取られ、全身に損傷を追った惨めな機体を――見つめていたのだ。
 決断を促されたことにすら気付かぬ風情であった。
 側にいた冬月は、この傲岸不遜な男の口が何やら呟く形に動いたのを見た。

「何故だ……」

 弱々しい声が、冬月の耳にわずかに届いた。

「……碇!」

 小声で叱責すると、ゲンドウはようやく我に返ったようだった。
 眼下で睨み付けるミサトに視線を合わし、常の態度を取り戻して命じる。

「作戦中断。国連軍に指揮権を委譲する」

 押し出された声は、硝子作りのイミテーションに似た空虚さを漂わせていた。






続劇


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後書き

 何を隠そう本作はまるは様のキリリクSSの別バージョンだったりします。
 つか、こっちを先に書き始めたのだけれど、どう見積もっても短編で纏まりそうになかったのと、まるは様の要望に合わなかったので途中で却下。
 が、せっかく書いた部分を無駄にするのも惜しいので、こーしてキリリクとは別に書く事にしました。
 趣味のSS執筆の中でもさらに作者の道楽的意味が強いSSですな、はい。

 

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