苦戦は予想していた。
 まったく理性的に、綾波レイはそう予想していた。
 勝てるかどうかはかなり危うい。生きて帰れるかどうかも怪しいところだ。
 だが、実のところ、彼女は勝敗の帰趨には関心がなかった。
 与えられた命令を忠実に遂行する。
 それ以外のことを思考する習慣を、彼女は持たない。
 敵使徒は、その両肩(?)から光の鞭を引き出し、彼女と零号機を攻撃してくる。
 いくつかのビルが豆腐のように切断され、叩き潰された。
 常に距離を取っているため、今のところ直撃はない。
 だが、このままでは遠からず致命傷を受けるだろうとをレイは判断していた。
 あるていど治癒しているとはいえ、転げるように鞭をよける度、エントリープラグに衝撃が加えられる度、肋骨が軋むのを感じる。
 右肩は痺れ、感覚もおぼつかない。
 何より救いがないのは、パレットガンでの攻撃がどうにも効いているように見えないことだ。
 逃げては射撃、避けては射撃、というパターンを何度も繰り返しているにも関わらず、使徒にはいまだ目に見える損傷はない。
 ATフィールドが中和されているのかどうかも判然としない。
 もともとレイは、決してシンクロ率が高いほうではないのだ。フィールドの展開も不安定。パイロットとしてはまだまだ未熟といえる。

『レイ、もうちょっとだけ辛抱して』

 兵装ビルの影で何度めかのアンビリカル・ケーブルの交換を行っていたとき、通信回線の向こうから作戦部長の声が聞こえてきた。
 かの上官は、例によってN2爆雷での攻撃を考えているらしい。
 市街地から使徒を引き離し、極力被害を抑えた上でのN2爆撃。
 その際、零号機は可能な限り距離を取った上で、ATフィールドを全力で展開、自分の身を護る。
 使徒がダメージを受けたところで取って返し、一気に勝負を決める。
 第三使徒戦でも使われた作戦だ。今回は国連軍の協力がないため、使徒の誘導と攻撃の双方をエヴァ零号機が兼任する点だけが異なっている。
 ワンパターンではあるが有効なことも間違いない。
 現状ではそれ以外に手がないのもたしかだが、いいかえれば現状で最善の手段ともいえる。
 残る問題は、ただ一つ。
 カマイタチの生じないのが不思議なほどの、光の鞭による一閃――かろうじてそれを避けながら、レイは左手で脇腹を押さえた。
 作戦の発動まで、自分の体が持つかどうか。それだけが問題だ。
 苦痛による集中力の低下を自覚しながら、綾波レイはただ淡々と、課せられた命令に従い続けた。









少年期
3rd age

七瀬由秋









「すごいすごいすごすぎるぅぅぅぅぅぅ!!」

 相田ケンスケはビデオカメラを覗きながら絶叫している。
 エヴァ零号機、すなわちこの世で最強の人型兵器は、彼にとって最高の被写体であった。
 それが目の前で、人類の存亡をかけた一戦を繰り広げているのだから、まさにいうことはない。
 子供の頃に――といっても、まだ子供なのだが――アニメで見た巨人同士の決戦、それが現実に起こっているという一事だけで、マニア魂が爆発寸前の歓喜を迸らせていた。

「……よーやるわ」

 親友の絶叫に引きつつも、トウジも目の前の情景から目が離せない。
 現実離れした光景は、ただそれだけで常人の神経を鷲掴みにする迫力がある。
 彼らが観戦しているのは、零号機と使徒から二百メートルほど離れた小高い丘の上であった。
 実のところ、最初はこの倍以上の距離があったのだが、観戦しているうちに零号機と使徒の方が近づいてきたのだ。
 徐々に戦場が近づいてくるということは、すなわち彼ら自身の破滅も近づいてくるということなのだが、常軌を逸した戦争に我を忘れて見入っている二人は気づいていない。

「しかし、大丈夫なんやろか。何や負けかけとるように見えるけど」

 素人目にも防戦一方とわかる零号機の姿に、トウジが気遣わしげに呟く。

「ま、たしかにね」

 熱狂を一時的に抑えこんで、ケンスケは答えた。

「多分、あれは市外へと誘導してるんだと思うよ。街の中心で派手に殴り合うわけにはいかないじゃないか」

 半分は正解に近い洞察を、ケンスケは口にした。
 シンジが評価したように、本来は決して頭の悪い人間ではないのだ。
 いかに行動そのものは浅はかであっても、目の前の事象を分析する知性は低くない。
 もっとも、ネルフがN2兵器の使用を前提にした作戦を立てていることまでは、さすがに考えが及んでいなかった。そうであれば、わき目もふらず逃げ出していただろう。

「なぁ……いつまで観戦しとるんや?」
「もうちょっとだけだって。テープが切れたら引き上げるさ」

 人間である以上、想像力にも限界がある。つまり彼らは、自分たちが戦場にいるということの真の意味を、いまだ実感していなかった。



 発令所では緊迫感に満ちたやり取りが交わされていた。

「N2爆雷の投下準備、完了しました」
「零号機及び敵使徒、投下予定区域までの予想到達時刻、残り百七十秒」

 オペレーターたちの報告を聞きながら、ミサトは気遣わしげな表情でマヤに語りかけていた。

「……レイの様子は?」
「……危険です。心拍数が上昇、シンクロ率もわずかにですが下がってきています」

 今回の作戦の一番の不安要素は、レイのコンディションに尽きた。
 戦闘開始から五分が経過しているが、「戦闘の緊張感の影響」などでは説明できないほどに心拍数が増加し、心理グラフが乱れてきている。
 砲撃戦に徹してさえ、使徒の光の鞭を避けるために急激な運動を強いられたため、治りかけた肉体に過大な負荷がかかっているのだ。
 これから先、零号機の動きは悪くなる一方と考えてよい。

「爆撃機のパイロットに伝達。指令があり次第即座に状況開始せよ。場合によっては予定より爆撃を早める、と」

 日向にそう命じつつ、ミサトは唇を噛む。
 パレットガンがまったくといっていいほど効いていないのは誤算だった。牽制くらいにしか役立っていない。
 とはいえ、レイはよくがんばってくれている。
 正直、あの鞭の攻撃に致命傷を受けていないというのは大したものだ。
 事前の想定より市街地への被害は大きくなるかも知れないが……このまま行けば、少なくとも、負けることだけはない。
 先刻のシンジの連絡を、ミサトは頭から追い払っていた。
 近辺に常駐している警備部員に連絡はした。
 見つけ次第即座に連れ戻せ、と。
 しかし、現状ではそれ以上のことはできそうにない。
 まさかもうすぐN2爆撃が始まる市街地に出て行って探し出せなどといえるはずもないのだ。
 レイに対しても、中学生たちのことは伏せてある。
 彼女のことだから、聞いていたとしても動揺するとは思わないが、それでも万が一ということはある。
 ほんの1%でも勝算の下がるような真似ができるはずもない。
 後は神頼みだ。
 件の中学生たちがこちらの想像より利口で、あるいは運に恵まれていることを期待するのみ。
 今はただ、目の前の戦闘に勝利することを考えるのが、葛城ミサトの義務だった。



 敵の攻撃が激しくなってきた。
 いや、違う。
 こちらの反応が遅れてきているのだ。
 そのことをレイは実感していた。
 脇腹の苦痛は、普通にしていてさえ脂汗が流れるほどになっていた。
 まして今は、絶え間ない機動を強いられ続けている。
 皮膚の下で不快な害虫が暴れ回っているような痛みが連続している。
 ……だが、まったく余力が無いわけではない。
 爆撃開始の合図が通達されれば、最後に残った全力をもって距離を取り、ATフィールドを展開する。
 それくらいはできる。
 例え肋骨が完全にへし折れようと、自分なら耐え切れる。
 耐え切れるはずだ。
 多少の距離が取れてから、もう何度目かになるかもわからぬパレットガンの射撃を試みる。
 膝立ち姿勢をとり、発射の反動を抑え込んで――

「…………!」

 その瞬間、使徒の光の鞭が大きく伸びて、零号機に襲いかかった。
 予想以上の速度と間合い――
 とはいえ、まったく反応できない攻撃ではなかった。
 パレットガンを捨てることを決断し、全力で逃げにかかる。
 だが、彼女はこのとき、自らが右腕にも不安要素を抱えている事実を忘れていた。
 つい先日までギブスに固められていた右腕、すでに感覚が麻痺した右腕の反応だけが、零号機の機動においても一瞬遅れた。
 ほんの一瞬、だが致命的に長い一瞬だった。
 パレットガンが光の鞭に両断される。横薙ぎの一閃が、零号機の胴体に直撃した。

「っ!!」

 パレットガンが盾になる形で攻撃されたため、若干だがダメージは軽減されていた。
 しかし、間髪入れぬ第二撃、光の鞭が零号機の足を絡め取り、投げ飛ばされるのを防ぐ術はなかった。

「くぅ……!!」

 使徒がそう意図したわけでもあるまいが、その攻撃は実に的確だった。
 ただ殴られるより、投げによる落下の衝撃の方が、今のレイには致命的だ。
 百メートル以上の距離を吹っ飛び、小高い丘に落下したとき、彼女の肋骨はとうとう限界を迎えた。
 ごきりと胸の奥で嫌な音が鳴り、痛覚が警報と化して脳髄を刺す。
 おまけに、投げ飛ばされたときにアンビリカルケープルも外れてしまっていた。
 内部電源のカウントが始まっている。
 それでも彼女は戦意を失わなかった。命令はいまだ遂行していない。
 モニタに映る使徒を睨みつけながら立ち上がろうとしたとき、不意に彼女は気づいた。
 ――零号機の足元に、人がいる。

 


 その光景は発令所でも確認されていた。

「葛城さんっ」

 日向が悲鳴のような声を上げる。
 ミサトは答えなかった。
 何たる最悪のタイミング、最悪の不運――!!


 

 相田ケンスケと鈴原トウジは、零号機のすぐ側で腰を抜かしていた。
 巨体の落下による衝撃が全身を貫き、彼らの意思を挫いていた。
 もう数メートル、落下の位置がずれていれば――いや、今この瞬間にも、目の前の巨人が下手に動けば、たかが中学生の体など車輪に巻き込まれた紙切れのように千切れ飛ぶ。
 そのことを彼らは悟っていた。

「あわわわわ……」

 少しばかり頭が回る、少しは運動に自信がある。
 そのていどのアドバンテージなど、この場ではまったくの無意味だった。
 トン単位で測るべき質量の前に、中学生二人分の存在など何にもならない。
 逃げなければならない、そんな単純な結論にさえ、麻痺した頭では到達できない。
 彼らの眼前で、零号機はとりあえず上半身を起こした。
 膝立ちの姿勢で、ゆっくりと近づいてくる使徒を睨みつけている。
 ――もし、使徒が今この瞬間にも光の鞭を振るい、そして零号機がこれまでと同様の動きで回避しようとすれば。
 それ以上の想像を、ケンスケとトウジの頭脳は拒否した。



 レイは珍しく判断に迷っていた。
 使徒の殲滅が最優先。
 そのていどのことは考えるまでもなくわかっている。
 しかし、民間人保護の原則も、建て前としてではあるが教え込まれていた。
 ケンスケとトウジにとっての幸運は、綾波レイが教えられたことを真面目に実践する模範的な兵士であったことにあるだろう。
 実利優先の考え方をする人間なら、見なかったふりをして戦闘を継続している。
 綾波レイはしかし、ある意味でまったく融通の効かない性格であったから、使徒殲滅と民間人保護のどちらを優先するか、自分の決すべき事柄ではないと判断した。

「――命令をお願いします、葛城一尉」


 

 葛城ミサトはこのとき、岐路に立たされていた。
 零号機が投げ飛ばされ、レイが苦痛の悲鳴を上げた瞬間、彼女は半ば決断しかけていたのだ。
 予定の区域まで使徒を誘導するのは諦め、すぐにでもN2爆雷を投下すべきだと。
 しかし、メインモニタに映し出された二人の中学生の姿がそれを根底から覆した。
 この距離でN2を使用すれば、あの二人は間違いなく消し飛ぶ。
 零号機に彼らを「掴ませ」て、一緒に退避させ、ATフィールドで守るべきか?
 しかし、レイのコンディション、シンクロ率、パイロットとしての技量を考えた場合、それはあまりに無謀な賭けだ。
 最悪、彼らの死に場所をただ移動させるだけの結果に終わる上、余計なことに気を取られた零号機までもがN2兵器の爆風に巻き込まれてしまう。
 安全策を取るならば、ただ彼らを零号機に保護させるだけに留め、一時撤退するという手もある。
 しかしその場合、せっかくこれまで誘導させてきたのがまったくの無駄になり、後日再攻撃を行ったとしても市街地への被害が甚大なものとなる。
 永遠とも思える数瞬を、彼女は立ち尽くした。


 

 誰も彼もが凍りついた時間の中。
 悠然と歩を進める使徒と十分に張り合えるほど悠然たる声を、ケンスケとトウジだけが耳にした。

「……よりにもよって最悪の場面に居合わせたわけか。ミスったなぁ……」

 丘に植えられた木々の合間に立ちながら、碇シンジは頭痛を堪える表情で級友たちを眺めていた。




「シンジ!!」

 驚きと喜びを含んだケンスケの声が響いた。

「た、助けに来てくれたんか……っ」

 トウジの目頭は潤んでいる。
 浪花節というのか涙もろいというべきか、危険を顧みずに助けに現れてくれた友人に、彼はこのとき心から感謝していた。
 シンジは足早に二人に近寄り、

「話は後。ほら、立って」

 二人の腕を掴み上げ、立たせようとする。

「お、おぅ」
「ご、ごめん」

 口々にいいつつ、二人は立ち上がろうとするが、一度抜けた腰はすぐには回復しない。
 かろうじて両足で立てたはいいものの、膝頭が細かく震えていた。
 ――まったく、判断を誤ったな。
 シンジはその様子を観察しながらため息をつく。
 二人を連れ戻すよう努力して見る――彼はミサトにそう約束していた。
 その「努力」の定義をどこまでと定めるか、自分がそれを誤ったことを彼は悟っていた。
 この丘は、シェルターの出入り口から歩いて二、三分ほどの距離にある。
 そしてシンジは、シェルターを出て二、三分探すくらいは「努力」してもいいだろうと、まったく冷静に判断していた。
 別の表現を用いるなら、それで見つからなければさっさと戻って弔辞の文面を練るつもりだったのだが、幸か不幸か級友二人はまさにその範囲で見つかってしまったのである。
 まったく、こんなことならシェルターの出入り口で引き返しておくべきだった。後悔先に立たずとはまさに至言だ。
 これほど自分は情の深い性格だったか?
 いや、違う。
 相田ケンスケと鈴原トウジは自分の命に進んで安値をつけた。
 そして碇シンジも、自分の命にそれほど高い値札をつけてはいなかった。
 つまりはそれだけだ。
 しかし、見つけてしまった以上は仕方がない。
 友人として最低限の義務を果たそう。
 シンジは級友たちの腕を引きながら、踵を返した。

「ほら、早く」

 軽く力を込めて促したのだが、二人はただそれだけで転んでしまった。
 笑った膝がどうにも動かないらしい。

「ケンスケ、トウジ!」
「す、すまん……」
「こ、腰が抜けて……」

 泣き笑いの表情で二人は詫びる。
 シンジは振り返り、彼が乗せられたのとはまた別の姿形のエヴァンゲリオン――零号機を眺めた。
 使徒は光の鞭の攻撃を再開していた。
 そして零号機は、何と素手でそれを受けとめ、掴み上げている。
 シンジはため息を一つつくと、級友二人の腕を取り、力づくでシェルターの出入り口に引き連れて行く。
 彼は体育の授業でも優等生だったが、あくまでそれは優等生の域を出ていない。
 中学生とはいえ人間二人の体重を引きずるのは、かなりの難行だった。

「走れなきゃ死ぬよ?」

 無駄とわかりつつも、そう叱咤する。
 ケンスケとトウジは各々必死の形相で足腰を動かそうとしているのだが、それはどう贔屓目に見ても這いずっているようにしか見えない。
 稼いだ距離はまだ十メートルほど。
 シンジは一瞬、冷徹な視線で周囲の様子を――光の鞭を掴みながら苦悶したようにあがく零号機と、悠然と距離を詰めてくる使徒を眺め、そして素早く結論を出した。
 火事場の馬鹿力なる潜在能力が自分に存在したとて、級友たちを引きずって逃げるのは不可能。
 葛城ミサトに約束した努力の範疇からも、友人としての最低限の義務からも逸脱している。
 シンジは足を止め、懸命に立ち上がろうとしている二人の友人に向けて口を開いた。まるで、夕食の献立を尋ねるような口調で。

「ねえ、トウジ、ケンスケ。――遺言はある?」



 メインモニタの片隅に拡大されたウィンドウ、そこに映し出された三人の少年の姿をミサトは声もなく見守っていた。
 ウィンドウは彼らの声までは伝えてくれない。
 だが、碇シンジが足を止め、一瞬だけ浮かべた眼差しを、ミサトは見逃していなかった。
 観察は直感的な洞察に繋がり、絶望的な理解に転じた。
 ミサトはこのとき、まったく突然にシンジの意図を悟ったのだ。
 彼はもうしばらく――十数秒して状況が変わらなければ、当たり前のように友人たちを見捨てて逃げにかかる。
 すべての義務を果たしたとして、満足げに。
 十四歳の中学生がそんな決断を下せるか、などという疑念をミサトは抱かなかった。
 ――碇シンジは本気だ。あの少年は、躊躇という言葉にだけは縁がない。
 葛城ミサトの中で理性と感性、知性と情理がぶつかり合い、化学反応を起こすようにして、彼女は瞬間的に自分のなすべきことを決定した。

「レイ! そこの三人をプラグに収容して!」

 叫ぶように命じた彼女を、傍らのリツコが驚いたように見やった。

「越権行為よ、葛城一尉!?」
「すべての責任は私が取ります」

 ミサトは昂然として親友の糾弾を受け入れる。

「作戦を諦めるつもり!?」
「ここで撤退しても、再戦の機会はあるわ」
「第参新東京は今度こそ再起不能に等しい大損害を受けるわよ」
「物は直せるけれど、命はそうじゃない」

 毅然としてミサトは言い放つ。
 オペレーターたちの何人かが同意するようにうなずいた。日向など、「よくぞいってくれた」といわんばかりの表情であった。
 ミサトの判断を不服として捉える表情はどこにもない。
 条理不条理を超えて、その命令がまったく正当なものであると部下たちに受け入れさせるカリスマ。
 先日来の実績の積み重ねは、葛城ミサトにそれだけのものを与えていた。
 冬月も無言を通している。
 内心、ミサトの決断に異議を唱えたい気分はあるが、例え副司令といえども実戦指揮に口を挟むことはできない。ゲンドウであればまた別の判断を下したかもしれないが、冬月は軍事に関して自分が素人であることの意味を知っていた。
 メインモニタの中で、命令に応じた零号機がプラグを射出し、碇シンジがそこに乗り込むのが見えた。彼の級友二名が、こけつまろびつそれに続く。

「三人を収容後、一時撤退。仕切り直しよ。いいわね、レイ?」
『了解』

 綾波レイはどこまでも冷静にそう答えた。



 

 二度目のことではあるが、LCLというのはどうも気に入らない。
 プラグの中に潜り込みながら、シンジは肺に流れ込む不快感とともに、多少の意外さを覚えていた。
 人道的な軍隊なるものが実在したとは、まったくもって意外な事実であった。何事も例外は存在するということか。
 おかげで、弔辞を考える手間も省けたというわけだ。国語は苦手ではないが、ありがたいことに違いはない。

「み、水ぅ!?」
「な、なんやこれぇ!」

 級友二人は溺死の恐怖にさらされている。
 そういえばLCLのことを注意するのを忘れていた。
 まあ、何事も経験だ。シンジは彼らの恐慌を無視した。
 プラグの中を泳ぐように移動し、操縦席に到達する。
 予想通りの姿がそこにあった。
 綾波レイは、入ってきた彼らに視線も寄越さず眼前の敵に集中している。
 礼の一つもいうべきかと思ったが、その姿を見てあっさりと諦めた。
 レイは必死な表情で操縦桿らしきものを握り締めている。ただの緊張感ではなく、苦痛の色が混じっていることにシンジは気付いていた。
 彼女の気を散らすということは、イコール彼らの生還率を下げるということだ。
 それに彼女が感謝を望んでいるとも思えない。偏見かも知れないが、少なくとも今は何をいったところで無視されるだろうという確信があった。であれば、後になって頭の一つも下げれば十分だ。

『レイ、七時方向にリフトがあるわ。それを使いなさい』

 通信機から聞き覚えのある声が聞こえてくる。葛城ミサトの声は、以前彼がエヴァに乗せられたときよりかなり冷静なようだ。
 その冷静さが僕のときにも欲しかったかな、とシンジは思いかけ、いや落ち着いていようが何だろうがあの場合は無意味だったか、と思い直す。

「シンジ、どうなっとるんや?」

 ようやく落ち着いたらしいトウジが側に寄ってきた。
 ケンスケはといえば、「俺のカメラがーっ」と悲鳴を上げている。とりあえず理性を回復した第一声がそれだというのは逞しいというべきか彼らしいというべきか。

「見た方が早いね」

 シンジはいって、くいと顎で前方を示した。
 使徒はすでに、零号機の眼前に迫っていた。
 光の鞭を零号機に掴まれているが、逆にいえばだからこそ零号機の方も身動きが取れない。

「や、やばいんやないか?」
「確認するまでもなく。下手をしなくてもここが僕らの墓穴になる可能性は甚だ高いと見ていいね」

 一応はレイに気遣って、シンジは小声で答えた。聞こえたところで気にする相手とも思わなかったが。

「…………」

 トウジの顔が蒼白に染まる。
 聞こえてしまったらしいケンスケの顔も同様だ。
 大丈夫だよ、と嘘でもいうべきだったろうか。しかし、あからさまな虚偽で相手を慰める習慣を、シンジは持たない。
 この状況でいえるもっとも適当で無難なことは、多分一つだけだ。

「――神にでも祈るしかないんじゃないかな」

 生き残れますように、さもなくば天国へ行けますように、と。
 神の存在もあの世の実在も信じていないシンジは、そこまでは告げなかった。



 

 零号機は追い詰められながらも奮闘していた。
 至近まで近寄っていた使徒を、逆に鞭を思い切り引っ張ることで急激に引き寄せ、接触した瞬間に今度は蹴り剥がしたのだ。
 見守るオペレーターの一部から小さな歓声が上がった。
 ミサトは腕を組んで動かない。
 大したダメージは与えられていない、と彼女は見透かしていた。
 しかしそれでも、使徒は数十メートルの距離を吹っ飛び、転倒している。
 逃げるならば今しかないだろう。

「レイ、逃げて!」

 そう叫んだとき、急激に零号機の様子が変化した。



 

「くぅっ……はっ……あっ」

 それまで優れた集中力をもって使徒に相対していたレイの表情が、初めて崩れた。
 押し殺していた苦痛が一気に噴き出したようにも見える。
 彼女は頭を両手で抱え、呻き声を上げ続けている。

「お、おい!」
「ど、どないしたんや、綾波!」

 ケンスケとトウジが悲鳴のような声を上げる。
 とっさに駆け寄ろうとする彼らを制し、シンジは素早くレイの容態を観察した。
 傷が痛み出したというわけではなさそうだ。
 何せ頭を抱え込んでいる。
 ではつまり、何かの持病ということか?

「ケンスケ、トウジ、一応聞くけど医学か何かの心得はある?」
「は、はあ?」
「あるわけないやろが!」
「僕もない。だったら仕方ないね」

 どんな病気かは知らないが、それをどうにかする知識も手段も自分たちにはない。
 ならば後は――、

「どうにもならないね」

 それこそ、神に祈るくらいしか。


 

「リツコ!?」
「他の人間をプラグに入れたことでノイズが出ているのよ! 加えて、負傷による集中力の低下もあるんでしょうね」

 リツコは糾弾するような口調でいい切った。
 端末の中で、すべてのメーターが徐々に低下している。
 シンクロ率も、すでに三十パーセントを切った。
 零号機は苦悶に足掻くように両手を頭に当て、うずくまっている。
 ミサトは成す術もなくそれを見つめていた。
 しかし、この期に及んでもなお不屈の精神は、呆然としつつも頭の片隅で計算を再開している。
 この状況でレイと零号機を救うにはどうすればいいか?
 もはや、爆風に巻き込まれるのを承知の上でN2爆雷を使う以外に手はない。
 レイたちが生き残れるかどうかはほとんど運の問題になるが……、それ以外に手などないだろう。
 そう思い至ったとき、状況は三度激変した。
 苦悶していた零号機の震えが急激に止まったのだ。
 まるでビデオの再生画面でストップがかけられたような唐突さだった。
 零号機はある種の動物を思わせる仕草で首をもたげ、使徒を見据えた。

「なっ!?」

 そこかしこで驚愕の声が上がった。
 地面に四肢を投げ出してへばりついたような姿勢から、零号機が跳躍したのだ。
 宙を舞い、オレンジの機体はようやく態勢を立て直そうとしていた使徒の真上に降り立つ。
 使徒の上に馬乗りになって、拳の雨を荒らせる。

「暴走……」

 リツコが呟いた。やや皮肉っぽい響きが、そこにあった。


 

 プラグ内壁に移されていた外部映像が急に消え去った。
 薄暗い照明の中、紅いLCLに染まった内壁があらわになる。

「た、助けてくれぇー!」
「し、シンジぃっ!」

 二人の同級生は今度こそ掛け値なしの恐慌に陥っている。シンジの服や袖にしがみついて絶叫している。
 映像が消えただけならまだいい。
 しかし、機体の方はまだ活動しているようだ。
 上下に揺さぶられたかと思えば激しい衝撃が全身を貫き、さらに断続的な震動が今なお続いている。
 シンジには覚えのある感覚だった。控え目にいっても、あまり気分のいい思い出ではない。――目隠しをされて殴る蹴るされるような感覚。
 友人たちの反応はわずらわしくはあったにせよ、まぁ正常な反応だろうとシンジは思う。
 他にすがるものはあろうに、自分にしがみつかれるのは正直閉口したが。
 シンジはいつものように達観していた。
 この日このときに至るまで、どれだけ選択肢を誤ったのだろうか、そんなことをぼんやり考える。
 とりあえず自分は無難かつ妥当な選択をしてきたと思う。
 にも関わらずこの状況ということは、つまりは運が悪かったのだろう。自分の見込みの甘さもあるだろうが、こうなった責任の大半は運勢にあるような気がする。何とも不条理極まるが、不条理でない運勢というものがそもそも存在しないのだから、仕方ないのかも知れない。
 ただ道を歩いていて落雷に命を落とす人間も世の中にいる。自分の場合はかなり回りくどく、奇怪な道のりをたどっているようだが、運勢に向かって文句を並べたところでどうにもならない。
 あーよしよし、と子供にするように、ケンスケとトウジの背中をさすってやりながら、シンジは視線を巡らせる。
 朱色の薄闇の中、もがき苦しむ少女の姿が、今更のように目に入った。


 

 頭の中を虫が這いずり回っているような感覚があった。
 虫は獰猛に脳を食い荒らし、心を蝕む。
 瞼の裏に光と闇が交互に瞬き、聞こえるはずのない砂嵐のようなノイズが聴覚を満たす。
 眼球が破裂したかと思えるほど赤一色に染まった視界の中で、誰かが自分を見つめていた。
 その視線に悪意はなく、優しさもない。
 ただ他に眺めるものがないからというように自分を見つめている。

 ――貴方は誰?

 私は私。私は貴方。私は彼。私は彼女。

 ――何をしているの?

 私はすべてを手に入れ、だからこそ私は何も得ることがない。私の行動に意味はなく、だからこそ私は何もすることがない。

 ――貴方は、なに?

 それは、貴方自身が決めること。



 

 体を包み込む暖かさに、彼女は気づいた。
 長いトンネルを抜けたときのように、瞬時に視界が開けた。
 頭を撫でられる感触がある。
 頭痛はいつしか去っていた。
 彼女はようやく顔を上げる。
 静かに自分を見つめる瞳と、目が合った。

「落ち着いた?」

 当たり前のようにそう尋ねて、彼は――碇シンジは、彼女の額を撫でた。
 操縦席に無理やり体を割り込ませ、シンジはレイを抱き止めていた。
 むずがる子供をあやすような、そんな仕草だった。
 外の状況は相変わらず掴めない。
 ただ、プラグの鳴動はすでに納まっていた。
 何がどうなったのかはわからないが、少なくとも零号機が稼動を停止したのは間違いなかった。

『聞こ――イ―――る? ―――レイ?』

 ようやく息を吹き返した通信機が、安否を尋ねるミサトの声を吐き出す。
 操縦席の脇からは、見覚えのある少年二人が、恐る恐るといった風情で自分の様子を覗き込んでいる。
 そのすべてを無視しながら、レイはただ、目の前の少年に尋ねた。

「貴方は――誰?」

 彼は驚いたようにレイを見つめ、それからひょいと肩をすくめて見せた。

「僕は碇シンジ。君の同級生。現在十四歳」
「何をしているの?」
「とりあえず今は救助を待ってる」
「貴方は――」

 レイは最後の質問を発した。

「貴方は、なに?」

 彼は怪訝そうな表情を浮かべた後、ゆっくりと答えた。

「それは、君自身が決めること」



 

 発令所には唖然とした空気が満ちていた。
 内部電源も尽きたエヴァ零号機は、前のめりに倒れ込む形で停止している。
 そしてその体の下には、やはり活動を停止した第四使徒。その胸のコアは、無残に潰れていた。
 暴走し、馬乗りになってからの零号機の戦い方は、野蛮の一言に尽きた。
 ただ殴り、打ち、振り下ろし、叩き潰す。
 内部電源が尽きる前に使徒が先に活動停止したのは、僥倖としかいいようがない。
 度重なるアクシデント、度重なる不運に見舞われた今回の戦いは、とんでもない幸運で幕を閉じたといえる。

「――作戦終了。回収班を急がせて」

 どう評することも出来ず、ミサトはただそう命じた。
 それが、第四使徒戦の終結を告げる言葉だった。



 

続劇


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