運命というものについて、彼は多少考える気分になっていた。
 短時日の間に二度も死にかけ、その度に首の皮一枚の所で生き残れるというのは、幸運という以外に形容詞が見つからない。
 しかし逆に、本当に幸運なら死にかけることがそもそもないのだろう。
 どう判断するかは微妙なところだ。
 もっとも彼は、運命なるものについては考えても、自分自身の運不運についてはあまり深く考えていない。
 彼の定義によれば、運とはあくまで観測困難なほど不特定多数の必然的事象の重なりに過ぎないからだ。
 個々の事象に意味や意思を見出すことは無益であり、無価値でもある。ただ、解析と経験則によって、それらの重なりから生じる結果にあるていど干渉することはできる。
 始末に負えないのは、それらの事象が揃って同一の方向を向いており、しかもそれがすでに完結している場合があることだ。
 完結した事象には、どんな解析も経験則も力を持たない。
 そういった、すなわち完結した事象の集合体、その方向性を指して、彼は「運命」という言葉を使うことにしている。
 ……彼は一般的な意味での運命論者ではなかった。
 神の存在も信じてはいなかった。
 ただ、自分もまた、この世にある事象のうちの一つであることを、おそらく他の人間よりは明確に知っていた。










少年期
4th age

七瀬由秋










 

 碇シンジにとっては実に二度目の体験ではあった。
 零号機が暴走によって第四使徒を屠り、活動停止した後、彼らは例によってネルフの回収班によって救助され、念のためということで病院に担ぎ込まれたのである。
 大方においては前回の末路をなぞるようなものだったが、今回彼は身体的外傷はまったく負っていない。
 病院での検査は、文字通り検査するだけで終わった。先だって左眼の下に負っていた裂傷――もうほとんど治りかけていた傷を少々念入りに消毒されて、新しいガーゼを張られたのが、唯一の治療らしい治療といえる。
 傷口は塞がっているが油断しないように――と、前回担ぎ込まれたときと同じ担当医は注意し、治療次第では傷痕をほとんどわからなくすることもできるから、と付け加えた。
 あと、どういうわけかカウンセリングのようなものを受けさせられたが、これについてはシンジはあまり深く考えずに無難な質疑応答に終始した。
 一通りの検査が終わり、診察室の片隅で帰り支度を整えていた頃、葛城ミサトが姿を現した。

「今回は申し訳ありません。かえってご迷惑をかけてしまって」

 彼女の顔を見るなり、シンジはまず頭を下げた。
 ミサトは苦笑し、

「前回はネルフがあなたに迷惑かけたんだもの。多分、負債はこちらの方がまだ多いわね」
「そういっていただけると気が楽になります」

 あえて冗談めかしたミサトの物言い――「負債」という表現が、シンジは気に入った。こういう諧謔を即座に思いつける人間は、概して尊敬に値する、と彼は思っている。頭の回転が早い証拠だからだ。
 シンジは続けて、一緒に救助された友人二人の安否を尋ねてみた。病院に担ぎ込まれてから、彼らの姿を見ていない。

「あの子たちはもう帰したわ。怪我もなかったし。少しだけ厳しく注意はさせてもらったけど」
「もともと僕がエヴァについて喋ってしまったのが事の発端です。もしも今回のことが何らかの罪になるのなら――」
「その点は心配しなくていいわ。彼らはあくまで救助されただけ。ただ、相田君のビデオは回収させてもらったけどね」
「……ケンスケにとってはそちらの方が痛恨の一撃かも知れませんね」

 彼は趣味に生きる男ですから、とシンジは笑い、ミサトは多少複雑な気分で笑い返した。
 こうして直に話す限り、やはり碇シンジという少年は如才ないという以外に形容詞が見当たらない。
 あの第四使徒との戦いの最中、自分が感じた絶望的な理解は、あるいは考え過ぎだったのだろうか――うっかりそう思えてしまうほどだった。
 それほどに、碇シンジには陰りというものがない。

「綾波さんはどんな具合ですか? 具合が悪そうでしたが」

 束の間、対応に困ったミサトに向けて、シンジの方が話題を変えた。

「え、あ、そうね。とりあえず命には別状ないんだけど……」
「――あまり思わしくはないようですね」

 ミサトの屈託を見透かしたように、シンジは先回りした。察しのよさは相変わらずだ。
 ネルフの作戦部長は幾重にも深いため息をついた。
 レイの負傷は、決して軽いものではない。
 使徒に投げ飛ばされたときの衝撃で、治りかけていた肋骨を二本、彼女は骨折していた。加えて、右腕の完治も長引くという。
 ネルフはまたしても手駒不足に悩まされることが確定している。
 救いがあるとするならば、それ以外の全体的な損害が許容範囲に収まったことだろう。
 市街地の被害を避ける作戦をレイが徹底して実践し、予定していたN2爆撃も行われなかったため、第参新東京市の損害は前回に比べてはるかに軽微であり、もちろん出番のなかった国連軍にも損害はない。
 結果としては、民間人も救った上に使徒も倒し、損害も(あくまで前回に比べれば)最小限ということで、ネルフ作戦部はまたしても面目を保った形になっている。
 ミサト本人は幸運に支えられた今回の戦いに不満足であったが、とりあえず勝利は勝利である。
 戦闘終了直後の自失から醒めた作戦部の部下たちは口々にミサトの決断を褒め称え、事後処理を後回しにして病院に赴く彼女を敬礼で見送ったものだった。

「部外者の分際で立ち入ったことを伺いますが、綾波さんは何か病気を抱えているんですか?」
「――いいえ。どうして?」
「なにか尋常ではない苦しみ方をしていたもので」

 零号機の暴走に伴うパルス逆流、精神汚染の前兆ともいえる例の症状について、シンジはいっていた。
 ミサトは安心させるように微笑し、

「……その点は大丈夫。あまり詳しいことは話せないけど、深刻なものでもないのも事実だから」

 ――あくまで今回に限っていえば、だが。
 ミサトは内心で付け加える。
 すでにレイを診察した医師の報告は受けていた。
 幸いなことに、精神汚染の後遺症はなし。
 プラグにシンジたちを入れたことによる副作用も心配していたのだが、今のところ目に見える影響はない。
 とはいえそれも、あくまで今回に限っていえば、ということだ。
 エヴァという非常識の塊については、彼女ですら知らない部分が多すぎる。

「レイのこと、気になるの?」

 シンジの言ではないが、さすがに精神汚染のことについてまで部外者に話すわけにはいかない。
 ミサトは悪戯っぽい微笑を取り繕い、意図的に話題を変えた。

「そういえば、戦いが終わったとき、あの娘を抱き締めてたでしょ」
「あ。見られてましたか。苦しそうだったんで、背中をさすったりしていただけなんですが」
「なかなかいいムードだったようにも見えたけど?」
「まあ、悪い気がしなかったのは事実ですよ。綾波さん、美人ですし」

 困ったように笑いつつ、彼は答えた。

「苦しんでいる人がいれば手を差し伸べるのは当然のマナーですからね。それも相手が可愛い女の子であれば尚更です」

 どこまでも明快にシンジはいう。
 彼ならばおそらくそう答えるだろうと予測してはいたが、あまりにも屈託のないその表情に、ミサトは再び自分の認識について疑念を覚えた。
 ――果たしてこの少年の素顔はどこにあるというのだ?

「綾波さん、入院するんですか?」
「え、ええ」
「できれば、今回の謝罪とお礼を兼ねて、御見舞いに伺わせていただきたいんですが」
「……残念だけど、今はまだ面会を許可するわけには行かないの。二、三日もすれば落ち着くはずだから……」

 許可が出れば連絡する、とミサトは約束した。
 碇シンジについての複雑な疑念はともかくとして、周囲の人間に無関心すぎるレイの生活を何とかしてやりたいというのも、葛城ミサトの懸案の種ではあった。

 

 

 翌日から、葛城ミサトは再び多忙を極める生活に舞い戻っていた。
 いくら第四使徒戦の損害が比較的軽いものに納まったとはいえ、まだまだ理想的な迎撃態勢には程遠い。
 何といっても第三使徒戦でのダメージが大きすぎるのだ。
 初号機はいまだ活動不能。ようやく素体頭部の修復が終わったばかりで、その他の部位は手付かずに近い。もっともこれは零号機の復旧を最優先したためでもあるため、予定の範囲内といえばその通りではあるのだが。
 兵装ビルの稼動率はようやく8%。とにかく使えそうなものは突貫工事で完成させているが、一週間後に稼動率を二桁に乗せるのが精一杯という報告を受けている。
 ドイツ支部はセカンド・チルドレンと弐号機の来日予定日を本部に連絡してきた。ただし、あくまで予定日を連絡してきただけのことであって、実際にセカンド・チルドレンと弐号機がドイツを発ったわけではない。未完成でもいいからとにかく送って来いといいたいところではあるのだが、戦闘に耐え得る状態でなければ来ても来なくても同じことである。ドイツ支部はドイツ支部で、本部の無茶な早期召還命令にそれまでのスケジュールが一切破棄され、一部職員はノイローゼになりながら弐号機の完成を急がせているらしい。
 他方で、それなりに充実してきたものもある。
 国連軍との連携である。
 二体の使徒が立て続けに来襲したことにより、国連軍も使徒の目的が第参新東京に限定されるという事実を受け入れ、世界各地の実戦部隊を日本に移し始めていた。
 ミサトはさらに技術部の反対を押し切り、エヴァの基本的なスペック――ATフィールドを含めた平均的な実戦性能を国連軍に公開し、それに準じた連携作戦のシミュレーションを共同で行うよう提案した。
 目前のエヴァのデータを差し出された国連軍司令部は喜んでこれに同意し、早速何人かの国連軍将校が作戦部に合流している。
 この一件に関しては、赤木リツコが猛烈に反対し、副司令も渋い顔をしたのだが、ミサトは幹部会議で昂然とこう言い切った。

「機密を抱えて敗北するより、味方を増やして勝つ方を選ぶわ」

 結局、海外にいる碇ゲンドウが「好きにさせろ」と命じたこともあり、リツコも冬月も渋々口を噤んだのだった。
 もともと、パイロットのシンクロ率という要素が絡むエヴァの実戦性能は不安定もいいところなので、そのデータなどはあくまで概算でしかなく、リツコたちの反応は過敏に過ぎるところがあった。加えていえば、ネルフの裏面を知らされていない作戦部のスタッフからすれば、基本的に機密保持などどうでもよく、とにかく勝つのが自分たちの使命だと割り切ってもいる。
 一日、定期報告のために冬月の執務室を訪れたリツコは、作戦部の急激な膨張について触れた。

「葛城一尉の声望が予想以上に高まりすぎています。このままでは、少々厄介なことになるかも知れません」

 いざというとき、碇ゲンドウではなく葛城ミサトの命令に従う者が出てきかねない――リツコはそう危惧していた。ミサトは非常に健全で、模範的な軍人だ。人類補完計画などという怪しげな計画に賛同するとも思えず、そしてそういう人間がネルフで巨大な権限を持つようになるのは好ましくない。
 もともとミサトの人柄を好む者は技術部にも少なくなかったから、リツコとしては幾重にも危惧せざるを得ないのである。

「……まあ、それは仕方あるまい。もとはといえば碇の自業自得でもあるし、現時点で葛城君がいなければ作戦部が立ち行かないというのも事実だ」

 文人肌の副司令は、そうであるがゆえにミサトの能力を高く評価してもいる。この場合、碇ゲンドウの同志という立場はなんら関係がない。純粋に組織管理者としての識見から、冬月はミサトが必要な人間であると判断していた。

「葛城君は優秀な軍人だ。だからこそ、上官に逆らうことはできない。もし明確に刃向かうようなことがあれば、そのときこそ彼女を処断すればいいだけのことだよ」

 使える駒はどこまでも使う。例えそれが危険な駒であったとしても、厭う理由はない。使う側はただ、駒の危険性が許容範囲を越える瞬間を見定めておけばいい。
 半ばゲンドウに重なる価値観でもって、冬月はそういった。

 

 

 そうしたネルフの動きをよそに、シンジの方はまず平穏な日々を過ごしている。
 第四使徒戦の翌日、いつも通りに学校に出たシンジを待っていたのは、級友二人の熱烈な歓迎――そう評して悪ければ心からの謝罪であった。

「シンジ! すまん、お前には迷惑かけたっ!!」

 鈴原トウジは教室の床に土下座してまでそういってのけた。

「今回のことは本当に悪かったよ、シンジ。俺たち、すごく反省してる」

 ケンスケの方も、さすがに土下座はしなかったが沈痛な表情である。
 どうやら昨日の一件で、自分たちのみならずシンジまで危険にさらしたことを謝っているらしい。

「大袈裟だよ。結局、助けてくれたのは綾波さんで、それを指示したのはネルフの人だしね」

 これはまったくの本音である。
 シンジには自分の行動が最善のものだったとは思っていないし、感謝される類のものであったとも思わない。

「もちろん綾波にもネルフにも感謝しとる。けど、わしらはお前にはほんまに感謝しとるんや……」
「忠告に耳を貸さなかった俺たちを助けに来てくれたのはお前だし、さ」

 ――いい連中だ。
 シンジはかなり居心地の悪い気分を味わいながら、つくづくと二人の友人を見直した。実益ではなく過程を重んじるあたり、まったくもって彼らの善良さが現れている。
「遺言はある?」と尋ねたシンジの言葉は、頭から忘れているようでもあった。
 まあ、状況が状況であったから仕方はない。あるいは言葉の意味を理解できなかったか。
 どちらにせよ、シンジにとってはそれほど悪くない反応といえる。
 予測していたいくつかの反応のうち、下から数えて三番目くらいには悪くない。一番いいのは、彼らが何事もなかったように友人として接してくることだったのだが、そこまで望むのは贅沢というものだろう。
 しきりに頭を下げ続けるトウジたちをなだめ、他のクラスメイトたちの注目を諦めて受け入れながら、シンジはそんなことを考えていた。
 ――それ以後の学校生活は、予想通り少々窮屈なものになった。

「ね、碇君って、前の学校で付き合ってる娘とかいたの?」
「いないよ。そういうのはまだ早いと思ってたしね」
「告白とかもされなかった?」
「バレンタインに義理チョコをもらったくらいかな」

 一時間目の授業後の休み時間、三人ほどの女子に囲まれながら、シンジは困ったように微笑んだ。

「信じられないなー。碇君って、勉強もできるんでしょ?」
「そうそう! この間の数学の抜き打ちテスト、満点取ってたじゃない」
「はは、数学は得意科目だったからね。あれが国語とかだったらああはいかないよ」
「それでもすごいって。あたしなんて五十点だったんだよー」

 どこで点数までチェックしていたのか、はしゃぎ回る女子たちに愛想笑いを振り撒きながら、シンジは内心でため息をついていた。
 危険を顧みず同級生を助けに行ったことが噂となり、さらにエヴァに乗って死にかけたという事実までもがかなり美化されて語られるに至り、彼はちょっとした英雄になってしまっていた。
 頭が痛いどころの騒ぎではない。
 根拠に欠ける善意は、根拠のない悪意より始末に負えない部分がある。後者であれば排除すれば事足りるのだが、善意である以上無下にするわけにもいかない。
 まあ、人の噂の七十五日。
 大人しくしていればそのうち噂も静まるだろう、とシンジは達観した。
 ミサトからは約束通り、三日後に電話があった。
 綾波レイは順調に回復し、一般病棟に移ったため、面会も許可が出るらしい。
 病室の番号を告げてから、ミサトは『ただし』といいにくそうに続けた。

『悪いんだけど、お見舞いはシンジ君一人だけにして欲しいの』
「は? しかしそれは……」

 怪我人の刺激・負担を避けるため、面会の人数を限定しているということか。とっさにシンジは推測した。
 だがそれにしては、わざわざシンジ一人に限定しているのが腑に落ちない。
 コンマ以下の沈黙のうちに、シンジは当たりをつけた。

「同じパイロット――といっても僕は役立たずの候補生ですが――、つまりネルフに縁ある人間しか許可できないということですか?」
『……まあ、つまりはそうなんだけど』

 電話の向こうですまなさそうにため息をつく気配があった。
 まあ、だったら仕方ないでしょう――とシンジが同意しかけたとき、ミサトは思いも寄らぬ事実を告げた。

『その、シンジ君はまだ候補生じゃなくパイロットなのよ』
「――はい?」
『私もてっきり、とっくにパイロットから外されていると思っていたんだけれど……』

 ミサト自身、当惑しきった声音であった。
 彼女の方でも、今日になって初めて気づいた事実らしい。
 シンジは悪意のない苦笑を発した。

「ネルフの多忙さは理解してるつもりですよ。多少事務処理が遅れても、書類上だけのことであれば、僕は別に構いません」
『……そういってもらえるとありがたいわ』

 ねぎらうような台詞をどう受け取ったのか、ミサトの返答はため息まじりだった。

『……とにかく、シンジ君は関係者ということで許可が出たけれど、相田君と鈴原君はダメなのよ。完全に制限が解かれたらまた連絡するから、当面はシンジ君一人でお見舞いに行って上げてもらえる?』
「了解しました」
『それと、もう一つ、これは図々しいお願いなんだけど……』
「何でしょう」
『近いうちに、本部に来て欲しいのよ。リツコがもう一度あなたに話をしたいといってるの。……いえ、もっというと……』

 ミサトはこの日最大の重いため息を漏らした。

『あなたのパイロット適性をもう一度調べたいらしいわ』

 シンジは今度こそ、あまりに論外な事実に眉をしかめた。
 エヴァを起動すらできず、一方的に半殺しにされたパイロットに、今更何を期待しているというのか。客観的に見て、先日の戦いとも呼べぬような戦いで、パイロットの才能の片鱗らしきものが垣間見れたとは到底思えないのだが。
 仮に才能の片鱗のさらにまた欠片らしきものがあったとして、それが実を結ぶまでどれだけの時間を要することか。あのエヴァというロボットがどういう原理で動くのかは知らないが、とりあえず自分がアレを動かせるようになるまでには年単位の時間がかかるのではないかと思う。何せそもそも動かし方の見当がつかない。
 その上で、さらに実戦に耐え得る技術を身につけるまでの時間を試算しようとして、シンジは諦めた。未知の要素が多すぎる。とりあえず現時点では「はるか未来」としかいいようがない。
 本気でゼロから自分をパイロットに仕立て上げようとしているのなら、ネルフというのはよほど気が長く腰の据わった組織ということになるだろう。
 それとも、名簿上パイロットであるからには形だけでもそれらしく扱わねばならないということか? ならば話はわかる。事務処理の遅れを誤魔化すためにとりあえず体裁を取り繕うのはどこでも聞く話だ。
 はたまた、役人が責任逃れのために白を灰色と誤魔化す、というのもよくある話ではある。つまり、無能なパイロットを任命して余計な損害を出してしまった責任を回避するため、これこの通り彼は間違いなくパイロットなのです、負けたのはただ運が悪かっただけです、と上に(おそらく国連にでも)申し開きするわけだ。
 正直バカバカしい。何が悲しくて、一介の中学生がそのような茶番につきあわねばならないのか。そういうことは、いずれ社会に出ればたっぷり味わうだろうというのに。学生の間だけでも無縁でいたいものである。
 断わる理由を探しかけ、シンジはふと気付いて訊ねてみた。

「……もしかしなくとも、僕の今の住居や口座の預金は、パイロットだから支払われているという形になっているんでしょうか?」
『……書類上はそうなってるわ』

 半ば以上予想通りの返答だった。
 書類上は、ということは、つまりそれが一般社会における真理に乗っ取っているということだ。
 ならば仕方ない。

「わかりました。そちらの都合がよろしければ、明日の放課後、綾波さんを見舞ったすぐ後にでも伺わせていただきますが」

 面倒なことはさっさとすませるに限る。どの道、形だけのことなのだ――シンジは腹を括った。

 

 

 そこは暗い、ただ人工の光のみが支配する領域だった。

「碇君。ネルフとエヴァ、もう少し上手く扱ってもらわんと困るよ」

 ぼんやりと発光する六人の男たち、その一人がいった。

「まったくだな。特に第三使徒戦はまさに醜態に近い。あの一戦だけでどれほどのものを我々が失ったか、わかっているかね?」

 別の一人がすかさず同意する。

「資金、資源、人間、そして時間。いずれも有限だ」

 また別の一人が淡々と続ける。

「何より、危うくエヴァ初号機が失われるところだったのだ。よりにもよって初陣でな」

 最初に口を開いた男が皮肉もあらわにいった。

「聞けば、あの無様な敗戦は君の指示によるところが大きいそうだが?」

 すでに詳細は手にしているだろうに、わざとらしく確認する。
 淡く光るその口元は不快な形に歪んでいた。
 彼らの姿が奇妙に発光し、ぼやけているのは、それらがすべてホログラム映像だからだ。
 最新の通信・映像技術を駆使したバーチャル・リアリティの会議。
 ネットの通信や、さもなくばテレビ電話でもすむようなことに、この種の最新技術を惜し気もなく使うあたりに、独特のこだわりと権勢が反映されている。
 ――人類補完委員会。
 彼らはそう呼ばれている。
 超法規機関ネルフ、その上に君臨する唯一の合法的組織。
 一応は国連内の一組織という位置付けになっているが、彼らの活動内容については国連総長だろうが容喙するところにない。
 その実体こそがすなわちゼーレ。人類社会の政治経済を掌握する政治家・企業家たちの集合体であるからだ。
 人類補完委員会という名称は、あくまで法的にネルフを掌握するための方便に過ぎない。

「――あの時点では、それが必要と判断しました」

 ゲンドウは静かに反論する。

「シンクロ率1%を切るようなパイロットの実戦投入が、かね?」
「君の息子だそうだね。それも、十年ほど放置していた」
「同情に値するな。死ななかったのは僥倖といってよかろう」

 わざとらしい台詞は、もちろんただの皮肉である。
 ゲンドウは表情を変えなかった。

「あれは私の――すなわち碇ユイの息子です。それの意味するところは、おわかりでしょう」

 淡々と、それだけを口にする。
 何人かが、やはりわざとらしくため息をついて見せた。

「君に親馬鹿の資質があったとは新鮮な発見だよ、碇君」
「あいにくと、君の息子は期待通りには育っていなかったというわけかね?」
「つまり、それだけ健全に育っていたということかな」

 嫌味たっぷりの最後の台詞が吐き出されると同時に、低い笑い声が唱和した。

「――まあ、よい」

 それまで沈黙を通していた上座の男――「議長」ことキール・ローレンツが口を開いた。
 途端に、周囲の笑い声がおさまる。

「第三使徒戦に際しての諸々の悪条件については我々も承知している。君がサードにすべてを託したのもやむを得ざる選択であったと理解しよう。――ただ、結果として、失われたものもまた巨大であった。その点について異論はないな?」
「……はい」
「国連内部にはネルフの――というより君の指導力を疑問視する声も増えている。折悪しくというべきか、先日襲来した第四使徒が、君の不在のうちに殲滅された。この事実も、噂に拍車をかけることになるだろう」

 キールの声は苦々しい。
 いくらゼーレとて、国連に所属する人員すべてを支配下においているわけではないのだ。
 今後、碇ゲンドウの責任を問う声が強まるようなことになれば、国連内の不満分子を抑えるためにも補完委員会として何らかの処分を下さねばならなくなる。
 そうなれば、肝心要の人類補完計画がどれだけ遅延することか。碇ゲンドウはゼーレのメンバーに厭われ、危険視すらされていたが、だからといって彼以外の人間に計画実行の責任者が務まるとも思われていなかった。

「予算については一考する。――君は当分、身を慎みたまえ」

 最後にそういって、ゼーレの議長は閉会を告げた。

 

 

 関係者以外面会禁止などともったいつけられた割りに、綾波レイの病室はごく平凡なものだった。
 シンジが先日、入院していた部屋と比べても、特に変わったところはない。
 ただ、病院の個室にしては妙に広いのが唯一の特徴といえば特徴だろうか。

「綾波さん、今回はありがとう。それと、ごめんなさい」

 訪れるなり頭を下げたシンジに、レイはいつもの如く無関心な目を向けた。

「…………」
「あ、これ、お見舞いの花。トウジとケンスケ、でもって僕からね」

 そういって、持参してきた花束を差し出しても、その表情は変化しない。
 まぁそういうものだろう、とシンジは達観している。
 数えるほどしか話したことのない同級生だが、彼女がコミュニケーションにさほど重きを置いていないのはよくわかっている。

「花瓶、あるかな?」

 こういうタイプにはさっさと話を進めて辞去するに限る。
 病室を見回すシンジに、レイは初めて口を開いた。

「……ないわ」
「あ、そう。じゃ、ちょっと借りてくる」

 あらかた予想はしていたことだ。シンジは一時退室し、ナースステーションで花瓶を借り受けた。
 洗面所で水を入れ、病室に戻る。
 てきぱきと花を生けるシンジをレイは無表情に眺め、

「――何故、ここに?」

 この日初めて自分から話を切り出した。

「もちろん綾波さんのお見舞いだけど」
「何故」
「君は僕と他二名の命の恩人だから」
「……恩人?」
「命を助けてもらった相手を世間一般ではそう呼ぶんだよ」
「……それは命令だったから」
「動機ではなく結果について僕はいっている」

 よどみなく答えるシンジを、レイはしばし無言で眺め、それからおもむろに尋ねた。

「――貴方は、何?」
「その質問は二度目だね。記憶に障害でも?」

 つくづくと見返すシンジに、レイは答えない。
 しばらく睨み合うようにして沈黙する。
 ややあってから、根負けしたようにシンジは肩をすくめた。

「碇シンジ。性別男。年齢十四歳。市立第壱中学校二年A組。第参新東京市第七区画9−4、コーポ・61の301号室に在住。誕生日は六月六日。趣味、読書。特技はゲーム全般。ちょっとだけチェロも弾ける。得意科目は数学で苦手科目は美術。父親は碇ゲンドウ、母親は碇ユイ。健康状態に問題なし。前科なし。賞罰なし……」
「……貴方は、何?」

 せっかく質問に答えたというのに、レイはその返答にはまったく興味がない様子で、同じ質問を繰り返す。
 シンジは本格的に肩をすくめ、数日前と同じ答えを発した。

「それは、君が決めることだよ」
「……よく、わからない」
「わからないのは僕の返答の意味かな。それとも自分自身の問いかけの意味かな」

 ため息まじりに反問する。
 レイは相変わらず無表情だったが、これはこれで戸惑いなり当惑なりしているのかも知れない、とシンジは想像した。
 だが、だからといって一方的にそれに応える理由を彼は持たない。
 表情はシグナルであり言葉は道具だ。
 明示されないシグナル、使われない道具にいちいち反応していては、はっきりいってきりがない。
 まぁ、それでも――わずかばかりの時間を割いて言い聞かせるくらいは許容範囲だ。何といっても命の恩人ではあることだし。

「僕の素性を知りたいなら葛城さんにでも聞いてもらうのが一番手っ取り早いよ。多分ネルフは、僕について僕自身よりも詳しい」
「…………」
「それ以外の――データとして以外の僕の存在を問うているのなら、それこそ君が定義すべき事柄だ。僕自身はそれについて関知できない。ありていにいうと、関係がない。君の命題はすべからく君自身のものだ。勝手に考えて勝手に結論してくれ」

 少々きつい物言いになってしまったが、シンジとしては道理を説いているつもりだ。
 他のクラスメイトに対してであれば、適当に煙に巻いている。
 綾波レイはクラスで特に親しい友人もいない、つまり多少悪い印象を与えたところで自分の学校生活に実害はないと判断しているがため、シンジはあるていど踏み込んだことを口にしていた。
 レイからの答えはない。彼の言葉の意味を考えているのか、彼の投げかけた通りの命題を考えているのか、それはどちらとも知れない。それこそ彼女の問題だ。
 彼女の表情を観察しつつ、彼はこの日、おそらくは初めての本心からの苦笑を浮かべた。

「僕は誰。僕は何。僕は何処から来た。何処へ行く。何をする。何をしている。何がしたい。何のために。すべて言葉で答えることは容易だけど、その以上を望むのならば自分で考える以外にない。前にもいったね。言葉の定義は有限だ、と」

 

 

 まったく、柄ではない。
 病院を後にしながら、シンジは珍しく自分の行動を後悔していた。
 あんな哲学まがいの問答は、本来はあまり好きではないのだ。
 どれほど深遠な思考であろと、それで腹が膨れるわけではない。今日の食い扶持をどうするか考える方が、よほど上等で有意義だろうと思う。
 真実だの真理だのというものは、とりあえず安定した生活基盤を築き上げてからゆっくり考えればよいことだ。そして、大概の人間はその基盤を維持することに必死で余分な物事を考える余裕はないし、それはまったく正しい在り方でもある。
 シンジは自分が俗物であると思っていた。
 とりあえず平穏に生きたいし、波乱万丈の人生など望んでもいない。コーヒーよりは緑茶が好きで、着飾った料理よりは不健康なジャンクフードの方が舌に合う。それなりに親しい友人がいて、そのうちできれば美人でなくても性格のいい恋人ができれば文句なしだ。つらいことより楽しいことがいっぱいあった方がいいに決まっている。
 そういう、そこそこ楽しい人生を漠然と望んでいる人間を、俗物といわずしてどうするのか。
 綾波レイは本質的に彼とは無関係な人間で、彼の希望する平穏な人生からはるか遠い場所にいる。いいかえれば、彼の人生に干渉してくる余地がまずない。
 だからこそ、口が滑った。
 俗物としての自分を脅かす危険がないから、そうでない部分にうっかり付き合ってしまった。
 ――まったく、柄ではない。
 シンジは頭を振り、内心で蠢く後悔の念を、彼女の事柄とともに脳裏から追い出した。
 今回のようなことがなければ、おそらく終生関わることのなかった少女――多分これからも深く関わってはこないだろう少女のことなど、考えても無駄だ。
 それよりも今は、頭を痛めるべき問題が目の前にあった。

 

 

 葛城ミサトはその日一日、いつもの彼女からすればかなり暗い気分で仕事をしていた。
 いや、暗い気分というのは正しくないだろう。
 正確な表現を用いるならば、釈然としない、その一言に尽きる。
 理由の第一は、彼女でなくとも首を傾げざるを得ない事実――碇シンジがいまだにサード・チルドレンにしてエヴァ初号機専属パイロットである、という書類上の現実だ。
 当のシンジにもいったように、彼女は当然、とうの昔にその登録は外されていると考えていた。
 機密保持のために候補生という形で据え置かれるにしても、碇シンジが現実にエヴァンゲリオンに関わることはないと、頭からそう思っていたのである。
 レイにせよ、零号機の起動には七ヶ月を要したとはいえ、シンクロ率自体は最初から10%前後を記録していた。
 ただその当時は、エヴァの起動自体前例がなく、各種のシステム面が未整備で――コアのパーソナル・パターンさえ調整されていなかったのだ――、技術部のスタッフも手探りで慎重に作業を進めていたというだけのことである。
 完成体のエヴァンゲリオン、事前に調整されたコア、それなりに手馴れたスタッフと、万全に近い状態で1%以下というシンクロ率しか残せなかったシンジとは、訳が違う。
 酷を承知でいえば、レイやセカンド・チルドレンのデータから見ても、彼が今後エヴァを起動できる確率はゼロに等しい。
 シンジが洞察したように「お役所仕事」ゆえのしがらみと受け取れないこともないが、あの碇ゲンドウがことエヴァに関する事柄で事務処理を怠けるとも思えない。第三使徒戦以来ひどく評判を落としているとはいえ、組織管理者としての碇ゲンドウの手腕をミサトは過小評価していなかった。
 実際、昨日になってその事実を知るや、ミサトは即座に技術部長たる友人に問い質してみたのだ――司令とあんたは、今でもシンジ君がパイロットになれると思ってるの?

「なれるはず、とは思ってるわ」

 それがリツコの返答だった。
 理論にこだわる技術士官らしい物言いではあったが、現実が理屈通りにいけば世話はない。
 声を高めかけたミサトをリツコは軽く制し、

「もちろん、現実としてシンジ君がパイロットとして役に立たないことはよくわかってるわ。だからこれはあくまでデータ収集の一環みたいなものなの」
「……どういうことよ?」
「マルドゥックの選んだチルドレンが、実際にはまるでシンクロできなかった。そのマイナスファクターを洗い出すだけでも、今後の選出に役立つはずでしょう?」

 たしかに一理あった。ミサトとしても、今後選ばれるパイロットたちが問題なくエヴァを起動できるならば、願ってもない。

「だから、パイロットというのはあくまで名目だけなのよ。いずれ初号機が復旧次第、何度か起動試験にも参加してもらうつもりだけど、少なくともレイが負傷したからといって彼を零号機に乗せるなんてことはありえないわ。そのあたりは貴方の構想通りね」

 補助的なデータの収集とはいえ、ネルフに出入りし、エヴァに触れることもあるからには、肩書きだけでもパイロットである方が何かと融通が利く。IDカードの発行や機密開示の手続きの面で手間が省ける。要はそれだけのことだとリツコは言い切った。
 ミサトは一応納得したのだが、しかしやはりどこか腑に落ちない。
 それは突き詰めれば、エヴァそのものにブラックボックスが多すぎるという不審感に行き着くのだろう。しかし、だからといってそれ以上どうこうする権限もミサトにはなかった。
 結局彼女にできたのは、くれぐれも碇シンジに必要以上の負担を強いるな、と親友に釘を刺すことだけだった……
 ――自分の執務室のデスクに腰掛け、生温いコーヒーを啜りながら、ミサトは腕時計を確認した。
 時刻は既に午後八時三十分を回っている。
 これが第二の、この日の気分の理由だった。
 シンジが本部を訪れ、リツコの執務室に招き入れられたのが午後四時頃。
 それから悠に四時間以上が経過している。
 今回は簡単な聞き取り調査みたいなものだから、一時間くらいで用事はすむ――リツコは事前にそう明言していた。
 付け加えていえば、その後で作戦部長と今後の予定を打ち合せ、零号機・初号機の復旧作業も監督するという予定でもあった。
 にも関わらず、リツコは依然「簡単な聞き取り調査」を継続しているようなのだ。
 もちろん内線で何度となく連絡をとってみたのだが、「まだもう少しかかりそう」「もうちょっと待って」と繰り返すばかり。
 リツコが決済しなければならない書類もたまっているそうで、つい三十分ほど前、何気なくケイジに顔を出したところ、マヤに「今日こそは家に帰れるはずだったのに……」と泣きつかれた。作戦部以上に多忙を極める技術部は、部長が引きこもりを決め込んだため、ささやかだが洒落にならない混沌に突き落とされているらしい。
 もちろんミサトも帰るに帰れない。
 打ち合せの予定もあるが、何故リツコがシンジの「聞き取り調査」でこうも時間を費やすのか、それがどうにも気になっていた。
 やはり、この一件には何か裏があるのか――
 ミサトはため息をついて、デスクから立ち上がった。
 うだうだ悩んでいるのは、やはり性に合わない。
 執務室を出て、廊下を歩く。
 目的地はもちろんリツコの部屋だ。
 何をやっているのか問い質す――とまでは行かなくとも、さしあたり苦情を並べる権利くらいはあるはずだった。何せ、実際自分も技術部員も迷惑を被っている。
 通りすがる何人かの敬礼に応え、リツコの執務室の目の前まで来たとき、ちょうどその扉が開かれてシンジが顔を出した。

「あ、ミサトさん。こんにちは――じゃなくてこんばんは」
「あ、ええ――シンジ君、大丈夫なの?」

 とっさにミサトはそんなことを問いかけていた。

「どういう意味よ」

 と、シンジの背後からリツコが顔を出す。
 彼女はミサトを一睨みしてから、次いで意外なほど柔らかな微笑を浮かべてシンジを見やり、

「今日はありがとう、シンジ君。久々に充実した時間だったわ」
「いえ。お役に立てたかどうかはわかりませんが、僕も楽しかったですよ」

 妙に親しげな会話であった。
 いつもクール・ビューティ特有の棘のあるリツコには珍しい態度である。

「またいつでもどうぞ。こういうお仕事なら喜んでお付き合いさせていただきますので」
「そうね。仕事以外でもまたいらっしゃい」

 ミサトは本格的に当惑して、親友と少年の二人の姿を見つめた。
 一体この五時間近くに何があったというのだ?

「それじゃ、今日はこのへんで。また何かあればご連絡下さい」

 晴れ晴れとした表情で去って行くシンジを見送りながら、ミサトはリツコの脇腹を突っついた。

「ちょっと、リツコ。何があったわけ?」
「何もないわよ。ちょっと話しこんでただけ」

 リツコは不思議なほど満足げに微笑して、ミサトを部屋に誘った。
 よほど機嫌がいいのか、手ずからコーヒーを入れてミサトに振る舞う。
 椅子の一つに腰を落ちつけてカップを受け取りながら、ミサトは親友の表情を見上げた。

「どういうこと? ――まさかシンジ君がパイロットとして使える目途が立ったの?」
「いえ、全然」

 あっさりといいながら、リツコはカルテのような書類をデスクから拾い上げ、ミサトに差し出した。

「だいたい、本当に話をしていただけだもの。ちょっとした心理テストもしたけどね」

 差し出されたのは、その心理テストとやらの概要と結果を記したレポートらしかった。
 ただし、専門用語が多すぎてミサトにはほとんど理解できない。

「これで何かわかったの?」
「とりあえず、シンジ君がとんでもなく頭が回るということは」

 リツコの微笑に、苦笑の成分が混じった。

「その書類にはね、さっき私が行ったものだけでなく、第三・第四使徒戦後に病院で行われた心理テストの結果も記されているの。で、都合三回に及ぶテストの結果、シンジ君はまったく平均的な中学生そのものという結論が出たわ」
「当然の結果だと思うけど?」
「平均的すぎるのよ。三回のテストすべてを通してムラがなく、答えのすべてにブレがない。心理テストの回答なんて、その場の気分で変わるようなものも多いというのによ?」

 リツコの苦笑は深まる。

「彼は心理テストの質問、そのすべての意味を瞬時に洞察して、当たり障りのない返答に終始しているの。心理学に造詣があるわけでもなさそうだったから、純粋にただの洞察力だけで質問に対応していたようね」
「……そんなことができるの?」
「誰でもできることではないでしょうね。本来心理テストというものは、回答者が意図的に本心を隠そうとする場合でも、その隠そうとする意図すら明らかになるよう質問が組まれているものよ。けれど彼は、それすら掴ませなかった」
「…………」

 リツコはカップを傾けて、熱いコーヒーを飲み干した。
 煙草を一本取り出して、火をつけるでもなく指先で弄ぶ。
 ひどく機嫌がいいときの彼女の仕草だった。

「――ところで、話は変わるけど。ミサト、貴方、チェスはできたわね?」

 ようやく煙草を口にくわえ、火をつけてから、彼女はおもむろに訊ねて来た。

「何よ突然。そりゃまぁ、たしかにルールは知ってるし、苦手でもなかったけど」

 新任の下級士官時代、特に娯楽の少ない基地や前線配置の頃は、同僚同士でその種のゲームに興じたものだ。
 ミサトはどちらかというとチェスよりは将棋、さらにいえばトランプ――ポーカーやブラックジャックの類――の方が性に合っていたのだが、当時の上官の一人が名うてのチェスの名手で、暇なときによく相手をさせられた。
 チェスの思考は戦略にも通じる――というのがその上官の口癖で、部下にもことあるごとにチェスを奨励していた節がある。
 個人としてのミサトは、人間はチェスの駒ほど忠実でも単純ではないとはっきり認識していたものの、その上官がひどく頭の切れる男であることは異議なく認めていた。参謀向きでも指揮官にはなって欲しくないな、と思っていたのもまた事実であったが。
 そういえば――と、ミサトは思い出していた。
 リツコの方も、この種の理詰めの思考が求められるゲームには滅法強かったはずだ。学生時代の話だが、チェスにせよ将棋にせよ、ミサトは彼女に勝った試しがない。
 リツコは紫煙をくゆらせながら、

「一度、シンジ君と対戦してみるといいわ。彼、強いわよ」

 楽しげな口調でいった。
 ミサトは眉根を寄せて、

「……あんた、やってみたの?」
「ええ。彼がゲームと名のつくものなら将棋も麻雀もテレビゲームも好きだっていったものだから、ちょっと興味が湧いたの」

 ミサとはこのときようやく、デスクの片隅にチェスの盤が出されていることに気付いた。盤の上には駒が置かれたままだ。
 勝負の途中で放り出されたようにも見える。

「――で、戦績は?」
「十二戦やって、六勝六敗。子供の方がこの種のゲームは上達しやすいとはいうけれど……」

 リツコはくくっ、と喉の奥から響くような笑い声を漏らした。

「あの子、おそらく二十手先くらいまでなら当たり前のように考えられるわよ。私もそれくらいはできないこともないけど、逆に驚くべきかしらね。別段、本格的にチェスを習ったわけでもない十四歳の少年が、そんな芸当ができるというのは」
「……たしかに、とんでもないわね」

 ミサトは声を落として呟いた。
 彼女自身、件の元上官にチェスの基本を教えられたこともあり、一流のチェスプレイヤーは二十手三十手先を読んで駒を動かすことくらいは知っている。
 知っているだけでなく、実際に十手先くらいまでなら思考を進めることもできる。
 だが、そこまでだ。
 それ以上先は、解説されれば理解もできようし、傍から見ていれば洞察もできるだろう。だが、自分でそれを実践できるかといえば、まったく自信はない。
 ――碇シンジ。
 やはりその頭脳は、ただ妙に世慣れた中学生というだけで言い表せるものではない。
 黙考するミサトをよそに、リツコはデスクに置きっぱなしの書類に視線を落とした。
 ミサトに見せたのとはまた違う、先刻、心理テストのついでに行った知能テストの結果だ。
 碇シンジは以前の学校で学年四位を記録する優等生だった。
 それはまったくの事実で、実際彼の知識はそれ以上のものではない。
 試すつもりで高校・大学レベルの問題をいくつか混ぜてあったのだが、その解答はほとんど間違いか、さもなくば空白のまま放置されている。
 歴史や生物学など、知識を問うものは特にそうだ。
 ……だが、ミサトには告げなかったもう一つの証明が、そこにはあった。

 ――751973の平方根は?

 ――8575438×7312891は?

 ――日本円の硬貨が十七枚と紙幣が四枚。合計金額が11075円。この場合ありうる硬貨と紙幣の組み合わせは全部で何通り?

 これらの問題を「口頭で」尋ねられたシンジは、すべて二秒以内で正解を口にしている。
 もちろん電卓など使っていないし、紙に計算式を書いたわけでもない。
 彼はすべての解答を暗算によって弾き出して見せた。
 知識は中学生レベル。しかし、その知性、特に演算能力は文字通り桁が違う。
 心理テストで見せた洞察力といい、チェスの素人離れした技量といい、すべてがただ一つの簡潔な事実を証明している。

 間違いない。
 碇シンジ。
 あの少年は、紛れもなく「あの」碇ユイの息子だ。

 

 

続劇

 

 

 

 

 

 

「……ところでリツコ?」
「何かしら?」
「心理テストのついでにチェスやってたってのはわかったけどさ」
「うん?」
「何で十二戦も延々やる必要があったわけ? この忙しい中、五時間近くも私やマヤちゃんたちを待たせておいてまで」
「…………」
「……ナメてかかった初戦でさんざん惨敗したものだったから、戦績をイーブンにするまで続けた、とか?」
「……………………」
「……リツコ?」
「…………………………………さて。明日からの実験の予定だけど……」
「リツコぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!?」


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