赤木リツコは自分が天才であることを知っている。
 より正確には、自分が天才と称されていることを知っている。
 それは一面の事実であり、彼女としても受け入れるに吝かではない。
 だが、彼女は知っていた。
 自分はたしかに人より回転の早い頭脳を持っていたし、それを磨く努力も怠ったことはない。
 客観的に見て、同世代の学者の中では間違いなくトップクラスに入るはずだ。
 だが、彼女は知っていた。
 自分があくまで余人に理解できる範囲の天才であるという事実を、だ。
 大したものではあるにせよ、同時にそれは致命的なまでに限界を思い知らせてくれる。
 そう、本物の天才とは、誰も理解などすることはできない。













少年期
5th age

七瀬由秋














 

 自ら望んだことではないにせよ、「肩書きだけのパイロット」という自分の立場について、碇シンジは多少の満足感を覚え始めていた。
 要は一風変わったバイトだと思えばいい。
 週に二、三度、放課後から夕方までの時間を拘束されるていどで衣食住を保証されるのなら、どうということはない。
 いや、赤木リツコがパイロットの給料として示した金額は、大卒のキャリア官僚と比しても高額なほどで、衣食住の保証どころか在学中にちょっとした貯金を築けそうですらある。
 それも、やっていることといえば、ペーパーテストとカウンセリングもどき、そしてその後で赤木リツコとのチェス勝負である。
 バイトとしては破格といってもいいだろう。
 てっきり上辺だけパイロットとして扱われるに過ぎないと思っていたのだが、それにしては支払うものが法外すぎる。
 むろんシンジは、ネルフが気前のいいお人好しの集団だとも思っていなかったから、それらの待遇が無条件であるとは考えなかった。
 過日、絶望的な戦場に強制的に放り出された事例を見ればわかることだが、ネルフという組織は子供一人の命にまったく価値を置かない。葛城ミサトには別の見解があるようだが、少なくとも碇ゲンドウについてはその通りのはずだ。
 人類の命運を背負っているらしいから、とりあえず納得はしたくないが理解はできる。
 さすがに、二度も同じ無謀を行うことはないだろう(と信じたい)が、もし「薬物・機械化処置で、役立たずのパイロットでも起動できるようにする」といった実験が試みられるとしたら、そのモルモットの第一候補は間違いなく自分のはずだ。そしてもちろん、ただの中学生にそれを拒むことはできない――彼はそのことを確信していた。
 それらの事実を勘案した上で、今の好待遇の理由を言い表すならば、おそらく一言で済む。
 ――「保険金の前渡し」だ。それも傷害保険とか災害保険などという穏便なものではなく、死亡を前提とした保険だろう。
 給料その他の待遇を説明してくれたリツコに、面と向かってそう評したところ、彼女は平然と、

「理解が早いわね」

 と、うなずいた。
 身も蓋もない性格の女性だとは思うが、いっていることはただの事実である。率直すぎる物言いは、むしろ公正さの現われと見ることも出来た。
 いや、実際、シンジはリツコに対して好感めいたものを覚えていたといってもよい。
 ネルフに出勤するごとに彼女とチェスで勝負しているのは先述の通りだが、これがシンジにとっては思いもかけず楽しいものだった。
 自慢ではないが、これまでシンジ相手にこの手のゲームで勝った者など皆無に近い。友人などと将棋やオセロをしたときなどは、交友関係を崩さぬよう時々わざと負けていたほどだ。
 そのシンジにとって、リツコとのチェスは久々に我を忘れて楽しめる真剣勝負だった。
「好敵手と書いて友と読む」ではないが、赤木リツコが尊敬に値する知性の持ち主であることを、シンジは異議なく認めるようになっていた。
 そうして、シンジがネルフに通うようになってから十日ほど経ったある日である。

「今更のようだけど」

 恒例のチェスを指しながら、リツコが口を開いた。
 指先は迷いのない動作でポーンを動かしている。

「何でしょう」

 シンジは応じつつ、ついでのようにクィーンを進める。

「正直な話、あなたが逃げ出さなかったのは少し意外だったわね」

 コーヒーカップを傾けつつ、リツコはビショップを避難させる。
 自身に払われる給料を「保険金の前払い」とまで評しつつ、平然とネルフに留まっている理由について、彼女は訊ねていた。

「逃げ場があるのならそうしてましたよ。しかし現実として、しがない中学生としてはネルフ相手に鬼ごっこをやり遂げる自信はありません」

 苦笑しつつ、シンジは答える。かつてエヴァに乗せられたときと同じ理屈だ。ネルフが本気になれば、ただの中学生に逃げ道などない。
 クィーンでポーンを一つ取る。

「そうであるにしても、いろいろとやりようはあるはずよ? 新聞社に駆け込むなり海外に逃げるなり。シンジ君、あなたがそのことを思いつかなかったとはいわせないわよ」

 リツコはナイトを後退させて、今しがたポーンを狩ったクィーンを囲むように配置する。

「見当はしました。しかし、いずれにしても成功率は一割を切りますからね」

 シンジは舌打ちして見せる。どう動かしてもクィーンを諦めざるを得ない状況に追い込まれていた。
 見捨てることに決めて、ルックを横に滑らせる。

「それだけ?」

 リツコはあっさりと、ポーンでクィーンを取ってしまった。

「逃げるよりは、素直に保険金を受け取って人生を満喫した方が、まだしも建設的――では、理由になりませんか」

 無難な返答を望む相手でないことはよく知っていたので、シンジは率直に評した。
 ポーンを進ませている。

「納得は出来るわ。あなたならそういうだろうとは思っていた。でも、それだけかしら」

 リツコは眉をしかめた。
 先ほどから二人は、当たり前のように世間話を続けつつ、まったくといっていいほど時差を置かずに駒を動かすという芸当を続けている。
 主体となる意識を会話に傾けつつ、同時並行でチェスの論理的思考を展開する。彼にとっても彼女にとっても、大して難しいことはない。

「…………」

 リツコは沈黙している。
 シンジは悠然と腕を組んで彼女の表情を観察していた。

「……してやられたわね」

 やがてリツコは唐突に呟くと、クィーンを後退させた。
 シンジはにっこり笑って、先ほど動かしたポーンをもう一マス進ませてから、

「ナイトへプロモーション。チェックメイト」

 そう宣告した。
 眉根を寄せたリツコに、軽く付け加えて見せる。

「あと十八手で決まりですが……確認します?」
「いえ、結構」

 リツコはため息をついて、ぬるくなりかけたコーヒーを飲み干した。

「クィーンが捨て駒だったわけね。古典的な手段にやられたわ」
「…………」

 シンジは答えず、ただ微笑して盤上の駒を片付け始めている。
 一日につき勝負は一回のみ。それが、五日前からの取り決めだった。
 何故そう決まったかといえば、五日前またもや負けの込んだリツコがしつこく勝負を続け、怒り狂った葛城ミサトと泣きの入った伊吹マヤが部屋に乗り込んできたためである。
 これまでの戦績は、十五勝十三敗でシンジがどうにか勝ち越し中。
 しかし、初戦でリツコの油断に付け込んで勝ち数を稼いでいた――そして、リツコが本気になるやその日のうちにイーブンに持ち込まれた――ことを考えると、決して満足できる成績ではない。
 リツコのチェスの打ち方は、正統派の一言に尽きた。
 良い意味で教科書通りというのか、決して大崩れしないし、隙もない。
 チェスの戦術など我流で覚えたシンジとは大違いだ。
 この日の勝負は、我流で通してきたシンジがあえて古典的かつ定石通りの打ち方に徹したのが、逆にリツコの意表を突いたらしい。実のところは何のこともない、シンジは数日前の勝負で彼女にやられた戦術を真似てみただけのことなのだが、人間とは自分が普段していることを逆にやり返された場合、案外気付かないものだ。

「逃げなかった理由は、もういくつかあります」

 駒をすべて納めたケースを閉じつつ、シンジは前置きなく話題を戻した。

「葛城ミサトさんの良心に期待したというのも大きいですね。あの人なら、まぁ民間人をむざむざ見殺しにはすまいと」

 なまじ逃げ回れば、それこそネルフの諜報部あたりにこっそり誘拐されてしまいかねない。
 それよりも、日頃からミサトの知己を得て、その保護を受けた方が、まだしも展望はある。ミサトもしょせんはネルフの軍人だが、それでも立場が許す限り尽力してくれるであろうことを、シンジは疑っていなかった。

「すべてが終わるまで五体満足でいられる可能性も、決して少なくはない。で、終わったら終わったで、ネルフに所属していたという肩書き――文字通りの意味での肩書きですが――は、将来何かと役立ちそうではある。分がいい賭けなのかどうかは、未知の要素が多いので断言はできませんが、勝った場合の利益はなかなかのものです」
「……計算高いわね。わかってはいたけど」

 呆れたような感心したような声音で、リツコは空のカップを手に立ち上がった。デスクの端に置かれてあるコーヒーメーカーに手をやりつつ、シンジに目線で「飲む?」と問いかける。彼の方もとっくにコーヒーを飲み干していた。
 いただきます、とシンジは素直にうなずき、カップを差し出した。

「――で、あと、もう一つ。ここに残ったのは」

 コーヒーメーカーのミルで豆を挽き、煎れる準備を整えているリツコに向けて、シンジはまったく口調を変えずに続けた。

「母さんの遺志、その遺したものの行く末を見極めるのも悪くない、そう思えたからですよ」

 リツコの手つきが止まった。
 数瞬の停止の後、彼女は何事も無かったかのようにコーヒーメーカーに水を注ぎ、スイッチを入れた。

 

 

 三日後、初めて碇シンジを対象とした起動試験が実施された。
 その頃には、初号機は素体部分の七十パーセントが修復を終えていた。もっとも、左腕は肩口から落とされたままで(これがつまり修復されていない残り三十パーセントなのだが)、装甲の方の修復はまったく手付かずのまま――つまりいまだ実戦に出すのは論外というべき状態だったが、とりあえず各種の実験に使っても十分なデータを取れるていどにはなっている。
 海外出張から戻ってきた碇ゲンドウの厳命の下、技術部の中でも特に経験と実績を積んだ職員たちの手により、コアのパーソナル・パターンはかなり精密に調整され、エントリープラグ自体も徹底的な修理と点検を受けていた。
 もっとも、当のシンジ本人は、この日初めて支給されたプラグスーツに若干の着心地の悪さを感じていたようではある。
 そうして万全の態勢で行われた起動試験において、碇シンジは第三使徒戦時に比べて何と五割増の最高シンクロ率を記録した。
 ――具体的には、0.04%が0.06%になっただけのことではあるのだが。
 当然ながら、エヴァ初号機はぴくりとも反応しなかった。
 というより、0.02%ていどの増減など、レイやセカンドのデータからすれば「誤差」としか表現しようのない数字である。
 作戦部長として立ち会っていたミサトは、今更驚きはしなかった。シンジには悪いが、彼がいきなりパイロットの才能に目覚めるなどと、彼女は毛頭期待していない。
 ただ彼女は、碇シンジをこうまでして初号機に乗せようとするゲンドウの意図を、図りかねていた。
 周囲の技術部員たちも、その内心は似たり寄ったりだったのだろう。
 彼らは自分たちの職務にある種の虚しさを感じつつ、プラグ内映像に映るシンジに同情混じりの視線を向け――そして、親の仇でも睨みつけるように一連の作業を監督する碇ゲンドウには、一瞥もくれなかった。
 空しい一時が過ぎた後、次にレイによる零号機の起動試験が実施された。
 この半月ほどの間に、零号機はプロトタイプから制式型への改装を受け、カラーリングもかつてのオレンジからブルーへと変更されている。
 レイ自身、負傷はあらかた癒えかけており、何とか実戦に復帰できる状態になっている。
 こちらについては、技術部員一同もまったく文句なく熱心に作業を行い、レイは最高シンクロ率を41%に伸ばした。
 もちろんミサトとしても満足すべき結果であって、彼女は試験が終わった後、かなりの上機嫌のまま作戦部の会議に臨んだ。

「本日の試験で、レイが安定してエヴァの性能を引き出せることは確認できたわけですが――」

 居並ぶ作戦部の将校らの前で、ミサトは口火を切った。

「――状況が苦しいことに依然変わりはありません。国連軍の配備状況はどうでしょうか、大神大尉?」
「装甲大隊を二つまでなら、すぐにでも動員できます。使用可能なN2は国内に七基」

 精悍な顔立ちの青年将校がすぐさま答えた。

「歩兵ならば連隊単位でご協力できるのですが……、残念ながら、使徒が相手となると歩兵装備では何とも」
「空軍については、極東方面司令部が渋っておりますので、十分な数は揃えられません。ただ、三沢の基地司令は可能な限り便宜を図るとおっしゃっておられます」

 大尉の説明を補足するように、その隣にいた速水中尉が口を開く。
 彼らはその階級からわかる通り、ネルフ作戦部の職員ではなく、国連軍からの派遣将校である。
 いずれも若く、階級が低いのは、ネルフ側の作戦部長であるミサトが一尉――国連軍でいう大尉――であり、佐官以上を派遣すれば命令系統に混乱を起こしかねないためだ。
 とはいえ、ミサトは彼らの能力に疑問を抱いていなかった。
 大神大尉にせよ速水中尉にせよ、国連軍では将来を嘱望されたエリートであり、実戦経験も積んでいる。
 先だっての第三使徒戦でも、各々部隊を率いて劣悪な戦局を生き抜いたという、若いながら歴戦の強者なのだ。その際、ミサトとも何度か顔を合わせ、互いに軍人としての覚悟と能力を認め合ったこと――加えて、激戦で消耗し切った所属部隊が解体されてしまい、配置が宙に浮いていたことが、今回のネルフ派遣へと繋がった。

「結局のところ、十分な火力支援が期待できる状況は、第参新東京市――それも兵装ビルが稼動している区域で迎撃した場合に限定される、ということですか」

 この場ではミサトの副官的な役割をもって任じている日向がいった。
 それを契機としたように、作戦部員と派遣将校たちが意見を交し始める。

「仮にファースト・チルドレンがベストコンディションだったとしても、やはりまともに近接戦闘を挑むのには不安があります」
「N2で弱らせてから近接戦闘。ワンパターンだが当面はこれで行くしかない」
「それも、できればN2はまず郊外で、ですね。その後、第参新東京市内に引きずり込んで零号機が決戦を挑む、基本形はこれでいいでしょう」
「使徒が何処から攻めてくるかわかるのなら、もう少し対処は容易なのだが……そのあたりのデータは?」
「あっても前例が二体だけでは参考になるまい」
「早期警戒網の充実、連絡線の強化。もちろん即応態勢を随時整えること。これは緊急の課題ですね」
「エヴァがもう一機あればかなり戦術の幅が広がる。そちらについては、どのようになっているのです?」
「弐号機は、すでにドイツを発ちました。予定ではもう半月ほどで到着します」

 活発な意見交換を、ミサトは満足げに眺めている。
 議長役として出席してはいるが、実のところこの種の作戦立案段階で、彼女の役目はあまりない。葛城ミサトの本職はあくまで実戦時の作戦指揮に尽きるからだ。ただ、現場の意見に生で接するためもあって、こうしてこまめに顔を出すことにしている。
 この会議で提案された作戦は、現実の数値を入力したMAGIで何度もシミュレーションを繰り返され、そうして出来上がった作戦案が更にふるいにかけられて、実戦の際にミサトに提出されることになる。
 ちなみに、このように指揮官と参謀チームの役割を明確に区分した体制は、国連軍の派遣将校を受け入れることでようやく形になり始めたものであって、少し前まではミサト自身が作戦立案から指揮に至るすべてを管轄していた。
 部内のトップが一尉という小所帯ではそれが当然だったわけだが、使徒などという非常識の塊に対しては、取り得る作戦がそれまでの軍事的常識を越えていたという現実も大きい。
 つまり、通常の――人間相手の戦争で常套手段とされていた、「地形を駆使した伏撃」「航空戦力による制空権奪取、その後の爆撃」「砲兵とヘリの援護を受けた戦車及び歩兵の突撃」などが、すべて役に立たないのである。
 であれば、既存の軍事知識に長じたスタッフを何人も侍らせておく理由も余裕もない。質量ともにスタッフが充実していた技術部に対し、作戦部が添え物扱いされていた理由もそこにある。要はいかにエヴァを万全の状態で出撃させるかに尽きる、というのが、少し前までのネルフの見解であった。
 しかし、二度の対使徒戦を経たことで、状況は変わった。
 使徒が想像以上に強大な敵であること――あるいはエヴァが想像以上に頼りにならないこと――が明らかとなり、国連軍を含む通常戦力の援護が不可欠であることが認知され、専門家の手になる「作戦」の重要性が大きく増したのである。
 現在、作戦部に合流してきた国連軍将校は、大神大尉をはじめ七名。
 最終的に、作戦部内で情報処理・作戦立案・部隊運用・兵站などの担当者を明確に定め、名実ともにどこの軍隊にも負けない作戦本部を形成することが、ミサトの目標であった。
 ……しかし、ネルフ作戦部生えぬきの職員と、国連軍の派遣将校で構成されたそれは、碇ゲンドウの制御を受けつけない一大派閥に――それも一流の軍事専門家ばかりで構成された派閥に――なりうるという側面を含んでいる。
 赤木リツコが過敏なまでに危機感を覚えた理由も、まさにそこにあった。

 

 

 日頃のペーパーテスト及びカウンセリングもどき、それにチェス勝負が「楽しい仕事」なら、この日のような起動試験などは「退屈な仕事」でしかない。
 少なくとも碇シンジにとってはそのていどのものであった。
 本来求められている結果を出せないというのは残念なことではあるが、それはあまり自分の責任ではないように思う。
 相変わらずエヴァの起動に何が必要なのかはさっぱりわからないが、どうも体質的なものが大きく左右するという話は聞かされていた。
 つまり、自分の努力や心構えで何とかなる問題ではないということだ。
 であれば、責任を負うべきは自分のような役立たずをパイロットに選んだ連中ではなかろうか。
 開き直りとは似て非なる明快さで、シンジはそう割り切っている。
 念のために付け加えておけば、だからといって彼が起動試験に手を抜いていたわけではない。
 退屈であろうが何であろうが、給料をもらう以上は持ちうる全力を投入するくらいの常識は、いかに中学生でもわきまえている。役立たずなままでは、クビになるだけならまだしも人体実験に使われるかも知れない、と思えば尚更である。
 ただ、エヴァのシンクロに関する限り、具体的にどう全力を尽くせばいいのかいまいち不明なのが、おそらくはもっとも致命的なことなのだろう。
 一応、リツコの指示に従って、雑念は排除したし精神集中もしたのだが、起動試験後のミーティングでミサトから賜ったのは「シンジ君もご苦労様」という、妙に複雑な声音のねぎらいだった。もちろん彼女が可能な限り自分に配慮してくれているのはわかっているのだが。
 いずれにしても、現状ではどうにもならないことだ。ならば、いちいち頭を悩ましても仕方がない。
 シンジはあっさりと頭を切り替えると、さっさと着替えて帰ることにした。
 ちなみに着替えに使用した更衣室は、まだパイロット専用の部屋が未整備だとかで、男女兼用だった。より正確にいうならば、男用のスペースと女用のスペースがカーテン一枚で隔てられているだけで、ある種の犯罪の常習者なら垂涎しそうな造りである。
 むろんのこと、レディ・ファーストの礼節と無用ないさかいを避けるだけの良識を心得ているシンジは、まず綾波レイが着替え終わるのを待って更衣室に入るという手順を踏み、自身の着替えを済ませた。
 時刻は午後六時半を回っている。
 翌日は土曜日、午前中だけで授業は終わる。多少帰りが遅くなったとしても特に問題はないし、気楽な一人暮しに門限はない。
 少し考えてから、シンジは予定を変更し、食堂で夕食を済ませていくことにした。これはシンジが全面的にネルフの姿勢を評価する点だが、本部の職員食堂は値段の安さと味のよさに定評がある。
 主立った職員はまだ起動試験の後片付けやら何やらで忙しいのだろう、食堂には空席が目立った。厨房では調理担当の中年女性が暇そうにしており、シンジを見るとむしろ仕事ができて嬉しそうに注文を受け付けたものだ。
 チャーシューメンとチャーハンのセットをトレイに乗せ、手近なテーブルに着席する。

「いただきます」

 小さく呟いて、食事を始める。
 食堂の奥にはニュースのチャンネルに合わせたテレビが付けっぱなしのままで、シンジはチャーハンを口に運びながら時折それを確認した。
 市内某所で起こった殺人事件、交通事故、首相の会見、芸能人のスキャンダル、その他諸々の話題をアナウンサーが解説している。
 使徒に関する話題はない。今更驚くべきことではないが、ネルフの広報部は張り切って仕事に励んでいるらしい。
 まあ、あれだけ派手な戦いを繰り返しておいて、いつまでマスコミをおとなしくさせておけるかはかなりの疑問だが。
 いくらネルフでも、第参新東京で大規模な軍事行動が行われている――そのための部隊が国内外を移動しているという事実自体は隠し通せるはずもない。
 あるいは、「噂」という形で情報を小出しにしていき、徐々に国民に既成事実として認識させて行く手段を取っているのか。多分、それが一番合理的だ。権威ある言論人の間では一顧だにされていないが、ネットでは既に使徒のことが密かな噂になっているという話を、シンジは耳にしていた。
 そんなことを考えながら、チャーシューメンのスープをすすっていたときである。

「ちょっと、いいかしら」

 馴染み深い声が横合いからかけられて、シンジは少し慌ててどんぶりから口を放した。
 書類ケースを小脇に抱えた赤木リツコが、テーブルの端に座っていた彼の傍らに立っている。

「あ、どうぞ」

 そう応じると、リツコは柔らかく微笑して対面に腰を下ろした。

「食事中に邪魔してごめんなさいね」
「いえ。もう食べ終わりますので」

 皿に残っていたチャーハンの残り一塊を口に放り込み、コップの水で飲み下す。
 満足の息を吐いてから、シンジは彼女に視線を合わせた。

「何でしょう? チェスなら喜んでつきあいますが」
「残念だけど、それはまた今度ね」

 本当に残念そうにリツコはいう。彼女にはこれから、今日の試験のデータをまとめてゲンドウに提出するという仕事が残っていた。

「今日のことで、何か問題が?」

 起動もできないというのは問題以前の事柄という気もするが。いや、むしろ問題しかないというべきか。
 そう思いつつ尋ねたシンジに、リツコはあっさりと首を振り、

「問題はないとはいわないけど、それを解決するのは私たちの仕事。あまり気にしないで」

 彼女なりに、シンジの立場を慮っていってくれているらしい。彼はありがたくその好意を受けた。
 儀礼的に、今日はご苦労様、いえいえどうも、といったやり取りが交わされた後、彼女は本題に入った。

「あなたはお母さんの――碇ユイ博士について、どのくらい知っているの?」

 何気ない口調だが、目つきは鋭かった。そもそも、忙しい中をこうして尋ねにきているくらいだから、ただの世間話であるはずもない。

「偉い学者だったということくらいしか知りませんが。おぼろげな記憶でよければ、まぁそれなりに優しい母親であったとも思います」

 多少、記憶に美化があるかも知れませんけど――と、シンジはあっさりと答える。

「ユイ博士が何を専門としていたかは知ってるかしら?」
「生体工学やら形而上生物学やら、とにかく生命に関する事柄を扱っていたらしいことは、少しだけ」
「具体的な内容は?」
「当時三歳の子供に一線級の学者の世界が理解できるはずもないでしょう。それに、ご存知かどうか、父は母に関する記録は写真に至るまですべて破棄してましたので」
「――本当に、何も知らないの?」

 一際目つきを鋭くしたリツコに、シンジは肩をすくめつついった。

「エヴァの設計に母が加わっていたことくらいしか知りませんね」

 まったくどうでもよさそうに、しかし彼は決定的な一言を口にしていた。
 リツコはしばし沈黙していたが、その表情から、シンジは彼女が求めていた答えを得たことを知った。
 ややあってから、赤木リツコは平坦な声音でいった。

「――三歳の子供には理解できなかった、といったわね。理解はできなくとも、覚えてはいるの?」
「母が『事故死』したときのことであれば、あるていどは。記憶力にはそれなりに自信がありますので」

 これまたあっさりと、シンジは彼女の求める答えを放り出していた。

「…………」
「…………」

 奇妙に重たい沈黙が落ちる。
 リツコは表情を殺していたし、シンジはそれがただの昔話であるという風に平然としていた。

「あなたは……」

 一分半ほどの静寂の後、リツコは口を開いた。噛み締めるような、深い声音だった。

「それと知っていて、エヴァに乗ったの?」
「親が車に乗っていて事故死したからといって、以後車に乗らなくなる人間というのは珍しいかと思いますが。それに、何分昔のことです」

 シンジの返答には時差がない。
 いや、省みてみれば、彼との対話で答えるまでに間があったことはないようにリツコは思う。
 答えに詰まるのは、いつも年長であり学識者であるはずの自分たちの方だ。

「…………」

 何故かはわからないが、リツコは唇の端に微笑が浮かぶのが自覚できた。
 正体不明の昂揚、説明不可の喜びが湧き起こっている。
 準備してきた甲斐があったわね――彼女は心からそう確信しつつ、持参していた書類ケースをシンジに差し出した。

「何かの伝達ですか?」

 首を傾げつつ、シンジはそれを受け取る。書類ケースはかなりの厚みがあった。
 目線で問いかけると、リツコはうなずいてくる。彼はケースを開き、中身を確認した。
 古ぼけた装丁の本が数冊に、何枚かの書類が入っている。

「『解析数学概論』、『生命諸説』……?」

 どう見ても大学の講義で使われるような堅苦しい題名に、シンジは眉をひそめた。書類の方は、何かのレポートらしい。

「時間がかかっても構わないわ。全部読んで見て」

 シンプル極まる命題であった。
 シンジは本格的に顔をしかめ、

「読むのは結構ですが、理解できるとも思いませんが」
「理解もしなさい。必要なら、他にも何冊か関連書籍を用意するわよ」
「なかなか無茶をいいますね」
「あなたなら不可能だとは思わない。別に、高校三年間大学四年間で学ぶすべてをすぐ身につけろ、というわけではないの。ただ、そこにある本とレポートだけは理解なさい、そういってるだけよ」
「かなりの難行だと思えるのは気のせいでしょうか」
「エヴァとシンクロするよりははるかに簡単なはずよ――あなたにとってはね」

 皮肉と取るべきか賞賛と取るべきか、とっさにシンジは図りかねた。
 リツコの表情を確認する。
 ――尚更彼女の意図がわからなくなった。
 彼にはまったくもって不可解なことに、赤木リツコはひどく楽しげな様子であった。

「……これが僕の仕事というわけですか」

 ため息混じりの問いかけに、リツコは平然と頭を振る。

「いえ、違うわよ?」
「はい?」
「私の趣味よ」

 厳かな断言。
 仕事ではなく趣味だとは、まさによくいったものであった。
 だが、だからこそ――碇シンジは、彼女が芯から本気であることを確信した。
 ……意外な気分は、たしかにあった。
 公私の区別を厳格につけるはずの赤木リツコが、他人を趣味に付き合せるとは。
 だが、困ったことに、それと堂々と明言してしまうような人間が、彼は嫌いではない。

「――時間がどれほどかかるかは保証できませんよ?」

 最終確認のつもりでいっておく。
 リツコは躊躇いもせずにうなずいてくる。
 応じて彼は、ただ、諦観を多量に含んだため息をついた。

 

 

 それじゃまた今度、といって、リツコは席を立った。
 やや呆れたようなシンジの視線を背中に感じながら、執務室に向かう。仕事はまだ山ほど残っていた。
 自分がどうしてこんなことをしているのか、彼女はよく理解できていない。
 ただ、そうして見たら面白いだろうな、と思い始めると、どうにも止まらなくなった。要はそれだけのことだ。
 まったく不条理なことで、彼女は自分自身のやりように苦笑していた。
 ――彼にはわかるのだろうか。
 今しがた手渡された本とレポートの持つ、その意味が。
 実のところ、本の方にはそれほどの意味はない。あれはあくまで、最低限備えておかねばならない知識を詰め込むためのものだ(それとて中学生には破格に荷が重い物であることは違いないのだが)。
 リツコが本当に彼に読ませたかったのは、原稿用紙に換算して二十枚分ほどのレポートの方にある。
 セカンド・インパクト以前に書かれたそのレポートを探し出すため、リツコはかなりの苦労を払ったものだ。
 MAGIはもちろん各大学や研究機関のデータベースを手当たり次第にひっくり返し、今朝になってようやく見つけ出したのである。
 プリントアウトしたそれに、リツコはあえて執筆者の名を記載しなかった。
 内容は何ということはない。一介の大学生が、在学中に書き上げた論文である。リツコから見ても少々粗が多く、学術的な価値や論理の整合性は、道理をわきまえた学者なら無視してしまう類の物だろう。
 ――だが、ネルフの枢機を知る者ならば、決して無視はできない。
「魂の概念に見る生命発生の経緯」と題されたそれこそは、碇ユイが書き上げた最初のレポートなのだ。
 リツコはまったく、自分の行動について理解に苦しんでいた。
 だが不思議と、後悔だけはしていなかったし、これからもしないであろうことを確信していた。







続劇


後書き

 少年期第五話です。
 リツコさん大活躍。おかしーなー、ラミエル登場に備えてレイの出番を増やすはずが。
 この作品では妙にレイが書きにくい気がする今日この頃。
 あ、ちなみに、大神大尉と速水中尉については深く考えないで下さい。
 ちょっとしたジョークで名前を持ってきただけなんで、別段女ばかりの戦闘部隊の隊長だったり人類の決戦存在だったりはしませんので(笑)。

 

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