脳神経をちりちりとした電流が乱舞している。
 碇シンジはそんな錯覚を覚えていた。
 悪い気分ではない。
 頭をフル回転させて解を求めるという作業は、さほど知的活動に価値を置いているわけでもない彼にとっても心地よい刺激ではあった。
 ただ今回の場合は――と、彼は嘆息する。解を求めるための基礎知識が絶望的に不足しているのが、唯一にして最大の難点だ。
「解析数学概論」と題されたハードカバーを睨みながら、碇シンジはこめかみをとんとんと指で叩いた。仕草にさほどの意味はない。ただ、頭蓋にささやかでも物理的な衝撃を与えると、煮詰まりかけた頭がわずかに冷える。
 それにしてもつくづく思うのは、赤木リツコはよほど自分を買い被っているらしいという事実だ。
 英才教育を受けたわけでもない十四歳のガキに、大学の専門教育で用いられるような学術書を与えるなどと――あまつさえ、それを理解しろと命じるなどと、とりあえずまともな常識人のすることではない。教育者としてははっきり無能の烙印を押される所業だ。
 いや、彼女は教育者ではなかったか。シンジはそのことを洞察していた。
 赤木リツコの真意について、彼はありていにいって正気を疑いたい気分になっていたが、別の部分ではかなり皮肉な見解に達している。
 ――つまりは好奇心。興味だ。
 どうも、ひどく頭が切れるガキという印象を与え過ぎたようだ。
 碇シンジは自分を卑下する習慣はなかったから、己の知的才能についてもあるていど明確に把握していた。
 少なくとも、理系的な才能――特に演算に関わる能力については、まぁ天才的と称してもそれほど異論は出ないだろうと自覚している。
 小学校への入学以降、彼は算数のテストで不自由をした記憶はない。
 四則計算ならば、それが十桁だろうが二十桁だろうがコンマ以下の単位で解答を導き出せる。どういう思考でそれが可能となっているのかは自分でもわからないが、とにかく計算式を見た瞬間に解答が頭に浮かぶのだ。必要な公式が思考ルーチンに組み込まれているというべきなのかも知れないが、あいにくと脳医学にも心理学にも知識がない。
 反面、だからといってどうだという気もしている。一世紀前ならいざ知らず、今時100円も出せば購入できる電卓と等価というわけだな、などと判断してもいる。能力はしょせん道具だという認識が、彼にはあった。将来的にそれを生かせる職業についたなら、そしてそれによって何か偉業でも成せたのならば、そのときこそ天才たることを誇れるだろうが、現状における未来図とはすなわち夢想の領域でしかない。そして碇シンジは、どんな意味でも夢想に酔える性格ではなかった。
 ところが赤木リツコは、その道具の出来の良さを(傍迷惑なほどに)高く評価し、それがどこまで応用できるものかについて関心を抱いているものらしい。
 彼女の行動について、シンジはそう解釈していた。
 教育者ではなくあくまで科学者。
 メンタリティでいえば、猿に棒と箱とボールを与え、天井から吊り下げられたバナナをどう取るか観察しているのと大して変わるまい。
 それも、社会的にはまったくといっていいほど意味を成さない、ごく私的な好奇心に基づく私的な実験だ。
 であれば、こちらには応じる義務などないはずだが、あいにくと相手はこちらの生殺与奪を握っているらしい組織の幹部だ。私的だろうが公的だろうが反抗するのは好ましくない。
 何より、下手な理屈をつけて行動を正当化するのではなく、私的な興味――本人曰く「趣味」――に付き合えと明言した彼女の性格に、シンジは好意すら抱いていた。
 洒落ですませられる範囲のエゴイズムは、決して嫌いではない。多分、自分にはもっとも欠けている資質だからだろう。

「やれやれ……」

 難解な文章を目で追い、理解できない部分は字面と文脈からその意味を類推しつつ、シンジはため息をつく。
 なまじあるていどが理解できてしまうあたり、エヴァのシンクロなどよりよほど神経が疲れる。
 まったくの不可能事であれば「できない」という結論がすぐに出るのだが、今の場合は結論に至る困難な道程が導き出されてしまう。つまり、まったくの不可能ではないことがわかってしまうのだ。その意味では、赤木リツコはまったくもって正しい認識を――「エヴァとシンクロするよりよほど簡単」、という――有していたという他はない。
 ゼロより一は確実に多い、という現実論からすればまさにその通りだ。
 ああ、そういえば、とシンジは腕時計を確かめた。
 あと三十分で日付が変わる時刻だった。
 ――そろそろ作戦開始時刻だったか。
 状況は随分と切迫しているらしいが、詳細については彼は知らされていない。特に知りたいとも思わなかった。後日になれば――そして彼にその権利が認められたなら――悠長に分析する機会も与えられよう。しかし現状で、本を読む以外に建設的な何事もなし得ない人間が首を突っ込んで、愉快な気分になれるとも思えない。
 であれば、せめて「神様、何とぞ人類に勝利を」とでも祈るべきか?
 碇シンジは本の内容を頭に叩き込むのと同時並行でそう考え、一秒と要さず棄却した。
 あいにくと彼は、神に祈って何事か展望が開けた経験を持たなかった。

 

 

 

 

 

 

 

少年期
7th age

七瀬由秋

 

 

 

 

 

 

 

 二子山ではすべての作戦準備が整えられていた。
 日本全国の発電所より引かれたケーブルから膨大な電力が流れ込み、砲搭に活力を吹き込んでいく。
 後年、この作戦が半日足らずで実行されたことに、ある種の奇跡を見出す評論家は少なくない。
 セカンド・インパクト以前の日本であれば、それはいかなる意味でも不可能なはずであったからだ。
 日本特有の官僚的しがらみをクリアし、国民感情や生活への影響、地方議員の糾弾といった政治的な問題も無視したとしても、実務の面で問題が山積することは想像に難くない。長大なケーブルが断線したかも知れず、そもそもその敷設に巨大な労力と時間が必要となったであろう。
 それが可能となったのは、ネルフの権限と日本政府の協力、戦略自衛隊の作戦能力の高さといった要素もあったにせよ、何より大きかったのはセカンド・インパクトによって「都市とそれ以外」の区分がかなり明確になっていた事実である。
 第弐新東京や京都といった、数えるほどの大都市にのみ人口も産業も集中していたため、そこさえ押さえれば後は何とかなってしまうのだ。
 地方都市や中小村落が極端に弱体化し、大都市圏のみがどうにか復興しているという歪な国内事情が生んだ、皮肉な恩恵であった(もっとも、これは他の先進諸国でも大差はなかったのだが)。
 むろん、こうした事情を勘案したとて、この作戦の総指揮を執った葛城ミサトの手腕が水際立っていたこともまた紛れもない事実である。彼女は分秒単位で発生するトラブルを的確に処理し、日本中に散った部隊を管制することで、ヤシマ作戦を現実のものとして見せたのだ。
 そして、その破天荒な作戦を認可し、それに必要な素地――政財界への根回し、予算など――を人知れず整えて見せた碇ゲンドウもまた、全面的に賞賛されてよい。
 ゲンドウはとかくの噂はある男であったが、才ある人間を見出し、それに適応した職務を割り当て、必要な権限のすべてを委ねる器量を持ち合わせていた点で、まさに一級の組織管理者であったといえる。第三使徒戦での無謀な命令だけは弁護の余地がなかったが、それ以外での彼は間違いなく有能極まる総司令であった。
 陣頭指揮に立ったミサトの声望が日を追うごとに増す一方で、水面下の分野においてこそ卓絶していたゲンドウの声望が下落の一途を辿っていたことは、いささかならず不当と評すべき面もあった。もっとも、碇ゲンドウは目的を果たすに当たって後ろ暗い手管も平然と行使していたし、それによって周囲にどう思われようが歯牙にもかけなかったのもまた事実なのだが。
 二子山山頂の指揮車内で、現地指揮官を任せられた大神大尉は無言で腕を組んでいた。
 作戦総指揮者たるミサトは、いつも通りネルフ本部の発令所で全体を管制している。絵に描いたような実戦型、現場気質の彼女の性格からすれば、二子山に臨時の作戦司令部を置きたかったようなのだが、それは現実が許さなかった。第参新東京全域に布陣した国連軍の装甲部隊、そしてケイジで待機するエヴァ零号機をも管制するには、総本部の発令所に陣取る以外に手段がなかったのだ。
 大神が代理として二子山の現場指揮を執るのは、彼の能力に対するミサトの信頼ももちろんだが、作戦部に籍を置く以上は国連軍派遣将校もネルフ職員も同等に扱うという意思表示に他ならない。

「全加速器、運転開始」
「強制収束器、作動」
「全電力、二子山増設変電所へ」
「第三次接続、問題なし」

 周囲からは続々と、作戦が順調に推移しつつあるという報告がなされてくる。
 大神は無言のままうなずいた。
 この状況では、口を差し挟むべき何事もない。実際の作業に当たる兵士と技術将校、そして照準を司るMAGIの性能を信じるだけだ。別の表現を用いるならば、士官が逐一口を差し挟む軍隊など、三流以下と評すべきである。そして、大神はどんな意味でも三流という表現からは程遠く、その部下も無能な集団ではなかった。
 視線の先のモニタには、彼がその運用を委ねられた自走陽電子砲が映し出されている。
 戦略自衛隊技術研究所がその技術の粋を集めて開発した光線砲――とはいえ、砲身だけ完成していたところを応急の自走砲台に据えつけられたそれは、お世辞にも見栄えがよろしくない。ベースとなったのはエヴァの輸送用トレーラーなのだが、本来エヴァが横たえられる荷台部分に無理やり載せられた砲身には配線や鉄骨が剥き出しで、いかにも応急の仕事という観が拭えなかった。
 もともと、ATフィールドをも貫けるほどの出力をもって超々々距離射撃を行い、使徒を殲滅するという401号作戦案は、大神や速水のような派遣将校たちから出されたものだった。あの悪夢のような第三使徒戦の最中で、彼らは自分たちの――つまり国連軍の動員し得る兵力で使徒を打倒する計画を練り続けていたのだ(これは従来からのネルフ作戦部職員と国連軍派遣将校らの価値観の相違というものであろうが、前者があくまでエヴァ主体の殲滅作戦を想定していたのに対し、後者は通常戦力に比重を置いた作戦案を多く提案している)。
 シミュレーションの段階では、超高出力の砲を使うにしてもエヴァが取り扱えるサイズのスナイパーライフルに仕立ててはどうかと唱える作戦部職員もいた。単にエヴァの起用にこだわっただけではなく、それなりに有力な根拠もあってのことだ。つまり、ただの自走砲を運用するより、この世のどんな車両よりも敏捷な機動力を備えたエヴァに持たせた方が、平地だろうが山岳地帯だろうが縦横に活用できる、というわけである。
 しかしこれには、即座に反対意見が出された。
 第一に、その考え方はすなわちエヴァをただの移動砲台としてしか見なしていない、ということがあった。エヴァの真価はあくまで白兵・格闘戦能力にあり、遠距離砲撃戦はその最大の長所をまったく完全に殺してしまう。それに、ただの移動砲台と見なすにはエヴァはあまりに法外な(スペックの面からもコストの面からも)兵器だった。
 特に今回のような作戦の場合、あまりに時間に余裕がなかった。
 万が一にも動作不良で発射できなかった場合、どうするのか。一旦退却し、修理してもう一度出撃する、あるいは新たな作戦を練り直す時間など残されてはいない。あとはもう、二子山を駆け下りて特攻するくらいしか選択肢はなくなる。
 結局、401号作戦案はほぼ原案のまま通り、今回の実行に際してもその概要は手付かずのままだ。
 未完成だった自走陽電子砲は当初のコンセプト通りの設計で無理やり完成を早められ、運用されることになった。日本全国から集めた電力を制御し、使徒のATフィールドを貫けるように出力系統を強化されたのと、照準系統をMAGIに接続した点だけが、ネルフの施した改良点である。
 ミサトが作戦案に加えた訂正個所は、もっと別の点にある。

「最終安全装置、解除!」

 オペレーターの報告が上がる。
 大神大尉は一つうなずき、ヘッドセットのマイクの位置を確かめた。

『目標に異変あり!!』

 通信機が悲鳴のような声を奏でたのはそのときだった。

『内部に高エネルギー反応! これは……!』

 紛れもなく使途の加粒子砲発射の予兆だった。それが狙うところは、今更考えるまでもない。
 いかなる索敵手段を有しているのか、使徒は二子山の動きに気付いたのだ。あるいは、膨大な電力、エネルギーの集中を感知したのかも知れない。
 狙撃地点は使徒の加粒子砲射程範囲外と見なされていたというのに――!

「……よろしい」

 指揮車内のオペレーターたちが驚愕と恐怖の呻き声をあげる中、大神は平然とそう呟いた。
 予想の範囲内。
 それはまさに、昼間の会議でミサトが指摘し、大神たち自身が検討した可能性の一つに含まれていた。
 周囲の不安をよそに、若きエリート士官は愉快な気分すら覚えていた。決して有利な事態などではないはずなのに、心が浮き立つのを抑えられない。
 ――あの作戦部長、やはり只者ではない。
 そう思った。
 こうまで予想通りだと、小気味よいほどだ。それでこそ命を預ける甲斐がある!

「撃て!」

 委細構わず大神は命じた。
 ミサトとの打ち合わせ通りの命令だった。
 万が一にも使徒が自走陽電子砲の存在に気付き、攻撃を仕掛けてきた場合。
 なすべきことはただ一つ、最速の手順で陽電子砲を発射し、それを可能な限り継続すること。
 内容はシンプルだが、今まさに自陣を吹き飛ばそうとする使徒を目前にしてそれを決断することは、まったく容易なことではない。よほど胆の座った指揮官でなければ、退避の誘惑に駆られて貴重な数秒を浪費しただろう。
 しかしこのとき、大神大尉は一瞬の躊躇もなくその命令を発していた。
 忠実なオペレーターと技術将校たちは、完璧なまでの手順でそれに応じた。
 大神の指令が到達したその次の刹那、自走陽電子砲が溜め込んだエネルギーのすべてを吐き出す。
 モニタが強烈な光で満たされる。
 使徒が加粒子砲を撃ち放ったのは、それとまさに同時だった。

 

 二子山山頂と第参新東京市中央。
 その二つの地点から、それぞれ光の帯が伸びて行く。
 相手を破壊せんとする意思を込めて長大な光線が大気を裂いた。
 二つの地点を直線距離で結んだ場合のほぼ中間点、芦ノ湖の湖上で二本の光の帯は絡まり合った。
 お互いを構成する粒子が干渉し合い、ぶつかり引き合い反発しよじり合って、歪な螺旋を描く。
 一瞬にも満たぬ邂逅の後、二本の粒子の帯はお互いが決して合い入れぬ存在であることを気付いたかのように、首を捻じ曲げてあさっての方角へと突き進んで行った。

 

 初弾は外れた。
 加粒子の干渉を受けた陽電子の光線は、目標たる使徒からはるか手前、第参新東京の市街地にも届かない山間に着弾した。
 もちろん使徒の加粒子砲も的を大きく外している。陽電子砲と同じく、芦ノ湖から少し離れた山間に着弾、盛大な火柱を立てている。

「第二射、急げ!」

 大神は間髪いれず命じた。
 指揮車のモニタに映った使徒の姿を睨みつける。
 街の灯が落とされた中、ただ月と星の光を映すだけの正八面体の巨大な結晶。
 おそらくはあちらもすぐさま第二射を撃とうとするはずだ。
 だが、こちらがヒューズの交換・砲身の冷却・再照準などの手順で時間をロスするのと同様に、あちらもあちらで射撃まで時間を要する。
 ――使徒も万能ではありません。作戦会議の席で、葛城ミサトはそういった。これまでの情報から判断する限り、あの使徒は永久に加粒子を放ち続けることが出来ないのがわかります。また、一度発射してしまうと、二撃目には数秒の時差があります。
 使徒のエネルギー源は、S2機関理論に基づいていると推測されている。詳細まではさすがに専門でない大神にはわからないが、とりあえず簡潔に理解するところでは、それは文字通り無限のエネルギーが湧き出す動力炉だという。
 しかし、例え燃料が無限でも、それを運用する使徒の体には限界がある。自身の放つ熱量に、自身が耐え切れなくなる恐れがあるのだ。もし仮に、使徒が無制限のエネルギー放出に耐え得る体を有しているというのなら、今頃は第参新東京市全土が消滅しているはずだ。それができないというのは、歴然とした限界を示している。こちらの陽電子砲が、制御を超えて連続発射を行えば砲身が破裂してしまうのと、事情はそう変わらない。
 水のポンプとタンクの関係を考えればわかりやすいかも知れない。タンクに溜められた水量が多かろうが少なかろうが、そこから一定時間内に汲み出せる量はあくまでポンプの性能による。つまりそういうことだ。
 むろん使徒の能力は、こちらの陽電子砲の性能を大きく上回っている。
 威力は互角としても、連続発射に伴う時差ははるかに短い。
 しかし、使徒はもういくつか、その特性上どうしようもない欠点を秘めている――ミサトはそう指摘した。

『使徒内部に再び高エネルギー反応……!』

 モニタ映像の中では、使徒の体が再び輝きを取り戻しつつあった。
 周囲のオペレーターが息を呑む。
 こちらの陽電子砲は、まだ砲身の冷却すらすんでいない。
 盾になるようなものはなく、逃げ出しても手遅れだろう。つまり、このままでは二子山の部隊は自走陽電子砲ごと消滅する。
 しかし――
 大神はさすがに冷や汗を流しながらも、冷静さを失っていなかった。
 いっそ傲然たる態度で、腕を組んで指揮車の中央に佇んでいる。士官の見栄というものだが、彼にはそうした態度を取れる根拠が存在した。
 計器類は忙しく回転している。
 使徒内部のエネルギー反応がどんどん高まっているのだ。
 モニタ映像の中、夜目にも鮮やかに輝くクリスタルの光沢。
 時折稲光に似たエネルギーの余波を走らせるその表面に、第参新東京市各所に布陣した装甲部隊が砲撃を開始したのはその瞬間だった。

 

 まず最初に発砲したのは、便宜上「A−07」及び「G−63」と名づけられた二つのポイントに、それぞれ六両ずつ配置された戦車隊だった。
 戦車内部に人員は乗り組んでいない。
 砲撃はすべてオートモードによってなされている(ちなみにこの場合のオートモードとは、例えばコンピュータが自律判断で行動するような類の物ではなく、ただ単に事前に射撃装置に入力された設定をなぞるだけの初歩的なものである。行える動作も「二百秒後に発砲」「前進」といった単純なものに限定される。航空機のオートパイロットと大差はない)。
 照準は、砲手が退避する以前から使徒に合わされていた。何しろ的が大きいので、大雑把に砲塔を固定しておくだけでも外す心配はない。加えて、直下にシールドを突き出して掘削作業に励んでいるため、使徒は移動できないのだ。
 都合十二発の砲弾が、ほぼ同時に命中する。
 ATフィールドの発生はなかった。砲弾のすべては使徒の体表に着弾する。これもまた、作戦部が見出した使徒の欠点の一つだ。どんな存在であれ、攻撃と防御を同時にはできない。強大な加粒子砲を放つために持ち得るすべてのエネルギーを集中している使徒に、ATフィールドを張る余裕はないのだ。
 目に見える戦果こそなかったが、空中に浮かぶ正八面体のクリスタルが大きく鳴動した。
 連射モードに設定されているため、砲撃は絶え間なく続いている。
 遠く離れた二子山で第二射の用意に手間取っているだけの(いや、むろん現地では必死に作業を急いでいるのだが)自走陽電子砲と、今現実に至近から攻撃してきている十二両の戦車。
 使徒は後者を、さしあたって迎撃すべき標的に定めた。
 膨大なエネルギーを孕んだ光の帯が、まずはA−07地点に布陣した六両の戦車を直撃した。

 

「餌にかかった」

 大神は呟き、安堵の息を吐いた。

 

 同時刻、ネルフ本部発令所でも、葛城ミサトが指令を下していた。

「零号機、発進!」

 すでにすべての出撃準備を整え、リフトに直立していたブルーの機体は、電磁カタパルトの推力を得て、勢いよく地底の施設から駆け上って行く。
 ミサトは背後を振り返り、自分と同様メインモニタを眺めていた善行少佐にすまなさそうな表情を浮かべた。

「申し訳ありません、少佐。初弾で決められれば一番よかったのですが……」
「構いませんよ」

 善行少佐は、期せずして大神と同質の微笑を浮かべていた。

「攻城戦で戦車が磨り潰されるのは当然です。乗員に被害がないのでしたら――それは論議の余地なく『軍事的に許容できる被害』という奴です」

 明らかな賞賛とともに彼はうなずき、複数のサブモニタに映し出される戦車隊の姿を――彼の配下にあった鋼鉄の塊を眺めやった。
 加粒子砲の直撃を受けたA−07地点の戦車は、ほんの一瞬で蒸発している。
 市街地でも再開発中の区域、つまり先だっての第三及び第四使徒戦で廃墟とされた区画に布陣していたため、周囲への被害はない。というより、使徒の陣取っている周辺一帯はほとんどが再開発区域で、稼動している兵装ビルが皆無だったからこそ、ミサトは善行の装甲部隊を用いざるを得なかった。

「使徒内部に高エネルギー反応!」

 マヤが報告する。
 A−07地点に続いて、G−63の戦車隊を撃滅しようというのだろう。
 だがそのときには、さらに別の二つのポイントに布陣した戦車隊が、砲撃を開始していた。やはり、すべてオートモードで設定された無人の攻撃である。
 使徒は苛立ったように、それらの戦車隊を攻撃し、蒸発させて行く。
 だが、それでも散発的な砲声は止まらない。
 二十ヶ所に布陣した戦車隊すべてが、各々時差を置いて砲撃を開始しているのだ。
 もちろん使徒はそれらを一撃で吹き飛ばして行く。強大な加粒子砲は、直撃した戦車を苦もなく破壊する。だが、十分な距離を置いて布陣し、時差を開けて砲撃を開始している戦車隊に逐一反応する形なので、一度にすべてを壊滅させることはできない。
 それはまるで、足下に纏わりつく野犬の群れに、巨象が癇癪を起こして遮二無二暴れ回っているように見えた。
 そして、

「零号機、地上に到達します!」

 ――極めつけの「歩兵」の突撃。
 ちょうど八つ目の戦車隊を粉砕していた使徒の体表が、まるで怯んだように鳴動するのが見て取れた。

 

 零号機は地上のリフトの射出口から、文字通りの意味で射出された。
 リフト付属の拘束具を、途中で解除されていたのだ。
 結果、慣性の法則に従い、零号機はトランポリンで跳ね飛ばされたように宙に舞った。
 むろんレイは、ただ放り出されただけではない。
 射出の瞬間にリフトの床を蹴り、零号機は使徒に向けてまさしく砲弾のように飛び出していた。
 着地したのは、使徒の数十メートルほど手前。エヴァと使徒のサイズだと、文句なく接近戦距離である。
 使徒も黙って零号機の接近を許したわけではなかった。
 八つ目の戦車隊を蒸発させた光線をそのままスライドさせ、零号機を狙う。
 レイはとっさにATフィールドを展開させ、それをやり過ごす。
 使徒が万全の状態で砲撃していたなら易々と破られていただろう。レイのシンクロ率では、満足な強度のATフイールドは張れない。だが、放出から数秒を経ていた加粒子砲は、威力をすでに減じかけていた。
 強大無比の光線は、かろうじてではあったが、零号機のフィールドを突破する以前に途絶えてしまった。
 零号機は突進する。
 千載一遇の好機だと、誰に教わるまでもなく理解できていた。
 そもそも使徒が戦車隊にかかずりあっていなければ、リフトで射出された瞬間に撃破されていたはずだ。
 ――古典的な突撃戦術の応用。葛城ミサトはミーティングでそう説明した。
 まず砲兵が叩き、歩兵が突撃する。近代以降、世界各国の軍隊が繰り返してきた常套手段だ。
 陽電子砲の一撃で勝負が決まればそれでよし、仮に外したり、使徒が射程距離外から迎撃してきたとしても、二段目の作戦が発動する。
 内容は至ってシンプル。
 事前に第三新東京市各所に展開させた装甲部隊が、各々若干の時差を置いて砲撃を開始する。
 もちろん使徒は反撃してくる。せざるを得ない。効果のあるなしに関わらず、あの使徒は一定以上の質量とベクトルに対し、自動的に反応してしまうのだ。
 歩兵――零号機が発進し、突撃する余地は十分にあった。接近戦のエヴァと超々々距離射撃の陽電子砲、そして無人の戦車群。これらを有機的に連携させることが、ミサトの提唱した「ヤシマ作戦」だった。

「はぁっ……!!」

 そしてこのとき、レイは上官の構想通りに突撃していた。
 かつてなく昂ぶった戦意に呼応するように、シンクロ率は過去最高の47%を突破している。傷は完治しているとまではいえないが、苦痛は無視できる範囲に留まっている。
 肩からプログナイフを引き出し、その動作のまま振り下ろす。使徒は既に眼前に迫っていた。

「!!」

 その瞬間、使徒のATフィールドが発動した。
 ナイフは使徒の体表の直前で制止させられている。

「…………!」

 レイは歯を食いしばって、ナイフを突き出す腕に力を込めた。もちろんフィールドの中和は開始している。ただ、出力に根本的に差があるため、中和し切れていないのだ。いくらお膳立てを整えても、レイがいまだ未熟なパイロットで、目の前の使徒がこれまでで最強である事実に変わりはない。
 だが、それで構わない。
 ATフィールドを張っている間は、加粒子砲を撃てない。攻撃と防御は同時にできない。つまりは我慢比べだ。
 レイは刃よりも鋭く精神力を研ぎ澄ませ、ただナイフを突き入れることに意識を集中した。

 

 そのときすでに、二子山山頂の自走陽電子砲は第二射の準備を整えていた。
 すべてのエネルギーは再び砲身に集められ、MAGIの計測も完了。
 零号機と膠着状態に陥っている使徒、その体に狙点は合わされている。
 決着のときは来た。

「撃て!」

 大神大尉の号令が響く。
 自走陽電子砲が溜め込んだすべてのエネルギーを吐き出す。
 夜空を横切る光の帯は、目映く輝いていた。

 

『レイ! 退がって!』

 通信機から轟く作戦部長の指令。
 レイは反射的に刃を引いて、零号機をステップバックさせる。
 その瞬間、横合いから伸びてきた陽電子の光線が、眼前の正八面体を真横から貫いていた。
 展開されていた使徒のATフィールド、それを紙のように突き破り。
 光の帯は、完全に使徒の体を貫通した。
 しかしそれでも、使徒は完全に沈黙してはいなかった。
 MAGIの照準がわずかにずれていたのか、コアの予測位置がそもそも誤っていたのか、それは判然としない。
 いずれにせよ使徒は、その結晶体のような体に大穴を開けながら、なおも宙に浮かび続けていた。
 その体表に、ほんのわずかな、弱々しい稲光が走る。
 断末魔の足掻き。零号機か、二子山か、あるいはそのどれでもないどこかへ向けてか、とにかく使徒は残された最後の力を振り絞り、加粒子砲を放とうとしていた。

『レイ!』

 作戦部長の二度目の号令。
 いわれるまでもなかった。
 一度退がった零号機は、再び地面を蹴り、突撃する。
 加粒子砲を放とうとしていた使徒に、ATフィールドを張ることはできない。
 構えたナイフは吸い込まれるように、正八面体に開いた風穴に突き刺さった。
 クリスタルの内部をかき回すようにして、レイは腕を、手首を、ナイフを回転させる。
 固体のような液体のような、曰く言い難い手応えがレイには感じ取れた。
 長く短い、おそらくはほんの数瞬の沈黙の後。
 使徒の体内に潜り込んだ零号機の腕に、唐突に重みが感じ取れた。
 レイは慌てて零号機を後退させる。
 体表に生じた稲光は既に消失していた。正八面体の巨体が地響きと共に地面に落下し、瓦解する。
 ジオフロントに到達しかけていたシールドも、その回転を止めていた。
 ――この瞬間、第五使徒戦は終結した。

 

 スピーカーからは歓声が聞こえてきていた。
 発令所の映像を映し出す通信ディスプレイの中、満面の笑みを浮かべてこちらを見つめる作戦部長の背後で、オペレーターや将校たちが拍手したり両手を上げたりと歓喜を爆発させている。

『レイ、ご苦労様』

 ねぎらうその声も弾んでいる。
 はい、と彼女はいつも通りの顔と声で答えた。

『零号機に損傷はないわね? 戻ってらっしゃい。四番のリフトを使うといいわ』

 はい、と再びうなずく。
 素っ気無い応答にも作戦部長は気を悪くした様子もなく、報告は明日でいいから今日のところは帰ってぐっすり休みなさい、といった。
 レイはやはり、はい、と無表情でうなずいた。

 

 ……ドアを開けると、彼はやはり本を読んでいた。
 よほど集中しているのか、こちらに気付いた様子もない。
 控え室には、待機中のパイロットに戦況を知らせる意味もあって、ささやかながらMAGIに直結した端末が据えつけられている。簡易的にではあるが、発令所の掴んでいる各種情報・映像を得ることができるのだ。しかし彼、碇シンジは、それにまったく興味を抱かなかったようだ。端末のディスプレイは電源を入れられることもなく沈黙している。
 プラグスーツにLCLに濡れた髪のまま、彼女は特に意外に思うでもなく彼を見つめた。
 無言の数秒が流れる。
 シンジはいつか見た光景をなぞるように手元の本に目を落とし、とんとんとこめかみを指で叩く。状況を考えれば無神経といってよいはずの仕草に、何故かレイは安堵した。
 ベンチに腰掛けた彼は、すぐ横に未開封の缶コーヒーを置いていた。すでに何缶か飲み干していたらしく、部屋の片隅のゴミ箱には空き缶が放り込まれてある。
 彼は手を伸ばし、未開封の缶コーヒーを取り上げかけて、そこでようやく彼女の存在に気付いたようだった。

「…………」
「…………」

 睨むようにして互いの顔を見詰め合う。いや、睨むというより、ただ「見る」だけの、視線のやり取り。
 碇シンジは、いつもの「当たり障りのない挨拶」「常識的な態度」を、少なくとも綾波レイに対しては取り繕う必要を認めなくなったようだ。
 お疲れ、の一言もなく、彼は口を開いた。

「結果は」
「勝ったわ」

 無味乾燥な、ただの質問と、ただの返答。
 シンジは淡々とした表情のまま、腕時計を確認した。午前零時四十二分。今から帰れば四、五時間は眠れるな、と呟くのが聞こえた。
 読んでいた本を鞄に突っ込んで小脇に抱え、ベンチから立ち上がった彼を、レイは引きとめなかった。ただ、妙に心が沈むのが不思議だった。いや、それをいうなら、シャワーも浴びず、着替えもせずに、控え室に足を向けた自身の行動が、そもそも不可解だった。
 無言で見送る中、欠伸まじりに部屋を出て行こうとしたシンジが、不意に足を止めた。
 右手に持っていた未開封の缶コーヒーを、ちらりと眺める。
 これから帰って眠るのにどうしたものか、と悩む風であったが、ごくあっさりと彼は結論を出したようだった。

「綾波さん」

 呼びかけと共に、缶コーヒーをひょいと投げ渡す。
 慌ててそれを受けとめたレイに、碇シンジは端的に告げた。

「あげる」

 彼はふっと微笑した。
 どこか冷たく、乾いた、しかし裏表のない。それは確かに微笑だった。
 綾波レイが、おそらくは初めて見た、碇シンジという少年の「素顔」の微笑。
 驚いて目を丸くしたレイの表情に、彼は特に感興をもよおした様子もなく、そのままあっさりと踵を返した。
 ドアが開かれ、また閉じられる。
 遠ざかる足音が完全に聞こえなくなるまで、レイはいつまでも佇んでいた。ありふれたただの缶コーヒーをその手に抱えながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 第五使徒殲滅。
 三体目の使徒撃破。
 最高シンクロ率の更新。
 囁かれ始めたエースパイロットの称号。
 ……缶コーヒー 一本。
 それがこの日、綾波レイの得た「戦果」のすべてだった。

 

 

続劇


後書き

 第五使徒戦終了ー。
 主人公のはずのシンジ君、冒頭と終りにしか出番なし。
 そのくせ妙にレイといい雰囲気になってるあたりがさすが一応主人公(?)。
 まあ、本人の性格が性格ですので、LRS一直線という筋書きにだけはならんはずですが(笑)。

 

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