――つくづく、自分がこの街にいる理由がわからなくなってきたな。
 碇シンジはかなり皮肉っぽい気分で自己の立場を再確認していた。
 もともと彼がこの街に引っ越してきたのは、父が「来い」という手紙を寄越したからだ。
 当初は同居の誘いかと思ったが――記憶にある父の人柄からして、それはそれでかなり違和感のある推測ではあったが――、実際に来て見るとただ単に得体の知れないロボットのパイロットに選ばれたからだという。
 しかしシンジは父の(控え目に表現してもかなり一方的な)期待に添えず、実戦には到底出せないパイロット、否、パイロットの資格が致命的に欠けている素人だと事実によって証明してしまった。
 この時点で碇シンジがこの街に来た意味は九割九分消失したはずだが、とりあえず残りの一分で実験材料としての存在意義は認められたがために、そして曲がりなりにも人類の切り札ともいえる機密兵器に直に触れてしまったがために、彼は今もなお身柄を拘束されている。
 これで、何らかの実りがある実験データでも提供できているというのならまだ救いがあるのだが、赤木リツコから聞いた限りではさして有効な結果は出ていないという。リツコ曰く、エヴァ自体に未解明な部分が多いため、そもそも何が有効なのかすら手探りなのだそうだ。
 他方で、ネルフの対使徒迎撃態勢は一時期の苦境を脱して充実しようとしているらしい。つい先だっての第五使徒戦は、作戦的にはパーフェクト・ゲームといっても差し支えない結果だった(人員の損耗がなく、戦車五十両足らずの被害で使徒殲滅というのは、第三使徒戦を考えれば完勝というに足る)というから、大したものである。
 無為徒食の見本と化しているパイロットとしては、外野から拍手する以外に何が出来よう。
 自分の存在意義が、少なくとも父とネルフにとっては皆無に近いものになりつつあることを、彼ははっきりと自覚していた。
 クビになる日も近いかな、とも思っている――より正確には、クビになるだけで済むならもっけの幸い、と思っているのだが。
 実際、五体満足でネルフから放逐されるなら、それに越したことはない。
 後はどうなろうと知ったことか。
 ネルフが使徒に勝ち続ければ、彼は平穏な一生を送ることができるだろう。
 ネルフが使徒に負けたなら――
 それこそ知ったことではない。
 全人類が滅亡するのだから、悩むべき何事も残ってはいないだろう。死者は何物も悩まない。
 ……自分が何事か為すことで人類救済に貢献し得るというなら、碇シンジは迷わずそうしただろう。彼とて別に、厭世家を気取る趣味はないし、自殺願望があるわけでもない。
 しかし、あいにくと彼はまったくの無力だった。人類の存亡を賭けた戦いに、為すべき何事もなかった。
 そのことだけは、誰よりも明確に認識していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

少年期
8th age

七瀬由秋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 HRの二十分前には登校しておくことが、碇シンジが己に課した生活サイクルの一つだった。
 時刻にすれば、午前八時十分前後というところになる。ちょうど、全校生徒の登校がピークを迎える時間帯だ。
 教室に着くと、同級生たちに「おはよう」と声をかけつつ、まずは自分の机に向かう。彼の席は、窓際から二列目、前から四番目だ。
 その斜め前、窓際の前から三番目の席に、いつしか見慣れた蒼銀の髪が座っている。彼女はいつも、誰よりも早く登校してくるらしい。真面目云々というより家でやることがないからではないかと彼は思っていたが。

「おはよう、綾波さん」

 碇シンジは彼女にも声をかけた。
 相手が誰であろうと、とりあえずクラスメイトには挨拶をする、というのが彼のルールだった。大抵の人間は、きちんと挨拶をしてくる者に対し、悪い印象は抱かない。
 つい一週間ほど前まで、彼女はそうした挨拶に対し、わずかに目線を向けてくるだけだった。彼の方でも気にしたことはなかった。世の中には様々な人間がいると理解してもいたからだ。
 しかし今では、それは若干の変化を見せている。
 頬杖をついて窓の外を眺めていた綾波レイは、首を巡らせて彼を視界に収めてから、小さく応えたのだ。

「……おはよう」

 

 

 同日同刻、ネルフの総本部でも通常業務が開始されている。
 戦時ゆえ、昼夜の区別なく勤務している者が少なくないのはもちろんだが、事務や広報などの比較的官僚色の強い部局では定時の労働という概念がいまだに生きている。
 もっとも、これまで三度の使徒戦でいずれも勝利を収めた作戦部は、当然の如く昼夜の区別が消失している部局の一つであった。絵に描いたような実戦派軍人の葛城ミサトは、常在戦場という言葉を肌身で知っている。
 この日の朝も、二時間の仮眠を取っただけで職務に精励していたミサトは、執務室に一人の部下を迎えていた。

「――お偉方も、本腰を入れてネルフに協力するつもりになったようです。極東方面軍集団への臨時追加予算が認められました」

 速水アツシ中尉――国連軍からの派遣将校の中では、大神大尉に次ぐナンバー2的な立場にある青年将校は、数十枚の書類を差し出しながら報告した。

「それとこちらが、めぼしい連中の経歴です。とりあえず、四十名をリストアップして置きました」
「ご苦労様」

 真新しい階級章をつけたミサトは、書類――人物報告書の束を受け取りながらうなずく。
 第五使徒戦の二日後、彼女は三佐に昇進していた。国連軍でいえば少佐ということになる。三十歳前で少佐というのは、女性で、しかも一般大学出身者では異数の出世といえる。
 第三使徒戦以来の功績が公式に認められた――というのもたしかな事実であったが、これにはいくつかの政治的な事情も絡んでいる。
 つまり、国連軍からの強烈な後押しがあったのだ。
 もともと国連軍にとって、ネルフとは得体の知れない玩具(エヴァ)で予算を浪費する商売敵であった。これは、狭量な軍人の根拠なき差別意識であるとは、一概にはいえない。機密でその活動のほとんどを覆い隠し、実用性の不分明な巨大ロボットを主力に据える組織など、まともな軍人ならば好感を抱く方がどうかしている。
 そんなものに金を費やすくらいなら、ただでさえ装備が旧式化しつつある国連軍の方に予算を回せ――とは、当然の要求であった。むろんそこには、使徒なる人類の敵が来るというのなら自分たちこそが戦う、という気概も存在する。
 ネルフもネルフで、技術者偏重に過ぎるところがあり、職業軍人を軽んじる風潮があった。ミサトはゲヒルン(当時)の警備部から国連軍に出向し、専門的な軍事訓練はもちろん実戦経験も積んでいたが、そうした人間はあくまで少数派である。ともに国連に属し、ともに人類の盾たる使命を背負った両組織の関係は、ありていにいって最悪に近かった。
 それらの状況をかねてから問題視していたミサトは、第三使徒戦を契機に関係改善に着手し、その成果が大神や速水のような派遣将校であり第五使徒戦での善行少佐であったわけだが、それはあくまで現場レベルでの話――国連軍それ自体の全面協力を取りつけるには至っていなかった。
 それが、第五使徒戦において国連軍とネルフの本格的な共同作戦が成功を収めたことで、いささか風向きが変わった。
 外野からあれこれ文句をつけるよりも肩を並べて戦った方が得る物は大きい。そう考える者が、国連軍上層部でも多数派になったのである。自分たちの存在感も示せるし、対使徒迎撃戦に参加するのであるから、ネルフに振り分けられるはずの予算をいくらか回してもらうこともできる――彼らはそう計算したようだった。
 究極的な目的は、むろん対使徒迎撃戦の主導権を国連軍に取り戻すことであろうが、いずれにせよ積極的な協調態勢を取るのはお互いにとって損にはならない。
 となれば、現在十数名ほどでしかない派遣将校の枠も、順次拡大して行きたいと考えるようになる。人数はもちろん、階級の上でもだ。
 国連軍が葛城ミサトの昇進を後押ししたのは、そのためだった。ネルフ作戦部のトップが一尉(大尉)であっては、国連軍もそれ以下の階級の士官しか派遣できない。それなりに地位も声望もある士官を派遣できるようにするためにも、ミサトには昇進してもらわなくてはならなかったのだ。むろん、そうすることで彼女をネルフ内における親国連軍派に仕立てるという腹積もりもあるだろう。
 こうして、葛城ミサトは三佐となったわけだが、だからといって当人は特に嬉しがる風でもなかった。
 裏の事情をあるていど察していたというのもあるが、もともとミサトの眼中に栄達の二文字は存在しない。使徒と戦うことと勝利することこそが、彼女の生き甲斐である。極端な話、使徒と戦えるならば、それが末端の一兵卒であっても文句はない。命の尽きる最後の瞬間まで使徒と相対し、戦い続けられる立場こそが、葛城ミサトの求めるすべてであったのだ。対使徒迎撃戦の総指揮官というべきネルフ作戦部長の地位は、彼女にとって国連全軍の総司令官よりも重きをなす顕職であった。
 彼女の志望は軍人としてはいささか歪なものであったかも知れないが、その姿勢は若手士官や下士官兵からは尊敬をもって迎えられていた。彼らにとって、政治や出世を気にせず、下士官兵にも目配りが利く(ミサトは、使徒への個人的復讐に他者を巻き込んでいるのではないかという自己嫌悪もあって、部下の扱いが概して丁寧だった)有能な上官というのは、一つの理想像ですらあったからだ。
 もともとが現場の軍人同士の個人的信頼を発端にしていただけあって、ネルフ作戦部職員及び派遣将校は、赤木リツコが危惧した通りに葛城ミサト一個人を中核とする集団となりつつあった。

「すぐに引っ張れそうなのは何人くらい?」
「中尉以下の者ならば、五人は。ただし、参謀教育を受けていない者も含まれます」
「――まあ、それはそれで構わないわ。必要なら実地で学んでもらえばすむことよ」

 茜少尉、加山中尉、芝村中尉、橘准尉……と続く人物報告書を眺めつつ、ミサトは応える。
 これらは、速水や大神たちの推挙による派遣将校の候補をリストアップしたものだった。
 ミサトは国連軍上層部が一方的に押しつけてくる類の士官を信用する気になれず、戦場での能力や風評を知る速水らに選別を委ねたのである。国連軍がまるきり無能揃いだとは思わないが、いざというとき国連軍上層部の顔色を第一に窺うような人間が派遣されてきては、作戦運営に齟齬が生じてしまう。
 従来からのネルフ作戦部職員がもう少し頼りになれば――と、ミサトは頭を痛めた。
 先述したように、技術者偏重のネルフにあって、実戦経験を持つ職業軍人は貴重だった。ネルフ全体でということならば決して少ない数ではないのだが、保安部や諜報部にもそうした人材は必要とされているため、作戦部単体では十分な数が確保できていない(先の第五使徒戦で大神大尉が二子山砲陣地の指揮を任されたのには、そうした背景もあった)。
 日向にせよその他の作戦部職員にせよ、能力や資質の上ではたしかに優秀で、その点にミサトは不満を持っていないのだが、実戦でもっとも頼りになるのはまずもって経験だ。
 国連軍の協調が本格化し、戦力が充実しつつある現在、それらを統御し運用しうる指導体制の構築、豊富な実戦経験を持つ士官の補充は急務だった。

「とにかく、これはと思える人間は片端から引っ張って来て。それで何か問題が起こるようなら私が責任を取ります」
「了解しました。極めつけに性格が悪い奴らを揃えて見せますよ」
「楽しみにしているわ」

 ミサトはにやりと笑い、速水は敬礼で応じた。

 

 

 ここ最近、シンジの生活は満足すべき水準に立ち戻りつつある。つまり、平穏かつ平凡な中学生としての生活、ということだ。
 一時期、クラス内で蔓延した彼を英雄視する風潮は、ようやくのことで納まっていた。本人が徹底してただの親しみやすい同級生としての態度を取り続け、クラスメイトたちも気付かぬうちにそれに馴れていったためだが、実のところはもう一つ理由がある。彼は、自分に替わる英雄として、綾波レイがどれだけ勇敢で献身的な少女であるかをさり気なく宣伝していた。
 実際問題として、レイこそが使徒戦における最大の殊勲者なのは事実だったから、シンジは彼女の功績を語り伝えることに何ら疚しさを覚えなかった。それまでのレイに対するクラスメイトたちの評価は「何を考えているのかわからない」というのが最大公約数的な結論で、人によっては「不気味」とすら評していたほどであるから、尚更だった。
 ――僕は平穏な生活を取り戻せるし、綾波さんは功績に相応しい評価を受ける。お互い利益を受けて結構なことだよね。
 彼はまったくの利己的な損得勘定をもってそう考え、綾波レイへの印象がよくなるよう努めたのだった。当のレイがそのような行為を喜ぶとは微塵も思っていなかったが。
 かくして昼休み。相田ケンスケ・鈴原トウジの二人と昼食を取っている最中にも、彼はさり気なくレイの名前を出していた。

「正味な話、これ以上僕にエヴァの話題を振られても困るよ? 話すネタはそろそろ尽きたからね。実際にエヴァに乗って戦ってる綾波さんに訊ねた方が、よほど実りある話が聞けると思うけど」
「そりゃたしかにそうなんだけどさ」

 ケンスケは口ごもり、

「俺、あいつとそれほど親しいわけじゃないし。話しかけづらくってさ」
「実際に話してみるとそれほど堅いタイプでもないよ。まあ、人付き合いが苦手なところはあるみたいだけど」
「あれが苦手っちゅうレベルかいな」

 トウジが呆れたように口を挟む。よくいえば真っ直ぐ、悪くいえば単純な気質の彼は、シンジによる印象操作の影響をほとんど受けていない。目の前の相手が「どれだけいい人間か」で接する態度を決める、ある意味でひどく公正な人間なのだった。彼のそうした性格が、シンジは嫌いではない。

「綾波とまともに話ができんのは、多分センセだけやと思うで」
「まあ……、否定はしないけど。一応、同じようにネルフに務めてるわけだし、話す機会は多いかもね」
「だろ? あー、俺もパイロットになれたらなぁ……」

 ケンスケの慨嘆に、シンジは苦笑して応えない。内心で、一度戦闘に巻き込まれて死にかけたのにまだそんなことがいえるのか、と呆れていたが、まぁ年頃の少年らしい夢ではあるなとも思っている。ケンスケはまた極端なケースだが、エヴァに限らずミリタリーやナイフなど、「力」の象徴に憧れるのは当然の本能だ。

「なぁ、エヴァのパイロットの基準って、本当にわからないのか?」
「何度も答えているように」

 シンジはため息まじりに、

「僕はエヴァを起動もできなかったわけだからね。それがわかるようなら死にかけてもいないよ。パイロット選抜を担当する機関があるとは聞いてるけど、具体的にどういう活動をしているのかは機密らしいし」

 興味もないし、という本音を、彼は慎み深く呑み込んだ。

「それに。一ついっておくけど、パイロットになるっていうのは生半可なものじゃないよ? 僕のような臨時徴集の――つまりは非常時の間に合わせとは違って、綾波さんは普段から厳しい訓練を受けているようだしね。彼女が人付き合いが苦手というのも、子供の頃からそうした訓練を受けていたためもあるんだろう」

 もっともらしくシンジは語る。もちろん、実際は彼女がどんな訓練を受けてきたかなど知りはしない。ただ、まともな養育環境になかったであろうことだけは確信していた。

「正直、あれは素人が立ち入っていい世界じゃないんだ。気を抜けば――いや、抜こうが抜くまいが、未熟な人間はあっさりと死ぬ。蟻か何かのようにね。……ま、これはケンスケには今更いうまでもないことだろうけど」
「……うーん」

 左頬の傷テープを何気なくなぞりながら語る彼に、ケンスケは唸り声を返した。もともと決して頭は悪くなく、素人なりに軍事にも詳しいだけに、シンジの言葉を理屈としては完全に理解してはいるのだ。

「そんな物騒な志望を持つより、素直にクラスメイトとして彼女と親しくなる努力をした方がいいと思うけどね。これは本気でそう思う」

 ――まあ、彼女の方では交流の必要を認めていないようだけれど。
 考え込む友人の表情をつらつらと観察しながら、シンジは内心で付け加えた。

 

 

 放課後は、ネルフに顔を出すよう指示されていた。
 幸い掃除当番でもなかったので、シンジはトウジやケンスケに先に帰る旨を伝えてさっさと席を立った。
 級友たちに律儀にさよならと声をかけながら、教室の戸に手をかける。
 と、彼に一歩遅れて追随してくる少女の姿が目に入った。

「綾波さんも、今日はネルフ?」

 レイは無言でうなずいた。
 じゃあ一緒に行こうか、とまったくの社交辞令で彼は誘い、彼女はやはり無言でうなずいた。
 いつものことで、シンジは今更気にしない。
 最近の彼女は、どういう心境の変化か挨拶に対して挨拶で返すという一般常識を履行しつつあるが、基本的な無愛想さはそののままだ。
 その方がこちらとしても都合がいい、とシンジは思っている。綾波レイと必要以上に親しくなるのは、よくも悪くも目立ち過ぎる。そのうちできればまともな学生恋愛を営みたい彼にとって、おかしな噂が立てられるのは遠慮したいところだった(この場合、人類の最終決戦兵器のパイロットなどという身分の少女を「まともな学生恋愛」の対象にしようなどと、彼は毛頭考えていない)。
 教室を出て、廊下を過ぎ、下駄箱で靴を履き替え、外へ。
 気温は相変わらずの真夏日和で、道を歩いているだけで汗が滲んでくる。
 一歩遅れて後ろを歩くレイは、相変わらず無言のままだ。
 彼の方も、特に何もいわない。振り返ることも、ない。
 友人への対応に常に気を使う彼としては珍しい冷淡さだが、これはある意味では綾波レイの人格を信用しているからでもある。彼女ならば、少なくとも積極的な危害を加えでもしない限り、無愛想に扱ったところで他に何を漏らすこともない――シンジはそう見切っていた。彼にとって、あるていど心を許すということは、本来の冷淡さでもって扱うということをも意味する。
 本当に、ただ行き先が一緒だから、というだけの感覚で、二人は歩を進める。
 ネルフ本部直通のモノレールに乗り込み、がら空きの車両で二人並んで座ってからも、それは変わらなかった。
 シンジの方は、座席に座るや鞄から本を出して読書を始めたから、尚更だった。
 生命諸説――そんなタイトルの張りついたハードカバー。
 常は自身も詩集なり何なり取り出して読書に勤しむレイが、珍しくそれを見咎めた。

「……前の本は?」
「一通りは読んだ。現状の理解は三割ていどだけど」

 用件のみの問いかけに、用件のみで返す。

「……理解し切れていないのに、もう読まないの?」

 これまた珍しく、レイは問いを重ねてきた。
 シンジはつまらなそうに、

「無駄な努力はしたくない。あの本の内容については整理中。関連資料をいくつかリツコさんに請求してからまた読み直すさ」

 脳の一部で理解不能のデータを分析し整理しつつ、同時並行で別のデータの採取に取りかかる。この「生命諸説」が読み終われば(おそらくこれもまた理解できるのは三割から四割というていどだろうが)、その内容の整理を行いつつ、さらにまた新たな本を手に取るのだろう。
 碇シンジ独特のやり方だった。一つの事柄だけに集中するのではなく、同時にいくつもの思考を展開し、処理して行く。
 彼本人にして見れば、特に難しい芸当ではない。自転車に乗るのと同じ、一度コツを掴めば誰にでもできることだと思っている。思考速度や分割の純度などに個人差はあるだろうが。
 さすがに驚いたらしいレイの顔を横目で眺めつつ、彼は目線で問いかけた。
 ――他に何か質問は? あるならさっさとすませて欲しい。僕は読書に忙しい。
 レイは愚問を恥じるように顔を伏せ、そのままモノレールが終着駅に着くまでじっとしていた。

 

 

 本来、この日に予定されていたのは、綾波レイのシンクロテスト並びに碇シンジの初号機起動試験だった。
 少なくとも技術部はそのつもりで準備を進めていたが、前日になってそれは変更されていた。
 作戦部を中心に、後者の試験の必要性に疑問符がつけられたのだ。
 サード・チルドレン碇シンジのシンクロ率は、相変わらずの超低空飛行――最高で0.08%、平均にして0.05%という有様だった。はっきりいって、そこらを歩いている子供を無作為に選んで乗せた方がまだマシな結果が出るのではないかと、技術部の中ですらそう囁かれたほどである。
 理論上、シンクロ率は、搭乗回数が増えれば増えるほど上昇が見込める。パイロットと機体の同化率が高まる――すなわち、パイロットが機体に、機体がパイロットに、それぞれ馴れて適応して行くからだ。少なくとも、レイやセカンドの事例からすればそのはずだった。チルドレンとは、そうした資質を認められた子供であるからだ。
 しかし、碇シンジのシンクロ率は、上昇の気配すらない。シンクロ率の推移を表すグラフは見事なまでの水平線を保っており、ここまで来るとこれはこれで一つの才能ではないかと思われるほどだった。

「別に、技術部の予定にケチをつける気はないけどね」

 と、葛城ミサトはやんわりと申し入れたものだった。

「作戦部としては、まずもってレイの実戦能力を引き上げることを最優先としたいの」
「シンクロテストに何かご不満でも?」
「いいえ、まったくないわ。ただ、初号機をもっと有効に使って欲しいのよ」

 つまり、レイの訓練には零号機を基準にしたシンクロテストだけでなく、初号機の搭乗試験も織り込むよう、ミサトは要求していた。
 リツコは沈黙した。実のところ、彼女もまったくの同意見なのだった。
 先の第五使徒戦での零号機の損傷が皆無に近かったため、技術部は安心して初号機の復旧に集中することが出来るようになっている。実際、第三使徒戦で大破した初号機は、現在すでに素体部分の復旧を終わらせ、拘束具についても大部分修復の目途がついていた。
 何よりも、それは現在国内にたった二機しかない貴重な兵器の片割れなのである。
 それほど貴重な機体を、いつまでもシンクロできないパイロットのために使い続けるのは、時間と予算の浪費に他ならない――というのは、当然の意見であった。予備機なら予備機で使いではいかようにもある。
 いや、それどころか、今なおサード・チルドレン専用という扱いになっている初号機を、さっさとファースト・チルドレン専用機に戻してしまえという意見は、技術部においてすら有力なものだった。プロトタイプの零号機よりもテストタイプとして作られた初号機の方が、装甲や装備の面で優れているとあっては尚更である。技術部は本職であるだけに、その種の合理性を重んじていた(零号機は既に制式型への改装を受けているので、カタログデータ上はともかく実用面でそれほど差があるわけではなかったが)。
 実際問題として、シンジをいつまでも初号機に乗せようとするのは、碇ゲンドウ一個人のこだわりに近いところがあったから、そうした声は日々賛同者と説得力を増していた。ゲンドウにして見れば、補完計画の進行に関わる部分があるからこそのこだわりなのだが、それと明言できない以上はどうしようもなかった。もっとも、彼はそもそも部下を説得する必要を認めてもいなかったのだが。
 結論までに紆余曲折はあったにせよ、リツコはミサトの要望に応え、訓練計画に若干の変更を加えた。
 これは彼女自身、碇シンジのパイロットとしての価値に見切りをつけ始めていたからでもあった。リツコはいくつかの理由から彼を高く評価していたが、そこにシンクロの資質に関するものはない。
 ――結局、この日。
 碇シンジが試験を免除され、代わって綾波レイの初号機起動試験が実施されたのには、そうした背景があった。

 

 

 コアのパーソナル・パターンの書き換えは滞りなく完了していた。
 技術部員たちは手馴れた作業で準備を整え、レイの乗ったエントリープラグが機体に差し込まれて行く。
 モニタ室で、ミサトと並んでその様子を眺めながら、リツコは思考に沈んでいた。
 試験の総責任者とはいっても、別にいちいち作業手順に指示を下す必要はない。このあたりは作戦部の場合と同じことで、実作業に当たる部下の能力を信用するだけのことである。
 表情だけは生真面目に取り繕いながら、リツコは別の思考を弄んでいた。
 碇シンジ。彼の重要性は、日を追うごとに軽くなっているといえよう。少なくとも、これまで通りの起動試験を行う必要性は失せつつあった。何せ、何度データを取っても同じ数値しか出ないのだ。これ以上を望むとすれば、それこそ脳外科的な処置を施して変化を観察するぐらいしか道はない。
 それはあまりしたくないわね、とリツコは考えていた。ネルフに籍を置いて以来、まともな倫理観は擦り切れているが、だからこそ彼女独特の価値観が強くそう囁きかけるのだ。
 彼の才能は、エヴァのシンクロ如きのために無為にしてしまうにはあまりに惜しい。
 正味な話、リツコは、彼の才能を育てることに喜びすら感じるようになっていた。
「あの」碇ユイの息子――母親に比肩する、あるいは凌駕し得るかも知れぬ才能を、他ならぬ赤木リツコが発掘し、開花させる。学者としても女性としてもコンプレックスの対象でしかなかった女の息子を、自分の手で育てるのだ。
 それは歪んだ喜びであったかも知れないが、彼女が碇シンジを教育することにある種の生き甲斐すら感じつつあったのは紛れもない事実であった。
 碇ゲンドウをどうにか説得し、シンジをパイロットから下ろした上で、自分の手元に置くことができないか――彼女の思考はそこまで及んでいた。

「エントリースタート」
「LCL電化」
「A10神経接続開始」

 眺めるうちに、手際よく段階が進み、そしてレイが初号機とシンクロを開始する。
 ――否、しようとした瞬間、それは起こった。

「…………!!」
「なっ……!?」

 赤く明滅するモニタ。
 鳴り響く警告音。
 そして、プラグ映像の中で、苦しげに口許を押さえるレイの姿。

「パルス逆流!」

 技術部員の一人が絶叫し、

「初号機、神経接続を拒否しています!!」

 マヤが信じられないといった表情で結論を叫んだ。

「どういうこと!?」

 ミサトがリツコを振り返り、問い質す。
 見守る中、神経接続の状況を表すモニタが、次々と「断線」を表示していっていた。
 ――あってはならない事態だった。
 シンクロ率が起動値に届かないことなら考えられないでもなかった。
 精神汚染、あるいは暴走といった事象も、考慮されていなかったわけではない。
 レイは最古参のパイロットではあるが、セカンドに比較してシンクロ率が不安定という弱点を抱えていたし、何よりエヴァにはブラック・ボックスが多すぎる。
 だが、シンクロする以前に、機体側から拒絶されるなどということは、いまだかつて生じたことはなかった。
 何しろ、第三使徒戦以前は、零号機に乗った場合と同様のシンクロ率を常に叩き出していたのだから。
 ――第三使徒戦以前?
 赤木リツコの中で、その言葉が何かに引っかかり、いくつかのキーワードと融合して化学反応を生じさせた。

「初号機が……レイを拒絶しているというの?」

 

 

 急遽中止された実験から三十分後、ミーティング・ルームで作戦部長と技術部長は向かい合っていた。

「結局、どういうことなわけ?」

 ミサトの苦々しく問い掛ける。貴重な予備機、あるいは近い将来のレイ専用主力機にと想定していた機体が使い物にならないかも知れないとあっては、当然の態度だった。

「原因究明はこれからよ。今のところは、第三使徒戦で大破した影響だと考えられるけど」
「……そりゃたしかにそれしか考えられないけど」

 そのていどで使い物にならなくなるの、エヴァって代物は?
 ミサトはそう詰問したそうな表情だったが、さすがに口には出そうとはしなかった。それ以上を述べることは、作戦部が技術部の能力を罵倒しているに等しくなってしまう。作戦部長であるだけに、彼女は慎まなければならない立場にあった。
 それに実のところ、何だかんだいいつつ親友と技術部の能力を信頼しているミサトは、今回の責任をリツコたちに負わそうとも考えていないのだった。職業軍人にとって、兵器が故障する、動作不良を起こすというのは一つの日常でもあるからだ。
 だが、だからこそ、疑問は募る。

「一つだけ確認したいの」
「何かしら」
「これまでの――第三使徒戦以後の、シンジ君の起動試験の場合には、こんなことはなかったわね? つまり、シンクロする以前にエヴァから拒絶されるというようなことは。彼は1%未満とはいえ、シンクロしている」
「…………」

 ――やはりその点に気付いたか。
 リツコは無表情の内にため息を噛み殺した。親友の聡さからすれば当然の結果であったが、できれば気付いて欲しくはなかった点だ。

「……その点も含めて、調べて行くわ」
「早急な解明と解決を希望するわ」

 曖昧そのもののリツコの台詞に、ミサトは鋭い視線を投げかけてから、足音高く退室して行った。
 部屋に一人残りながら、リツコは考えていた。
 ミサトには内密にされているが、実のところエヴァという兵器にパイロットの互換性などというものは存在しない。エヴァのコアとパイロットの相性は、ほとんどオーダーメイドに近いところがあるからだ。シンジとレイは、その稀少な例外である――碇ユイを媒介とした、まさに稀少な例外。
 初号機のコアが、シンジかレイか、どちらか一方に完全に適応し切ってしまい、もう一方を受けつけなくなるというケースはたしかに想定の内には入っていた。しかしそれは、あくまでハイレベルのシンクロ率があってこそだ。概算だが、瞬間的にでも90%超のシンクロ率を叩き出せなければ、このようなことは起こり得ない。少なくとも、そう予測されていた。
 かえりみて、碇シンジのシンクロ率は常に1%を切っている。ほんの一瞬たりとて、その水準を脱したことはない。第三使徒戦時に生命危険に晒されたときですら、それは変わらなかった。
 これは、初号機の方では、シンジの存在をほとんど認識できていないことを示している。
 認識すらされていないのに、どうして彼だけが受け入れられたというのか。

「……つくづく扱いに困る子ね、彼は」

 リツコはため息をついた。やるせなさと、いくばくかの無念もこめて。
 原因がどうであれ、たしかにいえることが一つだけある。
 碇ゲンドウ――あの男は、もはやいかなる意味でも息子を手放せなくなった。

  

 

続劇


後書き

 今回は、使徒戦の合間の閑話――といったところですね。
 近づいたようで離れたようでもある二人の関係がメインといえばメインなのか。つくづくひねくれた主人公でございます(笑)。
 次回でようやくアスカが登場する予定です。

 

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